2020年07月24日

バリの風物詩・凧あげ(Layang-layang terbang)(358)

会う人会う人が、暗い話ばかりする。

それは、新型コロナウイルスに対する憶測。

それも、本人に都合のよい推測でしかない。

できることなら、明るいニュースが聞きたい。

不況を吹き飛ばす、前向きな情報はないのか。


吹き飛ばすと言えば、凧ですよね。

かなり無理のある、こじつけですが。

この季節、バリは凧揚げのシーズンです。

毎年7月、8月、9月は、オーストラリア方面から吹く風が凧揚げに最適で、青空に凧が飛び交う。

バリの風物詩ともいえる。

サヌール海岸の「大凧大会」は、海外からの参加もあり有名ですが、ほかの地域でも開催されている。

大凧は、トラックの荷台からはみ出すほどの大きさ。

トラックの前後には、応援隊のバイクがガードしていて、他の車両を寄せ付けない。

そんなことで、この時期は、凧渋滞となる。

今年は、コロナの影響で中止になったようだ。

しかし、こんなことでバリ人はメゲません。

青空に浮かぶ凧は、いつもの年より多い。


プリアタンにある「凧資材屋」が大繁盛。

竹、ラタン、生地、テグスetcなどが売られている。

通りのあちらこちらにも、にわか「凧屋」がオープン。

これって自粛景気?

凧Rp10万etc、骨組みRp3,5etc。

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我が下宿の家族も、凧揚げが大好きだ。

コマン君が幾つも作っている。

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揚げているところを撮影させてもらった。

遠くを見て、風を読んでいる。

大きな樹の先の揺れを見ている。

30分以上も待つこともある。

糸を引くタイミングも難しそうだ。

毎回、風に乗り切るまで、ハラハラして見ている。

上げ終わり凧が安定すると、テグスをどこかにくくりつけ、その場を後にする。

いったい何も楽しんでいるのだろう。

パチュン君に聞いてみた。

「上がった凧を見るのが楽しんですよ」と言う。

凧揚げは、大人の遊びのようです。



凧を風にのせるタイミングの緊張感を共有してください。


星の瞬きが多い夜だ。

他の惑星に来たような、錯覚をする。

こんな美しい星空を見るのは、初めてだ。

自粛で、空気が綺麗になったのか。

それとも、私が覚醒してしまっているのか。

バイクを止め、目を凝らして夜空を見上げる。

瞬きが、微かに揺れている。

さらに目を凝らして見ると、ドローンのように浮遊する光がある。

ここで、気がついた。

これは凧だ!

凧に、点滅電球がついているのだ。

今年のブームは、電飾凧か。

バリ人の遊び心に、感心するやらウットリするやら。


こんな凧にも、バリの風物詩だと悠長なことを言ってられない事故がある。

失速して落下した凧は、見つけられない場合は放置される。

樹木や電線に引っ引っ掛かって、ゴミと化した凧。

問題は、透明なテグス糸だ。

電線や枝に掛かったテグスは、バイクや歩行者を危険にさらす。

規制が必要になるかもしれない。


私が下働している「アパ?情報センター」では、来年の今頃、コロナが終息していることを願って新企画を立てたようです。

《 親子で凧揚げ!・ツアー 》

期間は、2021年7月、8月、9月。

無風、雨の日は、中止です。

鬼が笑う来年のことですが、予約受付中。


posted by ito-san at 16:11| Comment(5) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月19日

「東インド諸島への航海」追記(357)

興味深い記載が2箇所あったので、追記します。


《 流刑の地だったヌサ・ペニダ 》

バリ島上陸:1596年1月28〜2月21日


*現在、リゾート地として人気の「ヌサ・ペニダ」が、かつて流刑の地だったという、現実がある。


10ないし12年前のこと、王の近親の1人が多数の兵士を集めて大がかりな陰謀を企てた。

宮殿を襲って王を殺し、みずからその座につこうとしたのであるが、露顕して、ことごとく捕らえられて死刑を宣告された。

しかし、王はこの者たちを不憫に思い、その宣告を改めて流罪に処することとし、バリの南東にあるプロー・ロサ(5)すなわち荒島と称する荒涼とした未開拓の島に追放したのであった。

 (5)マライ語でプラウ・ロサ。「鹿の島」の意。バリの東南にあるプニダ島をさす。なおプニダpenidaもバリ語で鹿を意味する。

かれらは今なおこの島に住んでいて、そのバリの王に服しているのだが、バリ島に帰ることは許されない。

かれらには大勢の部下や奴隷がいたから、今日、この島は非常に良く開墾され、人口もいちじるしく増えている。

家畜の繁殖もおびただしい。

島民はバリの住民と同じく異教徒である。

(*ここで言う異教徒とは、バリのヒンドゥー教のことだ)


《 ジャワ・芸能 》

「第32章 ジャヴァの農民、小作人および奴隷について」


中部ジャワの王都スラカルタSurakartaでの光景

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かれらは銅鑼をならす。

またかれらは当時〔ホラント〕で塔の上で〔鐘を鳴らす時に〕使うような調子で音楽を奏でる。

(*:バリでは、クルクルと呼ばれる伝達手段の道具で、木洞や竹筒で作られている)

それらの銅鑼は銅で鋳造されているから、とても響きがよい。

これは人々を国王の名のもとに呼び集めようとする際にもかれらは人々にわれわれと売買をさせるのにそのようにした。

もっとも、われわれはそのことほとんど気づかなかったのだが」(第34図)

かれらは男も女も、鋼鉄の板の上にのせた数本の葦〔竹〕がならす音に合わせて踊る。

それはオルガンもしくはクラヴサンに似ている。

かれらはまた節をつけてうたいながら、腕と脚をのばし、巣から這いだして来た犬のように全身をくねらせる」(第35図)

(*ジャワのヒンドゥー教徒の芸能は、バリ芸能のルーツと考えられる。
この舞踊の影響を受けている舞踊を知らない)

*人々や服装が西洋風になっているのは、実写ではないからだろうか。

舞踊も聞き描きかもしれない。


posted by ito-san at 15:06| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月15日

「東インド諸島への航海」著者:ハウスマン(356)

1959年の航海記を読んでいる。

ホラントの船隊が遭遇したもろもろの冒険の物語とともに、同船隊が渡航した地の民族の特質、宗教、風俗、経済およびそれらの諸民族のもとで見出される貨幣、香料、薬種、商品ならびにその価格に関する詳細な記録等々をおさめたインディエの物語。

バリに関係のある「第42章 なぜ、船隊はバリ島に来たか、そして、そこでどんなことが起こったか」

「第43章 バリ島の記述」から、興味ある記事を抜粋しました。


バリ島上陸は、1596年1月28〜2月21日。

クタ海岸に立ち寄ったのち、バドゥン半島を迂回してパダンバイ海岸に立ち寄ったようだ。

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14世紀末、バリはゲルゲル朝の始まり。

1515年、ジャワのマジャパイト朝瓦解。これ以降、バリ独特のヒンドゥー文化が醸成されていく。

16世紀半ば、ゲルゲル朝の最盛期。バリ宗教文化の原型が作られた時代と考えられる。

ハウトマンの一行がバリを訪れた頃には、東海岸のゲルゲルに王がいて、バリ全体を支配していた時代。

本書に、奴隷や奴隷の売買があったことが記せられているのに驚かされた。


《 バリの貴族の輿》

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バリ島の貴族たちは宮廷に赴いたり、国内を旅行する際には屋根のついた担ぎ椅子すなわち輿に乗って、それを奴隷の肩にかつがせる。

それはバンブーという太い葦〔竹〕でできている。

貴族たちはそれに乗って非常に早く道を進んで行く。

こうした担ぎ手は数多くいて、たえず交代している。

護衛兵や鉾槍兵がその前後を多くの槍や吹矢筒や盾を持って騎馬や徒歩で進む。

婦人たちはベテレの小箱や水壺を持って、そのあとに従う。

写真説明:輿に乗って4人の奴隷に担がせ、その前を約20名の従者がそれぞれ紅白の長い綿の房飾りをつけた長い槍を持って歩いて行く。


《 バリ王が乗る牛車の図 》

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王は、次の図〔第59図〕に見られるような車に乗ってその岸辺に来た。

美しく彫刻した車を、きれいな布を掛けた2頭の白い水牛に引かせ、穂先を金めっきした長い槍と吹矢筒を持った護衛兵に先導されて来たのである。

王の要望により、ホランディア号も数発の礼砲をもってこれに答えた。

翌日、王はさらに4樽の水を船に送って来た。

△ネーデルランド(オランダ)人が描くと、バリ人も欧米人風になっちゃうんだ。


《 寡婦殉死の掟 》

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バリでは、夫が死ぬとその遺体と一緒に多くの妻が白檀に多量の油をそそいで焼かれる、という無残な慣習がおこなわれている。

夫とともの焼かれる女は夫への愛をつらぬく貞節な妻であり、夫についてあの世に行き、そこで生活を共にするのだという。

この慣習はインディエでもおこなわれているが、最初これを定めたのは、ある王であった。

女たちが夫に厭きて他の男を愛するとか、些細な理由から、さまざまな手口で夫を毒殺したためである。

すなわち、かかる女たちによって国の要人の命が失われていくのを見て、その王が、これを激しく取り締まるためにこの法(ウエット)を定めたものである(6)。

われわれのバリ滞在中、ある大官が死亡して、その遺体とともに50人もの女たちが生きながら焼かれるという話だったが、それはまことに恐るべて光景に違いなく、われわれの誰ひとり見に行こうという者はなかった。

  (6)これはヒンドゥー教の定める寡婦殉死の掟である。
バリ島の文化はヒンドゥー=ジャヴァ文化を基盤として独自の発展をとげたもので、この殉死の風習もヒンドゥー文化の一要素として行われていたらしい。
なお殉死の起源に関する説明は『東方案内記』351ー352頁に基づいている。

△高い塔(遺体をバデに担ぎ上げる時に用いる階段のような)から身を投げる図を見て知っていたが、直接、火に飛び込んでいたとは。
オランダ統治時代に、この慣習は禁止された。

バリに関する日本語訳された文献は少ないので、この航海記は興味深く読めた。


posted by ito-san at 13:13| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月10日

バリ人の信仰するヒンドゥー教の二元論について考える(355)

今回は、バリについて考えてみた。

大層なタイトルをつけましたが、たいした話にはなりませんでした。


バリ関係の本を読むと、次のように説明されることが多い。

「バリのヒンドゥー教は、すべての物事は善と悪、生と死といった形で必ず相反する事象で成り立っているされている。それらのバランスが維持され共存する世界といえる」

この考え方を「二元論」というそうだ。

ウキペディアで検索すると、

「二元論(にげんろん、dualism)とは、世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する2つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など」

とあるが、チンプンカンプンだ。

ひとつの価値は、対極にある価値に引き立てあって意味が生まれる。

ひとつだけでは何も産まれない、と言うことのようだが、私の頭脳は明確には理解してくれない。

例えば、天と地、善と悪、陽と陰、聖と俗、生と死、明と暗、夜と昼、浄と不浄、表と裏、白と黒、男と女、などなど。

ウキペディアには「二元論的な考え方は、それが語られる地域や時代に応じて多岐に渡っている」と付け加えられている。


では、バリの二元論はどうなんだろうか?

バリでは、善と悪については重きを置いていない節を感じる。

私と同じで、性善説かもしれない。

芸能の一つであるチャロナラン歌舞劇聖獣バロン悪霊ランダの物語は、善と悪の戦いと伝えられているが、ランダが極悪としては、扱われてはいない。

歴史上にも、悪が善になったり、善が悪になったこともある。

善悪の判断も難しい。

『西遊記』に登場する三蔵法師(玄奘三蔵)は、「この地には善悪なし」と云っている。


バリ人の宗教観は、天と地、山側(カジョ)と海側(クロッド)、聖と穢れ、に代表される。

神々の島バリは、精霊信仰だ。

天上界と地下界に、神がいる。

山側と海側にも、神々は棲む。

山岳信仰では山の天霊が住み、海洋信仰には海に天霊がある。

海は、御神体(ススオナン)を浄化し、祖先霊を流すところ。

天と地の間には、精霊に守られ共に暮らす空間、人々の営みがある。

天と地の大宇宙(マクロコスモス)に対して、人の体は小宇宙(ミクロコスモス)と捉える。

人間の頭は聖なる天界に、足元は穢れの地界に通じる。

聖職者高僧は、高い位置で儀礼を執り行い、儀礼で運ばれる聖水やグボガン(供物)は、必ず、頭上で戴く。

御神体やバロンやランダ(バロンとランダも御神体)が、目前を通過する際には、村人は道端に引き下がりうずくまる。

王制時代の過去には、王様にも敬意を表して、腰を低くした。

寝室の寝具は、山側に頭がくるように質られられる。

帽子やヘルメットなど頭にかぶる物は、決して地面や床には置かない。

決して足先を山側には向けないなどのルールがある。

右手は聖で、左手は穢れと考えられていて、幼少の頃から躾けられる。

儀礼などで聖水を頂く時には、左掌の上に重ねた右掌でいただく。

米粒は、右手で取って、額に押し付ける。

子供が可愛いからといって、頭に触れること、特に左手で触ることはタブーだ。

このタブーも、外国人ツーリストに対しては許している。

ツーリストの冒涜行為に対しては、見えない物として扱っているようだ。

見えない者として扱われるのだけは、避けたいですね。

近年、ツーリストの入場を断っている寺院祭礼も増えた。

本心では、文化、宗教、慣習を理解して欲しいと思っているはず。


各屋敷では、山側に家寺を持ち、海側には台所と決まっている。

これも屋敷を小宇宙と捉える、バリのヒンドゥー教独自の考え方だ。

屋敷寺と台所の間に、各種儀礼を行う四阿「バレ・ダギン」が建ち、四阿を中心として家族の生活がある。

現在は、海側に水浴び場、トイレ、洗濯場を設けるため、不浄なところと捉えがちだが、本来は精霊のすむかまどがある。

精霊は、日本で言うところの幽霊やオバケではない。

時としてイタズラをする悪霊がいるが、邪悪なものではない。

現れた時には「何か用ですか?」「何か問題がありますか?」と問えばいい。

不可思議な事件が起こった時、バリ人は呪術師(バリアン)に救いを求める。

たいていの答えは、どこそこの供物が足らないと注意を促している。

地面に供物を置き、礼拝するのは、地の霊を鎮めるためのもの。

バリの二元論は、天と地、山側と海側の対極するものではなく、中間には人々の生活があることに気づく。

もうこれは二元論ではない。

対極にある、背反する2つのものと考えていいだろうか。

2つの背反するものは、一本線の両極にある。

ここで少しの疑問が湧いた。

両極の二項対立ではあるが、間には線が存在するのではないか。

白と黒に間には、黒に近い白もあれば白に近い黒もあり、灰色のグラデーションだ。

男と女の間には、男性と女性に色分けできない性質の人もいる。

これについては、両極に分ける必要がない。

夜と昼は、サークルで繋がっているのでないだろうか。

夜、夜明け、昼、黄昏時、やがて夜に戻る。

私が悩んでいるのは、二元論とは関係のないことかもしれない。

難しく考えず、あるがままのバリの宗教観を受け入れよう。


posted by ito-san at 17:17| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月08日

「和食・影武者」の営業時間は夜8時まで!(354)

「自由筆記帳」の連載が終了した。

1997年から2006年までのおよそ10年の旅人のメモだが、当時の心境が手に取るように理解できる。

このあとウブドを訪れた旅人の感想も、現在に至るまで大筋で変わってはいないと思う。

さてさて、今回は何を書こうか?

つらい辛い「新型コロナウイルス」との対応を、思考の片隅に追いやって。


7月1日から「和食・影武者」に、出勤したことを報告しよう。

いやいや、正式には出勤じゃないですよね。

ただ飯を食わせてもらっているだけですから。

ただ飯だからと言って侮れませんよ。

女将の心尽くしの裏メニューですからね。

「和食・影武者」の営業時間が、午前11時から午後8時までと自粛している。

コロナ以前は、午後11時まで。

その頃は、マンディを終え、夜9時に下宿を出て影武者に行っていた。

1日からは、家を夜7時に出発している。

営業時間の短縮で、ルーチンの変更が余儀なくされた。

現在私は、インターネット、読書三昧、適度な運動、水彩画を習得中の1日を送っている。

家飯のルーチンは、昼食午後1時頃、夕食7時頃だったので問題はない。

今月に入って家飯の夕食は、キャンセルした。

2ヶ月の間、昼夜と食べたバリ家庭料理は美味しく食べられた。

代わり映えしない具のナシチャンプールだったが、飽きることはなかった。

もちろん、スプーンもホークも箸も使わない、右手指先の手づかみで食べる。

問題は、マンディ・タイム(風呂)だ。

7時前では早過ぎる、帰宅してからでは遅過ぎる。

大家さんは早寝なので、10時過ぎてからのマンディは気がひける。

私的には早いが、7時前にマンディをすますことにした。

2ヶ月間の禁欲(食欲)生活を耐え忍び、晴れて「影武者」出勤。

適切な言葉が浮かばないので、出勤を使わせてもらう。

店内は、ディスタンスを確保し、感染予防と拡散防止に努めていた。

盛況時を知っている者には賑やかさが物足りないが、ゆったりとした雰囲気が影武者には似合っていると感じた。

1日からの一週間の食事は、掲載しましす。

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食事が終わっても、まだ8時。

以前は、9時半頃食事を終えた後は、友人知人と雑談する時間だった。

女将を交えて、話に盛り上がると、12時を過ぎることもあった。

この時間が私は好きだった。

自粛中は遅くとも9時半までには、店を後にすることを心掛けている。

帰宅は10時前。

以前のルーチンには、いつ戻れるのだろうか。

詮無いことを考えている。


2ヶ月の自粛の間、女将は再開店後の対策を練り、値打ちな弁当を販売するようになっていた。

弁当は15種類。

試食させてもらった「照り焼き弁当」は、感動するほとのご馳走だった。

2ヶ月間外食を控えたから感じた美味しさ、以上のものだった。

これがRp50,000-とは、破格の値段だ。

たくさんの注文がもらえるといいねと、応援した。




posted by ito-san at 12:11| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする