2016年04月27日

しあわせって何だっけ(52)

ウブドで暮らし、日々、しあわせを感じている。

「しあわせって何だっけ」明石家さんまが唄ってたな。

ほんと、しあわせって何だろう。

私は、吹き抜ける風を頬に受けるだけで、しあわせだと感じる時がある。

豊富な緑、草花、雨、太陽、月、星などなど、自然の恵にしあわせを感じる。

感動で涙したこともたびたびある。

スマララティのリーダー・アノム氏の踊るバリス・トゥンガル、スアールアグンの奏でるジェゴグ・ムバルン、ペノロカンの外輪山から望むバトゥールの山と湖の風景など。

心を打たれることも、しあわせの一種だろう。


私の「しあわせ」の解釈は、本来の意味とは違うのかもしれない。

地球上の生物は、等しく「しあわせのドーム内」に生きている。

自然の恵の中に生きていることじたいが、しあわせなのだ。

人生は、しあわせに包まれている。

人に赤い血が流れているように、しあわせは人類が持つ平等の資格だ。

しあわせの大きさは計り知れなく、それぞれの心の中に目盛がある。

到達点もない。

どう受け止めるかは、個人の気持ちしだい。

しあわせは、個人個人の心の満足感。

満たされているか、満たされていないか。

しあわせを多く感じる人、しあわせが薄いと感じる人。

感謝する心が、しあわせかもしれない。

しあわせも、むこうからやってくるものではなく、自分から求めて、こちらが感じ取るものだろう。


私は、これまで、不幸だと思ったことがない。

何が不幸なのか、わかってないもかもしれません。

弱虫だから、無意識に眼をそむけているだけかもしれない。

楽しく生きることが、しあわせなんだと信じている。

そんな環境に生まれたことに、感謝している。

私は不幸と言う言葉を使わない。

人から受けた行為に「傷つく」「不快」になったことはあるが、不幸だと思ったことはない。

辛いことも、悲しかったことも、今思えば、楽しい思い出。

振り返れば、しあわせを感じた時期だったということはある。

不幸な人を想像してみた。

しかし、それは当人がどう思っているかを計り知ることはできない。

他人が想像から判断することは、失礼なことだ。

私の知るバリ人の半数以上が、貧乏自慢をする。

だからといって、不幸だとは言わない。

これは信仰心からくる考え方なのだろうか?


「自分のしあわせは他人の不幸の上に成り立っているのでは? お気づきになりませんか?」

以前、ブログに、こんなコメントがあった。

私が書いた「自分のしあわせは、他人にしあわせの上に成り立っているのだ」に対しての反論だった。

気づかなかった。

これは私の不徳の致すところ。

私がしあわせを感じると、誰かを不幸にしているということか?

私が不幸になれば、しあわせを感じる人が増えるのだろうか?

不幸は、しあわせの対義語ではない。

しあわせと不幸が、シーソーになっているとは思えない。

友達に意見を聞いてみたが「自分のしあわせは他人の不幸の上に成り立っているのでは? 」の具体的な回答は得られなかった。

こんな考えの人もいた。

「しあわせしあわせってあまり言わない方が良いよ、もう少し謙虚な気持ちになりなさい!」

しあわせを連発することは、謙虚じゃないのか。

そういう発想自体が、わたしには理解できない。

よくわからないが、人それぞれ考え方があるということですよね。

ある小説に「人間は誰でも自分の知らないところで恨みを買っているものです・・・。」一節があった。

自分では気がつかないところで、他人に不幸を感じさせたり、恨まれたりしているものなのか。

人の気持ちはわからないもの。

肝に銘じます。

幸い、私と同じ思いの人がいたことに救われた。

「クドイ」と叱られそうですが、私は「ウブドに居てしあわせを感じている」と言うことを伝えたかっただけです。

こうやって能天気に生きているのが私です。

posted by ito-san at 19:12| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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