2017年06月16日

ひっそりと佇むチャンディ(記念碑)(136)

ウブドの良さを再認識する小さな旅。

私の取って置きを教えます「第2弾」。

第1弾は、■取って置きの「マンディ場」教えます(131)でした。

いつのまにかシリーズになっている。

今回は、「Candi Tebin」の遺跡を紹介します。

訪れる人の少ない、密かな名勝です。


バリ・パスフィンダーに載っていた「Candi 」の文字。

こんなところにチャンディがある?

パスフィンダーは、ウブド在住のジャワ人シルビオが編集している地図。

ウブド近郊には、彼が自ら歩いた散歩道が点線で掲載されていた。

「グーグルマップの普及で、私の地図が売れなくなったよ」と嘆いていたのは1年前。

興味をひかれて訪れたのは、20年前のこと。

今回は、そんな昔の記憶を頼りに行ってみた。

当時は、通り過ぎて住まうほど寂しい場所だった。

チャンディのある場所は、シンガクルタ・ジュクパク(Jukutpaku)村。

ウブド南部の村ニュークニンから、左に大きくカーブする橋を渡る。

その昔、「サーカスブリッジ」と呼ばれた竹の橋が架かっていた場所だ。

詳しくは、■サーカスブリッジ@ニュークニン村(72)」を読んでください。

橋の対岸が、シンガクルタ・ジュクパク村。

田んぼの風景が残っている、静かな村。

以前は、遠くまで見通すことのできる田園風景が広がっていた。

橋の架かる渓谷沿いは、緑のジャングルが覆っている。

チャンディは、この渓谷沿いにひっそりと佇んでいる。

橋を渡って200メートルほど行くと、Tの字を右横に倒した形のT字路がある。

進路を左手に取る。

寺院、小学校、公設市場、広場を左に見ながら進む。

大きなビンギン樹のある広場を回り込むようにして左折すると、集落に出る。

ここがジュクパク村の入口だ。

集落に入り、100メートルほどの左手に寺院がある。

寺院横にあるコンクリート・ブロックが引き詰められた道が「Candi Tebin」の入口。

立派な案内板がたっている。

ここから動画を見て頂くと言うことで、説明を省きます。



いくら苦手だからと言って、まったく現場の解説がないのは、あまりにもつれないだろう。

ちょっと反省したので、ちょっと説明を入れます。

苔むした急な階段を下りる時、カメラを持ったまま尻餅をついたことは内緒にして欲しい。

渓流沿いの岩壁に佇む、チャンディ。

いつの時代に造られたのか、銘記されていない。

ペジェンに残るチャンディ遺跡・クヌンカウイと同じなら11世紀だ。

瞑想の洞穴もあるところを見ると、同じ時代の流れを汲んでいるとも考えられる。

清々しい渓流の音に、悠久を感じる。

いにしえの人々も、この清流に癒されたことだろう。

切立った岩壁から流れ落ちるパンチョランも含めて、一見の価値あり。

※パンチョランは、湧き水をパイプ(竹・塩ビ・鉄etc)を通して落としている場所のこと)


posted by ito-san at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月12日

底知れぬ・椰子の木のパワー(135)

フェースブックにアップした椰子の木の写真が、大受け。

タイトルは「なんで、こ〜なるの?」

タマン村スリウェダリ通りの椰子並木で、見つけた一本。

毎日通っているのに、なぜ、今日に限って気に留めたのか。

この日は、私の機嫌がよほど良かったのかな。

普段、いかに周囲に注意を払っていないかということですよね。

せっかくバリにいるのだから、もっと景色を楽しもう、と反省。

kelapa.jpg


それにしてもこの曲がり方尋常じゃないよね。

どうやったら、こうなるの。

小さな時に、人の手が加えられ、無理矢理形作ったのか?

そんなことをする意味が見当たらない。


そして、届いたコメントがこちらの数々。

「成長中に根性が曲がったのでしょうか?」

「反抗期のなごり?」

「踊ってるんじゃない?」

「わたしみたい。歪んでる。(^-^)」

「時々、変な椰子の木がありますよね。旦那の実家に上が2つに分かれた椰子の木があります。」

「他と違って変わったのがいますよね。^_^」

「精霊が強く抱きしめたのかも。」

などなど。


これらにコメントに、丁寧にお答えしました。

「身に覚えがあるのかな?」

「とんがってない反抗期なら、可愛いいかな。」

「椰子の葉は、踊りの振り付けにたとえられるけど、妖気に誘われて幹まで踊りはじめたかな。」

「美人は、歪んでいても許されるから。」

「変な椰子の木の写真、コレクションしようかな。二股の椰子の写真、送ってください。」

「これも個性かな。」

「美しい精霊に、めろめろって、感じかな?」


コメントにあった、2つに分かれた椰子の木。

Kさんから送られてきた写真を見て、驚愕。

これがなんと、椰子の幹の先が5〜6つに分かれているではありませんか。

まあ、写真を見てください。

kelapa1.jpg


「なんで、こ〜なるの?」

接ぎ木説がでましたが、信憑性はありません。

写真は、22年前の画像だそうです。

Kさんの実家にある椰子の木。

「帰省した際に、同じ木を探して写真を撮ってきます」と約束してくれました。

この椰子の木が残っているかが問題ですが。

不思議な力が宿っている椰子の木。

22年前を経た今も、きっと残っていると信じたい。

いつが、鮮明な画像がお届けできる日が訪れるでしょう。

ちなみに、Kさんは亡き舅に「接ぎ木でもしたのですか」と聞いたことがあるそうです。

その時の答えは「自然に生えてきた」だったと言う。


これをきっかけに「なんで、こ〜なるの?」椰子の木の写真をコレクションすることにしました。

皆様からの情報(写真)お待ちしております。

kelapa2.jpg
倒れたまま(きっと強風)成長している椰子の木
(写真提供・大原正博)



posted by ito-san at 16:27| Comment(1) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月08日

稲の神「デウィ・スリ」を祀る神聖な棟(134)

バリ人の家屋は、古くからの慣習にしたがって敷地内の建物の配置が決まっている。

ウブドの場合、聖なる家寺は北東の角に位置し。

人間の儀礼を行うバレ・ダギンは中央東側。

家族の住む棟であるバレ・ダジョーは北面、バレ・ダオーは西面にある。

不浄と言われるトイレや台所は南西隅に建っている。

道に面して門が備えられるが、屋敷のレイアウトはどこも同じというのが興味深い。

家屋レイアウト1.jpg
「バリ島ウブド 楽園の散歩道」より


3週間ぶり(6月5日)に、スバリ村のグスティ家を訪れた

グスティ家には、門を入って真っすぐの位置にバレ・ダギンに「ジナン=jineng」が建っている。

ジナンに供物が飾られていた。

27年という長い付き合いなのに、初めて見た。

田んぼを持つ家にある米蔵のことをジナンと呼ぶ。

2メーター四方ほどで、四本の柱で支えられた小さな高床式の2階建て。

米は、屋根裏のような2階に収納される。

1階部分はオープンで、あずまやのような佇まい。

家族の憩いの場所になる。

グスティ家では、いつもここでお婆ちゃんが供物を作っている。

私は、訪れるとまずここに腰を下ろし、お婆ちゃん所有のシリー箱から、噛みタバコを一つかみかすめる。

時々、シリー箱の片隅に小銭を隠し入れる。

グスティ君が留守のときは、戻って来るまでのひと時をお婆ちゃんと雑談を楽しむ。

お婆ちゃんは、供物作りの手を休まずに、話に相づちをうってくれる。

横になって午睡を決め込むこともある。

この日は、グスティ君が留守だった。

もちろん私は、噛みタバコを失敬して、お婆ちゃんと雑談をはじめる。

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新築される前は、アランアラン葺きの屋根だった


グスティ君が戻って来たので、さっそくジナンの供物について訊ねた。

「今日は、マンタニン=Mantanin」の儀礼があったとの答え。

同じ水路を利用するスバック=水利組合が、稲刈りが終わったあとにする儀礼らしい。

ジナンは、稲の神「デウィ・スリ(Dewi Sri)」を祀る神聖な棟(米蔵)。

右手に聖水の入った壷を持つ、田んぼや稲の女神。

水田のあちこちに、デウィ・スリを祀る祠が建っている。

田植えや稲刈りの始めには、必ず、祠に供物を捧げ儀礼をおこなう。

祠.jpg
田んぼの隅に建っているいる祠


デウィ・スリは女神だから、田植えは男性の仕事だった。

種まきは、男の仕事というわけだ。

この頃は、人手不足で女性も田植えをするようになった。

バリ島の発展とともに、消えていく慣習がある。

農業を継ぐ跡取りが減っている。

農地が観光施設に変っていく。

屋敷のレイアウトにも変化が見られる。

町中では、土地の有効利用からか、家寺が2〜3階に上げられた。

家屋も2〜3階建ての近代的な建築になってきている。

「観光の島・バリ」として発展していく過程で、観光資源の田んぼや慣習が消滅していく。

しかたがないと言ってしまえば、それまでだ。 何か、良いアイデアはないだろうか?

私には、まったく良案は浮かばない。

次世代のバリの若者に期待したい。


posted by ito-san at 16:03| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月02日

デワ・ワルン @ ゴータマ通り(133)

ウブドでバックパッカーに一番人気の『ワルン=Warung』は、どこか?

私なりに考えてみた。

ウ〜ん、私的には「デワ・ワルン=Dewa Warung」でしすかね。

ウブドにあるすべてのワルンを観察したわけではないので、あくまでも主観ですよ。

と言うことで、今回は、デワ・ワルン・ファンの皆様に向けてのブログになりました。

2017-カレンダーバリ.jpg
現在のデワ・ワルン外観


デワ・ワルンは、ウブドにセンゴール(ナイトマーケット)があった時代からの老舗ワルンだ。

ウブドのセンゴールは、現在のパサールの駐車場で、1989年〜1993年11月22日までの4年間存在していた。

テニス・コートが3つ入るほどの広場は、市場より1メートルほど低くなった窪地だった。

広場というにはあまりにもお粗末な、砂塵の舞い上がる小さな砂漠のような空き地に15軒ほどの屋台が並んだ。

デワ・ワルンは、その中の一軒で、バックパッカーの情報交換の場として人気があった。

私も、毎晩のように通った常連の一人だ。

オーナーは、テガランタン村の若者たち。

テガランタン村との付き合いが深いのは、こんな経過があったからだろう。

センゴールが閉鎖されたあと、デワ・ワルンはパダンテガル村スグリオ通りに移転した。

この時、オーナーはデワ君となった。

スグリオ通りの後、ゴータマ通りに移転し現在に至っている。

2002年9月8日に開店した「ワルン・ビアビア=Warung Biah-Biah」と同じ年にオープンしていると記憶する。

場所は「ワルン・ビアビア」から10メートルほど南、デヴィ・シータ通り寄り。

屋敷門を挟んで、3軒目がデワ・ワルンだ。

立地条件と安価が売りで、常に繁盛している。

バックパッカー人気ワルンの地位は、この頃から揺るぎない。

そして、現在も情報交換の場としての役割は失っていないようだ。


センゴールにある時は、毎晩のように通っていたワルンだが、「影武者」を開店させてからは立ち寄ることがなかった。

10年ほど前に一度、訪れたことがある。

その時、運悪く1時間待っても料理が出てこなかった。

お客も少ないのに何で? の疑問を抱いて厨房を覗いた。

そこには、チンタラと働くスタッフの姿があった。

駄弁っている暇があったら手を動かせ!

久々に切れて、紅茶代も払わずに出て来た。

それ以後、一度も行っていない。

先月の終わり、知人が立ち寄った「デワ・ワルン」。

「美味しかったよ!」と言うので、覗いてみた。

高台にあるため、階段を数段上る。

店舗もフロアが二段になっている。

5年前に改装をしたが、雛壇状の店舗は変っていない。

床は、コンクリートの打ちっ放しなしから、タイル張りとなっていた。

安普請だったテーブルは、重厚な一枚板に変った。

スタッフが、たくさんいるので、待たされることはない。

以前、オーダーはお客が用紙に書き込んでいた。

今回は、ウエートレスが注文を聞いてくれた。

スタッフはグレー色のTシャツに、統一されている。

背中の「DEWA WARUNG UBUD」のプリントが、ちょっとハイセンスな感じ。

ナシ・チャンプールも、私的には合格点。

帰りがけに、知った顔が厨房に入って行った。

「居酒屋・影武者」の開店スタッフだったプルナミちゃん(オカちゃんの妹)だ。

彼女が働いているのなら、これからはちょくちょく通おうかな。

「ごちそうさまでした」

dewa_warung2.jpg
ナシ・チャンプール


★メニュー:インドネシア・中華料理。ベジタリアン・メニュー有り

★食事:テンペ・カレーRp22,000-/ナシ・ゴレンRp22,000-/ナシ・チャンプールRp25,000-/

★飲物:アイスティーRp12,000-/ジュース各種Rp15,000-/ビンタン・ビールRp35,000-/

★営業時間:10.00am〜10.00pm / 定休日:ニュピ

★TEL:081-3372-68250/


デワ・ワルン・ファンの皆様に向けて、スペシャルビデオです。




posted by ito-san at 18:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月25日

地球の歩き方・バリ島編(132)

残すところ、あと2ヶ月。

7月25日は、私の70歳の誕生日。

誕生日には、アグン山登頂に3度目の挑戦をするつもりだ。

アグン山頂上での暁紅は、50歳と60歳に拝んでいる。

決行日が近づくにつれ、登山に自信がなくなってきた。

そろそろ怠惰な日々に活を入れて、体力作りに励まなくてはと反省している。


近況報告はこのくらいにして、本題に入ろう。

先日、ガイドブック「地球の歩き方・バリ島」が、手元に届いた。

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一目見て、厚さが薄くなったな〜と、気になった。

五分の四ほどになっている。

出版業界は不況と聞いている。

経費節減か、と邪推した。

よく見ると、ページ数は変っていない。

紙質が薄くなっているのだ。

上質な紙のようで、これまでのザラザラ感はなくなり、ツルツル・スベスベと手触りもいい。

印刷の仕上がりも、ハッキリしている。

企業努力が伺われる。


バリ島が「地球の歩き方・バリとインドネシア」から独立して単独のバリ島編として出版されたのは1993年のこと。

その後、バリ島の人気が高まると同様に、ページ数が増えていった。

年々、厚くなっていく。

2年周期が、毎年出版されるようになる。

インターネットの普及でガイドブックが脅かされるようになった。

そんな時世、紙質の改善で軽量化を計ったのだろうか。

私と「地球の歩き方」との付き合いは長い。

「居酒屋・影武者」が記載されたのは、いつからだっただろう。

正確には記憶していないが、「影武者」の開店が1991年7月だから、初版から載っていたのではないかと想像する。

当初は、旅行者からの投稿で「名古屋から移り住んだ日本人夫妻の経営」と書かれてあった。

否定するのも面倒なので、そのままにしていた。

私は初代オーナーで、現在は女将・由美さんが「和食・影武者」を守っている。

1995年(記憶は曖昧)から取材を受け、正しい情報が載るようになった。

2009年には、編集者の好意から「バリ島ウブド 楽園の散歩道」を共著させていただいた。

楽しい仕事が出来たことに感謝している。

バックパッカーのバイブルと言われる「地球の歩き方」。

紙面の充実を楽しみにしています。


私が持って来た「地球の歩き方・バリとインドネシア」と最新版「地球の歩き方・バリ島」を見比べてください。

デヴィ・シータ通りの変貌に驚くでしょう?

と言っても、27年が経過している。

日本の戦後復興30年と比べれば、ノンビリしたものだ。

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'89〜'90版「地球の歩き方・バリとインドネシア」


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2017〜18「地球の歩き方・バリ島」



’96〜'97版、20年前の記事をコピーしたので、読んでください。

¥1円がRp25のレートの頃の話です。

『 居酒屋風日本料理店 Kagemusha

田圃の中にいきなり出現する蔵造り。

「なにか?」と思ってのぞくと、そこがウブドとは思えないような日本料理店「影武者」。

手打ちうどんRp5,500〜、ポテトコロッケRp4,000〜、揚げだしどうふRp3,000〜、野菜と卵ぞうすいRp4,000〜など、日本の味がズラリとメニューに並ぶ。

日本酒の種類も多い。

雑誌、マンガ、小説など日本の本もワンサカあって「日本語禁断症状」に陥った人にもおすすめの店だ。

ウブドラヤからさらにジャラン・ハヌマンを南へ5分ほど歩いたところ。

Rp5,000以上の食事の場合VISA、MASTERカード使用可。

営業時間:月〜土11:00〜15:00、18:30〜23:00

住所=Jl.Pengosekan、Pengosekan、Ubud

☎(0361)96134(’95)』


現在「影武者」は、ニュークニン村に移転し、電話番号は(0361)973-134。

キャッシュカードは、使えません。

「居酒屋・影武者」に興味がある方は『極楽通信/17「お疲れさまでした、居酒屋・影武者」をご覧下さい。


posted by ito-san at 20:07| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月19日

取って置きの「マンディ場」教えます(131)

5月18日、久々にパンチョランでマンディ(沐浴)をしてきた。

パンチョランとは、湧き水をパイプ(竹・塩ビ・鉄etc)を通して落としているマンディ場のこと。

寺院祭礼で舞踊を奉納する前には、必ず身体を清める意味でパンチョランに打たれた。

ほとんど、モンキーフォレスト内にある沐浴場を利用している。

1998年の事です。

ツーリストが今ほど多くなかった時代で、沐浴場まで足を伸ばすツーリストはいなかった。

正装姿で「マンディに行きます」と手を振れば、料金場を素通りできた。

私の奉納舞踊の話は「神々に捧げる踊り」にしたためてあります。


久しぶりに、晴れ間が見えた。

ジメついた身体に活を入れるためにマンディ(沐浴)をしようと、思いついた。

人気のスバトゥ村のムルカットは、混雑が予想されるし、私にはちょっくら遠い場所。

モンキーフォレスト内の沐浴場で、ツーリストの前に裸体を晒すのも何だな。

幾つかのパンチョランを思い起こしたが、どれも「何だな」だった。

そして、天命のように記憶がよみがえった。

ウブド内に素晴らしい「マンディ場」があるのを思い出したのだ。

さっそく正装に着替えて、出発。

記憶がよみがえった場所は、私の取って置きのマンディ場。

取って置きの場所なのに、なぜ、一番に思い出せなかったのかって?

そりゃ、ボケですよ。

「ホテル・イバ」の裏手にひっそりとあるマンディ場は、もう20年近くも行っていない。

なかば、忘れかけていた。


ウブド大通りを西に進むと、チャンプアン橋の手前右手に「ホテル・イバ」の看板が見える。

看板のある道を入り、バイクを道端に止める。

道の正面に見えるのが「ホテル・イバ」のエントランス。

「イバ」に向かって進む。

途中から、左に下る道の先には「グヌン・ルバ寺院」がある。

「イバ」のエントランスで、ガードマンに「マンディに行く」と告げると、心良くゲートを上げてくれる。

ホテルのフロントに向けて歩くと、車寄せの手前左手に幅1メートルほどの小さな鉄扉が見える。

この扉がマンディ場に続く入口。

入口のたたずまいが秘密っぽくて、前途を期待させる。

一歩足を踏み入れると、10センチほどの石を引き詰めた小道になる。

右手は「イバ」のある丘、左手は東Wos川の渓谷を覆い隠す木立。

東Wos川と西Wos川が合流するところが、チャンプアン(混ざる)と呼ばれる。

川の流れる音と鳥の声が清々しい。

時折、強い木洩れ陽が眼に飛び込んでくる。

渓谷沿いのなだらかな下り坂を5分ほど進むと、小さな橋の袂に出る。

橋の向こう側には、アランアラン草葺きのヴィラが見える。

私が訪れた1990年には、ここから先に進めば、東Wos川と西Wos川に挟まれた尾根に出られた。

アランアラン草の生い茂る風景をハイジの丘と名付けて、何度も散歩した。

イメージ貧困で、ゴメンナサイ。

今は、通行止めになっている。

現在、この尾根に行くには「グヌン・ルバ寺院」の横を抜ける専用のルートを使う。

尾根は「ブキット・チンタ=Bukit Cinta 」呼ばれ、ローカルのカップルや家族連れが訪れ、デートやオーキングのコースになっている。

ブキット・チンタとは、愛の丘の意味。

なんて、ロマンチックなネーミングだろう。

ツーリストには、見たそのままの「Campuhan Hill」と呼ばれている。


目的地のマンディ場に行くには、橋を渡らずに右手の細道を進むことになる。

残念なことに、入口の鉄の扉からここまでの映像が撮れていなかった。

どうやら動画モードになっていなかったようだ。

私には、よくあることです。

川の流れる音に、水の落ちる音が重なった。

パンチョランが近いのだろう。

パンチョランは2カ所、東Wos川の水ぎわにある。

「グヌン・ルバ寺院」が建立された8世紀以前から存在する、歴史の古いマンディ場だろう。

どの泉も古くから湧いていたのだろうが、今さらながらに関心する。

祠の近くにあるパンチョランは、聖水として頂くところだろう。

奥にある2つ目のマンディ場で、水浴びをさせていただくことにした。

人っ子一人いない空間。

ウブドの町中に、こんな静かな空間が、今も残っているのに驚かされる。

冷たい水が、気持ちい〜い!

気分はムルカット(浄化儀礼)

私の取って置きの場所だから、他の人に教えないでね(取りあえず、言ってみた)。

あとは、動画でご覧下さい。





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2017年05月12日

こんなニュークニン村が好き!(130)

歩いていて見つけた。

それは、駐車禁止の標識。

気に入ったので、動画を撮った。

普通に歩いていても気がつかない程度に、控え目にある。

この大きさ(直径30センチほど)なら、景観にも邪魔にならないだろう。

ニュークニン村は、こんな気遣いのある村だ。



ニュークニン村はウブドの南端・モーンキーフォレスト(猿の森)の、さらに南にある村。

ウブドに滞在する者にとっては、モーンキーフォレストの裏にひそりとあるマス郡に所属する小さな村。

往来は、隣接するプンゴセカン村からだけ。

Wos川の対岸にあるシンガカルタ村とに架橋が開通するまでは、行き止りの村だった。

シンガカルタ村に行くには、竹の橋を利用していた。

人ひとりが通るにいっぱいの狭さで、自転車は担いで渡る。

パスフィンダーの地図には「サーカス・ブリッジ」と書かれていた。

この話は、2014年10月15日のブログ「サーカスブリッジ@ニュークニン村(72)」をお読みください。

新しい橋は、幅10m、長さ90m。

総計10トンのコンクリート製支柱が30mの深さの谷に埋設された総工費は、14億ルピア。

1997年2月初旬に完成。

橋が開通すると、村道は、車の通過する主要道路となった。

私は橋の名前を「バロン・ブリッジ」と勝手に命名した。

村は、主要道路の両側の広がる川に挟まれた地域。

北側は、パダンテガル村所有のモーンキーフォレストまで。

人家の続く集落はデサ寺院までで、90年代は、そこから先は見渡す限りの田んぼだった。

二本の道が集落を南北に走り、一本はサッカー広場の西の端に、もう一本はデサ寺院前を通ってモーンキーフォレストの南入口まで貫いて突き当たる。

モーンキーフォレストは、車の通り抜けができない。

細い脇道が、人とバイクの通行を許している程度。

主要道路と異なり、こちらは住宅地内のように車の通行量は少ない。

安心して散歩が出来る道「ウブドNo1」といったところ。

道の両側には、美しいジュプン並木の続いている。

ジュプン並木と家々の趣が、私は好きだ。


アパ?情報センターのホームページに《ニュークニン村の景観美》をニュースに書いたのは、2013年3月7日のこと。

ニュースの内容は:

『モーンキーフォレスト(猿の森)の南にあるニュークニン村は、景観がもっとも美しい村として、昨年(2012年)ギャニヤール県から表彰された。

ピンクの花が咲くジュプン(Jepun=バリ語 / 英名=Plumeria& Frangipani)並木が美しく、芸術的で個性的な塀の屋敷が目立つ。

今年に入って、屋敷門の左右に鎮座する石彫に、ポレーン(市松模様)布がが飾られた。

白黒のポレーン柄は、バリ人の信仰するヒンドゥー・ダルモで魔除けの意味がある。

静かで落ち着いたホテル&ヴィラの宿泊施設、レストランが充実しているニュークニン村は、観光客に人気エリアだ。

散策するツーリストも多い。』


あれから4年。

「バロン・ブリッジ」が開通してから20年。

橋のお陰でニュークニン村の開発は進み、田園風景はヴィラとレストランに埋め尽くされた。

独特の町並みに仕上がり、散歩するツーリストの姿が増えている。

集落内にもレストランが開店し始めているが、今のところ景観にさして影響はない。

grandpa's.jpg

モーンキーフォレストにある「grandpa's coffee」の支店。
Ibu Robinさんがボランティア活動している産婦人科「ブミ・セハット=Yayasan Bumi Sehat」の前に出店したカフェ。


barong_cookie.jpg

人気のバリ土産「バロン・クッキー」のショップ&作業場もある。
「バロン・ブリッジ」のたもとにある「バロン・ブリッジ・カフェ」は、姉妹店。


warung@MK_Natri.jpg

私好みのワルンが、近日に開店しそうだ。


「和食・影武者」がニュークニン村に移転(2014年5月24日)してから、通う頻度が高くなり、

只今「I LOVE NYUHKUNING」であ〜る。

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2017年05月03日

私の辞書に「偶然」はない!(129)

5月1日のこと。

夜の出勤、「和食・影武者」への出発時間を間違えた。

いつもは8時45分に部屋を出る。

9時前後には、坂田さんをプンゴセカンの十字路付近でピックアッップすることができる。

たいていは坂田さんが、先に待っていてくれる。

しかし、この日、坂田さんの姿はない。

そして、なかなか現れない。

ちょっと足を伸ばして、コンビニ前の屋台付近を歩く。

トウモロコシが美味しそうな匂いをあげて焼き上がっている。

ここからなら、宿から出て来る坂田さんの姿が見られるはず。

慌てて出て来る姿を想像していたが、それもない。

もう一度、待ち合わせの場所に戻った。

やはり居ない。

嫌な予感!

スマートフォンで時間を確認した。

液晶画面には、20:05が浮かんでいる。

あれっ!

時間、間違えたか?

一時間早く家を出たのだ。

部屋に戻るには、中途半端な時間。

早めに「影武者」に行こうかな。

呼び出せば坂田さんは出て来てくれるだろうが、それも申し訳ない。

さてさて、どうしよう。

どうやって時間をつぶそうか。

そうだ、買い物を思い出した。

明日の予定を今、済ませてしまえばよいのだ。

プリアタン村にあるコンビニで、目的の商品を購入。

私は今、鼻風邪でマスクをしている。

マスクの下は、ティッシュペーパーが両鼻に詰めてある。

コンビニ前で、マスクを外し、新しいティッシュペーパーに詰め替えた。

時計は、20:20。

まだまだ、中途半端な時間だな。

アンドン地域に近々オープンすると聞いているスーパーマーケット「ペピート」まで、ツーリングしてみようか。

「ペピート」は、バリ南部で有名なスーパーマーケットらしい。

今年の初め、ウブドの南地域に開店して人気を博している。

私は一度も行ったことがないので、人気の要因はわからない。

プリアタン大通りを疾走中、夜空にイルミネーションの卑猥な色が目に付いた。

イルミネーションのキラメキは、ペンジョールを飾っていた。

penjor_illumination1.jpg


5年ほど前、カジェン通りのペンジョールのひとつに、クリスマスに使われる点滅ランプがついていたのを見た。

その後、一度も見かけなかったのは、評判が悪かったからだろうか。

オダラン(寺院祭礼)の舞踊公演も、年々、照明が派手になってきている。

ツーリストがとやかく言う筋合いではないが、個人的には素朴が好みだ。


アンドンの交差点を突っ切って「ペピート」の前。

大きな電飾看板を、ファサードに取り付けているところだった。

店内には、すでに什器が並んでいる。

この様子だと、今月中には開店かな。

9時までには、まだ時間がある。

のんびりバイクを走らせても、時間はつぶせない。

鼻水も止まらない。

クシャミも出てきた。

夜風は、風邪に悪い。

しかたがない、坂田さんに早く出て来てもらおう。

一路プンゴセカンへ。

ハヌマン通り南下した「カキアン・ベーカリー」前で、面影のある2人ずれの姿を発見。

ウダンをした後ろ姿に、記憶がよみがえる。

まさかとの思いはあったが、声をかけてみることにした。

バイクを止めて「お〜い!」。

振り返ったご両人は、やはり知合いだった。

彼らは、カキアンで明朝食用のパンを買って宿に戻るところ。

私は、時間つぶしでブラブラしていた途中。

会うべくして会うんだな。

私に、偶然はない。

年末年始にお会いした時、5月に来ると聞いたのを思い出した。

再会の挨拶を交わして別れようとする私のマスク姿に気がついたのか「葛根湯を持ってますよ」の一言。

私は「ちょうだい・頂戴」の二言。

では、宿「テガル・サリ」までと相成った。

「テガル・サリの借景が、以前と、すっかり変っちゃってね!」

そうこれが、気に入らない景色・今日の2つ目。

私の趣味の問題ですが、と断りをいれて。

テガリサリ・バンガローの向こうに見えるアパートのようなホテルの夜景。

evitel.jpg

こういう興ざめする風景が、否だ。

ウブドに似合わないと思っている

表のプンゴセカン通りから見える紫色の看板も気に入らない。

このホテル名前は「the evitel resort」。


話し込んでしまい、待ち合わせの時間を少し過ぎてしまった。

痛め止めなど数種の薬をもらい、宿を辞去する。

食後に服したパブロンゴールドは効果てきめん。

いつのまにか、鼻水は止まっていた。

早出の結果が、葛根湯の入手に繋がった出来事。

この再会は、やはり必然だったんだろうな。


posted by ito-san at 21:09| 愛知 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月23日

ラクササ(巨大)・バロン ケケ(128)

スバリ村のグスティ君がリーダーを務める、伝統芸能「ジョゲッ・ピンギタン」が、今年の「バリ・アート・フェスティバル」に出場することが決まったらしい。

スバリ村のジョゲッ・ピンギタンとは、27年来の付き合い。

伝統芸能の保存を願う私としては、嬉しい限りだ。

バリ・アート・フェスティバルは、毎年6月中旬の土曜日から7月中旬の土曜日までの一ヶ月間開催される。

今年は39回目。

現地の人に訊ねる時は「ペーカーベー=P・K・B」と言わないと理解してもらえないので、ご注意。

P・K・Bは、「Pesta Kesenian bali=フェスタ・クスニアン・バリ」の短縮語。


P・K・B出場のお披露目と最終審査が18日にギャニアール市で行われるらしい。

私は、グスティ君のインドネシア語をそう理解した。

当日が近くなって、詳しい情報がフェスブックのウブド・コミュニティ(https://www.facebook.com/ubudcommunity)から入手できた。

4月15日から19日まで開催されている「ギャニアール市制記念行事」のパレードに出場することがわかった。

テガララン郡のスバリ村を含んだクリキ地域は、18日に参加する。

パレードの練習は、クリキ村の公道で2度行っている。


ウブド・コミュニティの情報には、ギャニアール市制246年と書かれていた。

これは、246回目という意味でははないだろう。

単純に計算して2017年から246年を引くと1771年。

初回の1771年は、バリ島は、クルンクン王朝から各王国が分離独立して9王国になった時代。

ギャニアールは、その9王国の一つ。

王国時代に、使われた暦はウク暦ウク暦かサコ暦だったろう。

西暦を使って誕生日を祝っていたとは思えない。

歴史を振り返り、ギャニアールの地に王国ができてから西暦で246年を経たという意味と理解しよう。


グループの正装一式が、サポーターの私にも用意された。

そこまでされたら、行列に参加しないわけにはいかないだろう。

ガムラン隊を乗せた台車を押す覚悟はできた。

スバリ村のグループの登場は、午後2時30分。

この時間に間に合えば良いだろうと考えていたが、グスティ君は「正午12時には始まるので、それより前に到着していたほうがいいよ」とアドバイスする。

パレードは、モニュメントのある十字路からスタートして、王宮のある十字路までの大通りを東進する。

道路が閉鎖され、混雑が予想されるので、ウブドを午前11時に出発することにした。

グスティ君もそうだが、バリ人は往々にして自分の村が中心で、他の村のことは興味が薄く全体を把握していないことが多い。

結果は、スケジュールもわからず、ただただ、熱い陽射しの中で、待ちわびることになる。

JKPI_1.jpg


JKPI_2.jpg


11時30分、ギャニアールに到着。

道路は、まだ閉鎖されていない。

大通りの沿道には、ペンジョールが飾られ、大きなゲートが道をまたいで設置されていた。

沿道の立て看板には、JKPI(jaringan kota pusaka indonesia=インドネシア遺産のネットワーク)とある。

人影は疎らだ。

いつ始まるのかまったく予想できない。

バイクを町外れに止める。

下見のための散策。

王宮前の広場では、植木市と民芸品の展示ブースが作られていた。

午後1時を過ぎた辺りから、出演者と思われる衣裳の一団を見かけるようになった。

午後2時を過ぎると、あちこちに小さな人垣ができていた。

知合いのバリ人から声を掛けられ「スタートは4時だよ」と聞いた時は、もう帰ろうと思った。

正装をもらった手前、そうもいかない。

グスティ君の一団を見るまで、もう少し辛抱しよう。

嬉しいことに、行列は市場前を午後3時にスタートした。

しかし行列は、このあと4時間も続くのであった。

沿道は、観衆で埋め尽くされた。

椅子を求めて入ったワルンのイブは「毎年始まるのは3時だよ」と教えてくれた。

「11時30分から来ている」と言うと「午後2時30分に来れば、いいよ」と、断言された。

巨大なバロン・ケケが登場。

全長10メートルほどのラクササ・バロン ケケ(Barong Ketket Raksasa)に度肝を抜かれた。




行列は、王宮のある十字路手前でパフォーマンスが上演する。

この日は、ギャニアールの7つの郡と7つの州から芸能が参加している。

テガララン郡は、最後尾だった。

彼らもこの時間まで、待たされたのだ。

お疲れさま。

このあとワンティラン前のステージでは芸能が上演されるようだが、ギャニアール滞在8時間を経過して私はかなり疲れている。

残念だが、ウブドに戻ることにした。

次回、来るとすれば、スケジュールを熟知したうえで午後2時30分に着くようにしよう。

それとも、パレードはパスして、夜間ステージで上演される芸能を鑑賞しようか。





posted by ito-san at 16:55| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月20日

ある踊り子の愛の奇跡「 ニ・ポロック」(127)

入手の難しい本が手に入った。

毎年2月か3月にあるバリの祭礼日ニュピに合わせてバリを訪れている知人が持って来てくれた。

1990年1月11日出版の中古品を、古本屋で見つけてくれた。

知人の名前は、田尾さん。

2ヶ月ほど滞在していく。

彼は、バリ関係の本を見つけるとお土産に持って来てくれる。

今回の本の表題は、「ある踊り子の愛の奇跡 ニ・ポロック」。

財団法人 大同生命国際文化基金(アジアの現代文芸)から発行されている。

著者:ヤティ・マルヤティ・ウィハルジャ。訳者:山根しのぶ。

Ni Pollok1.jpg


ニ・ポロックの名前は、知っていた。

ベルギー人画家ル・マーヨールと結婚した、バリ舞踊レゴンの踊り娘として。

サヌール海岸に美術館があり、ubud-chinbotu「ウブド沈没」以前の旅で訪れことがある。

その時は「サヌール・ビーチ・ホテル」、現在の「インナ・グランド・バリ・ビーチ」に宿泊した。

かれこれ30年以上前の話だ。

ル・マーヨールは、1932年にバリを訪れている。

その時に、モデルになったのが当時15歳のニ・ポロックだった。

3年後に結婚している。

歳の差37。

1946年、サヌール海岸に居を構えた。

ル・マーヨール:1880〜1958。

ニ・ポロック:1917〜1985。

彼女の半生を綴ったのが「ある踊り子の愛の奇跡 ニ・ポロック」。

読んでいて、ル・マーヨールの情熱が伝わる。

彼らの住居が、ル・マーヨール美術館として一般公開されている。

Ni Pollok2.jpg



「ニ・ポロック」を読み終えて、にわかに美術館を訪れてみたくなった。

サヌール訪問は、昨年9月26日、サヌール沖に難破した船の石碑を見に行って以来。

(※その時の話は「バリ島物語・コミック版が出版(87)」に書いた)

美術館の開館時間を調べるために、ガイドブック「地球の歩き方・バリ島」を開いた。

ガイドブックには、画家の名前をル・メイヨールと表記している。

「ニ・ポロック」の本の日本語訳には、ル・マーヨールとある。

スペルは、Le Mayer。

チケット売り場の女性は「ル・マーヨール」と発音した。

どちらでも問題はないのだが、ちょっと気になったので記録しておいた。

展示遺作は、89点となっている。

開館時間と入場料が変っていたので訂正しておく。

金曜日をのぞいて、毎日開館08.00〜15:30。

いやいや、祝祭日は休館のようだ。

金曜日は、08.00〜12:30と早じまいだ。

入館料は、ツーリスト価格・大人Rp50,000-子供Rp25,000-。


ル・マーヨール美術館は、30年前となにも変らず、そこにあった。

海岸端に、ひっそり建つ一軒家。

美術館はサヌール唯一の観光スポットだが、観光客の目には入らないようだ。

海岸には、マリンスポーツと海水浴場の観光客。

その観光客を当て込んだ土産店が並ぶ。

付近の景色は変っているのだろうが、私の記憶は曖昧だ。

美術館の管理は、行き届いているようだ。

思っていたよりも、大きな建物ではなかった。

海岸の村・サヌールで、愛する女性をモデルに絵筆をとって一生を終えたル・マーヨール。

1932年から、インドネシア激動を時代を肌で感じながらも自由奔放に描きなぐった絵は、どれも力強い。

何故か、勇気をもらった気がした。





posted by ito-san at 15:08| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする