2014年05月06日

ウブド滞在24年を振り返る(52)

5月8日を迎えると、ウブド滞在期間25年目になる。

24年間は長いようでいて、「あっ!」と思うほど短くも感じる。

私は、ウブドに長期滞在するようになったのだろう?

理由は、いろいろつけられる。

ひとつには、ウブドの不便さが気に入っている。

田舎暮らしが性に会っていた、と今は思う。

外部情報がまったく入らないのもよかった。

新聞・ラジオ・テレビ・週刊雑誌、日本からの情報はまったく伝わらない。

当初は戸惑ったが、数日で「求めていたのはこれかも」と考えていた。

jupun1.jpg

幾色もの豊富な緑。

見たこともない南国の草花。

食べたこともないフルーツ。

肌に触れるすがすがしい風。

鶏、アヒル、犬、猫が自由に動き回る風景。

鳥の鳴き声。

少し足の伸ばせば、棚田を見ることが出来る。

夕日も美しく、夜空の月も星も美しい。

日本人には、デジャブのような原風景だ。

jupun2.jpg

すれ違うウブド人の人なつっこい笑顔。

どことなく日本人にも似た顔だ。

屈託のない子供たちの、にこやかな顔。

出会う人々の、家庭的とも言えるなごやかさ。

ウブドを歩いていると、顔が自然にほころんでしまう。

香の匂い。

供物を捧げる女性たち。

すべてに対して、美しく、楽しく、感謝している自分がいる。

素朴さに触れ、体験し、感動している。


慌てない、急がない、頑張らないウブド人。

はじめはこれが、怠けていると映るが、そのうち、これでいいのだとに気づく。

いい加減な彼らを、いつのまにか許している。

許容度、寛容度の範囲が広がっていく。

執着やこだわりから徐々に神経が解きほぐされる。

だんだん、素直になっていくようだ。

無になって空気に溶けていくような心地よさに、心が癒されていく。

価値観が崩れていく。

jupun3.jpg

私を引きつけた最大のポイントは、伝統的な芸能、慣習が日常として身近に見られることだろう。

今も続いている文化が身近で、感じられる。

手に触れることが出来そうな、ちょっと前までの慣習が、今も息ずいている。

どこからともなく、ガムランの音色が聞こえる。

舞踊の指導を受けている子供たちの姿。

ガムランを練習している婦人たちの姿。

jupun4.jpg

ウブドの魅力は、宗教、文化、芸能だけでない。

景色でも人物だけでもない。

人間にはお金では買えないものがある。

それは「健康」「自然」「平和」であると言われている。

ウブドにはその3つが備わり、なおかつ、心地よい環境、人と人との触れ合いを通したいたわり、こころのやすらぎといった人が幸せに生きるための条件が揃っている。


5月9日から40日間ほど、25年ぶりに日本一時帰国を果たす。

故郷に、私が幸せに生きるための条件が揃っているだろうか?

その結果によっては、再びウブドで長期滞在に入ることになる。

それとも、勇気を奮い立て、再び「寝床(棲まい)を探す旅」の放浪に出ようか。

posted by ito-san at 16:45| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月02日

実るほど頭の下がる稲穂かな(51)

ウブドの “ジューチン” と言われることがある。

そんなことを言われて喜んでいる私ではない。

ジューチンは「獣珍」か「住沈」かもしれない。

たかが24年間の滞在で重鎮はないだろう。

この頃、素直に喜べない。

頑固オヤジになったということか。

なんの希少価値もない昔話をするだけの長期滞在者。

ほんのちょっぴり、バリに詳しいバリ通だけのこと。

プロの研究家でもない。

先輩面してウブドを語るのも気が引ける。

自分が高邁な態度になっていないか、反省させられる。

ちょっとバリを理解しただけで、優れていると勘違いしてしまうのが怖い。

あたかもすべてを知り尽くしているように、知ったかブリっ子するのも嫌だ。

バリ人の方が詳しいに決まっている。

私は、バリに寄生している生きているだけ。

時に、その知識で収入を得ることもあるが。

24年も滞在すれば、それだけの年輪分は知識を得るのは当たり前。

バリ人の知識には負けるのに、偉そうに知ったか振りすることが恥ずかしい。

sidemen.jpg
2011年@sidemen

嫌なことを思い出した。

思い出すと、いつも背筋に悪寒が走る。

かなり昔のことだ。

バトゥブラン・デンジャラン村のダラム寺院でチャロナラン舞踊劇(calonarang)の奉納があった。

開演前、日本人男性観光客が席を確保しようと舞台を横切った。

それを見ていた村長が、日本人男性のために、建物の階段横のスペースを用意をした。

クライマックスに、魔女ランダが簡易建物の階段から降りてくる場所だ。

鑑賞する側にとって、ここは特等席だ。

calonaran.jpg
トゥブサヨ村のチャロナラン舞踊劇

日本人男性は、一生懸命鑑賞しビデオを回していた。

奉納舞踊が終わった。

日本人男性は、余韻を受け止めているかのように、のんびりとカメラを鞄にしまっている。

丸顔のせいか、いつもニコニコしているように見える。

舞台は村人も引いて閑散となった。

ここまでは何も問題はなかった。


このあとがいけない。

村長が舞台を横切って、日本人男性に近づいて行く。

日本人男性は気がつかなかったのか、荷物を片付けるとそそくさとその場をあとにした。

村長は、舞台の中央でオットットとなっている。

おらが村の自慢の芸能をどう感じたか、評価を聞きたかったのだろうな。

これは、私の眼の前で起こったシーンだ。

この夜は、デンジャラン村出身の高名な男性舞踊家がチャロナランを演じたので、私も鑑賞していた。

私が追っかけをしているトペンの踊り手だ。

「日本料理店・影武者」の女将・由美さんの義父で、今は亡きスウェチャ氏だ。

デンジャラン村では、老女チャロン・アロンを演じた踊り手は魔女ランダも演じることになっている。

日本人男性は、周囲のバリ人に一言のお礼も言わずに帰っていった。

スウェチャ氏が「今の日本人は何者だ?」と私に尋ねてきた。

彼も村長のオットット風景を見ていたのだろう。

「日本でガムランを教えていて、バリ関係の著書も出している人物です」私は答えた。

スウェチャ氏は、少々腑に落ちない顔で「そうか」と一言つぶやくと戻っていった。

randa1.jpg
1990年チャロナラン舞踊劇@ウブド
(ロジャー氏がランダと戦う役で登場)

日本で名が知られているから、この村でも自分の素性が知られているとでも思っているのだろうか。

そんなはずはないと思う。

そうであったら寂しい限りだ。

日本とバリとの橋渡しという重要な役割を担っている人物であること知っている。

バリの芸能や知識で生業を立てている人間が、あの態度はよろしくない。

鑑賞場所を確保してくれた人物に、お礼を言いたい。

素晴らしい芸能を演じた村人に、感謝したい。

単に鈍感なのかもしれないが、こうした態度が日本人の評判を悪くしていく。

私なら、誰でもいいから近くにいるバリ人に「テレマカシ」と言っているだろう。

彼のリアクションに、多いに疑問が残った。

もちろん、私が黙礼しても返ってはこない。

ニコニコした顔に「私は特別なんだ」と高慢印が見えるようだ。

謙虚であって欲しい。

それ以来、私はこの人物を認めないようになってしまった。

「人の振り見て我が身を・・」身が引き締まる思いだ。

こんなことにならないようにと、自分を戒める場面であった。


posted by ito-san at 20:18| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月25日

寺院祭礼に侵入するテロリスト(50)

この頃のウブドは、景気のよかった12年前に戻ったかのように、ツーリストが増加している。

おかげで交通渋滞が凄いことになっている。

思い起こせば2002年、バリ島南部のリゾート地クタで爆弾テロ(10月12日)の悲劇があり、そのあと、バリ島のツーリストは激減した。

この夜は、日本人会主催の盆踊り大会が南部で開催された。

「爆発音が響き激しい振動が車を大きく揺すったのは、通り過ぎた後だった」と帰宅途中に現場前を通過した知人が興奮気味に話してくれた。

数分の違いで、彼ら家族は被害を免れたのだ。

ウブドから、烈火が夜空に浮かび上がるのを見た人もいる。

テロ直後のバリ島から、ツーリストと在留外国人が慌ただしく帰国していった。

日本の外務省からは「海外危険情報」危険度最高の「退避を勧告します。渡航は延期してください」が発令された。

テロのターゲットと思われるアメリカ人とオーストラリア人は、強制退去だ。

日々、外国人が帰国する。

日本からの飛行機に2人しか、乗っていない日もあった。

ウブドからツーリストの姿は消え、モンキーフォレスト通りには、店頭で暇をもてあます店員の姿が目立った。

11年を経て、ツーリストは戻って来た。





2001年9月11日、ニューヨー・ツインタワーのテロ。

1年後、ひと月といち日遅れの2002年10月12日、バリ島クタ爆弾テロ。

2003年は、東南アジアを中心としたSARSの流行。

バリは今、近年にない不景気に見舞われている。

私は今、2003年にタイムスリップしてこの話を書いている。


このところ、私の心は落ち着かない。

ひと月といち日遅れが、私には符号のように思われてしかたがない。

今年2003年11月13日に、あと5日と近づいていることを気に掛けているのだ。

なにごとも起こらなければいいがと願っている。

13日は、50年に一度巡ってくる大きな寺院祭礼がウブドで始まる日だ。

初日には1000人以上の人出が予想される。

テロリストは、人が大勢集まるところを狙う。

「王宮の定期公演が狙われている」

「レストラン・ベベ・ブンギルかもしれない」なんて噂がはびこっている。

Andong.jpg
アンドン交差点からウブド方面を見る(1990年)

人が多く集まる寺院祭礼は、テロリストに絶好のターゲットだろう。

「寺院祭礼が危険だ」という、嫌な噂があちこちの村で流れ始めた。

寺院祭礼では、通常村人による自警団が祭礼が滞りなく終わるようにと警備する。

大規模な祭礼では警察官も動員される。

今回のウブドの寺院祭礼は、いつも以上の警備体制だ。

私は村の世話役に頼まれて、外国人ではあるが格闘技ができるということから祭礼期間中、テロリストの警備に当たることになった。

今日13日は、奉納芸能に仮面舞踊で参加することにもなっている。

寺院に入るには、それなりの正装が必要で、参拝者は門前でチェックされる。

今夜は持ち物もチェックされている。

境内は、すでにたくさんの参拝者であふれていた。

チェックのカマン(腰布)に黒いベストを羽織った男たちが、要所要所で警備している。

彼らの顔が、いつになく緊張している。

昨日は、テロリスト対策の講習会が開かれた。

何をどう調べればよいのか、具体的にされない対策に、私は不安になってくる。

私は、サロンも上着も白ずくめの正装だ。

芸能が行われる予定の建物には、すでに観客がいっぱいだ。

入り口のチェックが万全でなかったとしたら、テロリストはすでに寺院内にいるかもしれない。

楽屋では、踊り手たちがテロの話をしている。

不安を隠しきれないようすだ。

私は踊りの衣裳に着替えながら、客席に眼を配る。

いつもの寺院祭礼風景とどこも変わったところはない。

変わったところといえば、外国人ツーリストの姿が見えないことぐらいだ。

これは昨年のテロの影響からツーリストが激減しているからだ。

寺院祭礼の雰囲気は、神々しくて心が洗われるようで気に入っている。

こうしてバリ人に混じって奉納舞踊できることを、私は至福と感じる。

テロリストは狂信派のイスラム教徒だといわれている。

インドネシアにも狂信派はいる。

バリのテロ犯人であるアムロジーもそうだ。

イスラム教徒と言っても、バリ人と同じインドネシア人だ。

寺院祭礼に紛れ込んでしまえば、たやすく見分けることができないだろう。

今夜は、バッグやカメラなどの手荷物を持つ外国人ツーリストがいないのでチェックはしやすい。

バリ人は供物と線香以外持ち込むことはないので、爆弾を隠し持つことは難しい。

もっとも、バリ・ヒンドゥー教徒が寺院を爆発させるとは考えられない。


客席の3列目あたりに、バリ人にしては正装がどことなくチグハグな男がいる。

肩からカメラ・バッグをさげているが、先ほどからいっこうに撮影しようという意識が見えない。

落ち着き払っているようだが、その眼は芸能を観るでもなく散漫だ。

歓迎の踊りが、小学生くらいの女の子たちによって奉納された。

次は、男の子たちによる群舞バリス・グデだ。

テロリストが早々に席を立ってしまってからでは遅い、私は進行係りに、群舞バリス・グデの先に踊らせてもらえないかと頼んだ。

演奏者にそのむねが伝えられると、仮面舞踊の曲が流れてきた。

私は仮面をつけ、幕を少しずつ開けていった。

男に気づかれないように、しかし、注意は男に向いている。

舞台に踊り出た。

おどけた演技に観客がどよめく。

私は頃合いを見計らって舞台中央にある階段を下り、観客の中に入っていった。

即興でジョゲッ・ブンブンを踊る。

数人をやり過ごして、目的の男を舞台上に誘った。

男は戸惑いがちにカメラ・バッグを両手で抱えた。

大事そうに抱えるバッグを、私は引ったくるように取り上げて幕の裏に押し入れた。

男はバッグを取りに幕の裏に入ろうとするが、私は執拗に踊りに誘い、それができないようにした。

幕の裏では、警察官がカメラ・バッグの中を改めている。

予想した通り、時限爆弾が入っていた。

仮面をつけた数人の踊り手が舞台に登場すると、男を肩車して退場していった。

なにも知らない観客は、面白い余興だと拍手喝采だ。

私は両手を大げさに広げて「何が起こったの?」とジェスチャーをして舞台を引っ込んだ。


テロリストはひとり、時限爆弾は仕掛けられてはいなかった。

なにごともなかったように群舞バリス・グデがはじまり、奉納芸能は続けられた。

私は汗で湿った衣裳をはずしながら「どうも、納得いかないな」とつぶやいた。

簡単にテロリストが捕まったことが不信となっている。

「テロリストが捕まってよかったですね」今夜の付き人ニョマン君は、たたんだ衣裳をバッグにしまいながらニコニコしている。

深夜になって、州都デンパサールの寺院祭礼でテロがあったニュースが入ってきた。

テロリストは警察をウブドに注意させておいて、はじめからデンパサールを狙うつもりだったのだ。

大胆にも、警察署から50メートルと離れていない、眼と鼻の先の寺院だった。

被害者の数は、まだ発表されてない。


妄想もここまでくると立派なものでしょう。

でも、実際に、こんな場面に遭遇したら、どうしていただろうか。

妄想でよかった。

posted by ito-san at 17:28| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月11日

カフェ・チュンパカ “幻” のカレーライス(49)

私の大大大〜好物は、カレーライスだ。

ライスカレーとも言う。

「カレーライスとライスカレーとは違う」と知人は能書くが、私の知ったこっちゃない。

ウブドにカレーをメニューに出しているレストランは多い。

ほとんどが、鶏肉の入った “カリ・アヤム=Kari Ayam” と言う名のインドネシア料理だ。

ココナッツミルクの甘みとスパイスの辛みが絶妙にきいたシャビシャビ・スープ状のカレー。

深皿に入って出て来ます。

インド料理のレストランでは、もちろんインドスタイルのカレーが出る。

どちらも、日本のようにご飯にかけて食べることはない。

カリ・アヤム、インド・カレー、日本のカレー、どれもカレーと呼ばれるが、私は個々の料理だと思っている。

私はカレーと呼ばれる料理なら、なんでも食べれそうなくらい好きだ。

どの店で食べてもハズレがないのは、カレー好きが旨さの許容範囲を広くしているのかもしれない。

カリ・アヤムもインド・カレーも好きだが、やはり私は量感のある日本のカレーが大大大〜好きだ。

スプーンで、ご飯とカレーを均等にすくって口に運ぶ。

この作業を繰り返し、皿の上を奇麗に食べ尽くす。

ご馳走さまでした。


日本風味のカレーがウブドで食べられるようになったのは、1997年のこと。

「カフェ・チュンパカ=Cafe Cempaka」のオープンを待たねばならなかった。

現在「ALAYA」ホテルが建っている最奥にあったレストランだ。

当時「居酒屋・影武者」にカレーライスはなく、私は好物のカレーライスを求めて「Cafe Cempaka」に出掛け2階席で至福の時間を過ごした。

オーナー・みちこさんが時間をかけて作ったカレーは、絶品だった。

「どう美味しかったのか」と問われても困る。

料理について説明は苦手ですので、ゴメンナサイです。

ほかのメニューもおいしかったと思うのだが、私の記憶のほとんどがカレーライスで埋められている。

2階からは、両手を広げた幅いっぱいにライスフィールドが見渡せた。

吹き込む風が、ちょっと強かったのを思いだす。

残念なことに2年弱で閉店。

こうして、みちこさんのカレーライスは、私の中で “幻のカレーライス” となったのである。



Cafe Cempaka.jpg

4月6日(日)、 “幻のカレーライス” を何年ぶりかで食べさせていただく機会を得た。

ニュークニン村にある、みちこさん宅に友人たち総勢9人が集合した。

みじん切りにしたタマネギ9個は姿形もなく、鶏肉もほどよくホツレ煮込まれていた。

2日にかけて数時間、煮込んだと聞く。

「腱鞘炎になってしまう」と言いながら、鍋とニラメッコするみちこさんを想像すると微笑ましい。

みんなの為に頑張ってくれたのだ。

感謝・感謝で、今回も美味しくいただきました。


みちこさんの “幻のカレーライス” はこんな機会でしか食べられないが、私のカレー懐古心を満たしてくれる店がウブドに3店あるので紹介したい。

sovia-kare.jpg

まずは「ワルン・ソフィア」。

ペネスタナン村の “日本料理風居酒屋・ワルン”です。

私は、餃子+大根サラダと共に、具だくさんのソフィア特製ポーク・カレーライスRp35,000-をいただく。(写真)

女将からの要請で:15時から17時はタイムサービス、バッソー(アヤムかイカン)、肉まんか野菜まん、紅茶のセットがRp30,000ぽっきり。TAXもインクルード!! を追加しました。

★場所:チャンプアン橋の西、急な坂を登りつめた突き当たり。

★営業時間:3.00pm〜10.00pm/定休日・日曜日&儀礼祭礼日。

★TEL:0819-1643-7658(日本語可)



kare-ya.jpg

そして「ジャパニーズ・カレーの加哩屋」。

2014年1月にオープンした「カフェ・アンカサ」系列の店。

ローカル客を対象にした値段設定は、長期滞在者にも魅力。

トッピングの種類も豊富だ。

写真はポーク・カツ・カレーRp28,000-(野菜カレーRp16,000〜/揚げ野菜カレーRp18,000〜もあるよ)。

★場所:ウブド・ワルン・リスト:[スグリオ通り]を参照ください。

★営業時間:12.00am〜21.00pm/定休日・月曜日&儀礼祭礼日。

★TEL:0822-3682-8306/

★Email:kare_ya@angkasa-bali.com/



kage-kare.jpg

最後に「日本料理店・影武者」。

「影武者」は、日本の家庭料理でもてなすレストラン。

だからカレーライスもメニューにある。

写真はポーク・カツ・カレーRp50,000-(野菜カレーRp43,000-もあるよ)。

★場所:5月中旬に、現在のプンゴセカン通りからニュークニン村に移転予定。

★営業時間:11.00am〜11.00pm(オーダーストップ10.30pm)/定休日・儀礼祭礼日。

★TEL:0361-973134/


3店3様。

どの店も美味しそうでしょう。

それぞれに店の特徴を出し、顧客に満足してもらうための努力をしている。

さあ今夜は、どの店のカレーライスを食べようか。

posted by ito-san at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月08日

ウブド・ラジオ2周年おめでとう!(48)

今年に入ってから、月始めに一度ゲスト出演している「ウブド・ラジオ」。

「私ごときがゲストでも、誰も聴いてくれないでしょう」と、ズ〜っと出演を辞退していたが、熱心にお願いされて断るのも傲慢だし、請われるうちが華だと思えるようになって承諾した。

日本一時帰国までの期間限定条件だが。

いつものようにいつもの時間に、ウブド・ラジオのスタジオに到着した。

スタジオと言っても「カフェ・アンカサ」の客席ですが。

いつもより雰囲気が豪華に感じるのは、盛り花が飾られているせいか?

盛り花は、リスナーからのプレゼント。

今夜4月4日は、なんと「ウブド・ラジオ」2周年記念日だそうだ。

そんな記念すべき日のゲストとなった。

「ウブド・ラジオ2周年おめでとう!」

ちょっと得した気分でウキウキ。


「ウブド・ラジオhttp://ubudradio.com」をご存知じゃない方がいるかな?

そんな方のために、少々説明させて頂きます。

ウブド・ラジオは、バリ島ウブドからインターネットで映像と共にUstream発信しているトークショーです。

トシ君&コテツちゃんの絶妙なコンビが、毎週金曜日:日本時間22.00〜23.00「カフェ・アンカサ」からお送りしている番組です。

毎週放送していて、2周年って凄くない!

ubudradio1.jpg

長期滞在の2人の話題は、宗教、文化、芸能、習慣、ウブドのニュースと豊富です。

バリ島の、特にウブドを中心とした話題なので、ウブド好きにはたまらない番組でしょう。

放送時間1時間となっていますが、未だかって時間内で終わったことはないようです。

映像は、数日後にYouTubeにアップされます。

時々、ウブド訪問中の旅行者や長期滞在者をゲストに招いています。

多彩なゲストが出演して、おもしろいですよ。

これまでの出演者の映像がYouTubeに残っています。

是非、御覧ください。


運営者トシ君から一言です。

ウブドラジオ2周年!

誰かに頼まれたわけでも、仕事になってるわけでもなく、それでも2年が経ちました!ほんと不思議。

わずかでも見てくれる人がいることと、出演したり協力したりしてくれる方がいること。

ありがとうございます!

それだけですね〜続いてる理由は。

あと始める時に言った「なにかが生まれる場にしたい!」って思いは、ちらほら、ですが実現してこれた気がします。

ちらほら、ですが確実に少しづつ。

それがまた嬉しくて。

3年目も緩く頑張ります!

ubudradio2.jpg

5月2日が私のゲスト出演最後となります。

最後だよ、最後。

これまで見逃した方は、最後のチャンスです。

生の私を見てくだい。

イヤイヤ私じゃなくて、ウブドを盛り上げようと一生懸命のトシ君&コテツちゃんを見てやってください。

ウブドの日本人社会のまとめ役になりつつある2人に、エールを送ろう。

「ウブド・ラジオ2周年おめでとう!」

末永く「ウブド・ラジオ」が続くことを、切に願っているito-sanです。


posted by ito-san at 16:52| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月29日

ウブドだけでハヤっているのかな ?(47)

ウブド熱愛症候群の重症患者であるリピーターのSさんと、10日間ほどつるんだ。

そのうち二日と明けず有名レストランで食事をご馳走になった。

いずこでも会話は弾み、楽しい会食となった。

料理とワインのウンチクは、Sさんと同席した2人の女性にまかせている。

どのレストランも料理は美味しく、満足するものだった。

グルメじゃない私には、料理に関しての感想は「美味しいか不味い」の2つしか持っていないので、ここでは割愛させていただきます。

Sさんも、こんな味音痴には奢りがいがなかったと思う。

ということで、ここで書くのは料理の話ではありません。

フランス料理の「ジュンデラ」とベルギー料理の「カフェ・デ・アルティステス」に、共通点を見つけたのです。

たいした話じゃありませんが。

「もったいぶらないで、早く本題に入りなさい」と天の声。

催促されると、言い出しにくいもの。

只、私だけが知らなかった事実かもしれない。

そんな確率が高いのです。


この日は「ジュンデラ」でのディナー。

食事の始まりに、ウエーターが我々のテーブル前に、ひとりに一つ置いていった。

何か一言、つぶやいたが、話に夢中で聞き逃していた。

写真を見てください。

これですよ、これ。

これはなんでしょう?

osibori1.jpg

ご免なさい、一緒に比較する物を置かなかったのでわかりにくいと思いますが、大きさは幅7センチほどの器です。

石鹸置きにしては小さすぎますよね。

よく観察したわけではないが、器は陶器だったと思う。

器は中央から左右に二分され、片方は底が浅く白い物体が置かれている、もう一方には無色無臭の液体が半分ほど入っている。

液体は水と考えていいだろう。

すでにご存知の方には、つまらない話になってしまいます。

私には軽いカルチャーショックだったのでブログに書かせてもらいました。

私のように知らない人もいるかもしれないことを期待して。

では、現場検証です。


白い物体は、口に入れると「シュワーッ」と溶ける、ラムネ菓子に似ている。

ラムネ菓子については、ウィキペディアでお調べください。

ここでは便宜上「ラムネ菓子」とします。

ラムネ菓子は、摘むと少しヘコむほどの柔らかさだった。

状況から判断すると、水の中にラムネ菓子を入れるのだろうと想像できる。

さっそく入れてみた。

ラムネ菓子は水を含んで、「シュワーッ」と溶け、ません。

見る見るうちに膨れ上がった倍の大きさになった。

osibori2.jpg

隣で友人が「あれっ!取れない」と、悲しい声をあげた。

器を覗くと、ラムネ菓子が横たわっていた。

倒れてしまったのだろうが、横にして水に浸けてしまったのだ。

ラムネ菓子は倍に膨れ上がり、器の中で身動きできない状態で噛んでしまっていた。

私はウエートレスを呼んで「これは、どうすれば良いのですか?」と尋ねた。

ウエートレスは「困った人ね」という顔をして微笑みながら外してくれた。

osibori3.jpg

膨れ上がったラムネ菓子を摘まみ上げて引っ張るようにほぐすと、ウエットティッシュになっていた。

不思議不思議、手品のような代物だ。

ウエットティッシュは、ガルーダ・エアーで配られるのような香水の強い匂いもなく、手に爽やかだった。

今思えば、ウエーターは日本語で「オシボリです」と言っていたのだ。

最初は「ジュンデラ」で、2度目は「カフェ・デ・アルティステス」で遭遇した。

共通点と大袈裟な表現をしてしまいましたが、本題はこんなくだらない話です。

しかし、同じことが2度続けば、これはもう他のレストランにも普及していると考えててもおかしくないでしょう。

ウブド限定で、ハヤっているのかな。

日本にも出回っている物なのかもしれない。

日頃、レストランを利用している人々は、すでに承知の助かも。

ワルンしか利用しない私だけが知らない事実だったりして。

田舎が好きで暮らしている私には、こんなタワイもないことでも驚いてしまう。

情報から縁遠い暮らしをしている私は、正真正銘の「ウブドの田舎もん」。

5月に25年ぶりの日本一時帰国の予定なのですが、こんなカルチャーショックの連続の日々を送ることになるのでしょうか。

日本行きが、ちょっと心配になってきた。

そして、ウブドの都市化の波に少々恐怖を感じ始めている、今日この頃。

posted by ito-san at 00:38| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月24日

オゴホゴ制作の推移(46)

バリ島には、世界で唯一、ここでしかないだろうと思われる風習がある。

それは「ニュピ祭礼日」だ。

ニュピは、西歴以外にバリに2つある伝統的暦のうちのひとつである、サコ歴の新年。

今年はサコ歴1936年で、西暦の3月31日に当たる。

この日1日、労働(アマティ・カルヤ)、通りへの外出(アマティ・ルルンガン)、火の使用(アマティ・グニ)、殺生(アマティ・ルラングアン)などが禁じられている。

火は、現代では電灯も含まれる。

この4つを守り、精神を集中させ、心を穏やかにし、世界の平和、最高神イダ・サンヒャン・ウィディに祈るのが、バリ人の信仰するヒンドゥーの慣習だ。

これがバリ人だけの話なら、ヒンドゥー教徒って敬虔なんだなと感心するだけだが、この4つの禁止は、バリ島にいるすべての人に義務づけられる。

ヒンドゥー教以外の宗教を信仰するインドネシア人、そして、ツーリストにもかせられる、という世界中でも珍しい祭事だ。

信じられないのは、観光で経済が成り立っている島なのに、この日、国際線の航空便を含む島内すべての交通機関がストップするのだ。

すべての島民が神隠しにあったように、バリ島が沈黙する。

mecaru.jpg
写真提供者:田尾美野留氏


ニュピ前日(30日)、ウブド王宮前では生贄を捧げ、ムチャル(mecaru=悪魔払い)儀礼が行われる。

冥界のヤマ神が、悪霊ブト・カロ(Bhuta Kala)を地下から追い出し地球を大掃除をするのだ。

家々では家族が、鍋釜など音の出るものを手に、屋敷内の隅々をガンガンと鳴らしながら廻る。

道では、爆竹がうち鳴らされる。

地上にはい出てた悪霊ブト・カロを追い払うのだ。

この儀式は、ングルプック(Ngerupuk)orプングルプガンと呼ばれている。

今でも、バリ人の信仰から切り離せない、邪悪な力を追い払うための儀礼だ。


ニュピ前夜は、ティラム(Telem=暗月)と呼ばれる月が隠れる夜。

夕方になると、各村々ではオゴホゴ(ogoh-ogoh)と呼ばれる張りぼて人形の御輿を担ぎ出す。

張りぼて人形は、さまざまな形の悪魔(Kala)を表現している。

バレガンジュールと呼ばれるシンバルを中心としたガムラン隊の激しい音とともに、オゴホゴが村々を練り歩き四つ筋では威勢良く廻る。

今では、バリ観光のみどころのひとつにあげられる行事となっている。

地上から悪霊ブト・カロを追い出した次の日「ニュピ」には、人々は静寂を保つために4つの禁止を守る。

この星には人間が住んでいないと思わせ、悪霊ブト・カロが戻らないようにするというのがこの儀礼の狙いだ。

練り歩いたオゴホゴの中に、邪悪な力は封じ込められる。

私が訪れた頃(1990年)、オゴホゴは四つ筋や墓地で燃やされていた。

今は、ワンティラン(集会場)に集められ、しばらく展示した後に破棄されるようだ。

ogohogoh3.jpg
写真提供者:田尾美野留氏

オゴホゴ制作は、ひと月ほど前から始まる。

私が最初に見たのは、割いた竹と針金を骨組みにして金網で胴体が作られていた。

新聞紙を張り合わせて彩色する。

仕上がりはゴツゴツとしたものだった。

2011年のオゴホゴは、細工しやすいのと軽いからか発泡スチロールを部分的に使っているところが多かった。

顔の部分が発泡スチロールで精密に作られていた。

スプレー缶かコンプレサーを使って吹き付け塗装。

ogohogoh1.jpg

そして今年2014年。

なんと、ほとんど全身を発泡スチロールとウレタン・スポンジで作られていた。

切りクズが目に留まり「吐き気がする! 胸焼けがする!」

「キャー ! 止めてくれ〜!」

これを燃やせば、有毒ガスが発生することは間違いない。

オゴホゴの末路が心配だ。

ogohogoh2.jpg


バリは観光の島として、右上がりで発展している。

近年は、投資目的の物件も多いと聞く。

発展は近代化をもたらし、近代化は文化を変革させることもある。

変革することが悪いわけではないが、バリの場合、あまり文化が変わることは好ましくないと考える。

ツーリストは、普段着のバリと自然を求めて来ている人が多い。

自然を破壊する行為は、観光資源を枯渇させる。

環境問題に関心を持ち始めた島民が、さまざまなイベントを開催して意識の向上をはかっている。

できれば、オゴホゴも昔ながらの竹で作ってもらいたいと思うのは、ツーリスト(私)のかってな願いだろうか。


posted by ito-san at 16:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月22日

バロンの奉納舞踊を求めて(45)

道路を覆うようにして、両側から大きな樹の枝葉が張り出している。

夜10時の街道は、真っ暗闇だった。

私は今、正装に身を包み、ムングイ村に向けてバイクを走らせている。

緩い勾配を北に向かう道だ。

オダラン(寺院祭礼)の奉納舞踊・チャロナラン舞踊劇を鑑賞に行く途中。

odalan1.jpg

私の趣味は奉納舞踊見学だ。

特にチャロナラン劇が奉納されると聞くと、遠くバリ東部・カランガッサム県まで出掛けていった。

タバナン県ムングイ村の山深い田舎で、チャロナラン劇があるとの情報を得た。

チャロナラン劇は、善と悪の終わりなき戦いを演じる。

この日は、月の出ないティラム(暗月)、おまけに霊力の強いカジャンクリオンの日と条件は揃っている。

恐がりなのに、こういったセッティングを好むのが私の性格だ。

ススオナン(ご神体)である聖獣バロンの踊り手は、若手ナンバーワンのデド君だと聞いた。

スマラ・ラティの定期公演や奉納芸能で、デド君のバロン舞踊は何度も見ている。

まるで生きているように演じられる、デド君のバロン舞踊は、いつ見ても魅入ってしまう。

今夜もデド君の素晴らしいバロンを見たいと、期待で心をときめかせ、ひとりバイクを駆り田舎の道をひた走った。

目的地は、情報では一本道。

道沿いにある寺院だから、すぐわかると教えられた。

odalan2.jpg

途中、幾つもオダランらしい寺院を覗いたが、どれもすでに終わっていた。

かなり遠くへ来たが、まだオダランのある寺院は見えない。

バロンの奉納舞踊は早くて夜8時、チャロナラン劇の開演はたいていが10時前後。

時計は10時をさそうとしている。

すでにバロンの奉納は終わっているかもしれない。

街道の灯りもまばらになり、ワルン(雑貨屋)を見つけるのも難しくなってきた。

不気味に続く暗闇と湿気を含んだ冷気が、身体を覆う。

訊ねるなら、今のうちだ。

とにかく、一度このあたりで訊いておこう。

やっと一軒のワルンを見つけ飛び込んだ。

豆電球が細々と灯されたワルンに老婆が顔が見えて。

「デ・マナ・アダ・オダラン?」

オダランはどこにありますか、と私は老婆に訊いた。

老婆は、この外国人は何を言っているのだろうという顔をしている。

まさか外国人がインドネシア語をしゃべっているとは思っていないのか。

もしかすると、私の未熟なインドネシア語が老婆に通じないかもしれない。

私は「バロン、バロン」と連呼した。

正装している外国人が「バロン」と言っているのだ、バリの芸能・バロンだと察してくれそうなもの。

老婆はいぶかしげ顔で、私の言葉を反復しながら店の奥へ姿を消した。

「おいおい、なんとか言ってよ!」

得体の知れない外国人の行動に、恐れをなして引っ込んでしまったのかな。

ワルンの店先で、寒さで冷えてしまった身体が震えている。


しばらくして、戻って来た老婆の手には電球があった。

老婆は手元の電球を見て「バロン」と言う。

「電球がどうしたの?」

私は、デド君のバロン舞踊が見たいんだ。

開いた掌を耳に当て、バロンの真似をしてみた。

老婆は、だからどうしたという顔をしている。

意志の通じない会話は空しい。

私は、異次元の人と対峙しているのだろうか?

バロンを見ることはあきらめ、電球はいらないからとワルンを出た。

これ以上、先に進む元気はなくなっていた。

私はバイクをUターンさせ、ウブドに戻ることにした。

後日、オダランは、目と鼻の先で行われていたことがわかった。

odalan3.jpg

どうしてバロンが通じなかったのか、考えてみた。

老婆とのやり取りを知人のバリ人にすると「イトサンの発音はbalonで、それなら電球が出てくるでしょう」と言われた。

私は、この時まで、電球のことをバロンと言うのだとは知らなかった。

balonは、風船と言う意味で、電球はバロン・ランプとして使うのが普通のようだ。

辞書には、電球は、見たままにbola(ボール)lampu(ランプ)とも言う。

聖獣バロンはbarong、発音は、[r]が巻き舌で、[ng]は、口を開けて「ン」だ。

電球のバロンはbalonで、発音は、[l]は普通の[ろ]で、[n]は口を少しだけ開け、上あごに舌をつけながら「ン」と発音すると教えられた。

どちらにしても、私の発音が悪かったのが原因で、老婆に通じなかったのだ。

私は、今でもこの発音が出来ていない。

奉納舞踊でのバロンの踊りは、バロン・ダンスとは言わず、バパン(bapang)・バロンと呼ばれているのは知っていた。

しかし、あの時点で私がバパンと言っても、私の発音では通じなかっただろう。

それにしても「デ・マナ・アダ・オダラン?」が理解されなかったのが悔しいほど悲しい。

すっかり自信をなくしたが、だからと言ってインドネシア語を学ぼうとしない。

こんな態度だから、インドネシア語会話能力が小学生以下なのだろう。

ちょっと反省しています。


(2007年05月26日の日記より)

posted by ito-san at 18:56| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月18日

ウブドの電話事情(44)

時代は急速に変化している。

地球の存続も危ぶまれている。

否。私が言っているのは、そんな大袈裟なことではない。

私のまわりの急変は、バリ人がスマートフォンを持ったことです。

もちろんウブド人も。

世界は同時発生的に進化しているようだ。


電話の話だが。

私が生まれて始めて手にした電話機は、ダイヤル式だった。

電話をかける仕草は、グーにした左手を耳に近づけ、右手の人差し指でダイヤルをジーコジーコと回す。

受信音は「リーン リーン リーン」と鳴った。

重厚だが無骨な黒色電話は、しばらくして、番号を押す明色のプッシュホン式に変わった。

ダイヤルは回すのではなく、人差し指でピッポパと軽快に叩く。

人によっては小指でピッポパかもしれない。

ポレットベルと呼ばれる、所在探知機のような機械を携帯するようになったのもこの頃だ。

監視されているようで、私は持たなかった。

続いて、携帯電話が普及を始める。

日本の初期の携帯電話はショルダーフォンと呼ばれ、写真のようになんと3キロという大きな代物だった。

NTT.jpg

私が携帯電話を持つようになったのは、ウブド滞在を始めてからだ。

「アパ?情報センター」を始めて数年してからだと記憶している。

不測の事態が起こった時に連絡が取れるようにと、アパ?スタッフの名前が最初に出るように設定してくれた携帯だった。


ウブドの電話所有第一号はウブド王宮だと言われている。

車、テレビ、ほとんどの第一号は、ウブド王宮だ。

私が訪れた1990年頃のウブドは、ホームステイやレストランでは電話を所有していたが、一般家庭の電話普及率は少なく利用者もごくわずかだった。

公衆電話も少なく、あったとしてもことごとく壊れていて使えなかった。

記憶も記録もないので曖昧だが、フード付きの公衆電話はRp100コインで利用できたと思う。

public-telephone1.jpg

商店や一般家庭で、気安く電話を借りられない。

電話機には、鍵の付く透明プラスチック製のカバーが付いていた。

長距離電話に使われて、膨大な使用料を請求されるのが心配なのだ。

私がウブドで最初に見た電話機は宿泊先の「ロジャーズ・ホームステイ」で、やはりプラスチックのカバーが付いたプッシュボタン式だった。

ツーリストが国際電話を必要とする時は、アンドン地域警察署前(現在のスーパーマーケット・デルタデワタ西横)にあった公共の電話局か、ウブド大通りにある「レストラン・ノマド」が経営する料金の高い私設電話サービスに出掛けなくてはならない。

私設電話サービスは「レストラン・ノマド」の東隣にある2階建て貸し店舗(現在「ブレッドライフ」のある建物)の2階にある。

公共電話局の局員の態度は、仕事をする気がなく怠惰で横柄だった。

猜疑心の強い私は、ひょっとすると公衆電話が壊れているのは「ノマド」のしわざで、電話局員が怠慢なのは「ノマド」から小遣いをもらっているせいではないかと疑っていた。

選択肢は、嫌々「ノマド」の電話サービスを利用するしかなかった。

BreadLife.jpg

1994年、テレフォンカードが使える電話ブースがウブド市場前に設置された。

こちらも頻繁に故障するため利用者は少なかったように、記憶している。

相前後して、「ワルテル=WARTEL(Warung Telephone )」と呼ばれる私設電話サービスが多数開店する。
1996年、電話局がアンドン交差点のウブド大通り沿いに移転した。

public-telephone2.jpg

固定電話機の普及は遅々として進まない。

レストラン、ホテル、などのツーリスト向けのビジネスが増加したからだろう。

私の滞在するギャニアール県では、ある年から電話回線が満タンで増設が出来なくなっていた。

電話機の設置をお願いしても、近くに鉄柱がないと、数件まとまるまで待つか、自己負担で立てなくてはならない。

30メートル置きに立てる鉄柱が一本につき100万ルピアかかる。

賄賂を払って、難しくなった。

いつまで待たされるかわからない電話機の設置。

こんなタイミングに携帯電話が発売された。

特権階級の贅沢品だと思われていたのが、年々価格が下がり、たちまちのうちにバリ人へ浸透していった。

親子電話、コードレス電話でさえ便利だと思っていた私には、個人個人が電話を持ち歩く時代が来るとは考えもしなかった。

電話の普及していなかったウブドでは、大雨が降ると連絡ができなかったとの理由で遅刻、欠席は当然のように認められた。

携帯を持つようになって無断の欠席、遅刻はできなくなった。

これと言って急ぎの用事のない私にとっては、不便な機器である。


1997年、携帯電話の普及と並行して、インターネットの布設が始まる。

まだ、パソコン持参のツーリストは少なかった。

携帯電話とシムカード販売の専門店が雨後のタケノコのように開店した。

ネット・カフェのインドネシア版である「ワルネット=WARNET(Warung Internet )」が開店して、E-mailサービスが受けられるようになった。

free Wifiのホテル、レストランが増えると、ワルネットは衰退し子供のゲームコーナーに転向した。

ネット回線状況は年々、よくなっているようだ。

近年に、光ファイバー通信になるらしい。

村人は、携帯電話から一足飛びに、スマートフォンを持つようになった。

あくまでも私のまわりのウブド人の話ですので、念のため。

今では、デジタル文字を触れるだけのスマートフォンだ。

カメラ内蔵で写真の保存・送信もでき、音楽を聴けて、ゲームなどもできるさまざまな機能がついている。

Skype、Twitter、Lineの横文字は、さっぱりわかりまへん。

わからないことは、説明も難しい。

良い(E)メイルはあれば悪いメールもあるのでは、と信じていた私のこと。

ファイヤー・ワイヤーは、火縄のことかな、ひょっとすると「てんや・わんや」かなと思ったし。

ショートカットは髪を短くすることだった。

USBはアメリカのバスケットチームの名前かな、なんてこじつけたり。

ネット系はインターネットのネットだとばかり思っていたら、寝癖を防ぐために頭に被るネットをする人のことだと知ってボーゼンとした。

パソコン関係の言語は、まったく理解不能だ。

文明の発展に、身も心もついていけないだらしない自分がいる。

こんな状態では、私がスマートフォンを持つことはないだろう。

posted by ito-san at 16:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月10日

ウブド・本の交換会(43)

今現在、バリ島に日本の新書を扱う書店はない。

もちろんウブドにあるわけがない。

そこで登場するのが、長期滞在者御用達「ウブド・本の交換会」だ。


私が長期滞在を始めた1990年頃の話を、少しさせてください。

当時滞在していて、寂しい思いをしたのは、日本の本が読めないことだった。

これまでは、ビジネス専門書かインテリアデザイン関係の雑誌しか読んでいなかった。

読書好きというわけではない。

活字を見て日本語で思考したかっただけだと思う。

手元には、旅立つ前に兄・章司が渡してくれた、青島幸雄の「人間万事塞翁が丙午」だだ一冊。

何度も読み返した。

知り合いが出来ると、手持ちの本を交換した。

有為エィンジェル著「姫子・イン・バリ」、本岡類の「ウブドの花嫁」、山田詠美「カンヴァスの柩」などが、廻って来た。

これも何度も読んだ。

手に入る本が限られている。

選んでなんかいられない。

滞在者が少なく、廻ってくる本もすぐに底をつく。

私は来る物拒まず、ダボハゼのようにどんな内容の本でも飛びついた。

今でも、作者やジャンルに囚われず、恋愛・推理・歴史・エッセーなんでも読みあさっている。


時々、飛行機内の新聞、雑誌、機内誌が届く。

情報としての記事をシャットアウトしている私は、内容よりは活字を眺めていることが多い。

日本語で書かれたパンフレットを隅々まで目で追うこともある。

土産の説明書を読破する癖は、この時に培ったのだろう。

誰かが置いていった「国語辞典」を読みふけった日々もある。

バックパッカーが手放していった本が、数件の古本屋で手に入った。

旅行記や精神世界系に偏っていたが、比較的新しいのを選んで購入した。

ビザ取得でシンガポールに出掛けると、三越百貨店内にある「紀伊国屋書店」を覗き物色する。

税金が加算された本は節約旅行者には贅沢品で、一冊手に入れるのにサンザン悩んだ。

旅行者が増えるとともに、日本語の書物が集まるようになった。

気をきかせたリピーターさんが、土産に日本の小説を持って来てくれることが嬉しかった。

「居酒屋・影武者」の蔵書も、少しずつ増えていく。

余程、日本語の活字に飢えていたのだろう、と当時のことを思い出す。

hon1.jpg

長期滞在者のほとんどが、私とよく似た読書環境の中で暮らしていたと思う。

貪欲に本を読みたい人々には、本の絶対数が足らない。

「新しい本が読みた〜い!」

そんな要望から「ウブド・本の交換会」がスタートすることになった。

言い出しっぺたちが、ボランティアの実行委員に任命された。

第1回は、2009年3月21日(土)「カフェ・アンカサ」から始まった。

在住者、旅行者に声を掛け、たくさんの本が集まり交換ができた。

大勢の人々の協力を得て「第1回ウブド・本の交換会@アンカサ」は盛況のうちに終わった。

読書好きな滞在者には、ありがたい催し物となった。

第2回は、5月2日(土)ペネスタナン村の「ワルン・ソフィア」で午後1時より5時まで行われた。

この後は「カフェ・アンカサ」「ワルン・ソフィア」が交互に、月一で月末の土曜日(変更することもあります)に開催。

第16回からサンギンガン通りにある「和食レストラン・萬まる」が加入して、3軒の持ち回りとなった。

「萬まる」は、46回まで参加した。

テガランタン村にある「サリナ・ワルン」は、49回から今年1月の58回までの1年間参加。

後継店は、サクティ村にある「カフェ・ビンタン」が、61回から参加してくれる予定になっている。

今月3月には6年目に突入する。

なんと60回を迎える。

hon3.jpg

過去59回の交換会に、それぞれの思い出がある。

ボランティアスタッフの募集。

ピンクのスタッフTシャツ作成。(思いがけないことに、ピンクが似合う私を発見)

存続させるために、スタッフは様々なアイデアを持ち寄った。

チラシを作って協賛店に貼ってもらったこともある。

バリ関連本のレンタルコーナーを「アンカサ」に設置。

3冊以上寄付された方に、無料のサービスを提供したこともある。

交換の方法がポイント制となった。

バザー、フリーマーケットを加えた。

おでん、たこ焼き、お好み焼き・焼きそば、ラーメン、ピザ、ケーキ、豆腐、様々な総菜がテーブルに並んだ。

日頃、口にすることのできない食材が、手頃な値段が提供されている。

参加する人々に、味の楽しみが加わった。

私は、みちこさんの作る「おはぎ」の大ファンだ。

フリーマーケットの古着は、地元の娘さんたちに評判がよかった。

売り上げの10%が「ウブド・本の交換会」の活動資金としてご寄付される。

寄付金が貯まると、新作文芸書を購入した。

本を交換された方全員にチャンス!の「お楽しみ抽選会」の商品購入に寄付金を充てることもある。

年末には、「大ビンゴ大会」を催した。

楽しい思い出がいっぱいだ。

長期滞在者も増え、旅行者も参加する親睦&交流を目的とする「ウブド・本の交換会」は成長している。

末永く、続くことを期待して・・・・合掌。

hon4.jpg

最後に、「ウブド・本の交換会」実行委員からの声をお伝えします。

「ウブド・本の交換会」は、ウブド在住の日本人が主催するイベントです。

旅のお供に持ってきた本、読み終わった本を交換しましょう。

覗くだけでも構いません。

ウブド好きな人々が集まって、親睦&交流しませんか。

ご意見、アイデアを広く皆様より受け付けております。

ボランティアスタッフも常時募集しています。

ご気軽に、お声をおかけください。

消滅しないように、皆の力で育てていきたいと思っています。

hon2.jpg
posted by ito-san at 18:09| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする