2014年01月20日

アンギン(アグン・ライ)の帰郷(71)

「イト〜サン!」

庭からイブの声が聞こえる。

私はテラスに出た。

コザッパリした若い男性が、イブのそばに立っていた。

男は、私に小さく微笑んだ。

私の見知らぬ男だった。

誰かから使いの者だろうか?

戸惑う私にむかって「アグン・ライだよ」とイブが紹介した。

どこのアグン・ライだ?

私には、まだ誰だか理解できなかった。

知り合いのアグン・ライの顔をいくつか思い浮かべたが、繋がらない。

記憶がよみがえる予感がした。

あぶりだしのように、目の前の男性の面影が鮮明になってきた。

それは一瞬だった。

繋がった。

「おぅ! アグン・ライか!」

私は大きな声を出していた。

アグン・ライは、私の記憶よりひとまわりふくよかになっていた。

荒波が寄せるように記憶は激しくよみがえり、私は興奮が押さえきれなくなっていた。

私はアグン・ライをテラスに迎え入れ、ハグをした。

agung-rai1.jpg

23年ぶりに再会だ。

アグン・ライはオカちゃんのすぐ下の弟。

私は、オカちゃんに世話になる以前にアグン・ライと知り合っていた。

アグン・ライは、ウブドのセンゴールでワルンを経営していた。

「デワ・ワルン」の前身だ。

当時、鶏ガラのように痩せていたアグン・ライは、しばしばフラフラと姿を消すところからアンギン(風)と呼ばれていた。

1年ほどの付き合いしかなかったが、私の「ウブド沈没」に一役買っていたのは間違いない。

ウブド滞在が始まったばかりで不安がいっぱいの時期に、数少ない友人のひとりとしてアグン・ライの存在は大きかった。

英語は得意だが、日本語のまったく話せないアグン・ライだが、それでも密度のある人間関係だった。

1991年に、日本人女性と結婚して日本に渡った。

養鶏場で働いているとオカちゃんから聞いて、闘鶏の好きだったアグン・ライらしいと思ったものだ。

その後、テガランタン村に3回ほど帰郷しているが、私は会えずじまいだった。


日本語の話せるアグン・ライとの会話はスムーズに進んだ。

愛媛訛りも耳に心地よい。

結婚当初の日本生活は、苦労しただろうと想像できる。

今になれば、それも良い思い出だろう。

理解のある両親でよかった。

そして、勤め先の先輩・同僚にも恵まれ、仕事に打ち込めたのもよかった。

もちろん奥さんの理解も大きかったはず。

1女、2男を授かっている。

日本での生活を嬉々として語る。

「一生懸命働きましたよ」アグン・ライは力強く言う。

バリ生活を「若気の至り」と悔いているようだが、若干19歳の若者なら普通のことだ。

「伊藤さんがウブドに来た時に、私がもっと協力できればよかったのに。何もできなくてゴメンナサイ」。

23年間、心に仕舞っていた言葉だろう。

こんな気を使ってくれるバリ人の友人が居ることが嬉しかった。

たぶん私は、知り合うバリ人の本質を見抜いて、付き合っているのだろう。

長い間のブランクがあるとは思えないほど、意志が通じ合えるのには驚いた。

agung-rai2.jpg

ヤンデェの使いがアグン・ライを呼びに来た。

これからどこかへ出掛けるようだ。

久しぶりに会う友人たちが、アグン・ライを離さない。

1時間ほど、昔話に花を咲かせてアグン・ライは風のように消えていった。

生家テガランタン村の生活19年より、日本滞在のほうがが長くなっている。

靴を履き付けているのだろう、足の指はくっついていた。

逆に私は、サンダル生活で足の指は離れている。

アグン・ライは、思考も嗜好も日本人になっていた。

1週間ほどの滞在で日本に帰って行く。

日本に永住することになるだろう。

幸せな家庭生活を築いて欲しい。


私は今、家族の居る日本でなく、心優しい友人の居るウブドでもない、行ったことのない異国に心を動かされている。

アグン・ライの後ろ姿を見て、私の心に動揺が起きた。

自分にとってウブド滞在が、もっとも安穏な生活を送れる空間であることは認めている。

しかし、今の私は安穏を求めていない。

5月9日の日本一時帰国で、私の気持ちにどう変化が起こるか楽しみでもある。
posted by ito-san at 17:10| Comment(0) | TrackBack(0) | テガランタン村滞在記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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