2014年02月24日

イミグラシイ帰りの食事(42)

年に一度のイミグラシイ参り。

悪行を尽くしているわけでもないのに、なにげに緊張するイミグラシイ。

今回もAさんのおかげで、ビザ延長の手続きは、なにごともなく治まった。

只今、気分は晴れや〜か。

久しぶりに、イミグラシイ内にある社員食堂で朝食を摂ろうかな。

うらぶれた社員食堂(失礼!)で、職員をウオッチングするのも一興だろう。

こんなことが考えられるほど、心に余裕が戻ってきている。

ここで・・・ハタと思いついたことがある。

先日、ヒロさんからプレゼントしてもらった日本製電動ひげ剃りを220ボルトに差し込んでしまい壊してしまった。

インドネシアの電圧は、日本の110ボルトの倍220ボルトですのでご注意ください。

そんなヘマをやらかしたお陰で、今、私はT型カミソリでひげを剃っている。

カミソリでひげを剃るには、顔を湯に浸す時間がいる。

暖かいタオルで顔を覆う人もいるが、私は湯をはった洗面器に顔を突っ込んで、ひげを柔らかくしてから剃っている。

湯沸かし器を使っているから、そんなに時間はかかっていないのかもしれないが、ひげを剃りながら他のことができないのが辛い。

私のようなナガラ族には、電動ひげ剃りがベストじゃ。

ナガラ族というのは、トイレで座りながら、ひげを剃ったり、本を読んだり、歯を磨いたり、腹筋を鍛えたりする人のことを指します。(ひょっとすると死語かな? 冷汗)


ギャニアールのスーパーでは見当たらなかった。

一番大きなスーパー「ハーディズ」さえ、T型カミソリと乾電池を指し示した。

私のまわりのバリ人は電動ひげ剃りを知らなかったが、都会人の暮らすデンパサールなら使っている人もいるはずだ。

次に来る予定もないので「マタハリ・スーパー」に立ち寄って買って行こう。

各フロアを徘徊したあと、フォーカーズで食事だ。

グッドアイデアに赤面。(「何でやねん?」 なぜか名古屋人なのに大阪弁のツッコミ)

スクーピーのどことなくウキウキしているような乗り心地を感じて、一路「マタハリ」に。

・・・・・・・・・・・。

ガードマンの「開店は10時です」の声に、大きなガックリ。

まだ9時30分だ。

30分は待てない、待たない、待ちたくない。

電動ひげ剃りは、あきらめることにした。


それより朝食はどうする。

残された道は「ケンタッキー」だ。

なぜここで、ウブドまで戻らない?

ご意見はもっともです。

町に出て来たのだから、できれば町で食事をと思ってしまう。

これが、田舎者の悲しい性です。

KFCは1年前にも、イミグラシイの帰りに入った。

「あれ、ください」

カウンターの後ろにある写真を指差して注文した。

去年も同じ物を頼んだな。(ボケの第一段階か?)

頼んでから気がつく。(気がつくのだから、ただの健忘症)

会計は41,000ルピア(本日のレート1円=Rp115)。

高い!。

値段も見ずに頼んでいる。

この価格なら、ウブドの「ワルン・カレーヤ」でポークカツ・カレーを食べてテ・ボトルを飲んでもおつりがくる。

大きなフライド・チキンが2つとナシプティ(白飯)に、大きめのペプシコーラ。

手を洗うのが面倒なので、携帯しているマイ箸を使った。

2つのフライド・チキンは、衣の油がくどくて胃がもたれた。

「KFC」のパリパリの衣が好きだったのに。

去年も、そんな感想をつぶやいていたな。

確かに「KFC」は帰り道の途中にあるが、面倒がらずに少し足を伸ばせば「マクドナルド」もある。

マクドナルドでソフトクリームを食べたかった。

食べ終わってから思い出す。

学習能力が欠けている、バカな私です。

そんな奴のことをインドネシア語では、ボド(bodoh)と呼ぶ。

教訓:美味しい物が食べたければ、努力を惜しむな。

Kare-Ya1.jpg

※はみ出し情報:「アパ ? 情報センター・ウブドnoニュース」より

《ワルン・カレーヤ=Warung KareYa》

ウブド大通りからスグリオ通りを100メートルほど入った右手、(「チャンティック・スパ」手前)にオープンした「ワルン・カレーヤ」が、密かに人気をあげている。

ローカル客を対象にした値段設定は、長期滞在者にも魅力。

カフェ・アンカサ」系列のため “味” も保証付き。

★メニュー:ジャパニーズ・カレー専門

★食事:カレーRp13,000〜Rp27,000-/野菜カレーRp16,000〜30,000-/揚げ野菜カレーRp18,000〜Rp32,000-/ポークカツ・カレーRp28,000-/etc各種/

★飲物:紅茶(温)Rp4,000-(冷)Rp5,000-/テ・ボトル(瓶に入った甘い紅茶)Rp6,000-/ソフトドリンクRp8,000-/ビンタンビール大Rp29,000-小Rp19,000-/

★営業時間:12.00am〜21.00pm/定休日・儀礼祭礼日/

★TEL:0822-3682-8306/

★Email:kare_ya@angkasa-bali.com/

Kare-Ya2.jpg
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2014年02月21日

イミグラシイに行ってきた(41)


imigrasi1.jpg

バリ州都デンパサールにあるイミグラシイ(imigrasi)に着いた。

正確には「Jawatan imigrasi」出入国管理事務所。

不良外人としての呼び出しではないので、ご心配なく。

誰も心配していないって。

それも寂しいな!

ちょっと横道にそれるが、聞いてください。

私の旅は、いつも国外追放覚悟で乗り込んでいる。

もちろん、インドネシア・バリ島の入国時もそうだった。

入国した1990年5月からの1年間は、偽造出入国スタンプで滞在していた。

居酒屋を開店した1991年7月からは、就労ができないビザで滞在した。

何度もイミグラシイに、呼ばれた経験がある。

店や家などの財産を持った外国人が標的にされた。

なぜなら、財産を手放して帰国しないだろうと考えるからだ。

彼らは賄賂が欲しいのだ。

インテル(秘密警察)と手を組んで、3年ほど泳がせてから呼び出しを掛ける。

ウブド滞在の外国人が少なかった時代の私は、恰好の標的だったのだろう。

所長の机上には、私に関する書類が置かれている。

ウブド警察からのレポート(チクリ)も含まれているだろう。

「居酒屋で立ち働く姿を見たという目撃者がいる」と所長は言う。

毎年、所長が交代するたびに書類の束は厚くなっていった。

留置覚悟の私の言動に、歴代所長も手を焼いたことだろう。

私からは、金が取れないと理解したのか、10年もするとお呼びはかからなくなった。

違法行為で滞在していた私は、やっぱり不良が外人だったのかな。

imigrasi2.JPG

そんな思い出深いイミグラシイに、今、来ている。

55歳を超えると取得できる長期滞在ビザが、10年ほど前から発行されるようになった。

5年間有効のビザで、私はシンガーポールでビザを申請し、その後の4年はデンパサールのイミグラシイで延長の手続きをしている。

昨年、5年ぶりにシンガポールに出掛けた。

ということで、今日は1回目の延長手続きに来ている。

バイクでデンパサールに来るのは、1年ぶり。

66歳は、安全運転だ。

無免許、規定違反のヘルメット、だから安全運転。

ウブドからスクーピーで、チンタラ走って40分ほどで到着。

スクーピーを駐輪場に止めて、いつもなら横の扉から入るのだが、今回は写真を残しておこうと正面に廻った。

「あれっ! 去年と雰囲気が違うゾ」

ホテルのロビーのように開放的になっている。

改装されたのだ。

これなら威圧感がなくていい。

賄賂事情は変わっていないと思うが、表面上はクリアーなイメージになった。

imigrasi3.jpg

ビザ代行業者・A氏との待ち合わせは、朝9時。

約束の時間より、15分早く着いた。

モダンになったロビーのスチール椅子に腰をおろして、読みかけのエッセー集を開く。

しばらくして、A氏が笑顔で現れた。

彼との付き合いも長い。

お互い信頼している。

5月の日本一時帰国の申請書類もお願いした。

待つこと数分して、スピーカーから女性の声で「いとうひろし様」の呼び出しが聴こえた。

「いとうひろし様、写真室にお入りください」日本語で優しく言われたような気がしたのは、幻聴だろう。

個室に入り、上半身の証明写真を撮られ、指紋を取って、サインをして、30分で終了。

お疲れさまでした〜。

指紋は、数年前から指に墨をつけて書類に押すやり方ではなく、パソコンのマウスを大きくしたような固まりの真ん中にあるランプをひと指ずつ押し、コンピューターにデータとして残す形式だ。

こんなややこしい説明をしているより写真を撮っておけばよかったのだが、途中から入室してきた上司のようなオジさんが、私がいつも胸につけている「No! Nukes」バッチに興味を持ち、話をしているうちにチャンスを逃してしまった。

えっ! 写真を見なくても、みんな知ってるって?

それって普通だって?

やっぱり、私は浦島太郎になっている。

お疲れさまでした〜。

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2014年02月03日

“孤高のバリ” スバリ村(40)

私は、バリ・パスフィンダー(BALI PATH FINDER)を愛用している。

ウブド滞在を始めてからズ〜と使っている、首から上が指差しになっている表紙のバリ島地図だ。

一番詳しくウブドが載っているのがパスフィンダー。

通った道を鉛筆で塗りつぶしていくのが楽しみだったのは、いつの頃だったか。

パスフィンダーは、ウブド在住のシルビオ・サントーサ氏が発行している。

シルビオ氏は、バリが好きで住み着いたジャワ人男性。

私と同じ1947年の生まれ。

ウブドのツーリズムが始まると同時に、ツーリストと村人との間で金銭的なトラブルが頻発した。

トランスポートやツアーの料金が一定していなかった1983年、シルビオ氏は問題解決の手段として《ヴィナ・ウィサタ(BINA WISATA)観光案内所》を開設し料金の均一化を図った。

1984年に発行されていた地図が「バリ・パスフィンダー」だ。

1989年6月、シルビオ氏の「ヴィナ・ウィサタ」は閉鎖された。

その後「ヴィナ・ウィサタ」は、村営の観光案内所として現在の位置で再開している。

“酔いどれシルビオ” に会ったのは1990年6月「ウブドのセンゴール」だった。

小冊子「バリ・パスフィンダー」の日本語版「バリ島。海のない村」が1990年5月に発売されている。

写真:1990年《ヴィナ・ウィサタ観光案内所》

bina-wisata.jpg

地図と言えは、地名だ。

地名と言えば、村名。

強引に話を変えて。

村名に “bali” が組み込まれているのを見ると、私は異常に反応する。

バリ・フィリークなのに、村名で贔屓する。

例えば、ウブド北部のライステラスと田舎が残っているスバリ村。

「Se-bali」と書くところが気に入っている。

Seは、(1)ひとつ:sebuah一個、(2)全部:sedunia全世界、(3)同じ:seibu同じ母、の意味、と辞典(谷口五郎編)にある。

私は “孤高のバリ” と勝手に解釈している喜んでいる。

村名に惹かれて散策するうちに、スバリ村との関係が深くなっていった。

ジョゲッ・ピンギタンもそんな因縁で知ることになる。

ジョゲッ・ピンギタンの上演では、しばしば踊り手がトランスしてしまうことが起こった。

村人は、冠に神聖な力が宿っていると考え、呪術的舞踊、神聖な踊りとして、寺院内で儀礼用として演じられるようになった。

現在、ウブド近郊の2〜3の村で残っているが、儀礼用として踊られるのはスバリ村だけだ。

スバリ村は、ウブド日記「ポトンバビ・完全取材(17)にも登場しています。そちらもお読みください。

sebali.jpg

続いて、バリ東部クルンクン県にあるパクスバリ村。

パクスバリ村は、近年人気上昇中のリゾートエリア・シドゥメン村へと続く街道の入り口にある村。

「Pakse-bali」。Pakseの語源が知りたい。誰か教えてください。

「Pak-sebali」とも分解できるが、まさか、スバリおじさん(Pak=bapakの省略語)と言うことはないよね。

パクスバリ村のパンティ寺院(Pura Panti)は、喧嘩神輿のトランスが有名だ。

パンティと聞いて、不謹慎な興味を示すツーリストが時々います。

興味を持つところが違うだろう〜!。

あなた、あなた、あなたです、お慎みください。

「アパ?情報センター」では、毎年「喧嘩神輿・オダラン・ツアー」で世話になっている。

喧嘩神輿の情報は、テガランタン村のオカちゃんが幼少の頃世話になった村だったことから、1990年から見学させてもらっている。

やはり縁のある村だ。

Paksa-bali.jpg

「Se-bali」「Pakse-bali」と不思議な縁を感じて「バリ・パスフィンダー」地図上で “bali” と付く村名を探したことがあるが、地図上では見つけることはできなかった。

幹線道路をバイク・ツーリング中に、見つけることがある。

トランス儀礼を求めて、バンリ県を頻繁に徘徊していた頃のことだ。

眼に入った看板には「タマン・バリ=Taman-bali」と書かれてあった。

タマンは、花園と訳しておこう。

この時、高名なバリアンと知り合うことになる。

ワヤン君にまかせっぱなしのアパ?ですが、以前は「バリアン・ツアー」に名前を連ねて頂いたことのある御仁だ。

「Sindu-bali」&「Juwuk-bali」

写真は残っているのだが記憶がよみがえってこない。

両村の関係者の皆様には、ゴメンナサイ。

“bali”と付く村名探しも、いつの間にやら尻切れトンボで終わっていた。

taman-bali.jpg
Sindu-bali.jpg
Juwuk-bali.jpg

最後に、バリ関連の番外編です。

先日、アグン・ライが一時帰国していた時に、こんなことがあった。

ヤンデェ家のガゼボでのことだ。

「ポロンポロン」と、ライの携帯電話が鳴った。

生意気にも iPhon だ。(ひがんでいる発言)

「今バリに居るんよ」

iPhon を手に、愛媛弁でライが答えている。

「だから、今バリなんです。インドネシアの・・・」

相手はインドネシアと聞いて、やっと理解したようだ。

ライは日本人女性と結婚して、今、松山市に住んでいる。

出身がバリ島だと言うことは、仕事仲間も知っている。

電話の相手は「今治なら、近いじゃないですか。今から来てくれませんか?」と言ったそうだ。

愛媛ならではのジョークかもしれないが、日本にもバリと発音する都市があったのに嬉しくなった。

いつか私も、今治に行って「今バリに居るんよ」なんて、誰かに言ってみたい。


「アンギン(アグン・ライ)の帰郷(71)もお読みください。お願い。

posted by ito-san at 18:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月18日

ウブドにはスクターが似合う(39)

ウブドでは、バイクのことをバイクと言っても通じない。

オートバイと言ってみても同様に通じない。

バイク (Bike) とは英語でBicycle(バイシクル)の略で自転車を示すようだ。

英語ではモーターサイクル(motorecycle)かモーターバイク(motorbike)と言う。

オートバイは、アメリカ英語のオートバイ=autobike。

バイクもオートバイも 原動機で動く自動二輪車の呼び名。

どちらも和製英語だろう。

単車と言う呼び名もあった。

では、ウブドでは、なんと呼んでいるのか?

インドネシア語のスペダモートル(=sepeda motor)と言わないと理解してくれない。

スペダは自転車のこと。

英語と同様に、原動機付自転車の意味だ。

Bike.jpg

今日のブログネタは、バイクについてです。

興味の無い方には退屈かもしれませんが、出来れば最後までお付き合いください。

文章中では、日本人に馴染み深いバイクの名称を使わせてもらう。

私がウブドに滞在はじめた頃、村人はバイクのことを総称してホンダと呼んでいた。

1970年以降、日本製ホンダのバイクがウブドに普及し始めていたのが原因だろう。

このバイクは「セブン・チョブロ=ceblok」とか「ホンダ・ベベ=bebek」と呼ばれている。

チョブロはバリ語で0のこと。

70年の7と0で、セブン・チョブロだ。

べべはアヒルのこと。

ボディカラーは、赤に白が少々。

今でも現役で走っていて、クラシック・バイクとしてマニアに人気の車種だ。

ceblok.jpg

1970年以前のバイクは「モトル・ピット=motor pit」と呼ばれていたと言う。

デンパサールでは、各国各種バイクが走っていたが、ウブドでは珍しい時代。

スカワティとウブドに、各1台しか保有者はいなかったそうだ。

ウブド内や近郊を走るのは、小さなバイクが適している。

小型バイクを「ホンダ・べべ」、そして「モトル・べべ」と呼ぶ。

タンクが前にある大きめのバイクは「モトル・ラキ」「ホンダ・ラキ」。

ラキ(laki)は男性のこと。

バリ人は「モトル・ムアニ(muani)」と呼ぶことがある。

ムアニは、バリ語で男性の意味。

どこ国製が知らないが「ニンジャ(カワサキ)」「ショウグン」「リキシ」なんて珍妙な名前のバイクも走っていた。

VESPA.jpg

イタリア・PIAGGIO製のスクーター「ベスパ=VESPA」は、古くから普及していたようだ。

これもマニアに人気の車種。

左で操作するクラッチが扱いにくいスクーターだ。

そして、スクーターと言ってもウブドで通じない。

ベスパはベスパ。

車種がそのまま呼称となる。

唐突ですが、日本にスクーター・ラビットがあったことを思い出したので記しておく。

スクーターは、ウブドに最適な乗り物だと思う。

バリ人の正装は、カマン(腰布)を巻く。

足を揃えて乗せることのできるスクーターは、バリ人のためにあるようなバイクだ。

足下に荷物が置けるのもありがたい。

正装のご婦人が、頭に供物を乗せてバランスよく走る姿を見かける。

時には、マイカー並みの親子4人乗りだったりする。

何人乗っても、ウブド内でポリスに注意されることはない。


スクーター商戦が始まったのは、いつ頃だったか?

まず、600万ルピアの台湾製の安価なスクーターが出た。

100ccクラスで、消臭剤に似た名前のスクーターだった。

すぐに壊れ、修理が不可能だったので、半年もすると市場から消えていた。

2005年に、ヤマハがオートマチックのスクーター「ヌーフォ=NEUVO」と「ミオ=Mio」を発売。

ホンダは同年、オートマチック・スクーター「ファリオ=VARIO」を発売。

オートマチックは、なぜかメーテック(Metic)と呼ばれている。

ウブド人は、日本製のメカニックを盲目的に信じていてメード・イン・ジャパンの信奉者が多い。

金額は高いが日本製バイクの人気は高い。

ミオは、インドネシアの人気女性ボーカリスト、アグヌス・モニカをCMに起用して女性の顧客を獲得。

これが爆発的人気を博した。

オートマチックのスクーターは、バイクに比べ燃費が悪くパワーも弱い。

それでも、新車購入は、ほとんどだろうと思うほど、ウブドにミオが溢れた。

ウブド人の知人に聞くと「トレンドだ!」と言う答えが返ってきた。

Scoopy1.jpg

2010年、「ミオ」に市場を独占されたホンダは、巻き返し戦略としてインドネシア初のレトロ・タイプを発売。

「毎日がますます楽しくなる!!」のキャッチコピー。

懐古デザインの「スクーピー=Scoopy」は、顧客の欲求にフィットしたのか、見る見るうちに市民権を得た。

ウブドの町中を颯爽と走る「スクーピー」の姿が増えた。

毎年のモデルチェンジとボディカラーの斬新さで、市場を制覇する勢いだ。

写真は黒だが、ピンク、パールブルー、ワインレッド、クリーム、チョコレート、赤黒のツートンカラーなどなど、カラーリングも豊富にある。

参考価格:Rp13,650,000-。

ホンダ・ファリオの人気が高いのも付記しておく。

以上の情報は、行動範囲の狭い私の周囲に限られていることをご了承ください。


私のバイク遍歴は、アストレア800→アストレア・スター(ASTREA STAR)→アストレア・プリマ(ASTREA PRIMA)→スープラ(SEPRA)→スープラX(SEPRA X)。

そして、オートマチックになって、ファリオ→スクーピーとホンダ一辺倒できている。

日本で乗っていたトレイル・バイクがホンダだったせいで、今でもホンダの名前に愛着がある。

パワーは物足りないが、ウブド近郊しか乗り回さない年寄りには、ピッタリのバイクだ。
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2014年01月14日

Papan Nama=表札 について(38)

思い出したことがある。

小・中学校が近くにあるトゥブサヨ村の住宅地に居を移した、2006年のこと。

昼前後になると、学生たちの元気な声が聞こえる。

バイクの排気音を除けば、静かな環境だ。

私の中学生の頃(日本だが)にはなかったバイク通学が、ここでは許されている。

バイクは、新品で12〜13万円する。

新卒公務員の年収に近い高価なものを親が与えている。

今回は、バイクの話ではない。

学生たちの屈託のない話声を聞いて、表札のことを思いだしたのだ。


私は、伊勢湾台風で家が流される小学校5年まで名古屋の南部に住んでいた。

※伊勢湾台風は伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が特に甚大であったことから名付けられた、1959年(昭和34年)9月26日に潮岬に上陸した台風第15号のこと。犠牲者5,098人(死者4,697人・行方不明者401人)

中学校まであと100メートルという登下校路の途中にある長屋の一棟だった。

トゥブサヨ村の立地に似ている下町だ。

日本独自の文化に表札がある。

表札の起源は戸籍制度が導入された明治8年とされるが、庶民に普及し始めたのは郵便制度の整備が進んできた大正時代。

当時、我が家は家族全員の名前が書かれた表札を掲げていた。

登校時の学生たちは、急いでいるので脇見をしない。

問題は下校時。

グループを作っているし、放課後の開放感もあって好奇心旺盛だ。

玄関の鴨居に掛けられた大きな表札を目ざとく見つける。

見つけると彼らは、必ず、大声で家族全員の名前を読み上げていく。

私は、居たたまれなくて部屋の隅で身体を小さくした。

「産めや増やせの戦時下」我が家は8人家族だった。

表札には左から親父・伊藤八十松、その隣にお袋・千世。

以下右へ、一典(長男)、洋子(長女)、誠志(次男)、伸子(次女)、章司(三男)、そして末っ子四男坊の私の順に並んでいる。

私は戦後生まれの団塊の世代、戦争を知らない子供たちのひとりです。

親父の名前を読める中学生はいなかった。

「伊藤はちじゅう松」

おそ松君一家じゃないのだから。

「伊藤やじゅう松」

それはないでしょう。

今でも家族8人の名前が並んだ表札を思い出すことができる。

しかし、恥ずかしかった理由が思い浮かばない。


最近は個人情報の流出を防ぐために、表札を掲げる家も減ったという。

集合住宅が増え、郵便受けに名刺を貼って表札替わりになることが多い。

女性のひとり住まいに危険がともない、防犯上の理由で表札を出さなかったり男性名を掲げると聞く。

“ 験をかついで” 表札を盗んだという、合格祈願の話も遠い過去のことになってしまった。

住みにくい世の中になったものだ。



バリには、家々の門柱に、写真のようなプレートが貼られてある。

これを表札と言ってよいのかわからない。

Rojas3.jpg

デサ(村)の名前が上部に書かれている。

バンジャールの参加番号。

その下に、家長の名前・NAMA KK(kepala Keluarga)。

家長の出生年(Tahun Lahir)と、職業(Pekerjaan)。

枠の中には、LK(Laki-Laki・男性)の数、PR(Perempuan・女性)の数、とJML(Jumlah・合計)が表示してある。

家長以外の名前を標示されていない。

村によっては貼られていなかったりプレートの仕様が違うのは、行政があまり管理していないからだろう。

郵便物は村長宅にまとめて送られ、そこから各家庭に配られているので、郵便制度とも関係ないようだ。

rumah-sehat.jpg

門柱には他に、住所ナンバーが掲示してある。

これはブルーのナンバープレートだ。

「REMAH SEHAT=ルマ・セハット」と書かれた、ナンバープレートより大きなプレートがある。

直訳すると “健康な家” となる。

TIPE A、TIPE B、TIPE Cの3種類があったりする。

さて、これはいったい何でしょう?

・・・・・・・・・・?。

これはインドネシア政府が主催する各家庭の衛生状態のランク付け。

目的は、インドネシア国民の生活水準の向上と平均化だそうです。

TIPE Aは、とても良い。TIPE Bは、良い。TIPE Cは、普通。

ランク付けは、県ごとに選出された審査員(医師など)がチェックする。

突然現れて、ざっと見ていく程度で、そんなシビアなものではないようです。

では、チェックポイントです。

○カマル・マンディ(トイレ、水浴び場)の有無と衛生状態

○ゴミ収集場所の有無とその状況

○台所の衛生状態

○花壇の有無(薬草や唐辛子などが植えてあればポイントは高いらしい)

近代化は、まず、衛生環境の改善からと言うことだ。


毎年、全国規模で行われている村コンテスト「ロンバ・デサ=Lomba Desa」がある。

「ルマ・セハット」のポイントは、ここでも大きく評価される。

1995年の「ロンバ・デサ」で、ウブド村は優秀賞をインドネシア政府より受賞している。

1996年に行われたウブド村主催のバンジャール単位の「ロンバ」では、我がテガランタン村が優秀賞を獲得。

賞品は、セメント数袋。

セメントは、テガランタン村の公共施設のために利用されたそうな。

話が大きくそれてしまったが、まぁいいか。
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2014年01月13日

キャン・ユー・スピーク・イングリッシュ?(37)

今夜の「日本料理店・影武者」の大テーブルには、女性5人と私がいる。

ウブドからスラバヤに居を移した綾子さんが、主婦仲間3人をつれて来店。

もうひとりは女将・由美さんです。

スラバヤからの遠征目的は、インドネシア語技能検定試験をバリで受けること。

今朝、試験を済ませウブド入り。

試験を終えた開放感から彼女たちのテンションは高い。(これが普通かもしれない)

バリ滞在の本当の目的は、この後のウブド観光にあるのではないかと勘ぐってしまうほど楽しそうだ。

night.jpg

深夜12時に近い時間。

「影武者」の入り口から「キャン・ユー・スピーク・イングリッシュ?」の声。

大テーブルの全員が、声の方に振り向く。

そこには、緊張した表情の白人女性が立っていた。

足下は素足。

余程のことが起こっているのだろうと、想像できる。

影武者の営業時間は夜11時まで、すでに閉店している。

我々は、ヤケド虫の話で盛り上がっているところ。

関わるのも面倒だし、英語を得意とする者もいない。

適当にあしらって、帰っていただこうか。

しかし、困っているのなら放っておけないのも人情。

まずは、理由を訊いてみよう。

由美さんが「リル・ビット!」と答えた。


「部屋にネズミが侵入して、部屋中を駆け回るので困っている」白人女性は訴える。

頼れるのはあなたたちだけなの、という悲壮感が漂う。

「それなら、影武者の猫を一匹お貸しするので、お持ちください」と女将。

近くに黒猫 “黒ちゃん” の姿が見える。

「ネズミより猫の方が、よりベターだわ」会話にジョークが混じった。

少し落ち着いてきているようではある。

しかし、“黒ちゃん” を抱き上げる様子は見えない。

「実は、ネズミがタンスの後ろの隙間に入ったので、私はタンスを押してネズミを押し込みました。それがチューチューと鳴いて怖いのです」

そうか、タンスの裏でチューチューと一晩中鳴かれては眠られないだろうな。

ネズミに関しては、私にも苦い経験があり彼女に同情した。

※「極楽通信UBUD・ウブド沈没:パスポートに偽造スタンプ」に経験談有り〼。

問題は、彼女の宿泊先だ。

状況から察するに、彼女は近くに宿泊しているはず。

影武者に裸足で飛び込んでくるほどの近くと言えば・・・・。

それは、昨年末まで駐車場問題を起こしていたヴィラでしょう。

「ヴィラに、スタッフはいないのですか?」全員の声が揃った。

これは当然の質問だろう。

女性ひとりの泊まり客。

「セキュリティもスタッフもいないヴィラってどうなのよ?」突然、女言葉になってしまう私。

連絡先もないと言っている。

危険きわまりない。

大テーブル全員が、マジに心配顔になった。

ネズミを退治しない限り彼女は、部屋に戻れないだろう。

「取りあえず、全員で退治しに行ったら」私は他人に大役を押し付けるような発言をした。

「私、ネズミ大丈夫だから」スラバヤ婦人のひとりが、心強い発言とともに立ち上がった。

手にサランラップの芯と黒ちゃんを抱きかかえている女将は、黒猫作戦を実行するつもりのようだ。

人の良い女将は、駐車場問題を忘れて、ネズミ退治に参加する覚悟でいる。

白人女性は、2人の勇ましい日本人女性を従えてヴィラに帰っていった。


しばらくして、笑い声とともに2人は戻ってきた。

ネズミは、タンスの裏ですでに事切れていた。

白人女性は、終始「イヤイヤ=嫌々=ノーノー=No No」を繰り返すばかり。

床をネズミが転がるのさえ、嫌なのだ。

スラバヤ婦人はティッシュを片手に「以外と大きな奴だった。つまみ上げて、田んぼにポ〜んと投げ捨ててやった」と平然としている。

女将はサランラップの芯を手にしながら「黒ちゃんは、ヴィラに着いたらすぐに逃亡してしまった」と黒猫作戦の失敗を嘆く。

今回は、ネズミ撃退に対応できる人材が居合わせたのが幸運だった。

我々がいなかったら彼女はどうしたのだろう。

ネズミごときで恐れをなしていたら、ウブド滞在もままならないゾ。

裏の川には、1メートルほどの水トカゲが棲息しているのだから。

どんな問題が起こるか予想もつかない。

駐車場問題が持続しているヴィラの諸問題を、影武者のスタッフが今後もアシストをすることもあるだろう。

周囲とのコミュニケーションが必要だ、ということを理解して欲しいものだ。

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2014年01月08日

ウブドでソフトクリームが食べられるのは、いつの日か?(36)

ウブドにアイスクリーム屋が増えた。

今風には、イタリア語でジェラードと呼ぶらしい。


1990年ウブドでアイスクリームと言えば、中国製の黒い自転車の荷台に円筒型のクーラー・ボックスの入った木枠の箱を取り付けた行商さんの塩っぽいアイスクリームだった。

脇にはコーンの入ったビニール袋をぶら下げて、日本の豆腐屋さんような笛を鳴らしてやって来る。

今でも、裏道をこのアイスクリーム屋さんは通る。

地元の子供たちは、アイスクリーム屋さんが来るのを楽しみにしている。

胃袋の病弱な私は、未だに試食していない。

詳しくは:26「アイスクリームが食べたい」をお読みください。

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停電の多かったウブドには、アイスクリームがメニューにあるレストランは少なかった。

冷凍庫を持っていても停電しては、アイスクリームがシャーベットになってしまう。

アイスクリームを食べたい時は、州都デンパサールまで足を伸ばさなくてはならなかった。

冷たいものを食べたい時は、かき氷だ。

エスチャンプール=Es Campur(ミックスかき氷)・エスブア=Es Buah(フルーツかき氷)・エステレール=Es Teler(フルーツ入りココナツミルク氷)などなど種類は豊富。

ゴミの混じった氷だから、レストランに置いてなかったかき氷。

胃袋の病弱な私が、かき氷を味わったのは、かなりあとになってからだ。


1995年、ウブドにアイスクリーム商戦が始まる。

カャンピーナ(Cammpina)、オゥールス(Wall's)、ペターズ(Peters)といった、おそらく外資系だろうと思われるアイス・クリーム・メーカー3社が進出してきた。

3社が、こぞって路上販売に出た。

近代的手押しワゴンで、これまで大きな町でしか買うことができなかった本物の美味しいアイスクリームが、「ランララ、ランラ、ランラララ」「タータラ、タータラ」などと陽気なBGMを鳴らして村中にやって来た。

耳について覚えてしまうほど頻繁にやって来た。

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※カャンピーナの発着所は、プンゴセカン村の現在「SiSi」がある場所にあった。

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停電が少なくなって、メーカー3社のアイスクリーム・ケースが雑貨屋に置かれるようになった。

しかし、時々、短時間の停電はある。

手にしたアイスクリームがシャーベット状だったことがある。

アイスクリーム・ケースが設置される雑貨屋が増えると、このビジネスも下火になっていった。

今では、細々と自転車でやってくるのを見かける程度だ。

コンビニ店が進出すると、いつでも食べられるようになった。

※48「ウブド・コンビニ事情(conveni)参照。

1996年オープンのスーパーマーケット「Delta Dewata」、それ以前からあったミニ・スーパー「TINO」&「Dewi Mas」にアイスクリーム・ケースが設置されていたかどうか記憶が定かでない。

記憶のある方教えてください。

テレビのCMでも、アイスクリームの宣伝が増えている。

「マギナム」なんて人気商品だ。

観光客が立ち寄るアイスクリーム店の1号店は、モンキーフォレスト通り「クルタ・アコモデーション」前とモンキーフォレスト入口前に2004年10月オープンした「タナ・メラ=Tanah Merah 」だったと記憶する。

スリーモンキー・カフェは「ハーゲンダッツ」の冷凍ケースを店頭に置いて販売した。

サヤン村にある「ガヤ」の本格的イタリア・ジェラードが人気を呼んだ。

その後、続々とジェラード専門店が開店している。

あなたのお薦めはどこですか?

訊いたからと言って、行くわけでもありませんが(失礼)。



私はアイスクリームも好きだが、ソフトクリームはもっと好きだ。

田舎暮らしで、贅沢言っちゃいけないのは知っている。

お叱りを受けても、それでも、ソフトクリームは食べたい。

サヌールまで出掛ければ「マクドナルド」で売っているが、私には遠い世界。


今月の始め、ウブドにソフトクリームの店がオープンしたと聞き、さっそく行ってみた。

「ソフトクリームひとつ!」私は、小学生のように元気いっぱいで注文した。

女店員さんが「ソフト・サーブ・アイスクリームですね」と念を押す。

「いや、アイスクリームじゃなくて、ソフトクリームです!」

私は、ソフトクリームが和製英語で、正式には英語でソフト・サーブ・アイスクリームだということを知らなかった。

奥に見える機械は、マクドナルドで見かけるのと同じマシーンに見える。

同じマシーンから出てくるなら、私の思い描いているソフトクリームと一緒だろう。

「カップにしますか? コーンにしますか?」と訊いてくる。

私の常識では、ソフトクリームはコーンとインプットされている。

「コーンです」即答した。

手渡されたコーンは、ホームメイド・ワッフルだった。

私の常識では、コーンはウエハースと決まっている。

残念なことに、ウエハースのコーンは置いていないようだ。

ソフト・サーブ・アイスクリームの先は、コーンの上で渦を巻いて聖火のように尖っていた。

これこれこれですよ。

コーンは希望通りじゃないが、形には満足。

聖火の先っちょをナメル。

ウゥ・・・・口に含んだ時の感触が違った。

似ている、しかし・・・・食感が違う。

口の中で滑らかに溶ける感じがない。

食べ進めていくうちに、シャーベット状のアイスクリームの味になってきた。

「ショック!」

これは私が求めているソフトクリームとは異質な物だ。

私は、オコチャマだから、普通のソフトクリームが食べたいのだ。

普通と言うのは、日本で食べたことのある「日世のソフトクリーム」か、地元名古屋の「すがきやのソフトクリーム」のことである。

残念無念。

わかるかな。

わかってくれるかな。

こうして、私の「ソフトクリーム初体験@ウブド」は、夢と消え去ったのであった。

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2013年12月27日

ウブド・宿泊施設の変遷(35)

バリ島には、世界各国から観光客が押し寄せて来る。

日本人観光客は横ばいだが、ここ数年、中華系(台湾、香港、中国本土)、大韓民国、ロシア連邦の観光客が目立つようになってきている。

経済成長している国々だ。

世界中から “癒しの観光地” として注目されているバリ島。

職人不足になるほど建築ラッシュは続き、開発途上の景色を作っている。

ホテルはアパート形式で部屋数は多く、供給過多ではないかと、他人事ながら心配してしまうほど宿泊施設が増殖している。

別荘地としても世界中の富裕層から注目されているバリ島。

近年は、投資目的の長期リース・ヴィラが増えている。

これらが、地価高騰の要因と言えるだろう。

「諸行無常」、発展を避けられないのはわかっている。

地形を壊さず、自然との調和を保った建築を期待したい。


ウブドに旅行者が泊まったのは、ウブド王宮が最初だった。

その時はゲストとしての宿泊で、本当の意味でのホテルではない。

外国人旅行者としてヴィルター・スピースが滞在し始めた時期、ウブド王宮は宿泊施設としての役目を果たしていたと思われる。

一般観光客を泊めたホテルは「ホテル・チャンプアン」と「ムティアラ・ホテル」(1955年)から始まった。

ホテル・チャンプアンは、ウブド王宮がウォルター・スピースに提供した土地に、彼が建てた住宅を改築してオープンしたホテル。

現在は、ウブド王宮の所有となっている。

ムティアラ・ホテルは、ウブドの変則十字路西・ワンティラン正面にあった。

現在「レストラン・ココビストロ」がある一画だ。

部屋は8室で、ジャカルタの旅行社から送られた観光客が顧客だった。


私がウブド滞在を初めた1990年以前の宿泊施設は、ホームステイが主流だった。

ここで言うホームステイは、家族と同じ家屋に泊まって寝食を共にするというのではなく、別棟を借りる民宿のようなものだ。

バリ人の生活習慣が身近で見られるのが、ホームステイの良いところ。

私が泊まったのは、カジェン通り1番地の「ロジャース・ホームステイ」。

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↓ 写真は、私が宿泊していた家屋。

当時とほとんど変わっていない(撮影:2013/12/25)。

今は、ロジャーのお父さんが使用している。

足腰の弱くなったお父さんのために、階段に竹の手すりが付いていた。

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ウブドを散策すると、門や塀に、小さな看板が掛かっている家を見つける。

ロスメン、ゲストハウス、アコモデーション、ハウス、イン、ペンッションなどとさまざまな名称をつけて観光客の目を引いている。

軒並みホームステイだ。

老朽化したホームステイが改築され、プール付き、ヴィラ風のホームステイも増えている。

ホームステイの第1号は、モンキーフォレスト通りにある小学校の横の道を入った「オカ・ワティ」だと言われている。


1990年に入って、バンガロー、コテージ、ヴィラ、ロッジなどといったミドルクラスの宿泊施設が建築されるようになった。

海外の旅行会社が中級ホテルと契約を交わして、一般観光客を送り込むようになったのもこの頃だ。

これまで滞在者のほとんどがホームステイを利用するバックパッカーだったが、この頃から旅行者の様変わりが始まったと言える。

毎日が暇だったので宿泊施設を調べたことがあるが、100件ほど調べたところで調査を止めた。

次からつぎへと増え続けるため断念した。

今では、300件以上あると思われる。

それと、「勝手に調査をすると逮捕されるよ」と人類学を研究している友人からアドバイスされたからだ。

当時は、政府の許可を得ないと調査をしてはいけなかった。

共産党クーデター(1965年)の残滓に、25年を経てもなお神経を配っていたのだろうか。

「居酒屋・影武者」が、漢字の看板を出していて叱責を受けた時代だ。

これは、単なる嫌がらせだったかもしれないが。


ホテル名に “リゾート” “スウィート” “ヴィラ” が加えられたり変名し始めたのは、いつの頃からだったろうか?

スパやエステサロンが観光客の目玉商品になると顧客確保にスパを併設し、名称にスパが加えられるようになった。

ウブド田舎暮らしの私には、これが世界的な傾向なのかどうかを知るすべがない。

これらのホテルの一泊は、現地の人なら2〜3ヶ月分の給料に匹敵し、私のひと月の収入と変わらない料金だ。

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ホームステイから中級ホテル、そして五つ星ホテル、さらに高級ヴィラまでが混在するウブド。

『ウブドの未来は、いかに!』

リゾート地としての優位が、いつまで続くか、と危惧するのは私の思い過ごしだろうか?

posted by ito-san at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月25日

バリで見かけた「道路標識」(34)

今夜は、クリスマス・イブ。

今の私には、まったく関係のない行事である。

いつものように、平凡な一日が過ぎていく。

ドゥダルの来襲も、日増しに減っている。

しかし、このところ連日の雨模様。

洋服タンスの衣類が湿気気味。

身体も湿気ってきている。

本格的な「雨季」に突入したのだろう。

昨年は、こんなに雨が降り続いただろうか。

1年前のことなのに、すでに忘れている。

大家のパチュン君に言わせると「毎年、こんなもの。1月はもっと降るよ」って。

外出もままならない。

時間を持て余して写真の整理をしている。


デジタルカメラを入手する(たぶん2007年)以前のプリントした写真だ。

保管してあったネガの表面が、湿気でほとんどが溶けてしまった。

プリントした写真は、シミだらけ。

残り少なくなった写真をスキャンして、パソコンに保存する作業中。

バリで見かけた「道路標識」のいろいろを見つけたのでアップしました。


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まずは、バリならではの《 HATI HATI ADA UPACARA 》標識。

「この先で、儀礼を行っています。注意してください」

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バリ西部で見かけた「鹿(ムンジャンガン=Menjangan)に注意」の標識。

ムンジャンガン島には、野生の鹿が棲息しているらしい。

ちなみに、トヨタ車の名称のキジャンは、小鹿のこと。

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「この先で、工事を行っています。注意してください」の標識。

緊張感のないイラストに、微笑んでしまった。

雑な工事してんだろうな〜。

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「この先、緩い段差があります。注意してください」の標識。

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「この先、オッパイがあります」の標識ではありません。

こんな勘違いするのは、私だけか。

正解は「急な段差が続きます」の標識です。

注意を促す標識は黄色なんですね。今更、気がつく愚か者の私。


次のブルーの標識は、イラストで理解できますよね。

「この先、○○があります」の標識


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標識5.jpg

正解の方には「道路標識バッチ」進呈。

そんな物あるんかい?(ひとり突っ込み)

嘘ついてゴメンナサイ。

クリスマス・イブだから、許してください。

それこそ関係ないでしょう。(苦肉のひとり突っ込み)

posted by ito-san at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月21日

カキ・リマ・ベンシン(33)

年々、ガソリン代が値上がってますよね。

現在、リッター6,500ルピア。

おかげで諸物価も右肩上がり。

私の日常にも貧窮の兆しが見えて来た。

貧乏してても癒されるウブドで生活していて、泣き言を言ってはヒンドゥーの神様に叱られるそうだが。

唐突に話は変わりますが。

ウブドで「ガソリン・スタンドはどこにありますか?」と村人に訊ねても、誰も教えてくれませんよ。

どうしてかって?

それは「ガソリン・スタンド」は和製英語で、英語では「ガス・ステーション」だからですよ。

ゴメンゴメン、そうがじゃなくて、インドネシア語で「ポンパ・ベンシン(Ponpa Bensin)」と言わないと通じないのです。

かく言う私が、困った経験者です。

ポンパはポンプのことで、ベンシンはガソリン。

ベンシンをポンパで汲み上げるところから命名されたのかな?

一般的にウブドでは「プルタミナ」と呼ばれている。

ガソリン・スタンドはポンパ・ベンシンで、売っているベンシンはプレミウム(Premium)と言われる。

ちなみに油はMinyak、石油はMinyak Bumi(地球)、灯油はMinyak Tanah(大地)、香水はMinyak Wangi(芳香)だって。


インドネシアの石油は「国営プルタミナ」1社の独占販売。

近年、民間会社が権利を買って「プルタミナ」を経営しているところもあるそうだ。

ウブド地域のプルタミナ1号店は、1998年のテガス(マス方面)だった。

続いて、テガス・カンギナン(Tegas Kanginan)が2001年。

アンドンは2005年。

プンゴセカンは2006年になる。

「プルタミナ」ができるまでは、雑貨屋で瓶詰めのプレミウムを買っていた。

ウブド大通りはもちろんだが村道沿いに、軒並み(100メートルおき)に見つけられた。

なぜか看板には、英語で「PETROL」と書かれてあったりした。

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ポンパ・ベンシン出店の影響で廃れ、今では見つけることが大変なほど軒数が減っている。

瓶から、プラスチックのジョウゴに濾して入れてくれる。

こちらはちょっと割高で、リッター7,000ルピア。

プレミウムを売るワルンは「カキ・リマ・ベンシン(Kaki Rima Bensin)」と呼び「プルタミナ」と言い分けている。

カキ・リマは5つの足と言う意味で、手押し車屋台の車輪2つと突っかい棒、それを押して商いをしている人の足2本の合計のこと。

現実には、プレミウム販売を手押し車で営業していないので、通称と言うところですかね。

Kaki-Rima-Bensin2.jpg


プレミウムと言えば、こんな思い出がある。

ぺー・カー・べー(PKB)のゴンクビヤール県対抗戦を鑑賞した帰りのこと。

PKB(Pesta Kesenian bali)は、観光客にはアート・フェスティバル(バリ芸術祭)としてアピールしているが、地元の人々にはぺー・カー・べーでないと通じないことが多いので注意・注意。

夜11時30分頃。

とにかく、その帰路でのことだ。

バトゥブラン・デンジャラン村集会場(バロン・ダンス会場)の前で、バイクが止まってしまった。

ガス欠だ。

こんな時間に、こんな場所で、最悪のガス欠。

どうしよう。

「カキ・リマ・ベンシン」は、夕方6時頃には店を閉めてしまう。

この頃は、まだポンパ・ベンシンも少なかったし、この時間では閉店している。

途方に暮れていると、道路を渡って近づいて来る人影があった。

そういえば、集会場のクルクル塔の下に数人の男たちが腰を下ろしているのを見た。

きっと、そのうちの一人だろう。

彼に、この時間でもプレミウムを売っているところを訊いてみよう。

近づいた青年は、東映のヤクザ映画にでも出てきそうな苦み走ったいい男だった。

ちょっと危険を感じる男だが、この男ならお近づきになってもいいかな、なんて思うほどの細面の男前だ。

青年は「ガス欠なんだろう」というジェスチャーをし、俺についてこいと無言で行動した。

プレミウムを売ってくれるところへ連れて行ってくれるのだろうと判断し、私はついて行った。

青年は、400ccのバイクに跨った。

私が後部座席に乗ると、バイクは爆音をたてて駆った。

大通りを1〜2分走り、左折して住宅街に入っていった。

バイクは、板戸の閉まった雑貨屋の前で止まった。

やはり店は閉まっている。

しかし、青年のクールな表情は変わらない。

これからどうするのだろうと、青年の行動を見ていると、彼は板戸を緊急事態でもあるかのように激しく叩いた。

青年は中から返ってきた声に答えると、雑貨屋の中に入っていった。

すぐに、赤い小さなポリタンクを手に戻って来た。

プレミウムが手に入ったのだ。

これは、まさに天の助けだ。

青年は私のバイクにプレミウムを入れると、エンジンを起動させた。

これでウブドまで帰れる。

青年が自分のバイクに跨った。

私はプレミウム代を青年に手渡した。

お礼にいくらかのお金を渡そうとした時には、すでに青年は背中を見せて走り去っていた。

親切を押し売りしない青年の行為に、私は「格好いい奴!」とつぶやいていた。


幻の青年の話を、私は数人の日本人女性に話して聞かせた。

彼女たちは、青年に会いたがった。

もちろん私も会いたかった。

しかし、私に青年との連絡手段はない。

時が流れ “影武者” の由美さんの婚約者・バトゥブラン村のデド君との雑談の中で、私はこの親切なバトゥブラン村の青年の話をした。

ことの顛末を話し終わると「それは私の従兄弟でしょう」とデド君は言った。

バリでは、こういう出会いがよくある。

同席していた、kyokoちゃんからクレームがついた。

バイクの一人乗りだと思っていたら、どうやら彼女と一緒だったようだ。

kyokoちゃんとボンチェン(2人乗り)したという記憶ない。

もしデートだったとしたら、私は失礼な奴だよね。

よくよく考えてみると、バイクではなくトヨタのキジャンに乗っていたようだ。

ウブドから数人が同乗して、ぺー・カー・べーに出掛けたのを思い出した。

それにしても、素晴らしい思い込みだ。

キジャンを路上駐車して、青年とプレミウムを探しに行ったのを思い出した。

かなり記憶が薄くなってきている。

ボケが始まってきてはいるが、救いは髪が薄くなってきていないことだ。

私は青年と再会を果たすことができ、あの時のお礼を伝えた。

諏訪ちゃん、オギボーさん、残念です、青年は結婚していました。


posted by ito-san at 15:48| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする