ウブドで暮らし、日々、しあわせを感じている。
「しあわせって何だっけ」明石家さんまが唄ってたな。
ほんと、しあわせって何だろう。
私は、吹き抜ける風を頬に受けるだけで、しあわせだと感じる時がある。
豊富な緑、草花、雨、太陽、月、星などなど、自然の恵にしあわせを感じる。
感動で涙したこともたびたびある。
スマララティのリーダー・アノム氏の踊るバリス・トゥンガル、スアールアグンの奏でるジェゴグ・ムバルン、ペノロカンの外輪山から望むバトゥールの山と湖の風景など。
心を打たれることも、しあわせの一種だろう。
私の「しあわせ」の解釈は、本来の意味とは違うのかもしれない。
地球上の生物は、等しく「しあわせのドーム内」に生きている。
自然の恵の中に生きていることじたいが、しあわせなのだ。
人生は、しあわせに包まれている。
人に赤い血が流れているように、しあわせは人類が持つ平等の資格だ。
しあわせの大きさは計り知れなく、それぞれの心の中に目盛がある。
到達点もない。
どう受け止めるかは、個人の気持ちしだい。
しあわせは、個人個人の心の満足感。
満たされているか、満たされていないか。
しあわせを多く感じる人、しあわせが薄いと感じる人。
感謝する心が、しあわせかもしれない。
しあわせも、むこうからやってくるものではなく、自分から求めて、こちらが感じ取るものだろう。
私は、これまで、不幸だと思ったことがない。
何が不幸なのか、わかってないもかもしれません。
弱虫だから、無意識に眼をそむけているだけかもしれない。
楽しく生きることが、しあわせなんだと信じている。
そんな環境に生まれたことに、感謝している。
私は不幸と言う言葉を使わない。
人から受けた行為に「傷つく」「不快」になったことはあるが、不幸だと思ったことはない。
辛いことも、悲しかったことも、今思えば、楽しい思い出。
振り返れば、しあわせを感じた時期だったということはある。
不幸な人を想像してみた。
しかし、それは当人がどう思っているかを計り知ることはできない。
他人が想像から判断することは、失礼なことだ。
私の知るバリ人の半数以上が、貧乏自慢をする。
だからといって、不幸だとは言わない。
これは信仰心からくる考え方なのだろうか?
「自分のしあわせは他人の不幸の上に成り立っているのでは? お気づきになりませんか?」
以前、ブログに、こんなコメントがあった。
私が書いた「自分のしあわせは、他人にしあわせの上に成り立っているのだ」に対しての反論だった。
気づかなかった。
これは私の不徳の致すところ。
私がしあわせを感じると、誰かを不幸にしているということか?
私が不幸になれば、しあわせを感じる人が増えるのだろうか?
不幸は、しあわせの対義語ではない。
しあわせと不幸が、シーソーになっているとは思えない。
友達に意見を聞いてみたが「自分のしあわせは他人の不幸の上に成り立っているのでは? 」の具体的な回答は得られなかった。
こんな考えの人もいた。
「しあわせしあわせってあまり言わない方が良いよ、もう少し謙虚な気持ちになりなさい!」
しあわせを連発することは、謙虚じゃないのか。
そういう発想自体が、わたしには理解できない。
よくわからないが、人それぞれ考え方があるということですよね。
ある小説に「人間は誰でも自分の知らないところで恨みを買っているものです・・・。」一節があった。
自分では気がつかないところで、他人に不幸を感じさせたり、恨まれたりしているものなのか。
人の気持ちはわからないもの。
肝に銘じます。
幸い、私と同じ思いの人がいたことに救われた。
「クドイ」と叱られそうですが、私は「ウブドに居てしあわせを感じている」と言うことを伝えたかっただけです。
こうやって能天気に生きているのが私です。