2020年01月22日

懺悔の回顧録・人畜無害(339)

今年に入って睡眠不足が続いている。

先妻との生活を断片的に思い出しては、その前後を構築しようとモガク夜。

まったく記憶が蘇ってこないことが多い。

薄情なものだ。

どうしても、話が私中心になってしまって申し訳ない。


彼女と知り合うちょっと前、会社勤めをしながら民家を改装した雑貨屋をオープンした。

郡道と呼ばれていたる街道にある、二階建ての一軒家。

愛知郡だったころの昭和時代の家並みや面影が残る道。

ネットで調べる前は、軍道だと思い込んでいた。

近く軍事工場があったという噂からの連想だった。

高度成長を成し遂げたばかりの活気の中で「大阪万博」が開催された1970年(3月15日から9月13日までの183日間)のこと。

1年間の海外放浪で持ち帰った物を、現金化したいと思いついて始めた。

大型ゴミを回収しアートとしてリサイクルした商品と、針金を曲げて作ったアクセサリー。

アメリカン衣料で購入したジーパンも売ったな。

屋号を「人畜無害」とした。

世間様に迷惑をかけないという、意気込みだ。

同じ頃、東京では「文化屋雑貨店」が開店している。

似たアイデアを持つ人間がいるものだと、その時に感じた。

名古屋駅前にある名鉄メルサがヤング館(現在のセブン館)をオープンしたのが、1972年。

オープンイベントで、針金細工で出店させてもらった。

手作りコーナーは人気で、たくさんの人が押しかけた。

商品が追いつかなかいほどだ。

閉店後、家に帰っては作った。

それでも追いつかないので、店頭でも作った。

懐かしい思い出だ。

名古屋でフリーマーケットが盛んに催されるようになったのも、この頃からだ。

もちろん「人畜無害」は、フリーマーケットの常連だ。


こうやって紐解いていかないと、彼女のことも思い出すことができない。

彼女は勤めを辞めて「人畜無害」を手伝ってくれることになった。

「こんな店がやりたかった!」と言ってくれた。

手先が器用で、アクセサリー小物を作り始めた。

人当たりが良く、お客とはすぐに打ち解け、常連客が増えた。

生き生きとして店番をしていた。

私は、仕事の途中で「人畜無害」に立ち寄った。

一悶着あった下請け業社の社長から「入り浸っている」と我が社の社長に密告があり、私は会社を辞めた。

フリーの店舗デザイナーになった。


これを機会に、私たちは結婚した。

19歳で結婚したいというのが彼女の夢。

私に依存はない。

現実には、20歳になっていたと思う。

貧乏な私に、結婚式ができる予算はない。

母親が「お金がないのなら、家で両家の顔見せだけでもいいのでは」と言ってくれた。

顔合わせは、私が暮らす市営住宅の一室で行われた。

彼女の家族は、両親と兄たちがが、遠路から訪れてくれた。

近くに住む兄は、私たちの結婚を最後まで望んでいなかったそうだ。

皆んなに可愛がられていた末っ子の娘だということが、伝わってくる。

母親が切り盛りした、質素だが心の暖まる「顔見せ」は、滞りなく終わった。


「人畜無害」は業績があがらず、店を任せて欲しいという知人に経営を託した。

知人に任せた「人畜無害」とは別に、友人の珈琲店の2階に「人畜無害」を開店した。

こちらも、暇だった。

旧「人畜無害」は、「元祖・人畜無害」と名打っていた。

彼女は時間を持て余し、仕事を探した。

身長167センチの彼女ならファッションモデルに最適と、友人のモデル事務所に紹介した。

名古屋でファッションショーの仕事はないのか、お呼びはかからなかった。

チラシや新聞広告のモデルには長身すぎたのか、こちらの仕事も少なかった。

スナックに勤めたこともある。

あまり酔客の接待には向いていなかったようだ。

思い出しながら、私は何度も懺悔している。


続く・

posted by ito-san at 23:13| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする