「イブ〜!」
母親に哀願する、若い女性の声が聴こえた。
心もとない声は一度だけ。
そのあとには、呼吸音が続いている。
昨夜は鼻風邪をこじらせて、いつまでも寝付かれなかった。
いつの間にか、眠りに入っていた。
「イブ〜!」の声で眠りから覚めた。
このまま明朝まで眠りたかった。
そうすれば、鼻風邪も治っていただろうに。
深夜2時過ぎに、誰かが我が家を訪ねてきたとしよう。
「いとうさ〜ん!」と呼びかけられる。
こんな時間に誰だろう、と不審に思う。
そして「いとうさ〜ん!いとうさ〜ん!」と続く。
呼びかけが3度で終わった場合は、これは「ウブド限定・悪霊の誘い」だと思ってください。
返事をしないこと、そして扉を開けないように。
「イブ〜!」の呼びかけは1度だけだった。
私はイブ(母)でも伊武雅人でもないので、呼びかけられる理由はない。
そこにいないイブに向かって、彼女の懺悔のように聞こえた。
息づかいは、枕元の窓の外から聴こえる。窓の外は、パチュン家の家寺になる。
家寺の物置と私の暮らす部屋の間に、雨露をしのげる1メートルほどの空き地がある。
今は亡きキンタマーニ犬のセリ親子が、よくここで寛いでいた。
誰かが、入り込んだのだろうか。
隣家に仮住まいする建築現場の労働者の中に女性もいる。
何かの問題を起こして逃げ込んで来たのかもしれない。
もしかすると、陣痛をこらえる呼吸音か?
ここまでの推測は早かった。
そしてほとんど、そう思い込んでいた。
出産は潮の満ち引きに影響を受けると聞いている。
時間も深夜、そして明日は月の隠れる暗月だ。
病院に連れて行かなくては、と思う。
家寺の中での出産はタブーだ。
そんなことにでもなれば、浄化儀礼をしなくてはいけなくなる。
暗闇の中で思考する。
以前、テガランタン村ダラム寺院の前に、胎盤が置かれた事件があった。
犯人は欧米人ツーリスト。
大きな浄化儀礼になった。
明後日は静寂の日「ニュピ」。
こんなタイミングに不祥事は許されない。
彼女のためにも、一刻も早く連れ出さなくては、と焦る。
しかし、私は窓の下でうずくまる女性を見られない。
私は小心者だ。
窓を開けるのも怖い。
本当に、誰かがいるのだろうか。
何度も聞き耳を立てて、呼吸音を確かめる。
外へ出て、懐中電灯で確認しようか。
早くしないと、手遅れになってしまう。
焦りがつのる。
そうだ、パチュン君を起こそう。
携帯電話を掛ければいいだけだ。
呼吸音が規則正しくなった。
聞き覚えのある音。
愛猫チビタのイビキに似ている。
枕元、足下を手探りで探してみたが、チビタはいない。
パソコン前の椅子で寝ているようだ。
覗き込むと、チビタが顔をあげた。
呼吸音も止まった。
大きなイビキをかくチビタは、寝言もよく言う。
「『イブ〜!』と聴こえる寝言は止めてください」とお願いした。
「パチュン家屋敷内・出産事件」は、思い込みの強い私のひとり相撲だった。
あっ!
「ポトン」
鼻水が!
目覚まし時計は、朝4時を少し過ぎていた。
2014年03月30日
2014年03月29日
ウブドだけでハヤっているのかな ?(47)
ウブド熱愛症候群の重症患者であるリピーターのSさんと、10日間ほどつるんだ。
そのうち二日と明けず有名レストランで食事をご馳走になった。
いずこでも会話は弾み、楽しい会食となった。
料理とワインのウンチクは、Sさんと同席した2人の女性にまかせている。
どのレストランも料理は美味しく、満足するものだった。
グルメじゃない私には、料理に関しての感想は「美味しいか不味い」の2つしか持っていないので、ここでは割愛させていただきます。
Sさんも、こんな味音痴には奢りがいがなかったと思う。
ということで、ここで書くのは料理の話ではありません。
フランス料理の「ジュンデラ」とベルギー料理の「カフェ・デ・アルティステス」に、共通点を見つけたのです。
たいした話じゃありませんが。
「もったいぶらないで、早く本題に入りなさい」と天の声。
催促されると、言い出しにくいもの。
只、私だけが知らなかった事実かもしれない。
そんな確率が高いのです。
この日は「ジュンデラ」でのディナー。
食事の始まりに、ウエーターが我々のテーブル前に、ひとりに一つ置いていった。
何か一言、つぶやいたが、話に夢中で聞き逃していた。
写真を見てください。
これですよ、これ。
これはなんでしょう?
ご免なさい、一緒に比較する物を置かなかったのでわかりにくいと思いますが、大きさは幅7センチほどの器です。
石鹸置きにしては小さすぎますよね。
よく観察したわけではないが、器は陶器だったと思う。
器は中央から左右に二分され、片方は底が浅く白い物体が置かれている、もう一方には無色無臭の液体が半分ほど入っている。
液体は水と考えていいだろう。
すでにご存知の方には、つまらない話になってしまいます。
私には軽いカルチャーショックだったのでブログに書かせてもらいました。
私のように知らない人もいるかもしれないことを期待して。
では、現場検証です。
白い物体は、口に入れると「シュワーッ」と溶ける、ラムネ菓子に似ている。
ラムネ菓子については、ウィキペディアでお調べください。
ここでは便宜上「ラムネ菓子」とします。
ラムネ菓子は、摘むと少しヘコむほどの柔らかさだった。
状況から判断すると、水の中にラムネ菓子を入れるのだろうと想像できる。
さっそく入れてみた。
ラムネ菓子は水を含んで、「シュワーッ」と溶け、ません。
見る見るうちに膨れ上がった倍の大きさになった。
隣で友人が「あれっ!取れない」と、悲しい声をあげた。
器を覗くと、ラムネ菓子が横たわっていた。
倒れてしまったのだろうが、横にして水に浸けてしまったのだ。
ラムネ菓子は倍に膨れ上がり、器の中で身動きできない状態で噛んでしまっていた。
私はウエートレスを呼んで「これは、どうすれば良いのですか?」と尋ねた。
ウエートレスは「困った人ね」という顔をして微笑みながら外してくれた。
膨れ上がったラムネ菓子を摘まみ上げて引っ張るようにほぐすと、ウエットティッシュになっていた。
不思議不思議、手品のような代物だ。
ウエットティッシュは、ガルーダ・エアーで配られるのような香水の強い匂いもなく、手に爽やかだった。
今思えば、ウエーターは日本語で「オシボリです」と言っていたのだ。
最初は「ジュンデラ」で、2度目は「カフェ・デ・アルティステス」で遭遇した。
共通点と大袈裟な表現をしてしまいましたが、本題はこんなくだらない話です。
しかし、同じことが2度続けば、これはもう他のレストランにも普及していると考えててもおかしくないでしょう。
ウブド限定で、ハヤっているのかな。
日本にも出回っている物なのかもしれない。
日頃、レストランを利用している人々は、すでに承知の助かも。
ワルンしか利用しない私だけが知らない事実だったりして。
田舎が好きで暮らしている私には、こんなタワイもないことでも驚いてしまう。
情報から縁遠い暮らしをしている私は、正真正銘の「ウブドの田舎もん」。
5月に25年ぶりの日本一時帰国の予定なのですが、こんなカルチャーショックの連続の日々を送ることになるのでしょうか。
日本行きが、ちょっと心配になってきた。
そして、ウブドの都市化の波に少々恐怖を感じ始めている、今日この頃。
そのうち二日と明けず有名レストランで食事をご馳走になった。
いずこでも会話は弾み、楽しい会食となった。
料理とワインのウンチクは、Sさんと同席した2人の女性にまかせている。
どのレストランも料理は美味しく、満足するものだった。
グルメじゃない私には、料理に関しての感想は「美味しいか不味い」の2つしか持っていないので、ここでは割愛させていただきます。
Sさんも、こんな味音痴には奢りがいがなかったと思う。
ということで、ここで書くのは料理の話ではありません。
フランス料理の「ジュンデラ」とベルギー料理の「カフェ・デ・アルティステス」に、共通点を見つけたのです。
たいした話じゃありませんが。
「もったいぶらないで、早く本題に入りなさい」と天の声。
催促されると、言い出しにくいもの。
只、私だけが知らなかった事実かもしれない。
そんな確率が高いのです。
この日は「ジュンデラ」でのディナー。
食事の始まりに、ウエーターが我々のテーブル前に、ひとりに一つ置いていった。
何か一言、つぶやいたが、話に夢中で聞き逃していた。
写真を見てください。
これですよ、これ。
これはなんでしょう?
ご免なさい、一緒に比較する物を置かなかったのでわかりにくいと思いますが、大きさは幅7センチほどの器です。
石鹸置きにしては小さすぎますよね。
よく観察したわけではないが、器は陶器だったと思う。
器は中央から左右に二分され、片方は底が浅く白い物体が置かれている、もう一方には無色無臭の液体が半分ほど入っている。
液体は水と考えていいだろう。
すでにご存知の方には、つまらない話になってしまいます。
私には軽いカルチャーショックだったのでブログに書かせてもらいました。
私のように知らない人もいるかもしれないことを期待して。
では、現場検証です。
白い物体は、口に入れると「シュワーッ」と溶ける、ラムネ菓子に似ている。
ラムネ菓子については、ウィキペディアでお調べください。
ここでは便宜上「ラムネ菓子」とします。
ラムネ菓子は、摘むと少しヘコむほどの柔らかさだった。
状況から判断すると、水の中にラムネ菓子を入れるのだろうと想像できる。
さっそく入れてみた。
ラムネ菓子は水を含んで、「シュワーッ」と溶け、ません。
見る見るうちに膨れ上がった倍の大きさになった。
隣で友人が「あれっ!取れない」と、悲しい声をあげた。
器を覗くと、ラムネ菓子が横たわっていた。
倒れてしまったのだろうが、横にして水に浸けてしまったのだ。
ラムネ菓子は倍に膨れ上がり、器の中で身動きできない状態で噛んでしまっていた。
私はウエートレスを呼んで「これは、どうすれば良いのですか?」と尋ねた。
ウエートレスは「困った人ね」という顔をして微笑みながら外してくれた。
膨れ上がったラムネ菓子を摘まみ上げて引っ張るようにほぐすと、ウエットティッシュになっていた。
不思議不思議、手品のような代物だ。
ウエットティッシュは、ガルーダ・エアーで配られるのような香水の強い匂いもなく、手に爽やかだった。
今思えば、ウエーターは日本語で「オシボリです」と言っていたのだ。
最初は「ジュンデラ」で、2度目は「カフェ・デ・アルティステス」で遭遇した。
共通点と大袈裟な表現をしてしまいましたが、本題はこんなくだらない話です。
しかし、同じことが2度続けば、これはもう他のレストランにも普及していると考えててもおかしくないでしょう。
ウブド限定で、ハヤっているのかな。
日本にも出回っている物なのかもしれない。
日頃、レストランを利用している人々は、すでに承知の助かも。
ワルンしか利用しない私だけが知らない事実だったりして。
田舎が好きで暮らしている私には、こんなタワイもないことでも驚いてしまう。
情報から縁遠い暮らしをしている私は、正真正銘の「ウブドの田舎もん」。
5月に25年ぶりの日本一時帰国の予定なのですが、こんなカルチャーショックの連続の日々を送ることになるのでしょうか。
日本行きが、ちょっと心配になってきた。
そして、ウブドの都市化の波に少々恐怖を感じ始めている、今日この頃。
2014年03月24日
オゴホゴ制作の推移(46)
バリ島には、世界で唯一、ここでしかないだろうと思われる風習がある。
それは「ニュピ祭礼日」だ。
ニュピは、西歴以外にバリに2つある伝統的暦のうちのひとつである、サコ歴の新年。
今年はサコ歴1936年で、西暦の3月31日に当たる。
この日1日、労働(アマティ・カルヤ)、通りへの外出(アマティ・ルルンガン)、火の使用(アマティ・グニ)、殺生(アマティ・ルラングアン)などが禁じられている。
火は、現代では電灯も含まれる。
この4つを守り、精神を集中させ、心を穏やかにし、世界の平和、最高神イダ・サンヒャン・ウィディに祈るのが、バリ人の信仰するヒンドゥーの慣習だ。
これがバリ人だけの話なら、ヒンドゥー教徒って敬虔なんだなと感心するだけだが、この4つの禁止は、バリ島にいるすべての人に義務づけられる。
ヒンドゥー教以外の宗教を信仰するインドネシア人、そして、ツーリストにもかせられる、という世界中でも珍しい祭事だ。
信じられないのは、観光で経済が成り立っている島なのに、この日、国際線の航空便を含む島内すべての交通機関がストップするのだ。
すべての島民が神隠しにあったように、バリ島が沈黙する。
ニュピ前日(30日)、ウブド王宮前では生贄を捧げ、ムチャル(mecaru=悪魔払い)儀礼が行われる。
冥界のヤマ神が、悪霊ブト・カロ(Bhuta Kala)を地下から追い出し地球を大掃除をするのだ。
家々では家族が、鍋釜など音の出るものを手に、屋敷内の隅々をガンガンと鳴らしながら廻る。
道では、爆竹がうち鳴らされる。
地上にはい出てた悪霊ブト・カロを追い払うのだ。
この儀式は、ングルプック(Ngerupuk)orプングルプガンと呼ばれている。
今でも、バリ人の信仰から切り離せない、邪悪な力を追い払うための儀礼だ。
ニュピ前夜は、ティラム(Telem=暗月)と呼ばれる月が隠れる夜。
夕方になると、各村々ではオゴホゴ(ogoh-ogoh)と呼ばれる張りぼて人形の御輿を担ぎ出す。
張りぼて人形は、さまざまな形の悪魔(Kala)を表現している。
バレガンジュールと呼ばれるシンバルを中心としたガムラン隊の激しい音とともに、オゴホゴが村々を練り歩き四つ筋では威勢良く廻る。
今では、バリ観光のみどころのひとつにあげられる行事となっている。
地上から悪霊ブト・カロを追い出した次の日「ニュピ」には、人々は静寂を保つために4つの禁止を守る。
この星には人間が住んでいないと思わせ、悪霊ブト・カロが戻らないようにするというのがこの儀礼の狙いだ。
練り歩いたオゴホゴの中に、邪悪な力は封じ込められる。
私が訪れた頃(1990年)、オゴホゴは四つ筋や墓地で燃やされていた。
今は、ワンティラン(集会場)に集められ、しばらく展示した後に破棄されるようだ。
オゴホゴ制作は、ひと月ほど前から始まる。
私が最初に見たのは、割いた竹と針金を骨組みにして金網で胴体が作られていた。
新聞紙を張り合わせて彩色する。
仕上がりはゴツゴツとしたものだった。
2011年のオゴホゴは、細工しやすいのと軽いからか発泡スチロールを部分的に使っているところが多かった。
顔の部分が発泡スチロールで精密に作られていた。
スプレー缶かコンプレサーを使って吹き付け塗装。
そして今年2014年。
なんと、ほとんど全身を発泡スチロールとウレタン・スポンジで作られていた。
切りクズが目に留まり「吐き気がする! 胸焼けがする!」
「キャー ! 止めてくれ〜!」
これを燃やせば、有毒ガスが発生することは間違いない。
オゴホゴの末路が心配だ。
バリは観光の島として、右上がりで発展している。
近年は、投資目的の物件も多いと聞く。
発展は近代化をもたらし、近代化は文化を変革させることもある。
変革することが悪いわけではないが、バリの場合、あまり文化が変わることは好ましくないと考える。
ツーリストは、普段着のバリと自然を求めて来ている人が多い。
自然を破壊する行為は、観光資源を枯渇させる。
環境問題に関心を持ち始めた島民が、さまざまなイベントを開催して意識の向上をはかっている。
できれば、オゴホゴも昔ながらの竹で作ってもらいたいと思うのは、ツーリスト(私)のかってな願いだろうか。
それは「ニュピ祭礼日」だ。
ニュピは、西歴以外にバリに2つある伝統的暦のうちのひとつである、サコ歴の新年。
今年はサコ歴1936年で、西暦の3月31日に当たる。
この日1日、労働(アマティ・カルヤ)、通りへの外出(アマティ・ルルンガン)、火の使用(アマティ・グニ)、殺生(アマティ・ルラングアン)などが禁じられている。
火は、現代では電灯も含まれる。
この4つを守り、精神を集中させ、心を穏やかにし、世界の平和、最高神イダ・サンヒャン・ウィディに祈るのが、バリ人の信仰するヒンドゥーの慣習だ。
これがバリ人だけの話なら、ヒンドゥー教徒って敬虔なんだなと感心するだけだが、この4つの禁止は、バリ島にいるすべての人に義務づけられる。
ヒンドゥー教以外の宗教を信仰するインドネシア人、そして、ツーリストにもかせられる、という世界中でも珍しい祭事だ。
信じられないのは、観光で経済が成り立っている島なのに、この日、国際線の航空便を含む島内すべての交通機関がストップするのだ。
すべての島民が神隠しにあったように、バリ島が沈黙する。
ニュピ前日(30日)、ウブド王宮前では生贄を捧げ、ムチャル(mecaru=悪魔払い)儀礼が行われる。
冥界のヤマ神が、悪霊ブト・カロ(Bhuta Kala)を地下から追い出し地球を大掃除をするのだ。
家々では家族が、鍋釜など音の出るものを手に、屋敷内の隅々をガンガンと鳴らしながら廻る。
道では、爆竹がうち鳴らされる。
地上にはい出てた悪霊ブト・カロを追い払うのだ。
この儀式は、ングルプック(Ngerupuk)orプングルプガンと呼ばれている。
今でも、バリ人の信仰から切り離せない、邪悪な力を追い払うための儀礼だ。
ニュピ前夜は、ティラム(Telem=暗月)と呼ばれる月が隠れる夜。
夕方になると、各村々ではオゴホゴ(ogoh-ogoh)と呼ばれる張りぼて人形の御輿を担ぎ出す。
張りぼて人形は、さまざまな形の悪魔(Kala)を表現している。
バレガンジュールと呼ばれるシンバルを中心としたガムラン隊の激しい音とともに、オゴホゴが村々を練り歩き四つ筋では威勢良く廻る。
今では、バリ観光のみどころのひとつにあげられる行事となっている。
地上から悪霊ブト・カロを追い出した次の日「ニュピ」には、人々は静寂を保つために4つの禁止を守る。
この星には人間が住んでいないと思わせ、悪霊ブト・カロが戻らないようにするというのがこの儀礼の狙いだ。
練り歩いたオゴホゴの中に、邪悪な力は封じ込められる。
私が訪れた頃(1990年)、オゴホゴは四つ筋や墓地で燃やされていた。
今は、ワンティラン(集会場)に集められ、しばらく展示した後に破棄されるようだ。
オゴホゴ制作は、ひと月ほど前から始まる。
私が最初に見たのは、割いた竹と針金を骨組みにして金網で胴体が作られていた。
新聞紙を張り合わせて彩色する。
仕上がりはゴツゴツとしたものだった。
2011年のオゴホゴは、細工しやすいのと軽いからか発泡スチロールを部分的に使っているところが多かった。
顔の部分が発泡スチロールで精密に作られていた。
スプレー缶かコンプレサーを使って吹き付け塗装。
そして今年2014年。
なんと、ほとんど全身を発泡スチロールとウレタン・スポンジで作られていた。
切りクズが目に留まり「吐き気がする! 胸焼けがする!」
「キャー ! 止めてくれ〜!」
これを燃やせば、有毒ガスが発生することは間違いない。
オゴホゴの末路が心配だ。
バリは観光の島として、右上がりで発展している。
近年は、投資目的の物件も多いと聞く。
発展は近代化をもたらし、近代化は文化を変革させることもある。
変革することが悪いわけではないが、バリの場合、あまり文化が変わることは好ましくないと考える。
ツーリストは、普段着のバリと自然を求めて来ている人が多い。
自然を破壊する行為は、観光資源を枯渇させる。
環境問題に関心を持ち始めた島民が、さまざまなイベントを開催して意識の向上をはかっている。
できれば、オゴホゴも昔ながらの竹で作ってもらいたいと思うのは、ツーリスト(私)のかってな願いだろうか。
2014年03月22日
バロンの奉納舞踊を求めて(45)
道路を覆うようにして、両側から大きな樹の枝葉が張り出している。
夜10時の街道は、真っ暗闇だった。
私は今、正装に身を包み、ムングイ村に向けてバイクを走らせている。
緩い勾配を北に向かう道だ。
オダラン(寺院祭礼)の奉納舞踊・チャロナラン舞踊劇を鑑賞に行く途中。
私の趣味は奉納舞踊見学だ。
特にチャロナラン劇が奉納されると聞くと、遠くバリ東部・カランガッサム県まで出掛けていった。
タバナン県ムングイ村の山深い田舎で、チャロナラン劇があるとの情報を得た。
チャロナラン劇は、善と悪の終わりなき戦いを演じる。
この日は、月の出ないティラム(暗月)、おまけに霊力の強いカジャンクリオンの日と条件は揃っている。
恐がりなのに、こういったセッティングを好むのが私の性格だ。
ススオナン(ご神体)である聖獣バロンの踊り手は、若手ナンバーワンのデド君だと聞いた。
スマラ・ラティの定期公演や奉納芸能で、デド君のバロン舞踊は何度も見ている。
まるで生きているように演じられる、デド君のバロン舞踊は、いつ見ても魅入ってしまう。
今夜もデド君の素晴らしいバロンを見たいと、期待で心をときめかせ、ひとりバイクを駆り田舎の道をひた走った。
目的地は、情報では一本道。
道沿いにある寺院だから、すぐわかると教えられた。
途中、幾つもオダランらしい寺院を覗いたが、どれもすでに終わっていた。
かなり遠くへ来たが、まだオダランのある寺院は見えない。
バロンの奉納舞踊は早くて夜8時、チャロナラン劇の開演はたいていが10時前後。
時計は10時をさそうとしている。
すでにバロンの奉納は終わっているかもしれない。
街道の灯りもまばらになり、ワルン(雑貨屋)を見つけるのも難しくなってきた。
不気味に続く暗闇と湿気を含んだ冷気が、身体を覆う。
訊ねるなら、今のうちだ。
とにかく、一度このあたりで訊いておこう。
やっと一軒のワルンを見つけ飛び込んだ。
豆電球が細々と灯されたワルンに老婆が顔が見えて。
「デ・マナ・アダ・オダラン?」
オダランはどこにありますか、と私は老婆に訊いた。
老婆は、この外国人は何を言っているのだろうという顔をしている。
まさか外国人がインドネシア語をしゃべっているとは思っていないのか。
もしかすると、私の未熟なインドネシア語が老婆に通じないかもしれない。
私は「バロン、バロン」と連呼した。
正装している外国人が「バロン」と言っているのだ、バリの芸能・バロンだと察してくれそうなもの。
老婆はいぶかしげ顔で、私の言葉を反復しながら店の奥へ姿を消した。
「おいおい、なんとか言ってよ!」
得体の知れない外国人の行動に、恐れをなして引っ込んでしまったのかな。
ワルンの店先で、寒さで冷えてしまった身体が震えている。
しばらくして、戻って来た老婆の手には電球があった。
老婆は手元の電球を見て「バロン」と言う。
「電球がどうしたの?」
私は、デド君のバロン舞踊が見たいんだ。
開いた掌を耳に当て、バロンの真似をしてみた。
老婆は、だからどうしたという顔をしている。
意志の通じない会話は空しい。
私は、異次元の人と対峙しているのだろうか?
バロンを見ることはあきらめ、電球はいらないからとワルンを出た。
これ以上、先に進む元気はなくなっていた。
私はバイクをUターンさせ、ウブドに戻ることにした。
後日、オダランは、目と鼻の先で行われていたことがわかった。
どうしてバロンが通じなかったのか、考えてみた。
老婆とのやり取りを知人のバリ人にすると「イトサンの発音はbalonで、それなら電球が出てくるでしょう」と言われた。
私は、この時まで、電球のことをバロンと言うのだとは知らなかった。
balonは、風船と言う意味で、電球はバロン・ランプとして使うのが普通のようだ。
辞書には、電球は、見たままにbola(ボール)lampu(ランプ)とも言う。
聖獣バロンはbarong、発音は、[r]が巻き舌で、[ng]は、口を開けて「ン」だ。
電球のバロンはbalonで、発音は、[l]は普通の[ろ]で、[n]は口を少しだけ開け、上あごに舌をつけながら「ン」と発音すると教えられた。
どちらにしても、私の発音が悪かったのが原因で、老婆に通じなかったのだ。
私は、今でもこの発音が出来ていない。
奉納舞踊でのバロンの踊りは、バロン・ダンスとは言わず、バパン(bapang)・バロンと呼ばれているのは知っていた。
しかし、あの時点で私がバパンと言っても、私の発音では通じなかっただろう。
それにしても「デ・マナ・アダ・オダラン?」が理解されなかったのが悔しいほど悲しい。
すっかり自信をなくしたが、だからと言ってインドネシア語を学ぼうとしない。
こんな態度だから、インドネシア語会話能力が小学生以下なのだろう。
ちょっと反省しています。
(2007年05月26日の日記より)
夜10時の街道は、真っ暗闇だった。
私は今、正装に身を包み、ムングイ村に向けてバイクを走らせている。
緩い勾配を北に向かう道だ。
オダラン(寺院祭礼)の奉納舞踊・チャロナラン舞踊劇を鑑賞に行く途中。
私の趣味は奉納舞踊見学だ。
特にチャロナラン劇が奉納されると聞くと、遠くバリ東部・カランガッサム県まで出掛けていった。
タバナン県ムングイ村の山深い田舎で、チャロナラン劇があるとの情報を得た。
チャロナラン劇は、善と悪の終わりなき戦いを演じる。
この日は、月の出ないティラム(暗月)、おまけに霊力の強いカジャンクリオンの日と条件は揃っている。
恐がりなのに、こういったセッティングを好むのが私の性格だ。
ススオナン(ご神体)である聖獣バロンの踊り手は、若手ナンバーワンのデド君だと聞いた。
スマラ・ラティの定期公演や奉納芸能で、デド君のバロン舞踊は何度も見ている。
まるで生きているように演じられる、デド君のバロン舞踊は、いつ見ても魅入ってしまう。
今夜もデド君の素晴らしいバロンを見たいと、期待で心をときめかせ、ひとりバイクを駆り田舎の道をひた走った。
目的地は、情報では一本道。
道沿いにある寺院だから、すぐわかると教えられた。
途中、幾つもオダランらしい寺院を覗いたが、どれもすでに終わっていた。
かなり遠くへ来たが、まだオダランのある寺院は見えない。
バロンの奉納舞踊は早くて夜8時、チャロナラン劇の開演はたいていが10時前後。
時計は10時をさそうとしている。
すでにバロンの奉納は終わっているかもしれない。
街道の灯りもまばらになり、ワルン(雑貨屋)を見つけるのも難しくなってきた。
不気味に続く暗闇と湿気を含んだ冷気が、身体を覆う。
訊ねるなら、今のうちだ。
とにかく、一度このあたりで訊いておこう。
やっと一軒のワルンを見つけ飛び込んだ。
豆電球が細々と灯されたワルンに老婆が顔が見えて。
「デ・マナ・アダ・オダラン?」
オダランはどこにありますか、と私は老婆に訊いた。
老婆は、この外国人は何を言っているのだろうという顔をしている。
まさか外国人がインドネシア語をしゃべっているとは思っていないのか。
もしかすると、私の未熟なインドネシア語が老婆に通じないかもしれない。
私は「バロン、バロン」と連呼した。
正装している外国人が「バロン」と言っているのだ、バリの芸能・バロンだと察してくれそうなもの。
老婆はいぶかしげ顔で、私の言葉を反復しながら店の奥へ姿を消した。
「おいおい、なんとか言ってよ!」
得体の知れない外国人の行動に、恐れをなして引っ込んでしまったのかな。
ワルンの店先で、寒さで冷えてしまった身体が震えている。
しばらくして、戻って来た老婆の手には電球があった。
老婆は手元の電球を見て「バロン」と言う。
「電球がどうしたの?」
私は、デド君のバロン舞踊が見たいんだ。
開いた掌を耳に当て、バロンの真似をしてみた。
老婆は、だからどうしたという顔をしている。
意志の通じない会話は空しい。
私は、異次元の人と対峙しているのだろうか?
バロンを見ることはあきらめ、電球はいらないからとワルンを出た。
これ以上、先に進む元気はなくなっていた。
私はバイクをUターンさせ、ウブドに戻ることにした。
後日、オダランは、目と鼻の先で行われていたことがわかった。
どうしてバロンが通じなかったのか、考えてみた。
老婆とのやり取りを知人のバリ人にすると「イトサンの発音はbalonで、それなら電球が出てくるでしょう」と言われた。
私は、この時まで、電球のことをバロンと言うのだとは知らなかった。
balonは、風船と言う意味で、電球はバロン・ランプとして使うのが普通のようだ。
辞書には、電球は、見たままにbola(ボール)lampu(ランプ)とも言う。
聖獣バロンはbarong、発音は、[r]が巻き舌で、[ng]は、口を開けて「ン」だ。
電球のバロンはbalonで、発音は、[l]は普通の[ろ]で、[n]は口を少しだけ開け、上あごに舌をつけながら「ン」と発音すると教えられた。
どちらにしても、私の発音が悪かったのが原因で、老婆に通じなかったのだ。
私は、今でもこの発音が出来ていない。
奉納舞踊でのバロンの踊りは、バロン・ダンスとは言わず、バパン(bapang)・バロンと呼ばれているのは知っていた。
しかし、あの時点で私がバパンと言っても、私の発音では通じなかっただろう。
それにしても「デ・マナ・アダ・オダラン?」が理解されなかったのが悔しいほど悲しい。
すっかり自信をなくしたが、だからと言ってインドネシア語を学ぼうとしない。
こんな態度だから、インドネシア語会話能力が小学生以下なのだろう。
ちょっと反省しています。
(2007年05月26日の日記より)
2014年03月18日
ウブドの電話事情(44)
時代は急速に変化している。
地球の存続も危ぶまれている。
否。私が言っているのは、そんな大袈裟なことではない。
私のまわりの急変は、バリ人がスマートフォンを持ったことです。
もちろんウブド人も。
世界は同時発生的に進化しているようだ。
電話の話だが。
私が生まれて始めて手にした電話機は、ダイヤル式だった。
電話をかける仕草は、グーにした左手を耳に近づけ、右手の人差し指でダイヤルをジーコジーコと回す。
受信音は「リーン リーン リーン」と鳴った。
重厚だが無骨な黒色電話は、しばらくして、番号を押す明色のプッシュホン式に変わった。
ダイヤルは回すのではなく、人差し指でピッポパと軽快に叩く。
人によっては小指でピッポパかもしれない。
ポレットベルと呼ばれる、所在探知機のような機械を携帯するようになったのもこの頃だ。
監視されているようで、私は持たなかった。
続いて、携帯電話が普及を始める。
日本の初期の携帯電話はショルダーフォンと呼ばれ、写真のようになんと3キロという大きな代物だった。
私が携帯電話を持つようになったのは、ウブド滞在を始めてからだ。
「アパ?情報センター」を始めて数年してからだと記憶している。
不測の事態が起こった時に連絡が取れるようにと、アパ?スタッフの名前が最初に出るように設定してくれた携帯だった。
ウブドの電話所有第一号はウブド王宮だと言われている。
車、テレビ、ほとんどの第一号は、ウブド王宮だ。
私が訪れた1990年頃のウブドは、ホームステイやレストランでは電話を所有していたが、一般家庭の電話普及率は少なく利用者もごくわずかだった。
公衆電話も少なく、あったとしてもことごとく壊れていて使えなかった。
記憶も記録もないので曖昧だが、フード付きの公衆電話はRp100コインで利用できたと思う。
商店や一般家庭で、気安く電話を借りられない。
電話機には、鍵の付く透明プラスチック製のカバーが付いていた。
長距離電話に使われて、膨大な使用料を請求されるのが心配なのだ。
私がウブドで最初に見た電話機は宿泊先の「ロジャーズ・ホームステイ」で、やはりプラスチックのカバーが付いたプッシュボタン式だった。
ツーリストが国際電話を必要とする時は、アンドン地域警察署前(現在のスーパーマーケット・デルタデワタ西横)にあった公共の電話局か、ウブド大通りにある「レストラン・ノマド」が経営する料金の高い私設電話サービスに出掛けなくてはならない。
私設電話サービスは「レストラン・ノマド」の東隣にある2階建て貸し店舗(現在「ブレッドライフ」のある建物)の2階にある。
公共電話局の局員の態度は、仕事をする気がなく怠惰で横柄だった。
猜疑心の強い私は、ひょっとすると公衆電話が壊れているのは「ノマド」のしわざで、電話局員が怠慢なのは「ノマド」から小遣いをもらっているせいではないかと疑っていた。
選択肢は、嫌々「ノマド」の電話サービスを利用するしかなかった。
1994年、テレフォンカードが使える電話ブースがウブド市場前に設置された。
こちらも頻繁に故障するため利用者は少なかったように、記憶している。
相前後して、「ワルテル=WARTEL(Warung Telephone )」と呼ばれる私設電話サービスが多数開店する。
1996年、電話局がアンドン交差点のウブド大通り沿いに移転した。
固定電話機の普及は遅々として進まない。
レストラン、ホテル、などのツーリスト向けのビジネスが増加したからだろう。
私の滞在するギャニアール県では、ある年から電話回線が満タンで増設が出来なくなっていた。
電話機の設置をお願いしても、近くに鉄柱がないと、数件まとまるまで待つか、自己負担で立てなくてはならない。
30メートル置きに立てる鉄柱が一本につき100万ルピアかかる。
賄賂を払って、難しくなった。
いつまで待たされるかわからない電話機の設置。
こんなタイミングに携帯電話が発売された。
特権階級の贅沢品だと思われていたのが、年々価格が下がり、たちまちのうちにバリ人へ浸透していった。
親子電話、コードレス電話でさえ便利だと思っていた私には、個人個人が電話を持ち歩く時代が来るとは考えもしなかった。
電話の普及していなかったウブドでは、大雨が降ると連絡ができなかったとの理由で遅刻、欠席は当然のように認められた。
携帯を持つようになって無断の欠席、遅刻はできなくなった。
これと言って急ぎの用事のない私にとっては、不便な機器である。
1997年、携帯電話の普及と並行して、インターネットの布設が始まる。
まだ、パソコン持参のツーリストは少なかった。
携帯電話とシムカード販売の専門店が雨後のタケノコのように開店した。
ネット・カフェのインドネシア版である「ワルネット=WARNET(Warung Internet )」が開店して、E-mailサービスが受けられるようになった。
free Wifiのホテル、レストランが増えると、ワルネットは衰退し子供のゲームコーナーに転向した。
ネット回線状況は年々、よくなっているようだ。
近年に、光ファイバー通信になるらしい。
村人は、携帯電話から一足飛びに、スマートフォンを持つようになった。
あくまでも私のまわりのウブド人の話ですので、念のため。
今では、デジタル文字を触れるだけのスマートフォンだ。
カメラ内蔵で写真の保存・送信もでき、音楽を聴けて、ゲームなどもできるさまざまな機能がついている。
Skype、Twitter、Lineの横文字は、さっぱりわかりまへん。
わからないことは、説明も難しい。
良い(E)メイルはあれば悪いメールもあるのでは、と信じていた私のこと。
ファイヤー・ワイヤーは、火縄のことかな、ひょっとすると「てんや・わんや」かなと思ったし。
ショートカットは髪を短くすることだった。
USBはアメリカのバスケットチームの名前かな、なんてこじつけたり。
ネット系はインターネットのネットだとばかり思っていたら、寝癖を防ぐために頭に被るネットをする人のことだと知ってボーゼンとした。
パソコン関係の言語は、まったく理解不能だ。
文明の発展に、身も心もついていけないだらしない自分がいる。
こんな状態では、私がスマートフォンを持つことはないだろう。
地球の存続も危ぶまれている。
否。私が言っているのは、そんな大袈裟なことではない。
私のまわりの急変は、バリ人がスマートフォンを持ったことです。
もちろんウブド人も。
世界は同時発生的に進化しているようだ。
電話の話だが。
私が生まれて始めて手にした電話機は、ダイヤル式だった。
電話をかける仕草は、グーにした左手を耳に近づけ、右手の人差し指でダイヤルをジーコジーコと回す。
受信音は「リーン リーン リーン」と鳴った。
重厚だが無骨な黒色電話は、しばらくして、番号を押す明色のプッシュホン式に変わった。
ダイヤルは回すのではなく、人差し指でピッポパと軽快に叩く。
人によっては小指でピッポパかもしれない。
ポレットベルと呼ばれる、所在探知機のような機械を携帯するようになったのもこの頃だ。
監視されているようで、私は持たなかった。
続いて、携帯電話が普及を始める。
日本の初期の携帯電話はショルダーフォンと呼ばれ、写真のようになんと3キロという大きな代物だった。
私が携帯電話を持つようになったのは、ウブド滞在を始めてからだ。
「アパ?情報センター」を始めて数年してからだと記憶している。
不測の事態が起こった時に連絡が取れるようにと、アパ?スタッフの名前が最初に出るように設定してくれた携帯だった。
ウブドの電話所有第一号はウブド王宮だと言われている。
車、テレビ、ほとんどの第一号は、ウブド王宮だ。
私が訪れた1990年頃のウブドは、ホームステイやレストランでは電話を所有していたが、一般家庭の電話普及率は少なく利用者もごくわずかだった。
公衆電話も少なく、あったとしてもことごとく壊れていて使えなかった。
記憶も記録もないので曖昧だが、フード付きの公衆電話はRp100コインで利用できたと思う。
商店や一般家庭で、気安く電話を借りられない。
電話機には、鍵の付く透明プラスチック製のカバーが付いていた。
長距離電話に使われて、膨大な使用料を請求されるのが心配なのだ。
私がウブドで最初に見た電話機は宿泊先の「ロジャーズ・ホームステイ」で、やはりプラスチックのカバーが付いたプッシュボタン式だった。
ツーリストが国際電話を必要とする時は、アンドン地域警察署前(現在のスーパーマーケット・デルタデワタ西横)にあった公共の電話局か、ウブド大通りにある「レストラン・ノマド」が経営する料金の高い私設電話サービスに出掛けなくてはならない。
私設電話サービスは「レストラン・ノマド」の東隣にある2階建て貸し店舗(現在「ブレッドライフ」のある建物)の2階にある。
公共電話局の局員の態度は、仕事をする気がなく怠惰で横柄だった。
猜疑心の強い私は、ひょっとすると公衆電話が壊れているのは「ノマド」のしわざで、電話局員が怠慢なのは「ノマド」から小遣いをもらっているせいではないかと疑っていた。
選択肢は、嫌々「ノマド」の電話サービスを利用するしかなかった。
1994年、テレフォンカードが使える電話ブースがウブド市場前に設置された。
こちらも頻繁に故障するため利用者は少なかったように、記憶している。
相前後して、「ワルテル=WARTEL(Warung Telephone )」と呼ばれる私設電話サービスが多数開店する。
1996年、電話局がアンドン交差点のウブド大通り沿いに移転した。
固定電話機の普及は遅々として進まない。
レストラン、ホテル、などのツーリスト向けのビジネスが増加したからだろう。
私の滞在するギャニアール県では、ある年から電話回線が満タンで増設が出来なくなっていた。
電話機の設置をお願いしても、近くに鉄柱がないと、数件まとまるまで待つか、自己負担で立てなくてはならない。
30メートル置きに立てる鉄柱が一本につき100万ルピアかかる。
賄賂を払って、難しくなった。
いつまで待たされるかわからない電話機の設置。
こんなタイミングに携帯電話が発売された。
特権階級の贅沢品だと思われていたのが、年々価格が下がり、たちまちのうちにバリ人へ浸透していった。
親子電話、コードレス電話でさえ便利だと思っていた私には、個人個人が電話を持ち歩く時代が来るとは考えもしなかった。
電話の普及していなかったウブドでは、大雨が降ると連絡ができなかったとの理由で遅刻、欠席は当然のように認められた。
携帯を持つようになって無断の欠席、遅刻はできなくなった。
これと言って急ぎの用事のない私にとっては、不便な機器である。
1997年、携帯電話の普及と並行して、インターネットの布設が始まる。
まだ、パソコン持参のツーリストは少なかった。
携帯電話とシムカード販売の専門店が雨後のタケノコのように開店した。
ネット・カフェのインドネシア版である「ワルネット=WARNET(Warung Internet )」が開店して、E-mailサービスが受けられるようになった。
free Wifiのホテル、レストランが増えると、ワルネットは衰退し子供のゲームコーナーに転向した。
ネット回線状況は年々、よくなっているようだ。
近年に、光ファイバー通信になるらしい。
村人は、携帯電話から一足飛びに、スマートフォンを持つようになった。
あくまでも私のまわりのウブド人の話ですので、念のため。
今では、デジタル文字を触れるだけのスマートフォンだ。
カメラ内蔵で写真の保存・送信もでき、音楽を聴けて、ゲームなどもできるさまざまな機能がついている。
Skype、Twitter、Lineの横文字は、さっぱりわかりまへん。
わからないことは、説明も難しい。
良い(E)メイルはあれば悪いメールもあるのでは、と信じていた私のこと。
ファイヤー・ワイヤーは、火縄のことかな、ひょっとすると「てんや・わんや」かなと思ったし。
ショートカットは髪を短くすることだった。
USBはアメリカのバスケットチームの名前かな、なんてこじつけたり。
ネット系はインターネットのネットだとばかり思っていたら、寝癖を防ぐために頭に被るネットをする人のことだと知ってボーゼンとした。
パソコン関係の言語は、まったく理解不能だ。
文明の発展に、身も心もついていけないだらしない自分がいる。
こんな状態では、私がスマートフォンを持つことはないだろう。
2014年03月10日
ウブド・本の交換会(43)
今現在、バリ島に日本の新書を扱う書店はない。
もちろんウブドにあるわけがない。
そこで登場するのが、長期滞在者御用達「ウブド・本の交換会」だ。
私が長期滞在を始めた1990年頃の話を、少しさせてください。
当時滞在していて、寂しい思いをしたのは、日本の本が読めないことだった。
これまでは、ビジネス専門書かインテリアデザイン関係の雑誌しか読んでいなかった。
読書好きというわけではない。
活字を見て日本語で思考したかっただけだと思う。
手元には、旅立つ前に兄・章司が渡してくれた、青島幸雄の「人間万事塞翁が丙午」だだ一冊。
何度も読み返した。
知り合いが出来ると、手持ちの本を交換した。
有為エィンジェル著「姫子・イン・バリ」、本岡類の「ウブドの花嫁」、山田詠美「カンヴァスの柩」などが、廻って来た。
これも何度も読んだ。
手に入る本が限られている。
選んでなんかいられない。
滞在者が少なく、廻ってくる本もすぐに底をつく。
私は来る物拒まず、ダボハゼのようにどんな内容の本でも飛びついた。
今でも、作者やジャンルに囚われず、恋愛・推理・歴史・エッセーなんでも読みあさっている。
時々、飛行機内の新聞、雑誌、機内誌が届く。
情報としての記事をシャットアウトしている私は、内容よりは活字を眺めていることが多い。
日本語で書かれたパンフレットを隅々まで目で追うこともある。
土産の説明書を読破する癖は、この時に培ったのだろう。
誰かが置いていった「国語辞典」を読みふけった日々もある。
バックパッカーが手放していった本が、数件の古本屋で手に入った。
旅行記や精神世界系に偏っていたが、比較的新しいのを選んで購入した。
ビザ取得でシンガポールに出掛けると、三越百貨店内にある「紀伊国屋書店」を覗き物色する。
税金が加算された本は節約旅行者には贅沢品で、一冊手に入れるのにサンザン悩んだ。
旅行者が増えるとともに、日本語の書物が集まるようになった。
気をきかせたリピーターさんが、土産に日本の小説を持って来てくれることが嬉しかった。
「居酒屋・影武者」の蔵書も、少しずつ増えていく。
余程、日本語の活字に飢えていたのだろう、と当時のことを思い出す。
長期滞在者のほとんどが、私とよく似た読書環境の中で暮らしていたと思う。
貪欲に本を読みたい人々には、本の絶対数が足らない。
「新しい本が読みた〜い!」
そんな要望から「ウブド・本の交換会」がスタートすることになった。
言い出しっぺたちが、ボランティアの実行委員に任命された。
第1回は、2009年3月21日(土)「カフェ・アンカサ」から始まった。
在住者、旅行者に声を掛け、たくさんの本が集まり交換ができた。
大勢の人々の協力を得て「第1回ウブド・本の交換会@アンカサ」は盛況のうちに終わった。
読書好きな滞在者には、ありがたい催し物となった。
第2回は、5月2日(土)ペネスタナン村の「ワルン・ソフィア」で午後1時より5時まで行われた。
この後は「カフェ・アンカサ」「ワルン・ソフィア」が交互に、月一で月末の土曜日(変更することもあります)に開催。
第16回からサンギンガン通りにある「和食レストラン・萬まる」が加入して、3軒の持ち回りとなった。
「萬まる」は、46回まで参加した。
テガランタン村にある「サリナ・ワルン」は、49回から今年1月の58回までの1年間参加。
後継店は、サクティ村にある「カフェ・ビンタン」が、61回から参加してくれる予定になっている。
今月3月には6年目に突入する。
なんと60回を迎える。
過去59回の交換会に、それぞれの思い出がある。
ボランティアスタッフの募集。
ピンクのスタッフTシャツ作成。(思いがけないことに、ピンクが似合う私を発見)
存続させるために、スタッフは様々なアイデアを持ち寄った。
チラシを作って協賛店に貼ってもらったこともある。
バリ関連本のレンタルコーナーを「アンカサ」に設置。
3冊以上寄付された方に、無料のサービスを提供したこともある。
交換の方法がポイント制となった。
バザー、フリーマーケットを加えた。
おでん、たこ焼き、お好み焼き・焼きそば、ラーメン、ピザ、ケーキ、豆腐、様々な総菜がテーブルに並んだ。
日頃、口にすることのできない食材が、手頃な値段が提供されている。
参加する人々に、味の楽しみが加わった。
私は、みちこさんの作る「おはぎ」の大ファンだ。
フリーマーケットの古着は、地元の娘さんたちに評判がよかった。
売り上げの10%が「ウブド・本の交換会」の活動資金としてご寄付される。
寄付金が貯まると、新作文芸書を購入した。
本を交換された方全員にチャンス!の「お楽しみ抽選会」の商品購入に寄付金を充てることもある。
年末には、「大ビンゴ大会」を催した。
楽しい思い出がいっぱいだ。
長期滞在者も増え、旅行者も参加する親睦&交流を目的とする「ウブド・本の交換会」は成長している。
末永く、続くことを期待して・・・・合掌。
最後に、「ウブド・本の交換会」実行委員からの声をお伝えします。
「ウブド・本の交換会」は、ウブド在住の日本人が主催するイベントです。
旅のお供に持ってきた本、読み終わった本を交換しましょう。
覗くだけでも構いません。
ウブド好きな人々が集まって、親睦&交流しませんか。
ご意見、アイデアを広く皆様より受け付けております。
ボランティアスタッフも常時募集しています。
ご気軽に、お声をおかけください。
消滅しないように、皆の力で育てていきたいと思っています。
もちろんウブドにあるわけがない。
そこで登場するのが、長期滞在者御用達「ウブド・本の交換会」だ。
私が長期滞在を始めた1990年頃の話を、少しさせてください。
当時滞在していて、寂しい思いをしたのは、日本の本が読めないことだった。
これまでは、ビジネス専門書かインテリアデザイン関係の雑誌しか読んでいなかった。
読書好きというわけではない。
活字を見て日本語で思考したかっただけだと思う。
手元には、旅立つ前に兄・章司が渡してくれた、青島幸雄の「人間万事塞翁が丙午」だだ一冊。
何度も読み返した。
知り合いが出来ると、手持ちの本を交換した。
有為エィンジェル著「姫子・イン・バリ」、本岡類の「ウブドの花嫁」、山田詠美「カンヴァスの柩」などが、廻って来た。
これも何度も読んだ。
手に入る本が限られている。
選んでなんかいられない。
滞在者が少なく、廻ってくる本もすぐに底をつく。
私は来る物拒まず、ダボハゼのようにどんな内容の本でも飛びついた。
今でも、作者やジャンルに囚われず、恋愛・推理・歴史・エッセーなんでも読みあさっている。
時々、飛行機内の新聞、雑誌、機内誌が届く。
情報としての記事をシャットアウトしている私は、内容よりは活字を眺めていることが多い。
日本語で書かれたパンフレットを隅々まで目で追うこともある。
土産の説明書を読破する癖は、この時に培ったのだろう。
誰かが置いていった「国語辞典」を読みふけった日々もある。
バックパッカーが手放していった本が、数件の古本屋で手に入った。
旅行記や精神世界系に偏っていたが、比較的新しいのを選んで購入した。
ビザ取得でシンガポールに出掛けると、三越百貨店内にある「紀伊国屋書店」を覗き物色する。
税金が加算された本は節約旅行者には贅沢品で、一冊手に入れるのにサンザン悩んだ。
旅行者が増えるとともに、日本語の書物が集まるようになった。
気をきかせたリピーターさんが、土産に日本の小説を持って来てくれることが嬉しかった。
「居酒屋・影武者」の蔵書も、少しずつ増えていく。
余程、日本語の活字に飢えていたのだろう、と当時のことを思い出す。
長期滞在者のほとんどが、私とよく似た読書環境の中で暮らしていたと思う。
貪欲に本を読みたい人々には、本の絶対数が足らない。
「新しい本が読みた〜い!」
そんな要望から「ウブド・本の交換会」がスタートすることになった。
言い出しっぺたちが、ボランティアの実行委員に任命された。
第1回は、2009年3月21日(土)「カフェ・アンカサ」から始まった。
在住者、旅行者に声を掛け、たくさんの本が集まり交換ができた。
大勢の人々の協力を得て「第1回ウブド・本の交換会@アンカサ」は盛況のうちに終わった。
読書好きな滞在者には、ありがたい催し物となった。
第2回は、5月2日(土)ペネスタナン村の「ワルン・ソフィア」で午後1時より5時まで行われた。
この後は「カフェ・アンカサ」「ワルン・ソフィア」が交互に、月一で月末の土曜日(変更することもあります)に開催。
第16回からサンギンガン通りにある「和食レストラン・萬まる」が加入して、3軒の持ち回りとなった。
「萬まる」は、46回まで参加した。
テガランタン村にある「サリナ・ワルン」は、49回から今年1月の58回までの1年間参加。
後継店は、サクティ村にある「カフェ・ビンタン」が、61回から参加してくれる予定になっている。
今月3月には6年目に突入する。
なんと60回を迎える。
過去59回の交換会に、それぞれの思い出がある。
ボランティアスタッフの募集。
ピンクのスタッフTシャツ作成。(思いがけないことに、ピンクが似合う私を発見)
存続させるために、スタッフは様々なアイデアを持ち寄った。
チラシを作って協賛店に貼ってもらったこともある。
バリ関連本のレンタルコーナーを「アンカサ」に設置。
3冊以上寄付された方に、無料のサービスを提供したこともある。
交換の方法がポイント制となった。
バザー、フリーマーケットを加えた。
おでん、たこ焼き、お好み焼き・焼きそば、ラーメン、ピザ、ケーキ、豆腐、様々な総菜がテーブルに並んだ。
日頃、口にすることのできない食材が、手頃な値段が提供されている。
参加する人々に、味の楽しみが加わった。
私は、みちこさんの作る「おはぎ」の大ファンだ。
フリーマーケットの古着は、地元の娘さんたちに評判がよかった。
売り上げの10%が「ウブド・本の交換会」の活動資金としてご寄付される。
寄付金が貯まると、新作文芸書を購入した。
本を交換された方全員にチャンス!の「お楽しみ抽選会」の商品購入に寄付金を充てることもある。
年末には、「大ビンゴ大会」を催した。
楽しい思い出がいっぱいだ。
長期滞在者も増え、旅行者も参加する親睦&交流を目的とする「ウブド・本の交換会」は成長している。
末永く、続くことを期待して・・・・合掌。
最後に、「ウブド・本の交換会」実行委員からの声をお伝えします。
「ウブド・本の交換会」は、ウブド在住の日本人が主催するイベントです。
旅のお供に持ってきた本、読み終わった本を交換しましょう。
覗くだけでも構いません。
ウブド好きな人々が集まって、親睦&交流しませんか。
ご意見、アイデアを広く皆様より受け付けております。
ボランティアスタッフも常時募集しています。
ご気軽に、お声をおかけください。
消滅しないように、皆の力で育てていきたいと思っています。