2016年09月26日

バリ島物語・コミック版が出版(87)


sasouakira.jpg


漫画家・さそうあきら氏によって、名作「バリ島物語」(ヴィキイ・バウム/訳者:金窪勝郎)がコミック化された。

双葉社より2016年8月27日に、第一巻が出版。

(アパ?情報センターバリ関係・推薦本コミック・バリ島物語

コミック版を読んだあと、久しぶりに、日本語訳を読み返してみた。

バリ島民が今も変わらず、「バリ島物語」にあるようなキャラクターなのが微笑ましかった。

風習やバリ人気質の情景が事細かに織り込まれていて、読み応えがある。

(アパ?情報センターバリ関係・推薦本小説・バリ島物語


さそうあきら氏から、「ププタン・バドゥン」の口実となった、サヌール沖に難破した船の石碑があると聞いて出かけた。

オランダ軍に立ち向かう、バドゥン王家の「死の行進」をププタン・バドゥンと言う。

1904年、バドゥン王家のププタン=Puputan(死の行進)は、バリ島の歴史上で有名な話だ。

場所は、マタハリ・トゥルビッ海岸(Pantai Matahari Terbit)と呼ばれている地域だった。

ウブドから向かうと、サヌール交差点手前左手の大きな石像が入口の目印。

Pantai Matahari Terbit 石像.jpg


レンボンガン島、ペニダ島への定期船発着所の海岸より、海に向かって左手の北へ200メートルほど行ったところ。

「インナ・ウランド・バリ・ビーチ」「ル・メイヨール博物館」とは、反対方向になる。

散骨が許される海岸のかたわらに、難破船の記録とププタン・バドゥンの二つの石碑が建っていた。

Pantai Matahari Terbit 1jpg

Pantai Matahari Terbit 石碑.jpg


碑文には、こう書かれていた。

『サヌール海岸に取り残されたスリ・クマラ号。

1904年5月27日、この場所にバンジャルマシンから出航したオランダ領東インドの旗を付けた、中国商人・郭 得昌(クエン・チク・チャン)所有の貿易船スリ・クマラ号が座礁。

バドゥンの住民により略奪をこうむる。

これは906年9月20日、ププタン・バドゥンとして知られるオランダ領東インドから攻撃受ける口実となった。


もうひとつ石碑があった。

それは、こう書かれていた。

『ビーチサヌールに上陸オランダ軍

この場所は、rost van toningen率いるオランダ領東インド軍が1906年9月14日に上陸した地点。

16隻の艦隊には、大砲が搭載されていた。

軍人2312名と民間人741人のからなる3053人の遠征隊。

激戦の結果、オランダは1906年9月20日にクシマン王宮、デンパサール王宮、プムチュタン王宮を占有した。

3つの王宮の陥落は、バリ王国のすべてがオランダ領東インドの支配下に落ち着いたことを意味する。

インドネシアの独立共和国の後、地元政府は9月20日をププタン・バドゥンとして設定した。』


こんな感じで理解しました。

原文は、動画でチェックしてください。




「バリ島物語」は、110年以上も前の物語だが、今も残っているバリ人の気質と彼ら危惧している現実は今も変わっていない。

近頃、バリ人がよく口にすると似た内容の箇所があったのでメモしておいた。

『この土地を外国人に、やったり売ったりすることはできない。

彼らは我々の神々を知らないし、人間が守らねばならぬ約束をもわかっていないだろう。

寺院は破壊され、そうなれば神々は我々の島を見捨ててしまうだろう。

サトウキビだって、我々の農夫が食べ物を甘くして子供たちを喜ばせるために植えている程度を超えて、全島をサトウキビだらけにしてしまうだろう。

そしてそれを、大きな建物の中で煮つめて砂糖にするだろう。

そのため村中は、その悪臭でいっぱいになるだろう。

そして砂糖は大きな汽船にのせられ、金に換えるために運ばれる。

みっともない樹を植えて、ゴムを採取するだろう。

彼らは水田を荒廃させ、美しい椰子や果樹を切り倒して、空地を作り町を建てるだろう。』

・・・・中略・・・・

『闘鶏や祭りや音楽や踊りを楽しむ余裕を奪ってしまうだろう。

女たちは、娼妓のように胸をおおわせられ、誰ももう髪に花を挿さず、供物を寺院に持って行く者もなくらるだろう。

心からの歓びをむしり取ってしまうだろう。

そして忍耐と寛容と優雅との美しい性質をもぎとってしまい、意地の悪い、不親切な、不平に満ちた人間になってしまう。』


漫画家・さそうあきら氏のコミック版・第二巻が待ちどうしい。

コミックを読んで、バリ島に興味を持ってくれる人が増えるといいな。


posted by ito-san at 15:37| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月22日

BENAR(正しい)& SALAH(間違い)(86)

昼過ぎに起床。

外は、カンカン照りのバリ陽気。

今日(21日)の予定は、ゼロ。

まったく、することが浮かばない。

こんな日は、どこにも出かけず部屋で本でも読んでいるに限る。

お腹は空いていないが、取りあえず昼食にしよう。

トゥブサヨ村の「ワルン・サリ・ラサ」で、ナシゴレン。

ここのナシゴレンは、腹痛でも、空腹でなくても食べられる。

ナシゴレンを食べたら、元気がでてきた。

ジリジリと肌を刺すような太陽の陽射し。

よし、今から流木拾いにでかけよう。

日射病になりそうな暑さの中を、なぜか出かける気になっていた。


途中のトゥンクラ村に入って思い出した。

数日前、「和食・影武者」で、SATORUさんから、聞いていた情報。

http://furuyasatoru.com・HAPPY UBUD DAYSの悟さんです)

トゥンクラ村のプセ&デザ寺院入口前に、掲げられた看板のことだ。

看板は、寺院に入る正装についての注意書き。

「BENAR(正しい) 、SALAH(間違い)」が、写真で説明されていると言う。

ウブドのプセ寺院の看板は「 DRESS WITH RESPECT!!、FULL ADAT ONLY!! 」と英語で外国人ツーリスト
に注意を呼びかけている。

英語訳できないけど、きっと「厳粛な伝統衣装の正装で!」と呼びかけているのだろう。

FULL_ADAT_ONLY.jpg

トゥンクラ村の寺院に、ツーリストが参拝することはあまりない。

BENAR、SALAHは、インドネシア語。

悟さんは、地元の人に呼びかける注意だろうと言う。

大テーブルで情報を聞いた常連客は、看板を見ていないが、口々にかってな意見を飛ばす。

「地元のバリ人に、注意を促す必要はないだろう」

彼らは、すでに正装については心得ていると言う考え方だ。

「それに、バリ人に対するならバリ語で書くのではないか」

「バリ人でないとすれば、他の島から来るインドネシア人を対象としているのでは」

どちらにしても、不可解な情報であった。

「次回、写真を撮って持ってきます」の悟さんの発言で、この晩はお開きになった。


寺院へ行く場合の正装についての注意事項。

女性の場合、上半身には袖付きのクバヤ(ブラウス)、下半身にはカマン(腰布)を着け、腰にはスレンダン(帯)を巻くのが一般的です。

髪の長い方はまとめます(既婚女性はサングル付けたりと、まとめ方があります)。

色使いは特に決まった決まりはないようですが、生地・デザインとともに流行があります。

男性は、上半身には袖つきのサファリ(シャツ・ジャケット)を着て、下半身にはカマンを巻いた上にサプッ(腰巻き)を巻いてからスレンダンで締めます。

頭には、ウダンと呼ばれるはち巻をします。

色使いはサファリとウダンを白(または白系の色)にし、サプッを黄色あるいは白にします。

寺院に行く際は、事前にシャワーを浴びるなどして体をきれいにした後で正装しましょう。

境内でのカメラのフラッシュ撮影は禁止。

祭司やご神体より高いところにあがらない。

生理中、出産後間もない方、近親が亡くなって間もない方、けがで出血をしている方、飲酒している方は残念ながら、寺院に入れません。

以上を守れば、気持ちよく参加できるはず。

ルールを守れば、地元の人々もこころよく受け入れてくれます。

・・・とはいっても、必要以上にドキドキしなくても大丈夫。

わからないときには周りの人たちをよく見て、行動を。

これは、アパ?情報センターのホームページ・オダラン情報に記載されているものです。


そして、私は見ました。

大きな赤いバッテンのついた「SALAH」の看板。

これは、バリ人に対しての注意書きだ。

悟さんは、正しかった。

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女性の正装については、毎年のように流行があり、クバヤの色・デザイン、カマンの巻き方にも工夫が見られます。

結婚式などのお祝い事の儀礼なら許される正装も、いざ寺院となると厳格になる。

では、何が SALAH(間違い)か。

▲長い髪をまとめていない(女性)。

▲女性の短い袖、男性のベスト。肌を見せないのが基本です。

▲カマンがだらしない(男性)。

▲女性の場合、カマン(腰布)の合わせ目から、足首より上の生足がのぞくのはアウトです。

カマンのように巻かないタイトスカートタイプの便利でオシャレなサロンが流行しています、これも、スリットからおみ足が見えるのが SALAHのようです。

都会なら許されそうな正装も、トゥンクラ村の田舎ではまだまだ市民権を得られないのかもしれませんね。


プルナモ(Purnama)海岸、炎天下の流木拾いは、収穫ありでした。

さてさて、何を作ろうかな?



posted by ito-san at 14:38| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月16日

ウブドの変則十字路の意味(85)

ウブドの道路には、変則十字路、T字路、S字カーブが多い。

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サレン王宮の変則十字路(撮影:2008年)

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ハヌマン通りとウブド大通りとのT字路


Cat Cafe Ubud7.jpg
プンゴセカン通りのS字カーブ


何故だろうか?

それは、バリ人の風俗習慣に関係する。

彼らは、悪霊は真っすぐにしか進めなくて行き止りがあると右往左往する、と考えている。

だから辻には、必ず、悪霊を鎮めるため祠が建っている。

深夜、辻々に、犬がたむろするのは、そこに何らかの霊的パワーがあるからだろう。

屋敷の門をくぐってすぐ正面にある、背の低い壁も悪霊除けだ。

悪霊除けの低い壁は、アリン・アリン(=aling_aling)と呼ばれる(丁寧語も普通語も同じ)。

各家々で、工夫を凝らして作られている。

作られていない家もあるようなので、必須ではないようだ。

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悪霊除けの壁・アリンアリン

壁にぶつかって、引き返す悪霊も罪がない。

悪霊がはびこっていると考えるところがバリらしい。

沖縄にも、そんな魔除けの壁があると聞いている。

インドネシア語の「チャンプール」は、沖縄の「チャンプル」と同義語らしい。

もしかして、ルーツが同じかも。


バリ人の住む地域の道路は、ほとんどが変則十字路、T字路、S字カーブの構造になっている。

村々では、村はずれの結界だと思われる場所がそうなっている。

たいてい、そこには寺院がある。

pura2016.jpg
S字カーブに建つ寺院


交通量の少ない時代には、自動車&バイクのスピード緩和に役立っていた。

年々交通量は増え、道幅が狭いため交通渋滞を頻繁におこしているのが現状だ。

と言って、道を拡張してバリのユニークな風習が途切れるのは問題だ。

ウブドは、この村規模のまま発展させたい。

『 流入車両の規制と駐車場の完備 』

これしか、問題解決の方法はないのだろうか?


posted by ito-san at 18:19| 愛知 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月09日

虫に刺されて寝正月(84)

ガルンガンは、ウク暦の最大の祭礼日。

正月のようであり、お盆のようでもある。

三が日は、当日ガルンガンと前日プナンパハン、翌日マニス・ガルンガン。

毎年言っているが、滞在者の私が観光客だと実感する日。

今回は、寝正月だった。

実は、4日の早朝のこと。

寝床の中で左足の小指と薬指の付け根に、針で刺されたようなチックとした感覚がした。

急いで飛び起き、付け根を見たが、刺された跡は見えない。

蜂の仕業だと思ったが、蜂の姿は無い。

こんな狭い指の間に、蜂が入り込むことはないか。

痛みも残っていない。

再び寝床に着いた。

しばらくすると、今度は左手の小指と薬指の付け根に同じ感覚の痛みが来た。

付け根を見るが、刺された形跡は残っていない。

ムカデかもしれないと、ブランケットをはたいてみた。

何も出てこない。

手の指の付け根なら、ムカデの動きはわかるはず。

虫に刺されたのではないとすると、身体の中からの反応か。

内蔵のどこかが悪いのかもしれない。

足と手との違いはあるが、同じ左で小指と薬指の付け根。

ここに何か符号があるのか。

少し不安になる。

とにかく横になることにした。

足はなんともないが、手の方がカユミをともなってジワジワと痛くなって来た。

見ると、手の甲が腫れていた。

みるみる小指が太くなり、腫れは肘のあたりまでに達した。

5日、知人からカユミ止めのクリームをもらった。

効果てきめん、カユミ、痛みは止まった。

やっぱり虫さされだったのだろうか?

左手が不自由なため、三が日は寝正月となった。



虫に刺される前に、撮っていた動画をアップします。

8月末、「アパ?情報センター」の掲示板・Web版自由筆記帳に、質問があった。

「モンキーフォレスト大駐車場のその後は、どうなっていますか?」

モンキーフォレスト東通りの大駐車場(3)」で報告してしてから、8ヶ月が過ぎている。

私も気になっていたので、現場に行って来ました。


大駐車場入口に、電光掲示板が建った。





駐車場は、完成当時の一年ほど前と変らず、稼働しているのは四分の一程度。

利用台数が少ないのは、路上駐車が可能だからだろう。

全面駐車禁止にしない限り、ウブドの渋滞は解消されない。

流入車両に対して駐車場が足らない。

指数を出して、行政が駐車場経営をバックアップする必要があるのではないだろうか。







posted by ito-san at 16:55| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月06日

かごめ、かごめ・・・?(83)

バリの祭礼日「ガルンガン」。

9月6日:プナンパハン

9月7日:ガルンガン

9月8日:マニス・ガルンガン

この期間、ツーリストの私は、いたって暇な時。

読書に耽ることにした。

手にした本「ダレカガナカニイル・・・」著者:井上夢人に、「かごめ」歌詞について面白い解釈が載っていた。

ご存知の方も多いとは思いますが、私には初耳の話なのでメモして残すことにした。


かごめ、かごめ

 籠の中の鳥は、いついつ出やる

夜明けの晩に、鶴と亀がすべった

 うしろの正面だあれ


子供の頃に、こんな歌を唄った覚えはありませんか?

私は、覚えがあります。

歌詞のほうは、今、考えてもさっぱり意味がわからない。

かごめは、カモメじゃないことを私は知っている。

名古屋出身の人はカゴメと言えば、まず「カゴメ株式会社」を思い起こす。

それは私だけか。

カゴメ株式会社は、名古屋が本社の飲料、食品、調味料の大手総合メーカー。


本には、鶴と亀がつっぺったの歌詞がある。

鶴は宇宙を現して、亀は大地の象徴。

つっぺったは、突っ入ったと書き、突入する意味とある。

歌詞にでてくる“かごめ”は、竹で編んだ籠の目だ。

鳥かご.jpg

「カゴメ株式会社」も古くは、籠目の六角形のロゴ・マークを使用していたと記憶している。

籠目の六角形に星形の目は、ユダヤ民族を象徴するダビデの星と同じ。

イスラエルの国旗などにも使われている。

イスラエルの国旗.png

日本の籠目は、厄除けの力があるという。

伊勢神宮の燈籠にも、籠目が刻まれている。

何か奥深い物を感じるが、調べることは止めにした。


書物内の新解説ですが。

本文から抜粋しました。

「かごめかごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やるー

鳥というのは、大空を翔るものの代表でしょう?

宇宙を翔るものー真理を追い求めるものってことね」

「宇宙の真理が現れるのはいつでしょう。

そう歌は問いかけているの。その問いに対してー夜明けの晩に鶴と亀がつっぺった。

うしろの正面だあれ。と歌は答える。

夜明けの晩というのは、朝でも夜でもない時間、だから時間など超越した境地に達した時ということね。

そうなった時、鶴と亀がつっぺったー

宇宙と大地と、つまりすべての存在が突然出合うことになる。

なにもかもが融合するの。

そして、それがかなえば、うしろの正面だあれー

それまで知覚できなかったものを知ることになるでしょう、と言っているんです」

新解釈は私には難しくて、私が解釈することは避けました。


地方により歌詞が異なるようなので、それもメモしておきました。

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が統べった 後ろの正面だあれ?

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に つるつる滑った 鍋の鍋の底抜け 底抜いてたもれ

かごめかごめ 籠の中の鳥は いつもかつもお鳴きゃぁる(お鳴きやる) 八日の晩に 鶴と亀が滑ったとさ、ひと山 ふた山 み山 越えて ヤイトを すえて やれ 熱つ や(お灸を据えて、やれ熱や)

籠目籠目 加護の中の鳥居は いついつ出会う 夜明けの番人 つるっと亀が滑った 後ろの少年だあれ?

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だぁれ?

ウィキペディアには、そのほかさまざまな説が載っていた。


ガルンガンは浄化儀礼。

浄化された心は解き放たれて、人間本来の心を取り戻す。

これ、「かごめ」の新解釈からヒントを得た、私の「ガルンガン」新解釈。



posted by ito-san at 18:27| 愛知 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月21日

ホームセンター・エース(82)

私の買い物と言えば、ほとんどが日用品だ。

フットワークを軽くするため什器の購入を控えているし、バイクで運ぶことのできる程度の大きさの物しか買わない。

ウブド内のコンビニかスーパーで用は足りている。

スーパーは、チャンプアン橋を越えたサンギンガン地域の「ビンタン」に行くことが多い。

アンドン地域にある「デルタ・デワタ」の方が価格が安いようだが、レジが混んでいることが多いので避けている。

それでも、ウブドの変則十字路の交通渋滞が著しい時には、「デルタ・デワタ」にバイクを走らせる。

コンビニは、地元民が値段が安いと噂するプリアタン村南部の「アルファ・マート」がメイン。

あとは、都合に合わせて最寄り店に行く。


バトゥブラン村に、バリ南部にあるホームセンターの「エース=ACE」の支店が開店したのは昨年のことだったか。

クタの「エース」に行った時、男心を誘う道具&工具類の品揃いに興奮したのを覚えている。

そんな店が、ウブドからバイクで30分の距離に開店した。

こりゃ行くしかないだろう。

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クタの「エース」に比べて小規模だが、それでもウブドでは見られない商品があるので、私には充分満足。

最初の買い物は、電気ドリルだった。

これがあれば、細かい作業の効率があがる。

一台目は、ドリルの先がブレルという致命的な欠陥商品だったので交換してもらった。

モビールを作ったり、ルドラークシャに穴を開けるのに、現在活躍中です。


次に買ったのが、シュラーフザック。

略称、シュラーフ。

寝袋とかスリーピングバッグとも言う。

今回の引っ越しでは、部屋を広く使いたいために、ベッドを置かなかった。

作業スペースをとるために、移動可能なシングルサイズのクッションを「デルタ・デワタ」で購入した。

クッションの上で、シュラーフにくるまって寝ている。

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アウトドア派の私は、テント生活が希望だ。


機能的に優れたリュックサックも手に入れた。

リュックともザックとう言う。

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知合いから頂いたリュックサックも、傷んで来た。

見た目も汚れている。

コロンビアの旅を無事に終えた僚友は今、大事に保存されている。


時々、裏庭でルドラークシャを拾うついでに、落ち葉掃除をしている。

バリ人のようにホウキでは、うまく集めれない。

短いホウキは、腰を疲れさせる。

熊手を探していたら、「エース」にあった。

rake_熊手.jpg

日本では、竹や太い番線で出来た熊手がある。

竹が豊富にあるバリで、なぜか竹の熊手を見かけない。

見つけたのは、プラスチックの熊手だった。

柄は、アルミ製。


裏庭の掃除が終わったら、ハンモックでも買おうかな。

木々に渡したハンモックで、のんびり揺られたい。

揺られながら、畑から収穫した野菜を生かじり。

いいな。

セノ家の家族と友達を招いてバーベキューもいいな。

夢は広がる一方だ。

あれっ!(首を傾ける)

荷物を増やさないと言いながら、「エース」がオープンしてから買い物、増えてないか?


posted by ito-san at 23:15| 愛知 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月16日

小型スーパー・マッサーズの役割 (81)

一週間前、居候先のイブにミニャッ・クラパ(ココナッツ・オイル)を作ってもらった。

イブのアルバイトになればと、「ウブド・本の交換会」で試しに売ることにした。

今回は、8月20日に「和るん・あんかさ」での開催だ。

ミニャッ・クラパを、小瓶に小分けしなくてはならない。

小瓶は、100mlと250mlを購入してある。

小分けに使う道具は、ジョウロだったかジョウゴだったか。

いつも迷う。

先日、畑に水をやるために購入したのがジョウロ。

漢字にすると、如雨露。

ジョウロは、露とあるので水を撒く道具とわかる。

ジョウゴは、漏斗(=ろうと)ととも言う。

さっそく、ジョウゴを買いに、ウブド南部プリアタン村にある小型スーパー「マッサーズ=MASSA'S」へ。

ウブドには「デルタ・デワタ」と「ビンタン」と2つの中型スーパーがあるが、こんな雑貨の買い物の時は「マッサーズ」に限る。

MASSA'S1.jpg

店内に入って、真っ先に店員を捕まえた。

捕まえたのはいいが、ジョウゴのインドネシア語を私は知らなかった。

調べて来ていない。

ジョウゴは「口の狭い容器に液体を注ぎ込む道具」で「上方が朝顔の花のように開き、下端が細く尖っている」。

片言のインドネシア語で、これを説明した。

やり取りに5分くらいを費やして、やっとこさ理解してくれてた。

インドネシア語でジョウゴは、corong。

チョロンと発音するようだ。

名は体を表す、ジョウゴらしい名前だ。(かな?)

5メートルほど先の陳列棚に並んでいた。

この位置なら、店内を物色すれば、すぐに見つけられた。

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「マッサーズ」は、日常雑貨の種類が豊富にあるので、チョットした物を探す時に立ち寄る。

ローカル色豊かな、コンビニエンス(便利)な店だ。

バリ人の日常使われる道具が、雑然と所狭しと並んでいるところが良い。

日本では、見られない道具類にも興味が引かれる。

例えば、料理やお菓子作りの道具。

ブリキの道具も可愛いし、台所用品もユニークだ。

まないたが、丸太の輪切りなのがバリらしい。

営業時間&定休日を聞くのを忘れた。

まっ、いっか。


ミニャッ・クラパの瓶ずめは無事終了した。

100mlをRp20,000-で、250mlをRp40,000-で販売する予定。

minyak_kelapa.jpg



posted by ito-san at 14:58| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月09日

ウブドの水道事情(80)

マス村(5日)、ペネスタナン村(6日)の合同火葬儀礼も終わり、ウブド近郊では残すところプリアタン村(20日)だけとなった。

まったく関係のない私にも、どことなく醸し出している慌ただしさが感じられるウブド。

加えて、ハイシーズンを迎えたウブドは今、観光客が歩道に溢れ活気づいている。

昼2時頃から5時近くまでは、交通渋滞でお祭り騒ぎのようだ。

合同火葬儀礼の話も、もう食傷気味だなと考えていたら、ブログのアップが滞っていた。

ネタも枯渇しているし、このまま、しばらく休んじゃおうかな。

と思ったが、小さなネタが見つかった。

pasar_ubud.jpg
ウブド公設市場


この頃、我がセノ家は、時々、断水する。

ハイシーズンを迎えて、ホテル&ヴィラの利用者が増えたせいだろうか。

断続的に降る雨の量が減っているのも原因だろう。

日中は暑いので、シャワーは必須だ。

ウブド近辺の川は汚濁が進んでいて、昔のように川で水浴びというわけにもいかない。

バケツに貯めたおいた、もしかのための水を使って、急場をしのいでいる。

断水を想定しての “もしか” です。


テガランタン村は、昔から、井戸の枯れる地域だった。

上水道が敷設されるようになって、井戸は埋められた。

当時、井戸と上水道の併用は、許されていなかったと記憶する。

パチュン家もそうだったが、セナ家も枯れた井戸は埋められている。

上水道になってからも、テガランタン村は断水が多い。


上水道は、公共が供給している。

給水制限がされることもあるので、事前にタンクに水を貯めて使っている。

井戸を復活させている家もある。

税金がかかるが、上水道と井戸を併用だ。


以前、井戸は手掘りだった。

1990年、「和食・影武者」の井戸も人力で掘った。

直系1メートル20センチほどの穴を掘っていく。

穴が深くなると、掘った土をバケツに入れて上に上げる。

狭い穴の中での作業は、動きずらそうだ。

地上には、バケツを上げ下げする助っ人がいる。

何度も何度もバケツが往復する。

掘り手は、不安定な縄梯子を伝って下りていく。

10メートルも掘り進むと地下の空気が薄くなって苦しいだろうが、そんな素振りをみせない掘り方さん。

掘り方さんは、地下水の湧き出る地点まで掘りすすむ。

今回は、12メートル掘ることになっている。

少しづつ水が溜まってくる。

底に溜まる水に潜って土を掘っていく。

眼を真っ赤にして井戸から出て来る職人さんを見て、感動と感謝した。

危険がともなう仕事。

年々、井戸掘り師は少なくなっていると聞いている。


今は、スムールボル(Sumurbol)がある。

鉄パイフを水圧で地中に挿していく“スムールボール”と呼ばれる井戸掘り手法だ。

Sumurbol.jpg

高校生の頃にアルバイトでやったことがある、ウエル・ポイント工法だ。

工事現場の地下水を汲み上げる鉄パイプを挿す。

現場の水を確保する時にも、施す。

人力で、4〜メート5ルほどのパイプを何本も刺していく。

掘り抜き井戸のスムールボルは、50メートルの水脈まで打ち込むことができる。

ウブド近郊は、もうこの深さでは水が出なくなって来ている。

ホテル&ヴィラ、別荘など建築ラッシュが原因だと言われる。

プールは、中級クラス以下の宿泊施設にまで完備されている。

場所によっては、100メートル前後も打ち込まなければ水脈にあたらない。

公共水道局の水が枯れ、一般家庭に供給できないこともたびたび。

農業にも影響を及ぼして来ている。

交通渋滞は一部地域だが、水の確保とゴミ処理はバリ島の深刻な問題だ。

このまま開発が進めば、一般市民の社会生活にも支障をきたすだろう。

早急な解決が望まれている。


※バリ島滞在記「ウブドに沈没」3月・28)建築現場はショックの連続


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2016年08月01日

ウブドの交通渋滞緩和の将来は?(79)

この頃のウブドの天気。

一日に、曇&雨&晴の揃い踏み。

短いと30分おき、長くて2〜3時間おきにと、めまぐるしく変化する。

晴れ間は嬉しいのだが、断続的に降る雨は困り者。

我が家を出る時に晴れ間だった空は、パダンテガル村のハヌマン通りに入ると雨が降り始める。

慌てて雨具を着るが、一キロ先のプンゴセカン村は降っていない。

アスファルト道路に、降った形跡も見えない。

ウブドは、雨の地域が、まだら模様に存在する。

「和食・影武者」の食後、雨が上がってから帰路につく。

タマン村のスリウェダリ通りから、パラパラと雨模様。

この程度の雨なら雨具はいらない。

テガランタン村に入ると、大雨。

あと500メートルほどで我が家だ。

突っ走れ!

今夜も濡れた。

「風邪に、ご注意ください」天の声


交通渋滞の時に降る出す雨は、バイク乗りには苦行だ。

雨合羽を取り出すタイミングが難しい。

私は、濡れ鼠のことが多い。

「くれぐれも、風邪にご注意ください」天の声


ウブドの交通渋滞は、相変わらずだ。

現在は、プンゴセカン村のガソリンスタンドがあるT字路が、異常な渋滞を起こしている。

中華系の観光客がバリに訪れるようになって、ウブドに大型観光バスが乗り入れるようになった。

この頃から、ウブドの渋滞が始まったと考えられる。

2010年頃、外国人滞在者から「大型バス通行禁止」のキャンペーンが盛り上がった。

2016年02月22日:■大型観光バス乗り入れ反対(33)にも書いた。

大型観光バスが、モンキーフォレスト通りとハヌマン通りを通行すると大交通渋滞をまねく。

ウブド市場前での、乗下車も渋滞を巻き起こしていた。

その頃、トゥブサヨ村のダラム・プリ寺院の広場は、大型観光バスの駐車場となった。

交通渋滞を引き起こす原因のひとつだった、大型観光バスを収容している。

駐車料金の収入は、ダラム・プリ寺院の修復費などに当てられると聞いている。

モンキーフォレスト通り&ハヌマン通り通過する大型観光バスが減り、また、ウブド市場前で乗下車していたのを止めたお陰で、渋滞は少々緩和された。

モンキーフォレストの大駐車場、スゥエタ通りの駐車場、民間の月極駐車場も増え、徐々にではあるが改善されつつある。

shunsetu3.jpg
ダラム・プリ寺院前の駐車場

シャトルバスが運行しているのを発見。

ダラム・プリ寺院に駐車する大型観光バスの乗客を送り迎えしているようだ。

トゥブサヨ村から徒歩でウブド市場方面に向かう観光客に対する、送迎サービス。

ボディにバリ風景のイラストが描かれたシャトルバスが、4台待機している。

シャトルバスは、ダラム・プリ寺院が運営していると聞く。

収益金は、寺院の運営費に割り当てられるそうだ。

shuttlebus.jpg

この位の大きさのバスなら、渋滞も少なくすむだろう。

一台50,000〜100,000ルピアで、チャーターできる。


モンキーフォレスト通りの大型観光バス乗り入れは、激減した。

しかし、交通渋滞は続いている。

ウブドの交通渋滞の原因は?

そろそろ抜本的政策を強行しなくてはいけないのでは。

「抜本的政策」とは。

今、考えています。


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2016年07月29日

69歳の誕生日を迎えて(78)

7月25日をもちまして、69歳を迎えました。

1年前の68歳の誕生日は、南米コロンビアのサレントで迎えた。

お祝いのメッセージが、フェイスブックで繋がっている友達からたくさん届いた。

遠く離れていても「一人じゃないんだ」という心の支えとなった。

25年間のウブド滞在から脱皮しようと、様々なことを考えてのサレント滞在。

南米コロンビア版「寝床を探す旅」は、思いのほか高揚することがなく、潔く退去することにした。


やっぱりウブドは、居心地がいい。

ウブドに戻った今年も、大勢の仲間からお祝いのメッセージをいただいた。

ついにと言うか、やっとと言うか、69歳。

70歳の区切りを前にして、やり残したことは無いか? と自問する。

来年の誕生日は、3度目のアグン山登頂を目標にしている。

目標に向けて体力作りでもしようかな。

一緒に登ってくれる人、募集しています。

「みんなで登れば、怖くない」


そして、必ず巡ってくる70歳。

残りの人生、どうやって過ごそうか。

どちらにしてもたいしたことはできないが、悔いの残らない一生で終わりたい。

今生は、変貌するウブドを見届けることにした。

それが私の使命のような気がしている。

皆様の暖かい応援を励みに、これからも精進していきたいと考えています。

今後とも、よろしく。


※誕生日の日に行ったプルナモ(Purnama)海岸。

purnama.jpg

3週間前は、午後3時到着で満潮時だった。

潮の満ち引きの時間は、日々変ると聞いて、この日は2時到着にした。

当てずっぽうに出かけた時間は、干潮が始まるところだった。

波高し。

あいにく、流木はゴミ共々姿を消していた。


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2016年07月25日

開いてて良かった「カキ・リマ・ベンシン」(77)

ウブド地域に、ガソリン・スタンドの一号店がオープンしたのは、1998年のテガス村(マス方面)だった。

ガソリン・スタンドは「ポンパ・ベンシン(Ponpa Bensin)またはプルタミナ(PERTAMINA)」と言わないと、バリでは通じない。

ポンパ・ベンシンができるまでは、雑貨屋(ワルン)でガラスビンに小分けして売られていた。

Kaki-Rima-Bensin1.jpg

雑貨屋の店先に「PETROL」書かれた看板を出している。

ウブド大通りはもちろんだが、村道沿いには軒並み(100メートルおき)に見つけられた。

そんな雑貨屋は「カキ・リマ・ベンシン」と呼ばれていた。

古くは、台車(カキ・リマ)で出し入れしたことから付いた名前だろう。

たいていが、一瓶5,000ルピア。

「10,000ルピア」と金額で注文すると、2瓶を入れてくれる。

瓶から、濾過布のついたプラスチックのジョウゴに注ぐ。

Kaki-Rima-Bensin2.jpg

そんな話を、ウブド村徒然記「カキ・リマ・ベンシン(33)」に書いてある。


ポンパ・ベンシンの2号店は、テガス・カンギナン(Tegas Kanginan)村の2001年。

続いて、アンドン地域の2005年。

プンゴセカン村は、2006年に開店。

ポンパ・ベンシンの出店で、近辺の「カキ・リマ・ベンシン」は姿を消した。

ウブドでは、遠く離れなければ見つけることが困難なほど激減した。

現在、大きな街を繋ぐ幹線道路にはポンパ・ベンシンがある。

村々を繋ぐ村道には、まだまだカキ・リマ・ベンシンが残っている。

Kaki-Rima-Bensin4.jpg
サバ村近郊のカキ・リマ・ベンシン(撮影:2016年7月25日)


ウブドで生き残っている「カキ・リマ・ベンシン」もある。

そんな店が、この頃、写真のようなガソリン販売機を店頭に置き始めた。

「PERTAMINI」の見慣れた文字。

ちがった!

見慣れた文字は、国営石油会社の社名「PERTAMINA」だ。

この販売機は、PERTA-MINIだ。

MINIは、プルタミナのミニ版と言う意味か。

販売機は、プルタミナから7〜8,000,000ルピアで購入するらしい。

手回しだけど、グレードアップな感じだ。

10,000ルピアで、ポンパ・ベンシンでは1.52リットル。

PERTA-MINIのオヤジは「10,000ルピアで1.5リットルくらいかな」んて、曖昧なことを言っている。

pertamini.jpg

ウブド生活者の私は、アンドン&プンゴセカンのガソリン・スタンドを利用している。

時々、ガソリンメーターがレッドゾーンの時がある。

時計の針は、交通渋滞の時間帯をさしている。

こんな時には、近くの「カキ・リマ・ベンシン」に急ぐ。

開いてて良かった「カキ・リマ・ベンシン」。

ガラスビンからハンド吸出機?(呼び名を知らない)に持ち替えたイブ(お母ちゃん)は、多いに戸惑い気味。

こうしてウブドは、様変わりしていくのであった。


posted by ito-san at 17:48| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月23日

シルビオ・サントーサ氏との再会(76)

トゥブサヨ村スクマ通りをダラム・プリ寺院から南下すると、ローカルに人気の「ワルン・サリ・ラサ」がある。

この店のナシゴレンは、炒飯ぽい私好みの味。

週に、2度は行く。

毎回、ナシゴレン(Rp10,000-)とテ・ボトル(Rp4,000-)。

Rp14,000-は、只今のレート(¥1=Rp123)だと約114円。

私が入っていくと、注文する前から「ナシゴレン」と言われる。

バイクを止めるところから見られている。

「ナシゴレン」が来たとでも、思っているのだろう。

期待は裏切れない。

テ・ボトルは、自分で冷蔵ケースから出す。

ナシゴレンは、吉野家の牛丼ほどの早さで出て来る。

早くて、安くて、美味しい、三拍子揃った店が「ワルン・サリ・ラサ」。


サリ・ラサの2軒南隣りにワルンがオープンしたのは気がついていた。

3月頃だったか、記憶は定かでない。

店名は「ワルン・ユニーク」。

気にはなっていたが、サリ・ラサの前を素通りして、眼と鼻の先で浮気はできない。

この日、サリ・ラサの前まで来て気がついた。

日曜日が定休日だというのは知っているが、この日が日曜日だというのを忘れていた。

さて、どうしよう。

この機会に「ワルン・ユニーク」に入ってみようか。

店頭でメニューを見ていると、店内から声が掛かった。

よく聞き取れなかったが、きっとインドネシア語で「いらっしゃいませ」とでも言ったのだろう。

声のした方を見ると、見覚えのある顔がそこにあった。

unique1.jpg

シルビオ・サントーサ氏だ。

バリ島の地図「バリ・パスファインダー」の出版者。

シルビオ氏とは、10年前に「バリ島ウブド 楽園の散歩道」のインタビューで会って以来だ。

それより以前は、26年前のウブドのセンゴールだった。

間違いないと思いながらも、もうひとつ自信が持てない。

彼は、私のことを覚えていないようだった。

メニューは、さして高くはない。

もう少し、観察しようと、店に入った。

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ナシゴレンを注文した。

どこに行ってもナシゴレン。

ナシゴレンなら、カレーライス同様、少々まずくても食べられるほどの好物。

シルビオ氏が、厨房に立った。

ナシゴレンの味は、サリ・ラサにはかなわない。

懐かしい人に会えたので良しとしよう。

unique3.jpg

年を重ねて、風貌に以前のハツラツさはなくなったが、シルビオ氏に間違いない。

私は、帰りがけに声を掛けた。

住まいはクトゥ村、息子がイギリスに行っている。

会話から検証しても、間違はいない。

「健康のために、ワルンを開いている」と言う。

「話が弾めば、深夜まで営業してるよ」と言う。

夜な夜な、ウブドのセンゴールを徘徊していたシルビオ氏の姿を思い出した。

アラック(椰子酒)が入り、興にのるとウブドを熱く語ってくれる。

店名のユニークの意味、きっとシルビオ氏本人のことを指しているのだろう。

忘れられていたのは残念だが、お互いに大好きなウブドで生きていることに感謝だ。


「ワルン・ユニーク」のメニュー

★食事:カレー各種Rp15,000〜Rp35,000-/ナシゴレン&ミーゴレンRp20,000-/チャプチャイRp25,000-/etc

★飲物:コピバリ&紅茶(ホット)各種Rp5,000-(アイス)/ビンタンビール大Rp40,000-小20,000-/etc

★営業時間:11.00am〜10.00pm (気が向けば深夜まで)/ 定休日・儀礼祭礼日/


posted by ito-san at 16:32| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月18日

クトゥッ・リエールさんの火葬儀礼(75)

イ・クトゥッ・リエール(I Ketut Liyer)さんの火葬儀礼が、7月16日、盛大に執り行われた。

ご存知のように、ジュリア・ロバーツ主演の映画『Eat, Pray, Love』(邦題:食べて、祈って、恋をして)で一躍世界的に有名になったバリ人。

場所は、プンゴセカン村ダラム寺院の火葬場。

リエールさんは、バリヤン=Balian(バリの呪術師)

専門は、手相占い&薬草による病気治療。

生前、アパ?では「バリヤン体験」で、大変お世話になった。

お疲れさまでした。

天国でノンビリお過ごしください。


映画『Eat, Pray, Love』は、エリザベス・ギルバート著の紀行記の映画化だ。

エリザベス・ギルバート氏が、ウブドでリエールさんと出会う。

リエールさんは、ウブドでは高名なバリヤン。

手相占いを受けたエリザベス・ギルバート氏の人生が、変わっていく。

2010年9月17日に各国で封切られ、日本でも公開された。

紀行記の日本語訳(訳者:那波かおり)は、ランダムハウス講談社から2009年12月16日に出版。

Laveの章で、バリ島が登場する。

映画は、ウブドの風景が随所に映し出されている。

内容はともかく、ウブド好きにはヨダレものの風景が映る。

※MIXIの日記に、ウブドでの撮影裏話風が残っていたので巻尾に掲載しておきました。

後ほどお読みください。


私が最初のリエールさんにお会いしたのは、1991年、プンゴセカン村の知人宅の屋敷寺での祭礼だった。

リエールさんは僧侶(プマンク)で、その場を取り仕切っていた。

力強く精悍な顔つきに、バリの呪術師を認めた。

その後、手にした書物「虹の理論」に、リエールさんの名前を見つける。

「虹の理論」は、平成2年9月25日・発行された中沢新一の著書。

「第二章ファルマコスの島」は、リエール氏に弟子入りした時にまとめたレポートと聞いている。

ブラック・マジックの話だ。


この日は、デワ・カワン(kawan)氏の家族の火葬儀礼も行われた。

カワン氏はプンゴセカンスタイルの画家で、旧影武者前にあったギャラリーのオーナー。

「Tako Casa」「Le Moulin」などの大家さんだ。

インドネシア語で友人の意味を表す「kawan」さん。

大勢の弔問客が訪れていた。

プンゴセカン村は、私にとってゆかりの深かった村。

多くの知った顔に出会った。

皆、一様に年輪を刻んだ風貌に変っている。

在ウブド26年を懐かしく、また、感慨深く思った火葬儀礼となった。


火葬儀礼で出合った人々。

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デワ・ニョマン・スギ君は、マイペースで歩いていました


dewa_irawan.jpg
デワ・ニョマン・イラワン君は、御神輿を担いだようだ


Santana.jpg
「グリー・フイルド・バンガロー」のボス、サンタナ氏がプマンク(僧侶)になっていた


その他、大勢の方にお会いしましたが、割愛です。


プンゴセカン村でリエールさんとお分かれしたあと、ウブドの合同火葬儀礼へとバイクを飛ばした。

久々の火葬儀礼のはしごだ。



クトゥッ・リエール氏の火葬儀礼



デワ・カワン氏家族の火葬儀礼


2009年12月28日:MIXIの日記です。

10月の始め、ウブドにハリウッド映画の撮影隊が来るとの噂が立った。

そして、実際に15日にはベントゥユン村で撮影があった。

主演女優はジュリア・ロバーツ。

ウブドのパサール、ペネスタナン、プンゴセカン等々で撮影が行われ、彼女を一目見たくて、ウブド在住の幾人かが追っかけた。

私もその1人。

「ジュリア・ロバーツ見た?」が、在住者の挨拶になっていた。

映画は、著者:エリザベス・ギルバートの紀行文「Eat, Pray, Love」の映画化。

公開予定は2011年と1年も先。

知ってしまうと、一日も早く観たいのが人の心というもの。

撮影現場は追っかけたものの、原作を読んでいないので、あらすじも掴めない。

邦訳が出ればいいのにな、と思っていた矢先、

12月16日訳者:那波かおり、でランダムハウス講談社から出版された。

さっそく、近日中に来ウブドする知人に頼んだ。

副題:女が直面するあらゆること探求の書

第1部:イタリア/イタリアでは食べまくり
第2部:インド/インドでは瞑想に励み
第3部:インドネシア/バリでは恋をした(帯より抜粋)

バリは、ウブドでの話だ。

話は、プンゴセカンのバリアン、クトゥさんを中心にして展開していく。

ジュンバワン通りの「トラディショナル・バリニーズ・ヒーリング・センター」。

モンキーフォレストも登場する。

ペネスタナンでの撮影は、クトゥ氏所有の治療手引きをコピーするのシーンだったようだ。

ウブドらしいエピソードの数々に、ウブド好きは、親近感で満腹になることだろう。

原作が、どんな映画に姿を変えるか、そんなことも楽しみの一つだ。


posted by ito-san at 16:44| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月17日

合同火葬儀礼の季節到来(74)

バリ・ヒンドゥー・ダルモで、もっとも大切な儀礼は火葬儀礼。

火葬儀礼には、個人葬と合同葬(ガベン・マサル/Ngaben Masal)がある。

合同火葬儀礼は、一つの村で2年〜6年に一度に行われる。

時節は、サコ暦のなかから人間(特に死者)の儀礼にもっとも適したサシー・カロ(sasih karo=第2月)。

西暦の7月から9月の間にあたる。

毎年、どこかの村で合同火葬儀礼が執り行われている。

Ngaben_Masal1.jpg


7月15日に、ウブドの北に隣接するクトゥ村で合同火葬儀礼があった。

この村では、5年ぶりのこと。

5年分の遺体が、この日、合同で火葬されることになる。

火葬場には、火葬堂(バレ・パバスミアン)が14基用意されている。

私が到着した時間には、すでに、プトゥラガン(張り子の棺=patulangan)も安置されていた。

一家族に、一基の火葬堂と一体のプトゥラガン。

遺体は23体。

5年の間に、故人が2名以上出ている家族があるのだ。

Ngaben_Masal2.jpg
珍しい、半牛半魚のプトゥラガン


バリは公開火葬。

火葬の途中、遺体が跳ね起きるのを防ぐため、竹で押さえる。

燃え盛る火の中に、遺体が確認できる。

遺体が燃えていくのを目の当たりにする。

これは、かなりカルチャーショックだった。

そんな光景を見に来た観光客も多かっただろう。

今では、鉄板で囲われて、遺体が燃え落ちていく姿は見られない。

見せないようにしてるのかもしれない。

Ngaben_Masal3.jpg


この頃、合同火葬儀礼では、遺体が燃える光景は見られない。

遺体は数日前に掘り起こされ、その場でバーナーで燃やされる。

死者に対する感情が、私たち日本人と違うのを実感する。

傍目から見ると、遺体が雑に扱われているように見えるが、遺体はすでに抜け殻だ。

火葬儀礼は、魂の浄化儀礼。

死を、魂の旅たちと考えで解放する。

燃やされるプトゥラガンには、シンボル(+遺灰)が安置される。

数年前から遺体を掘り起こさず、シンボル(+埋葬場の土)を作ってそれを燃やす村も増えている。

シンボルの正体は、人体の絵を描いた木札を入れた白布の包み、だそうな。


合同火葬儀礼のプトゥラガンは小さい。

大人の遺体を入れるには、小さすぎる。

死後、数年経ている遺体は小さくなっているのだろうと、都合良く考えていた。

しかし、日数の新しい遺体もあるはず。

この頃と思っていたが、私が知らなかっただけで、合同火葬儀礼では、以前から遺体は事前に燃やされていたのかもしれない。


儀礼のプロセスが、延々と続いている。

我々観光客が見たいのは、遺体が燃えるところだ。

いつ始まるかわからない。

ひたすら、待つのみだ。

焼けるような陽射しの中、プトゥラガンに火がつけられた。

熱風が押し寄せて来る。

プトゥラガンの燃え落ちるのが早い。

遺体は、すでにシンボル(遺灰)になっている。

見物人が引いていく。

お疲れさま。

私も、その場を後にした。






posted by ito-san at 14:16| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月14日

高僧プダンダの火葬儀礼(73)

雨に打たれたせいか、窓を開け放して寝たせいか、風邪をひいてしまった。

9日から、鼻水垂れ流しの生活だった。

頭は鈍痛、身体もだるい、節々も少し痛い。

影武者25周年の10日も体調の悪い状態で、顔を出した。

大テーブルに鼻をかんだトイレットペーパーを山積みにして、冴えない顔の私が腰を下ろしている姿を想像してください。

見られたものではなかったはず。

幸い、何のイベントもなかったので助かった。

身内だけで、ささやかな乾杯をした。

「30周年には、何かしようかね」と女将を話を交わした。

もし影武者が存続していて、さらに私がウブドに居たらの話だ。

あと5年後の私は、元気な身体でウブドで徘徊しているのだろうか?

できることなら、30周年を迎えたいと思っている。

風邪の治療は、薬を使わず、ひたすら寝ることにした。

13日には、鼻水は治まり、ほぼ治った。


テガランタン村で12日、高僧プダンダの火葬儀礼が行われた。

相変わらず儀礼で忙しい日々のバリ人だ。

葬式だからと、正装は黒シャツを着て出かけ。

どうも私の持っている情報が間違っていたようで、村人は皆白いシャツを装っていた。

僧侶の火葬儀礼では、白が基本なのだろうか。

次回からは、白にしよう。

鼻水垂らして待ち構えていた場所は、偶然にもダラム寺院のジェニトゥリ(Genitri=菩提樹)の下だった。

表皮の剥がれたルドラクシャを数個摘んで、ポケットにしまう。


高僧プダンダの火葬儀礼の動画です。

風邪のため、燃やすところまでは参列していません。






posted by ito-san at 23:55| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月12日

ベベ(アヒル)の行列(72)

アヒルのことは、インドネシア語でベベ(bebek)、バリ語ではイティ(itik)。

10年ほど前、kのないベベ(bebe)は、どこかの国のファッションと知った。

その時、インドネシア語→日本語の辞書で「bebe」を調べてみたことがある。

語源は、ポルトガル語。

1)女の子の着物・ガウン

2)植民地時代の地方政官

3)乳児・ベビー

とあった。

日本の童謡にある「♪赤いベベ着たお人形は♪」のベベは、ひょっとするとひょっとするかもと思った。

思っただけで、確証は取っていない。


バリの風物詩に、隊列を組んだべべの行進がある。

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田んぼに水が張られ、田植えの前にべべが放たれる。

これは水利組合で決まられた行事。

大量に飼っている農家から借りる。

多い田んぼでは、100匹を越えることもある。

餌をついばんだべべの排泄物が肥やしになると言う。

日本で言う「カルガモ農法」と同じだ。

bebek_tao2.jpg

べべは、田んぼの立ててある竿を中心にして、餌をついばむ。

竿の先には、小さな布が付いている。

これが目印だ。

移動は、それまで田んぼの立ててあった竿を先頭に進む。

小さな布の付いた竿を持った、おじさんの後ろをついて、べべは移動する。

おばさんのべべ使いを、一度も見たことがない。

もしかすると、この仕事、男子専科か。

日本では、まず100匹ものべべが行進する姿を見ることはないだろう。

先頭の一匹の行動は、瞬時に最後尾まで伝わる。

先頭役はだれがするのか?

瞬時の伝達の能力は何なのか?

疑問点は数々あるが、道路を占領してピョコピョコ右往左往するべべの微笑ましい姿は見て。その疑問はスルーする。

この光景に例えて、日本人ツーリストをべべと呼ばれていた時代があった。

団体旅行華やかな頃のことだ。

bebek_tao3.jpg



なぜべべは、小さな布についていくのか。

生まれて最初に見たものをお母さんだと思い込む、剃り込みと言われるが、そうではない。

これは、遺伝子の仕業らしい。

ちょうど手にした本に、ハイイロガンの話が載っていた。

バリのべべにも通じる物があったのでメモしておいた。

それは、こんな内容だった。

ハイイロガンは、生まれながらに親の姿を知っているわけではない。

こんな羽色で、形はこうで、こんな歩き方をするなどという細かい情報をいちいち遺伝子は請け負うわけにはいかない。

その代わり遺伝子は、こんなプログラムを考え出した。

「ふ化後初めて見たもののうち、大きくて、しかも動くものをよく覚えよ。

歩けるようになったら、いつでもどこでもついて行くのだ」

自然界でこの条件を満たすものは、酔狂な動物行動学者を除けばまず間違いなく自分の親である。

遺伝子はそのあたりのことをよく承知しており、手を抜けばよい部分については徹底して手を抜くことにしているらしい。

そうかこれは、剃り込みとは言わず、遺伝子の仕業なのだ。

バリでは、こんな遺伝子の特徴を利用して、竿の先に付けた布をべべたちの目印にしたのだった。

思いのほか竿の先の布は小さいが、生まれてすぐの、べべのべべ(ベビー)たちには、さぞ大きく見えたことだろう。

べべがハイイロガンと同種かどうか確認していない。

ネット環境の悪い住居にいるので、検索できないでいる。

調べるのは、いつになることかわかりませんが、次回に繰り越すことにしました。

それとも、誰か教えてくれる?

(写真提供:田尾美野留)





posted by ito-san at 18:24| 愛知 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月10日

パチュン家の長女アユの結婚(71)

7月6日、パチュン家長女・アユの婚姻儀礼が執り行われた。

おめでとうございます。


嫁ぎ先は、デンパサール市内。

儀礼は午前中に、新郎の実家で行われた。

私は、午後からのパチュン家での儀礼に参加させていただいた。

婚姻儀礼には何度も参列しているが、お嫁さんの実家から嫁を送り出す儀礼は初めてのことだ。

パチュン家には、テガランタン村から大勢の村人が参列していた。

陽射しが暑いので、皆、日陰を探して腰をおろしている。

デンパサールで婚姻儀礼を終えた新郎新婦、そして家族・親類縁者、村人が出向いて来た。

これは嫁をもらいにきた儀礼か?

新郎の情報は、まったく知らない。

本人が愛し、両親が認めている結婚相手の身上調査を私がすることもない。


パチュン家は、2013年3月10日から2015年2月1日にかけて、お世話になった。

家族にも、優しくしてもらった。

(詳しくは「テガランタン村滞在記」をお読みください)

コロンビアの旅行中、アユには「私が帰るまで結婚式はしないください」とフェースブックでコメントした。

が、まさかその通りになるとは。

バリに戻ってから何度もパチュン君に「アユの結婚式はいつになるの」と問いても「わからない」との返事が返ってくるだけ。

バリでは、本人同士の意志が固まるまで、結婚することを両親にも伝えないようだ。

途中で、破談になることを嫌うのか。

だから、急に結婚の日取りが決まる。

授かり婚が多いのも、子供が出来てしまえば別れないだろうという気持ちからだ。

授かり婚とは、俗にいう「できちゃった婚」のこと。

10年ほど前からパチュン家と縁のあるF氏ご夫妻が、日本からアユの結婚式のために飛んで来ていた。

彼らも「結婚式には、是非、呼んでください」と伝えてあったようだ。

F氏ご夫妻は、午前中の婚姻儀礼にも参列している。

怠け者の私とは、入れ込み方が違う。

私は、送り出す婚姻儀礼に参加できたことで良しとした。


私が暮らしていた懐かしい部屋の前で、村の世話役による儀礼が行われた。

本人同士、両家の両親、そして両家の村の合意を得る。

結束の強い村組織のバリでは、婚姻は村の結縁でもある。

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寛ぐ新郎新婦

この部屋は今、友人のB君が住んでいる。

B君は、このめでたき日に、運転手&カメラマンとしてお手伝いしていた。

私が住んでいれば、私の仕事だったところだ。

B君、ありがとう。

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アユは、グスティのカーストから称号のない階層に嫁ぐので、家寺でのお祈りはこれが最後になるのかもしれない。

バリのカーストは称号だけが残っているのだが、慣習にも少し影響をおよぼしているところがある。


長男マデ君がクルーズの仕事で参列できなかったが、その分次男コマン君が張り切っていた。

パチュン君も奥さんも、緊張しているようだった。

胸に熱いものが込み上げてくる。

他人の幸せそうな姿に、私の心も満ち足りてくる。

末永く、お幸せに。

お父さん、お母さん、お疲れさまでした。






※ 婚姻儀礼:http://informationcenter-apa.com/kb_pernikahan.html

※「伊藤博史のブログ|生涯旅人・ウブド村徒然記 / バリ人男性をちょっと考察・婚姻儀礼(83)


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2016年07月07日

ウブドの生コン事情(70)

7月に入ってから、ルドラクシャが一粒も落ちてこなくなった。

毎日、あんなに落ちていたのがピッタリと止んだ。

実のなる時期があるのを知った。

際限なく収穫できるものだと信じていたので、キズものやイビツなルドラクシャは処分していた。

処分した残りは、ほんの少しだった。

ブレスレット作りは、遅々として進まない。

老い先は短いが、ノンビリいこう。


先日、タマン村のスリウェダリ通りの建築現場で面白い物を見つけた。

まず、写真を見てください。

mixer1.jpg

コンクリートを流し込む作業で、こんな重機を使っていた。

ミキサーは珍しくはないが、その後が珍しい。

それは、私には初お見みえの道具だった。

こねられたセメントは、鉄柱に添え付けられた箱に流し込まれる。

箱は、人力に寄って、鉄柱を昇っていく。

簡易昇降機だ。

上が待ち構えている作業員が、箱からコンクリートを流し込んでいく。

重機と呼ぶほどの規模ではないが、かなり便利な代物だ。

小さな建築物なら、この道具で充分だろう。


以前、この程度の現場は人海戦術だった。

写真を御覧下さい。

流れ作業2.jpg

1990年頃の写真です。

何度も紹介している写真なので、ご存知方も多いかもしれませんね。

バケツリレーで、コンクリートを流しています。

プンゴセカン村のガソリンスタンド近くの建築現場です。

男性に混じって働く、婦人の姿がタクマしい。

簡易昇降機は普及していないのか、ところによっては今でもこの風景が見られる。

働き者の婦人たちのアルバイトは減ってしまうが、簡易昇降機の普及は必要だろう。


ウブドも大きな建築物が増えている。

近年、写真のような重機で流し込んでいるのを見かける。

コンクリート・ドレーン機とでも呼ぶのか?

生コン2.jpg

プンゴセカン通りの「カキアン・ベーカリー」前の現場だったと記憶しています。

渋滞回避のため、コンクリートミキサー車が出動するのは深夜のことが多い。

こんな風景も、ウブドが都会になってきたと実感する要因だ。


話を冒頭に戻す。

ルドラクシャと同時に、落ち葉も減った。

これが雨季と乾季の変わり目なのだろうか?

だとしたら、大きな発見だ。

落ち葉を熊手でかき集めながら、ルドラクシャを拾うという楽しい日課が奪われた。

さて次は、何して時間をつぶそうか。


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2016年07月02日

クレープの店「ル・ムーラン」(69)

私的には、丸くて薄い皮に砂糖をまぶして、扇状にたたんだのがクレープと認識している。

皮の材料は知らない。

生まれて始めて口にしたクレープは、フランスはパリのカルチェラタンでの立ち食いだった。

20歳の時だから、49年も前の話だ。

1969年に出発した節約旅行の途中、パリで6ヶ月間アルバイト生活を送った。

バリではあり、パリです。

今でも鮮明に記憶している。

田舎もんの私には、縁の薄い食味だった。

テークアウト専門の小さなクレープ店前に、できている行列の最後部についた。

前に並ぶのはフランス人だろう。

地元のパリジャン&パリジェンヌかもしれない。

客は、クレープ手にすると歩きながら頬張り始める。

歩きながら食べることを「行儀が悪い」と教えられた私には抵抗がある。

が、食べながら歩く姿はオシャレに映った。

私も歩きながら食べることにした。

生まれて初めて手にしたクレープは、扇状にたたまれて白い薄紙に包まれていた。

ザラメ砂糖が包まれた肉厚の薄いクリーム色のクレープは、甘かった。

その時、インプットされた味が未だに忘れられないでいる。

他にも種類はあったと思うが、フランス語の話せない私が、どうやって注文したかも覚えていない。


その後の日本滞在20年間、そしてバリ滞在25年間にクレープを食する機会はみつけれなかった。

バリ南部に出向けば食べられただろうが、それは面倒だった。

1990年代、ウブドではパンケーキ(ホットケーキ)が主流だった。

ロスメン(宿)の朝食メニューにも含まれている。

アイスクリームが珍しかったウブド。

冷蔵庫が無い、あったとしても頻繁に訪れる停電では、アイスクリームは保存できない。

王宮関係のレストランで、辛うじて食べられた。

当時、パンケーキの上にアイスクリームをのせたメニューは、私の大好物だった。


2015年のコロンビア・サレント滞在中に、軽いカルチャーショックを受ける。

無知とは恐ろしい。
「クレーパー・コー(CREPERS CO)」という店に入った時のこと。

クレーパーは、クレープのことだと思う。

店名にクレーパーとつけているくらいだから、クレープ専門店だろう。

クレープは、スイート系のお菓子と認識している私。

だから、食後のデザート的役目。

この日は、3時のオヤツに入店した。

たくさんの種類から一つを選ぶ。

私のイメージとはかけ離れた、まさかのクレープが運ばれて来た。

それは、15センチ角・厚み3センチのオムレツのようだった。

ボリュームのあるクレープは、食事だ。

縁日で買い食いするお好み焼きの感覚クレープを、ホークとナイフで食べる。

これはクレープ発祥地フランスとは違う南米独自の文化か?

思いもしなかった展開に、ショックを受けた。

その時の話は、WiFi ポイント・その壱「CREPERS CO」(42)をお読みください。


昨年(2015年)夏、ウブドにクレープ専門店がオープンした。

Le-Moulin1.jpg

名前は「Le Moulin」。

場所は、プンゴセカンは「ママミーア」の斜め前、メキシコ料理店「タコ・カサ」の並び。

フランス人のオーナー&シェフ。

早くも、人気店になっている。

一年が経過し、店も落ちついたことだろう、と覗いてみた。

クレープはスイート系のデザートだと思っていたら、甘いお菓子系のクレープ・シュクレ(Crepes sucrees=砂糖のクレープ)以外に、軽食系のクレープ・サル(Crepes salees=塩のクレープ)があった。

チョコレートのかかったクレープを、ホークとナイフを使って食べた。

これは誰もが知る文化だ。

コロンビアに行く前に知っていたら、困惑することもなったろうに。

本格的クレープの食べられる店がウブドに出店したことに驚いている。

これは近代化の証だろう。

(資料提供・南国うまうま日記&イブウブ子@バリ島奮闘記)


Le-Moulin2.jpg

Le-Moulin3.jpg


★食事:クレープ・シュクレRp35,000〜/クレープ・サルRp45,000〜/etc

★飲物:コーヒーRp20,000〜/紅茶Rp22,000〜/ジュース各種Rp35,000-/ビンタンビール大Rp35,000-小Rp24,000-/etc


詳しくは、次のブログを御覧下さい。

※南国うまうま日記/バリ島ウブドの生活:「ウブドにできた!クレープのお店・ル・ムーラン(Le Moulin)

※イブウブ子@バリ島奮闘記:「イケメンフレンチが作るクレープ屋さん@le moulin


posted by ito-san at 23:38| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月27日

ガヤトリ・マントラ(68)

このところ平穏な日々が続いている。

慌ただしくもなく、暇すぎるわけでもない。

知人が持ってきてくれたガヤトリ・マントラ(GAYATHRI MANTRA)を聴きながら、ルドラクシャのブレスレットを作る平穏な毎日。

ガヤトリ・マントラは、ヒンドゥー教の真言。

女性の透き通る声が、耳朶に心地よい。

知人は、詩歌訳もプリントしてくれていた。

こんな内容でした。

(ガヤトリ・マントラ、日本語訳、インドネシア語訳の順です)

(1) Om(オーム)

至高の神よ

Om,

(2) Bhur(ブール) Bhuvah(ブヴァッ) Suvaha(スヴァハ)

地、空、天界

adalah Bhur Bhuvah Swah .

(3) Tat(タット) Savitur(サヴィトゥル) Vareniyam(ヴァレーンニャム)

私たちの聖なる母よ、その輝きは、私たちの心にある暗闇を滅します.

kita pusatkan pikiran pada kecemerlangan dan

(4) Bhargo(バルゴー) Devasya(デーヴァッスヤ) Dheemahi(ディーマヒ)

私たちは、その聖なる輝きに瞑想します.

kemuliaan Sang Hayang Widhi

(5) Dhiyo (ディヨー)Yo(ヨー) Nah(ナッ) Prachodayath(プラチョーダヤート)

私たちの内なる知性を目覚めさせたまえ.

semoga diberikan semangat pikiran kita .


このガヤトリ・マントラを唱える時、神を描写し(1〜3)、瞑想し(4)、祈願する(5)、という3つの意念が込められている。

一日3回唱えることが定められています。

3回とはすなわち、朝と昼と夕方です。

朝は夜明け、昼は正午、夕方は日没と解釈しています。

時間の節目で、霊力が強いと言われる瞬間。

早朝はできないので、正午か日没に唱えるようにしている。

敬虔なヒンドゥー教徒というわけじゃないので、時間厳守ではない。

インドのマントラでは、上記の詩歌を延々と繰り返す。

延々は、108回と聞く。

では、皆さんご唱和ください。


バリのマントラは、6番まである。

1番は同じ詩歌(スペルの違いはある)。

テレビなどで、朝・昼・夕とお坊さんの唱える、のんびりしたマントラが流れる。

Om, Om, Omで始まり、Om Santih, Santih, Santih Omで終わる。

意味は理解できないが、心が浄化されるように気持ちになる。

オダラン(寺院祭礼)で、マントラを唱えながらお祈りできる日を夢見ながら聴いている。

あくまでも夢。

バリのマントラを覚えるのは無理だ。

バリ人の瞑想好きな知人は「Om Bhur Bhuvah Suvaha」を三回唱えるだけでもいいよ、と教えてくれた。

究極の短縮マントラだ。

これなら、今でもできる。

まずは、1番だけでも詠えるように努力しています。



posted by ito-san at 18:57| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする