2016年01月30日

バリ芸能の保存育成は、バリ人に任せよう(28)

20数年前にウブドで出合ったことのある日本人女性から、メールとともに古い写真が届いた。

懐かしい写真ばかりで、往時を思い出した。

文面から蘇った思考がある。

「おじさんは怒ってるゾ!!」

1997年11月30日発行の「極楽通信UBUDvol.23」その他のニュースで書いた記事だ。

当時の怒りを振り返ってみた。


今、バリ、特にウブド近郊は、私が滞在し始めた1990年に比べて芸能が盛んになってきている。

古い舞踊が復活されたり、新しい曲や踊りが創作されている。

寺院祭礼の奉納演目も年々増えている。

婦人や子供たちのガムラングループが誕生し、バンジャールの儀礼に活躍が観られる。

王宮のお抱えグループやバンジャールのグループ以外に、財団法人(Yayasan)や個人所有のグループ(Sanggar)もここ数年増え続けている。

これらは、バリ芸能の保存と育成を目的に設立されている。

バリの伝統芸能に、外国人がスポンサーの名乗りを上げ始めたのも、この頃か。

あちこちの村で、外国人篤志家の援助によるグループがいくつかできた。

私的には、バリ人主導に対しての援助は大歓迎。

お金は出すが口は出さないという条件で。

しかし、新たなグループを、外国人が作ることには賛成できない。

外国人は、旅の恥はかき捨て式に、かき回して途中で国に帰ってしまうことが多いからだ。


その中に、ちょっと気になるグループが存在した。

お金を出すが口も出す。

おまけに顔を出し、姿も現し、私物化している。

「私がスポンサーでござる」と言わんばかりに、出しゃばり王様のように振る舞う篤志家。

バリ人の踊り手がいるにもかかわらず、篤志家自身が主役として出演してしまう。

バリ芸能はバリ人のもので、バリ人に任せておけばよい。

入場料を取って公演するグループもある。

外国人の踊るバリ舞踊に、入場料を払わされる観光客も迷惑な話だ。

観光客は、バリ人が踊っていると信じている。

それを裏切ってはいけない。

日本国内で、バリ芸能好き日本人主催の公演にバリ芸能好きの観客が入場料を払うのは許される。

私が踊っていたから言い訳するつもりではないが、寺院祭礼で外国人が奉納舞踊をするのも許されるだろう。

バリの芸能を愛する人を、村人は歓迎してくれる。

神々に捧げる踊り


プリアタン村に、日本人がスポンサーとなったグループが誕生した。

1993年、プリアタン村にある2つのグループからガムラン奏者を選りすぐって結成した。

伝統ある両グループの組織や人間関係を崩してしまった年でもある。

グループ名は、篤志家の名前。

エゴの道具にされたとしか思えない。

ヒンドゥー教の神の名だと聞かされたが、知名度のない神様の名前はこじつけだろう。

日本公演の際、2つのグループはプリアタン村に残ったメンバーで定期公演をこなした。

精鋭メンバーの抜けたグループのレベルが落ちたのは、致し方ないことだった。

日本公演から戻ったグループのメンバーは、古巣には戻れない。

それはそうだろう、村のグループじゃない日本人が主宰するグループに鞍替えしたメンバーにホットポジションは用意されない。

「日本に行ける」「お金がもらえる」の魅力につられて入団した者も多かった。

ウブド北部アンドン地区に専属ステージが作られ、定期公演を打つことになった。

金満日本を見せつけられた思いだった。

精鋭で結成されたグループの演奏は、優れもの。

しかし、定期公演の客足は伸びなかった。

場所が悪いとの声もある。

火曜日のスマララティ公演日に、ぶつかったのもマイナス要因か。

客の入りが少なく、メンバーの士気も盛り上がらなかったのだろう。

メンバーが足りなかったり、開演時間が遅れたり、早く終演したりと、ルーズになった。

「演奏は良いのだが」の声。

お客が2人以上の場合は定期公演を行うが、1人の場合はキャンセル。

キャンセルすることが、しばしばあった。

こんな状況が続いた。

その後、日本公演の話も途絶え、グループでのメリットが見えなくなると、メンバーはさらにやる気をなくす。

客が来ない⇄やる気がなくなる。

悪循環の結果、定期公演は休止となる。

アンドンのステージ閉館あと、プリアタン王宮で水曜日に公演した時期もあったようだが、これもいつのまにか消滅していた。

グループも解散したと同然。

旅の恥はかき捨て式にフェードアウトしていった。

採算が合わなくなれば退散。

私が危惧していたことが現実となった。

これは現在のホテルラッシュの将来にも起こりえる。

ビジネスが成り立たなくなれば、撤退する。

建物は、末は廃墟となるだろう。

残されたバリ人には、迷惑な話だ。


果たしてプリアタンの村人は、援助を喜んでいたのか?

いらぬお節介ではなかったのか?

バリの芸能は、神々に奉納するもの。

観客に褒めてもらうために演奏しているわけでも、踊っているわけでもない。

技巧の優れた芸能を奉納する必要はない。

技術アップは、二の次。

寺院祭礼で観る奉納芸能は、村人の一途な姿に感動させられるのだ。


今、こんな動きは影を潜めている。

バリ芸能の保存育成は、バリ人に任せておこうよ。

私の独断的意見で反感をお持ちになる方もありましょうが、考え方は以前と変わっていないので敢えて書かせていただきました。


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2016年01月27日

バリ島ウブド・楽園の散歩道(27)

鼻風邪で、パソコンの前に長時間座っていることが苦痛で、ブログに手がつきません。

そんなことで、今回は本の宣伝で、お茶を濁すことにしました。


ダイアモンド社・地球の歩き方Gem stoneシリーズ「バリ島ウブド・楽園の散歩道」の改訂版が出版されました。

執筆:桑野貴子・佐藤由美・伊藤博史

撮影:有賀正博・今野正夫。

gemstone.jpg

よろしくお願いします。


サリオーガニック散歩コースの動画をアップしました。

「楽園の散歩道」にも、サリオーガニック方面とカジェン通りを繋ぐ散歩コースは載っています。

私のお薦めコースです。

動画には、見所の田んぼの畦道はありません。

自分の眼でお楽しみください。


サリオーガニック散歩コース



カジェン通り




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2016年01月25日

エス・テレールの店「35(ティガ・リマ)」(26)

先週から、雨の降る日が増えている。

時々、大雨。

本格的な雨季入ったのか。

草木の緑が精彩を取り戻し始め、そよぐ風も肌に心地よい。

暑い日々が続くと、一雨降ってくれるとありがたいのだが、と考える。

雨が降り始めると、今度は、雨が鬱陶しくなる。

人間とは、ワガママない生き物だ。

日中は暑いが、朝晩は冷え込む。

そんな寒暖の差で、風邪を引く人が増えている。

健康だけが取り柄の私は、風邪を引かない。


暑い日は、冷たい物を求めて彷徨う。

スグリオ通りの「ワルン・ソパ=Warung Sopa 」正面にある、「Es Teler Tiga Lima」に行こう。

ここは、ローカルに人気の店。

雑貨屋の店先に出している、かき氷屋。

私のお気に入りの店でもある。

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道路にはみだして、大勢の客がいる。

ブンクス(持ち帰り)の客が半分ほど。

店先に、長テーブルが一つと椅子が数個。

すぐに満席になってしまう。

私は店先で注文をすませ、雑貨屋の中の椅子に腰を下ろす。

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店名の「エス・テレール=Es Teler」は、砕いた氷に、アボガドとココナツの白い果実が入る。

ガラスのコップで出て来る。

エスは、氷のこと。

誰かのブログに「テレールは酔うという意味」と書いてあった。

「酔っちゃうくらいくせになる美味しさ、というネーミングらしい」とも説明されていた。

■料金:Rp8,000-

TigaLima3.jpg


砕いた氷に、コンデンスミルクとスライスされた各種果物がガラスの器に盛りつけられて出て来るのが「エス・ブア=Es Buah」。

ブアは、果物のこと。

Rp10,000-

TigaLima4.jpg


この他に、エス・ブアに、寒天とタピオカ、ゼリーとナタデココが加わったエス・チャンプールというかき氷もある。

どれも美味しい。

以前より、氷が清潔になったので、お腹を壊すことも無くなった。

これは、あくまでも私の感想です。

胃の弱い方、疲れが残っている旅行者の方は、控えたほうがよいかもしれません。


posted by ito-san at 04:12| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月21日

アイス・ドリーム @ ウブドらしい店(25)

午後から、おしめり程度の雨が降った。

おかげで、涼しくなったような気がする。

曇り空の中、遠くで雷の鳴る音が聴こえる。

しばらくしたら、このブログをアップしに、ネットのできるカフェに行く予定だ。


“ウブドらしさ” の許容範囲に入れたユニークな店舗第一号を 紹介しよう。

数々オープンしているウブドのジェラート店で、初めて眼を奪われた。

私のデザイン魂を刺激してくれた店。

Gelateria Italia「Ice Dream」。

モンキーフォレスト通りをウブドの変則十字路からに入ると、100メートルほど先でアルジュナ通りとのT字路になる。

場所は、この中間地点の東側にある。

間口4メートル、奥行き5メートルほどの小さな店。

曇りの日ならジェラートを食べる人もいないだろうと、出掛けて行った。

写真を撮るために、お客の少ない時を選んだ(つもり)。

座りたかったカバの椅子に先客がいた。

私の認識不足だった。

ジェラート好きに暑さ寒さは無関係なのだ。

私にしたって、冬でもアイスクリームを食べていた。


ファサードにスダレのように下がったの大量のビーズが人目を引く

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ステンレスの椅子・テーブル

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カラフルに彩色されたの動物の彫刻の上に、クッションを付けた椅子

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先客に座られた、カバの椅子

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ビーズ珠のシャンデリア

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壁のイラストも可愛かった

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ざ〜とこんな感じのインテリアです。

私に備わっていないセンスの数々に、嫉妬しています。

「ところで、肝心の味はどうなの?」

その質問、味音痴の私には見当外れと言うもんでしょう。

ストリートウオッチングしながら楽しく食べられたので、合格だったのではないでしょうか。


posted by ito-san at 17:30| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月19日

ウマ・マンディ・カフェ @ ウブドらしい店(24)

ウブドに新しくオープンする店舗に、四角の白い壁にガラス張りのフロントという、没個性が多い。

日頃私は「ウブドらしい店を期待する」と強調しているが、いったいウブドらしさってなんだろう。

風や音や匂いが感じられるようにオープンであること。

だから、エアコンはない。

できることなら、景色が見られること。

田んぼビューでなくても、人々の行き交う姿でいい。

これでは、昔のウブドを懐かしんでいるだけかもしれないな。

発展し続けるウブドの現状では、時代に逆行するような店作りはダメだろう。

通り沿いにあった田んぼは、すべて店舗になった。

裏に残っていたはずのライスフィールドも、いつのまにかヴィラで埋まっている。

もう田舎には戻れない。

景色を楽しむ観光客も減っているようだ。

交通量の多いエリアは、騒音、排気ガス、ホコリ対策でガラス囲いのエアコン付きになるのも必然なのか。

だったら、ウブドらしさをどう作るか。

ウブドは芸術の町。

ユニークな店舗を “ウブドらしさ” の許容範囲にいれることにした。


今後、ウブドらしさの残る店舗を紹介していこうと思っている。

まずは第一陣は、田んぼビューのある「ウマ・マンディ・カフェ」。

ペネスタナン村とカティランタン村を結ぶ街道沿いにオープンしたカフェです。

ウマ・マンディ1.jpg

動画でどうぞ。




posted by ito-san at 16:48| 愛知 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月14日

ゴータマ通りの今昔(23)

1990年代のゴータマ通りは、私のお気に入りの散歩コースだった。

ウブド大通りからは「レストラン・ノマド」の横から入る。

ここが、ゴータマ通り北口になる。

通りの両側は木立に囲まれ、民家の朽ちた門がところどころで覗いていた。

昼なお暗い木々に覆われた通りは、デヴィ・シータ通りに交わる南口まで続く。

写真は、ゴータマ通り南口付近から、RAMASITAと書かれたデヴィ・シータ通りの向こう、ゴータマ通り南を撮ったもの。

左の汚れは、引き延ばした写真が重ねてあったため湿気でくっついたのを剥がした跡。

デジタルカメラの登場する以前のカメラは、現像・焼き付け・引き延ばしのDPEで保存していた。

保存がズサンだったため、ネガは水分を含んで画像が消え、引き延ばした写真は湿気で画像がとけていた。

かろうじて、数枚が原型を留めていただけ。

スキャンして残した。

ゴータマ通り.jpg


「デワ・ワルン」がゴータマ通りに移転して、賑わいの兆候を感じた私は、この地にワルンを開店する計画を立てた。

計画は、友人Sさんのワルン開店の協力に注いだ。

10年契約で借りた空き地を開墾して建てたワルンが、2002年9月のオープンの「ワルン・ビアビア」だ。

「雑貨屋・トコタコ」のお洒落な店舗が、民家の前庭に建っていた。

その道沿いには、奇才ウエッチェス君がたむろする、東屋のコーヒーショップがあった。

この頃から、ユニークな通りとして注目を集め始めたと思う。

今、当時の面影はまったくなくなったが、人気レストランが軒を連ねる通りには日々人々で賑わっている。

現在の「ワルン・ビアビア」は、友人夫妻が次いでいる。

私のデザインした店舗を愛してくれている友人に、店名もそのまま譲った。

二代目経営者は、奮闘し繁盛店とした。

末永く「ワルン・ビアビア」が繁栄することを願っている。


フランス料理店「Pignou de Penyu」の南隣りにある陶器の店「Setia」も、私がデザインさせていただいた友人の店だ。

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近々、私の流木作品を置かせていただく目論みである。

ゴータマ通りにお寄りに際には、是非、覗いてみてください。


様変わりを、動画で御覧下さい。






posted by ito-san at 01:56| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月13日

SATOUYA、それともSATOOYA(22

「日本食・影武者」の大テーブルを囲んで、夜な夜な駄弁った日々が懐かしい。

以前は、長期滞在者とリーピータにツーリストを交えて楽しい時間を共有した。

近年は、年末年始のリピーターも激減している。

この頃、夜遅くまで居残る仲間が少なくなった。

私自身も老体で深夜までの付き合いはキツくなってきているが、少し寂しい気もする。

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この日は、Sさんが遅くまで付き合ってくれた。

女将・由美さんとSさんと私の3人は、小さなテーブルを囲んでいた。

話の内容は、いつものようにあっちにいったりこっちにいったりと七変化する。

Sさんは毎週日曜日、バリの山間部まで出掛けてオーガニックの野菜を仕入れに行っている。

話は、オーガニックについてにだった。

いつのまにか、私のインドネシア人の知人の話になり、そして彼の友人の話に移っていった。

彼の友人は、私も知っている有名なレストランのオーナーだった。

「そのオーナーは、砂糖屋をやっている」とSさんは言う。

オーガニックのジャムやパンを手作りして売っている店だ。

椰子砂糖を作っていても不思議ではない。

Sさんは、レストランのオーナーは貧乏な家庭の子供たちを面倒見ていると言う。

女将・由美さんとSさんは、しきりに関心している。

どうも、私だけが話が噛み合っていないようだ。

私は勇気を出してSさんに聞いてみた。

「砂糖を作っているですよね」。

話の流れから、SATOUYAをしていると私には聞こえた。

それは、私の勝手な流れだったようだ。

「SATOUYAではなくSATOOYAですよ」とSさん。


砂糖屋ではなく里親だった。

老人には、里親が砂糖屋に聞こえた、と言う話。

久しぶりのボケで、多いに笑った夜でした。

posted by ito-san at 15:55| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月08日

カジェン通りの続き(21)

カジェン通りで思い出したことがある。

ウブドに滞在を始めた頃(1990年)。

昼下がりカジェン通りを歩くと、道端で鶏を大事そうに抱えている男性衆や、門前に腰をおろして白髪を抜き合っている女性達を見かけた。

のんびりした風景だった。

しかし私は、この時、彼らが怠け者に思えた。

昼間から時間を潰す姿は、日本では許されない。

私は、日本では怠け者のレッテルを貼られる。

彼らを見て、ここなら私でも住むことが出来るのではないかと感じたものだ。

時間がゆっくり流れているように思えた。

彼らは、すでに早朝の仕事を終えて、一服しているのだと後から知った。


この悠々然としている彼らの個性が、滞在を初めると問題になってくる。

工事現場の遅れ、発注した商品が納期に間に合わない。

「出来た時が納期だ」とで言うように、こんなことは当たり前だった。

これで腹を立てていては、ウブドに住めない。


影武者、昨年末の夜。

大阪から戻って来たバリ嫁と再会。

火葬儀礼の準備をするバリ人の話になった。

彼女の家の空き地で、火葬用の神輿(バデ)が作られていた。

「こんなにのんびりやっていて間に合うのかしら」と心配するほどの出来だったそうだ。

ところが彼女の心配をよそに、儀礼日前日には、2階の窓からバデが見られる高さになっていたそうだ。

人海戦術の成果なのだろうけど、いざその時になると出来上がっている。

慌てず、騒がず、皆が均等に働いて結局はピタリと辻褄が合う。

何につけても悠々然としている彼らだが、こと儀礼となるとキッチリこなす。

彼ら固有の時間感覚があるのだろう。

いったい彼らの精神はどうなっているんだ。

バリ人気質の疑問がひとつ増えた、夜でした。


posted by ito-san at 17:45| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月05日

『謹賀新年』2016年 & カジェン通り(20)

新年の挨拶が遅くなって、申し訳ありません。

本年もブログの愛読、よろしくお願いいたします。

三が日も過ぎて、5日だというのに「何してんだ?」。

ごもっともです。

お叱り、真摯に受け止めさせていただきます。

実は、元旦にブログアップしたつもりでいたのです。

その後は、寝正月を決め込んで怠惰に過ごしていました。


「一年の計は元旦にあり」なんて言いますが、私には、一年の計は元旦にはないんですよ。

ここ数十年、新年に計画なんてものを立てたことがない。

ほとんど、行き当たりばたりの人生なんです。

「その考えがいけなのですよ」と、またまたお叱りの声が聞こえてきそうです。

「だから、お金もないし、人が羨むような人生をおくれないんだよ」

それも、ごもっとも。

それでも周りに迷惑もかけず、なんとか生きてきた。

もとい、迷惑かけているかもしれないが、本人は気づいていない。

迷惑をかけた方々には、この場を借りて「ご免なさい!」と、ひとこと謝罪の言葉を加えておきます。

この軽薄さが、他人に反感を持たれる要因だよね。

まあ、本人が楽しく生活していれば、それで万事OKだ。

一年の計ではないが、もうしばらく生涯旅人の現役を続けるつもりでいます。

温厚な心持ちで見守っていてください。


話は変わります。

昨年末、古巣のカジェン通り( Jl.kajeng)を散歩して来ました。

ウブドの変則十字路にある集会場から、ウブド大通りを西へ50メートルほど行くと、右手に北上する道がある。

ここがカジェン通りの入り口。

名称の由来は、インドネシア独立戦争で戦死し英霊となったカジェン氏の生家があるところからきている。

入り口の左手には、大きなホームステイの案内看板がある。

右手の角地はサケナン寺院で、境内の風景が見える。

600メートルほどのカジェン通りの両側には、民家が軒を連ねている。

そのほとんどが、ホームステイを営む。

私がウブド滞在で最初にお世話になったのが、通りに入って最初にある「ロジャース・ホームステイ」。

この続きは「極楽通信・カジェン通り(Jl:Kajen)」をお読みください。


1990年のカジェン通りの様子は、ウブドに沈没 「ロジャース・ホームステイ」「カジェン通りの散歩」に書いてあります。

動画と合わせて見ると、様変わりの様子が理解できて興味深いと思います。

リンクを張って、原稿を手抜きすることを覚えてしまった。

それでは、動画をお楽しみください。





posted by ito-san at 15:46| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする