2014年05月30日

橋の下世界音楽祭@豊田市(7)

高木さんとは、昨年末にバリ島在住者による草野球チームで知り合ったとばかり思っていた。

実は、それ以前にもお会いしていたのだ。

2012年が最終回となってしまった《第4回:うぶど大晦日恒例年越仮装大会》に参加していた。

その時、飛び入りで阿波踊りを家族4人で披露してくれた。

私は、顔面白塗りのバリアン=Balian(バリの呪術師)の仮装で二位入賞をした。

ウブドに近いスカワティ村に長期滞在しているので、この頃、頻繁に会うようになった。

同郷名古屋人ということもあるが、気さくな性格の高木さんとは気兼ねなく付き合うことができる。

奥様の千秋さんも、旦那様以上に陽気で楽しい女性だ。

高木さん夫妻が阿波踊りで出演するイベントが豊田市であると聞いていた。

5月16日・17日・18日と開催される「橋の下世界音楽祭」だ。

夫妻はこのイベントに参加するために、私より2日早い8日に帰国している。

一時帰国した折りには、必ず、見学に行くと約束していた。

23才から30才前まで、いくつかのイベントを仕掛けた経験がある私は、この手のイベント見学は好きである。
今回の旅の楽しみの一つにもしていた。

そう、一時帰国も私にとっては旅の途中ということ。


手にした「橋の下世界音楽祭」のフライヤーに、幾人かの知り合いの名前が載っていた。

阿波踊りがあるのは17日だが、前日の16日に友人の “いとうたかお君” のライブがあるのを見つけた。

たかお君はシンガーソングライターで、フォークソングが流行った時代から唄い続けている。

彼の歌が聴きたくて、16日に会いに行くことにした。

会場は、矢作川に架かる名古屋出身の建築家・黒川紀章設計の橋の下。

橋の下の日影に入ると肌寒い。

時々、強風が河原を吹き抜ける。

太陽のあたる土手に登る。

土手の向こう側には、やはり黒川紀章が手がけた「豊田スタジアム」がある。

サッカーにまったく詳しくないが、なんでも名古屋グランパスのホームグランドだそうだ。

橋の下には、ライブのステージが両端に2カ所ある。

河川敷には露天が並び、お祭り気分を盛り上げていた。

土手の幟(のぼり)が強風にあおられて折れそうだ。

祭りのスタッフが、幟を横に倒している。

たかお君らしき人物が、祭りのスタッフと話している。

30年ぶりに会う彼の面影に、ちょっと確信がもてない。

私は何気ない顔をして、彼の横を通り過ぎてみた。

・・・・・が、彼は私に気づかない。

人違いか?

挨拶はステージが終わってからにしよう。

開演時間が近づいたのか、ステージ前に人が集まりだした。

たかお君らしき人物が、ステージを見据えて立っている。

今度は、間違いないと確信。

「いとうたかおは、私に気がつかないようだ」私はつぶやきながら、彼に近づいて行く。

「伊藤さん!」たかお君は、絶滅危機の動物でも見るような顔で驚いた。

「ミクロが来てるから」と言うと、たかお君はその場を立ち去った。

しばらくして、たかお君はミクロを連れて戻ってきた。

たかお君は「ライブのスタンバイがあるから」と楽屋に向かった。

ミクロとも、久々の再会だ。

お互いの近況報告とイベントとの関わり方などを時間をかけて話し合った。

2人の前へフラフラっと現れたのは、よこしょう君。

「フェイスブックで、伊藤さんが今日ここに来ること知っていたよ」と言う。

たかお君の演奏中に、センチメンタル・シティ・ロマンスのマネジャーだった竹ちゃんにも再会できた。

「日本料理店・影武者」の由美さんの友人で、元ゼルダのナオミさんともお話しした。

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17日は夜8時から、高木さん夫妻が出演する太閤連の阿波踊りがある。

昨夜、知人の原さんから電話がありインドネシアのパンクバンドが出演するので見てくれと言われた。

私が知っている原さんは、以前、ロック歌舞伎を主宰していた。

現在はハラプロダクト主宰し、今夜8時30分からスーパーコミック歌舞伎「勧進帳」で出演する。

ジャカルタからのパンクグループ「マージナル=MARJINAL」は、インドネシアの人気バンドと聞いている。

午後2時から演奏するというので出掛けた。

激しいパンクに驚く。

ゴメン! 残念ながら音楽もファッションも、今の私の好みではない。

太鼓と笛の音が響く。

いよいよ太閤連の阿波踊りの始まりだ。

高木さんは、お腹の上に太鼓をのせて叩いている。

千秋さんは、横笛を吹いている。

会場の人々が踊りの列に混ざる。

次第に行列は、会場の全員を飲み込むようにして膨らんでいく。

若者が大半だ。

これはラテンのノリだ。

日本の若者は、ラテンのリズムについていける。

私が長期滞在しているバリの若者も、ラテンのリズムは大好きだ。

バリで阿波踊りしたら、きっとノルノルだろうな。

阿波踊りは、バリのガムランに合わることもできそうだ。

ガムランと阿波踊りのコラボレーションは、楽しそう。

ガムランと阿波踊り、そしてラテンの融合。

夢が広がる。

ここ一年、旅に出たい病が発病している。

やっぱり南米に行こうと、意志を固くする私でした。 

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このあと、原さんのグループが川辺の林付近で上演されるが、寒さのためご無礼した。
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2014年05月28日

家族団欒風景に感無量(6)

宿泊先は、愛知環状鉄道・しんとよた駅前にあるワンルームマンションの2階。

荷物を置いて、即行「コメダ珈琲・挙母店」へ直行する。

息子の経営する店だ。

愛息の働く姿を見るのは、これが初めてだ。

立派に成長した息子の入れたコーヒーを飲みながら、知人たちに人気だと教えられたシロノワールを試食。

コメダ珈琲名物シロノワールを説明しておこう。

シロノワールは、円盤形のクロワッサンにソフトクリームがのったもの。

私の好物二品のコラボレーション。

これはたまりませんわ。

これでは説明にならないか。

と言うより知らないのは私だけで、読者の皆様はすでにご存知のことだろう。

「コメダ珈琲・挙母店」のシロノワールは、ソフトクリームが他店の3倍もあるということで、さらに人気を高めているようだ。

確かに、倒れてしまいそうなほど大きい。

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夕食は家族5人で焼き肉店に繰り出す。

焼き肉店には悪いが、焼き肉の味を覚えていないほど会話が弾んだ。

食後は、孫を中心にして幼児ゲームで盛り上がった。

この時間で、息子の嫁も孫もお爺ちゃんに打ち解けてくれたようだ。

孫に至っては、興味あるお爺ちゃんになった。

団欒風景。

家族に包まれた安心感が心地よい。

こういう精神状態を感無量と言うのだろうか。





5月11日:

東京からはるばる、チャコさんが豊田市まで来てくれた。

病院通いをしている関係で、24日に予定する『伊藤さん歓迎会』に参加できないための単独行動だ。

水野さんが段取りしてくれ、「コメダ珈琲・挙母店」で待ち合わせとなった。

チャコさんは、アユちゃんを伴っていた。

彼女たちとは、ウブドでの知り合いだ。

チャコさんは子供絵画教室の先生。

ウブドの濃密なリピーターだ。

教室の生徒を10数人連れてウブド体験ツアーをした年もあった。

アユちゃんは、その時の生徒さん。

彼女は、ウブドに一年間滞在してインドネシアの伝統布(イカット・バティック)を研究したこともある。

アユちゃんは、チャコさんの娘ウミちゃんの友人でもある。

彼女たちの送迎は、高木さん夫妻が請け負ってくれた。

ヒロさんは、愛車のアルファロメオ・スパイダーで颯爽と現れた。

総勢7名。

インドネシア語が飛び交う、妙な一団。

奇しくもウブド熱愛症候群の集いになった。

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2014年05月26日

25年ぶりの日本・名古屋(5)

25年ぶりの名古屋一時帰国を決めると、私の帰国を歓迎するかのようにグッドタイミングな事実がいくつか起こった。

ひとつは、格安航空券のエア・アジアが今年3月から名古屋便を就航させたこと。

クアラルンプール経由だが、名古屋方面の利用者には便利となる。

もうひとつは、クアラルンプールの空港が5月10日に新空港になったこと。

新空港になって具体的に何が良くなったのか理解できていないが、乗客にとってはスムーズに乗降ができればそれでいい。

しかし、出発当日になってトラブっている。

「2度ある事は3度ある」一部の地域で言われている諺だ。

3度目は名古屋滞在中か、と不安が募る。

飛行機が飛び立って、しばらくすると、右端の席にいた女性が窓際にいる彼女の友人の席の横に移動して行った。

運が向いてきたか、椅子3つを独り占め。

バリの神は私を見放していなかったのだ。

他のお客様には申し訳ないが、幸運を享受させていただき、横になって眠らせてもらいことにした。


朝10時32分。

飛行機は、名古屋国際空港セントリアに2時間遅れで着陸した。

空港内に大浴場(銭湯)があるから、セントリアと命名したという噂はない。

セントリアは、常滑沖の埋立地にある。

ここはかつて私がウインドサーフィンをしていた海岸だ。

埋立にあたって、海苔養殖業者との話し合いが長く続いていたのを思い出した。

あいにく窓際の席でなかったため、上空からの景色を見ることはできなかった。

私が日本を発ったのは、1990年5月7日。

今から24年前のことだ。

小牧市にあった名古屋空港だった。

当時はガルーダの直行便が就航していて、バリ島のヌグラ・ライ空港に降り立った。

余談だが、ヌグラ・ライは、タバナン地方の王家の末裔でインドネシア独立戦争の英雄の名前。

空港の正式名称は「イ・グスティ・ヌグラ・ライ空港」だが、実際にはバリ州の州都名デンパサール(DPS)を冠して「デンパサール空港」と呼ばれている。

セントリア空港に降り立った。

バリに長期滞在を始めてから始めての帰国。

「伊藤博史、25年ぶりに戻ってまいりました」

思わず、敬礼しそうになる。

今回は、楽しみ満載の旅になりそうな予感。

イミグレーションの荷物検査カウンターを抜けると、あっけなく表に出てしまった。

歓迎の出口は、感動の対面ができる設計にはなっていない。

それはそうだ、皆がみんな嬉しい対面とは限らない。

それぞれの思いを込めて、出口に向かう。

私の心境は、というと・・・。

誰が迎えに来てくれているかわからない。

それに、2時間遅れの到着だ。

デンパサールの空港からインターネットで、S氏に託したコメントが届いていないかもしれない。

誰も迎えに来ていないことも、考えられる。

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目の前に、知った顔が。

元妻だ。

息子は仕事で迎えに来られないらしい。

そして、初めて会う家族。

息子の嫁と孫だ。

嬉し恥ずかしで、不自然に顔が頬笑んでいる。

話したいこと、聞きたいことは山ほどある。

25年ぶりに対面する元妻には、何から話そうかと考えているうちに「久しぶり! よくわかったね?」が第一声だった。

初めて会う息子の嫁と孫にも「こんにちわ」で終わってしまった。

感動のご対面風景にはならなかったが、私としては感動を押さえての「こんにちわ」だ。

孫の接し方を知らない私は、動揺している。

これから徐々に、理解を深めていこう。

私と同様に、元妻も息子の嫁も、どう挨拶をしようかとすごく緊張していたと、あとから聞いた。


水野さんと多田さんの顔が見えた。

彼らとも久しぶりの再会だ。

「忙しいから迎えはいいよ」言っておいたのに、律儀にも来てくれていた。

今回の一時帰国では、この2人に世話になることが多いだろう。

このあと、水野さん達とは空港で分かれ、家族は長姉との再会を果たすために名古屋市内に向かった。
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2014年05月19日

バリの神々から出国許可がでていない?(4)

9日の続きです。

イミグレを通過しちゃえばこちらのもの。

キタス問題が一段落し精神も落ち着き、電光掲示版の出発情報を見る。

バリの空港は、数年前から新しくなっている。

広くなって、私には使い勝手が悪い。

今回利用するのはエアアジアで、マーレーシア経由の名古屋便。

クアラルンプール空港行きの出発時間は、19時10分、到着は22時15分。

搭乗時間は、18時30分と知らされている。

搭乗するゲート番号は、まだ、掲示されていない。

今の時間は17時30分。

時間に余裕がある。

空港内は、フリーWiFIだと聞いていたので、さっそく利用させてもらうことにした。

この時点ではフェースブックで《7時10分出発予定の飛行機の到着が遅れているようだ。トランジットに合うのか?》なんて、余裕のコメントをしている。

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一難去ってまた一難。

出発予定の飛行機の到着が遅れている。

安売りチケットの場合、こんなことは普通にあること。

それにしても、なかなかスムーズにバリから出国できない。

知人のフェースブックに「バリの神様が引き止めているのでは?」と書かれた。

私が、神様に期待されてる人間とは思えないが、トラブルが続くと、本当に引き止められているのかもしれないと考えてしまう。

心配なのは、クアラルンプール空港でのトランジットが間に合うかということだ。

荷物を預けていない人は、出発時間がギリギリでも飛行機に乗り込んでしまえばいい。

私のように預けた荷物がある場合は、荷物を受け取る時間が必要になる。

今回は、その時間がなくなりそうだ。

クアラルンプールの空港は、10日から新空港になるという。

ウブドの知人の中では一番乗りらしい。

知人から現場の状況説明を報告するようにと言われているが、そんな時間の余裕はないだろう。


エアアジアから乗客に弁当が配られた。

到着時間が遅くなるので、迎えに来てもらう予定になっている家族に、その旨を連絡したい。

連絡方法がない。

頼みの綱は、インターネットだけだ。

空港内の長椅子に座ってパソコンを開く。

フェスブックを見ると友人のSさんがネット中だった。

私はSさんに、連絡を頼んだ。

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偶然、同じ飛行機に乗ることになった知人から情報が入った。

1)トランジットが間に合わなければ、次に飛行機が飛ぶ4日後まで待つ。宿泊施設は用意されるのか?

2)他社の航空会社に乗り換える。その時は自腹を切らなければいけないのか?

3)トランジットのエアアジア機が待っていてくれる。

予定通り名古屋に到着しなければ困る人もいるだろう。

翌日から仕事の人、避けられない用事がある人。

私は、金銭的支出がなければ、どの選択を強いられても困ることはない。

むしろアクシデントを楽しんでいる。

知人は、バリでガムラン・グンデルワヤンを習っている女性。

バリ舞踊やガムランを習いにバリに来ているリピーターの多くは、旅慣れていて預ける荷物がない。

彼女も預けた荷物はない。

飛び乗る覚悟でいるようだ。

「伊藤さんは、荷物をあとの便で送ってもらうように交渉するといい」とアドバイスしてくれた。

私は、彼女とトランジットに間に合うように急ぐ道を選んだ。


搭乗のアナウンスがあった。

Sさんとの連絡は「次はクアラルンプール空港からメールします」とコメントを入れて搭乗することにした。

2時間遅れの21時10分発。

あと50分ほどで飛行機は飛ぶ予定だ。

所用時間3時間5分、00時15分には到着だ。

トランジットの飛行機は、クアラルンプール00時45分発で中部国際航空08時20分着。

到着してから30分の時間がある。

走れば間に合うのか?


乗り継ぎは、空港内を急ぎ足で駆け抜けた。

走って走って走って、搭乗。

飛行機は、待っていてくれた。

私を乗せた名古屋便は、結局2時間近く遅れて02時25分に飛び立った。

小刻みな時間の表示で、読みにくい文章になってゴメンナサイです。(低頭)

posted by ito-san at 17:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 名古屋一時帰国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月15日

ヌグラ・ライ空港は新装だが、係官は?(3)

すでに日本帰国を果たし、只今、豊田市にて、なんですが。

やっとネットのできる漫画喫茶を探しあて、ブログがアップできるようになりました。

でも、スピードが遅くてイライラです。

カフェ・アンカサが早かったのか?

とは書いたものの、アップできず。

高木さんに、ポケットWiFiを借りました。

そんなこんなで、取りあえず日本に向けて「出発・出発」。


9日午後3時。

渋滞を懸念して早めにウブドを出発。

ヌグラ・ライ空港には、搭乗時間3時間前に到着した。

バリの空港は、昨年(2013年)バリ島で開催された「APEC首脳会議」(10月4日〜8日)を前にして完成。

新しくなった空港をゆっくり鑑賞しようと思っていたが、いざ出発となると、まずはチェックインを済ませてしまいたいと「エア・アジア」のカウンターに急いでしまう。

ボーディング・コールはまだ始まっていなかったが、一番乗りで手荷物を預けイミグレ・カウンターに直行した。

背の高いイミグレ・カウンターには、ウサンクサイ顔の係官が座っている。

パスポートとボーディングカードをカウンター越しに掲示する。

「キタスだね、見せて」と係官。

(えっ、見せないといかんの?)思わず名古屋弁で考えている。

係官の言うキタスとは、長期滞在ビザの一種でパスポート大の手帳のことだ。

私的には、パスポートにリエントリー(再入国)許可の印は押してあるし、キタスに本年度に関する記載はないので携帯する必要はないだろうと考えていた。

「ビジネスやってんじゃないの?」含み笑いを浮かべて斜に構える係官。

「リタイヤです」と私は答えた。

「7時10分出発か、時間がないね」

いかにもお金が欲しいくて因縁をつけている感じの係官。

そんな態度が気にならない。

「わかった。すぐ行けば、まだ荷物は間に合うかもしれない」

私は、パスポートを奪うようにしてひったくり、小走りに駆け出した。

期待は裏切られた。

「エア・アジア」のベルトコンベアーの上に、私のバッグは乗っていなかった。

チェックイン・カウンターの女性に説明すると「しばらくお待ちください」となった。


台車に乗って、私のバッグが運ばれてきた。

荷物係の青年に礼の会釈をして、台車からバッグを下ろした。

壁側に寄りジッパーを開ける。

開けながら、どの袋にしまったかを思い出そうとする。

思い出せない。

中身をひっくり返しても思い出せない。

焦った。

もしかすると、家に置いて来てしまったのか。

取りに戻る時間もない。

25年ぶりの一時帰国は、是非とも果たしたい。

同じ動作を何度も繰り返し確認する。

それでも見つからない。

確認の仕方が間違っているのだろうか。

かなり焦りだした。

最後の手段は、ビザ代行業のアレックスに連絡を取って解決してもら方法しかない。

ところが、私のインドネシア仕様の携帯電話は日本で使用できないからと、持って来ていない。

誰にも連絡が取れない。

もう打つ手はない。

こうなったら、賄賂を払ってでも通過させてもらうしかない。

不本意な行為だが、10万ルピアで交渉だ。

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イミグレのカウンター前には、長蛇の列ができている。

先ほどのウサンクサイ顔の係官が、カウンターから出て行くところが見えた。

交替した係官は、私のパスポートを見ると「出入国カードを書いてこい」と言う。

ムムっ、賄賂の要求がないゾ。

と言うことは、キタス手帳の確認はないのか。

係官の全員が、悪徳とは限らない。


出入国カードを書きながら、次にはパスポートにルピアを挟んでおこうと作戦を立てる。

ルピアを挟んで差し出した。

係官は、パプア系の女性だった。

カウンター越しに、彼女の一挙手が気になる。

日本円の出費も心構えした。

10万ルピアと出入国カードの紙片がカウンターの上に戻ってきた。

彼女は賄賂を拒否したのだ。

さあ、この後の展開はどうなる。

dokidoki・ドキドキ・どきどき。

静かな沈黙のあと・・・・・・。

入国許可の判がリズミカルに押された。

「やった!」

キタス手帳の提示は必要なかった。

最初の係官に、キッチリ苛められたということだ。


入国審査をすませ、ロビーでサンドイッチを食べながら荷物の記憶をたどっていく。

冷静になって考えてみれば、なんのことはない。

リュックの内ポケットに入れたのを思い出した。

キタス手帳はあった。


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2014年05月07日

きっかけは、アパ?情報センター(2)

ウブド生活は快適だ。

何の疑問も持たず、このまま滞在し続けるのだろうと思っていた。

それがまたどうして。

なぜ日本に帰ろうと考えたのか?

それを説明するのは、私の恥ずかしい話を告白しなくてはならない。


それは2年前、2012年7月の末のことだ。

「アパ?情報センター」の契約更新の時期が近づいた。

アパ?は、モンキーフォレスト通りに1995年8月20日開設された、日本人専門の情報センターだ。

プリアタン村ダラム寺院のオダランで、日本語を勉強しているニョマン君と3年続けて会ったことに《縁》を感じて開設した。

資金がないため旅行業の許可を得ず、バリ人名義で営業。

そんなことで、私は裏方だった。

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アパ?の営業も17年が終了し、いよいよ18年目に突入する。

20年間続ける目標で、あと3年は延長しようと考えている。

毎回契約更新は自己資金が不足で、たいてい私が補充している。

今回はまだ、責任者のニョマン君から連絡がない。

連絡のない所をみると、良きに計らっているのだろうと楽観的に考えていた。


ある日「カフェ・アンカサ」を訪ねる途中「アパ?」を覗くと、営業していなかった。

内部は、荒らされたように雑然としている。

これはどうしたことだ。

ニョマン君に連絡を取ると「アパ?情報センター」の閉店を告げられた。

理由は「お客様が少ない」「インターネットで営業できるので、家でやりたい」だった。

突然の展開だ。

「スタッフには。退職金を払いました」

払われたお金は、契約更新のための積み立て金だ。

積み立て金が不足で契約更新がままならないのなら、私に相談があるはず。

しかし、今回は相談がなかった。

会った時には「もう閉めました」だった。

一言、相談して欲しかった。

ニョマン君にはニョマン君の事情があったのだろう。

もっとも信頼していた人物に裏切られた気持ちだ。

周囲のバリ人の好意だけで成り立っている、私のウブド滞在。

できれば、ニョマン君の事情も話して欲しかった。

頼り切っていただけに、ショックは大きい。

その時の私は、きっと呆然としていたことだろう。

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私はアパ?からいただける少ないお金で生活している。

これまでなんとかやってきた。

いきなり絶たれては、死活問題だ。

さて、どうしたものだ。

来月から入金はない。

浮き足立ったね。

精神がフラフラしたよ。

ウブド滞在で、精神的にも金銭的にも不安を持ったことがなかった。

この気分、日本にいた時にビジネスの失敗で数回抱いている。

さまざまな考えが渦巻いた。

取りあえず、日本に帰るか。

ウブドに滞在して始めて、日本に帰ることを考えた。

日本での生活を想像してみた。

それはあり得ないか。

ウブドで何とかならないものか?

スタッフのひとりだったワヤン君に相談した。

ワヤン君は、私と一緒に働きたい態度を示してくれた。

「アパ?情報センター」が存続することになり、私のウブド滞在も続けられる可能性が出た。

しかし、私の心中に《帰国》の二文字が刻印のように残されていた。

老後の生活のことも考えて、一度日本に戻ってみようか。

住み心地がよければ、日本に住むのもいいかもしれない。

こうして、ウブド滞在25年の節目として「日本一時帰国」を決行することにした。


日本には、息子夫妻と孫がいる。

離婚した時に「息子さんからお父さんに会いたいと意志を持つまでは会うことはできません」。

これが家裁からの条件だった。

息子とは、15年前にウブドで再会を果たしている。

禁止命令が解かれた今、私は大手を振って会いに行ける。

息子の奥さんと、その子供には初対面だ。

今年小学校に入学した孫は、お爺さんに会ってどんな反応をするだろうか?

多いに楽しみで、ちょっと心配でもある。

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2014年05月06日

ウブド滞在24年を振り返る(52)

5月8日を迎えると、ウブド滞在期間25年目になる。

24年間は長いようでいて、「あっ!」と思うほど短くも感じる。

私は、ウブドに長期滞在するようになったのだろう?

理由は、いろいろつけられる。

ひとつには、ウブドの不便さが気に入っている。

田舎暮らしが性に会っていた、と今は思う。

外部情報がまったく入らないのもよかった。

新聞・ラジオ・テレビ・週刊雑誌、日本からの情報はまったく伝わらない。

当初は戸惑ったが、数日で「求めていたのはこれかも」と考えていた。

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幾色もの豊富な緑。

見たこともない南国の草花。

食べたこともないフルーツ。

肌に触れるすがすがしい風。

鶏、アヒル、犬、猫が自由に動き回る風景。

鳥の鳴き声。

少し足の伸ばせば、棚田を見ることが出来る。

夕日も美しく、夜空の月も星も美しい。

日本人には、デジャブのような原風景だ。

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すれ違うウブド人の人なつっこい笑顔。

どことなく日本人にも似た顔だ。

屈託のない子供たちの、にこやかな顔。

出会う人々の、家庭的とも言えるなごやかさ。

ウブドを歩いていると、顔が自然にほころんでしまう。

香の匂い。

供物を捧げる女性たち。

すべてに対して、美しく、楽しく、感謝している自分がいる。

素朴さに触れ、体験し、感動している。


慌てない、急がない、頑張らないウブド人。

はじめはこれが、怠けていると映るが、そのうち、これでいいのだとに気づく。

いい加減な彼らを、いつのまにか許している。

許容度、寛容度の範囲が広がっていく。

執着やこだわりから徐々に神経が解きほぐされる。

だんだん、素直になっていくようだ。

無になって空気に溶けていくような心地よさに、心が癒されていく。

価値観が崩れていく。

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私を引きつけた最大のポイントは、伝統的な芸能、慣習が日常として身近に見られることだろう。

今も続いている文化が身近で、感じられる。

手に触れることが出来そうな、ちょっと前までの慣習が、今も息ずいている。

どこからともなく、ガムランの音色が聞こえる。

舞踊の指導を受けている子供たちの姿。

ガムランを練習している婦人たちの姿。

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ウブドの魅力は、宗教、文化、芸能だけでない。

景色でも人物だけでもない。

人間にはお金では買えないものがある。

それは「健康」「自然」「平和」であると言われている。

ウブドにはその3つが備わり、なおかつ、心地よい環境、人と人との触れ合いを通したいたわり、こころのやすらぎといった人が幸せに生きるための条件が揃っている。


5月9日から40日間ほど、25年ぶりに日本一時帰国を果たす。

故郷に、私が幸せに生きるための条件が揃っているだろうか?

その結果によっては、再びウブドで長期滞在に入ることになる。

それとも、勇気を奮い立て、再び「寝床(棲まい)を探す旅」の放浪に出ようか。

posted by ito-san at 16:45| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月02日

実るほど頭の下がる稲穂かな(51)

ウブドの “ジューチン” と言われることがある。

そんなことを言われて喜んでいる私ではない。

ジューチンは「獣珍」か「住沈」かもしれない。

たかが24年間の滞在で重鎮はないだろう。

この頃、素直に喜べない。

頑固オヤジになったということか。

なんの希少価値もない昔話をするだけの長期滞在者。

ほんのちょっぴり、バリに詳しいバリ通だけのこと。

プロの研究家でもない。

先輩面してウブドを語るのも気が引ける。

自分が高邁な態度になっていないか、反省させられる。

ちょっとバリを理解しただけで、優れていると勘違いしてしまうのが怖い。

あたかもすべてを知り尽くしているように、知ったかブリっ子するのも嫌だ。

バリ人の方が詳しいに決まっている。

私は、バリに寄生している生きているだけ。

時に、その知識で収入を得ることもあるが。

24年も滞在すれば、それだけの年輪分は知識を得るのは当たり前。

バリ人の知識には負けるのに、偉そうに知ったか振りすることが恥ずかしい。

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2011年@sidemen

嫌なことを思い出した。

思い出すと、いつも背筋に悪寒が走る。

かなり昔のことだ。

バトゥブラン・デンジャラン村のダラム寺院でチャロナラン舞踊劇(calonarang)の奉納があった。

開演前、日本人男性観光客が席を確保しようと舞台を横切った。

それを見ていた村長が、日本人男性のために、建物の階段横のスペースを用意をした。

クライマックスに、魔女ランダが簡易建物の階段から降りてくる場所だ。

鑑賞する側にとって、ここは特等席だ。

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トゥブサヨ村のチャロナラン舞踊劇

日本人男性は、一生懸命鑑賞しビデオを回していた。

奉納舞踊が終わった。

日本人男性は、余韻を受け止めているかのように、のんびりとカメラを鞄にしまっている。

丸顔のせいか、いつもニコニコしているように見える。

舞台は村人も引いて閑散となった。

ここまでは何も問題はなかった。


このあとがいけない。

村長が舞台を横切って、日本人男性に近づいて行く。

日本人男性は気がつかなかったのか、荷物を片付けるとそそくさとその場をあとにした。

村長は、舞台の中央でオットットとなっている。

おらが村の自慢の芸能をどう感じたか、評価を聞きたかったのだろうな。

これは、私の眼の前で起こったシーンだ。

この夜は、デンジャラン村出身の高名な男性舞踊家がチャロナランを演じたので、私も鑑賞していた。

私が追っかけをしているトペンの踊り手だ。

「日本料理店・影武者」の女将・由美さんの義父で、今は亡きスウェチャ氏だ。

デンジャラン村では、老女チャロン・アロンを演じた踊り手は魔女ランダも演じることになっている。

日本人男性は、周囲のバリ人に一言のお礼も言わずに帰っていった。

スウェチャ氏が「今の日本人は何者だ?」と私に尋ねてきた。

彼も村長のオットット風景を見ていたのだろう。

「日本でガムランを教えていて、バリ関係の著書も出している人物です」私は答えた。

スウェチャ氏は、少々腑に落ちない顔で「そうか」と一言つぶやくと戻っていった。

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1990年チャロナラン舞踊劇@ウブド
(ロジャー氏がランダと戦う役で登場)

日本で名が知られているから、この村でも自分の素性が知られているとでも思っているのだろうか。

そんなはずはないと思う。

そうであったら寂しい限りだ。

日本とバリとの橋渡しという重要な役割を担っている人物であること知っている。

バリの芸能や知識で生業を立てている人間が、あの態度はよろしくない。

鑑賞場所を確保してくれた人物に、お礼を言いたい。

素晴らしい芸能を演じた村人に、感謝したい。

単に鈍感なのかもしれないが、こうした態度が日本人の評判を悪くしていく。

私なら、誰でもいいから近くにいるバリ人に「テレマカシ」と言っているだろう。

彼のリアクションに、多いに疑問が残った。

もちろん、私が黙礼しても返ってはこない。

ニコニコした顔に「私は特別なんだ」と高慢印が見えるようだ。

謙虚であって欲しい。

それ以来、私はこの人物を認めないようになってしまった。

「人の振り見て我が身を・・」身が引き締まる思いだ。

こんなことにならないようにと、自分を戒める場面であった。


posted by ito-san at 20:18| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月01日

ウブド・本の交換会@ビンタン・ダイニング(81)

毎月恒例「ウブド・本の交換会」第61回は「ビンタン・ダイニング」で、4月27日に開催された。

「サリナ・ワルン」(第58回まで参加店)のあと、今回から初参加だ。

「サリナ・ワルン」はテガランタン村だったので、私は歩いて5分ほどで行けた。

「ビンタン・ダイニング」は、サクティ橋を渡って渓谷向こう側で、バイクでなら5分とかからない。

実は、パチュン家の渓谷側真裏になる。


「ビンタン・ダイニング」は「ヴィラ・ビンタン」の喫茶室として、近日中に新装開店する。

詳しく場所を説明しよう。

ウブド・サレン王宮からスウェタ通りを北上しウブド第一高校を通り越し、サクティ橋を右手に見てさらに北上。

タマン村から北上した場合は、サクティ橋を渡って、右手に北上。

サクティ橋を過ぎて、しばらく行った左手(渓谷と反対側)に「ビンタン・ダイニング」はある。

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今回は「ビンタンダイニング」のお披露目も兼ねた「ウブド・本の交換会」。

これまでの土曜日夕方という時間帯でなく、日曜日の正午から3時までの新しい試みをした。

「ヴィラ・ビンタン」にあるガゼボで本の交換会。

ビラ・ビンタンの蔵書本をご提供いただき、目新しい本が増えたのが嬉しい。

バザーは、 北西に大きく開いた窓からきれいな景色が眺められる「ビンタン・ダイニング」で。

ナシゴレン、ミーゴレン、アヤムゴレン、冷しそば、いわしの南蛮漬けなどが提供された。

もちろん「Blossom Cafe」「warung biah-biah」「Citta Ovest」も参加しています。

会場は2カ所にわかれたが、空間がゆったりと利用できるため、のんびりと楽しむことが出来る。

「日曜日の昼、この時間帯なら参加できる」と言う声をたくさん聞いた。

「ビンタン・ダイニング」の下見を兼ねて訪れた人が多かったのか、大盛況だった。

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これで、「カフェ・アンカサ」「ワルン・ソフィア」「ビンタンダイニング」と3店のローテーションとなり実行委員一同も「ほっと!」しています。

「今後とも、皆様の応援に答えていきたいと考えております」との、頼もしい発言をいただきました。

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パチュン家裏、ルアック・スパの工事現場が見える

posted by ito-san at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | テガランタン村滞在記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする