2013年12月31日

ウブドの年末(68)

年末を感じなくなったのは、ウブドに滞在始めて何年目からだろう。

日本に居る時には、12月に入れば、何となく忙しない気持ちになった。

一年をひと区切りとする気持ちは大きく、年頭には「一年の計」を立てる。

年内に、仕事を一段落しておきたいと考え、実際に慌ただしい。

クリスマスのセレモニーは、大晦日までの日にちが、残り少ないことを気づかせる。

日本には、忘年会なんて慣習もある。

年賀状という習慣もある。

そして大掃除。

「NHK紅白歌合戦」に年末を感じる人もいるだろう。

最後に除夜の鐘。

煩悩のおおい私は、この鐘に癒されたものだ。

calendar2014-12.jpg

我々が利用する西暦のカレンダーは、バリ人にとっては単に日にちが明記されているだけのもの。

曜日にも意味がない。

彼らは、バリ独特のカレンダー、ウク暦サコ歴に従って生活を営んでいる。(※写真は、バリの暦と西暦を組み合わせたバンバンさん考案のカレンダー)

クリスマスもない、仕事納めもない。

普段と同じひと月だ。

バリ人に忘年という概念もない。

年度の変りにも全く興味がないようだ。

(※官庁関係には御用納めと年始休暇があるようだ。)

年末にメリハリがないと考えるのは、我々がツーリストだからだ。

アッ!という間に時が経つのも、日本の四季のようなメリハリがないからだろう。

私のウブド滞在24年間もアッ!という間だった。

バリ人は、ガルンガンニュピオダランで、日常に変化ををつけている。

バリ島は、インドネシア有数の観光地。

中でもウブドは、バリ島屈指の観光地。

年末年始には世界中から観光客が訪れ、中心地は竹下通り状態(この表現って古いですか?)。

町中に観光客が溢れるが、バリ人にはいつもより観光客が増えただけのこと。

彼らの日常は変わらない。

私が年末を感じなくなったのは、周囲のバリ人が新年を迎えて改まろうという雰囲気がないからだろう。


パチュン家の大晦日も、通常の一日のようだ。

日本人専門ガイドのパチュン君は、12月25日から書き入れ時で連日帰宅が遅い。

大晦日の帰宅も年越しになってしまうだろう。

留守番は、イブと末っ子のコマン君。

「2人で寂しいから、イトウさんも早く帰って来てくれ」とイブに言われている。

ノタリス(司法書士)事務所に勤める長女のアユが、仕事納めで昼過ぎに帰宅した。

「今日はスンバヤンをすませて半ドンでした。1日と2日が休暇です」と教えてくれた。

ホテル勤めの長男は、帰りが遅くなるだろう。


夜8時過ぎに「食事です」イブの声がした。

テラスに出ると、大きなテーブルの上に食事の用意がしてあった。

イブとアユとコマンと一緒に夕食。

「良いお年を」ということで卓を囲んでくれたようだ。

「皆が集まると楽しいのにね」イブはどことなく寂しそうに言った。

昨年は、家族全員でテラスのタイルの上に座り込み食事をしたようだ。

アユから「この家を、そして家族を気に入って、いつまでも住んでください」と嬉しいコメントがあった。

コマンは食後がすむと、そそくさと友人が集う村のワンティランに出掛けていった。

カウントダウンの予定があるようだ。


今年の私は、パチュン家で新年を迎える。

昨年は、トゥブサヨ村だった。

トゥブサヨ村の借家から「年越し仮装PARTY in UBUD」に出掛けていった。

昨年まで4年間続いた「年越し仮装PARTY in UBUD」が、今年は中止となった。

今年は、いつもの時間に、いつものように「影武者」に顔を出して、いつものように食事をして帰るだろう。

リピータの日本人客がいれば、バリの話で盛り上がりたい。

もしかすると、年越しそばが食べられるかもしれない。

(ウブドの変則十字路にあるワンティランでカウントダウンのバザーがあったが、いつのまにか中止してた。花火の打ち上げも昨年より縮小されていた。)


※写真のカレンダーは、来年2014年の12月のもの。

制作者・バンバンさんの写真が老けている。

本人は、他界していると聞いている。
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2013年12月27日

ウブド・宿泊施設の変遷(35)

バリ島には、世界各国から観光客が押し寄せて来る。

日本人観光客は横ばいだが、ここ数年、中華系(台湾、香港、中国本土)、大韓民国、ロシア連邦の観光客が目立つようになってきている。

経済成長している国々だ。

世界中から “癒しの観光地” として注目されているバリ島。

職人不足になるほど建築ラッシュは続き、開発途上の景色を作っている。

ホテルはアパート形式で部屋数は多く、供給過多ではないかと、他人事ながら心配してしまうほど宿泊施設が増殖している。

別荘地としても世界中の富裕層から注目されているバリ島。

近年は、投資目的の長期リース・ヴィラが増えている。

これらが、地価高騰の要因と言えるだろう。

「諸行無常」、発展を避けられないのはわかっている。

地形を壊さず、自然との調和を保った建築を期待したい。


ウブドに旅行者が泊まったのは、ウブド王宮が最初だった。

その時はゲストとしての宿泊で、本当の意味でのホテルではない。

外国人旅行者としてヴィルター・スピースが滞在し始めた時期、ウブド王宮は宿泊施設としての役目を果たしていたと思われる。

一般観光客を泊めたホテルは「ホテル・チャンプアン」と「ムティアラ・ホテル」(1955年)から始まった。

ホテル・チャンプアンは、ウブド王宮がウォルター・スピースに提供した土地に、彼が建てた住宅を改築してオープンしたホテル。

現在は、ウブド王宮の所有となっている。

ムティアラ・ホテルは、ウブドの変則十字路西・ワンティラン正面にあった。

現在「レストラン・ココビストロ」がある一画だ。

部屋は8室で、ジャカルタの旅行社から送られた観光客が顧客だった。


私がウブド滞在を初めた1990年以前の宿泊施設は、ホームステイが主流だった。

ここで言うホームステイは、家族と同じ家屋に泊まって寝食を共にするというのではなく、別棟を借りる民宿のようなものだ。

バリ人の生活習慣が身近で見られるのが、ホームステイの良いところ。

私が泊まったのは、カジェン通り1番地の「ロジャース・ホームステイ」。

rojas1.jpg

↓ 写真は、私が宿泊していた家屋。

当時とほとんど変わっていない(撮影:2013/12/25)。

今は、ロジャーのお父さんが使用している。

足腰の弱くなったお父さんのために、階段に竹の手すりが付いていた。

rojas2.jpg

ウブドを散策すると、門や塀に、小さな看板が掛かっている家を見つける。

ロスメン、ゲストハウス、アコモデーション、ハウス、イン、ペンッションなどとさまざまな名称をつけて観光客の目を引いている。

軒並みホームステイだ。

老朽化したホームステイが改築され、プール付き、ヴィラ風のホームステイも増えている。

ホームステイの第1号は、モンキーフォレスト通りにある小学校の横の道を入った「オカ・ワティ」だと言われている。


1990年に入って、バンガロー、コテージ、ヴィラ、ロッジなどといったミドルクラスの宿泊施設が建築されるようになった。

海外の旅行会社が中級ホテルと契約を交わして、一般観光客を送り込むようになったのもこの頃だ。

これまで滞在者のほとんどがホームステイを利用するバックパッカーだったが、この頃から旅行者の様変わりが始まったと言える。

毎日が暇だったので宿泊施設を調べたことがあるが、100件ほど調べたところで調査を止めた。

次からつぎへと増え続けるため断念した。

今では、300件以上あると思われる。

それと、「勝手に調査をすると逮捕されるよ」と人類学を研究している友人からアドバイスされたからだ。

当時は、政府の許可を得ないと調査をしてはいけなかった。

共産党クーデター(1965年)の残滓に、25年を経てもなお神経を配っていたのだろうか。

「居酒屋・影武者」が、漢字の看板を出していて叱責を受けた時代だ。

これは、単なる嫌がらせだったかもしれないが。


ホテル名に “リゾート” “スウィート” “ヴィラ” が加えられたり変名し始めたのは、いつの頃からだったろうか?

スパやエステサロンが観光客の目玉商品になると顧客確保にスパを併設し、名称にスパが加えられるようになった。

ウブド田舎暮らしの私には、これが世界的な傾向なのかどうかを知るすべがない。

これらのホテルの一泊は、現地の人なら2〜3ヶ月分の給料に匹敵し、私のひと月の収入と変わらない料金だ。

ubud-village.jpg

ホームステイから中級ホテル、そして五つ星ホテル、さらに高級ヴィラまでが混在するウブド。

『ウブドの未来は、いかに!』

リゾート地としての優位が、いつまで続くか、と危惧するのは私の思い過ごしだろうか?

posted by ito-san at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月25日

バリで見かけた「道路標識」(34)

今夜は、クリスマス・イブ。

今の私には、まったく関係のない行事である。

いつものように、平凡な一日が過ぎていく。

ドゥダルの来襲も、日増しに減っている。

しかし、このところ連日の雨模様。

洋服タンスの衣類が湿気気味。

身体も湿気ってきている。

本格的な「雨季」に突入したのだろう。

昨年は、こんなに雨が降り続いただろうか。

1年前のことなのに、すでに忘れている。

大家のパチュン君に言わせると「毎年、こんなもの。1月はもっと降るよ」って。

外出もままならない。

時間を持て余して写真の整理をしている。


デジタルカメラを入手する(たぶん2007年)以前のプリントした写真だ。

保管してあったネガの表面が、湿気でほとんどが溶けてしまった。

プリントした写真は、シミだらけ。

残り少なくなった写真をスキャンして、パソコンに保存する作業中。

バリで見かけた「道路標識」のいろいろを見つけたのでアップしました。


UPACARA1.jpg
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まずは、バリならではの《 HATI HATI ADA UPACARA 》標識。

「この先で、儀礼を行っています。注意してください」

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バリ西部で見かけた「鹿(ムンジャンガン=Menjangan)に注意」の標識。

ムンジャンガン島には、野生の鹿が棲息しているらしい。

ちなみに、トヨタ車の名称のキジャンは、小鹿のこと。

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「この先で、工事を行っています。注意してください」の標識。

緊張感のないイラストに、微笑んでしまった。

雑な工事してんだろうな〜。

標識2.jpg

「この先、緩い段差があります。注意してください」の標識。

標識3.jpg

「この先、オッパイがあります」の標識ではありません。

こんな勘違いするのは、私だけか。

正解は「急な段差が続きます」の標識です。

注意を促す標識は黄色なんですね。今更、気がつく愚か者の私。


次のブルーの標識は、イラストで理解できますよね。

「この先、○○があります」の標識


標識4.jpg
標識5.jpg

正解の方には「道路標識バッチ」進呈。

そんな物あるんかい?(ひとり突っ込み)

嘘ついてゴメンナサイ。

クリスマス・イブだから、許してください。

それこそ関係ないでしょう。(苦肉のひとり突っ込み)

posted by ito-san at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月21日

カキ・リマ・ベンシン(33)

年々、ガソリン代が値上がってますよね。

現在、リッター6,500ルピア。

おかげで諸物価も右肩上がり。

私の日常にも貧窮の兆しが見えて来た。

貧乏してても癒されるウブドで生活していて、泣き言を言ってはヒンドゥーの神様に叱られるそうだが。

唐突に話は変わりますが。

ウブドで「ガソリン・スタンドはどこにありますか?」と村人に訊ねても、誰も教えてくれませんよ。

どうしてかって?

それは「ガソリン・スタンド」は和製英語で、英語では「ガス・ステーション」だからですよ。

ゴメンゴメン、そうがじゃなくて、インドネシア語で「ポンパ・ベンシン(Ponpa Bensin)」と言わないと通じないのです。

かく言う私が、困った経験者です。

ポンパはポンプのことで、ベンシンはガソリン。

ベンシンをポンパで汲み上げるところから命名されたのかな?

一般的にウブドでは「プルタミナ」と呼ばれている。

ガソリン・スタンドはポンパ・ベンシンで、売っているベンシンはプレミウム(Premium)と言われる。

ちなみに油はMinyak、石油はMinyak Bumi(地球)、灯油はMinyak Tanah(大地)、香水はMinyak Wangi(芳香)だって。


インドネシアの石油は「国営プルタミナ」1社の独占販売。

近年、民間会社が権利を買って「プルタミナ」を経営しているところもあるそうだ。

ウブド地域のプルタミナ1号店は、1998年のテガス(マス方面)だった。

続いて、テガス・カンギナン(Tegas Kanginan)が2001年。

アンドンは2005年。

プンゴセカンは2006年になる。

「プルタミナ」ができるまでは、雑貨屋で瓶詰めのプレミウムを買っていた。

ウブド大通りはもちろんだが村道沿いに、軒並み(100メートルおき)に見つけられた。

なぜか看板には、英語で「PETROL」と書かれてあったりした。

Kaki-Rima-Bensin1.jpg

ポンパ・ベンシン出店の影響で廃れ、今では見つけることが大変なほど軒数が減っている。

瓶から、プラスチックのジョウゴに濾して入れてくれる。

こちらはちょっと割高で、リッター7,000ルピア。

プレミウムを売るワルンは「カキ・リマ・ベンシン(Kaki Rima Bensin)」と呼び「プルタミナ」と言い分けている。

カキ・リマは5つの足と言う意味で、手押し車屋台の車輪2つと突っかい棒、それを押して商いをしている人の足2本の合計のこと。

現実には、プレミウム販売を手押し車で営業していないので、通称と言うところですかね。

Kaki-Rima-Bensin2.jpg


プレミウムと言えば、こんな思い出がある。

ぺー・カー・べー(PKB)のゴンクビヤール県対抗戦を鑑賞した帰りのこと。

PKB(Pesta Kesenian bali)は、観光客にはアート・フェスティバル(バリ芸術祭)としてアピールしているが、地元の人々にはぺー・カー・べーでないと通じないことが多いので注意・注意。

夜11時30分頃。

とにかく、その帰路でのことだ。

バトゥブラン・デンジャラン村集会場(バロン・ダンス会場)の前で、バイクが止まってしまった。

ガス欠だ。

こんな時間に、こんな場所で、最悪のガス欠。

どうしよう。

「カキ・リマ・ベンシン」は、夕方6時頃には店を閉めてしまう。

この頃は、まだポンパ・ベンシンも少なかったし、この時間では閉店している。

途方に暮れていると、道路を渡って近づいて来る人影があった。

そういえば、集会場のクルクル塔の下に数人の男たちが腰を下ろしているのを見た。

きっと、そのうちの一人だろう。

彼に、この時間でもプレミウムを売っているところを訊いてみよう。

近づいた青年は、東映のヤクザ映画にでも出てきそうな苦み走ったいい男だった。

ちょっと危険を感じる男だが、この男ならお近づきになってもいいかな、なんて思うほどの細面の男前だ。

青年は「ガス欠なんだろう」というジェスチャーをし、俺についてこいと無言で行動した。

プレミウムを売ってくれるところへ連れて行ってくれるのだろうと判断し、私はついて行った。

青年は、400ccのバイクに跨った。

私が後部座席に乗ると、バイクは爆音をたてて駆った。

大通りを1〜2分走り、左折して住宅街に入っていった。

バイクは、板戸の閉まった雑貨屋の前で止まった。

やはり店は閉まっている。

しかし、青年のクールな表情は変わらない。

これからどうするのだろうと、青年の行動を見ていると、彼は板戸を緊急事態でもあるかのように激しく叩いた。

青年は中から返ってきた声に答えると、雑貨屋の中に入っていった。

すぐに、赤い小さなポリタンクを手に戻って来た。

プレミウムが手に入ったのだ。

これは、まさに天の助けだ。

青年は私のバイクにプレミウムを入れると、エンジンを起動させた。

これでウブドまで帰れる。

青年が自分のバイクに跨った。

私はプレミウム代を青年に手渡した。

お礼にいくらかのお金を渡そうとした時には、すでに青年は背中を見せて走り去っていた。

親切を押し売りしない青年の行為に、私は「格好いい奴!」とつぶやいていた。


幻の青年の話を、私は数人の日本人女性に話して聞かせた。

彼女たちは、青年に会いたがった。

もちろん私も会いたかった。

しかし、私に青年との連絡手段はない。

時が流れ “影武者” の由美さんの婚約者・バトゥブラン村のデド君との雑談の中で、私はこの親切なバトゥブラン村の青年の話をした。

ことの顛末を話し終わると「それは私の従兄弟でしょう」とデド君は言った。

バリでは、こういう出会いがよくある。

同席していた、kyokoちゃんからクレームがついた。

バイクの一人乗りだと思っていたら、どうやら彼女と一緒だったようだ。

kyokoちゃんとボンチェン(2人乗り)したという記憶ない。

もしデートだったとしたら、私は失礼な奴だよね。

よくよく考えてみると、バイクではなくトヨタのキジャンに乗っていたようだ。

ウブドから数人が同乗して、ぺー・カー・べーに出掛けたのを思い出した。

それにしても、素晴らしい思い込みだ。

キジャンを路上駐車して、青年とプレミウムを探しに行ったのを思い出した。

かなり記憶が薄くなってきている。

ボケが始まってきてはいるが、救いは髪が薄くなってきていないことだ。

私は青年と再会を果たすことができ、あの時のお礼を伝えた。

諏訪ちゃん、オギボーさん、残念です、青年は結婚していました。


posted by ito-san at 15:48| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月12日

映画出演の続き・その参(32)

夜になって、迎えの車が来た。

今、安ホテルに残っているのは、カズ君とコテツちゃんと私の3人だ。

車は、民家が立ち並ぶシンガラジャ市街に入った。

撮影用照明が用意され、道路が煌煌と照らし出されていた。

黒々とした配線ケーブルが、道路に敷設されている。

あたりには、人垣ができていた。

撮影現場とは、こういうものなのだろう。

そして、その役者が我々3人組だということだ。

オランダ統治時代の建築と思われる2階建の邸宅がライトアップされている。

本格的と思われる撮影現場の雰囲気に圧倒され、緊張する。

今夜は、かなり重要なシーンの撮影になるのだろう。

人垣を抜けて邸宅に入る。

足の踏み場もないほど、いたるところにケーブルが這いずっていた。

監督から手渡された台本には、ローマ字で日本語のセリフが載っている。

以前もらった台本にあったセリフだ。

このセリフなら、ほとんど覚えている。

いよいよ阿南少佐の登場だ。


私は、寝室の設定になっている部屋にいる。

空き家なのだろうか、室内には椅子ひとつない。

座る椅子がないので、部屋の中をウロウロと歩き回る。

扉を隔てた応接室には、平良定三役のカズ君と役名を忘れてしまったコテツちゃんがいる。

この夜、平良定三とその仲間は、血判を押した離隊決意書を携えて阿南隊長宅を訪ねていた。

隊長は尊敬できる人物で、彼らから全幅の信頼を得ていた。

史実では、シンガラジャの阿南隊長宅を訪ねたのは、平良(ニョマン)、田島(グデ)、中野(マデ)、木村(クトゥ)の4名である。

本番スタートの指示がでた。

私は心を落ち着けるために、大きな深呼吸をした。

カチンコが「カチン」と鳴った。

今まで就眠していたという様子で、私は、あくびを噛み締めながら部屋から出る。

机の向こうに、背筋を伸ばして緊張した面持ちで2人が座っている。

この緊張は、彼らがあがっているからか、それとも役柄になりきっているからか、判断がつかない。

私は、相対するように腰をおろした。

彼らから緊張感が伝わってきた。

役柄になりきっている。

「われわれは、今夜12時をもって独立軍に参加すべく離隊いたします」平良軍曹が代表して意見を述べた。

想像はしていた事態だ。

私は渋面をつくり、少し瞑目したあと「そうか……」と、沈む声で答えた。

「お前達の気持はよくわかる。お前達のとろうとする行動について、今は、良いとも悪いとも判断がつかない。結果は歴史が解明するであろう」

複雑な心境での発言だ。

「ただ、私には兵士を親元に帰す義務がある。そのために私は隊長として、お前たちを止めることも薦めることもしない」

それだけ言うと、深く椅子に腰を落とし、背もたれに背中を預けた。

このセリフも事実にもとづいている。

完璧に覚えたセリフで、阿南少佐に成りきることができた。

「有り難うございます。長年お世話になりました。それでは今夜12時に部隊を離れます」と断り、2人の兵隊は退去していった。

彼らは今後、脱走兵として身を隠し、特別遊撃隊としてインドネシアの独立に加担するのだ。

戦時下だか、オランダと蜜月関係のあるウブド王家の長男チョコルド・ラカ・スカワティが、東インドネシア共和国の大統領に任命されている。

オランダのインドネシア統治に賛成であるウブド王族の監視からも逃れなくてはならない。

前途は多難だ。

そんな思いを全身で表現する。

カメラは、私の背中を撮っている。

モニターを見ている関係者から、拍手がわき起こった。

監督の横に、エバァさんとロベルトさんがいる。

カズ君とコテツちゃんの顔も見える。

拍手は、なかなか鳴り止まなかった。

Margarana10.jpg

軍関係者の住宅と思われる場所に、車で移動。

カズ君とコテツちゃんが、ぼさぼさの長髪カツラに髭をメークされた脱走兵に変身。

出番のない私は、見学だ。

みすぼらしい姿の2人は、ジャングルを7日間彷徨う脱走兵。

屋外に作られた簡単なセット。

村人に助けられ、食事を施されるシーン。

「もっとダイナミックに食べてください!君たちは一週間何も食べていませ〜ん!うわ〜飯だ〜!っう感じで。わかりますか!は〜いスタート!」と監督の怒鳴り声。

何度目かのNGを経て、やっとOKのサインだった。

Margarana9.jpg

続いてのシーンでは、煙幕の夕霧が焚かれた。

ライトに映し出された煙幕が幻想的だ。

夕霧に紛れて、2人は兵舎に忍び込もうとしている。

インドネシアの独立に欠かせない武器を、日本軍から盗もうとしているのだ。

2人はあたりを注意深く窺っている。

銃声が聞こえた。

どこかからか狙われている。

逃げ惑う脱走兵。

レールの上をカメラが移動する。

共演の役者もエキストラもいない。

カズ君とコテツちゃんの2人だけの戦闘シーン。


この後、撮影は資金不足ということで中止となった。

資金のメドがつけば集合がかかるだろうと、我々は映画の完成を望んで待機した。

再び、我々日本人が呼ばれることはなかった。

にわか役者の生活は、3ヶ月ほどで幕を閉じた。

インドネシアの独立に協力した阿南少佐は、英雄となって讃えられている。

映画が放映されていれば、英雄を演じた私も株が上がって、ウブド生活も違ったものになっていただろう。

返す返すも残念である。

バリ島残留日本兵で最後のひとりとなった平良定三(ニョマン・ブレレン)さんは、2004年6月5日に亡くなっている。

〜完〜

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2013年12月10日

映画出演の続き・その弐(31)

残念な出来事が起こった。

日本兵のエキストラは、中国系インドネシア人の学生が演じている。

深谷さん、カズ君、コテツちゃんの出演するシーンには、彼らと共演することがよくある。

休憩時間に学生のひとりが悪戯していたモデルガンが暴発し、近くにいた深谷さんの片眼に火薬があたってしまった。

誰とでもすぐに仲良くなってしまうのが特技かのように、深谷さんはまわりの人間と打ち解けてしまう。

そんな時の事故だと思う。

この日の撮影現場は、コテツちゃんが一緒だった。

ただちに、デンパサールのサングラ病院に運ばれた。

検査入院だ。

私には、コテツちゃんから知らせが入った。

最初に浮かんだのは「眼が不自由になっては、仕事に差し支えるのではないか」ということだった。

深谷さんは、コミックの公募に「アキオ紀行バリ」が入選して漫画家としてデビューしたばかり。

漫画家として将来が多いに楽しみな青年が、インドネシア軍部を誉め称える広報活動のような映画の撮影に参加して失明してしまっては不憫だ。

翌日、カズ君とコテツちゃんと一緒に病室を訪れた。

角膜に傷、角錐に内出血があるそうだ。

本人は元気そうにしていたが、心の中には不安がいっぱいだったろうと思うと、胸が苦しくなった。

サングラー病院での手術は、推薦できるほどの情報がない。

映画製作会社からの傷害保険の保証はない。

話し合ううち、本人がシンガポールの病院に移る意思を現した。

海外青年協力隊でバリに赴任していたA子さんの協力を得て、ことなく移送することができた。

シンガポールでの手術が終わると、深谷さんは日本に帰国した。

リハビリには、半年ほどかかるそうだ。

視力は、少し落ちると言う。



「わるん酔し」のオーナー・竹俣さんの車に便乗してバリ北部シンガラジャに向う。

今回の撮影現場は、シンガラジャだ。

同乗者は、私にコテツちゃん、カズ君とカズ君の奥さん。

プスピタのかおりちゃんとバリ舞踊を習っているゆきちゃんが女優初挑戦で同行している。

久しぶりの遠出で、みんなウキウキ遠足気分。

別組で行動している竹俣さんは、すでにたくさんの場面に出演していた。

タバナン県チャナンサリ村のグスティ・ングラ・ライの実家で、斥候役で活躍したことを話してくれた。

途中にあるゴルフ場に立ち寄って、竹又さんの知人をスカウトしていくことになった。

残念なことに「忙しいから無理です」と断られてしまった。

「私は駄目だが、スリリット村に住む日本人はどうですか」と紹介された。

スリリット村に、ひとりで住んでいる男性がいることに驚いた。

誘うと、喜んで同行してくれた。

シンガラジャ市の外れにある、軍の施設に到着。

別の車で現地入りしたロベルトさん一行と合流する。

こちらの一行は欧米人ばかりだ。

取りあえず、街の中心地まで出て昼食にしよう、ということになった。

Margarana4.jpg

食後、軍舎に戻る。

だだっ広いロビーに、赤いパンチカーペットが用意されていた。

ここが控えの間というわけだ。

カーペットの上に腰をおろし、荷物を近くに置く。

何の説明がないままの待機のため、退屈でしょうがない。

退屈だからと言って、軍舎の中を勝手に徘徊するわけにはいかない。

スパイ容疑で逮捕され、政治犯として刑務所送りになるのは嫌だ。

ダラダラしている我々に、いきなり「エキストラを探せ!」特命が下った。

ヨーロッピアンのエキストラが20名ほど必要なのだそうだ。

必要だからといって、現地調達でいいのかい。

ロベルトさんが、カズ君とコテツちゃんを連れてロビナ・ビーチへ出掛けて行った。

なぜ、出演者がエキストラ調達に走るのかと疑問に思ったが、こういう業界にはこういうこともあるんだろうなと無理矢理納得する。


特命を受けたエキストラ調達隊から聞いた話。

ホテルのプライベート・ビーチに入り込み、砂浜に寝ころんでいる観光客を物色。

この時点で、かなり怪しい奴らだ。

ロベルトさんから「カップルとグループを狙え!」の作戦が下った。

ひとりだと尻込みしていまうが、仲間がいると思い切った行動ができる、というのがロベルトさんの考えだ。

旅先でのエキストラ出演は、思い切った行動なのか?

出演している我々は、無謀な行為なのか?

我々を無謀な行為に誘ったロベルトさんは、何者?

いくつかのクエッションマークが浮かんだ。

「映画に出演しませんか?(英語で)」

老人と子供を省いた、カップルとグループに “ 突撃・出演交渉 ”が始まった。

リゾートに来てのんびりしているところに、いきなりと声を掛けられたら驚くだろうな。

おまけに、カズ君とコテツちゃんは英語が苦手。

ロベルトさんが助け舟を出すまで、2人の説明はどうしていたのだろう。

「オー・マイ・ゴッド」よほど物好きでない限り辞退する状況だ。

物好きヨーロッピアンは、10数名いた。

Margarana5.jpg

パンチカーペットの控えの場で、衣裳を着替える。

ゆきちゃんが「化粧がケバい。これでは娼婦だ!」と憤慨していた。

インドネシアのオカマちゃんの化粧は濃いことが判明。

軍舎の運動場に集合。

運動場にはテントが張られ、記念式典風景になっていた。

テントの中にヨーロッピアンの顔が見える。

ロビナ・ビーチでキャッチしてきた、物好きヨーロッピアン達だろう。

我々日本人は、テントの後方席に座った。

景色を見ているうちに撮影は終わっていた。

このあとすぐに、晩餐会の撮影が官舎内の一室で行われた。

竹又さんとかおりちゃんが政府高官の夫妻役となり、挨拶の場面があった。

かおりちゃんは着物姿だ。

ウブド出発前に女性の着物を持って来てくれと言われたが、着物を持っている日本人なんてそういるものではない。

有り合わせの着物を今、かおりちゃんは着ている。

狭い室内で、各国高官が集うダンスパーティーの様子を撮影。

物好きヨーロッピアン達は、自前の衣装で着飾って大活躍。

ロベルトさんがテナー・サックスを吹いた。

阿南少佐役の私は顔を見せられないので、後ろ姿だけで何役もこなした。


長い一日が終わり、安ホテルに投宿。

ホテルの玄関に、若い娘が数人訪れた。

映画の撮影があるのを聞きつけ、出演者のサインを欲しいと言うことらしい。

彼女たちの勘違いに付き合い、我々にわか役者は、有名人気分でサインをすることになった。

〜その参に続く〜


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2013年12月05日

映画出演の続き・その壱(30)

「そのうち気が向いた時に書こうかな」なんてコメントを書いた、映画「Puputan Margarana」出演(18)の続き。

これは、1995年の出来事です。

思いのほか資料が集まらず、見切り発車です。

読み返してみると、意外と面白くない。

こういった話は当事者が盛り上がっているだけで、他人には興ざめかもしれない。

記録として残しておくために、とりあえずアップした。

では「発車オーライ」。


映画には、残留日本兵の苦闘も表現されている。

幸か不幸か、私は戦後生まれの「戦争を知らない子供たち」のひとりだ。

もちろん、今は、子供ではない。

私は役つくりのため、残留日本兵に関する書物を数冊読み、彼らを理解しようとした。

意外と凝り性で、熱しやすく冷めやすい自分の性格に、今更ながら気がついた。

ウブド在住の塩田さんは、太平洋戦争に出征している。

当時の話を伺うためアジ・ホームステイを訪ねた。

男性長寿(1924年生)ナンバーワンの塩田さんの健康を心配して、私はたびたび宿を訪ねている。

グライダーで大空を翔ていた大学生時代の話。

19歳で学徒出陣した話。

空軍の飛行士として、インドネシアのバンドゥンに駐留した話。

バリ島に飛行してきた時の話。

ジャワ島・バンドゥンで終戦を迎えた話。

約4時間、戦争の罪悪と青春の思い出を熱く語ってくれた。

実感はわかないが、戦争の悲惨さは理解できる。

体験者の話を聞けるのは、貴重なことだ。

「いつまでも元気でいてください」

この後、何度も訪問して元気づけてきたが、2009年3月27日、塩田さんは亡くなった。

戦後は、自衛隊空軍に教官として出向いた。

その時のアクロバット飛行の写真を見せてもらったのを思い出した。


友人たちとは、カットが違うためか、別れ別れになることが多かった。

主役クラスの役者とは、一度も撮影を一緒にすることはなかった。

まずは、私の撮影現場からお伝えしよう。

Margarana8.jpg

現場には、国防色の軍用トラックが数台止まっている。

近づいて見ると、普通トラックにベニヤでボディが作られた模倣軍用トラックだった。

ナンバー・プレートには「場利」と書かれてある。

「場利」で正しいがどうか訊かれたが、私にも知る由はない。

旧式バイクは、マニアからのレンタル。

大きくカーブする田舎の道で撮影開始。

私の眼の前には、20〜30人の村人役が道路に横に広がって座り込んでいる。

大勢の村人を前にして、日本軍人が演説をするシーンだ。

演説はインドネシア語。

セリフは、今さっき渡されたばかりの薄い台本の中の数行。

契約の日に手渡された台本の一部に載っていたセリフに似ている。

数行とはいえ、インドネシア語のまったく話せない私には、覚えるのもままならない。

棒読みのセリフに、バリ人の男優さんが演技指導してくれる。

演技どころではないのに。

何度も発音を直される。

私が物覚えの悪いのを理解した助監督は、大きな紙にセリフを書き写した。

3枚用意されている。

「顔を左に、右に、中央にと、相手を見て話すように」と助監督から注文が出る。

セリフの書かれた紙が村人の背面に掲げられる。

「バパパパ・イブイブ・ソダラソダラ・・・・」私はセリフを読む。

紙が上下左右、ふあふあと動く。

目線を自然の動きにするためだと言うが、あまり動かれると読めなくなってしまう。

私の顔も一緒になって上下左右する。

さあ本番!

終わってみれば、たいしたセリフではなかった。

凝り性な私のことだから、前もって渡されていれば完璧な演技が期待できたのに。

残念である。


夜間に、デンパサールにある王宮を使用して撮影をした日のこと。

車の中で軍服に着替えて、打ち合わせもなく前庭で待機。

撮影スタッフ少々。

スタッフに、屋敷に入るように促された。

細田さんと私が、屋敷の門を開けて入ろうとする。

「もうちょっと乱暴に開けてください!酔っぱらいの感じで」と注文が入った。

えっ! いきなりの本番かい?

酔っぱらい役は、細田さん。

中に入ると、奥には照明があたり、人の数も多かった。

内部で撮影があったのだろう。

というより、我々の動きにカメラの焦点が合わされていた。

このあと、酔っぱらいの細田さんが屋敷の娘にちょっかいを出すシーンの撮影があった。

私は、酔っぱらいをだなめる役で、後ろ姿だけ。

セリフは日本語。

日本軍人が醜態を見せるシーンだ。

占領当時の日本軍の中に、恥ずかしい行為をした軍人もいたのだろう。

記憶にないが、細田さんは、卑猥な日本語のセリフを言わされていた気がする。

私は、恥ずかしい気分になったのを覚えている。

細田さんは、スケベな酔っぱらい役をなんなくこなした。

本人とすれば、酔っぱらい役は地でいけるが、スケベ役は嬉しくなかったと不満そうだった。


そう言えば、永田さんも殴られるほどの悪役で出演している。

「後味が悪い!」とボヤイていた。

こうやって、いくつかのショットを繋ぎ合わせて映画はできていくのかな?

たくさんの日本人滞在者を巻き込んで「映画・Puputan Margarana」の撮影は進んでいくのであった。

〜その弐に続く〜

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2013年12月03日

雨季前のムチャル儀礼(67)

昨夜のことだ。

「今夜、バロンのジャランジャランがあるよ」と、プチュン君が教えてくれた。

ひと月前(11月2日)に、クニンガンが終わった。

ガルンガン&クニンガン関連のバロンのジャランジャランではないようだ。

私のカレンダーに、心当たりのウパチャラ(儀礼)はない。

「何のウパチャラがあるのかな?」と、訊くと。

「毎年、サシ・カリモの最終日のティラム(Tilem=暗月)に行われるムチャル(悪霊払い儀礼)ですよ」

バリの慣習を伝えられることが嬉しいのか、誇りを持った顔でパチュン君は答えてくれた。

ムチャル(Mecaru)は、地下界に棲む悪霊ブタ・カロに対する浄化儀礼のこと。

サシ・カリモは、サコ暦の第5番目の月(西暦の10月〜11月頃)のことで、翌月はサシ・ カナム (第6番目の月)で雨が降り始め、暑くなってくる。

雨季の到来である。

疫病が流行った時代の名残からか、バリ島では、雨季の前にすべての村でムチャルが行われている。

ムチャルは、地域によって名称が異なることもある。

テガランタン村ではムチャルでいい。

mecaru2013.jpg

今夜は、霊力が強いと言われるカジャン・クリオンの日が重なった。

夜7時、バレガンジュールの音が我が家に近づいてきた。

バリの正装に着替え、カメラを片手にテラスに出た。

いつもならこの時間、ドゥダルが異常発生するのだが、今夜は不思議に出ていない。

もし、ドゥダルが飛び交っていたらどうするのだろう?

彼らのことだから、慌てることもなく「あら、あら!」という感じで、やり過ごすのだろうな。

道路に出ると、そこには、白い正装に身を包んだ若者たちが腰をおろしていた。

若者たちは、バレガンジュールの演奏隊だ。

その中に、コマン君(パチュン家の次男)の姿も見える。


右手・南を見ると「ルアック・ウブド・ヴィラ」前の道路に、ススオナン(寺院のご神体)であるバロンとランダがこちら・北を向いて並んでいた。

安置されている寺院の祠から持ち出されたススオナンは、ムチャル儀礼で祀られる。

村人は、ススオナン前の路上に腰をおろして、お祈りの最中だ。

こういう風景、バリらしくていいね。

私は最後列にしゃがんだ。

昼間の太陽の余熱が、お尻に伝わってくる。


すでに、村の北入口のムチャル儀礼は終えている。

このあと、村の中央にあるダラム寺院に戻り、お祈りをする。

今、テガランタン村の各家は、人っ子一人もいない状態だ。

遠くからバレガンジュールの音が聴こえる。

寺院から戻ると、私の右手首にも、魔除けの紐をつけてくれた。

私も、バリ島の悪霊からプロテクトされたのだ。

ニュピ前夜の締め括りムチャルとは違った緊張感のムチャルだった。


15日後の満月にも、ムチャルは行われる予定になっている。

17日の火曜日だ。

コンディションが良ければ、参加しようと考えている。

posted by ito-san at 17:01| Comment(0) | TrackBack(0) | テガランタン村滞在記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする