2020年07月19日

「東インド諸島への航海」追記(357)

興味深い記載が2箇所あったので、追記します。


《 流刑の地だったヌサ・ペニダ 》

バリ島上陸:1596年1月28〜2月21日


*現在、リゾート地として人気の「ヌサ・ペニダ」が、かつて流刑の地だったという、現実がある。


10ないし12年前のこと、王の近親の1人が多数の兵士を集めて大がかりな陰謀を企てた。

宮殿を襲って王を殺し、みずからその座につこうとしたのであるが、露顕して、ことごとく捕らえられて死刑を宣告された。

しかし、王はこの者たちを不憫に思い、その宣告を改めて流罪に処することとし、バリの南東にあるプロー・ロサ(5)すなわち荒島と称する荒涼とした未開拓の島に追放したのであった。

 (5)マライ語でプラウ・ロサ。「鹿の島」の意。バリの東南にあるプニダ島をさす。なおプニダpenidaもバリ語で鹿を意味する。

かれらは今なおこの島に住んでいて、そのバリの王に服しているのだが、バリ島に帰ることは許されない。

かれらには大勢の部下や奴隷がいたから、今日、この島は非常に良く開墾され、人口もいちじるしく増えている。

家畜の繁殖もおびただしい。

島民はバリの住民と同じく異教徒である。

(*ここで言う異教徒とは、バリのヒンドゥー教のことだ)


《 ジャワ・芸能 》

「第32章 ジャヴァの農民、小作人および奴隷について」


中部ジャワの王都スラカルタSurakartaでの光景

Houtman4.jpg

Houtman5.jpg

かれらは銅鑼をならす。

またかれらは当時〔ホラント〕で塔の上で〔鐘を鳴らす時に〕使うような調子で音楽を奏でる。

(*:バリでは、クルクルと呼ばれる伝達手段の道具で、木洞や竹筒で作られている)

それらの銅鑼は銅で鋳造されているから、とても響きがよい。

これは人々を国王の名のもとに呼び集めようとする際にもかれらは人々にわれわれと売買をさせるのにそのようにした。

もっとも、われわれはそのことほとんど気づかなかったのだが」(第34図)

かれらは男も女も、鋼鉄の板の上にのせた数本の葦〔竹〕がならす音に合わせて踊る。

それはオルガンもしくはクラヴサンに似ている。

かれらはまた節をつけてうたいながら、腕と脚をのばし、巣から這いだして来た犬のように全身をくねらせる」(第35図)

(*ジャワのヒンドゥー教徒の芸能は、バリ芸能のルーツと考えられる。
この舞踊の影響を受けている舞踊を知らない)

*人々や服装が西洋風になっているのは、実写ではないからだろうか。

舞踊も聞き描きかもしれない。


posted by ito-san at 15:06| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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