2014年01月24日

トカゲが飛んだ〜♪(73)

バレ・ダンギン(Bale Dangin・屋敷中央にあるあずまや)の足もとに、トカゲの姿が見えた。

尻尾が長いところをみると、グリーンイグアナの子供かもしれない。

それにしては、色が違う。

愛猫チビタが目ざとく見つけ、近寄って行く。

トカゲは素早く走り逃げようするが、チビタの手に掛かってしまう。

チビタの前でトカゲは動かなくなった。

動かない獲物に、チビタは興味がない。

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私は、近寄って見ることした。

部屋に戻りカメラを手にして庭に降りる。

全長10センチほどのトカゲだった。

見ていると、トカゲは口を大きく開け私を威嚇した。

ノドに、黄色のエラがある。

エラは、袋のようになっていて威嚇するたびに震える。

突然、胴体から扇形の羽根が出た。

なんじゃ、これは?

始めて見る爬虫類だ。

何度も言うが、爬虫類は苦手だ。

手に取って見聞したいが、小さくても爬虫類。

顔に向かって飛びついてくるかもしれない。

鼻を噛まれたたらどうしよう。

スッポンのように、噛み付いたら離さない奴かもしれない。

眼の玉に飛び込んでくることも考えられる。

想像をしただけで怖くなる。

カメラを望遠にして写真を撮るのが精一杯だった。

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パチュン君に、カメラに写ったトカゲを見せて名前を訊ねた。

「これは、バリ語でダンガップ・ダンガップ=DANGAP-DANGAPだ」と教えてくれた。

インドネシア語は知らないそうだ。

横からイブ「飛ぶんだよ」と言う。


私はインドネシア語の名前が知りたくて「日本料理店・影武者」のスタッフ、博学ダユーに訊ねた。

「ダンガップ・ダンガップは、インドネシア語でなんと言うの?」

ダユーは、困った顔で「イグアナに似た奴」と答えた。

う〜ん、それでは私の期待する答えになっていない。

他のスタッフにも訊いてもらったが、みんな知らなかった。

女将の由美さんがインターネットで調べてくれた。

インドネシア語では「チチャッ・トゥルバン=Cecak terbang」とか「チキバール=Cekibar」と判明した。

インドネシア全土に分布するトカゲだった。

瞬時に答えが得られる、インターネットって凄い。

今更ながら感心している。

トゥルバンは飛ぶという意味。

やっぱり飛ぶんだ。

飛ぶと言っても高い所からの滑空だろうが、掴まなくてよかったと胸を撫で下ろす私でした。

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※参考資料:グリーンイグアナ@旧影武者

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2014年01月22日

隣家からクラウハンの叫び(72)

土曜日は早く寝床につく。

毎週日曜日には朝8時にウブドを出発して、バリ南部のジンバランまで野球をしに出掛けていくからだ。

そうです、バリにある草野球チームに参加しているのです。

2年間ほど休部していたが、昨年10月から復帰している。


土曜日と日曜日の狭間、深夜2時。

それまで静かだった隣の家から、男性の叫び声が聞こえた。

数人の男性の声が混じって騒がしくなった。

声の感じから喧嘩ではない。

私は、浅い眠りの中でクラウハン(神が降りて来る状態)した声だと冷静に判断している。

隣家の庭には、テガランタン村で新しく始まったヴィラ建築に携わる職人たちの飯場が建っている。

簡素なテント作りの小屋は、ちょうど私の部屋の裏で普段でも話し声が聞こえる。

バリ東部カランアサム地方から出稼ぎに来ている10数人の職人さんが寝起きしているようだ。

クラウハンしたのは、そのひとりだろう。

我が家の鉄扉の揺れる音が聞こえた。

パチュン君が隣の家に行ったのか?

隣家から「アダ・アパ?=なにがあった?」と緊張した声がする。

心配でパチュン君が駆け込んだに違いない。

話し声はしばらく続いたが、やがて静かになった。

バリでは、クラウハンに遭遇する機会はしばしばある。

今夜もそんな夜だろう。

私は、眠りについた。

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翌日、野球から戻り午睡のあと、パチュン君に昨夜の話をした。

「そう、その頃、私は息子のコマンとテレビを見ていた。大きな声を聞いて、喧嘩だと思い、玄関の鉄扉を閉めに行った」

えっ、閉めにいったんだ。心配で見に行ったんじゃないんだ。

私は心でつぶやく。

「鉄扉が強く揺すられたので、喧嘩の流れが駆け込んで来たのかと、クリス(剣)を手に鉄扉に近づくと、揺すっているのは隣家から逃げて来た犬たちだった」

竹槍を構えた仕草で説明するパチュン君は、苦笑いしている。

正義感が強い割に、こういう時には慎重に行動する。

「コマンは後ろで、いつでも警察に電話ができるように携帯電話を手にしていた」

親子の連携プレイを解説した。

鉄扉の音とパチュン君の行動を知って、私も苦笑い。


バレ・ダンギン(Bale Dangin・屋敷中央にあるあずまや)に腰掛けていたヤンディ君が、昨夜のあらましを教えてくれた。

ヤンディ君は元村長。

事件が起これば出張らなければならない立場に居るが、昨夜の騒動はヤンデェ君の家までは聞こえなかったようだ。

隣家の主人がヤンディ君の家に出向いて、事件の説明した。

「主人の説明では、クラウハンした男性は黒い2人の大男を見たのだそうだ」

黒い大男は悪霊だろう、と私はさとった。

バリは悪霊も神々のひとつだ。

ツーリストがクラウハンをすることは少ないが、バリ人なら往々にしてありうることだ。

幸い私にも、こういった経験はない。

「彼らは儀礼や供物に、心配りが足らなかったのではないのか」とヤンディ君は言う。

さらにニコニコ顔で「テガランタン村には、よそ者を受け付けない精霊が居るからね」と付け加えた。

ビジネスも含めて、よそ者が立ち入るのを嫌うテガランタン村の村人の気持ちを表した言葉に聞こえる。

トイレ、台所など不浄な場所の儀礼を執り行い、供物を捧げることを忘れないように注意を促し、一件落着した。

日曜日の夜から、隣家は静寂を保っている。
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2014年01月20日

アンギン(アグン・ライ)の帰郷(71)

「イト〜サン!」

庭からイブの声が聞こえる。

私はテラスに出た。

コザッパリした若い男性が、イブのそばに立っていた。

男は、私に小さく微笑んだ。

私の見知らぬ男だった。

誰かから使いの者だろうか?

戸惑う私にむかって「アグン・ライだよ」とイブが紹介した。

どこのアグン・ライだ?

私には、まだ誰だか理解できなかった。

知り合いのアグン・ライの顔をいくつか思い浮かべたが、繋がらない。

記憶がよみがえる予感がした。

あぶりだしのように、目の前の男性の面影が鮮明になってきた。

それは一瞬だった。

繋がった。

「おぅ! アグン・ライか!」

私は大きな声を出していた。

アグン・ライは、私の記憶よりひとまわりふくよかになっていた。

荒波が寄せるように記憶は激しくよみがえり、私は興奮が押さえきれなくなっていた。

私はアグン・ライをテラスに迎え入れ、ハグをした。

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23年ぶりに再会だ。

アグン・ライはオカちゃんのすぐ下の弟。

私は、オカちゃんに世話になる以前にアグン・ライと知り合っていた。

アグン・ライは、ウブドのセンゴールでワルンを経営していた。

「デワ・ワルン」の前身だ。

当時、鶏ガラのように痩せていたアグン・ライは、しばしばフラフラと姿を消すところからアンギン(風)と呼ばれていた。

1年ほどの付き合いしかなかったが、私の「ウブド沈没」に一役買っていたのは間違いない。

ウブド滞在が始まったばかりで不安がいっぱいの時期に、数少ない友人のひとりとしてアグン・ライの存在は大きかった。

英語は得意だが、日本語のまったく話せないアグン・ライだが、それでも密度のある人間関係だった。

1991年に、日本人女性と結婚して日本に渡った。

養鶏場で働いているとオカちゃんから聞いて、闘鶏の好きだったアグン・ライらしいと思ったものだ。

その後、テガランタン村に3回ほど帰郷しているが、私は会えずじまいだった。


日本語の話せるアグン・ライとの会話はスムーズに進んだ。

愛媛訛りも耳に心地よい。

結婚当初の日本生活は、苦労しただろうと想像できる。

今になれば、それも良い思い出だろう。

理解のある両親でよかった。

そして、勤め先の先輩・同僚にも恵まれ、仕事に打ち込めたのもよかった。

もちろん奥さんの理解も大きかったはず。

1女、2男を授かっている。

日本での生活を嬉々として語る。

「一生懸命働きましたよ」アグン・ライは力強く言う。

バリ生活を「若気の至り」と悔いているようだが、若干19歳の若者なら普通のことだ。

「伊藤さんがウブドに来た時に、私がもっと協力できればよかったのに。何もできなくてゴメンナサイ」。

23年間、心に仕舞っていた言葉だろう。

こんな気を使ってくれるバリ人の友人が居ることが嬉しかった。

たぶん私は、知り合うバリ人の本質を見抜いて、付き合っているのだろう。

長い間のブランクがあるとは思えないほど、意志が通じ合えるのには驚いた。

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ヤンデェの使いがアグン・ライを呼びに来た。

これからどこかへ出掛けるようだ。

久しぶりに会う友人たちが、アグン・ライを離さない。

1時間ほど、昔話に花を咲かせてアグン・ライは風のように消えていった。

生家テガランタン村の生活19年より、日本滞在のほうがが長くなっている。

靴を履き付けているのだろう、足の指はくっついていた。

逆に私は、サンダル生活で足の指は離れている。

アグン・ライは、思考も嗜好も日本人になっていた。

1週間ほどの滞在で日本に帰って行く。

日本に永住することになるだろう。

幸せな家庭生活を築いて欲しい。


私は今、家族の居る日本でなく、心優しい友人の居るウブドでもない、行ったことのない異国に心を動かされている。

アグン・ライの後ろ姿を見て、私の心に動揺が起きた。

自分にとってウブド滞在が、もっとも安穏な生活を送れる空間であることは認めている。

しかし、今の私は安穏を求めていない。

5月9日の日本一時帰国で、私の気持ちにどう変化が起こるか楽しみでもある。
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2014年01月18日

ウブドにはスクターが似合う(39)

ウブドでは、バイクのことをバイクと言っても通じない。

オートバイと言ってみても同様に通じない。

バイク (Bike) とは英語でBicycle(バイシクル)の略で自転車を示すようだ。

英語ではモーターサイクル(motorecycle)かモーターバイク(motorbike)と言う。

オートバイは、アメリカ英語のオートバイ=autobike。

バイクもオートバイも 原動機で動く自動二輪車の呼び名。

どちらも和製英語だろう。

単車と言う呼び名もあった。

では、ウブドでは、なんと呼んでいるのか?

インドネシア語のスペダモートル(=sepeda motor)と言わないと理解してくれない。

スペダは自転車のこと。

英語と同様に、原動機付自転車の意味だ。

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今日のブログネタは、バイクについてです。

興味の無い方には退屈かもしれませんが、出来れば最後までお付き合いください。

文章中では、日本人に馴染み深いバイクの名称を使わせてもらう。

私がウブドに滞在はじめた頃、村人はバイクのことを総称してホンダと呼んでいた。

1970年以降、日本製ホンダのバイクがウブドに普及し始めていたのが原因だろう。

このバイクは「セブン・チョブロ=ceblok」とか「ホンダ・ベベ=bebek」と呼ばれている。

チョブロはバリ語で0のこと。

70年の7と0で、セブン・チョブロだ。

べべはアヒルのこと。

ボディカラーは、赤に白が少々。

今でも現役で走っていて、クラシック・バイクとしてマニアに人気の車種だ。

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1970年以前のバイクは「モトル・ピット=motor pit」と呼ばれていたと言う。

デンパサールでは、各国各種バイクが走っていたが、ウブドでは珍しい時代。

スカワティとウブドに、各1台しか保有者はいなかったそうだ。

ウブド内や近郊を走るのは、小さなバイクが適している。

小型バイクを「ホンダ・べべ」、そして「モトル・べべ」と呼ぶ。

タンクが前にある大きめのバイクは「モトル・ラキ」「ホンダ・ラキ」。

ラキ(laki)は男性のこと。

バリ人は「モトル・ムアニ(muani)」と呼ぶことがある。

ムアニは、バリ語で男性の意味。

どこ国製が知らないが「ニンジャ(カワサキ)」「ショウグン」「リキシ」なんて珍妙な名前のバイクも走っていた。

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イタリア・PIAGGIO製のスクーター「ベスパ=VESPA」は、古くから普及していたようだ。

これもマニアに人気の車種。

左で操作するクラッチが扱いにくいスクーターだ。

そして、スクーターと言ってもウブドで通じない。

ベスパはベスパ。

車種がそのまま呼称となる。

唐突ですが、日本にスクーター・ラビットがあったことを思い出したので記しておく。

スクーターは、ウブドに最適な乗り物だと思う。

バリ人の正装は、カマン(腰布)を巻く。

足を揃えて乗せることのできるスクーターは、バリ人のためにあるようなバイクだ。

足下に荷物が置けるのもありがたい。

正装のご婦人が、頭に供物を乗せてバランスよく走る姿を見かける。

時には、マイカー並みの親子4人乗りだったりする。

何人乗っても、ウブド内でポリスに注意されることはない。


スクーター商戦が始まったのは、いつ頃だったか?

まず、600万ルピアの台湾製の安価なスクーターが出た。

100ccクラスで、消臭剤に似た名前のスクーターだった。

すぐに壊れ、修理が不可能だったので、半年もすると市場から消えていた。

2005年に、ヤマハがオートマチックのスクーター「ヌーフォ=NEUVO」と「ミオ=Mio」を発売。

ホンダは同年、オートマチック・スクーター「ファリオ=VARIO」を発売。

オートマチックは、なぜかメーテック(Metic)と呼ばれている。

ウブド人は、日本製のメカニックを盲目的に信じていてメード・イン・ジャパンの信奉者が多い。

金額は高いが日本製バイクの人気は高い。

ミオは、インドネシアの人気女性ボーカリスト、アグヌス・モニカをCMに起用して女性の顧客を獲得。

これが爆発的人気を博した。

オートマチックのスクーターは、バイクに比べ燃費が悪くパワーも弱い。

それでも、新車購入は、ほとんどだろうと思うほど、ウブドにミオが溢れた。

ウブド人の知人に聞くと「トレンドだ!」と言う答えが返ってきた。

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2010年、「ミオ」に市場を独占されたホンダは、巻き返し戦略としてインドネシア初のレトロ・タイプを発売。

「毎日がますます楽しくなる!!」のキャッチコピー。

懐古デザインの「スクーピー=Scoopy」は、顧客の欲求にフィットしたのか、見る見るうちに市民権を得た。

ウブドの町中を颯爽と走る「スクーピー」の姿が増えた。

毎年のモデルチェンジとボディカラーの斬新さで、市場を制覇する勢いだ。

写真は黒だが、ピンク、パールブルー、ワインレッド、クリーム、チョコレート、赤黒のツートンカラーなどなど、カラーリングも豊富にある。

参考価格:Rp13,650,000-。

ホンダ・ファリオの人気が高いのも付記しておく。

以上の情報は、行動範囲の狭い私の周囲に限られていることをご了承ください。


私のバイク遍歴は、アストレア800→アストレア・スター(ASTREA STAR)→アストレア・プリマ(ASTREA PRIMA)→スープラ(SEPRA)→スープラX(SEPRA X)。

そして、オートマチックになって、ファリオ→スクーピーとホンダ一辺倒できている。

日本で乗っていたトレイル・バイクがホンダだったせいで、今でもホンダの名前に愛着がある。

パワーは物足りないが、ウブド近郊しか乗り回さない年寄りには、ピッタリのバイクだ。
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2014年01月14日

Papan Nama=表札 について(38)

思い出したことがある。

小・中学校が近くにあるトゥブサヨ村の住宅地に居を移した、2006年のこと。

昼前後になると、学生たちの元気な声が聞こえる。

バイクの排気音を除けば、静かな環境だ。

私の中学生の頃(日本だが)にはなかったバイク通学が、ここでは許されている。

バイクは、新品で12〜13万円する。

新卒公務員の年収に近い高価なものを親が与えている。

今回は、バイクの話ではない。

学生たちの屈託のない話声を聞いて、表札のことを思いだしたのだ。


私は、伊勢湾台風で家が流される小学校5年まで名古屋の南部に住んでいた。

※伊勢湾台風は伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が特に甚大であったことから名付けられた、1959年(昭和34年)9月26日に潮岬に上陸した台風第15号のこと。犠牲者5,098人(死者4,697人・行方不明者401人)

中学校まであと100メートルという登下校路の途中にある長屋の一棟だった。

トゥブサヨ村の立地に似ている下町だ。

日本独自の文化に表札がある。

表札の起源は戸籍制度が導入された明治8年とされるが、庶民に普及し始めたのは郵便制度の整備が進んできた大正時代。

当時、我が家は家族全員の名前が書かれた表札を掲げていた。

登校時の学生たちは、急いでいるので脇見をしない。

問題は下校時。

グループを作っているし、放課後の開放感もあって好奇心旺盛だ。

玄関の鴨居に掛けられた大きな表札を目ざとく見つける。

見つけると彼らは、必ず、大声で家族全員の名前を読み上げていく。

私は、居たたまれなくて部屋の隅で身体を小さくした。

「産めや増やせの戦時下」我が家は8人家族だった。

表札には左から親父・伊藤八十松、その隣にお袋・千世。

以下右へ、一典(長男)、洋子(長女)、誠志(次男)、伸子(次女)、章司(三男)、そして末っ子四男坊の私の順に並んでいる。

私は戦後生まれの団塊の世代、戦争を知らない子供たちのひとりです。

親父の名前を読める中学生はいなかった。

「伊藤はちじゅう松」

おそ松君一家じゃないのだから。

「伊藤やじゅう松」

それはないでしょう。

今でも家族8人の名前が並んだ表札を思い出すことができる。

しかし、恥ずかしかった理由が思い浮かばない。


最近は個人情報の流出を防ぐために、表札を掲げる家も減ったという。

集合住宅が増え、郵便受けに名刺を貼って表札替わりになることが多い。

女性のひとり住まいに危険がともない、防犯上の理由で表札を出さなかったり男性名を掲げると聞く。

“ 験をかついで” 表札を盗んだという、合格祈願の話も遠い過去のことになってしまった。

住みにくい世の中になったものだ。



バリには、家々の門柱に、写真のようなプレートが貼られてある。

これを表札と言ってよいのかわからない。

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デサ(村)の名前が上部に書かれている。

バンジャールの参加番号。

その下に、家長の名前・NAMA KK(kepala Keluarga)。

家長の出生年(Tahun Lahir)と、職業(Pekerjaan)。

枠の中には、LK(Laki-Laki・男性)の数、PR(Perempuan・女性)の数、とJML(Jumlah・合計)が表示してある。

家長以外の名前を標示されていない。

村によっては貼られていなかったりプレートの仕様が違うのは、行政があまり管理していないからだろう。

郵便物は村長宅にまとめて送られ、そこから各家庭に配られているので、郵便制度とも関係ないようだ。

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門柱には他に、住所ナンバーが掲示してある。

これはブルーのナンバープレートだ。

「REMAH SEHAT=ルマ・セハット」と書かれた、ナンバープレートより大きなプレートがある。

直訳すると “健康な家” となる。

TIPE A、TIPE B、TIPE Cの3種類があったりする。

さて、これはいったい何でしょう?

・・・・・・・・・・?。

これはインドネシア政府が主催する各家庭の衛生状態のランク付け。

目的は、インドネシア国民の生活水準の向上と平均化だそうです。

TIPE Aは、とても良い。TIPE Bは、良い。TIPE Cは、普通。

ランク付けは、県ごとに選出された審査員(医師など)がチェックする。

突然現れて、ざっと見ていく程度で、そんなシビアなものではないようです。

では、チェックポイントです。

○カマル・マンディ(トイレ、水浴び場)の有無と衛生状態

○ゴミ収集場所の有無とその状況

○台所の衛生状態

○花壇の有無(薬草や唐辛子などが植えてあればポイントは高いらしい)

近代化は、まず、衛生環境の改善からと言うことだ。


毎年、全国規模で行われている村コンテスト「ロンバ・デサ=Lomba Desa」がある。

「ルマ・セハット」のポイントは、ここでも大きく評価される。

1995年の「ロンバ・デサ」で、ウブド村は優秀賞をインドネシア政府より受賞している。

1996年に行われたウブド村主催のバンジャール単位の「ロンバ」では、我がテガランタン村が優秀賞を獲得。

賞品は、セメント数袋。

セメントは、テガランタン村の公共施設のために利用されたそうな。

話が大きくそれてしまったが、まぁいいか。
posted by ito-san at 17:25| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月13日

キャン・ユー・スピーク・イングリッシュ?(37)

今夜の「日本料理店・影武者」の大テーブルには、女性5人と私がいる。

ウブドからスラバヤに居を移した綾子さんが、主婦仲間3人をつれて来店。

もうひとりは女将・由美さんです。

スラバヤからの遠征目的は、インドネシア語技能検定試験をバリで受けること。

今朝、試験を済ませウブド入り。

試験を終えた開放感から彼女たちのテンションは高い。(これが普通かもしれない)

バリ滞在の本当の目的は、この後のウブド観光にあるのではないかと勘ぐってしまうほど楽しそうだ。

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深夜12時に近い時間。

「影武者」の入り口から「キャン・ユー・スピーク・イングリッシュ?」の声。

大テーブルの全員が、声の方に振り向く。

そこには、緊張した表情の白人女性が立っていた。

足下は素足。

余程のことが起こっているのだろうと、想像できる。

影武者の営業時間は夜11時まで、すでに閉店している。

我々は、ヤケド虫の話で盛り上がっているところ。

関わるのも面倒だし、英語を得意とする者もいない。

適当にあしらって、帰っていただこうか。

しかし、困っているのなら放っておけないのも人情。

まずは、理由を訊いてみよう。

由美さんが「リル・ビット!」と答えた。


「部屋にネズミが侵入して、部屋中を駆け回るので困っている」白人女性は訴える。

頼れるのはあなたたちだけなの、という悲壮感が漂う。

「それなら、影武者の猫を一匹お貸しするので、お持ちください」と女将。

近くに黒猫 “黒ちゃん” の姿が見える。

「ネズミより猫の方が、よりベターだわ」会話にジョークが混じった。

少し落ち着いてきているようではある。

しかし、“黒ちゃん” を抱き上げる様子は見えない。

「実は、ネズミがタンスの後ろの隙間に入ったので、私はタンスを押してネズミを押し込みました。それがチューチューと鳴いて怖いのです」

そうか、タンスの裏でチューチューと一晩中鳴かれては眠られないだろうな。

ネズミに関しては、私にも苦い経験があり彼女に同情した。

※「極楽通信UBUD・ウブド沈没:パスポートに偽造スタンプ」に経験談有り〼。

問題は、彼女の宿泊先だ。

状況から察するに、彼女は近くに宿泊しているはず。

影武者に裸足で飛び込んでくるほどの近くと言えば・・・・。

それは、昨年末まで駐車場問題を起こしていたヴィラでしょう。

「ヴィラに、スタッフはいないのですか?」全員の声が揃った。

これは当然の質問だろう。

女性ひとりの泊まり客。

「セキュリティもスタッフもいないヴィラってどうなのよ?」突然、女言葉になってしまう私。

連絡先もないと言っている。

危険きわまりない。

大テーブル全員が、マジに心配顔になった。

ネズミを退治しない限り彼女は、部屋に戻れないだろう。

「取りあえず、全員で退治しに行ったら」私は他人に大役を押し付けるような発言をした。

「私、ネズミ大丈夫だから」スラバヤ婦人のひとりが、心強い発言とともに立ち上がった。

手にサランラップの芯と黒ちゃんを抱きかかえている女将は、黒猫作戦を実行するつもりのようだ。

人の良い女将は、駐車場問題を忘れて、ネズミ退治に参加する覚悟でいる。

白人女性は、2人の勇ましい日本人女性を従えてヴィラに帰っていった。


しばらくして、笑い声とともに2人は戻ってきた。

ネズミは、タンスの裏ですでに事切れていた。

白人女性は、終始「イヤイヤ=嫌々=ノーノー=No No」を繰り返すばかり。

床をネズミが転がるのさえ、嫌なのだ。

スラバヤ婦人はティッシュを片手に「以外と大きな奴だった。つまみ上げて、田んぼにポ〜んと投げ捨ててやった」と平然としている。

女将はサランラップの芯を手にしながら「黒ちゃんは、ヴィラに着いたらすぐに逃亡してしまった」と黒猫作戦の失敗を嘆く。

今回は、ネズミ撃退に対応できる人材が居合わせたのが幸運だった。

我々がいなかったら彼女はどうしたのだろう。

ネズミごときで恐れをなしていたら、ウブド滞在もままならないゾ。

裏の川には、1メートルほどの水トカゲが棲息しているのだから。

どんな問題が起こるか予想もつかない。

駐車場問題が持続しているヴィラの諸問題を、影武者のスタッフが今後もアシストをすることもあるだろう。

周囲とのコミュニケーションが必要だ、ということを理解して欲しいものだ。

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2014年01月09日

僧侶の火葬儀礼(70)

3日間、晴れ間が続いている。

今朝のイブと私の会話です。

「パナス(暑いね)!」とイブ。

「パナス!」おうむ返しの私。

「雨が降り続くと、晴れて欲しいと思い。暑い日が続くと、雨が欲しい願う」とイブ。

「本当だね!」と私。

人間がいかにワガママかと言うことを如実に語っている、2人の会話でした。

な〜んちゃって。

ちょっと大げさな表現をしてみました。


テガランタン村は本日、僧侶(プマンク)の火葬儀礼(プレボン=plebon)が執り行われた。

僧侶は、埋葬せずに速やかに火葬の儀礼に入ることになっている。

女性の僧侶は昨年末亡くなったのだが、プサ寺院ウブドのオダラン50年祭と重なり延期となった。

テガランタン村のご神体がプサ寺院ウブドに奉納されているためだ。

ホルマリン注射をほどこして、年を越した。

儀礼は、昼12時を過ぎてから始まった。

酷暑の中、村人総出で儀礼に取り組む。

僧侶の遺体を乗せて運ぶ「ワダ(wadah)&パドマ(padma)」と呼ばれる神輿には、屋根がない。

神と同じ扱いを受ける僧侶は、天界と直結しているため、と言うことだそうだ。

プトゥラガン(patulangan)と呼ばれる火葬時に使われる棺は、白い牛(ルンブー=lembu)と決まっている。

詳しくは、極楽通信:火葬儀礼にあります。

読んで頂けると嬉しいです。

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人出を当て込んで、数々の行商が店を出している。

サロンを売る人・飲み物&駄菓子の露天・バッソ屋・焼きトウモロコシ屋・フライ屋・ナイフ屋(男衆の必需品)・ティパット屋・など。

いずれも、売れているようには見えなかった。

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ワヤン・カルタに呼び止められた。

集会場の近くまで歩き「ここのサテ・バビ、美味しいから」と言う。

昨年10月のダラム寺院祭礼の時、売り切れで食べられなかった「サテ・バビ屋」だ。

カルタの言うとおり美味しい。

サテ・バビは、カルタのおごり。

食べ終えて、本日の火葬儀礼見学を終了とする。

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明日10日「ウブド・ラジオ http://ubudradio.com」に出演予定。

松原亜希子(シドゥメン村)と一緒です。

http://songket.exblog.jp/
https://www.facebook.com/akikomatsubara.songketbali

どんな展開になるか楽しみだ。

『聴いてチョ! 見てチョ!』

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2014年01月08日

ウブドでソフトクリームが食べられるのは、いつの日か?(36)

ウブドにアイスクリーム屋が増えた。

今風には、イタリア語でジェラードと呼ぶらしい。


1990年ウブドでアイスクリームと言えば、中国製の黒い自転車の荷台に円筒型のクーラー・ボックスの入った木枠の箱を取り付けた行商さんの塩っぽいアイスクリームだった。

脇にはコーンの入ったビニール袋をぶら下げて、日本の豆腐屋さんような笛を鳴らしてやって来る。

今でも、裏道をこのアイスクリーム屋さんは通る。

地元の子供たちは、アイスクリーム屋さんが来るのを楽しみにしている。

胃袋の病弱な私は、未だに試食していない。

詳しくは:26「アイスクリームが食べたい」をお読みください。

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停電の多かったウブドには、アイスクリームがメニューにあるレストランは少なかった。

冷凍庫を持っていても停電しては、アイスクリームがシャーベットになってしまう。

アイスクリームを食べたい時は、州都デンパサールまで足を伸ばさなくてはならなかった。

冷たいものを食べたい時は、かき氷だ。

エスチャンプール=Es Campur(ミックスかき氷)・エスブア=Es Buah(フルーツかき氷)・エステレール=Es Teler(フルーツ入りココナツミルク氷)などなど種類は豊富。

ゴミの混じった氷だから、レストランに置いてなかったかき氷。

胃袋の病弱な私が、かき氷を味わったのは、かなりあとになってからだ。


1995年、ウブドにアイスクリーム商戦が始まる。

カャンピーナ(Cammpina)、オゥールス(Wall's)、ペターズ(Peters)といった、おそらく外資系だろうと思われるアイス・クリーム・メーカー3社が進出してきた。

3社が、こぞって路上販売に出た。

近代的手押しワゴンで、これまで大きな町でしか買うことができなかった本物の美味しいアイスクリームが、「ランララ、ランラ、ランラララ」「タータラ、タータラ」などと陽気なBGMを鳴らして村中にやって来た。

耳について覚えてしまうほど頻繁にやって来た。

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※カャンピーナの発着所は、プンゴセカン村の現在「SiSi」がある場所にあった。

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停電が少なくなって、メーカー3社のアイスクリーム・ケースが雑貨屋に置かれるようになった。

しかし、時々、短時間の停電はある。

手にしたアイスクリームがシャーベット状だったことがある。

アイスクリーム・ケースが設置される雑貨屋が増えると、このビジネスも下火になっていった。

今では、細々と自転車でやってくるのを見かける程度だ。

コンビニ店が進出すると、いつでも食べられるようになった。

※48「ウブド・コンビニ事情(conveni)参照。

1996年オープンのスーパーマーケット「Delta Dewata」、それ以前からあったミニ・スーパー「TINO」&「Dewi Mas」にアイスクリーム・ケースが設置されていたかどうか記憶が定かでない。

記憶のある方教えてください。

テレビのCMでも、アイスクリームの宣伝が増えている。

「マギナム」なんて人気商品だ。

観光客が立ち寄るアイスクリーム店の1号店は、モンキーフォレスト通り「クルタ・アコモデーション」前とモンキーフォレスト入口前に2004年10月オープンした「タナ・メラ=Tanah Merah 」だったと記憶する。

スリーモンキー・カフェは「ハーゲンダッツ」の冷凍ケースを店頭に置いて販売した。

サヤン村にある「ガヤ」の本格的イタリア・ジェラードが人気を呼んだ。

その後、続々とジェラード専門店が開店している。

あなたのお薦めはどこですか?

訊いたからと言って、行くわけでもありませんが(失礼)。



私はアイスクリームも好きだが、ソフトクリームはもっと好きだ。

田舎暮らしで、贅沢言っちゃいけないのは知っている。

お叱りを受けても、それでも、ソフトクリームは食べたい。

サヌールまで出掛ければ「マクドナルド」で売っているが、私には遠い世界。


今月の始め、ウブドにソフトクリームの店がオープンしたと聞き、さっそく行ってみた。

「ソフトクリームひとつ!」私は、小学生のように元気いっぱいで注文した。

女店員さんが「ソフト・サーブ・アイスクリームですね」と念を押す。

「いや、アイスクリームじゃなくて、ソフトクリームです!」

私は、ソフトクリームが和製英語で、正式には英語でソフト・サーブ・アイスクリームだということを知らなかった。

奥に見える機械は、マクドナルドで見かけるのと同じマシーンに見える。

同じマシーンから出てくるなら、私の思い描いているソフトクリームと一緒だろう。

「カップにしますか? コーンにしますか?」と訊いてくる。

私の常識では、ソフトクリームはコーンとインプットされている。

「コーンです」即答した。

手渡されたコーンは、ホームメイド・ワッフルだった。

私の常識では、コーンはウエハースと決まっている。

残念なことに、ウエハースのコーンは置いていないようだ。

ソフト・サーブ・アイスクリームの先は、コーンの上で渦を巻いて聖火のように尖っていた。

これこれこれですよ。

コーンは希望通りじゃないが、形には満足。

聖火の先っちょをナメル。

ウゥ・・・・口に含んだ時の感触が違った。

似ている、しかし・・・・食感が違う。

口の中で滑らかに溶ける感じがない。

食べ進めていくうちに、シャーベット状のアイスクリームの味になってきた。

「ショック!」

これは私が求めているソフトクリームとは異質な物だ。

私は、オコチャマだから、普通のソフトクリームが食べたいのだ。

普通と言うのは、日本で食べたことのある「日世のソフトクリーム」か、地元名古屋の「すがきやのソフトクリーム」のことである。

残念無念。

わかるかな。

わかってくれるかな。

こうして、私の「ソフトクリーム初体験@ウブド」は、夢と消え去ったのであった。

posted by ito-san at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月04日

年頭に四計を考える(69)

年が明けて、元日。

天気は雨。気温25度。

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

1月1日は、暗月(ティラム)とカジャン・クリオン、そして、雨季前のムチャル儀礼(67)の最終日と重なった。

パチュン家のイブは、年末から供物作りに忙しい。

もっとも、テガランタン村のイブイブ(主婦連)は全員が忙しかっただろうが。

テガランタン村は、9日にマンク(僧侶)の火葬儀礼が予定されているので、忙しさは続いている。


「一年の計は元旦にあり」

一年の計画は元日の朝に立てるべきだ、と言われても・・・ね。

この年齢(66歳)になると「今年も元気で暮らせますように」くらいしか思い浮かばない。

それに、これは願望であって計画ではないし。

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「一日の計」は立てるが、いつのまにか消極的になっていた。

いくつかの予定は達成されず、一日に一件の用事が済めばOKという感じになっている。

今日できないことは、明日に延ばしてもいいのじゃないか。

明日できないことは、できる日まで待とう。

バリ人と生活していると、往々にしてそんな性格に改造されてしまう。

そして、それが私の性格に合っていた。

仕事をしているわけじゃないので、私の滞在は長期休暇のようなもの。

たいして重要な用件もないと言うことかもしれない。

一日の計画もままならないのに、一年の計画たてても無理と言うもんだ。


さて、今年は何をしよう。

ウブド滞在24年、私の好奇心も底をついたようだ。

フットワークが重くなってきている。

ここらで少し心を入れ替えてみてもいいかもしれない。

取りあえず、25年ぶりに日本に戻ってみようと思っている。

これは昨年から考えていたので、年頭にあたってではない。

5月9日にバリを発って、翌10日に名古屋に着くチケットを購入した。

日本を離れたのは1990年5月7日。

小牧市にあった名古屋国際空港から、ガルーダ直行便でバリ島のデンパサール空港に降り立った。

25年ぶりの帰国は、エア・アジアでセントリア空港に到着する予定。

ちょっと不安、そして、多いに楽しみ。

田舎住まいに私は、衣服も靴(いつもゴム草履)もウブド仕様。

日本から持って来た物はすでに使い捨て、今はすべてがウブド滞在中で手に入れた物ばかり。

名古屋周辺で、白髪を後ろで縛った、どことなくみすぼらしい男を見つけたら私です。


「一生の計」は、ことごとく覆された。

しかし、これも人生。

振り返ってみれば、楽しいことばかりだった。

結果オーライといきたい。

希望「No! Nukes」は、ずっと持ち続けている。

それに対しての計画が、具体的な形で浮上していない。

日本一時帰国で、新たな行動の動機が見つかるかもしれない。

今後のことは、その時に考えることにしよう。

「一日の計」「一年の計」「一生の計」「一家の計」を四計と言うらしい。

「一家の計」は、まっとうできそうもない。

ゴメンナサイ。(平身低頭)

三が日をグダグダと寝正月で過ごしたオヤジの独り言でした。

posted by ito-san at 17:23| Comment(1) | TrackBack(0) | テガランタン村滞在記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする