2013年08月31日

合同火葬儀礼(51)

テガランタン村今年最大のイベントは、8月30日に行われた合同火葬儀礼(Ngaben Masal)だろう。

合同火葬儀礼は、ひとつの村で2年〜6年に一度、7月から9月の間に行われる。

テガランタン村は、5年ぶりになる。


村人は、今月(8月)に入ってから相互扶助に駆り出されている。

イブイブ(婦人連)は、毎日、ワンティラン(集会場)で供物作り。

男衆によって、儀礼用建物と簡易小屋が建てられた。

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☆12日から3日間、ワンティラン前で闘鶏が催された。

所場代として徴収された15万円ほどが、儀礼のために使われる。

その金額以上の金額が動き、それなりの金額を負けたテガランタン人がいたということだ。

所場代の入金を増やしたかったのか、単にギャンブルがしたかったのか、3日間の予定は2日延長された。

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☆26日:パチュン君が名簿を片手に、テガランタン村で営業しているホテルや外国人居住者に浄財をお願いして廻っている。

寄付のお返しにポロシャツが配られた。

胸と背中にハーレーのシンボルに似たマークが印刷されている。

私も一枚ゲット。

と言うことは寄付をした証明でもある。

着ずにおいて、帰国した時に友人にプレゼントすることにした。(セコイってか)

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☆27日:遺体のシンボルが儀礼用建物に安置された。シンボルは白檀の木片と聞いている。

埋葬されていた遺体が掘り起こされた。

涙を見せる人がたくさんいた。

知り合いの顔が見える。カルタとアノム夫妻、オカちゃんとラティ夫妻、バンジャール長のセノ、「影武者」のスタッフ達、オカちゃんの弟アノムもいるよ。

「影武者」のスタッフ、グン・バラットが簡易小屋でアノムに介抱されていた。

遺体を掘り起こす作業の途中で倒れたのだ。

神様が降りて来てトランスでもしたのか思っていたが、あとで訊くと、原因は低血圧による貧血だそうだ。

男子専科「ミスター・バリ」のオーナーに、10数年ぶりに再会。

人のことは言えないが、すっかり年老いていた。(写真右)

彼の踊るジョゲッ・ブンブンを見たことがある。しっかり物語になっていたのを思い出す。

ジョゲッ・ブンブンは、女性の踊り娘が観客から相手を誘い出し踊る娯楽舞踊だが、正当で踊れるのはバリ人でも少ない。

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大人の身丈ほどのゴザの包みは、埋められて日が浅い遺体だろう。

長い年月のあいだに土色に変色し湿っている白布に包まれている遺体は、ほとんど骨になっていた。

頭蓋骨が、転がった。

それを見た私の恋人が「キャー!」と叫び、両手で顔を覆った。

もしも、私の好きな人が隣にいたら、きっと、そんなリアクションをしただろうと想像してみた。

恋人欲し〜い!。

遺体は、すぐに火葬された。

合同火葬儀礼当日は、シンボルが燃やされる。

遺灰は、チャンプアンの河原でムラスティ儀礼が行われ流された。

昔は、海まで行くことはまれで、ほとんどがチャンプアンで行われていたそうだ。

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☆28日:ポトン・バビ(豚の屠殺)が行われ、サテが作られた。

食事が、王家、お坊さん、その他、お世話になった方々に配られた。

もちろん、私のところには届かなかった。(残念)

夜、プトゥラガンが簡易小屋に運ばれた。

テガランタン村では、プトゥラガンを作れる人がいないため、アンドン村のプロに外注。

今後、外注することが増えていくことだろう。

獅子=Rp200万、黒い牛=Ro260万、竜=Rp310万。

獅子(シンガ=singa)2体、黒い牛(ルンブ=lembu)3体、竜(ナガ=naga)1体。

遺体は13だが、プトゥラガンは親戚が共有するため6体となった。

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☆29日:ワンティラン前に、男衆がギャンブルに興ずる場がいくつか出来ている。

夜9時、プレンボンが儀礼用建物内で奉納された。

火葬儀礼だということを忘れたかのような笑顔が見える。

途中の雨で、ガムラン隊が屋根のある小屋に移動。

雨が上がり、再演。

ジョゲッ・ブンブンに盛り上がる。

「ミスター・バリ」がいなかったのが残念だ。

深夜12時半には、プダンダを迎えて浄化の儀礼をすると聞いている。

私は明日に備えて、奉納芸能が終わると家路についた。

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30日:合同火葬儀礼・当日。

火葬場は南北に2カ所。称号を持つ階層の家族は北側。

長い長いプロセスがあり、観光客は待ちくたびれて途中で帰ってしまう。

いよいよプトゥラガンに火がつけられる。

その前にまず、記念写真。

なんだか楽しいイベントのようだ。

遺体の入っていないプトゥラガンは、あっけなく燃え落ちた。

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以上は私が見聞した一部、村人は想像できない程の作業をこなしているのだ。

火葬儀礼は、このあともゴア・ラワ寺院、ブサキ寺院、そして家寺の儀礼と続くのであった。

つくづくバリ人は、儀礼に忙しい民族だと実感する。


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2013年08月28日

ワルン・チンタ=Warung Cinta(50)

田んぼの中にある、ローカル・ワルン発見。

テガランタン村を抜けてジュンジュンガン村に入ると、ちまたに評判になっている「NOT FOR SALE」の野立て看板が見える。

ひと月前の7月26日に、看板の前で「Bali Not For Sale」のライブ・イベントが催された。

バリ島出身のインドネシアで人気のロックバンド「S.I.D=Superman Is Dead」も出演した。
詳しくは、「Bali Not For Sale(46)」をお読み頂けると嬉しいです。

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「NOT FOR SALE」を右手に見て、しばらく行くと左手にポツンと質素に建つワルンがある。

店名は「チンタ=CINTA」。

「チンタ」は、インドネシア語で愛情の意味。

ちなみにバリ語では「トルスノ=tresna」と言う。

ついでに「I love You」は、インドネシア語で「Aku cinta Kamu」。

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営業時間は、朝11時から夜9時まで。

私が入店した4時には、スタップが長椅子で横になっていた。

ちょっと太めのお嬢さんが、身体を起こした。

「起こしてゴメンナサイ」

インスタントのミルクコーヒーとガドガドを注文して、写真を撮らせてもらう許可を得る。

しばらくして、欧米人のカップルが入店してパパイヤ・ジュースをオーダーした。

メニューに、ジュースはパパイヤしかなかった。

ディナーの予約をしたところをみると、近くに宿泊しているのだろう。

時間を持て余した風の若者が2人入店してガドガドを注文。

農作業を終えたと思われる老人が、エス・ジュルッ(オレンジ・ジュース)を注文した。

エス・ジュルッは、メニューにのっていない。

お母さんが供物を持って現れ、お祈りをした。

昼下がりのワルンに、田舎の緩慢な時間が流れる。


このあたりは、夜になるとローカル・カップルのデート・スポットになっている。

田んぼに水が張られている時期は、蛍の乱舞が見られるはず。

道端にバイクを止めて、きっと「Aku cinta kamu」なんて言い合っているのだろうな。


家族経営のワルンで、オーナーはジュンジュンガンの村人。

看板娘・リナ(RINA)ちゃんの携帯電話「081-236-512-074」をゲットした。

携帯に電話をして「蛍情報」を訊いてから出掛けてもよし。

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定休日は儀礼祭礼日。

インドネシア料理のワルン。

メーニューのすべてをアップしてみました。

★食事:ガドガドRp11,000-/フーヨンハイRp12,000-/チャプチャイRp15,000-/ナシゴレン&ミーゴレン&ビーフンゴレンRp20,000-/ララパンRp22,000-/チキンカレーRp23,000-/

★飲物:インスタントコーヒー&テ・ボトル&アクアRp5,000-/パパイヤ・ジュースRp10,000-/ビンタンビール大Rp30,000-小Rp20,000-/

(注)メニューはツーリスト価格かもしれない。

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写真は、ガドガドです。


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2013年08月26日

架橋工事の再開(49)

果たして、この橋の開通でウブドの慢性的交通渋滞に歯止めがかけられるか?

サンバハン村のスウェタ通り北部(ウブド第一高等学校から100メートルほど北上)とタマン村のスリウエダリ通り(テガランタン村手前)の間にある渓谷に、2つの通りを結ぶ架橋工事が着工されたのは昨年4月のことだ。

工期8ヶ月で、完成予定は同年12月。

開通すれば、ウブド中心部の交通渋滞緩和に繋がると、少々期待されている橋だ。

サクティ村に位置するゆえ、この橋を便宜上「サクティ(Sakti)橋」と命名しておく。

読者の方は、それぞれ「チャンティク」「ビアビア」「ビンタン」など、かってに付けてください。


交通渋滞の原因は、大型バスの侵入、観光客を乗せた車の乗降、駐車場スペースなど様々。

ウブド南部プンゴセカン村方面とテガス村方面から来る観光客を乗せた車が合流する、モンキーフォレスト通りが渋滞のメイン道路。

モンキーフォレスト通りがウブド大通りと交わる地点が、ネックとなっている。

サクティ橋が架けられる地域は、観光ルートでも幹線道路でもない一般村道。

交通渋滞に、あまり影響がない地域。

なぜ、ここに????? 疑問符がたくさん浮かぶ。

ほかに、渋滞の鬱血を緩めることができる適所があるはずだ。

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テガランタン村側に崖崩れがあったのは、2012年9月19日。

乾季の真っ盛り、乾燥する日々が続き崖の土が砂状になり、道路のアスファルトいっぱいまで路肩が滑り落ちた。

アスファルトの下は、えぐれていた。

これでは危なくて自動車は通れない。

さっそく、自動車通行止めのパネルが立てられた。

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現場の状況から判断して12月完成はありえない。

崖崩れが要因で工事が遅れているとは思えない。

8ヶ月の工期では、短いのか。

私は工事関係者に尋ねた「いつ完成ですか?」

すると、自信たっぷりに「12月末には完成できる」の答えが返ってきた。

「ホントに!」私は彼に感動の言葉を返したのではなく、疑いの顔でつぶやいたのだ。

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2013年の年が明けると、完成予定は3月に延長された。

3月が近づくと、さらに6月に延長されていた。

5月にはいると工事はストップとなり、現場作業員は仮設住宅を去っていった。

ストップの原因は、川幅の測量ミスで橋が短く予算オーバー&工事資金を誰かが横領した、このふたつの噂がたっている。

どちらもありそうな話だ。


作業員が現れたのはラマダン(イスラム教断食月)前の7月。

道路の杭打ち作業を終えると、再び姿を消した。

ラマダンの明けの祭日「Eid al-fitr」(8月8日・9日)後に、仮設住宅に作業員が戻り、工事が本格的に再開された。

州知事・県知事の選挙が終わり、新年度の予算が下りたのだろうか。

これで途中放棄される心配はなくなった。

最後までやり遂げて欲しいものだ。


工事中のサクティ橋を渡ってみた。

橋上から望む渓谷は、手つかずのジャングル。

谷底には、細い川が流れている。

テガランタン村側の道路面と橋は同じ高さだが、サンバハン村側は道路面が橋より2メートルほど低い。

道路をかさ上げすると言っているが、どうなることやら。

作業を終えた年配の職人に、完成予定を訊くと「わからない」と答えた。

そう「わからない」というが一番正確な答えだ。

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サクティ橋が開通して、誰がどう恩恵を受けるのか?

橋まで100メートル以内の距離に滞在している私にとっては、無用。

モンキーフォレスト通りを通らずに王宮のある十字路に行かれるが、これが渋滞を回避したことにはならない。

対岸にすぐ渡れる、それは一部の村人が便利になるだけのこと。

ウブド第一高等学校の生徒が助かるのではと言う意見があるが、それだって一部の生徒だろう。

「外国人のあなたには関係ないかもしれないが、地元の人にとってはメリットのある橋です」とお叱りをうけそうですが、テガランタン村の住人だとて恩恵に浴するとは思えない。

環状線を造る計画の一環だとしたら、中心部から近すぎる。

それとも、私の貧弱な脳力では想像できない、将来を見越したプロジェクトが進められているのだろうか。


唐突ですが「ウブド公設市場(PASAR UMUM UBUD)」(2013年3月19日オープン)の新築工事にともなって建築された「シンガクルタ村大型市場」は、その後どうなっているのだろう。

宝の持ち腐れに、なっていないか。

ウブド市場地下駐車場&シンガクルタ市場バスターミナルの話は、噂話で終わったようだ。

サクティ橋の開通で、ウブドの慢性的交通渋滞に歯止めがかけられるか?

宝の持ち腐れに、ならなければいいが。


posted by ito-san at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | テガランタン村滞在記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月17日

映画「Puputan Margarana」出演(18)

8月17日は、68回目のインドネシア独立記念日。

1949年に「連邦共和国」、1950年に「共和国」として完全独立を果たしたのだが、インドネシア国家は1945年8月17日を独立記念日としている。

1942年3月から1945年8月15日までの3年5ヶ月、日本軍の占領統治があった歴史を、我々日本人は忘れてはならい。


毎年、この時期になると思い出すことがある。

それは1995年のことだ。

インドネシアが共和国として独立するために立ち上がったバリ人ヌグラ・ライ(Gusti Ngura Rai)を主人公に、当時を再現した独立戦争物語「仮題:ププタン・マルガラナ(Puputan Margarana)」の映画撮影がバリ島の各地で行われた。

インドネシア独立50周年を記念しての映画。

日本の敗戦とともに、スカルノ初代大統領はインドネシアの独立を宣言する。

再び植民地化を目指すオランダに対して、アンボンを除くインドネシアの各勢力は各地で闘争に入った。

バリ島も激戦地となり、のちにマルガラナ村(タバナン県)で終焉を迎える。

全員が討ち死にしたことから、バリの王国時代、オランダ軍と戦った王族の「死の行進=ププタン」のイメージを重ねた仮題がつけられている。

独立戦争の英雄となったグスティ・ングラ・ライ将軍は、ムングイ(Mengwi)の北にあるチャナンサリ(Carang Sari)王宮の子息。

彼の名前は、バリの国際空港に冠されている。

残留日本兵が、この闘争に協力した話はバリ人も知っている。

20数名の元日本兵がバリ義勇軍を指導し、その多くが戦死した。

思い出すのは、当時ウブドに滞在していた友人たちと、その映画に出演した時のことだ。


「居酒屋・影武者」の掲示板に、インドネシア語のチラシが貼られた。

「インドネシア人女性とイタリア人男性のカップルが来て、貼っていった」と影武者のスタッフ、ワヤン君は言う。

内容は、インドネシアのテレビ局がテレビ映画撮影のため、日本人アクターを数名募集しているということだった。

撮影期間中は、出演料+軍隊お墨付きの滞在ビザ(4ヶ月)がもらえるという魅力的な話だ。

まず、カズ君が参加したいと表明した。

内容の詳細はわからないが、私もインドネシアへの日頃の恩返しと好奇心とで出演してみよう考えていた。

チラシに、特技の覧がある。

私は、特殊メイクの経験がある深谷さん(漫画家)と、デザイナーの鈴木さんを誘うことにした。

場面によって随時募集しているようだ。


☆7月31日

4人は、それぞれのバイクに跨がり、デンパサール・レノン地域にある事務所へ出かけた。

映画のスポンサーは、陸軍だとのこと。

軍のPRにもなるという趣旨かもしれない。

軍隊は、さまざまなアルバイトをしていて、裕福だと聞いている。

事務所は軍隊と関係する建物のようだ。

ロビーには、大勢のインドネシア人がたむろしていた。

その一人に出向いた旨を伝えた。

しばらく待たされたあと、スタッフと思われる若者に、助監督だと言われる人物を紹介された。

小柄で自由人という風貌の人物だった。


シーンを3つこなして150万ルピア(6万円)。(この頃のレートは、1円⇒Rp25-)

出演料の半額を手付けとしてもらい、残金はクランク・アップしてからという契約だった。

カットごとに、受け取りは5万ルピア。

シーンとカットがどのくらいあるのかわからないが、とにかく、いくらかのギャラはもらえそうだ。

軍隊がバックなら安心だろうと、出演の意志があることを助監督に伝えた。

契約書類に記名している間、助監督は我々の風貌を覗き見ている。

役柄とを照合しているのだろう。

そして、オーディションもなく即合格。

きっと、暇な日本人なら誰でもよかったのだろう。

ローマ字で書かれた日本語の台本一部を手渡された。

台本から、バリを舞台にした戦争映画だということは理解できた。

ところが、台本の日本語が意味不明。

助監督にそう伝えると、「そうですか。それでは直しておいてください」と笑顔で答えた。

ストーリーの全容がわからないが、とりあえず、日本語として意味の通じる台本にしよう。

頼まれたからでなく、こんな不明瞭な日本語では、内容を把握できない。

私としては、セリフを覚えておきたいので加筆訂正することにした。

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☆8月1日

「影武者」の前にモスグリーン色の軍隊専用バスが停まっていた。

カズ君は、コテツ君(現:カフェ・アンカサのオーナー)を伴って現れた。

残念だが、鈴木さんは出演を辞退した。

インドネシア人のエバァさんは映画コーディネータースタッフで、イタリア人のロベルトさん(現:ピザ・バグースのオーナー)は役者として出演する。

エバァさんは、簡単な自己紹介を終えると、わたしたちをバスに誘導した。

護送車に似た軍隊のバスに乗せられた我々は、デンパサールの事務所に向けて出発した。


この日は衣裳合わせのようだ。

事務所の裏に、小道具の製作場がある。

チョコレート色の軍服が手渡された。

飾りのポケットがついた簡素な軍服は、縫製が悪いのか身体にシックリこない。

私に合う寸法の長靴が見つからず、オーダーとなった。

我々の役は、残留日本兵。

私は阿南少佐、カズ君は平良定三、それぞれに役柄が振り分けられた。

実在した人物なので、できるだけ風貌、背丈の似た出演者を決めたようだ。

小さな長靴を履いた軍服姿で、スチール写真を数枚撮られた。

実感はないが、取りあえず役者としてスタートしたようだ。


☆8月2日

デンパサールのクシマン王宮で記念式典が催されることになり、わたしたちも招待された。

拿捕(だほ)された捕虜のようにして、軍隊専用バスに乗り込む。

王宮の内庭に併設してある、独立戦争当時の写真や軍機の展示コーナーを見学した。

欧米人キャストと合流。

筋肉質でワイルドな個性のポルトガル人。

やたらと陽気なドイツ人。

その他大勢の日本兵エキストラは、中国系インドネシア人の学生が演じる。

インドネシア兵には、現役の軍隊が出演する。

記念式典に出席する前に、男性キャストの断髪があった。

ウブド滞在以来、床屋に行くのが面倒でのばしていた、私のトレードマークである長髪は潔く切られた。

メーキャップ・スタッフはジャカルタから来ている男たちだが、全員がオカマちゃんだった。

カズ君はその後、彼(彼女)らと何度も撮影現場で顔を合わせるうち、強烈なアタックを受けたそうだ。

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白襟が縫い付けられた濃紺の軍服姿で、記念式典に列席。

気分はアクター。ちょっとウキウキ。

バリ州知事の挨拶、来賓の挨拶のあと、主演男優と女優の紹介があった。

ジャカルタから来た有名な俳優さんらしい。

申し訳ないが、インドネシアの映画事情に興味のない私は、存じ上げていなかった。

会食の余興は、バリらしくトペン・ボンドレスが披露された。

バリ州知事イダ・バグース・オカ氏と軍最高幹部の人物と並んで写真を撮らせてもらった。

この写真を「影武者」の目立つところに貼っておけばイミグレーションも文句を言わないだろう、な〜んてセコイことを考えている小心者のitosan。(結局、何の役に立たなかった)

会食のあと、いよいよクランク・イン。

屋敷内の一角で、ングラ・ライと数名の独立軍による作戦会議シーンが撮影された。

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☆後日談

軍隊お墨付きの滞在ビザは、シンガポールまで出掛けて行ったが取得できなかった。

監督とエバァさんに談判したが、らちがあかない。

欧米人の多くが「話が違う」と言って止めていった。

そして、映画は資金不足で中止となる。

どうやら、使い込みをした悪党がいたようだ。

残りあと少しだったというのに、残念なことだ。


撮影現場のエピソード、気になりますか?

そのうち気が向いた時に書こうかな。

それまで、気長にお待ちください。



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2013年08月13日

行進の練習(48)

8月17日は、インドネシア独立記念日。

今年で68回目になる。

独立記念日が近づくと、車道を占領して颯爽と行進する高校生の一団を見かける。

バイクで走っていて、ちょっとした渋滞が、この行進の時もある。

これは、独立記念式典のイベントである行進コンテストの練習風景。

行進は、競歩でなく “強歩”(グラックジャラン=Gerak-jalan)のことらしい。

強歩コンテストは、“バリの各県ごとで催されている。

独立記念式典は国家行事だが、ひょっとするとこのコンテストは、私が知らないだけで全国レベルで行っているのかもしれない。

ウブドの高校生は、ギャニアール市まで出張して出場する。

練習時は体操着だが、コンテストではコスチュームも凝っている。

どこをどう採点するのか知らないが、真っ昼間の炎天下のアスファルトの上を、えんえんと歩かされる子供たちを見るとちょっと可哀想な気もする。

それも強く歩く、強歩ですよ。

途中、沿道の村人に冷やかされることもあるだろう。

これも文化と言われれば、それまでだが。


ブログ用に写真を撮っておこうと、その気になると、意外と行進に遭遇しないものだ。

見つけても、カメラをバッグから出すタイミングには、行進は後ろ姿になっている。

夕方の帰宅途中、テガランタン村の入り口で、行進とすれ違った。

もしかすると、我が家の前が行進ルートになっているのかもしれない。

それなら、写真が撮れる場面に出会えるかもしれない。

そんなことを意識しながら、早めに帰ったある日。

我が家の前を、若い女性たちの元気な掛け声が聞こえた。

急いで通りに出ると、女子生徒との一団が通り過ぎるところだった。

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行進は男女別のグループになっているようだ。

それはそうだ、強歩だから体力差が出てしまうからだ。

時間は午後4時、この日は、霧雨が降っていた。

背の高い女子から低い女子に、3列縦隊に横8列ができていた。

最前列の女子の責任は重大だ。

大きな声で「カナン(右)、キリ(左)」と、掛け声をあげ、両手を大きく振って整然と行進する。

掛け声は、時々、可愛らしい唄声になる。

最後尾の2人の男性は、先生だろう。

救護班と思われる、女性が運転するバイクが2台続いている。

熱射病で倒れる生徒もいるだろうな。

その後をジャージ姿で歩いているおじさんは、便乗して散歩してるのか?


知人が「ウブド第一高等学校」の生徒だろうと教えてくれた。

それぞれの高校から、各学年1組が選抜されるらしい。

第一高校は、ウブド王宮のあるスウェタ通りのスンバハン集落にある。

行進は、スウェタ通りを北進しブントゥーユン村から右に大きくカーブしてU字にスリウェダリ通りへ入る。

U字の途中にあるT字路を進むとジュンジュンガン村に通じる。

スリウェダリ通はブントゥーユン村、テガランタン村、タマン村へと順に南下し、ウブド大通りに突き当たる。

ウブド大通りから王宮角を右折し、再びスウェタ通りに戻って帰って行く。

全長約10キロのコースだ。

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ベッドに横になって読書をしていると、男性の野太い声が表を通った。

男子生徒の行進練習だろう。

時計は6時30分を過ぎている。

「遅くまで、大変だね」とつぶやいていた。

バリの子供たちは従順なのだろうか?

嫌々ながら参加している娘もいるに違いない。

中には、さぼっている子もいるだろう。

どうやって、彼らは折り合いをつけているのだろうか?

生徒たちは、年に一度のビッグ・イベントのためだとあきらめているのかな。


私の通っていた高校なら「かったるい」「格好悪い」と、成り立たないイベントだ。

もちろん私は、参加しないだろう。

もしかすると、反対運動をしているかもしれない。

1923年設立以来の伝統だった丸刈りを強制でなくしたのは、私の在籍した時代だった。

舟木一夫の髪型を真似した奴、アイビーカットの奴。

私は前髪にひさしを作っていたっけ。

高校3年生だった頃のことを「ふっ」と、思い出した。

何年前の話だって、か。


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2013年08月09日

愛猫ちびた&レーシー(47)

テガランタン村に引っ越して半年以上も経つというのに、愛猫ちびたと先住猫レーシーは、未だに仲良くなっていない。

この頃、私は、レーシーにもエサをあげている。

レーシーは、私が扉を開けるのを待っていたかのように、テラスの下の階段にいる。

エサを皿に入れるのを待って、テラスにあがる。

「日本料理店・影武者」から戻る深夜には、バイクの音を聞きつけるのか、どこからともなく現れる。

待っていてくれたのかと、私の顔が少し微笑む。

私は、皿にエサを入れると扉を閉めてしまう。

時々、先住犬ブラッキーにエサを横取りされているようだ。

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ちびたのユルんだお腹がお気に入りのようで、パチュン家の家族に可愛がられている。

頭やアゴを撫でると「キャン!」と啼き、お腹を擦るとパンチを繰り出す。

突然、ゴロンと横になる仕草を面白がっている。

ユルんだお腹を左右に揺すって歩く姿もユーモラスだ。


私がテラスで寝転がっている時には、座布団に座っているか、私の身体の一部に寄り添っている。

両手両足をいっぱいに伸ばし、私と同じようにお腹を上に向けた格好で寝る。

子猫の時から育てたちびたは、私に守られているという安心感があるのか、まったく無防備。

この頃、寝言を言うし、イビキもかくようになった。

これは高齢になった証拠なのかな。

私も66歳の高齢期、自分では気がつかないが、寝言とイビキをしているかもしれない。

斉藤式猫年齢換算法で計算すると、私に飼われてから8年が経っているちびたは、60歳の中高年期だった。

今は私より若いが、2年もすると私より高齢になる。

バリの猫には当てはまらないかもしれないが、斉藤式換算式では、6〜10年は5を掛けて20を足すと猫年齢になる。

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ちびたの行動範囲は、着実に広がっている。

しかし、屋敷中を我が物顔で散歩しているレーシーの姿を気にしながらの徘徊だ。

窓から出て、隣の家に遠征に出掛けることもある。

ムラジャン(家寺)で、ちびたの悲愴な声が聞こえる。

レーシーに遭遇して、固まっていた。

私は間に入って、両猫を分ける。

屋敷に侵入する他猫を目ざとく見つけると、レーシーは壁際まで追いつめる。

先住犬も一緒になって追い出そうと駆け寄る。

完全に見えなくなるまで、レーシーは塀の上で見張っている。

ちびたには、そこまで攻撃を仕掛けてこない。

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レーシーが近づくと、ちびたは尻尾を太くして「ウーウー!」とクグモッタ小さなうなり声をあげて威嚇する。

完全に拒絶しているようには見えない。

尻尾の先を少し振るだけで、レーシーは落ち着いたものだ。

時として、攻撃態勢に斜めに構える。

箱入り猫で育てられたちびたは内弁慶で、危険を察知すれば、安全圏とも言える部屋に逃げるか私のそばに避難する。

私の部屋も以前は、レーシーのテリトリーだったろう。

先住猫は、テリトリーを侵されて腹を立てているかもしれない。

心の広いレーシーは、そんなことも許しているようにうかがえる。

私には、一緒に遊びたがっているように思える。

ちびたは、どうしたら仲良くなれるのか迷っているのかもしれない。

イブ・マデに「焼きもちだね」と言われるが、どちらがどういう風に焼きもちをやいているのかわからない私は、対処の仕方に困っている。

庭で仲良く遊んでくれると有り難いのだが。

メス(ちびた)とオス(レーシー)だし、どちらも高齢だから、少々の相性が悪くても、いずれは喧嘩をしなくなるだろうと楽観している。

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2013年08月01日

ポトンバビ・完全取材(17)

建築中の「ワルン・スバリ」の様子を見に、スバリ村に出掛けた日曜日の昼下がり。

まずは、グスティ家に立ち寄ろう。

いつものように屋敷の裏口から入ると、裏庭に大勢の男衆の姿が見えた。

ムラジャン(家寺)のオダラン(寺院祭礼)の準備だろう。

前年に100年目の大きなオダランをすませた翌年も、それなりに大きいと聞いている。

明日の29日が、そのオダランの日だ。

忘れていたわけではない。

明日、来ることができるかどうかわからないので、今日顔を出したのだ。

ラッキーなことに、なんと、ポトン・バビ(Potong Babi)が今まさに始まろうとしているところだった。

大きな儀礼では、ポトン・バビが行われる。

人間の代わりに、豚が生け贄になるのだ。

儀礼が小規模の場合は、鶏やアヒルが生け贄になる。

深夜に行われることが多いポトン・バビが、真っ昼間に見学できるタイミングは少ない。

噛みタバコをもらって、すぐに失礼するつもりでいたが、このチャンスは見逃せない。

久しぶりのポトン・バビ体験の再演だ。


ポトン・バビはインドネシア語で、ポトン(Potong)が “切る” バビは(Babi) “豚” のこと。

バリ人同士では、バリ語で“ナンパー・チェレン”と言っている。

チェレンが豚。

早い話 “豚の屠殺” だ。

動物の屠殺シーンを見るのをラッキーなって言ってると動物愛護団体から抗議がきそうだが、これはバリ人の信仰するヒンドゥー教の神聖な儀礼である。

そんなわけで、動物愛護の皆さん、私の無礼な発言をお許しください。

前回は参加して醜態を晒したので、今回は写真取材に専念することにした。

醜態は「極楽通信・UBUD:「14ポトン・バビ体験記」を読んでください。


まずは、豚に聖水をかけ清めることから始まる。

これがバリらしいところだ。

豚のノドにナイフが入る。

鮮血がドッと流れ出す。

前回は、竹の半割をノドに刺し込み樋にして、血を流して下で鍋で受けていた。

今回は、直接、鍋に落とし込んでいる。


血が止まると、豚を移動した。

バケツの血は、儀礼の料理・ラワールに混ぜられる。

こぼれた血を、犬が美味しそうに舐めている。

バーナーが用意された。

運ばれた豚の、産毛を焼くのだ。

バーナーの調子が悪いので、伝統的手段である枯れた椰子の葉束を燃やした。

産毛を焦がし、そげ落とす。

そして、洗い流す。

Potong-Babi1.jpg

腹の中央にあるヘソを切り、引っ張ると紐状に繋がった腸のようなものが出て来る。

それを丁寧に取り出していく。

血抜きを終わっているからか、ほとんど血は出ない。

大きく腹を裂いた。

大小様々な腸が現れた。

それをすくい上げるようにして取り出しだ。

意外と冷静に見つめている私がいるのに驚く。

腸は、小川に運ばれて洗われる。


腸が出された肉塊となった豚は、シートの敷かれた場所に移動される。

いよいよ、解体作業だ。

単に切るだけではなく、叩き切る、削ぎ落とされる。

手際よく解体されていく。

生臭さからだろうか、少し吐き気がしてくる。

血を見たら、耐えられないかもしれないと思った。

男衆は平気な顔で作業に取り組んでいる。

Potong-Babi2.jpg

解体作業が終わると、続いて供物とラワール料理にかかる。

表皮+脂肪と部位に切り分けていく。

切り落とされた肉の固まりは、それぞれの行程にわかれる。

各部位に分かれた肉は、大きな鍋で煮込まれるもの、細かく刻まれるもの、ひき肉機にかけられるのもとある。

煮込まれた表皮+脂肪は、サイコロ状に切られ串の刺されるものと、脂肪を剥ぎ取った表皮は千切りされてラワールに混ぜられる。

剥ぎ取られた脂肪は、飾り物に使われる。

ひき肉機にかけられた肉は、つくね用と腸詰め(ウルタン)用に分けられる。


今まで見たことのない手の込んだ細工の竹串に、つくねをつけている数人に男衆がいる。

プマンクに尋ねると、供物用のサテで9種類あると教えてくれた。

9種類は「椰子の実の話(29)」で勉強したナワォ・サンゴ(Nawa Sangga)のことだった。

9方位に、神の武器(神器)を竹で形作り、そこにつくねをねりつけていく。

これは、供物として指定の位置に置かれる。

Nawa-Sangga.jpg

これら一連の作業が滞りなくスムーズ行われている。

これだけの仕事量を、10数人の男衆が流れるように携わっている。

素晴らしい連携プレイだ。

慣れているとはいえ、見事な分業システムだ。

力もいるし、動きっぱなしで疲れているはず。

無駄口や一服する者はおらず、皆、真剣だ。

これは、バリ人のゴトンロヨン(相互扶助)の精神からくるものだろうか。

私には、到底出来ない作業だ。

オダラン前日のブト・カロを鎮めるムチャル儀礼まで、いっきに突入していった。

posted by ito-san at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする