坂田さんが、4月17日に帰ってくるので明け渡しだ。
居候先の大家(パ・セダン)は、ワルンを経営をしているので、出かけたくない時の食事はここでした。
ガソリンスタンドもランドリーもコンビニも近くにあって、便利な立地だった。
古巣のテガランタン村に舞い戻ったのは、11日。
以前世話になったパチュン家を通り越して、今回は寺院の北・パチュン地域に厄介になる。
厄介先は、現在、慣習村村長の職につく、セナ(sena)氏宅。
いつ旅立つかわからないので、寝袋生活の予定だ。
望みは、サバイバルな生活。
雨露がしのげれば良いと考えている。
にしては、立派な部屋だが。
家財道具がまったくないが、どうしても必要な物しか揃えないつもりでいる。
4月14日、僧侶(プマンク)婦人の火葬儀礼(Plebon)が、テガランタン村で行われた。
聖職者であるプダンダ(高僧)や僧侶は、埋葬することができず、すぐ火葬される。
そんなことで、村長セナ氏と奥さんは、私の引っ越しに気遣っている暇がないほど忙しいかった。
少々寂しい気もしたが、それはジ〜ッと我慢の子。
火葬儀礼は、午後1時から始まるとセナ氏から聞いている。
バラガンジュールの賑やかな音が、聴こえてきた。
午後12時30分、少し早まったようだ。
急いで正装に着替え、部屋を出る。
バデ、ルンブーの神輿は、もう火葬場に向かっていた。
大勢の村人が、集まっていた。
私は、邪魔にならないように、参列者の後ろに立った。
顔見知りのプマンクが、笑みを浮かべて近づいて来た。
25年ぶりの再会。
1991年「居酒屋・影武者」の工事を請け負ってくれた大工の棟梁だ。
どちらも、しっかり年齢を重ねた。
そう言えば、大家セナ氏の父親も「影武者」建築に携わってくれた大工のひとりだ。
セナ氏も大工で、世話になっている。
バリ語のできない私に、片言のインドネシア語で話しかけてくる。
インドネシア語もまともに話せない私との会話は、途切れがち。
それでも、意志が通じるかのように、お互いにニコニコ顔。
ルンブーに火が入った。
プマンクが一言、「◎○△□●▲▽◆×?」。
バリ語かインドネシア語か、どちらにしても理解できない言葉だった。
曖昧に相づちをうった。
私の感では、家族の火葬だと伝わる。
焼き場を離れると、カルタの顔が見えた。
カルタが、プマンクの奥さんの葬儀だと教えてくれた。
お悔やみの言葉をかけなくてはいけなかったのだ。
しかし私は、お悔やみの言葉をインドネシア語で伝えられない。
無作法してしまった。
オカちゃん、パチュン、カポ、知合いの顔がたくさん見える。
「また、お世話になります」心でつぶやく。
目礼して、その場をあとにした。
※火葬儀礼@テガランタン村