2014年07月29日

7月25日で67才になりました(83)

24日深夜、FacebookにNabiちゃんから一番乗りの「祝・誕生日」のメッセージが届いた。

その後、続々と祝いの言葉が続いただろうと思う。

ネットの都合で、数人しか確認できずに寝床についてしまった。


今年も誕生日がやってきた。

何度も言っているが「67才」になる。

普通の67才なら、地球上で起こっている理不尽な事件や戦争、祖国日本政府の愚行に提言を述べられるのだろう。

関心はあるが、残念ながら、私にはそんな能力はない。

そして、高尚な人生訓も披露できない。

少ない知識で言えることは、言いたいことは「原発はいらない」だ。

そして「戦争はいらない」だ。

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節目の誕生日には、できるだけイベントをしようと思っている。

大きくは10年単位で。

20才の時には、ナホトカ航路で一年間の放浪の旅に出た。

30才の時は、名古屋大須の「ライブハウス・コマンド」で盛大な誕生会を開いた。

40才の時は、雑用の忙しさでイベントした記憶がないほど、人生で最悪の時代だった。

42才でバリ島「ウブドに沈没」したのが、遅ればせながら40才のイベントだったのかもしれない。

人生で最悪の時代が40才前後だった。

50才と60才の時には、アグン山に登った。

67才に、これと言った感激はない。

何才で人生を終えるかわからないが、その通過点の67。

嬉しくも、悲しくも、寂しくもない。

あらたまって、何かをするつもりもない。

普段の一日、一年が続くのだろう。

終焉で見られるかもしれない走馬灯に、浮かび出される思い出が少しでもあればいいな。

70才の節目には、何かしたいと思っている。

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「昨日、私の誕生日だったよ」とパチュン君に伝えると、「なぜ言わない。わかっていれば供物料理を作ったのに」と残念がっていた。

「西暦の誕生日だし、67才は私にとっては普通だからいいんだよ」言うと、奥さんのマデは「ご免なさい。覚えていたら供物を用意したのに」と恐縮していた。

優しい家族に守られて生活しているという実感がした場面だった。

バリ人の誕生日は、ウク暦によって祝われる。

ウク暦は、7日を単位とする30の週(ウク)によって成り立っている。

7日×30週=210日、これがウク暦の1年。

■7日の単位(かっこ内はインドネシア語)。
月=COMA(senin)/火=ANGGARA(selasa)/水=BUDA(rabu)/木=WRASPATI(kamis)/金=SUKRA(jumat)/土=SANISCARA(sabutu)/日=RADITE(minggu)

■30の週。
1)SINTA 2)LANDEP 3)UKIR 4)KULANTIR 5)TULU 6)GUMBREG 7)WARIGA 8)WARIGADIAN 9)JULUNGWANGI 10)SUNGSANG 11)DUNGGULAN 12)KUNINGAN 13)LANGKIR 14)MEDANGSIA 15)PUJUT 16)PAHANG 17)KRULUT 18)MERAKIH 19)TAMBIR 20)MEDANGKUNGAN 21)METAL 22)UYE 23)MENAIL 24)PRANGBAKAT 25)BALA 26 )UGU 27)WAYANG 28)KELAWU 29)DUKUT 30)WATUGUNUNG

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誕生日は、オトン(オトナン)=oton & otonanと呼ばれる。

私のオトンは、KULANTIR(4番目の週)ーSUKRA(金)ーPON。

今年は4月4日と10月31日の2度ある。

このように西暦の月日と違ってくる。

子供は、誕生してから3回目(210日×3回=630日)のオトンまでが重要とされ、その後は、供物を捧げるだけで終わっているようだ。

最近の子供たちは、西暦の誕生日も祝っているようだ。

日本人と同様に、バレンタインデーやクリスマスと同じノリなのだろう。

ウク歴に基づいて生活しているバリ人は、西暦の誕生日を知らない人がほとんどだった。

自分が何才であるかという概念が希薄だ。

インドネシア政府からKTPとよばれる身分証明書を持つように義務付けられ、記憶をたどり生年月日を思い出そうとする。

誕生年は思い出しても、月日までは無理。

頭の中には、オトンしかない。

そこで適当に書き込むことになる。

誕生年が1〜2年曖昧な人。

月日は1月1日だったり12月31日とわかりやすくする。

オトンの組み合わせで、運勢を占う人がいる。

バリヤンと呼ばれる呪術師だ。

性格から適した職種を判断したり、どのオトンの人と相性がいいかもわかる。

ブラックマジックに悪用されると言う話も聞く。

自分のオトンを知りたい人は「アパ?情報センター」にお立ち寄りください。

インドネシア語で書かれたオトンについての冊子が保管されております。

生年月日を提示すれば、ワヤン君が丁寧に教えてくれますよ。

どんな仕事に向いているか。恋人の相性も訊くこともできます。


節目ではないが、来年(2015年)は南米コロンビアに行く予定でいる。

これは、私の人生におけるビックイベントの一つになるだろう。

67才は、どう生きるか模索の一年かもしれない。


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2014年07月23日

バリ文化の総仕上げはバリ料理の習得(57)

バリ料理に挑戦。

辛いの苦いのが苦手で、好き嫌いも多い。

おまけに、食べることに興味がない。

「武士は食わねど高楊枝」を信条とする古い人間。

ではなぜバリ料理? と疑問に思う人もいることでしょう。

たいした理由はないのです。

強いて言えば、充分ではないがバリの宗教、慣習も芸能も、取りあえず24年間でひと通り齧った(つもり)。

やり残しは、食文化かと思っただけ。

25年目の節目に、もっとも興味の薄い料理に挑んでみようということです。

ウブド滞在3ヶ月目でバリ&インドネシア料理にメゲた。

1年目で日本料理店を開店したほどバリ&インドネシア料理は苦手だった。

この1年間は、ほとんどナシ・ゴレン(焼き飯)で過ごした。

辛いのとココナツオイルの香りが駄目だった。

今では、それなりに美味しく感じるようになっている。


ということで、ダプール・バリ(dapur BALI)の料理教室に参加することになった。

場所は、2014年5月24日に移転した「和食・影武者」の敷地内にあるスタジオ。

東屋の一棟がスタジオになっている。

大きなテーブルの上に並べられたスパイス&ハーブの種類の多さに、まずはビックリ。

こんなに覚えられない。

早くも後ずさる。

本日は、若手画家の馬場敬一君と圭子さんが一緒に参加している。

レクチャーするのは、在バリ24年の佐藤由美さん。

「影武者」のオーナーでもある。

結婚と同時にインドネシア国籍を取得。

「婚家で毎日、お義母さんたちから学んだバリ料理の奥義(?)を、あますところなく、皆さんに伝授します」とのこと。

当然、日本語が通じます。

バリ初の、日本語のレクチャーによる料理教室です。

保存版レシピも、もちろん日本語で書かれてあります。

質問も日本語でできるというわけです。

これポイントですね。

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スパイス&ハーブは、バリ料理を学ぶ上でとても重要なポイントらしい。

手にとって触れてみて、匂いをかいでみる。

ニンニクと赤ワケギ、チョウジはわかる。

ウコン、バンウコン、ショウガは区別がつかない。

見たこともないものや、名前は聞いたことがあるが現物は初めてというものもある。

こんなものもスパイスになるんだというユニークで魅力的な食材たち。

スパイス&ハーブにはそれぞれに素晴らしい薬効があり、料理に使うばかりでなく、肌にぬったり薬がわりにジャムー(バリ漢方)として飲んだりする。


ゆっくりと講義を聞いたあとは、いよいよ料理作りです。

今日作られる料理五品が発表された。

●つくねタイプの串焼き=サテ・リリッ(sate lilit)

●若いバナナとチキンのスープ=グランガッサム(gerangasem)

●チキンのサンバル・トマトあえ=ベー・シアップ・ムシシット(be siap mesisit)

●長インゲンのスパイシー・ココナツソースあえ=ジュクッ・ブアカチャン・ムカラス(jukut buah kacang mekalas)

●レモングラス入りの生サンバル=サンバル・マター・スレー(sambal matah sereh)


「何はなくともバソ・グデ(base gede)」と言われるほど重要な、バリニーズ・スパイス・ペーストを作るところから始まった。

このバソ・グデがバリ料理の基本らしい。

16種類以上のスパイスを石臼で丁寧につぶしていく。

つぶしていく順番は固い種類から。

これも結構テクニックがいる。

力任せにやると、腕が疲れる。

とにかく手間がかかる。

影武者スタッフの協力を得て、ペースト状のバソ・グデが仕上がりました。

この日作られる料理3品に、このバソ・グデが使われる。

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ココナツを擂り下ろし、ココナツ果肉のフレークを作る。

ミンチにした豚肉にフレークとバソ・グデを混ぜた具を竹串に巻き付けていく。

リリッは、巻き付けるという意味らしい。

毎日のように食べている料理だが、作るのは初めて。

食べる方はプロ級だが、作るのはド素人。

いかが相成ることでしょうか?(この日本語おかしいかな?)

つくね状にしたサテが焼き上がってきた。

ちょっと大きめのサテは、私がリリッしたもの。

ビールが旨い!

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Be siap mesisit に使われるサンバル・トマトを作ったり鶏肉を裂いたりしている、のを見ていた。

サンバル・トマトは、トマトとつぶしたスパイスをフライパンでコトコトと炒めて煮つめたものだった。

次から次へと手早く料理が作られていく。

それは由美さん先生が手際よいからであって、われわれ生徒の能力ではない。

料理好きの馬場ちゃんは、手際よく作業をこなしているように見受けられる。

私は一度の体験では身体で覚えられない。

体得するまで、何度も料理教室に通うつもりでいる。

料理が終わると、大テーブルの上が片付けられる。

最後に自分たちの作った料理を試食する。

自分で言うのもなんですが「美味しかった」です。

一仕事終えた開放感に、「お疲れさま」とささやくように風が優しく通り過ぎて行った。


由美さんは、私が真面目に料理に取り組んでいる姿を見て驚いていたが、私だってやるときはやりますよ。

今回は、少々事情があって料理のことを真剣に考えている。

実は、南米にちょっくら行ってみようかな、なんて考えています。

南米もスパイス&ハーブの種類は豊富と聞いている。

海外生活だから、現地の食材で料理する方法を考えておかないとと思っているわけ。

食材は違うが、できれば日本食っぽい味が希望なんです。

今回は、そんことで料理教室に参加しました。

「でもバリ料理じゃないですか?」と?マークのあなたにお答えいたします。

ダプール・バリの料理が日本人向けにアレンジされているわけではありませんが、私のお口に合うのですよ。


※ダプール・バリ(dapur BALI)http://www.dapurbali.com
保存版レシピももちろん日本語。
気軽にバリ料理を体験してみたい方はもちろん、習った料理を日本で役立てたい方にも、充分ご満足していただけるクオリティーとフォローの細かさが自慢です。
風通しの良いスタジオには大きなテーブルと使いやすいキッチンセットが揃い、ゆっくり落ち着いて講義が受けられます。

posted by ito-san at 11:21| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月21日

ゴン・クビヤール100周年記念ムバルン(56)

行ってきましたよ、北部バリまで。

友人が出演すると聞いているイベントの会場は、遠くブレレン県のサワン郡ジャガラガ村広場。

ゴン・クビヤールが創作されて100年が経ったということで、発祥地・ジャガラガ村で記念イベントが開催される。

ウブドから3時間もかかる場所だ。

自他ともに認めるバリ芸能好きな私のこと、この貴重なイベントを見逃しては名前が廃ると一念発起。

しかも、日本からバリ好きな友人たちが出張って来ている。

これは、応援に行くしかない。

スケジュールは下記の通り。
期間は7月12日(土)〜14日(月)の3日間催された。
○7月12日(土):サンガル・ウィスワ・カルマ(バトゥブラン村)VS 地元ジャガラガ村のグループ
○7月13日(日):トゥラン・ブーラン(日本)VS スダマニ (プンゴセカン村)
○7月14日(月):スカル・ジャヤ(アメリカ)VS ドゥイ・メカール(ブレレン)


3日間も鑑賞できない。

日本のグループは東京からやってくる「トゥラン・ブーラン」。

出演は13日だ。

グループには、私の友人も幾人か入団している。

競演相手は、ウブド近郊のプンゴセカン村の「スダマニ」。

こちらも結成以来仲良くしているグループだ。

1日を選ぶとすれば、この日しかないだろう。


出演者側からの案内状に、公演コンセプトが載っていたので掲載させてもらった。

北部バリで生まれたガムラン楽器編成 ”ゴン・クビヤール(gong kebyar)" は、稲妻のようにきらびやかな音色と奏法に人々が衝撃を受け、バリ島中に広まり一世を風靡し現在に至る。

バリ島北部の古都、シンガラジャより東へ車で10分、ゆるやかな山の中腹にジャガラガという村があります。

1914年、この小さな村の芸術家ワンドレス氏が、ゴン・クビヤールを用い、新しいスタイルの舞踊大曲 “クビャール・レゴン( Kebyar Legong)” を創作。

1915年には、この村でガムランのコンペティションが行なわれ、初めてゴン・クビヤールという楽器編成が公に周知されるものとなったといわれています。

このムバルン(ガムランの競演)を一途な情熱で成り立たせた立役者・ワンドレス氏の孫にあたる芸術家・クランチャ氏の尽力により、100周年の記念行事が実現した。


ガムラン作りの鍛冶屋の村として有名なサワン村を訪れたのは、もう10年以上も前になる。

ジャガラガ村ダレム寺院の割れ門は緻密な彫刻で有名だ。

ジープに乗るオランダ兵、飛行機、釣られた魚などユニークなレリーフがある寺院で、見学に来たことがある。

開演は午後8時。

ウブドは、朝夕冷え込む日が続いている。

数日前、20度を切った日があった。

日本が夏の季節、バリ島は寒い時期になる。

私はジャンパーを羽織ることにした。

一緒に行ってくれる高木さんと圭子さんにも、その旨は伝えてある。

ウブド発午後5時、いよいよバリ北部ブレレン県シンガラジャ市へ向けて出発だ。

実はこの日(13日)、毎週日曜日恒例の草野球に参加するため朝7時起きだった。

ウブド戻りは午後3時。

前日は、私の家族を迎えに空港に行っている。

バリ島全土の停電で空港のコンピューターが可動せず、帰宅が遅くなった。

だから寝不足。

バリ島中央部の山越えの行程は片道3時間。

山越えは、何年ぶりだろう。

途中の峠は、視界50メートルの霧が立ちこめていた。

睡魔に襲われていたのが、この時だ。


会場の広場には、8時ジャストに到着した。

広場は、お祭り風情だ。

テントが張られた客席には、大勢の人が埋めている。

舞台では地元のイブイブ(婦人連)のガムラン演奏が始まっていた。

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舞台裏に廻った。

ここは、楽屋裏。

草野球仲間の “さとる君” が私を見つけ駆け寄って来た。

久しぶりの再会だ。

彼は、バリ舞踊の踊り手で日本でも活躍している。

今夜は、トペン・トゥアを踊るようだ。

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「トゥラン・ブーラン」のリーダーの櫻田さん。

ニコヤカ笑顔がいつも可愛い。

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マミちゃんです。

夫妻とは、古くからの友人。

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「スダマニ」のリーダー、デワ・ブラタ君。

デワ・ブラタ君は以前、スマラ・ラティの主要メンバーだった人。

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舞台裏で、ひと通り顔見せの挨拶をすませて客席に向かう。

ジュースRp5,000-を買って、パイプ椅子に腰をおろす。

寒いと予想していたが、人々の熱気に包まれて暑いほどだ。

トゥラン・ブランの演奏は、ゴン・クビヤール発祥地の村人の前でも堂々としていた。

そして、地元バリ人も優しく見守り暖かい拍手を惜しみなく送っていた。

眠気はとっくに覚めている。

ステージ.jpg
トゥラン・ブラン.jpg
ゴンクビヤール100周年.jpg
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途中に休憩という意味で、地元ブレレンのグループによるトペン・ボンドレス(仮面娯楽劇)が上演された。

バリ語のため私には理解できないが、地元民にはバカ受けだ。

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スダマニの創作ケチャは面白かった。

古いものと新しいものの融合。

バリ芸能の将来が楽しみだ。

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公演は、夜11時近くまで続いた。

舞台の上では「トゥラン・ブラン」のメンバーが記念写真を撮っている。

見上げると、夜空には星が・・・。

深夜の風が、頬を優しく撫でていった。

「いいバリ、見〜つけた!」


posted by ito-san at 13:07| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月15日

バリ島南部・海岸線の浸食(55)

バリ島東部カランガッサム県のリゾート地「チャンディダサ」海岸の砂浜が無くなったのは、もう10年以上前になるだろうか。

白砂の海岸と沖に見える小島の風光明媚な風景が売りだったチャンディダサは、海岸線の消滅で観光客も途絶えがちだ。

ここ3年ほど前から、ギャニアール県南部の海岸も浸食されてきている。

浸食は地球の温暖化が原因と思われているが、世界中の各地には、逆に陸地(海岸)が増えている地域もある。

地球が変化していることを知らされる。

海岸の浸食は、バイパス工事に大量の砂を使用するため沖合で砂を掘削したからだ、との噂もある。

開発が環境破壊の弊害を起こしているのかもしれない。


久しぶりに「サテ・イカン=魚のつくねの串焼き」を食べに、ギャニアールの海岸サボ(Saba)に出かけた。

サボ海岸に行くにはバイパスを横切る。

行き交う車の少ない交差点に、信号はない。

信号のないバイパスを横切るには勇気がいった。

サボ海岸を起点にして、ルビ(Lubih)海岸を往復する乗馬がある。

私も2度ほど経験している。

数年前からルビ海岸と中間地点の海岸に高い波が押し寄せるようになり、サーフポイントとなった。

チュチュカン村にあるから、ポイント名は「チュチュカン」と呼ばれているようだ。


サボ海岸に、一軒のワルンがある。

《2013年3月19日:流木を拾いに(1)》にも書いた、仲良くなったおばちゃんが娘と切り盛りしている店だ。

10年以上前から、年に一度くらいの割で訪れている。

5年前の大波で店が流され、以前の場所より10メートルほど後退して建て直された。

幅の広かった海岸は浸食され狭くなった。

今回は、パチュン家に滞在始めたヒロさんと連れ立って向かった。

海岸は以前にも増して削られていた。

店は残っていたが、おばちゃんはいなかった。

経営者が変わったのか。

もう、おばちゃんのサテ・イカンを食べられないのだろうか。


どうしても、ヒロさんにサテ・イカンを海辺のワルンで食べさせたい。

足を伸ばして、ルビ海岸に移動することにした。

サボ海岸もルビ海岸も、バリのヒンドゥーの浄化儀礼「ムラスティ」の行われる場所だ。

ウブドの村々も、これらの地で儀礼を行う。

ムラスティの日には、村のススオナン(ご神体)が村人総出で運ばれる。

海辺を埋め尽くし、海に向かってお祈りをする正装のバリ人の姿は厳かだ。

この日は吉日でないのか、見られなかった。

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ルビ海岸も浸食が始まっている。

石造りの頑丈そうな祭壇が設けられていた。

祭壇の左右は堤防になっていて、海側には波を砕く為の大きな石が並べられている。

堤防は歩道になっているが、ほとんど船置き場と化していた。

海岸は狭く、砂浜に腰をおろしてお祈りを捧げることは難しくなった。

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この地は2008年に、義兄・久保田博己さんの散骨をした思い出深い場所だ。

我々が腰をおろしてお祈りをした砂浜は消えていた。

強風吹きつける中でお祈りを捧げたのを思い出す。

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さて、お腹もすいてきた。

昼食にしよう。

ルビ海岸は、ムラスティ以外にも地元の人が訪れる行楽地のため、毎日ワルンが開いている。

以前は、砂浜に直接建てた安普請の掘建て小屋で、砂の上にゴザを敷いて腰をおろし低いテーブルで食した。

低い目線で水平線を見るのが好きだった。

今は、椅子&テーブルが用意されている。

一番海側に近いワルンに入った。

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やはりお決まりのサテ・イカンだろう。

サテと空芯菜の炒め物、そして魚肉団子の入ったスープのセットを注文した。

いずれも辛いのでご注意!

私はスープを飲み干すと、必ずお腹を壊す。

お腹を壊すことはわかっていても、美味しいので飲み干してしまう。

ヒロさんも辛すぎて、残している。

さあ、急いで帰らないと。
posted by ito-san at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月11日

パチュン家の新しい住人(82)

私が日本に一時帰国している間に、パチュン家に建築中の建物が完成していた。

一戸建ての借家だ。

工事期間は約6ヶ月。

これは、ウブドにしては早い仕上がりだ。

予算は大幅にオーバーしたが、パチュン君の希望は叶ったようだ。

家族も総動員して仕上げたパチュン家の苦労の賜物。

借り手の心配をしていたが、運よく、私の知人が借りてくれることになった。

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私より一日遅れの6月19日に、新居の住人になるヒロさんが名古屋からやってきた。

この日から、ヒロさんのテガランタン長期滞在が始まる。

本名は、藤井洋(ひろし)。

私の周りにひろし君は多い。

年齢は58才

岐阜県土岐市出身。

今年2月に早期退職した、リタイヤ組だ。

年内は失業保険のために職安に通わなければならないので行ったり来たりだが、それが終了すれば来年からは本格的滞在に入る。

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男手ひとりで、2人の娘を健やかに育てた話が、彼の自慢のネタ。

私から見れば、子離れできないお父さんだが、これも愛情表現のひとつだろう。

社会人として独立している娘たちにとっても、嬉しいことかも。

長女とは、毎日メール交換をしている。

子供に対する接し方が、私とはかなり違う。

私なんかは、数年のスパンでしか息子と連絡を取っていない。

ヒロさんにしてみれば、娘たちの行く末を考えながらの海外移住計画だろう。

「おとうさん頑張って!」娘たちからのエールが聞こえるようだ。

「おとうさんも頑張っているよ」私が答えておいた。

そうそう、ヒロさんが一緒に住んでくれる女性募集だって。

「娘も巣立ったことだし、再婚も考えている」と言っています。

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趣味人のヒロさんは、日本ではスズキのバイク、サベージを乗り回し、天気が良い日にはアルファロメオ・スパイダーのルーフをオープンにして遠出する。

さて、ウブドは何をしようか。

芸能、宗教、慣習に興味を持つのも良い。

バリ人ウオッチングも楽しいよ。

ゆっくり考えてください。

私としては、パチュン家の家族と仲良くやってくれることが嬉しいです。

末永くヒロさんが住んでくれれば、パチュン家の家計も安泰というものだ。

そして、病気や事故のない健康な生活を送ってください。

よろしくヒロさん。


ウブドにリタイヤ組が住みはじめたのは、2000年初頭からかな。

私が滞在し始めた頃(1990年)の長期滞在者は、芸能や宗教・習慣に興味を持っている人が多かったと思う。

バリ人に惚れて結婚する日本が増えたのは、1996年頃からだったかな。

2011年からは、原発避難組の移住者が目立って増えた。

物価が安くて安全だというのが、大きな移住理由になっている。

サクセスストーリの実現に、起業家もやってくるようになった。

ウブドの長期滞在者が多様化してきた。

毎回、同じ言葉になってしまうが「ウブドがウブドらしく発展することを願う」。


posted by ito-san at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | テガランタン村滞在記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月09日

オダランのトランス儀礼!(54)

日本から戻って初めて見学したオダラン(寺院祭礼)がトランス儀礼だった。

相も変わらず、バリは不思議の島だ。

バリでは、トランス状態になることをクラウハン(Kerauhan)と言う。

「神と合体して会話し、自ら神として行動し、無限の享受を味わう、神が憑依した霊的な状態」のことだそうだ。


クルンクン県ゲタカン(Getakan)村のオダランで、チャロナラン舞踊劇が上演されると聞いた。

私は甘い物の次に、チャロナラン舞踊劇に眼がない。

場所は、クルンクン県の山間部。


オダランでのトランス儀礼が多い地域だ。

テヒンガン(TIHINGAN)村のチャロナラン舞踊劇、パクサバリ(PAKSABALI)村の喧嘩神輿は有名だ。

(今年2014年、テヒンガン村は6月12日、パクサバリ村は12月27日にオダラン見学ツアーがアパ?で主催される。オダラン情報を御覧下さい)


「アパ?情報センター」に問い合わせると、オダラン見学ツアーがあると言う。

さっそく、参加を申し出た。

6月26日夜8時30分、アパ?事務所前に集合。

参加者は我々4人と、もう一台に3人のツーリストが乗って出発した。

我々と言うのは、高木さん夫妻とヒロさんと私。

ヒロさんは、私の友人で6月19日からパチュン家に長期滞在することになった男性です。

行き先は、ゲタカン村のダラム寺院。

まったく聞き覚えのない村だ。


ギャニアール県で一番大きいセンゴールの喧噪を左右に見ながら、車は夜道を一路目的地へ。

車はバンリ県を横切り、クルンクン県に入る。

「ニョマン・グナルサ美術館」のあるT字路を、左折した。

道筋の途中にあるテヒンガン村を通り過ぎた。

この村のダラム寺院のオダランでは、ひよこや生卵を食べたり、黄色いココナツを口で裂いて飲み干す、という荒ましいトランスが繰り広げられる。

そんなトランスが、また見られるのかもしれない。

真っ暗な山道を登っていく。

右折左折を何度も繰り返す。

どこにつれていかれるのだろう。

不安はやがて期待となる。

ここはクルンクン県の山の中、これは凄いことになるかもしれない。

山道に人の姿が見られ、往来も激しくなった。

そして、こつ然とハレの舞台が現れた。

到着したのだ。

車で1時間ほどの道のりだった。

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夜10時、聖獣バロン舞踊で幕が開いた。

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チャロナランの弟子・シシアンを踊る娘たち。

ピースサインを送るこの娘たちが、このあとトランスするのだ。

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バリ王国時代の物語が続く。

端折ってしまって、ゴメンナサイ。

気になっていた美人に話しかけられ、物語はほとんど見ていません。

彼女は、クロボカンに新しくオープンした、欧米人オーナーのレストランで働いている。

今日は、寺院祭礼のための里帰り。

英語以外に日本語も話せれば、スキルアップできるので日本語を勉強したいと言う。

「あなた教えてくれない」と誘われる。

無理無理、私はインドネシア語もままならない語学苦手な男ですから。

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悪霊ランダが登場すると、観衆の中の村人が奇声をあげてクラウハンした。

「さあ、クライマックスよ!」

美人は立ち上がると、見物人の人垣に紛れ込んでいった。

バロンやランダのように踊る者、不思議な動作を繰り返す者、さまざまな動作のトランスだ。

バンリ地方で見られるトランスと似ている。

残念ですが、観衆が多すぎてトランス風景を写真におさめることができませんでした。

悪霊ランダがお墓に向かって走り出した。

時計の針は、4時30分を指していた。

チャロナラン舞踊劇、全編6時間30分の終了です。

我々一行は、家路を急いだのであります。

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2014年07月06日

日本料理店・影武者の移転オープン(53)

日本一時帰国から戻った翌日(19日)、さっそく「日本料理店・影武者」に出勤。

ウブドでは日課のように、夜9時過ぎには「影武者」で食事をしていた。

知り合いの長期滞在者やリピーターが訪れるのが、この時間だから。

日本で「何が食べたい?」と聞かれて、すぐに浮かばなかったのは毎晩のように美味しい料理を「影武者」食べていたからかもしれない。

そんなウブドの生活に復帰した。


地価高騰のあおりを受けて、ウブドの老舗日本料理店「影武者」も移転を強いられていた。

旧店舗周辺は建物が密集し、田んぼの景色もなくなった。

移転は、いい機会であったかもしれない。

昨年、移転先はニュークニン村に決まった。

車の騒音を避けるため表通りから少し入った立地は、隠れ家的雰囲気だ。

見つけにくいかもしれないが、探し当ててください。

今年に入って、新店舗の工事が始まっていた。

新規オープンは、私が日本で「伊藤さん帰国歓迎会(9)」を催してもらった日と同じ。

5月24日だった。

新店舗になって初めての出勤だ。


竹を使った建物は開放的で、バリっぽくて心地よい。

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旧店舗から運ばれた什器が、リピーターには懐かしい。

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ガゼボもあるよ。

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メニュー&料金&電話番号(0361-973134)は、変わっていませんでした。


女将・由美さんから「近々、新メニューを追加する予定のようです」と聞いた。

何をやってくれますかね。

それからそれから、もう一つニュースがあります。

女将・由美さんがブログを始めた。


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バリ料理教室「ダプール・バリ」を主宰する由美さんのこと、きっとバリの食べ物を中心のブログになることでしょう。

ブログ名「神々の島の台所」は、そんな趣旨を感じ取ることができます。どんなブログになるか楽しみですね。

以下は、由美さんからのご挨拶。

『ブログを始めようとテストページだけを作ってすでに一年が経ってしまいました。

月日が経つのはなんと早いことか・・・。

日々、猛烈な忙しさの中、果たしてどのくらいのペースでアップしていけるのか甚だ疑問ですが、どうか大目に見てやって下さい。』

心機一転、期待できそうですね。

新生「日本料理店・影武者」、今後とも愛顧のほどよろしくお願いします。

posted by ito-san at 17:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月03日

日本一時帰国・〆の言葉(17)

25年ぶりの日本一時帰国が終了した。

5月10日から6月18日までの40日間、みなさまには本当にお世話になりました。

これでウブド滞在中、一度も日本に帰らなかった記録(24年)に終止符が打たれたことになる。

長寿が記録に残るように、滞在年数も長くなればなるほど記録とされる。

24年の歳月は、何もしなくても重宝がられる人を作り、時には重鎮と呼ばれることもある。

私もそんな一人だったかもしれない。

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1990年5月にウブドにたどり着いて、最初に考えたこと。

それは、日本人であることを最大限生かそうということだった。

なんの能力もない平凡な私が持っているものといえば、日本人であるということだけだ。

長期滞在している日本人の姿が少なかった時期。

何かしら役に立つことはあるだろう。

そして、希少価値な存在になること。

それは、唯一の物であり一番最初であること。

滞在年数24年は、そのひとつだ。

サクセスするかどうかは、努力次第。

私は、ほどほどが主義だから、金銭的には成功していない。

しかし、精神的には充分満足している。


「一番最初であれ」という考え方は、社会人になってから芽生えたようだ。

振り返ってみると、他人に先を越されるのが嫌いな性格のようで、思い立つとすぐに着手している。

二番煎じが嫌なのだ。

人より少し早く物事を始めていた。

手がけるのも早いが、手を引くのも早い。

ようするに飽き性なのだ。

足跡を残したことだけで満足してしまう。

商売も下手だから長続きしない。

これが23才から42才までの私だ。


ウブドでも、同じだった。

◎ウブド初の日本料理店「居酒屋・影武者」。

その土地に行ったらその土地の物を食べよ、というのが私の考え方。

腹痛・つわりなどでインドネシア料理が食べられなくなってしまった日本人旅行者がいた。

そう言う私も、滞在3ヶ月目で食傷気味になった。

必要悪かも、と考えながらオープンしたのが1991年の7月10日。

現在は、後継者の女将・由美さんによって老舗に育っている。

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◎イラストマップ(作者:伊藤ちづる)の発行。

1990年版「パスフィンダー」と「地球の歩き方・インドネシア」のウブド地図は簡略すぎた。

日本語で描かれたウブド・イラストマップは、旅行者にありがたがられた。

1993年に一枚1000ルピアで販売していた。

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◎「極楽通信・ウブド」の発行。

1994年から1999年にかけてバリ島UBUDから発信されていた幻のミニコミ誌。

3ヶ月に1度の発行で、Vol.30まで5年間続いた。

バリで取材した原稿を日本に郵送し、それを元にPageMakerによってDTP作業後LaserWriterでプリントアウトした版下原稿をバリに送付し、UBUDでコピー印刷されて製本され、日本の読者に郵送されていたという、アナログ60%+デジタル40%というシロモノ。

Club Bali・極楽通信UBUD」からダウンロードできます。

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◎日本人専門の情報センター「アパ?」開設。

寺院祭礼(オダラン)見学ツアー&正装のレンタル。

こちらはワヤン・スタモ君が頑張ってくれている。

◎スアールアグン芸術団の「ジェゴグ」、スバリ村の「ジョゲッピンギタン」、ヤンアピ村の「ジャンゲール・ムボルボル」など、マニアックな芸能ツアーを主催した。

この他にもいくつか「ウブド初」はあったと思うが思い出せない。

こうして書き並べると、斬新なことはなにひとつしていない。

しかしこれらは、ウブドに今までなかった新しい出来事なのだ。

それほどウブドは田舎だったということだ。

私のようにお金も能力も度胸もない人間が世界に飛び出すなら、こんな田舎の村を探すとよいだろう。

度胸がないというよりは、英語もできないので、向こう見ずなのかもしれない。

自慢しているわけではありませんが、もちろん英語以外の外国語もできません。


今回の一時帰国は、次の沈没地=田舎を目指す旅立ち前の、故郷帰り。

息子夫婦、そして孫にも会った。

前妻とも和解した。

日本も満喫した。

あとはウブドに戻って、旅の準備をするだけだ。

posted by ito-san at 17:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 名古屋一時帰国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする