2020年07月15日

「東インド諸島への航海」著者:ハウスマン(356)

1959年の航海記を読んでいる。

ホラントの船隊が遭遇したもろもろの冒険の物語とともに、同船隊が渡航した地の民族の特質、宗教、風俗、経済およびそれらの諸民族のもとで見出される貨幣、香料、薬種、商品ならびにその価格に関する詳細な記録等々をおさめたインディエの物語。

バリに関係のある「第42章 なぜ、船隊はバリ島に来たか、そして、そこでどんなことが起こったか」

「第43章 バリ島の記述」から、興味ある記事を抜粋しました。


バリ島上陸は、1596年1月28〜2月21日。

クタ海岸に立ち寄ったのち、バドゥン半島を迂回してパダンバイ海岸に立ち寄ったようだ。

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14世紀末、バリはゲルゲル朝の始まり。

1515年、ジャワのマジャパイト朝瓦解。これ以降、バリ独特のヒンドゥー文化が醸成されていく。

16世紀半ば、ゲルゲル朝の最盛期。バリ宗教文化の原型が作られた時代と考えられる。

ハウトマンの一行がバリを訪れた頃には、東海岸のゲルゲルに王がいて、バリ全体を支配していた時代。

本書に、奴隷や奴隷の売買があったことが記せられているのに驚かされた。


《 バリの貴族の輿》

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バリ島の貴族たちは宮廷に赴いたり、国内を旅行する際には屋根のついた担ぎ椅子すなわち輿に乗って、それを奴隷の肩にかつがせる。

それはバンブーという太い葦〔竹〕でできている。

貴族たちはそれに乗って非常に早く道を進んで行く。

こうした担ぎ手は数多くいて、たえず交代している。

護衛兵や鉾槍兵がその前後を多くの槍や吹矢筒や盾を持って騎馬や徒歩で進む。

婦人たちはベテレの小箱や水壺を持って、そのあとに従う。

写真説明:輿に乗って4人の奴隷に担がせ、その前を約20名の従者がそれぞれ紅白の長い綿の房飾りをつけた長い槍を持って歩いて行く。


《 バリ王が乗る牛車の図 》

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王は、次の図〔第59図〕に見られるような車に乗ってその岸辺に来た。

美しく彫刻した車を、きれいな布を掛けた2頭の白い水牛に引かせ、穂先を金めっきした長い槍と吹矢筒を持った護衛兵に先導されて来たのである。

王の要望により、ホランディア号も数発の礼砲をもってこれに答えた。

翌日、王はさらに4樽の水を船に送って来た。

△ネーデルランド(オランダ)人が描くと、バリ人も欧米人風になっちゃうんだ。


《 寡婦殉死の掟 》

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バリでは、夫が死ぬとその遺体と一緒に多くの妻が白檀に多量の油をそそいで焼かれる、という無残な慣習がおこなわれている。

夫とともの焼かれる女は夫への愛をつらぬく貞節な妻であり、夫についてあの世に行き、そこで生活を共にするのだという。

この慣習はインディエでもおこなわれているが、最初これを定めたのは、ある王であった。

女たちが夫に厭きて他の男を愛するとか、些細な理由から、さまざまな手口で夫を毒殺したためである。

すなわち、かかる女たちによって国の要人の命が失われていくのを見て、その王が、これを激しく取り締まるためにこの法(ウエット)を定めたものである(6)。

われわれのバリ滞在中、ある大官が死亡して、その遺体とともに50人もの女たちが生きながら焼かれるという話だったが、それはまことに恐るべて光景に違いなく、われわれの誰ひとり見に行こうという者はなかった。

  (6)これはヒンドゥー教の定める寡婦殉死の掟である。
バリ島の文化はヒンドゥー=ジャヴァ文化を基盤として独自の発展をとげたもので、この殉死の風習もヒンドゥー文化の一要素として行われていたらしい。
なお殉死の起源に関する説明は『東方案内記』351ー352頁に基づいている。

△高い塔(遺体をバデに担ぎ上げる時に用いる階段のような)から身を投げる図を見て知っていたが、直接、火に飛び込んでいたとは。
オランダ統治時代に、この慣習は禁止された。

バリに関する日本語訳された文献は少ないので、この航海記は興味深く読めた。


posted by ito-san at 13:13| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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