2018年04月17日

バリ滞在28年初のバイク衝突事故!(194)

夕食は、いつも「和食・影武者」でとる。

8時45分に部屋を出て、バイクを走らせる。

9時頃に坂田さんを、プンゴセカンで拾ったあと影武者に向かう。

これが私のルーティンワーク。

ルーティンワークが突然、切断されることがある。

今回は、バイク事故によって切断された。

「親子三代、バリにて3年ぶりの再会!」を果たして有頂天だったその一週間後。

まさかのトラブルに巻き込まれる。

一変して、イタイイタイ地獄に突き落とされた。

運命に分かれ道って、あるんだね。

ブログの更新がされていないので、何があったかと? 心配をしている方も多いことと考え、事故の報告することにしました。


事故は、4日午後8時40分に起こった。

テガランタン村を出て、タマン村に入ったあたりで道が急に狭くなる箇所がある。

対向車線から、欧米人女性が運転するバイクが私に向かってきた。

私の走る反対車線に侵入してきたのだ。

まさに向かってきたという感じ。

その瞬間に激突。

全身に激痛が走る。

一瞬、記憶が飛ぶ。

私は横転したバイクの後ろに、上半身をおろした姿勢で座っていた。

ぶつかってきたバイクは、後方で横転していた。

これが事故の現状だ。

動転している頭を鎮めるために、軽く深呼吸をした。

激痛が過ぎ去るのを待つ。

ゆっくりと立ち上がる。

バイクを持ち上げる気力はない。

エンジンを切った。

数名の男性がワラワラと現れ、その一人が私のバイクを運んでくれる。

私はバイクの後ろについて歩いた。

ここは海外、バイクが盗難されないとは限らない。

事故現場で置き引きに会うこともあるので、要注意。

他人を信用しない体質ができてしまっている自分に、驚く。

近くのヴィラの駐車場に、バイクを止めた。

ヴィラの男性スタッフが、ここに座りないと進めてくれる。

私のリュックを応接椅子に乗せ、ヘルメットを預かってくれた。

「吐き気はしないか?」「めまいはしないか?」と聞いてくる。

そんな症状もなく、意識はしっかりしているので「大丈夫!」と答えた。

スボンを汚すほど、右手から出血している。

ロビーを汚すわけにいかないので、道路に面したテラスに腰を下ろした。

ボカシを塗り、したたり落ちる血を抑えるために、愛用の日本手拭いで縛る。

このあと、どうするかを考える。

病院へ行くべきか。

できれば、このままルーティンワークを続けたい。

とりあえず大原さんに電話をして事故ったことを伝え、坂田さんを影武者に送ったあと事故現場に来てもらうように頼んだ。

この時になって、相手の事故車のことが気にかかった。

彼女は、大丈夫だっただだろうか。

道が狭くなったあたりは道が湾曲していて、ぶつかってきたバイクの姿は見えない。

無免許だったので逃げたのかもしれない。

私は、高額で買った5年有効の免許証を持っている。

運転免許証取得で、もう安心!(179)

ワラワラと現れた男たちに聞くと「どこかへ行ちゃった!」と答えた。

軽いゲガだったからいいが。

スタッフがミネラルウォーターを持ってきてくれた。

傷を洗えと、もう一本持ってきてくれた。

赤チンも用意してくれた。

心から親切なスタッフなんだな、と感じる。

事故の瞬間を、思い起こしてみる。

あの時、もう少し私が左に避けていればよかった。

もっとゆっくり走っていれば避けられたかもしれない。

「もし」が無いのはわかっている。

自分がどんなに安全運転していても、相手が暴走してきては避けられない。

事故は、右手の軽傷ですんだ。

介護の必要な怪我では困る。

独り者では、どうしようもない。

中途半端な怪我なら一層のこと死んだほうがまし、などと絶望的なことを考えてしまう。

今後、事故が起こらないとも限らない。

うずくまって痛みに耐えているところ、大原さんが駆けつけてくれた。

事故の説明をする。

まずは、この場を移動しよう。

ワラワラと現れた男たちは、いつのまにかいなくなっていた。


バイクは動いた。

9時30分、自分で運転して影武者に向かう。

いつもの大テーブルに到着したが、心は落ち着かない。

アドレナリンが高くなっているのか、このくらいの怪我なら病院に行かなくてもいいかと考えている。

破傷風になる心配があるので、しっかり消毒してもらったほうがいい、みんなに言われる。

とりあえずは、近くの救急病院に行くことにした。

大原さんのバイクに後ろに乗った。

10時、トヤ・クリニックで、診てもらう。

容赦なく傷口を洗う。

しっかり消毒したあと「マスの病院に行ってください」と言われる。

そちらの先生に手術するかを決めてもらうのだそうだ。

海外保険に入っていれば、外国人専門の病院に行くんだが、あいにく私は入っていない。

10時30分、マスの救急病院に到着。

病棟にて診察を受ける。

付き添いで来たことはあるが、自分が訪れるのはバリ滞在初の経験。

痛がり屋、怖がり屋は、病院が苦手だ。

できれば、早急に済ませて帰りたい。

応急措置を受け、レントゲンを撮り、各種の検査をした。

ジィ〜と痛みを我慢。

切り傷以外に甲の細い骨が折れている。

手術をすることになった。

保険に加入していないし、外国人ということで手術代は高額だ。

高齢者ビザが、デスカウントの対象になった。

宿泊代諸々の見積もり交渉に疲れたので、「和食・影武者」に由美さんに電話を変わってもらった。

00時過ぎ、悟さんが心配して駆けつけてくれた。

アパ?のワヤン君も駆けつけてくれた。

心強い。

ワヤン君は、手術が終わるまで病院に待機してくれていた。

病院内をストレッチャーでグルグル回って運ばれる。

待っている間、身体全体をハンマーで殴られたようなドスンとした痛みと戦う。

時々、激痛が走る。

5日朝6時、車椅子に乗って手術室に向かう。

生まれて初めて車椅子目線を体験。

手術準備室でストレッチャーに移動。

ストレッチャーが手術室に運ばれた。

振り返って見た壁掛けの時計は、6時10分を指していた。

着衣を外して大の字になると、寒気で震えた。

ドクターに「寒いです」と伝えると、「そうですね」と答えてくれたのを覚えている。

全身麻酔か?

目が覚める8時まで、気がつかなかった。

病室.jpg

午後4時食事。

病室食.jpg

午後6時退院。

アパ?のワヤン君は、ず〜と病院に待機していてくれた。

退院は由美さんの助けを借りて車で、テガランタンの下宿に送ってもらった。


ルーティンワークは、今日で13日間ほど切断されている。

自己診断では、傷は全治1ヶ月と自己診断した。

縫合は、20針。

主治医には、バイクが乗れるようになるには2ヶ月はかかる、と宣言された。

まだまだ、不便な生活を強いられるそうだ。


posted by ito-san at 16:05| Comment(2) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バリ滞在28年初のバイク衝突事故!(194)

夕食は、いつも「和食・影武者」でとる。

8時45分に部屋を出て、バイクを走らせる。

9時頃に坂田さんを、プンゴセカンで拾ったあと影武者に向かう。

これが私のルーティンワーク。

ルーティンワークが突然、切断されることがある。

今回は、バイク事故によって切断された。

「親子三代、バリにて3年ぶりの再会!」を果たして有頂天だったその一週間後。

まさかのトラブルに巻き込まれる。

一変して、イタイイタイ地獄に突き落とされた。

運命に分かれ道って、あるんだね。

ブログの更新がされていないので、何があったかと? 心配をしている方も多いことと考え、事故の報告することにしました。


事故は、4日午後8時40分に起こった。

テガランタン村を出て、タマン村に入ったあたりで道が急に狭くなる箇所がある。

対向車線から、欧米人女性が運転するバイクが私に向かってきた。

私の走る反対車線に侵入してきたのだ。

まさに向かってきたという感じ。

その瞬間に激突。

全身に激痛が走る。

一瞬、記憶が飛ぶ。

私は横転したバイクの後ろに、上半身をおろした姿勢で座っていた。

ぶつかってきたバイクは、後方で横転していた。

これが事故の現状だ。

動転している頭を鎮めるために、軽く深呼吸をした。

激痛が過ぎ去るのを待つ。

ゆっくりと立ち上がる。

バイクを持ち上げる気力はない。

エンジンを切った。

数名の男性がワラワラと現れ、その一人が私のバイクを運んでくれる。

私はバイクの後ろについて歩いた。

ここは海外、バイクが盗難されないとは限らない。

事故現場で置き引きに会うこともあるので、要注意。

他人を信用しない体質ができてしまっている自分に、驚く。

近くのヴィラの駐車場に、バイクを止めた。

ヴィラの男性スタッフが、ここに座りないと進めてくれる。

私のリュックを応接椅子に乗せ、ヘルメットを預かってくれた。

「吐き気はしないか?」「めまいはしないか?」と聞いてくる。

そんな症状もなく、意識はしっかりしているので「大丈夫!」と答えた。

スボンを汚すほど、右手から出血している。

ロビーを汚すわけにいかないので、道路に面したテラスに腰を下ろした。

ボカシを塗り、したたり落ちる血を抑えるために、愛用の日本手拭いで縛る。

このあと、どうするかを考える。

病院へ行くべきか。

できれば、このままルーティンワークを続けたい。

とりあえず大原さんに電話をして事故ったことを伝え、坂田さんを影武者に送ったあと事故現場に来てもらうように頼んだ。

この時になって、相手の事故車のことが気にかかった。

彼女は、大丈夫だっただだろうか。

道が狭くなったあたりは道が湾曲していて、ぶつかってきたバイクの姿は見えない。

無免許だったので逃げたのかもしれない。

私は、高額で買った5年有効の免許証を持っている。

運転免許証取得で、もう安心!(179)

ワラワラと現れた男たちに聞くと「どこかへ行ちゃった!」と答えた。

軽いゲガだったからいいが。

スタッフがミネラルウォーターを持ってきてくれた。

傷を洗えと、もう一本持ってきてくれた。

赤チンも用意してくれた。

心から親切なスタッフなんだな、と感じる。

事故の瞬間を、思い起こしてみる。

あの時、もう少し私が左に避けていればよかった。

もっとゆっくり走っていれば避けられたかもしれない。

「もし」が無いのはわかっている。

自分がどんなに安全運転していても、相手が暴走してきては避けられない。

事故は、右手の軽傷ですんだ。

介護の必要な怪我では困る。

独り者では、どうしようもない。

中途半端な怪我なら一層のこと死んだほうがまし、などと絶望的なことを考えてしまう。

今後、事故が起こらないとも限らない。

うずくまって痛みに耐えているところ、大原さんが駆けつけてくれた。

事故の説明をする。

まずは、この場を移動しよう。

ワラワラと現れた男たちは、いつのまにかいなくなっていた。


バイクは動いた。

9時30分、自分で運転して影武者に向かう。

いつもの大テーブルに到着したが、心は落ち着かない。

アドレナリンが高くなっているのか、このくらいの怪我なら病院に行かなくてもいいかと考えている。

破傷風になる心配があるので、しっかり消毒してもらったほうがいい、みんなに言われる。

とりあえずは、近くの救急病院に行くことにした。

大原さんのバイクに後ろに乗った。

10時、トヤ・クリニックで、診てもらう。

容赦なく傷口を洗う。

しっかり消毒したあと「マスの病院に行ってください」と言われる。

そちらの先生に手術するかを決めてもらうのだそうだ。

海外保険に入っていれば、外国人専門の病院に行くんだが、あいにく私は入っていない。

10時30分、マスの救急病院に到着。

病棟にて診察を受ける。

付き添いで来たことはあるが、自分が訪れるのはバリ滞在初の経験。

痛がり屋、怖がり屋は、病院が苦手だ。

できれば、早急に済ませて帰りたい。

応急措置を受け、レントゲンを撮り、各種の検査をした。

ジィ〜と痛みを我慢。

切り傷以外に甲の細い骨が折れている。

手術をすることになった。

保険に加入していないし、外国人ということで手術代は高額だ。

高齢者ビザが、デスカウントの対象になった。

宿泊代諸々の見積もり交渉に疲れたので、「和食・影武者」に由美さんに電話を変わってもらった。

00時過ぎ、悟さんが心配して駆けつけてくれた。

アパ?のワヤン君も駆けつけてくれた。

心強い。

ワヤン君は、手術が終わるまで病院に待機してくれていた。

病院内をストレッチャーでグルグル回って運ばれる。

待っている間、身体全体をハンマーで殴られたようなドスンとした痛みと戦う。

時々、激痛が走る。

5日朝6時、車椅子に乗って手術室に向かう。

生まれて初めて車椅子目線を体験。

手術準備室でストレッチャーに移動。

ストレッチャーが手術室に運ばれた。

振り返って見た壁掛けの時計は、6時10分を指していた。

着衣を外して大の字になると、寒気で震えた。

ドクターに「寒いです」と伝えると、「そうですね」と答えてくれたのを覚えている。

全身麻酔か?

目が覚める8時まで、気がつかなかった。

http://itosan-ubud.up.seesaa.net/image/E79785E5AEA4-874a1-thumbnail2.jpg

午後4時食事。

http://itosan-ubud.up.seesaa.net/image/E79785E999A2E9A39F-thumbnail2.jpg

午後6時退院。

アパ?のワヤン君は、ず〜と病院に待機していてくれた。

退院は由美さんの助けを借りて車で、テガランタンの下宿に送ってもらった。


ルーティンワークは、今日で13日間ほど切断されている。

自己診断では、傷は全治1ヶ月と自己診断した。

縫合は、20針。

主治医には、バイクが乗れるようになるには2ヶ月はかかる、と宣言された。

まだまだ、不便な生活を強いられるそうだ。


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2018年04月01日

親子三代、バリにて3年ぶりの再会!(193)

3月25日の早朝、インスタグラムにメッセージが届いた。

『お父さんへ

急ではありますが、洋祐さんとそらがバリに行きます!

3月27日(火)の13:30にセントレアを出発し、28日の0:30にバリに到着でチケットをとりました!

中国上海航空5029の上海からです。

できましたら、28日の0:30に、お迎えをお願いしたいそうです。』

我が息子・洋祐の奥様ゆみなさんからメールだ。

家族の動向は、日々、ゆみなさんのインスタグラムで受信している。

2月には、メッセージに近況報告と家族写真が送られてきた。

その時に、バリ訪問の報告はなかった。

2日後に出発するのだから、急に決まったことなのだろう。

洋祐の家族は豊田市に住んでいて、25年ぶりに日本帰国した2014年が家族と初の対面をした。

次の年、コロンビアへ旅発つ前(2015年2月)にも立ち寄った。

その時に、長女きこちゃんが誕生している。

6ヶ月滞在したコロンビアからバリへの帰路(2015年10月)にも、豊田に立ち寄っている。

洋祐と初孫の長男そら君のバリ訪問プランが持ち上がったのは、その時だ。

そら君、8歳の小学校3年生。

洋祐が初の海外旅行に行った時と同じ年だ。

学校を休ませて、上海と北京、万里の長城に連れて行った。

楽しくなかったのか「お父さんが行きたかったのでしょう」と、図星を突かれた。

トラウマになった、事件でもあるのか?

それでも、自分と同じ年齢で、息子を海外へ連れて行きたかったようだ。

すでにパスポートを取得していたが、そら君の友達作りを優先して、渡バリを諦めた。

その後、まったく音沙汰がないので、バリ訪問プランは忘れ去られたかと思っていた。

いきなりの訪問宣言だ。

そら君は、10歳の5年生になっている。

半信半疑だが、会いに来てくれるのは飛び上がるほど嬉しい。

何度も読み直して、

『了解です。楽しみだ』と、返信した。


返信の返信。

『ようちゃんが、「父さんに会うのをめちゃくちゃ楽しみにしているよー」と伝言です。

さかたさんへもお伝えください。

そらも初めての海外でドキドキそわそわしています。

そらが象に乗ったり、ケチャを見たり、ベベブンギルのケーキを食べたりしたいそうです。』


3月28日:

01:00:空港で3年ぶりの再会(到着ゲートから出て来る姿を撮ったつもりだったが、動画は写っていなかった)

02:00:坂田邸泊

09.30:朝食「カキアン・ベーカリー」 with坂田さん

11.00:流木拾い(プルナマ海岸)の手伝い・ワルンでお茶=そら君初めて現地でインドネシア語「ブラパ?」を使う。

14.30:「BALI ZOO」

Sora2018.jpg

15.00:父子で象に乗る



17.00:坂田邸に戻る・昼食「ジャワ・ティムール」

19.30:ケチャ(タマン村)

20.40:そら君が「指差しインドネシア語」著者・コテツちゃんにサインをもらうため「和るん・あんかさ」立ち寄ったが不在。

:ラーメンを食して帰る

21.30:「和食・影武者」

:コテツちゃんが影武者に駆けつけてくれた。そら君緊張気味。


3月29日:

00.00:伊藤邸泊

: タイル床にマットを敷いて、真ん中にそら君を挟んで親子三代、川の字になって寝た。

10.00:洋祐とそら君はウブドまで散歩・どこかでナシ・チャンプールを食べてきたようだ。

13.00:パチュン家でバイクを借りる

14.00:キンタマーニ高原 byバイク「キンタマーニ・コーヒー」

:街道でマンゴスチンを購入

16.00:洋祐とそら君、市場で買い物・マリンバをRp20万からRp6万に値切って購入。

17.00:伊藤邸に戻る・おばけゲーム&荷造り

19.30:夕食「ワルン・マンガマドゥ」&おばけゲームの続き

21.00:「和食・影武者」

22.30:ウブド発

23.30:空港着・お別れ


密度の濃い46時間30分でした。

「レストラン・ベベ・ブンギル」のココナッツ・クリーム・パイは、次回の楽しみにとっておくことになった。

そら君は、どんな思い出を秘めて帰ったのかな?

お土産を買ってあげれないし、小遣いもあげられない、甲斐性のないおじいちゃんでゴメンね。

機会を見つけて、また遊びに来てください。

posted by ito-san at 18:05| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月27日

念願のタンブリンガン湖に到着!(192)

2月の3日と9日に挑戦したタンブリンガン湖訪問。

その話は「レケレケ(LekeLeke)の滝 @Tabanan」「湖道沿いに、インスタ映えする造形物群」に書いた。

どちらも、雨にたたられて果たせなかった。


雨季も終わりに近づいた感のある3月20日、タンブリンガン湖訪問に3度目の挑戦。

なぜここまで、こだわるのか?

それは、数々の楽しい思い出があるからです。

カメラマンの渡部 赫(ガク)さんに連れられて訪れたのが最初。

記憶が曖昧だが、1995年だったと思う。

「行ってからのお楽しみ!」と赫さんは、目的地の詳細を明らかにしなかった。

道は下り坂になった。

赫さんの運転する車は、森に向かって続く悪路を直進する。

前方の森が、徐々に開けてきた。

小さく湖面が見える。

突然、目の前に全貌が現れた。

四方を丘に囲まれた小さな湖は、静寂に包まれ、美しい風景を作り出していた。

思いがけない景観に、同乗していた知人たちが感嘆の声をあげる。

湖畔に、ひっそりと佇むグブン寺院(Pura Gubung)の姿もいい。

赫(ガク)さん、とっておきを紹介してくれたのだ。

"バリ島「楽園紀行」(1996年3月25日・発行)"の取材も兼ねていた時期だった。

原生林トレッキング・コースがあるのを知って出かけたのが、1996年。

その時の話は「http://www.potomak.com/bali/ubud/vol-17.pdf極楽通信UBUD・Vol.17・原生林を訪ねて(黄昏野ラーダー) P12~13」に書いた。

当時の恋人と、グブン寺院のオダランに訪れたこともある。

1997年には、友人たちとカヤックをした。

http://www.potomak.com/bali/ubud/vol-21.pdf極楽通信UBUD・Vol.21・カヤック(黄昏野ラーダーとあぶない探検隊) P12~13」

思い出深い、場所だ。

4年ほどまえから湖の水かさがあがり始め、グブン寺院と湖畔の村が水没したと聞いて、気になっていた。

原生林のトレッキングもできなくなったのか、それも確認したい。


インスタグラム・スポットに目もくれず、一路タンブリンガン湖に向かう。

愛バイクのホンダ・スクピーも各所点検済みで順調な走行。

滝巡りは帰路にしようと決めている。

タンブリンガン湖を左手に見ながら、外輪山の峰道を進む。

すばらく進むと、視界から湖が見えなくなる。

今回も湖畔行きの道が見つからない。

かなりの距離を走っているし、景色に記憶がない。

ムンドゥック村の表示がやたらに見えはじめる。

通り過ぎたということだ。

ムンドゥック村は、オランダ統治時代に高官の別荘があったところを聞いている。

山奥の村だが、今でも、避暑地として欧米人ツーリストに人気があり、宿泊施設も多い。

途中で見かけた、タンブリンガンの案内板が正しかったようだ。

引き返す途中にあるレストラン「Ngiring-Ngewadang=ンィリン・ンウエダン」で昼食をとる。

バリ語の丁寧語で「コーヒーを飲みましょう」という意味らしい。

末尾に動画を掲載したので、あとで見てください。

案内板の示す方角に進む。

道は、湖を右から回り込むようにしてあった。

進むうちに、思い出される風景が現れてきた。

このまま真っ直ぐに行けばいい。

タンブリンガン湖の湖面が見えた。

大勢の釣り人の姿が見える。

情報通り、グブン寺院は水没していた。

バイクを止めて、唖然と見つめる。

Pr.Gubung1.jpg



右にある湖面沿いの道は、森に続く。

以前、原生林トレッキング・コースの入り口があった方向だ。

バイクで森の中に向かう。

道が途中で水没している。

これ以上進めないものかと左右を見回すと、林の中にバイクの轍が見えた。

もう少し進んでみようと、林に入ってみた。

道は、落ち葉でぬかるんでいる。

私のバイクテクニックでは、これ以上進めない。

道端にバイクを止めて、歩くことにした。

カヌーを係留している小屋が見えた。

4人の婦人がたむろしている。

小屋は、ワルンかもしれない。

ワルンならコピ・バリが飲めるだろう。

タンブリンガン湖の訪問を果たしたことだし、ここらで小休止したい。

一番年かさの婦人に「コピ・バリある?」と聞いてみた。

4人の婦人が一斉に「あるよ!」と答えてくれた。

しかし、小屋を覗くと、そこは荷物置き場だった。

ここはワルンじゃない。

年かさの婦人が、グラスを取り出してコピ・バリの用意をしている。

「どこから来た?」「どこに住んでる?」「いつまでいる?」etc

久しぶりの質問攻撃。

話しているうち、婦人たちがトレッキングのツアー客の帰路をカヌーで迎えに行く要員なのを知った。

原生林のトレッキングは、村人の手によって存続していた。

カヌーで湖面遊覧30分:Rp200,000-(1〜4名まで)

ジャングルトレッキング+カヌー(2時間):Rp350,000-(1〜4名まで)

これに入村料:一グループRp100,000-がプラスされる。

コーヒー代を払おうとすると、受け取らなかった。

次回、トレッキングに来ることを約束して、小屋を後にした。


行き過ぎて見つけたレストラン「Ngiring-Ngewadang」




posted by ito-san at 16:54| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月19日

ニュピ・サカ暦1940年の正月(191)

バリ人の信仰するヒンドゥー・ダルマ。

その信仰をつかさどるに重要なのが、古くから伝わる2つの暦。

サカ暦ウク暦

2018年3月17日は、サカ暦1940年の正月ニュピだった。

ニュピ前夜は、村々でオゴホゴ神輿が練り歩く。

オゴホゴの行列は、バリ観光の一つにもなっている。

私は昼間にウブド近郊の村々を覗いて、夜のオゴホゴをパスした。


ペネスタナン村のオゴホゴ


マス村のオゴホゴ

今年のニュピ前夜は、多くのレストランが休みか早仕舞いをした。

昨年はそんなことはなかったので、新しく何かが取り決められたのだろう。

ニュピ当日の食材を確保するのに難儀しているのに、前夜の夕食まで心配しなくてはいけなくなった。

通常夕食は9時過ぎなんだが、早仕舞いが多いと聞いて早飯にすることにした。

ほとんどのワルンは閉店している。

レストランも、めぼしい店はすべて休業。

日没が近くなるとオゴホゴが練り歩く。

この時間帯は、各所で道路閉鎖になる。

今年、プリアタン村のオゴホゴがないと聞いていたので、こちら方面のレストランを探すことにした。

まだ時間は6時だが、すでに道路は閑散としている。

アンドン地域で、やっと見つけたレストランに入る。

「VIMALA」飛び込みしては、当たりだった。

帰路、9時を過ぎても閉鎖されている道路があり閉口した。


今年のニュピは、サイレントデーに加えて、インターネットも使用できないという徹底したものだった。

近頃、このサイレントデー=ニュピを経験するために訪れる観光客も増えていると聞く。

ニュピは新月なので、星が綺麗だ。

夕食には「和食・影武者」からカレーのルーをもらっている。

それを温めて食した。

何もすることができないので、1日、ただただ横になっている。

これでは、普段の生活とほとんど変わりない。

薄明かりを灯して、本を読もうと思うが。

あいにくこの日は、サカ暦の祭礼日・サラスワティ(Hari Suci Saraswati)と重なり、読書ができない。

バリ・ヒンドゥー教徒じゃないが、掟は守らないと。

腰が痛くなるほど、横になった。

星を見るのも面倒で、そのまま寝てしまった「ニュピ」。


posted by ito-san at 16:49| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月13日

古都バンリを巡る旅!(190)

10世紀半ばから400年続いたバリ王国=ワルマデワ王朝時代、バトゥール山の山裾にあるこの地は、バリで最も気候のよい領地として王家の避暑地だった。

バンリの名称が使われるようになったのは、ゲルゲル王朝が隆盛を極めていた16世紀なかばのこと。

当時の王が、息子のひとりデワ・グデ・バンチンガンに「北西に進み、赤い森に出たらそこに自分の王国を造るように」と伝えた。

バンチンガンは言われるままに進み「赤い森・bang giri」を見つけて王国を興した。

バンリとは、バン・ギリがなまったものだと言われている。

現在は、バンリ県の県庁所在地。(参照:地球の歩きかた・バリ島)


1995年のこと。

バンリ市内の安宿に宿泊し、市制記念行事や寺院を訪問した。

その時、ダラム寺院のオダラン(寺院祭礼)で知り合ったのがワヤン・バンリ君。

現在彼は、奥様のイブ・アユ・ラクシュミさんと《サティア・サイババ瞑想センター》を主宰している。

瞑想センターでの名前は「Yan Govinda Krisna 」。

夜の境内で、ワヤン・バンリ君は、日本語で話しかけてきた。

「日本語を勉強しています。友達になってくれませんか?」

唐突な、友達申請だ。

滅多に日本人観光客に出会うことがないので、勇気を出して声を掛けたという感じ。

「明日、宿を訪ねます。バンリを案内させてください」

新手のガイド売り込みかもしれないが、それならそれで良い。

熱心に日本語を勉強していることが感じられたし、外見も好感が持てた。

私で役に立てるなら付き合ってみよう。

翌朝、ワヤン・バンリ君は約束通り宿を訪ねてきた。

お薦めの場所を案内してもらうことになった。

・バンリ王宮

・ケヘン寺院(11世紀頃、国寺として、スリ・ブラフマ・クムティ・クトゥによって建立されたと言われている)

・バンリの丘(クヘン寺院北側にある、バンリの街を見下ろすことのできる小高い丘)

・プングリプラン(伝統村)

・ジュヘム村のチャンディ遺跡

・ティルタ・ハルム寺院

・ジャンクリックの丘

・グリアンの丘

これらを2〜3日かけて回ったと記憶している。

その時のコラムを「極楽通信・UBUD」の Vol.8(1995年4月25日発行)「UBUDよろず百科」に掲載した。
http://www.potomak.com/bali/ubud/vol-08.pdf

「BANGLIは今日も雨だった」と、しょうもないタイトルで紹介している。

こちらも、一読ください。

Club Bali・極楽通信UBUD」からダウンロードできます。


この年、「アパ?情報センター」開設を計画中だった私は「仕事をする気ならウブドに来い」と誘った。

こうして、ワヤン・バンリ君は、1995年8月20日設立のメンバーに加わった。

バンリは不思議パワーの強い土地柄で、高名なバリアンが多くいる。

宗教心が篤く瞑想好きな彼には、バンリの寺院巡りとバリアン訪問を担当してもらった。

「バリアン・ツアー」の始まりだ。

ワヤン・バンリ君がアパ?のスタッフに加わったことで、私のバンリ巡りは熱心になった。

バンリ地方に残るトランス儀礼の幾つかを鑑賞することができた。

瞑想スポットも、数々訪問した。

時には、寺院の奉納舞踊に誘ってくれた。


1995年に案内してもらった場所で、忘れられない情景がある。

今月の初め、その幾つかを巡った。

ジュヘム村のチャンディ遺跡は、変わらず静寂の中にあった。

バンリの丘にひっそりと佇む寺院の峰伝いの参道は、記憶通りに苔むしていた。




もっとも印象に残っているのは「ティルタ・ハルム寺院」の風景だ。

バンリ王国時代の王家の避暑地として作られた寺院。

豊富な湧き水をたたえた丘の中腹に、へばりつくようして建っている。

僧侶の読経と落水の音に誘われて、お祈りが心地よかった。

訪れたのは、オダランの真っ最中。

飾り付けも見応えがあった。

もう一度訪れたいと、前々から考えていた。

薄い記憶を頼りに、バイクを走らせた。

ウブドから40分ほどの街道に、案内板があった。

案内板には、550メートルとある。

記録では、350メートルになっている。

長い階段をくだった記憶はある。

川に向こうの崖に、寺院が見える。

清々しい水の音が絶え間なく聞こえる。

往路20分は、思っていたほど大変ではなかった。

境内に入ると、心地良い風が通り過ぎていった。

ちょうど居合わせた村人と一緒に、お祈りすることができた。

念願は叶った。



女僧に別れを告げ、帰路につく。

復路は、ハードだった。

時間的には30分ほどだが、急勾配の登り階段が老体にはキツい。

疲れ果てて沿道に倒れこむ。

その時、横になって撮った動画がこれ。




帰路がなければ、何度も訪れたい寺院なんだがな〜。

できれだ、オダラン時に訪れたい。

オダランの初日は、ウク暦の第九週(JULUNGWAGI)・SELASA (ANGGARA) KLIWON。

今年は、5月15日にあたる。

体力を鍛えて出直してくるか。


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2018年03月06日

ガソリンスタンドで誤魔化された!(189)

インドネシアのガソリン販売は国営・プルタミナ(Pertamina)が、ほぼ独占。

民間としてはシェル石油があるらしいが、バリには進出してない。

ガソリン・スタンドのことは、ポンパ・ベンシン(Pompa bensin)と言う。

ポンパは圧力の作用で液体や気体を吸い上げたり送ったりする機械のことで、ベンシンはガソリン。

バリでは、ガソリンスタンドのことを「ポンパ・ベンシン」または「プルタミナ」と言わないと通じない。

販売店は、プルタミナ直営とフランチャイズがある。

価格は全国同一のはずなんですが・・・運送コストの差で地域によって格差があるようです。

ここでウブドの豆知識。

ウブド地域のポンパ・ベンシン1号店は、1998年のテガス村(マス方面)でした。

ちょうど20年前ですね。

その後、プンゴセカン店、アンドン店が続いて開店する。

ウブドの発展に、加速度がかかった時期ですかね。

ガソリンの種類は、4つある。

1)プレミアム(PREMIUM): 一番安いレギュラーガソリン

2)プルタライト(PERTALITE): 新しく発売されたガソリン

3)プルタマックス(PERTAMAX):レギュラーとハイオクの中間

4)プルタマックス プラス(PERTAMAX PLUS):ハイオク

ウブド・エリアでは、プルタライトとプルタマックスの2種類しか売られていない。

料金は、プルタライトRp7,600-、プルタマックスRp8,900-。

Pertamina1.jpg


そろそろ、本日の本題。

この頃、ポンパ・ベンシンで誤魔化されたという話をよく聞く。

どうやら、注文よりガソリンが少ないことがあるらしい。

バイクでポンパ・ベンシンに立ち寄ります。

プルタライトかプルタマックスの販売機の前でバイクを止める。

シートをあげて、タンクの蓋を開ける。

そうバリでは、ここまでは自分でします。

先客のいる時は、その状態で後列に並んで待つ。

行列ができている場合もある。

自分の番が来たら、注文。

この時、リッターで頼むか、金額で頼むかを決めます。

満タンとお願いしたりリッターで頼むと、釣り銭が小銭になる可能性がある。

それが面倒なので、Rp1万、Rp1.5万、Rp2万の金額で頼む。

Rp2万の場合なら「ドゥアプルリブ(20,000)」と言うだけでいい。

ポンパ・ベンシンのスタッフが、販売機の左にある4×4のボタンで、金額を打ち込みます。

そして、ノズルをタンクに差し込み給油する。

金額に達すると、給油は自動的に停止する。

支払いを済ませ、タンクの蓋を閉め、シートを下ろして出発です。

これが、給油の一連の流れです。

バイクを走らせてから、ガソリンメーターの針が上がらないのに気づくというパターン。

やられた!と気がついた時には、もう遅い。

まだ、こんなことが続いているのか、という感想ですね。


Pertamina2.jpg

ガソリンの購入時の注意事項です。

「ドゥアプルリブ(20,000)」と注文すると、スタッフが販売機に金額を打ち込みます。

その時、右側一番上の窓のメーターがゼロであることを確認する。

前の人の金額が残っている場合があるので、注意だそうです。

販売機のメカニックがどうなっているのかは知らないので、説明できませんが。

給油する前に、ポンプの数字が「ゼロですね」と確認を入れる地域もあるくらいだから、もめる原因になっているのでしょうね。

一番大切なことは、注文した金額がデジタル表示されるのを確認することです。

これをすれば、誤魔化されることはありません。

真ん中の窓は、リーター表示。

一番下の窓に、プルタマックスの価格=8,900の数字が見えます。

Rp1万、Rp1.5万の給油では悪さしづらいとみえて、被害にあうのはRp2万が多い。

Rp2万の注文で、Rp1万を抜くんだから大胆な行動だ。

車だと、Rp20万〜Rp30万の給油だから大きく抜かれるぞ。

給油の流れは同じです、ご注意ください。

まさかと思っているので、タンクの中を覗かずに蓋を閉める。

覗いたとしても、あとのまつり。

「少ないじゃない、これでRp2万?」とクレームをつけても、「そうだ」ととぼけられたら、どうすることもできない。


被害を受けるのは外国人と決まっている。

Rp1万は、3月5日のレート(129.25)だと約77円だ。

ツーリストが警察沙汰にしないのをいいことに、つけアガっているのかな。

店全体で悪さをするのではなく、一部の輩の悪癖だ。

バリにだって、悪い奴はいる。

人を疑うのは気が引けるが、嫌な思いをしたくはない。

嫌な思いをするくらいなら、事前の確認をシッカリしよう。

こんな説明で理解できたかな。

復習します。

販売機の表示がゼロをあることを確認すること。

金額が正しく打ち込まれるところまでは、見ましょう。

それでは「スラマット・ジャラン! 良い、旅を!」


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2018年03月02日

ドゥリアンの季節っていつ?(188)

ドゥリアン(durian)って知ってますか?

外皮に、マッターホルンような鋭角のトゲ(ドゥリ=duri)が覆っている外見からつけられた名前のようだ。

もちろん知ってますよね。

匂い臭いと敬遠されているあれですよ。

あんなに美味しいのに、臭いからとしいたげられている果物だ。

でも、「果物の王様」とも言われている。

美味しいと言う人と、まずいと言う人とに分かれる。

臭いと言う人と、別に臭くないですよと、言う人に分かれる。

私は、美味しいと思うし、確かに匂いは強烈だが、臭いとは思わない。


イブに、ドリアンと言っても通じない時があった。

辞書でスペリングを調べて見ると「durian」と書かれてある。

英語もスペルは、durian。

もしかすると、発音は「ドゥリアン」ではないだろうか?

次に「ドゥリアン」と発音したら通じた。

それから私は、ドゥリアンと発音するようにしている。

蛇足だが、フランス語でドゥリアン=de rienと発音すると「You're welcome」と言う意味になるようだ。

durian1_1.jpg

外皮は、若いうちは灰緑色で、熟すにつれ赤茶色が強くなってくる。

大きさは1sくらいの物から、大きい物だと大人の頭ほどになる。

我が家の庭で採れるドゥリアンは、小ぶりだ。

スーパーマーケットでは、Rp25,000〜Rp50,000-で売っていると聞いた。

私は、無料で頂ける。

ドゥリアンは雨季に入ると旬になると聞いていて、そう信じていた。

バリの雨季は、11月〜4月。

11月に入っても、ドゥリアンの姿を見ない。

昨年もそうだった。

異常気象で、旬の時期が変わったのか。

2月の後半になって、我が家のドゥリアンが落ちはじめた。

もしかすると、シーズンは、この時期かもしれないと考えた。

ネットを検索してみたらちょっと、バリ島産ドリアンのシーズンは雨季の終わり頃と書かれてある。

ず〜と思い違いをしていたようだ。


落ちてくるドゥリアンは、すでに熟していて美味しい。

美味しさの見分け方はわからないので、今回は、ドゥリアンの割り方を勉強した。

床に叩きつけたり、足で踏んづけても割れるが、それでは大人気ない。

自前の斧を使いました。

写真で見ての通り、ドゥリの密集している箇所がある。

durian2.jpg

小さめのドゥリが密集しているところに斧をいれると、簡単に割れた。

durian3.jpg

いくつかの房に分かれていて、薄皮に包まれたクリーム色果肉が入っている。

durian4.jpg

一箇所割れれば、あとは、簡単に裂ける。

果肉を掴むと、形がくずれるほど柔らかい。

種をおおっている果肉にカブリつく。

生クリームのような柔らかい食感。

うまく表現できませんので、ゴメンなさい。

種を、なめるようにして食べる。

指についた果肉もシャブる。

食べだしたら、やめられない止まらない。

一房まるまる食べられるほどの好物だ。

匂いは、裂いた外皮の房に水を入れて飲むと消えると聞いている。

確かに匂いは消えるようだが、私はそんな無粋なことはしない。

私は、匂いも含めて好物だから。

種は蒸すと、栗のような味になって食べられる。

以前、バリ人の知人が「バリの栗です」と持ってきてくれたのがドゥリアンの種だった。

それ以来、食べていない。

バイクで走っていると、ドゥリアンの独特な匂いが漂ってくる。

街道に、たくさんの出店が並ぶ。

これも南国の風物詩。

ドゥリアンのシーズンは、4月まで続く。

あなたも一度、騙されたと思ってチャレンジしてみてください。

私は日々、ドゥリアンが落ちてくるのを待っている。

posted by ito-san at 17:38| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月25日

バリ人はフライドチキンがお好き!(187)

料理を作れない私は、毎日外食。

夕食は、ガッツリ「和食・影武者」で食べるが、昼食は軽く食べたり食べなかったり。

朝は食べないので、1日1食半といったところ。

この日は小腹が空いていたので、昼食をどこでとろうかと迷っていた。

ウブドは交通渋滞の真っ只中。

おまけに大雨が降っている。

渋滞を避けて脇道に入ると、目の前に「JFC」があった。

JFC1.jpg

「JFC」について、説明する必要があるだろう。

ご存知の「KFC=ケンタッキー・フライドチキン」ではありませんよ。

ローカルのフライド・チキン屋。

豚肉を食べない宗教の人も、牛肉を食べない宗教人も、鶏肉は食するようだ。

バリ人は鶏肉が好きなようで、近頃、フライドチキンの店がやたらに目立つ。

特に目につくのが「JFC=JAYA FRIED CHICKEN」。

小規模店舗で、各地にチェーン店を展開している。

バリ人のオッチャンだとわかるロゴマークが、人目をひく。

レストランのインスタントコーヒー(ネスカフェ)がコピバリより高かったり、インスタント・ラーメンが、ワルンの料理より割高だったりするウブド食事情。

バリ南部にあるファーストフードの店は、現地価格では中級レストラン並み。

その点「JFC」は、味もそこそこ、料金もワルン並みでお手頃。


雨宿りも兼ねて「JFC」に、飛び込んだ。

パケット・メニューの一番左手にある、もっとも安いPajay1を指差した。

「品切れです」だって。

しかたなく、すぐ右隣の写真Pajay2を指差す。

JFC2.jpg

「かしこまりました」と言ったかどうかわからないが、厨房に向かって注文していた。

注文の最後に「IN」と言う英語が続いた。

INと言うのは店内で飲食するということで、OUTと言えばテイクアウトのことだろう。

私はINだ。

しばらく待って、出てきたのがこれ。

JFC3.jpg

まずは、フライドチキンを平らげよう。

もちろんナイフもフォークも使わずに、バリスタイルの指でつまんで食べています。

衣がパリパリとして、歯ごたえ良し。

鶏肉も美味じゃ。

紙に包まれた物、内容も見ずに注文をしているので何かわからない。

きっとハンバーガーだろうと、思い込んでいる。

フライドチキンが食べ終わった。

包みを開けてビックリ。

中味はナシ・プティ(白飯)だった。

JFC4.jpg

バリのKFCでも、フライドチキンと飯のセットが売られていたのを失念していた。

インドネシア・バージョンなのだろう。

バリ人の人気の一品だ。

この日に限って、骨までしゃぶるほど綺麗に食べている。

ナシ・プティだけを食べることは、これまでの人生で初めてかもしれない。

ふりかけがあったらいいのにな〜。

残念なことに、塩のひとつまみもない。

しゃぶりつくした骨を、さらにシャブっている。

アイスティーで、流し込む。

白飯だけを食べる変な日本人と、思われるかな?。

周りを見渡すと、幸いなことに、他にお客がいなかった。

バリ人が見たら「日本人は白飯だけで満足するんだ」とは、思ってくれないだろうな。

写真は、2日後に同じメニューでリベンジした時に撮ったもの。

フライドチキンをおかずに、白飯をジックリ味わってきました。

こんな醜態は、2度と晒さないぞと、誓った日でした。


posted by ito-san at 15:34| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月21日

インスタント・ミーゴレン(186)

名古屋市在住の友人・水野さんから、お土産が届いた。

運び屋は、バリ雑貨「WAMO」の下働き・高木さん。

ゴメン、勝手に私同様の下働きにしてしまって。

水野さんは、私が名古屋に帰ると必ず世話になる旧友のひとり。

届いた土産は、カップヌードル。

中身は「ミーゴレン=Mi Goreng」。

Migoreng.jp.jpg

ミーゴレンはインドネシア料理で、ナシゴレン(焼き飯)と並んで人気の高いひとしな。

ミー(Mi)は麺で、ゴレン(Goreng)は揚げる。

実際には、炒めて作る。

焼きそばと考えていいだろう。

本場バリに、なぜ日本製のミーゴレンを送ってきたか?

この疑問には、高木さんが答えてくれた。

以前、水野さんが来バリした際、世話になったバリ人に「珍しい物を送ってやる」と約束したらしい。

そのお裾分けに、私はありついたわけだ。

ミーゴレンという言葉は、日本で市民権を得ていると言う。

大きなスーパーマーケットで、インスタントのミーゴレンは販売されている。

ラベルには、インドネシア風甘辛焼きそばと書かれていた。

焼きそばは焼きそばだが、日本の焼きそばとは、ちょっと違う。

コピーに「ケチャップマニスと甘みがチリの辛みがクセになる!」とある。

ケチャップマニスって言うことば、消費者にわかるのかな?

日本でケチャップと言えばトマトケチャップのことを指すが、インドネシアでは調理用ソースのこと。

では、マニスは何?

マニスは、インドネシア語で甘いという意味。

直訳すれば、ケチャップマニスは甘いケチャップ。

色は黒で粘性が高いソースです。(参照:ウキペディア)


私は、インスタントラーメンをあまり食べない。

大学生の時に、高校からの同級生と3ヶ月食べ続けたのがいけなかったのだろう。

友人は栄養失調で入院し、私はインスタントラーメンが食べられなくなった。

50年前のインスタントラーメンの話です。

当時のインスタントラーメンと、現在のインスタントラーメンとでは、味の差は格段に進歩したと思う。

これまでにも、様々なインスタントラーメンがお土産として届いたが、今のところ、好きになるほどに味には出会っていない。

一口目はいけるかもと思うのだが、トラウマなのか、今でも完食できない。

ラーメンと焼きそばの違いがあるが、果たして、食べられるか?

水野さんからの、お裾分け。

拒むわけにはいかないだろう。

日本製とインドネシア製の食べ比べ。

開発協力インドネシア日清とある日本製。

インドネシアには、インドミー社を筆頭に、幾つかのメーカーがある。

公正をきして、インドネシアNISSINのミーゴレンを選んだ。

Migoreng.ind.jpg

食べました、日本製。

1日置いて、インドネシア製を。

絶賛できるほどではないが、どちらも食べ残すほど嫌いな味ではなかった。

どちらかというと、メイドイン・インドネシアの方が少々美味しく感じたかな。

日本製88円プラス税。

インドネシア製はUFO・Rp12,000-(Rp25,000-もあったよ)。

値段の格差、これが公正ではなかったのか。

感想としては「不味くはないが好んで食べようとは思わない」でした。

水野さん、ゴメンなさい。

もらっておいて文句を言うのが、ミーの悪いところだ。

いやいや私の悪いミー。

いや麺だ、いや面だ。

あ〜メンどくさい!



posted by ito-san at 02:05| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする