2013年10月30日

ウブドでケガをした(25)

先日、リピーターの知人がスーパーマーケットの入り口で転んだ。

転び方が悪かったのか、骨折していた。

バリでは、事故などを見つけると大勢の人が駆け寄ってくる。

軽いケガなら、大げさすぎて恥ずかしくなってしまうほどの人が集まる。

そして、本心から心配し親切に協力してくれる。

こんなところはバリ人の良いところだ。

事故を起こした本人が直接病院に行くことができる状態ならいいのだが、そうでない場合は親切にしてくれる他人にアンブランス=Ambulansと呼ばれる救急車を手配してもらう必要がある。

ホテルに宿泊していれば、専属のドクターを呼んでもらうこともできる。

知人の骨折は、かなり重傷だった。

幸い、事故現場が警察署前であったことから、通りかかりの人が連絡に走るなどの手助けをしれくれた。

警察官が軽トラックの荷台に乗せて、病院まで搬送した。

アンブランスを呼べばお金がかかる。

コミッションを請求するのが常のバリの警察官。

「警察官も親切だった」と知人は言う。


問題は、行き先だ。

ウブドには、UGD(Unit Gawat Darurat=緊急病院)と呼ばれる病院が数件ある。

警察官は、知人をマス村にあるUGDに担ぎ込んだ。

外国人の場合は、プンゴセカン村の「トヤ・メディカ・クリニック」かチャンプアンある「ウブド・クリニック」にアンブランスで運ばれ、検査の結果次第で、海外旅行保険サービスの受けられるデンパサールなどの病院に搬送されることが多い。

※TOYA MEDIKA CLINIC:TEL(0361)978078 & 2189000 / 081-999-273-555
 Web:toyamedikaclinic.com / Email:toyamedika@yahoo.com
※Ubud Clinic:TEL(0361)7811818

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知人のケガは手術を要する骨折だった。

ウブドよりは、デンパサールやクタにあるバリ南部の病院が設備、医療体制とも整っている。

それとて日本の技術と比べると不安は残るため、シンガポールか日本に行って治療する人もいる。

日本人なら日本では保険が使えるが、特にシンガポールなどは医療費が高額になる。

知人は海外旅行保険に加入していた。

ウブドに医療費の安いローカルの診療所は数件あるが、海外旅行保険サービスが受けられない。

マス村の病院も、海外旅行保険サービスが受けられなかった。

そういう場合、医療費の支払いは後日、日本で申請してから払い戻される。

ローカル診療所の場合、医療費は現金払いとなる。

それも手術前に支払わなくてはならない(デポジットは可能)。

バリ南部に行けば、保険手続きが承諾されれば治療でき、日本人医療アドバイザーが常駐している病院もある。

※共愛・KYOAI HEALTHCARE:0816-473-4997(日本人医療アドバイザー直通)
※SURYA HUSADHA HOSPITAL:0361-233787(デンパサール)/ 0361-775827(ヌサドウァ)
※BIMC HOSPITAL:0361-761263(クタ)/ 0361-9000911(ヌサドウァ)

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手術措置室のストレッチャーで数時間寝かされている知人は、不安顔だった。

日本語の通じる病院に変わるべきか悩んでいる。

しかし、今更病院を変わるのも酷だった。

手術費&病室の見積もりを承諾して手術、入院が決まった。

担当したドクターの技術も高く、病室も清潔で看護も満足するものであったようだ。

知人は、バリ人友人の援助を得て、無事手術を終え、帰国した。

マス村の緊急病院は、RUMAH SAKIT 《ARI CANTI=アリ・サンティ》。
※TEL(0361)982223-4
 Web:aricantihospital.com / Email:tcanti_hospital@yahoo.com


海外では医療費が高いので、海外旅行保険に加入することをお薦めします。

バイク事故の場合、無免許では保険が支給されないので、ご注意を。

万一の為、病院はどこにするか決め、電話番号を控えておいた方がよいでしょう。

くれぐれも、気をつけて旅をお続けください。

posted by ito-san at 16:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月26日

豪華になるペンジョール=Penjor(61)

ペンジョールは、ガルンガンの前日に家々の門口に立てられる。

ガルンガンから15日後(土曜日)のクニンガンを過ぎ、さらにガルンガンからの35日(ウク暦の1ヶ月)後の水曜日(Buda Keliwon Pahang)までの一連の行事が終わると、ペンジョールはお役御免となり外される。

今回は、11月27日がその日だ。

詳しくは、「極楽通信・ウブド|バリ島見聞録・ペンジョール」を読んで頂くとして。


ペンジョールは、日本的には何の役目と似ているだろうと考えてみた。

ウク歴の新年がガルンガンとすれば、正月に飾るという意味で日本の門松に似ているか。

竹を使うところは、七夕飾りのようでもある。

しかし、どちらもシックリとは当てはまらない。

ペンジョールはペンジョールであって、バリ特有の風物詩ということだろう。

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昨今のウブドのペンジョールの豪華さには、驚かされる。

ウブドが特別なのかもしれないが、年々豪華になっていくようだ。

イルミネーションが点滅するペンジョールもある。

観光客としては鑑賞して楽しいので、文句を言う筋合いはないのだが。

それにしても、お金の掛け過ぎではないだろうかと思うところがある。

隣近所のできばえが気になって、今年は我が家も奮発しようと、お父ちゃんが男気を出すのだろうか。

単に、ウブド人が見栄っぱりなだけか。

いったいどういう心境でこんなにお金を掛けてしまうのか。

いらぬお世話だが、家計としては無駄な出費ではないかと心配になる。

地域によっては、質素なペンジョールも目にする。

テガランタン村も豪華になってきている。


以前は、飾りパーツも自前だったが、この頃はバリ人も忙しくて出来合いのパーツを購入して飾り付けるようになった。

既製品のパーツは、日持ちするロンタル椰子の葉でできている物が多い。

そのうち、丸ごと既製品のペンジョールも売り出されるだろう。

すでに販売されているかもしれないな。

我が家では、パチュン君が購入した飾りパーツを取り付けていた。

金額を訊くと、パーツ代の合計は、Rp350,000-(3,000円)ほどだった。

結婚式があった家では、ペンジョールを2本立てることになっている。

ゴータマ通りで1本Rp2,000,000-(17,500円)のペンジョールが2本立っている家があると聞いた。

これが35日間で使い捨てられるのだ。

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竹は、また使えるのではと思ってみたり。

飾りパーツの一部だけでも使い回しできれば、なんて考えてしまうのは、もったいないと思ってしまう世代なのだろうか。

それとも、そう思うのは貧乏性の私だけなのだろうか。

将来は、コンパクトに収納するクリスマスツリーのようになって、毎年使うことができるプラスチック製になるのかもしれない。

それも風情がないな。

さて、来年はどうなっているだろう。

posted by ito-san at 17:32| Comment(0) | TrackBack(0) | テガランタン村滞在記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月23日

おめでとう・ガルンガン祭礼日(60)


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10月23日は、ウク暦最大の祭礼日・ガルンガン

210日が一年のウク暦は、今年2度目のガルンガンを迎える。

バリ人にとっては神々をお迎えする重要な祭礼日。

門前にペンジョールを立て、家寺の飾り付けをすませ、ハレの食事を作る。

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プナンパハン(ガルンガン前日)、ガルンガン(ガルンガン当日)、マニス・ガルンガン(ガルンガン翌日)の3日間は、バリ島だけの祝祭日。

仕事や学校の関係で遠くて暮らしている家族が、家に帰ってくる。

日本のお盆休みに似ている。

私にとっては、忙しいバリ人を横目で見ながら、観光客であることを再認識させられる日々でもある。

バリの正装で彼らの儀礼に参加しても、やはり観光客が真似事をしているに過ぎないと感じる。

当然のことだが、バリ人じゃない私は、自分の寺を持っていない。

以前は、ホームステイ先の家寺でお祈りをし、そのあと、世話になっている知人の家を訪ねて家寺でお参りさせてもらったこともある。

この数年は、ほとんど正装もせず、お祈りもしていない。

現在は、観光客で満足している。

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パチュン君を中心にして家族総動員で作ったハレの食事・ラワールが、私にももてなされる。

昨日まで元気に庭を駆け回っていた鶏の三羽が、姿を消した。

久しぶりにいただくラワールのナシ・チャンプールは、美味しい。

しかし、パチュン家のラワールは、私にはちょっとばかし辛い。

2日間続くと、食傷気味になる。

ウブドは、この3日間、休みになるレストランが多く「ガルンガン食事難民」が出る。

影武者もご多分に漏れず3日間休むため、私も食事難民となって開店しているレストランを探しまわる。

さて、今夜は何を食べよう。

「ナシ・チャンプールは飽きたし」なんて、バリ熱愛症候群の皆様に叱られそうな贅沢発言。

疎外感を感じながらも、こうして、ウブドライフを楽しんでいる私です。

結婚儀礼、火葬儀礼削歯儀礼、家寺祭礼、寺院祭礼などなど、エンドレスで続くバリの儀礼。

それぞれの儀礼に対して、心構えはそれぞれに違うだろう。

それにしても忙しいバリ人。

忙しいのが好きじゃない私は、バリ人になりたいとは思わない。

だから、観察者に徹することにした。

ガルンガン祭礼日を迎えたパチュン家の家族の顔が、この日の天気のように晴れやかだった。
posted by ito-san at 14:33| Comment(0) | TrackBack(0) | テガランタン村滞在記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月21日

ムルカット(Melukat)(24)

《「アパ?情報センター|極楽通信・ウブド|バリ島見聞録」同時発信 》

2010年に入ってから、どういうわけかウブドを訪れる観光客に、ムルカット・ツアーを希望する人が増えている。

アパ?だけの日本人独占現象ではなく、欧米人にも人気がある。

というわけで、「ムルカットって何(APA)?」の問い合わせがある前に、アパ?としては答えを用意をしなくてはと知恵を絞ることにいたしました。


ムルカットは、お祈り前の清めのマンディ=Mandi(水浴び)より、ひとランク、アップした儀礼性の強いバリ人には欠かせない心身浄化の沐浴だ。

インド・ヒンドゥーの斎戒沐浴(斎は心の不浄を浄める意、戒は身の過ちを戒めるの意)、日本・神道の禊=ミソギ(身に罪または穢れのある時や重大な神事などに従う前、海や川で身を洗い浄める)に通じるものだ。


身近なところでは、結婚儀礼時のムルカットがある。

新郎新婦が、数人の親族をともなって近くの川へ出掛ける。

友人・知人の見守るなかでムルカットをする村もあると聞く。

川へは衣服をつけたまま入っていく。

これは恥ずかしいからだと思っていたが、そうではなかった。

新郎新婦は、川の中で衣服を全部脱いでスッポンポンの丸裸になる。

そして、身体と同時に、今まで着ていた衣服を洗濯する。

独身時代の汚れを洗い流すのが、この儀礼の目的だ。

ムルカットをすますと、用意された真新しい衣服と着替える。

これからの2人の新しい人生が始まるというわけだ。

今では、屋敷内にある浴場(これもマンディ場と言う)ですませる地域も増えているようです。

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タンパクシリン村に、古代遺跡沐浴場がある。

西暦962年に発見された石碑には、ミソギの儀礼が記されていた。

10世紀から14世紀までペジェンを中心に栄えたワルマデワ王国時代に、こんな神話がある。

インドラ神が手にした剣(Keris=クリス)を地上に突き刺すと、薬効の泉が沸き出した。

泉の水を飲んだ兵隊たちは、みるみるうちに息を吹き返し、蔓延しかけた邪悪なものを退治した。

この聖なる泉は、のちにティルタ・ウンプル(Tirta Empul)と名付けられる。

詳しくは、「極楽通信・ウブド|プクリサン川の神話」をお読み下さい。

いつの頃からか、聖泉で洗い浄めることが奨励されるようになり、1000年を経た現在も、多くのバリ人がティルタ・ウンプルを訪れムルカットして行く。

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ティルタ・ウンプルのムルカット場は、2つの大きなプールだ。

寺院側の壁面に並んだパゴダ型石彫の突起物から、満々と湧き水が吹き出されている。

最初のプールには13カ所の吹き口がある。

一般の人が使用できない吹き口があるので注意しよう。

9番目は神々への儀礼(Dewa Yadnya)専用、10番目は死者への儀礼(Pitara Yadnya)専用だ。

11番目は、不吉な夢を見た時にお祓いをする吹き口だそうだ。

腰まで水に浸かり、一番手前の吹き口から順にミソギをしていく。

プールの底は玉砂利が敷かれている。

水が落下するあたりに身体を入れる。

冷たい水が肌を打つ。

壁を隔てたプールには、通路を挟んで左手に3つ、右手に8つと並んで合計11カ所の吹き口がある。

余談だが、モンキーフォーレスト通りにある「カフェ・アンカサ」の水出しアイスコーヒーは、通路右手一番目の吹き口から戴いて来た聖水を使用している。

飲んだ人は「まろやかな味がした」と表現している。


プダンダ(高僧)、プマンク(僧侶)、バリアン(呪術師)から聖水を戴くムルカットもある。

最上級は、プダンダのムルカット。

プダンダの屋敷を訪ねて、マントラを唱えてもらいお祈りを捧げる。

ケガや病気の元となる悪いエネルギーを落とす。

受け手は、何も考えなくてもよろしい。

そのあと、特別に作った聖水を戴く。

たくさんの花が浮かべられた聖水が振りかけられる、というよりは降りかけられる。

まさに、ザブザブという感じだ。

「何も考えるな! 無心になるのじゃ!」


極楽通信・UBUD
バリ島見聞録ムルカット(Melukat)

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2013年10月20日

あれから一年(23)

「アパ?情報センター」がスグリオ通りに移転して、10月5日で一年が経った。

前責任者・ニュマン君の「止めます」の一言で、予告なしの閉店。

私の少ない収入源が、突然ストップしてしまったのが昨年の8月のこと。

ビックリしました。

17年間続いていた “アパ?” がイキナリですよ。

や〜ぁ、あの時は、眼の前が真っ暗になりましたね。

当時スタッフのひとりであったワヤン君が「伊藤さんと仕事がしたいです」と、努力してくれたおかげでアパ?の復活が実りました。

この時のワヤン君の誠意が、私には暗闇に発する前途という小さな光源に見えた。

お客様には、突然の移転で事務所が見つからず、大変迷惑をおかけしておりますことを御詫びいたします。

今後とも、末永くお付き合いいただけることを願っております。

新責任者のワヤン君に期待してください。


突然のアパ?閉店で、私は私の将来を否応無しに考えさせられましたね。

これまでいかにノンビリさせてもらっていたか、ということでもありますが。

今後、何処でどう生きるか?

まず最初に浮かんだのが「日本に帰る」ことだった。

この発想は、私がかなり弱気になっている証拠です。

そして、このままウブドに残る。

もうひとつは、他の国で出直す。

この3つの選択肢が浮かんだ。

とりあえず来年、ゴールデンウィーク明けに日本に一時帰国してみようかなと考えている。

25年ぶりに土を踏む名古屋に、適応できるかがチョッと心配だ。


日本への一時帰国に踏ん切りをつけてくれたのが、知人の相葉さん率いるツアーだった。

ウブドの散歩を1時間ほど同行するだけで、日本円の収入を得ることが出来た。

この援助のおかげで、私の一時帰国が可能になったとも言える。

「株式会社ゆうエージェンシー」のウブド・ツアーは、2011年から始まって今年で3年目。

通常年1回のところ今年は、お客様の都合で2回催すこととなった。

今年から「文化・芸能・宗教のレクチャー」が、私の仕事として追加された。

今月は8名様のツアーで、14日から18日まで「ベベ・テピ・サワ」に滞在した。

私は15日の朝のバリ島レクチャーと18日のカジェン通りの散策に同行した。

1時間ほどのレクチャーという名の雑談は、バリ初日というの高揚感が全員から感じられ暖かい時間が共有できた。

年齢が近いことと、旅行慣れしている人ばかりなので、話していても楽しかった。

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最終日18日の散歩。

まずは、私が1990年から1991年にかけての1年間滞在した「ロジャーズ・ホームステイ」を案内。

バレ・ダジューのテラスに、ロジャーのお父さんがいた。

私専用の離れにあるマンディ場は、以前のままだった。
「ロジャーズ・ホームステイ」については「ウブド沈没」をお読みください。

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ツアーは無事に終了しました。

日本一時帰国基金援助ありがとうがざいました。

もちろん、相葉さんもツアーのお客様も、そんな私の事情は知りません。
posted by ito-san at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月17日

スハティのワヤン君(22)

ワヤン君(Wayan Kardika)は、東モンキーフォーレスト通りにある「スハティ・ゲスト・ハウス」の経営者。

日本人旅行者に人気の宿泊施設だ。

1990年前半は、郵便局のあるジュンバワン通りにあった。

その頃のワヤン君は、スタッフの一人だった。

どういういきさつで、現在の地位になったかは訊いていない。

いつから現在の場所に移動したのかを訊くのも忘れている。

親切なワヤン君には、たくさんの日本人ファンがいる。

私のブログ読者の中にも、知り合いは多い。

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ワヤン君ファンの皆様に、新しい情報です。

先月10月1日、「スハティ・ゲスト・ハウス」のエントランスに、インドネシア&バリ料理「ワルン・ダリ・ハティ=Warung Dari Hati 」がオープンした。(写真:左手)

SehatiGuestHouse.jpg

正面向かって右手は「スハティ・スパ」。


椰子の実の器に入ってサービスされるカレーやスープがバリっぽくてGOOD。

ローカルワルンよりは高いですが、レストランに比べれば格段に安くて美味しいですよ。

応援してやってください。

★食事:ナシゴレンRp25,000-/ナシチャンプール&ミーゴレン&ツナカレーRp30,000-/チキンカレーRp35,000-/ベジタリアン・メニュー有り
★飲物:紅茶Rp10,000〜Rp15,000-/コーヒーRp15,000-/ジュース各種Rp15,000-/ビンタンビール大Rp28,000-小Rp20,000-/
★営業時間:10.00am〜10.00pm/定休日・儀礼祭礼日/
★Web:http://sehatiguesthouse.web.fc2.com/warung.html

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古い話ですが、ワヤン君がNHK教育テレビで放映されていた「さわやか3組」に出演したことを知っていましたか?

ご存じない方の為に、ここで紹介させていただきます。

「さわやか3組」は、1987年4月8日〜2009年3月11日まで続いた小学生向け教育ドラマです。

ワヤン君は、小山高生さん脚本の1996年、第16回「ワヤンさん、いらっしゃい」に出演した。

ウブドが大好きで、毎年のように訪れている小山さんは、「Dr.スランプ」「聖闘士星矢」「ドラゴンボールZ」などの脚本家です。

「極楽通信・ウブド Vol.1ーDari Japang」に小山さんからの手紙が掲載されていたので、無断で転載させていただきました。


いつも楽しく拝読しております。

Newsを一つご報告させて戴きます。

私の定宿でもある御馴染みの Sehati Guest House の Wayan Kardika 君が、私(小山高生)が脚本を担当するNHK教育テレビの学校放送・小学3&4年生向けの道徳ドラマ「さわやか3組」にバリ人の役で出演します。

よろしかったら日本在住のWayanファンのみなさんに、貴誌を通じてお知らせいただけましたら幸いです。

ロケーションを12月8日〜12日まで栃木市で行い、スタジオ収録を12月16日にNHKスタジオで行います。

その間、彼にはリハーサルが待ち受けております。


これは「わが国の文化や伝統に関心を持ち、国を大切にする」という道徳の指導要綱の徳目を、各小学校のクラスの道徳の時間で指導する際の教材となるものです。

まず授業の始めにドラマを視聴し、その後で先生と児童がそれをもとにディスカッションする為の資料になるわけです。

話の内容は・・・、「単身赴任でバリのホテルに料理指導に行っていたレギュラーの女の子・三和の父親が、半年ぶりに日本へ帰る所から始まります。

その時、父親がバリで知り合ったワヤン青年を栃木の自宅に連れて帰るのです。

そして、小学4年生の一人娘・三和とワヤンとが互いにカルチャーショックを受けつつも、交流を深めるというもの」です。

彼は重要なゲストキャラクターとして台詞もたくさんあり、日本の子供とガムランを演奏するシーンもあります。

また、父親が8ミリビデオで撮ってきたバリの記録(実は今回私が撮影したものを使う予定です)を三和たちのクラスで見せるシーンも登場します。

その際、Sehatiのスタッフ、ワヤン君の妻子も登場する予定です。

ラストでは、降ってきた雪に大喜びのワヤンさんを見ながら、三和が「いつか私もバリ島に行ってみるわ!! 気きっと行く!」と決意します。

もちろん、「私が案内します」というワヤンさんの台詞が続きます。

15分番組ということで、また道徳の時間ということもあって制約が多く、決して十分ではありませんが、それでも日本人とバリ人の理解と友好を願って書かせて戴いたものです。

日本在住の読者のみなさん、放送時間がとんでもない時間ですが、よろしかったら録画でもして戴いて御覧下さい。

ご意見、ご感想などお聞かせ戴けたら幸いです。

1995年11月27日


すでに終わっているので、放送予定は掲載しませんでした。

「極楽通信・ウブド」で告知したものの、実はわたくし「ワヤンさん、いらっしゃい」を見ていません。

小山先生、ゴメンナサイ。

内容を読み返してみて、改めて見てみたいと思っております。

小山先生、次回来ウブドの際には「USB」に入れて持って来てください。

ワヤン君の「ワルン・ダリ・ハティ」で上映会をしましょう。
posted by ito-san at 20:15| Comment(1) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月16日

ワヤン・クリシュナ再訪(59)

15日の昼12時を少し過ぎた頃、突然、我が家にバンリのワヤン君が訪ねてきた。

ワヤンは、私の在宅を確認をしたあと、表に出て行った。

次に入って来た時には、手に大きなビニール袋を2つ持ち、奥さんのイブ・アユ・ラクシュミを伴っていた。

ビニール袋は、インスタントのベジタブル・ラーメンが20ヶと食パンが4包み入った、お土産だった。

イブ・アユは、オレンジ色のパンジャビドレスに、第6チャクラの額に赤い塗りものしていた。

彼女の開口一番は、「イトサン、カラダ、ダイジョウブデスカ?」だった。

数日前から私の体調が良くないのをチャッチして、心配してくれていたようだ。


3日前の夜11時、久しぶりにワヤン君から私に届いた携帯電話には「itosan ogennki desuka? odaijini」と書かれてあった。

唐突な内容だ。

一週間ほど腸の調子が悪かった私は、今はもう大丈夫ですと返事をした。

ワヤン君からは「oyasumi」の返事がきた。

この頃のワヤン君は、ジョークを多発しようとしているのがfecebookを見てて感じ取れる。

先日は、自分撮りで上半身裸の写真をアップしていた。

本人は、これもジョークだと言うだろうが、意味がわからない。

私には、笑えない。

笑顔が幸せを呼ぶという考えは理解できるが、彼のジョークは一般受けしない。

唐突なメッセージもワヤン君のジョークの一つかもしれないと、その時は考えていた。


メッセージはイブ・アユからの伝言だったのだ。

「バンリのサイババ崇拝・弐(15)」でも書いたが、イブ・アユはサティア・サイババの弟子で現在バンリ県バンリ市内で “瞑想センター” を主宰している。

サティア・サイババから、伊藤さんを見舞いに行くようにと言われたらしい。

これはイブ・アユのビッグ・ジョークか。

“瞑想センター” には、噂が噂を呼んで毎日のように大勢の聴聞客が訪れる。

なかなか外出できずにいたが、今日は昼から6時までに暇ができたので訪ねて来てくれた。

サティア・サイババからのメッセージに真実味は薄いが、ワヤン君夫妻に心配りされているのは有り難い限りである。

ゴメンゴメン、サティア・サイババのサティアは “真実の” という意味だったね。


私とワヤン君が昔話に盛り上がっている間、イブ・アユはパチュン君の奥さんと話し込んでいる。

こちらは13年ぶりの再会を果たして、涙ぐんでいた。

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イブ・アユは「クニットは、たくさん飲まないように。これを飲むと良いですよ」と言い残してバンリ県新開発ミネラルウォーターを置いて行った。

バンリ県の産業振興会を後援でもしているのかなと疑ったが、そういうわけでもないらしい。

ワヤン君&イブ・アユに感謝。

〜オム・シャーンティ・シャーンティ・シャーンティ・オム〜

posted by ito-san at 16:48| Comment(0) | TrackBack(0) | テガランタン村滞在記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月14日

ダラム寺院のオダラン(58)

私の滞在しているテガランタン村ダラム寺院のオダラン(寺院祭礼)が、10月8日から始まった。

早いもので、3月12日からウク歴の一年である210日が経ったのだ。

今年、2度目のダラム寺院のオダラン。

テガランタン村住人になって10ヶ月の私にとっても2回目の参拝となる。


3月のオダランは、サコ暦の新年(1935年)・ニュピと重なった。

バリ島内すべての行事が中止されると考えていたニュピだが、オダランはニュピより優先されるようだ。

オダランのための寺院への行き来が特別に許される。

自動車&バイクなど音の出るものは使用禁止。

そう、静寂の日だからね。

徒歩ならOKということだ。

カレンダー上、どの寺院でもいつかはニュピとオダランが重なるだろう。

計算すれば、何年に一度巡ってくるのかわかるはず。

しかし、観光客が遭遇するチャンスは少ない。

現に私は、24年間の滞在で初めての経験だ。

特例として外出を許された村。

全島外出禁止の聖なる日に、おおピッラに道路を歩くことができるのだ。(と言っても、村内だけですが)

私がテガランタン村に滞在している間に、もうチャンスは巡って来ないかもしれない。

午後5時、正装に身を整え、これといって用事はないがダラム寺院の方角に歩いて行く。

テガランタン村の中央を貫く幹線道路を歩く。

一本しかない、まさにメイン道路だ。

普段でも人通りが少ない村、風景はいつもと変わらない。

罪にならない安心感と、ひょっとしていけないことしてるかもという、ちょっとした罪悪感のせめぎ合いが心地良い。

この地域だけに特別に許された、一日だけのVISA。

特権を噛み締めながら、ゆっくり歩く。

貴重な体験をさせていただいた、ニュピと重なったオダランでした。


今回のオダランは11日までの4日間。

3月の時は一日だけ。次回210日後のオダランも一日だそうだ。

8月30日に行われた「合同火葬儀礼」の、嵐のような忙しさが去ったあとのオダランはあっけなかった。

事前の準備も少なかった。

今回、各家からの相互扶助は、椰子の葉を編んだスダレ4枚と竹2本の提出だった。

椰子の葉を編むところを見たかったが、パチュン君はすでに終えていた。

「ラジカセを聴きながら、作っていたよ。気がつかなかった?」と言う。

隣家の若旦那がラジカセを大きく鳴らしてると思い込んで、私が小さく腹を立てていた時だ。

あの時の音源は、パチュン君が犯人だったのか。

なぜかバリ人は、大きな音でラジカセを聴く。

こんなバリ人気質を、私はまだ理解できていない。

まさかあんな大音響で、パチュン君がラジカセを聴くとは思ってもいなかった。

パチュン君は、紛れもないバリ人だ。

あの時、もしかして疑っていれば、椰子の葉を編むところを見られたのだ。

次に編む時は教えてくださいと伝えておいた。

編んだ椰子の葉は、寺院内の境内に作られた日除け屋根に使われていた。

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8日の初日は、トペン&ワヤン・ルマの奉納があった。

ダランの顔に見覚えがある。

カルタが「オカ・カルティニのバグース君だよ」と教えてくれた。

昔々「居酒屋・影武者」に、よく顔を見せていた人物だった。

観客のいない寺院内右門に向かって、神々に奉納する彼の姿が凛々しかった。

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9日10日の2日間は、闘鶏が催された。

ワンティランの中央に土が敷かれ、まわりに観客席がパイプで組み立てられた闘鶏場が完成していた。

観客席はリース会社から借りた物らしい。

「何でも買います・貸します」の全盛期が訪れる予感がする。

他の村からも大勢が闘鶏に遠征して来ていた。

招待状が配られるのそうだ。

バリ人男衆の金銭感覚はどうなっているのだろう。

いくらバンジャールとの付き合いとはいえ、ギャンブルには違いない。

損得勘定は合っているのか?

収支決済は、どうなっているのか?

今日もまた、誰かが涙を流していることだろう。

入場料Rp25,000-の収益と胴元としての収入は、プセ&デサ寺院の改修費となる。

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11日の最終日にはプレンボン劇が上演された。

夜10時に始まり、0時過ぎに終演。

パイプで組み立てられ観客席は、老若男女で満席だった。

お腹に危険物を抱えているような不安のある私は、0時前に帰宅した。

腸の調子が悪いのは、どうやらクニットの飲み過ぎのようです。

今日だけの教訓「なにごともほどほどに」。


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2013年10月12日

ビスマ通りの変貌(21)


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ウブド大通りに、T字で交わるビスマ通り(Jl.Bisma)。

高等学校とレストラン「ミロス・ガーデン」の間を入って、南下する通り。

家並みのない、左右に田んぼが広がる農道の行き先は畦道へと続く。

「サマズ・コテージ」「プリンガ・ジュイタ」「ポンドック・インダ」

ライス・フィールドの中に、心地よい風の通るバンガローが点在している。

夜には、蛍の乱舞が見られるだろう。

農道の終わりに “祠” が建っている。

地元の人が「このあたりでよく宇宙人を見るよ」と言う “祠” だ。

「蛍の光を見て、宇宙人だとか霊魂だとか、思い込んでいるだけじゃないの?」

私の知人が、幽体筆記&宇宙人遭遇の不思議な体験をした。

体験場所は「サマズ・コテージ」。

あ〜あ、教えちゃった。

「サマズ・コテージ」に迷惑がかからなければいいが。

この話は「ウブド沈没:■10月・20) 妖怪ガマンは赤たまねぎが苦手」の後半部分に書いてあります。

“祠” の向こうには、椰子の林に守られるように田んぼが広がっている。

右手の椰子林の中に「ブチュビュー・バンガロー」がある。

畦道の遥か彼方に、鬱蒼としたモンキーフォーレストが見える。

(★1990年代の追想でした)


モンキーフォレスト通りと平行して北南に走るビスマ通りを歩いてみた。

久しぶりだ。

2年ぶりぐらいだろうか。

ビスマ通りの入り口は、車がスレ違うにキツいほどの狭い道路。

右手は「ミロス・ガーデン」、左手は高等学校。

入り口に立つと、眼の前に、急な坂道が立ちはだかる。

車だと進入するのが厄介だが、交通量の多いウブド大通りに合流するのも骨が折れる。

ウブド大通りの渋滞をつくる地点のひとつである。

乗用車のドライバーが困った顔をして私を見ている。

オッといけない、私のせいで小さな渋滞が始まっている。

道路の真ん中で立っていたのだ。

私は、20センチ角のコンクリートブロックが敷き詰められた坂道を上り始めた。

「ミロス・ガーデン」裏手にワルンが建ち、その横に私的にはNGデザインの「Sushi Bar Rouge」が開店していた。

レストラン《セム・ジャン 》は、その隣。

「セム・ジャン」は、カジェン通りにある「ロダ・ホームステイ」が経営する「情報センター・ロダ」があったところ。

このあたり最近まで空き地で、奥に2〜3軒のバンガローがあり欧米人が長期滞在していたと記憶している。

その先、左手に人気レストラン「Cafe Des Artistes」がある。

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緩やかに蛇行する道をさらに先に進むと、セットバック&セミパブリックが施されたレストランとバンガローのエントランスが続いている。

1990年代のバンガローの面影はなく、新しいホテル&レストランが急増していた。

モンキーフォレスト通りと違って落ち着いて散策ができるのは、歩きにくい歩道がないからだろう。

迂回路でないため交通量も少ない。

すれ違う人の姿も少ない。

フクロウを描くワヤンさんのアトリエ&ギャラリー「オウル・ハウス (http://homepage1.nifty.com/owlhouse622/html)」は、このあたりだ。

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「ブチュビュー・バンガロー」の看板がその先に見える。

宇宙人が降りて来ていた祠は見当たらない。

ヒタヒタと染込むような不思議な空気感が姿を消して、今は、健康的なリゾートの雰囲気が漂っている。

ここから、コンクリートブロック石畳の路肩が土になる。

さらに進むと「コマネカ・ビスマ」「プルティウィ・ビスマ」などの中級ホテルや格安ホテルが続き、建築中のホテルが散在している。

渓谷沿いの土地は完売(or長期リース)と聞く。

土埃が舞い上がるのは、乾季だからか、それとも工事現場が多いためか。

この時期、ここを歩くのは辛いかも。

ヨッシャ!「オウル・ハウス」までを “ビスマ通り散策コース” と認定しよう。

気合いが入っていますが、まったく権威はありませんので。

南下するほど、建物は少なくなる。

コンクリートブロックが途切れた。

今、ビスマ通りの北口から約1キロの地点に立っている。

遠くまで来たと思うより、奥に来たと感じるのは、この道が通り抜けできない行き止まりだからだろうか。

まっすぐ草道を進むと、死者の寺・ダラム寺院があるモンキーフォレストの深い渓谷に突き当たる。

この渓谷エリアは今でも密度の濃い空気が漂っていて、私の好きな散策スポットの一つだ。

渓谷エリアに踏み込み、左折して砂利道を下る。

砂利道の向こうには二車線の橋が架かっている。

橋向こうは、車が通り抜けできない狭い道になる。

徒歩、自転車、バイクで抜けると、そこはモンキーフォレスト前だ。

今のところウブド大通りに出られる北口に活気があり、表玄関としての賑やかな体裁ができている。

道路が整備されても、北玄関&南玄関とも道幅が狭いのがネックだよな。

将来、車が通り抜け出来るようになれば、モンキーフォレスト通りの渋滞を避けてビスマ通りに迂回する車両が増えるだろう。

回遊性のある道路として、ビスマ通りも発展するだろう。

そして近い将来、ビスマ通りもモンキーフォレスト通り同様に、道路沿いの田んぼがなくなるのだ。


所要時間:北玄関口から南玄関口まで約30分。

正直に申し上げます。

実は私はバイクに乗って取材しました。

ゴメンナサイ。
posted by ito-san at 16:29| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月07日

ワヤン・プルワントのこと(20)


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プンゴセカン通り(影武者の近く)にあるイタリア料理の繁盛店「マンマミーア」が、道路を隔てた目の前に移転した。

なぜ移転したか? 理由は謎だ。

移転先は、すでに3度ほどイタリア料理店が短期間のうちに開店閉店を繰り返している場所。

相変わらず「マンマミーア」は繁盛している。

「マンマミーア」の空店舗にイタリア料理店が出店したが、1ヶ月程で閉店してしまい取材していない。

そのあと8月2日に、店名が変わってイタリアレストランがオープンした。

「またイタリアンか!」私は絶叫しそうになった。

ウブドは今、イタリア料理がブームかのように次々と開店している。

特に、この界隈は激戦地だ。

私の取材は、最低1ヶ月を経過することを条件としている。

ウブドの店舗は、目まぐるしく変わる。

ガイドブックには、6ヶ月以上経過しない店舗は紹介しないように注意している。

1ヶ月を待って、8月2日に開店した新店舗「マリクマリ=marikemari」を取材。

内装は、ほとんど「マンマミーア」のままで、ピザ釜がグレードアップされていた。

人気絶好調の「マンマミーア」の正面という条件で勝算はあるのか。

この店も早々と撤退するだろうと客観視した。


ある日、ワヤン・プラワント(Wayan Purwanto)が影武者を訪ねて来た。

話を聞くと、なんと「マリクマリ」のマネージャー兼シェフはプラワントだった。

「大ショック!」

イタリアンフードに食傷気味のウブドで、イタリアレストランの新参入は難しい。


ワヤン・プルワントは「スマラ・ラティ」創立期の客員メンバーの一人だった。

デワ・マハルディカ(1996.9.13没)と交互に舞台に立ち、クビヤール・トロンポンかクビヤール・ドゥドゥックを踊っていた。

「今夜は、どちらが踊るのかな」前奏のあと、中央から出てくる踊り手を凝視したものだ。

もちろん私はプルワント待ち。

プルワントの切れのある力強さと妖艶なしなやかさを併せ持つクビヤール・ドゥドゥックに、私はシビレタを感じた。

創作者のマリオもそうだが、本来は男らしい男がしなやかに踊るから見応えがあるのだ。

記憶に乏しいが、マハルディカが他界してから1年ほどしてプルワントの姿が見えなくなった。

マハルディカが踊っている時は “オカマ” の踊りと言われていた。

プルワントが出演しなくなったあとスマラティの公演を見た観光客が「プリアタンで見た時もそうだったけど、この踊りって、お客を笑わせるお笑い系ですか?」と聞かれた。

「化粧が “おてもやん” なんだよね」と、勝手な感想を言う。

観光客から見た場合、それも正しい意見なのかもしれない。

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子供で上手な子はいるし、女性や中性的な男性の素晴らしい踊り手もいる。

中腰での踊りは、生半可な体力ではできない。

腰高や座り込んでいる踊り手がいるのには、ガッカリする。

「どんなバリ舞踊にも言えることだが、美貌に惹き付けられて技量のチェックを見逃しがちにならないように、チェックする時には眼を細めて全身を、特に足下に注目して見るように」と高名な舞踊家に教えられた。

現時点でクビヤール・ドゥドゥックの頂点は、デワ・ニョマン君だろう。

男色的には、眉目秀麗なデワ・ニョマン君は好きなタイプだ。

美しいにこしたことはないが、私的には、クビヤール・ドゥドゥックは美形が媚を売る踊りではないと思い込んでいる。

未だに、プルワントの右に出るクビヤール・ドゥドゥックの踊り手に出会ったことがない。

プルワント絶賛で、デワ君ゴメン。


「居酒屋・影武者」の開店と「スマラ・ラティ」の創立期が近く、どちらも熱い時期だったこともあり、公演後、影武者にメンバーが集った日が続いた。

芸能談義に花を咲かせた夜が、幾度もあった。

同じ釜の飯を食った仲間という感じだ。

毎週のように定期公演に顔を出した。

奉納舞踊にもたびたび同行したし、幾度か共演もさせて頂いた。


突然、プルワントは私たちの前から姿を消した。

客船に乗って働いていると、噂で聞いた。

ボーイとして船に乗り、マイアミに降りてからは、中華の料理人、最後は寿司職人として5年ほど働いて帰国。

11年間のアメリカ・マイアミ生活。

「一度も踊りたいとは、思わなかった」私が思い描いた想像とはかけ離れた答えが返ってきた。

「なぜ、海外に?」という質問をしても、私の拙いインドネシア語では、たとえ答えが返ってきても理解できなかっただろう。

また、話してもくれなかったかもしれない。


現在は、師匠のイダ・バグース・ブランシンガ(Ida Bagus Blangsinga)を後援する立場にあり、本人が踊ることは少ない。

2012年9月1日:会場「GEOKS」にて、日本人舞踊家・大西由希子とジョイント公演「PENCARIAN」でコンテンポラリーを披露している。

これが彼の舞踊の方向性のような気がする。

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そんな彼がマネージャー兼シェフをする店が「マリクマリ」だ。

これは応援しないわけにはいかないだろう。

posted by ito-san at 17:24| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする