2014年02月24日

イミグラシイ帰りの食事(42)

年に一度のイミグラシイ参り。

悪行を尽くしているわけでもないのに、なにげに緊張するイミグラシイ。

今回もAさんのおかげで、ビザ延長の手続きは、なにごともなく治まった。

只今、気分は晴れや〜か。

久しぶりに、イミグラシイ内にある社員食堂で朝食を摂ろうかな。

うらぶれた社員食堂(失礼!)で、職員をウオッチングするのも一興だろう。

こんなことが考えられるほど、心に余裕が戻ってきている。

ここで・・・ハタと思いついたことがある。

先日、ヒロさんからプレゼントしてもらった日本製電動ひげ剃りを220ボルトに差し込んでしまい壊してしまった。

インドネシアの電圧は、日本の110ボルトの倍220ボルトですのでご注意ください。

そんなヘマをやらかしたお陰で、今、私はT型カミソリでひげを剃っている。

カミソリでひげを剃るには、顔を湯に浸す時間がいる。

暖かいタオルで顔を覆う人もいるが、私は湯をはった洗面器に顔を突っ込んで、ひげを柔らかくしてから剃っている。

湯沸かし器を使っているから、そんなに時間はかかっていないのかもしれないが、ひげを剃りながら他のことができないのが辛い。

私のようなナガラ族には、電動ひげ剃りがベストじゃ。

ナガラ族というのは、トイレで座りながら、ひげを剃ったり、本を読んだり、歯を磨いたり、腹筋を鍛えたりする人のことを指します。(ひょっとすると死語かな? 冷汗)


ギャニアールのスーパーでは見当たらなかった。

一番大きなスーパー「ハーディズ」さえ、T型カミソリと乾電池を指し示した。

私のまわりのバリ人は電動ひげ剃りを知らなかったが、都会人の暮らすデンパサールなら使っている人もいるはずだ。

次に来る予定もないので「マタハリ・スーパー」に立ち寄って買って行こう。

各フロアを徘徊したあと、フォーカーズで食事だ。

グッドアイデアに赤面。(「何でやねん?」 なぜか名古屋人なのに大阪弁のツッコミ)

スクーピーのどことなくウキウキしているような乗り心地を感じて、一路「マタハリ」に。

・・・・・・・・・・・。

ガードマンの「開店は10時です」の声に、大きなガックリ。

まだ9時30分だ。

30分は待てない、待たない、待ちたくない。

電動ひげ剃りは、あきらめることにした。


それより朝食はどうする。

残された道は「ケンタッキー」だ。

なぜここで、ウブドまで戻らない?

ご意見はもっともです。

町に出て来たのだから、できれば町で食事をと思ってしまう。

これが、田舎者の悲しい性です。

KFCは1年前にも、イミグラシイの帰りに入った。

「あれ、ください」

カウンターの後ろにある写真を指差して注文した。

去年も同じ物を頼んだな。(ボケの第一段階か?)

頼んでから気がつく。(気がつくのだから、ただの健忘症)

会計は41,000ルピア(本日のレート1円=Rp115)。

高い!。

値段も見ずに頼んでいる。

この価格なら、ウブドの「ワルン・カレーヤ」でポークカツ・カレーを食べてテ・ボトルを飲んでもおつりがくる。

大きなフライド・チキンが2つとナシプティ(白飯)に、大きめのペプシコーラ。

手を洗うのが面倒なので、携帯しているマイ箸を使った。

2つのフライド・チキンは、衣の油がくどくて胃がもたれた。

「KFC」のパリパリの衣が好きだったのに。

去年も、そんな感想をつぶやいていたな。

確かに「KFC」は帰り道の途中にあるが、面倒がらずに少し足を伸ばせば「マクドナルド」もある。

マクドナルドでソフトクリームを食べたかった。

食べ終わってから思い出す。

学習能力が欠けている、バカな私です。

そんな奴のことをインドネシア語では、ボド(bodoh)と呼ぶ。

教訓:美味しい物が食べたければ、努力を惜しむな。

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※はみ出し情報:「アパ ? 情報センター・ウブドnoニュース」より

《ワルン・カレーヤ=Warung KareYa》

ウブド大通りからスグリオ通りを100メートルほど入った右手、(「チャンティック・スパ」手前)にオープンした「ワルン・カレーヤ」が、密かに人気をあげている。

ローカル客を対象にした値段設定は、長期滞在者にも魅力。

カフェ・アンカサ」系列のため “味” も保証付き。

★メニュー:ジャパニーズ・カレー専門

★食事:カレーRp13,000〜Rp27,000-/野菜カレーRp16,000〜30,000-/揚げ野菜カレーRp18,000〜Rp32,000-/ポークカツ・カレーRp28,000-/etc各種/

★飲物:紅茶(温)Rp4,000-(冷)Rp5,000-/テ・ボトル(瓶に入った甘い紅茶)Rp6,000-/ソフトドリンクRp8,000-/ビンタンビール大Rp29,000-小Rp19,000-/

★営業時間:12.00am〜21.00pm/定休日・儀礼祭礼日/

★TEL:0822-3682-8306/

★Email:kare_ya@angkasa-bali.com/

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2014年02月21日

イミグラシイに行ってきた(41)


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バリ州都デンパサールにあるイミグラシイ(imigrasi)に着いた。

正確には「Jawatan imigrasi」出入国管理事務所。

不良外人としての呼び出しではないので、ご心配なく。

誰も心配していないって。

それも寂しいな!

ちょっと横道にそれるが、聞いてください。

私の旅は、いつも国外追放覚悟で乗り込んでいる。

もちろん、インドネシア・バリ島の入国時もそうだった。

入国した1990年5月からの1年間は、偽造出入国スタンプで滞在していた。

居酒屋を開店した1991年7月からは、就労ができないビザで滞在した。

何度もイミグラシイに、呼ばれた経験がある。

店や家などの財産を持った外国人が標的にされた。

なぜなら、財産を手放して帰国しないだろうと考えるからだ。

彼らは賄賂が欲しいのだ。

インテル(秘密警察)と手を組んで、3年ほど泳がせてから呼び出しを掛ける。

ウブド滞在の外国人が少なかった時代の私は、恰好の標的だったのだろう。

所長の机上には、私に関する書類が置かれている。

ウブド警察からのレポート(チクリ)も含まれているだろう。

「居酒屋で立ち働く姿を見たという目撃者がいる」と所長は言う。

毎年、所長が交代するたびに書類の束は厚くなっていった。

留置覚悟の私の言動に、歴代所長も手を焼いたことだろう。

私からは、金が取れないと理解したのか、10年もするとお呼びはかからなくなった。

違法行為で滞在していた私は、やっぱり不良が外人だったのかな。

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そんな思い出深いイミグラシイに、今、来ている。

55歳を超えると取得できる長期滞在ビザが、10年ほど前から発行されるようになった。

5年間有効のビザで、私はシンガーポールでビザを申請し、その後の4年はデンパサールのイミグラシイで延長の手続きをしている。

昨年、5年ぶりにシンガポールに出掛けた。

ということで、今日は1回目の延長手続きに来ている。

バイクでデンパサールに来るのは、1年ぶり。

66歳は、安全運転だ。

無免許、規定違反のヘルメット、だから安全運転。

ウブドからスクーピーで、チンタラ走って40分ほどで到着。

スクーピーを駐輪場に止めて、いつもなら横の扉から入るのだが、今回は写真を残しておこうと正面に廻った。

「あれっ! 去年と雰囲気が違うゾ」

ホテルのロビーのように開放的になっている。

改装されたのだ。

これなら威圧感がなくていい。

賄賂事情は変わっていないと思うが、表面上はクリアーなイメージになった。

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ビザ代行業者・A氏との待ち合わせは、朝9時。

約束の時間より、15分早く着いた。

モダンになったロビーのスチール椅子に腰をおろして、読みかけのエッセー集を開く。

しばらくして、A氏が笑顔で現れた。

彼との付き合いも長い。

お互い信頼している。

5月の日本一時帰国の申請書類もお願いした。

待つこと数分して、スピーカーから女性の声で「いとうひろし様」の呼び出しが聴こえた。

「いとうひろし様、写真室にお入りください」日本語で優しく言われたような気がしたのは、幻聴だろう。

個室に入り、上半身の証明写真を撮られ、指紋を取って、サインをして、30分で終了。

お疲れさまでした〜。

指紋は、数年前から指に墨をつけて書類に押すやり方ではなく、パソコンのマウスを大きくしたような固まりの真ん中にあるランプをひと指ずつ押し、コンピューターにデータとして残す形式だ。

こんなややこしい説明をしているより写真を撮っておけばよかったのだが、途中から入室してきた上司のようなオジさんが、私がいつも胸につけている「No! Nukes」バッチに興味を持ち、話をしているうちにチャンスを逃してしまった。

えっ! 写真を見なくても、みんな知ってるって?

それって普通だって?

やっぱり、私は浦島太郎になっている。

お疲れさまでした〜。

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2014年02月14日

一泊2万円のヴィラ@テガランタン村(75)

テガランタン村の知人が賃貸ヴィラを建てた。

知人の名前はヤンデェ(Yande)君。

ヤンデェは、ワヤン・グデ(Wayan Gude)短縮系です。

ウブドのセンゴールにあったアグン・ライのワルンにたむろしていた仲間のひとり。

山田詠美の「熱帯安楽椅子」に、“ウブドには孕ませる空気がある” と書いてあったと記憶するが、当時のセンゴールにはそんな濃密な空気が流れていた。

テーブル越しに送るヤンデェ君の色っぽい視線に、何人の日本人ツーリスト女性が恋に落ちたことか。

ヤンデェ君の女性陥落の早業には、先輩カルタ君も感心していた。

日本人ツーリスト女性と浮き名を流した過去のある男だ。

今の容姿からは想像できないが、当時は華奢なジャニーズ系(死語かな?)の甘いマスクの青年だった。

軽ワゴン車・スバルサンバーを持っていたヤンデェ君は、長期滞在日本人のお抱えドライバーだった。

そんなことで、私との付き合いも古い。

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写真は1990年、サッカー場横にあった「CAFE BALI」の前で、日本人女性とヤンデェ君のツーショット。

女性は「日本料理店・影武者」の女将を訪ねて日本から来ていた友人。

写真でわかるように、ヤンデェ君は小柄な男性。

彼女は恋に落ちていません。

彼女の名誉のために付け加えておきます。



ヤンデェ君の古い噂は、闘鶏に狂って土地売り飛ばしてしまった駄目な奴だった。

今は、「KOPERSAI」と呼ばれる私設銀行を自宅で営業して成功している。

パチュン家の目の前の家だ。

金融業だが、日本で言うヤクザな商売ではないようだ。

ヤンデェ君のお母さんの長兄が、カルタ君やカポ君やマンコ君のお父さん。

お父さんは養子に入り、他家から嫁をもらっている。

嫁さんが、元気印のカルタ君たちのお母さん。

カルタ君の家が親戚なら、私にとっても親戚のようなもの。(と勝手に思っている)

緊急時には、借金を申し込もう。

担保の無い私に、貸してくれるかどうかは疑問だが。

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昨年末、ヤンデェ君がパダンテガル村の友人と不動産業務をはじめた。

ジャカルタの友人が経営参加しているらしい。

そんなヤンデェ君から、自分が建てたヴィラの宣伝をして欲しいと頼まれた。

不本意ながら協力することにした。

不本意の理由は、こんな立派なヴィラに泊まらなくてもいいのにと、私が思っているからだ。

テガランタン村は、表通りからは見えないが裏に入ると賃貸ヴィラが数件建っている。

ヤンデェ君のヴィラも母屋の裏手にあり、横に専用の道路がある。

2寝室・リビング・台所・エアコン・TV・WiFi完備。

ハイシーズン一泊2万円(オフシーズン一泊1万5千円)。

この価格が高いのか安いのか、私には判断ができません。

長期滞在もOK。

値段交渉に応じますとのことです。

不動産部門のホームページ「www.citrustreevillas.com」

お勧めしていないのに、応援するのも変ですが、これも浮き世のしがらみというやつですか。

日本語の問合せは、取りあえず、日本語の通じる「アパ?」へどうぞ。


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2014年02月06日

パチュン君の博多滞在記(74)

テガランタン村のパチュン家に引っ越して、早1年が過ぎた。

相変わらず、惰民が惰眠を貪る生活を送り、たわいもないブログを綴っています。

来月(3月)に入れば、ブログも1年続くことになる。

愛読してくれている希少な方がいること信じて、これからも精進したいと思っております。

私のブログ愛読者には、パチュン君のファンも多い。

たびたび文中に登場するパチュン君。

彼が日本に行ったことがあるのを知ったのは、つい先日のこと。

始めて聞いたパチュン君の過去。

彼に思い出話を語ってもらった。


パチュン君のプロフィールだが。

生年月日を訊いてみた。

「1968年12月31日生まれです」との答えが返ってきた。

あまりにも、覚えやすい誕生日ではないか。

「日本だったら、年末の忙しい時の生まれた子だ」と振ってみた。

何か裏があると考えた問いだ。

年号は正しいと思うが、月日は怪しい。

バリ人は、ウク暦に従っているから西暦の誕生日を知らないことが多い。

公の書類が必要になった折り、彼らは適当な月日を記入する。

パチュン君の両親も同様だったのだろう。

彼は、苦笑いしていた。


パチュン君が「ウブド村営観光案内所ビナ・ウィサタ」のオフィスに顔を出して、日本語の勉強につとめていたのが1990年。

私と知り合ったのがこの頃で、22歳だったことになる。

その後、日本語ガイドとしてサヌールにある旅行会社に勤めた。

ガイドの仕事で、たくさんの日本人の知り合いが出来た。

1994年、ひとりの日本人男性が「日本語の勉強になるから」とパチュン君を日本に招待したいと申し出た。

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この頃、私のまわりのウブド人に、日本人ツーリストの評判はあまりかんばしいものではなかった。

ウブドを訪れた旅行者が、ウブドを気に入った一時の興奮で「あなたを応援したい」「日本に招待する」「ビジネスを一緒にしよう」「家を建てる」「結婚したい」と口に出すことが多かった。

言われたウブド人も、言われた言葉を信用し、彼・彼女が、再びウブドを訪れるのを待つ。

「日本で仕事をしないか?」ある会社の社長がブディ君に言う。

ブディ君は「チャンプアン・ホテル」の仕事を辞めて、日本人社長の連絡を待った。

3年待ったが音沙汰はない。

サクセス・ストーリーと羨ましがられた話は、月日が経つと騙された馬鹿な奴に変わっていた。

今、ブディ君はチャンプアン・ホテルに復職している。

「必ず、帰って来るから」と言って日本に帰国した彼女は、戻って来なかった。

私の知る限り、ワヤン君は6年は待っていた。

今、ワヤン君はバリ人と結婚して子供も授かっている。

こんな話は、まだまだある。

日本に帰ってしまえば、連絡のしようもない。

何年かするうちに、日本人ツーリストの「口約束は守られないもの」と思われにようになっていた。


こんな噂のある日本人ツーリスト。

パチュン君は人を素直に信用してしまうタイプだが、そんな彼でも簡単には本気にできない背景である。

招待したいと申し出た日本人男性は、博多で建築機械を取り扱っている会社社長。

航空チケット代金を渡して帰国した。

それでも半信半疑。

日本に着いてからのことも心配だ。

観光で行くのだから、働かされることはないだろう。

それだって、着いてしまえば、どうなるかわからない。

不安はつのるが、日本を一目見たい好奇心と日本語を勉強する夢が大きく膨らんでいた。

パチュン君は、日本行きを決意した。

パスポートを自力で取得。

これだけでも、未経験のパチュン君には大変なことだったろうと想像できる。


社長との約束日のチケットは、ガルーダ・エアラインが満席で取れなかった。

電話事情の悪いウブドで、社長との連絡がつかない。

約束日より5日遅い9月末から3週間のチケットを購入して、その旨をファックスで送った。

行き先は、博多。

当時は、博多へはガルーダの直行便が飛んでいた。

新調した靴と、借り物のズボンとスーツケース。

2歳の長女アユと6ヶ月の乳飲み子長男マデを抱かえた奥さんが、空港で見送った。


ファックスが届かなかったのか、空港に社長の姿はない。

放心状態で立ちすくむパチュン君に、優しく声を掛けてくれた日本人青年がいた。

住所はわからない。

電話番号だけが頼り。

親切な青年が電話で連絡をとってくれた。

社長は、5日前から京都に行っていた。

パチュン君と一緒に行く予定だった京都旅行だ。

急いで博多に戻った社長と、やっとのことで再会を果たした。

「親切な日本人がいてよかったです」とパチュン君。

日本語が少しは話せると言っても始めて飛行機に乗って始めての異国。

空港でひとりぼっちは、さぞかし心細かったことだろう。

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社長のお宅にお世話になった。

最初のカルチャーショックは、トイレだったそうだ。

あまりにも奇麗なトイレに、緊張して立ち尽くす。

日常、庭で立ち小便していた彼には、便座に小便を命中することができるか不安だったと言う。

大便に関しては「恥ずかしいから書かないで」と本人から哀願されたので没にしました。

興味のある方は、本人に直接聞いてください。

食事は、まったく駄目だったようだ。

社長は、気をきかせて炒飯を頼んでくれたりタイ料理の店に連れていってくれたそうだ。

事務所で働いている人が無駄口をたたかず、ひたすらパソコンに向かっているのが不思議に見えたと言う。

100円硬化を入れてボタンを押すと「ガタン」の音とともに、缶コーヒが落ちて来る自動販売機も初体験。

自動販売機の前で、茫然と立ち尽くすパチュン君の姿が眼に浮かぶ。

「立ち尽くす」ことの多かった旅になったようだ。

ホテルに宿泊したり、鹿児島にある水族館へ行ったりと、旅を楽しんだ。

「日本人の親切には、深く感動した!」と懐かしく語ってくれた。

貴重な経験になった、パチュン君の日本滞在でした。

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2014年02月03日

“孤高のバリ” スバリ村(40)

私は、バリ・パスフィンダー(BALI PATH FINDER)を愛用している。

ウブド滞在を始めてからズ〜と使っている、首から上が指差しになっている表紙のバリ島地図だ。

一番詳しくウブドが載っているのがパスフィンダー。

通った道を鉛筆で塗りつぶしていくのが楽しみだったのは、いつの頃だったか。

パスフィンダーは、ウブド在住のシルビオ・サントーサ氏が発行している。

シルビオ氏は、バリが好きで住み着いたジャワ人男性。

私と同じ1947年の生まれ。

ウブドのツーリズムが始まると同時に、ツーリストと村人との間で金銭的なトラブルが頻発した。

トランスポートやツアーの料金が一定していなかった1983年、シルビオ氏は問題解決の手段として《ヴィナ・ウィサタ(BINA WISATA)観光案内所》を開設し料金の均一化を図った。

1984年に発行されていた地図が「バリ・パスフィンダー」だ。

1989年6月、シルビオ氏の「ヴィナ・ウィサタ」は閉鎖された。

その後「ヴィナ・ウィサタ」は、村営の観光案内所として現在の位置で再開している。

“酔いどれシルビオ” に会ったのは1990年6月「ウブドのセンゴール」だった。

小冊子「バリ・パスフィンダー」の日本語版「バリ島。海のない村」が1990年5月に発売されている。

写真:1990年《ヴィナ・ウィサタ観光案内所》

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地図と言えは、地名だ。

地名と言えば、村名。

強引に話を変えて。

村名に “bali” が組み込まれているのを見ると、私は異常に反応する。

バリ・フィリークなのに、村名で贔屓する。

例えば、ウブド北部のライステラスと田舎が残っているスバリ村。

「Se-bali」と書くところが気に入っている。

Seは、(1)ひとつ:sebuah一個、(2)全部:sedunia全世界、(3)同じ:seibu同じ母、の意味、と辞典(谷口五郎編)にある。

私は “孤高のバリ” と勝手に解釈している喜んでいる。

村名に惹かれて散策するうちに、スバリ村との関係が深くなっていった。

ジョゲッ・ピンギタンもそんな因縁で知ることになる。

ジョゲッ・ピンギタンの上演では、しばしば踊り手がトランスしてしまうことが起こった。

村人は、冠に神聖な力が宿っていると考え、呪術的舞踊、神聖な踊りとして、寺院内で儀礼用として演じられるようになった。

現在、ウブド近郊の2〜3の村で残っているが、儀礼用として踊られるのはスバリ村だけだ。

スバリ村は、ウブド日記「ポトンバビ・完全取材(17)にも登場しています。そちらもお読みください。

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続いて、バリ東部クルンクン県にあるパクスバリ村。

パクスバリ村は、近年人気上昇中のリゾートエリア・シドゥメン村へと続く街道の入り口にある村。

「Pakse-bali」。Pakseの語源が知りたい。誰か教えてください。

「Pak-sebali」とも分解できるが、まさか、スバリおじさん(Pak=bapakの省略語)と言うことはないよね。

パクスバリ村のパンティ寺院(Pura Panti)は、喧嘩神輿のトランスが有名だ。

パンティと聞いて、不謹慎な興味を示すツーリストが時々います。

興味を持つところが違うだろう〜!。

あなた、あなた、あなたです、お慎みください。

「アパ?情報センター」では、毎年「喧嘩神輿・オダラン・ツアー」で世話になっている。

喧嘩神輿の情報は、テガランタン村のオカちゃんが幼少の頃世話になった村だったことから、1990年から見学させてもらっている。

やはり縁のある村だ。

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「Se-bali」「Pakse-bali」と不思議な縁を感じて「バリ・パスフィンダー」地図上で “bali” と付く村名を探したことがあるが、地図上では見つけることはできなかった。

幹線道路をバイク・ツーリング中に、見つけることがある。

トランス儀礼を求めて、バンリ県を頻繁に徘徊していた頃のことだ。

眼に入った看板には「タマン・バリ=Taman-bali」と書かれてあった。

タマンは、花園と訳しておこう。

この時、高名なバリアンと知り合うことになる。

ワヤン君にまかせっぱなしのアパ?ですが、以前は「バリアン・ツアー」に名前を連ねて頂いたことのある御仁だ。

「Sindu-bali」&「Juwuk-bali」

写真は残っているのだが記憶がよみがえってこない。

両村の関係者の皆様には、ゴメンナサイ。

“bali”と付く村名探しも、いつの間にやら尻切れトンボで終わっていた。

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最後に、バリ関連の番外編です。

先日、アグン・ライが一時帰国していた時に、こんなことがあった。

ヤンデェ家のガゼボでのことだ。

「ポロンポロン」と、ライの携帯電話が鳴った。

生意気にも iPhon だ。(ひがんでいる発言)

「今バリに居るんよ」

iPhon を手に、愛媛弁でライが答えている。

「だから、今バリなんです。インドネシアの・・・」

相手はインドネシアと聞いて、やっと理解したようだ。

ライは日本人女性と結婚して、今、松山市に住んでいる。

出身がバリ島だと言うことは、仕事仲間も知っている。

電話の相手は「今治なら、近いじゃないですか。今から来てくれませんか?」と言ったそうだ。

愛媛ならではのジョークかもしれないが、日本にもバリと発音する都市があったのに嬉しくなった。

いつか私も、今治に行って「今バリに居るんよ」なんて、誰かに言ってみたい。


「アンギン(アグン・ライ)の帰郷(71)もお読みください。お願い。

posted by ito-san at 18:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする