2020年07月10日

バリ人の信仰するヒンドゥー教の二元論について考える(355)

今回は、バリについて考えてみた。

大層なタイトルをつけましたが、たいした話にはなりませんでした。


バリ関係の本を読むと、次のように説明されることが多い。

「バリのヒンドゥー教は、すべての物事は善と悪、生と死といった形で必ず相反する事象で成り立っているされている。それらのバランスが維持され共存する世界といえる」

この考え方を「二元論」というそうだ。

ウキペディアで検索すると、

「二元論(にげんろん、dualism)とは、世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する2つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など」

とあるが、チンプンカンプンだ。

ひとつの価値は、対極にある価値に引き立てあって意味が生まれる。

ひとつだけでは何も産まれない、と言うことのようだが、私の頭脳は明確には理解してくれない。

例えば、天と地、善と悪、陽と陰、聖と俗、生と死、明と暗、夜と昼、浄と不浄、表と裏、白と黒、男と女、などなど。

ウキペディアには「二元論的な考え方は、それが語られる地域や時代に応じて多岐に渡っている」と付け加えられている。


では、バリの二元論はどうなんだろうか?

バリでは、善と悪については重きを置いていない節を感じる。

私と同じで、性善説かもしれない。

芸能の一つであるチャロナラン歌舞劇聖獣バロン悪霊ランダの物語は、善と悪の戦いと伝えられているが、ランダが極悪としては、扱われてはいない。

歴史上にも、悪が善になったり、善が悪になったこともある。

善悪の判断も難しい。

『西遊記』に登場する三蔵法師(玄奘三蔵)は、「この地には善悪なし」と云っている。


バリ人の宗教観は、天と地、山側(カジョ)と海側(クロッド)、聖と穢れ、に代表される。

神々の島バリは、精霊信仰だ。

天上界と地下界に、神がいる。

山側と海側にも、神々は棲む。

山岳信仰では山の天霊が住み、海洋信仰には海に天霊がある。

海は、御神体(ススオナン)を浄化し、祖先霊を流すところ。

天と地の間には、精霊に守られ共に暮らす空間、人々の営みがある。

天と地の大宇宙(マクロコスモス)に対して、人の体は小宇宙(ミクロコスモス)と捉える。

人間の頭は聖なる天界に、足元は穢れの地界に通じる。

聖職者高僧は、高い位置で儀礼を執り行い、儀礼で運ばれる聖水やグボガン(供物)は、必ず、頭上で戴く。

御神体やバロンやランダ(バロンとランダも御神体)が、目前を通過する際には、村人は道端に引き下がりうずくまる。

王制時代の過去には、王様にも敬意を表して、腰を低くした。

寝室の寝具は、山側に頭がくるように質られられる。

帽子やヘルメットなど頭にかぶる物は、決して地面や床には置かない。

決して足先を山側には向けないなどのルールがある。

右手は聖で、左手は穢れと考えられていて、幼少の頃から躾けられる。

儀礼などで聖水を頂く時には、左掌の上に重ねた右掌でいただく。

米粒は、右手で取って、額に押し付ける。

子供が可愛いからといって、頭に触れること、特に左手で触ることはタブーだ。

このタブーも、外国人ツーリストに対しては許している。

ツーリストの冒涜行為に対しては、見えない物として扱っているようだ。

見えない者として扱われるのだけは、避けたいですね。

近年、ツーリストの入場を断っている寺院祭礼も増えた。

本心では、文化、宗教、慣習を理解して欲しいと思っているはず。


各屋敷では、山側に家寺を持ち、海側には台所と決まっている。

これも屋敷を小宇宙と捉える、バリのヒンドゥー教独自の考え方だ。

屋敷寺と台所の間に、各種儀礼を行う四阿「バレ・ダギン」が建ち、四阿を中心として家族の生活がある。

現在は、海側に水浴び場、トイレ、洗濯場を設けるため、不浄なところと捉えがちだが、本来は精霊のすむかまどがある。

精霊は、日本で言うところの幽霊やオバケではない。

時としてイタズラをする悪霊がいるが、邪悪なものではない。

現れた時には「何か用ですか?」「何か問題がありますか?」と問えばいい。

不可思議な事件が起こった時、バリ人は呪術師(バリアン)に救いを求める。

たいていの答えは、どこそこの供物が足らないと注意を促している。

地面に供物を置き、礼拝するのは、地の霊を鎮めるためのもの。

バリの二元論は、天と地、山側と海側の対極するものではなく、中間には人々の生活があることに気づく。

もうこれは二元論ではない。

対極にある、背反する2つのものと考えていいだろうか。

2つの背反するものは、一本線の両極にある。

ここで少しの疑問が湧いた。

両極の二項対立ではあるが、間には線が存在するのではないか。

白と黒に間には、黒に近い白もあれば白に近い黒もあり、灰色のグラデーションだ。

男と女の間には、男性と女性に色分けできない性質の人もいる。

これについては、両極に分ける必要がない。

夜と昼は、サークルで繋がっているのでないだろうか。

夜、夜明け、昼、黄昏時、やがて夜に戻る。

私が悩んでいるのは、二元論とは関係のないことかもしれない。

難しく考えず、あるがままのバリの宗教観を受け入れよう。


posted by ito-san at 17:17| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: