2014年08月26日

ウブドの散策@モンキーフォレスト編(63)

ウブドの数少ない観光地に「猿の森」がある。

「猿の森」は、ウブド南部のニュークニン村との間に残る原生林だ。

サレン王宮のある変則十字路から南下して「猿の森」入口までの道をモンキーフォレスト通りという。

旅行者の主流がバックパカーだった時代に使われた「モンキーフォレスト通り」が、いつの間にか定着したようだ。

街路樹に隠れて表示板が見えないが、正式名は「JL: HUTAN KERA」。

HUTANは森、 KERAは猿のインドネシア語。

モンキーフォレストの入場のおりに手渡されるパンフレットには「Wenara Wana」と書かれてある。

バリ語では、猿はWenara 、森はWana。

パダンテガル村が所有していて森の中には、ダラム寺院がある。

仮埋葬場があり、そこでは火葬儀礼が行われる。

かつては、夜になると前を通り過ぎるのも恐ろしいほどの暗闇になり、物の怪が徘徊する気配を感じたものだ。

今は街路灯が設置され、夜道も明るい通りになっている。



8月20日:真上にあった太陽が少し西に傾いた時間。

猿の森に入るのは、久しぶりだ。

入口はモンキーフォレスト通り側に2カ所、ニュークニン村側に1カ所ある。

この日は、モンキーフォレスト通り南端にある入口から入場。

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遊歩道が整備されて少し地形が変わったように感じる。

以前より観光客で賑わっている。

猿の数も増えているようだ。

毛繕いする猿たち。

日向ぼっこの猿たち。

追っかけっこをする猿たち。

動物好きにはたまらない光景が、いたるところで見られる。

特に、子猿は可愛い。

見ていて、心が癒される。

しかし、猿が苦手な私は不注意に歩くわけにはいかない。

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巨樹が見える。

樹齢500年と言われている猿の森の巨樹だ。

いつまでたっても500年だが。

バリ語でビンギン、インドネシア語ではブリンギンと呼ばれる。

ガジュマルの一種でヒンドゥー教の聖木だ。

横に伸びた枝から、気根が幾筋も地面を目指して垂れ下がる。

巨樹の向こうは小さな渓谷になっていて、gt_mandi沐浴場があることを私は知っている。

私は、巨樹の向こうへと進んでいく。

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気根でできた隙間だらけの吊り橋は、今、龍の掘られた石造りになっている。

橋を渡ると、左手に苔むしたコモドドラゴンの石彫がある。

恐竜が出て来そうな原生林に紛れ込んだようだ。

右手には、泉とその向こうに祠がある。

祠の右手は川。

祠と川の間には、奥に進む細い土道があった。

今は、川に張り出すように板張りのデッキができていた。

観光客が手すりにもたれて、対岸で戯れる猿たちを見ている。

デッキはやがて絶え、コンクリートの階段になる。

階段の向こうに浸食された岩場が見える。

このあたりが、村人の沐浴場だ。

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私はこの沐浴場で、よく身を浄めた。

その話は「極楽通信・UBUD/神々に捧げる踊り■第二章・奉納舞踊の一年・その一:プナタラン・クロンチョン寺院」に書いた。

濃い緑の木々に覆い隠された自然に抱かれて、久しぶりに大きな深呼吸をした。

胸いっぱいに自然の空気を吸い込んだ。

沐浴場近くまで、観光客は足を伸ばしてくる。

これでは、オチオチ真っ裸で沐浴できないな。


いたるところに芋が豊富に入った檻がある。

猿たちは、日々の餌に苦労することはないだろう。

もう野生の猿ではない。

ここは放し飼いの猿園だ。

猿たちにとって、それが幸せかどうか?

それは、わからない。

常に満腹のため、観光客にいたずらをする猿はいるだろうが、襲うことはないかもしれない。

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ダラム寺院に向かう。

寺院祭礼の際は、正装していれば入場できる。

猿の森も、寺院祭礼の参拝なら入場無料となる。

普段は、閉まっていて入場できない。

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ニュークニン側に、散策コースが完成していたので歩いてみることにした。

階段状の屋外ステージがある。

ここは以前、儀礼時の闘鶏場だったところだ。

きっと今でも、闘鶏場として使われていることだろう。。

腰をおろしている観光客に、猿がまとわりついている。

観光客からバナナをねだっている。

芋だけでは飽きるのかな。

弁当持参で散歩もいいなと思ったが、これでは落ち着いて弁当も食べられないだろう。

若い欧米人女性が、ミネラルウォーターのペットボトルを猿に奪われたのを目撃した。

女性は、黄色い声を上げて笑っている。

ヒッタクリ猿は、フタを開けようとして噛みついている。

私は、フタが開くのを確認せずに前を通り過ぎた。

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鹿が飼われている柵を抜けると、起伏のある林に遊歩道が造られていた。

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「ホテル・アラム・インダー」の屋根が見える。

対岸のジャングルの緑が濃い。

のんびり回遊できる。

入場してきた入口に、ゆっくり戻って約2時間。

うっすら汗をかいた散歩コースでした。


■営業時間:8.30am〜6.00pm(年中無休)
■料金:大人Rp30,000-/子供20,000-(3〜12才)
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2014年08月24日

“トウモロコシのかき揚げ” を作ろう!(62)

前回の料理教室では、ほとんど手伝いをしなかった。

(「バリ文化の総仕上げはバリ料理の習得(57)」)

しかし「意外と、料理すること好きかもしれない」という感触はあった。

今回(22日)も、ダプール・バリ(dapur BALI)の料理教室にお世話になりました。


初めての時は、何の話をしているのかチンプンカンプンだったが、今回はスパイスの名前が少し理解できたので驚いている。

何気に覚えているもんだな、と感心する。

私の記憶法は、何度も繰り返すことである。

な〜んちゃって!

名前は、おぼろげに記憶はあるが、作り方はまったく覚えていない。

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本日のメニュー、ラインアップ。

●イエロー・ライス=ナシ・クニン(nasi kuning)

●チキンスープ=ソト・アヤム(soto ayam)

●テンペのココナツミルク・カレー=テンペ・カレー(kare tempe)

●伝統的供物料理=ラワール(lawar)

●トウモロコシのかき揚げ=プルクデル・ジャグン(perkedel jagung)

●ココナツのロール・クレープ=ジャジョー・ダダール(jaja dadar)

以上の6種類。

初挑戦の料理ばかりです。

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参加者は、私より遥かに若〜い、神戸からの母娘さんと大阪からの女性がおひとり。

私よりお年を召した女性がバリ料理を習うことはまれかもしれない。

今回は、そんな布陣。

小学生の娘さんはスマホに夢中。

興味があると、時々、お手伝いします。

女性2人は主婦だということもあるだろうが、料理上手とお見受けした。

由美先生も助けられるほど、段取りが早い。

そんなわけで、私の出る幕は少ない。

物思いにふけっていると。

大阪の女性から「ひろしさんは、これをして」と、お声が掛かる。

スパイスを石臼でつぶす作業の指示を受けるのだ。

大阪の人、実家が名古屋・熱田神宮の近くだということで、由美先生と私に話しかけるときは名古屋弁になる。

神戸の母娘と話す時は大阪弁。

愉快になるほど、実に起用に使い分ける。

今回も、ほとんどお手伝いしなかったが、自分としては少しずつ料理を覚えている気になっている。

テンペをさいの目状に包丁を入れながら、テンペの弾力を知る。

煮込んだ鶏肉をホグしながら、肉の部位の感触の違いを覚える。

それでいいのだ。

今回の料理からは “トウモロコシのかき揚げ” を覚えよう。

密かに心に誓ったのであった。

次回の料理教室が楽しみだ。

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本日習得した(?)料理です

旅行中のカメラマン・大木さんが登場した。

大テーブルに、本日の料理が勢揃いしたグッドタイミングだ。

賑やかな食事になった。

話が盛り上がり、本日の料理が一層美味しく感じた。

心残りは、一週間前から風邪を引いていて、皆と一緒にビールが飲めなかったことだ。

posted by ito-san at 20:08| Comment(3) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月20日

パチュン家のマデ君、クルーズに乗る(85)

8月18日の昼下がり。

「明日、出発します」

テラスからおりる私を見つけて、東屋(バレ・ダギン=儀式の為の建物)からマデ君が声を掛けてきた。

東屋に腰をおろして、数人と雑談していたようだ。

明日の出発を控えて、親戚の人が “別れの挨拶” に訪れているのだろう。

唐突な言葉だが、以前からクルーズに乗ると聞いていたので、そのことだろうと理解した。

「船に乗ることになったの?」

当然の質問を返した。

「明日、早朝にジャカルタへ行きます」

「それはおめでとう」

申し込んでいた乗船が決まったからだろう、マデ君は自信に満ちて一段とたくましく感じた。


マデ君は、グスティ家の長男。

正式名には「イ・グスティ・ヌラー・ヨギスワラ(I Gusti Ngurah Yogiswara)」。

1994年4月4日生まれ。

20才になったばかりだ。

ウブドの高校では、コンピューターを専攻した。

高校卒業後、デンパサールにある観光学校に1年間通う。

すでに将来を決めていたのか、バーテンダーの勉強をしていた。

私なんかは、高校卒で社会人になるのが不安で大学まで卒業させてもらった。

そんな私のワガママが許される家庭環境だったと言うことだ。

大学へ通ったからといって勉強するわけでもなく、ただ遊んでいただけ。

親に申し訳ないと思いながらも、できれば大学も留年しながら8年間通いたかった。

そうです、私は芯からの怠け者なんです。

しっかり者のマデ君は観光学校を卒業すると、ウブドにあるホテルのバーに見習いで入った。

見習い期間中、行く末を考慮中。

いつの頃からか、クルーズに乗ることを決めていた。

クルーズとは豪華客船による周遊観光のことだが、ここウブドでは乗務員として乗船することを現す。

アジア、ヨーロッパ、アメリカと幾種類かの航路があり、旅客船会社も多いと聞く。

クルーズに乗船するには、エージェントに大金を支払わなければならない。

「何でも自分で決める子なんです。家でじっとしていることが嫌いな子で、いつも友人の家に出かけて行く」と母親は言う。

今回もエージェント探しから、申込、面接と済ませていた。

父親パチュン君もおおいに思案したようだが、息子のために一肌脱いだ。

クルーズで仕事をすれば、バーテンダーと英語のスキルがアップすることを保証されたようなものだ。

ほとんどの青年が、3度4度とクルーズで仕事をし大金を掴む。

クルーズを降りてから起業し、成功するウブド人も多い。

25年前から、クルーズ乗船はウブドのサクセス・ストリーでもある。

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私の20才の時の初海外は、旅行だった。

寂しくなればいつでも帰れた。

そんな気楽な旅だった。

マデ君の場合は、仕事だ。

ジャカルタへは、国内線の飛行機に同期2人と同乗する。

初のジャカルタ、初の飛行機搭乗。

仲間の2人も初搭乗だと聞く。

2日間ジャカルタで講習を受けて、翌日は香港へ。

香港から、いよいよクルーズに乗船だ。

10ヶ月の船上での仕事。

就職、クルーズ乗務、海外、すべてが初になる。

初心者は、エージェントから航路を割りふられる。

比較的、ゆるめの航海を選んでくれるようだ。

始めは、カジノのウエーターだと聞いている。

こちらも徐々にレベルアップされるていくのだろう。

マデ君の顔からは、夢の実現に向けて楽しみいっぱいのようだ。

少々の日本円と米ドルを「何かの時に使いなさい」と手渡した。

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翌朝、マデ君は、晴れ晴れとした顔で出発して行った。

心細いだろうと思うのは、私の思い過ごしだろう。

10ヶ月後、私はパチュン家にいない。

次は、いつ会えるかわからない。

私の方が感傷的になっている。

「元気でな!」
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2014年08月16日

ギャラリー・BINTANG CENIK(=Small Star)の 開館(61)

私のウブド滞在25年より長く、ウブドに滞在している人物がいる。

鈴木靖峯さん。

1938年生まれ。

空襲を体験した世代だ。

生まれは東京で、戦時中に群馬に疎開。

群馬から修学旅行で訪れた京都を気に入り、のちに住み着く。

西陣帯のデザインを習得するため、丁稚奉公を5年経験している。

その後、七宝焼に手を染める。

工芸家集団のためのクラフト店「手作り峰」を開店。

多趣味多芸の人である。


1978年に初渡バリ。

1980年よりウブドにて長期滞在にはいる。

鈴木さん42才の時だ。

奇しくも、私が滞在を始めた年齢と同じだった。

滞在も年齢も10年ほど先輩だ。

私と同じナホトカ航路での旅行体験者。

今でも、年に一度は、ひと月ほどアジアの国に出かけるほどの旅好き。

そんな自分を「鈴木(スズキ)じゃなく、出ず気(デズキ)です」と、笑えない冗談を言う。

親父ギャグも私と同じレベル。

共通の話題が多く、気の合う先輩である。

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鈴木さんがウブドで最初に手がけたのが、ジンバワン通りの「マタハリ・コテージ」。

露天風呂があると評判になった宿。

実際には、あまり使われることはなかったようだ。

1990年には、スゥエタ通りサクティ地域に「カフェ・ビンタン」をオープンした。

窓から望める両手を広げた幅に、美しいライス・フィールドのある贅沢なロケーションで、多くの観光客が訪れていた。

20年間の賃貸契約が切れ、このたびブントゥーユン村に移転した。

住まいもここに構えている。

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鈴木さんの業績のひとつに、ウブド近辺の幼稚園児、小学生を対象にした絵画作品公募の主催がある。

日本の小学校との交流絵画展を1980年に行ったのをきっかけに、その後、毎年続いている息の長い行事だ。

初期に公募していた児童が成人し、今では、その子供たちが挑戦している。

毎年独立記念日の17日に、優秀作品をインドネシア独立記念式典で表彰する。

もうひとつは、凧揚げ大会(=子供たちによる凧の制作)のスポンサーだ。

子供たちの制作意欲を育てるひと役をかっていたが、一昨年で終了した。

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今年の表彰式は、日にちを繰り上げて12日に行われた。

1980年を第1回として、今年の2014年は第25回となる。

順位を決めず、入賞はバグース(Bagus)、入選をバイク(baik)としたのも鈴木さんらしい配慮だ。

子供たちの描いた絵が飾られるギャラリー「BINTANG CENIK=Small Star 」も完成し、お披露目された。

観光地としての背景の中で、子供たちの技法傾向が変わっていくのが興味深い。

回を重ねるごとに、歴史が作られていくのだろう。

いつまでも、続けて欲しい行事である。

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2014年08月11日

合同火葬儀礼のシーズンって、どういうこと?(60)

毎年バリ島の7〜8月は「合同火葬儀礼(ガベン・マサル/Ngaben Masal)」のシーズンになる。

葬式シーズンとは可笑しな表現だが、事実だから仕方がない。

では、どうしてそんなシーズンが存在するのか?

その原因は、バリ独特の暦にある。

バリでは、西暦以外にウク歴とサコ暦と言われる古くからの暦を使っている。

そううちのひとつサコ暦に、秘密が隠されているのだ。

サコ暦は、太陽と月のサイクルを組み合わせたもので353日、355日あるいは356日の1年で巡ってくる。

西暦と同じで、1年が12のサシー=月(sasih)に分かれている。

(詳しくは、サコ暦を御覧ください)

サシーのひとつで、人間(特に死者)の儀礼にもっとも適しているのが「サシー・カロ(sasih karo=第2月)」。

そのサシー・カロが、毎年7〜8月にあたるというわけです。

理解いただけたでしょうか。

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昔から合同葬儀があったわけではない。

インドネシア独立後(1945年)に、行政によって決められた儀礼だろうと思われる。

合同火葬儀礼は、ひとつの村で2年から6年に一度行われる。

昨年の8月30日は、我がテガランタン村の合同葬儀を見学した。

詳しくは「テガランタン村滞在記:合同火葬儀礼(51)」を御覧下さい。

今回は、8月8日にスバリ村合同火葬儀礼を取材した。

スバリ村は、5年前にも取材している

晴、時々小雨。

昨年も小雨だったのを思い出す。

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スバリ村は、5年の間に40人の村人が亡くなっていた。

遺体は埋葬されたままで、燃やされるのはシンボルの木片だ。

バリ人の信仰では輪廻転生が信じられていて、涙を見せることが少ないと言われている。

しかし中には、脳裏に浮かぶ思い出には逆らえないのか、悲しげな表情を見せる者もいる。

それぞれの故人に、思い出があり思い入れもある。

輪廻すると頭ではわかっていても、寂しさは拭いきれないものだろう。



スバリ村の火葬儀礼を見学していて、私の心に変化が起こっていた。

今まで観光客の視線でしか見ていなかったが、今回は死者のことを考えている。

中東の悲惨な戦場の映像を見たからだろうか。

非武装市民、子供、年寄り。

つい先ほどまで元気に飛び廻っていた子供が、血まみれになって死んでいた。

なんの罪もないものが、命を奪われる。

いきなり人生に終止符が打たれる。

彼に、彼女に、将来はあったはず。

それを、外圧によって切断されてしまう。

そんなことが許されていいのだろうか。

亡くなった人には、家族がいる。

家族の悲しみは、私の想像を越えているだろう。

死ぬということは、他人からは「いなくなる」ことだが、本人にしてみれば「生きられなくなる」ということだ。
と、重松清「星のかけら」に書かれてあった。

思いもかけなかった言葉に、胸が熱くなった。

今回の日本一時帰国で初孫に会ったことで、私の慈愛心が萌芽したようだ。


脅しには脅し返す!

攻撃には先制攻撃!

先制攻撃には報復!

人間は相変わらず、愚かな戦争を繰り返している。

核が使われれば、人類、そして地球も破滅することは間違いない。

収拾のつかぬ破局につながる一歩を踏み出したら・・・終わりだ。

(多田富雄「寡黙なる巨人」より、言葉をお借りしました)

日本も恐ろしいことになっている。

「戦争反対!」「原発反対!」

わかったようなことを書いてすみません。

心配なんです。

「地球が平和でありますように」

ただ祈るだけしかできない無力な私です。

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2014年08月06日

ウブドの変則十字路の様変わり(59)

1990年5月7日、ウブド市場の前に、プラマ社のシャトルバスで降り立ったのを思い起こす。

バスの進行方向に歩き始める。

行き先は、カジェン通りの「ロジャーズ・ホームステイ」。

以下は、「極楽通信・UBUD」バリ島滞在記「ウブドに沈没
ウブドへの道のり」からの抜粋。


プラマ社のシャトルバスは、その人混みの中に止まった。

乗客が降ろされた。

クタよりかなり涼しい。

ぞろぞろと降りた乗客たちは、思い思いの宿に向かって歩き出し、散らばっていった。

わたしは、眼前の2階建コンクリート造りの雑居ビル(※旧ウブド市場)を見上げている。

1階には、間口の狭い店がいくつも並び、店先には雑多な商品が山積みになっている。

2階は回廊になっていて、天井から布や衣服がところ狭しと吊ってあるのが見える。

雑踏を避けて道路に出た。

道の向こうに、間口の狭い店がハーモニカの吹き口のように連なってる。

日用雑貨屋と荒物屋が数軒に、銀製品を売る店と飲み物を飲ませる店、右端には自転車の修理屋が並んでいた。

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1995年:モンキーフォレスト通り北口


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店舗棟は壊され、2012年「ウブド村営情報センター(旧ビナ・ウィサタ)」が入居する村役場が完成。




2014年6月8日:モンキーフォレスト通り側にテラスを張り出して増築してカフェ・テラスがオープンした。

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モンキーフォレスト通り南端にある「カフェ・バリ・ハウス」の姉妹店で《カフェ・バリ・ハウス・エキスプレス=kopi-bali-house-express》の出店だ。

まさか、エスプレッソを口にしながらインターネットをする自分の姿がここにあるとは想像できなかった。

ウブドの変則十字路を道行く人々の姿も変わった。

マン・ウオッチングが楽しい。

ここで、「ウブッド十字路の番人」(著者:マディ・クルトネゴロ/訳者:竹内邦愛/1997年4月15日・発行)を読んでみたい。

次回は、本を読みながらコーヒーを啜ろう。

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サレン王宮方面を見る


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スゥエタ通り北口を望む


★食事:軽食・サンドイッチ&バーガーRp40,000〜Rp47,000-/
★飲物:コーヒー各種Rp24,000〜Rp46,000-/ジュース各種Rp30,000〜Rp32,000-/アイスクリーム各種Rp30,000〜Rp40,000-/ビンタンビール大Rp35,000-小27,000-/
★営業時間:8.00am〜11.00pm/定休日・儀礼祭礼日
★Web:kopibalihouse.com
★Email:kopibaliubud@gmail.com
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2014年08月02日

ホテル&ヴィラの建築ラッシュ(84)

テガランタン村の北端は、ジュンジュンガン村と繋がる。

このあたりは、今も田んぼが広がっている。

夜になるとホタルが乱舞する

地元若者のデート・スポットのようだ。

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ジュンジュンガン村に入ってすぐ右手の田んぼの中に「NOT FOR SELE」の野立て看板が立ったのは2013年初頭だった。

外国人やジャカルタの富裕層が、この静かな地にヴィラを建て始めた。

売って欲しいという人が頻繁に訪れるのに業を煮やした村人が、写真のような看板を立てたのだろう。

バリ島が外国人&他の島の人に乗っ取られるのを恐れている、この頃のバリ人。

乗っ取られてしまえば、バリ人の信仰である「ヒンドゥー・ダルマ」の存続も危うくなる。

この頃の風潮として、土地は売らずに長期で貸し出す考え方に変わってきた。

これまでも「土地は子供たちからの預かりもの」という考え方はあった。

手放すわけにはいかない。

素朴な作りの看板に、地元農民の代弁かもと共感した。

共感したミュージシャンがコンサート「NOT FOR SALE」を開催することになった。

2013年7月26日の照明を必要としない午後4時から行われる。

ステージは野立て看板の前。

観客は田んぼの畦道で鑑賞することになる。

バリ出身でインドネシアの人気バンド「S・I・D(Superman Is Dead)」が出演するということで、地元の若者たちが大勢詰めかけた。

S・I・Dは、バリ南部ブノア湾のマングローブ保存などバリ島環境問題に真摯に取り組んでいるロック・グループだ。

このコンサートもそんな一環なのかもしれない。

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バリ島は今、ホテル&ヴィラの建築ラッシュ。

様々な問題が起こっている。

水の問題も大きい。

大型ホテルの建設で水が不足がちな地域が出始め、農業に支障をきたすようになってきている。

ゴミ&下水&交通など、早急に解決しなくてはならない問題は山積みだ。

急速な発展に伴い環境が破壊されていく。

これは仕方がないことなのか?

バランスのとれた発展はないものか?

たくさんの?が浮かぶ。

さまざまな条例が必要だろう。

バリ島の将来は、バリ人が何を望むかによって決定される。

しかし「急を要する」と私は思っている。

テガランタン村もご多分にもれずヴィラの建築ラッシュだ。

こちらも取り返しがつかなくなる前に、村作りの青写真を作っておく必要があるだろう。

村人の良識に期待したい。


夜7時30分を廻ったところで、村の役員からコンサート中止の警告があった。

誰かがクレームをつけたのか。

9グループがライブを終えたが、まだまだ出演バンドはスタンバイしている。

7時40分までの延長で、コンサートは再開された。



「NOT FOR SALE」の野立て看板のあった田んぼの隣に、7月17日レストランが開店した。

「ワルン・メゾ=Warung MEZZO」だ。

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写真は、ジュンジュンガン・ダラム寺院50周年のオダラン(2013年4月16日から4月24日)の時 & 2014年8月1日現在(右手がワルン・メゾ)。

この店は、土地の持ち主であるバリ人のオーナーだ。

田んぼの景色が美しいロケーションなので、ローカル&ツーリストに人気が出そう。

価格もお値打ちです。

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★メニュー:インドネシア中華料理
★食事:チャプチャイRp17,000-/ナシゴレン&ミーゴレンRp20,000-/
★飲物:コピバリRp5,000-/紅茶Rp6,000-/ジュース各種Rp8,000-/ビンタンビール大Rp30,000-小17,000-/
★営業時間:10.00am〜10.00pm/年中無休
★TEL:089-632-36803/

関連ブログ
2013年05月08日:■テガランタン村北部(25)
2013年05月22日:■ジャランジャランの2(31)
2013年07月29日:■Bali Not For Sale(46)
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2014年08月01日

旧・影武者でのマイマイ事件(58)

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ブログ「ダプール・バリ 神々の島の台所」の「カクル・2014/07/23」を読んで思い出した。

2008年7月の「旧・影武者」でのことだ。


7月2日のミクシイに、私はこんなことを書いていた。

プンゴセカン村にあった「旧・影武者」は、北側と東側に田んぼが残っていた。

夜になると庭に供えられた供物を求めて「でんでん虫=カタツムリ」がやってくる。

「影武者」に出没するでんでん虫は、マイマイと呼ばれる種族らしい。

学名は「アフリカマイマイ」。

インドネシア語とバリ語では、ブキチョッ(=Bekicot)と呼ぶ。

ひと月ほど前から、「影武者」の庭にエスカルゴに似たマイマイが姿を見せるようになった。

決まって、夜の9時を過ぎた頃。

田んぼから這い出し、門前にある供物に向かう。

2匹いる。

仲の良い夫婦だろうか。

カタツムリは雌雄同体だから、どちらが夫でどちらが妻というわけではない。

供物のバナナを食しているようだ。

輪切りのバナナは、皮を残して奇麗に無くなっている。

影武者のオーダーストップ10時30分になると、マイマイたちも帰路につく。

時間の観念と匂いを嗅ぎ分ける能力を持っているのか。

のんびり歩む姿に頬笑んだ。

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半月ほど前から、マイマイは3匹に増えた。

子供がついて来たのだろう。

私は、マイマイ・ファミリーと命名した。

いつも同じマイマイが来るのだろうか、と私は疑問を持つようになった。

それを確認するために、殻に印をつけてみようと思う。

印は名前がいいだろう。

世帯主は太郎で妻は花子、長男は一郎だ。

そんなことを考えながら庭を見ると、この日の供物には4匹が集まっていた。
 
これは親子じゃなくて、兄弟なのかもしれないゾ。

兄弟なら、名前はバリ人のようにワヤン、マデ、ニョマン、クトゥトだ。

この名前なら雄雌(男女)に関係がない。

5匹目は、またワヤンにもどるのかな。

とにかく、印をつけることにしよう。


翌日は、命名して印をつけようと、アクリル絵の具と筆を持参して「影武者」にでかけた。

供物に群がるマイマイに驚く。

どんな情報がまわったのか、今夜は7匹と増えていた。

きっと美味しいご飯があるとの噂が広まっているのだろう。

この調子で行くと、庭一面にマイマイが埋め尽くす日も近いかもしれない。

創造するだけでオゾマしい。

実はわたくし、ナメクジ系は大嫌いなのです。

それとこれとは別。

殻に名前を描くことは決めている。

S田さんとY美さんと相談の上、バリ人の名前でなく、友人の名前をつけてしまえということになった。

いざ描く段になって・・・。

アーチストB場ちゃんが現れ「僕も書きたい!」と参加した。

彼の描いた絵はストライプ柄だった。

こうなれば我々もと、当初の計画は頓挫してアートとなった。

ドット柄や顔も描いた。

楽しいお絵描きの時間となった。

7匹のマイマイは喜んでいるのか迷惑しているのか、表情がないのでわからない。

夜10時30分、マイマイは一匹一匹、竹柵をくぐって田んぼに向かって去っていった。

後ろ姿は、嬉しそうでもあり、悲しそうにも見えた。

Bekicot2.jpg

次の日、マイマイの姿は2匹しか見ることができなかった。

派手な柄になって仲間に嫌われたのかな。

その翌日からは、まったく姿を見ることができなくなった。

ひょっとするとマイマイは、殻で呼吸しているのかもしれない。

そうだったら、大変だ。

彼らは皆、死に絶えたのだろうか。

殺生してしまったのか。

これは無抵抗な相手に対しての苛めだったのかもしれない。

無知とはいえ反省しています。

ごめんなさい。

もう二度といたしません。

この話、事件と言うほどのおおげさなことでもないか。
posted by ito-san at 01:36| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする