2013年12月12日

映画出演の続き・その参(32)

夜になって、迎えの車が来た。

今、安ホテルに残っているのは、カズ君とコテツちゃんと私の3人だ。

車は、民家が立ち並ぶシンガラジャ市街に入った。

撮影用照明が用意され、道路が煌煌と照らし出されていた。

黒々とした配線ケーブルが、道路に敷設されている。

あたりには、人垣ができていた。

撮影現場とは、こういうものなのだろう。

そして、その役者が我々3人組だということだ。

オランダ統治時代の建築と思われる2階建の邸宅がライトアップされている。

本格的と思われる撮影現場の雰囲気に圧倒され、緊張する。

今夜は、かなり重要なシーンの撮影になるのだろう。

人垣を抜けて邸宅に入る。

足の踏み場もないほど、いたるところにケーブルが這いずっていた。

監督から手渡された台本には、ローマ字で日本語のセリフが載っている。

以前もらった台本にあったセリフだ。

このセリフなら、ほとんど覚えている。

いよいよ阿南少佐の登場だ。


私は、寝室の設定になっている部屋にいる。

空き家なのだろうか、室内には椅子ひとつない。

座る椅子がないので、部屋の中をウロウロと歩き回る。

扉を隔てた応接室には、平良定三役のカズ君と役名を忘れてしまったコテツちゃんがいる。

この夜、平良定三とその仲間は、血判を押した離隊決意書を携えて阿南隊長宅を訪ねていた。

隊長は尊敬できる人物で、彼らから全幅の信頼を得ていた。

史実では、シンガラジャの阿南隊長宅を訪ねたのは、平良(ニョマン)、田島(グデ)、中野(マデ)、木村(クトゥ)の4名である。

本番スタートの指示がでた。

私は心を落ち着けるために、大きな深呼吸をした。

カチンコが「カチン」と鳴った。

今まで就眠していたという様子で、私は、あくびを噛み締めながら部屋から出る。

机の向こうに、背筋を伸ばして緊張した面持ちで2人が座っている。

この緊張は、彼らがあがっているからか、それとも役柄になりきっているからか、判断がつかない。

私は、相対するように腰をおろした。

彼らから緊張感が伝わってきた。

役柄になりきっている。

「われわれは、今夜12時をもって独立軍に参加すべく離隊いたします」平良軍曹が代表して意見を述べた。

想像はしていた事態だ。

私は渋面をつくり、少し瞑目したあと「そうか……」と、沈む声で答えた。

「お前達の気持はよくわかる。お前達のとろうとする行動について、今は、良いとも悪いとも判断がつかない。結果は歴史が解明するであろう」

複雑な心境での発言だ。

「ただ、私には兵士を親元に帰す義務がある。そのために私は隊長として、お前たちを止めることも薦めることもしない」

それだけ言うと、深く椅子に腰を落とし、背もたれに背中を預けた。

このセリフも事実にもとづいている。

完璧に覚えたセリフで、阿南少佐に成りきることができた。

「有り難うございます。長年お世話になりました。それでは今夜12時に部隊を離れます」と断り、2人の兵隊は退去していった。

彼らは今後、脱走兵として身を隠し、特別遊撃隊としてインドネシアの独立に加担するのだ。

戦時下だか、オランダと蜜月関係のあるウブド王家の長男チョコルド・ラカ・スカワティが、東インドネシア共和国の大統領に任命されている。

オランダのインドネシア統治に賛成であるウブド王族の監視からも逃れなくてはならない。

前途は多難だ。

そんな思いを全身で表現する。

カメラは、私の背中を撮っている。

モニターを見ている関係者から、拍手がわき起こった。

監督の横に、エバァさんとロベルトさんがいる。

カズ君とコテツちゃんの顔も見える。

拍手は、なかなか鳴り止まなかった。

Margarana10.jpg

軍関係者の住宅と思われる場所に、車で移動。

カズ君とコテツちゃんが、ぼさぼさの長髪カツラに髭をメークされた脱走兵に変身。

出番のない私は、見学だ。

みすぼらしい姿の2人は、ジャングルを7日間彷徨う脱走兵。

屋外に作られた簡単なセット。

村人に助けられ、食事を施されるシーン。

「もっとダイナミックに食べてください!君たちは一週間何も食べていませ〜ん!うわ〜飯だ〜!っう感じで。わかりますか!は〜いスタート!」と監督の怒鳴り声。

何度目かのNGを経て、やっとOKのサインだった。

Margarana9.jpg

続いてのシーンでは、煙幕の夕霧が焚かれた。

ライトに映し出された煙幕が幻想的だ。

夕霧に紛れて、2人は兵舎に忍び込もうとしている。

インドネシアの独立に欠かせない武器を、日本軍から盗もうとしているのだ。

2人はあたりを注意深く窺っている。

銃声が聞こえた。

どこかからか狙われている。

逃げ惑う脱走兵。

レールの上をカメラが移動する。

共演の役者もエキストラもいない。

カズ君とコテツちゃんの2人だけの戦闘シーン。


この後、撮影は資金不足ということで中止となった。

資金のメドがつけば集合がかかるだろうと、我々は映画の完成を望んで待機した。

再び、我々日本人が呼ばれることはなかった。

にわか役者の生活は、3ヶ月ほどで幕を閉じた。

インドネシアの独立に協力した阿南少佐は、英雄となって讃えられている。

映画が放映されていれば、英雄を演じた私も株が上がって、ウブド生活も違ったものになっていただろう。

返す返すも残念である。

バリ島残留日本兵で最後のひとりとなった平良定三(ニョマン・ブレレン)さんは、2004年6月5日に亡くなっている。

〜完〜

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2013年12月10日

映画出演の続き・その弐(31)

残念な出来事が起こった。

日本兵のエキストラは、中国系インドネシア人の学生が演じている。

深谷さん、カズ君、コテツちゃんの出演するシーンには、彼らと共演することがよくある。

休憩時間に学生のひとりが悪戯していたモデルガンが暴発し、近くにいた深谷さんの片眼に火薬があたってしまった。

誰とでもすぐに仲良くなってしまうのが特技かのように、深谷さんはまわりの人間と打ち解けてしまう。

そんな時の事故だと思う。

この日の撮影現場は、コテツちゃんが一緒だった。

ただちに、デンパサールのサングラ病院に運ばれた。

検査入院だ。

私には、コテツちゃんから知らせが入った。

最初に浮かんだのは「眼が不自由になっては、仕事に差し支えるのではないか」ということだった。

深谷さんは、コミックの公募に「アキオ紀行バリ」が入選して漫画家としてデビューしたばかり。

漫画家として将来が多いに楽しみな青年が、インドネシア軍部を誉め称える広報活動のような映画の撮影に参加して失明してしまっては不憫だ。

翌日、カズ君とコテツちゃんと一緒に病室を訪れた。

角膜に傷、角錐に内出血があるそうだ。

本人は元気そうにしていたが、心の中には不安がいっぱいだったろうと思うと、胸が苦しくなった。

サングラー病院での手術は、推薦できるほどの情報がない。

映画製作会社からの傷害保険の保証はない。

話し合ううち、本人がシンガポールの病院に移る意思を現した。

海外青年協力隊でバリに赴任していたA子さんの協力を得て、ことなく移送することができた。

シンガポールでの手術が終わると、深谷さんは日本に帰国した。

リハビリには、半年ほどかかるそうだ。

視力は、少し落ちると言う。



「わるん酔し」のオーナー・竹俣さんの車に便乗してバリ北部シンガラジャに向う。

今回の撮影現場は、シンガラジャだ。

同乗者は、私にコテツちゃん、カズ君とカズ君の奥さん。

プスピタのかおりちゃんとバリ舞踊を習っているゆきちゃんが女優初挑戦で同行している。

久しぶりの遠出で、みんなウキウキ遠足気分。

別組で行動している竹俣さんは、すでにたくさんの場面に出演していた。

タバナン県チャナンサリ村のグスティ・ングラ・ライの実家で、斥候役で活躍したことを話してくれた。

途中にあるゴルフ場に立ち寄って、竹又さんの知人をスカウトしていくことになった。

残念なことに「忙しいから無理です」と断られてしまった。

「私は駄目だが、スリリット村に住む日本人はどうですか」と紹介された。

スリリット村に、ひとりで住んでいる男性がいることに驚いた。

誘うと、喜んで同行してくれた。

シンガラジャ市の外れにある、軍の施設に到着。

別の車で現地入りしたロベルトさん一行と合流する。

こちらの一行は欧米人ばかりだ。

取りあえず、街の中心地まで出て昼食にしよう、ということになった。

Margarana4.jpg

食後、軍舎に戻る。

だだっ広いロビーに、赤いパンチカーペットが用意されていた。

ここが控えの間というわけだ。

カーペットの上に腰をおろし、荷物を近くに置く。

何の説明がないままの待機のため、退屈でしょうがない。

退屈だからと言って、軍舎の中を勝手に徘徊するわけにはいかない。

スパイ容疑で逮捕され、政治犯として刑務所送りになるのは嫌だ。

ダラダラしている我々に、いきなり「エキストラを探せ!」特命が下った。

ヨーロッピアンのエキストラが20名ほど必要なのだそうだ。

必要だからといって、現地調達でいいのかい。

ロベルトさんが、カズ君とコテツちゃんを連れてロビナ・ビーチへ出掛けて行った。

なぜ、出演者がエキストラ調達に走るのかと疑問に思ったが、こういう業界にはこういうこともあるんだろうなと無理矢理納得する。


特命を受けたエキストラ調達隊から聞いた話。

ホテルのプライベート・ビーチに入り込み、砂浜に寝ころんでいる観光客を物色。

この時点で、かなり怪しい奴らだ。

ロベルトさんから「カップルとグループを狙え!」の作戦が下った。

ひとりだと尻込みしていまうが、仲間がいると思い切った行動ができる、というのがロベルトさんの考えだ。

旅先でのエキストラ出演は、思い切った行動なのか?

出演している我々は、無謀な行為なのか?

我々を無謀な行為に誘ったロベルトさんは、何者?

いくつかのクエッションマークが浮かんだ。

「映画に出演しませんか?(英語で)」

老人と子供を省いた、カップルとグループに “ 突撃・出演交渉 ”が始まった。

リゾートに来てのんびりしているところに、いきなりと声を掛けられたら驚くだろうな。

おまけに、カズ君とコテツちゃんは英語が苦手。

ロベルトさんが助け舟を出すまで、2人の説明はどうしていたのだろう。

「オー・マイ・ゴッド」よほど物好きでない限り辞退する状況だ。

物好きヨーロッピアンは、10数名いた。

Margarana5.jpg

パンチカーペットの控えの場で、衣裳を着替える。

ゆきちゃんが「化粧がケバい。これでは娼婦だ!」と憤慨していた。

インドネシアのオカマちゃんの化粧は濃いことが判明。

軍舎の運動場に集合。

運動場にはテントが張られ、記念式典風景になっていた。

テントの中にヨーロッピアンの顔が見える。

ロビナ・ビーチでキャッチしてきた、物好きヨーロッピアン達だろう。

我々日本人は、テントの後方席に座った。

景色を見ているうちに撮影は終わっていた。

このあとすぐに、晩餐会の撮影が官舎内の一室で行われた。

竹又さんとかおりちゃんが政府高官の夫妻役となり、挨拶の場面があった。

かおりちゃんは着物姿だ。

ウブド出発前に女性の着物を持って来てくれと言われたが、着物を持っている日本人なんてそういるものではない。

有り合わせの着物を今、かおりちゃんは着ている。

狭い室内で、各国高官が集うダンスパーティーの様子を撮影。

物好きヨーロッピアン達は、自前の衣装で着飾って大活躍。

ロベルトさんがテナー・サックスを吹いた。

阿南少佐役の私は顔を見せられないので、後ろ姿だけで何役もこなした。


長い一日が終わり、安ホテルに投宿。

ホテルの玄関に、若い娘が数人訪れた。

映画の撮影があるのを聞きつけ、出演者のサインを欲しいと言うことらしい。

彼女たちの勘違いに付き合い、我々にわか役者は、有名人気分でサインをすることになった。

〜その参に続く〜


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2013年12月05日

映画出演の続き・その壱(30)

「そのうち気が向いた時に書こうかな」なんてコメントを書いた、映画「Puputan Margarana」出演(18)の続き。

これは、1995年の出来事です。

思いのほか資料が集まらず、見切り発車です。

読み返してみると、意外と面白くない。

こういった話は当事者が盛り上がっているだけで、他人には興ざめかもしれない。

記録として残しておくために、とりあえずアップした。

では「発車オーライ」。


映画には、残留日本兵の苦闘も表現されている。

幸か不幸か、私は戦後生まれの「戦争を知らない子供たち」のひとりだ。

もちろん、今は、子供ではない。

私は役つくりのため、残留日本兵に関する書物を数冊読み、彼らを理解しようとした。

意外と凝り性で、熱しやすく冷めやすい自分の性格に、今更ながら気がついた。

ウブド在住の塩田さんは、太平洋戦争に出征している。

当時の話を伺うためアジ・ホームステイを訪ねた。

男性長寿(1924年生)ナンバーワンの塩田さんの健康を心配して、私はたびたび宿を訪ねている。

グライダーで大空を翔ていた大学生時代の話。

19歳で学徒出陣した話。

空軍の飛行士として、インドネシアのバンドゥンに駐留した話。

バリ島に飛行してきた時の話。

ジャワ島・バンドゥンで終戦を迎えた話。

約4時間、戦争の罪悪と青春の思い出を熱く語ってくれた。

実感はわかないが、戦争の悲惨さは理解できる。

体験者の話を聞けるのは、貴重なことだ。

「いつまでも元気でいてください」

この後、何度も訪問して元気づけてきたが、2009年3月27日、塩田さんは亡くなった。

戦後は、自衛隊空軍に教官として出向いた。

その時のアクロバット飛行の写真を見せてもらったのを思い出した。


友人たちとは、カットが違うためか、別れ別れになることが多かった。

主役クラスの役者とは、一度も撮影を一緒にすることはなかった。

まずは、私の撮影現場からお伝えしよう。

Margarana8.jpg

現場には、国防色の軍用トラックが数台止まっている。

近づいて見ると、普通トラックにベニヤでボディが作られた模倣軍用トラックだった。

ナンバー・プレートには「場利」と書かれてある。

「場利」で正しいがどうか訊かれたが、私にも知る由はない。

旧式バイクは、マニアからのレンタル。

大きくカーブする田舎の道で撮影開始。

私の眼の前には、20〜30人の村人役が道路に横に広がって座り込んでいる。

大勢の村人を前にして、日本軍人が演説をするシーンだ。

演説はインドネシア語。

セリフは、今さっき渡されたばかりの薄い台本の中の数行。

契約の日に手渡された台本の一部に載っていたセリフに似ている。

数行とはいえ、インドネシア語のまったく話せない私には、覚えるのもままならない。

棒読みのセリフに、バリ人の男優さんが演技指導してくれる。

演技どころではないのに。

何度も発音を直される。

私が物覚えの悪いのを理解した助監督は、大きな紙にセリフを書き写した。

3枚用意されている。

「顔を左に、右に、中央にと、相手を見て話すように」と助監督から注文が出る。

セリフの書かれた紙が村人の背面に掲げられる。

「バパパパ・イブイブ・ソダラソダラ・・・・」私はセリフを読む。

紙が上下左右、ふあふあと動く。

目線を自然の動きにするためだと言うが、あまり動かれると読めなくなってしまう。

私の顔も一緒になって上下左右する。

さあ本番!

終わってみれば、たいしたセリフではなかった。

凝り性な私のことだから、前もって渡されていれば完璧な演技が期待できたのに。

残念である。


夜間に、デンパサールにある王宮を使用して撮影をした日のこと。

車の中で軍服に着替えて、打ち合わせもなく前庭で待機。

撮影スタッフ少々。

スタッフに、屋敷に入るように促された。

細田さんと私が、屋敷の門を開けて入ろうとする。

「もうちょっと乱暴に開けてください!酔っぱらいの感じで」と注文が入った。

えっ! いきなりの本番かい?

酔っぱらい役は、細田さん。

中に入ると、奥には照明があたり、人の数も多かった。

内部で撮影があったのだろう。

というより、我々の動きにカメラの焦点が合わされていた。

このあと、酔っぱらいの細田さんが屋敷の娘にちょっかいを出すシーンの撮影があった。

私は、酔っぱらいをだなめる役で、後ろ姿だけ。

セリフは日本語。

日本軍人が醜態を見せるシーンだ。

占領当時の日本軍の中に、恥ずかしい行為をした軍人もいたのだろう。

記憶にないが、細田さんは、卑猥な日本語のセリフを言わされていた気がする。

私は、恥ずかしい気分になったのを覚えている。

細田さんは、スケベな酔っぱらい役をなんなくこなした。

本人とすれば、酔っぱらい役は地でいけるが、スケベ役は嬉しくなかったと不満そうだった。


そう言えば、永田さんも殴られるほどの悪役で出演している。

「後味が悪い!」とボヤイていた。

こうやって、いくつかのショットを繋ぎ合わせて映画はできていくのかな?

たくさんの日本人滞在者を巻き込んで「映画・Puputan Margarana」の撮影は進んでいくのであった。

〜その弐に続く〜

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2013年11月23日

ワルン・最後の楽園(29)

3日前から、夜7時になると羽アリ(ドゥダル=Dedalu)が電灯のまわりを飛び交い始めた。

飛び交うという生易しいものではない。

異常なほど大量発生する。

これは、雨季の始まりを告げるバリの風物詩でもある。

昨夜は、我がマンディ場にドゥダルを求めて大きなトッケイが出現した。

トッケイは、ドゥダルが好物のようだ。

gekko.jpg

2×××年

人類が、カプセル時代に入って久しい。
 
地球の大気が極度に汚染され、太陽の陽が射すことがほとんどなくなった。

日光浴、月光浴、森林浴、海水浴という言葉は、すでに死語となり、そんな環境は地球上のどこを探してもない。

屋外は、どこかしこも放射能の危険にさらされているため、大型空気清浄器の整ったカプセル・ドームでしか生活することができない。

首都東京は、とうの昔に廃墟となり瓦礫の山だ。

世界中の廃墟には、放射能に侵された奇形動物たちが棲息している。

瓦礫の上に創られたカプセル・ドームの都市は、ひとたび災害に見舞われれば機能が麻痺してしまう。

人々は都会を離れ、新たな土地を求めて彷徨う。

しかし、新天地も宇宙ステーションのような環境だ。

人々は、透明硬化樹脂で造られた蜂の巣状のカプセル・ハウスに住み、味と香りの付いた栄養剤のピル食品で腹を満たしている。

ピル食品の味は多種多様にあり、一応に人々は満足している。

祝祭日などの特別の日に支給される人造肉を口にすることもできる。

妊娠は、体外受精でおこなわれるのが通常で、幼児は小さな透明プラスチックのカプセルの中で育てられている。

世界人口は、2000年度と比較すると三分の一に減少している。

原因は、戦争と放射能。


カプセル時代の味気ない生活に甘んじている富裕層に、今、もっとも先進と言われ注目されているレストランが中部日本地方ある。

紹介しよう。

店名は「ワルン・最後の楽園」。

インドネシアにあるバリと呼ばれる小さな島の料理を出している。

カプセル・ドームの中に造られた人工的ではあるがインテリアに自然の植物がふんだんに取り入れられ店は、限りなく自然に近い景観が楽しめるように工夫されている。


オーナーのワヤンさん(30)の話では「自然とは何か?」を実体験しに訪れる客がほとんどとのこと。

当店ではまず、入り口で履き物を脱いでいただき、裸足になってもらいます。

足の裏で大地を掴むという経験をして欲しいのです。 

大地を掴む感触が、生きているという実感を呼び起こします。

売り物は、限りなく自然に近い環境です。

食事は楽しむもの。

五感とフィーリングを楽しんでいただけることと思います。

そして当店は、健康にもよいメニューをお出ししております。

値段のほうは少し高くなっていますが、きっと満足してお帰りいただけると考えています。

 
「トッケー、トッケー、トッケー・・・・・・」

くぐもった鳴き声が、店内に響いた。

「今、トッケィ何回鳴いた?」

彼女の質問に「7回だった」と彼は答える。

「トッケィが7回続けて鳴くと幸運がおとずれるんだよ!」

カップルは、幸せそうに顔を見合わせた。

小動物が放し飼いされ、トッケイやチチャッの鳴き声が耳に優しく聞こえる。

「チッチッ」とチチャッが鳴いた。

彼女の顔が「そらね」と言わんばかりに、自慢げに微笑んだ。

会話の途中にチチャッが鳴くと「今の話は神様が認めているよ」ということらしい。

チチャッは、デウィ・サラスワティの化身だ。

デウィ・サラスワティは、学問と芸術の女神。


微風に竹の風鈴が、自然の音を奏でている。

自然の環境音楽が訪れる人の心を癒す。

バナナの葉の皿にのせられて運ばれてくる料理は、無農薬農法による作物から実際に料理されたもの。

見るものの眼を十二分に楽しませてくれる。

食事を飲むものと思っているカプセル・エイジに「ワルン・最後の楽園」の料理は、神秘的に映る。

素手による食事に、訪れる人々はカルチャー・ショックを受ける。

食後のデザートは、目の前の木々から直接もぎ取ってくれる果物のジュース。

夜7時30分から9時まで、日替わりでバリ島の伝統芸能の公演が上演される。

古き昔を忍んで、是非一度あなたも「最後の楽園」を訪れてみてはいかがですか。


大変だ!

トッケイを見ていて、妄想にはハマっていたようだ。

posted by ito-san at 18:13| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月21日

食用だったトッケィ(28)

一家に一匹は棲みついている、トッケィ。
(トッケイに数え方は、匹でいいのかな?)

南方のヤモリの一種。

学名はゲッコー(gekko=gecko)。

インドネシアではトッケィ、ベトナムではカッケーと呼ばれる。

どれも鳴声からきた名称だ。

甲高い声でつづけざまに鳴きたてる。

とてもヤモリとは思えないような高声なので、慣れないうちは驚かされる。

7回続けて鳴くと、幸運がおとずれると信じられている。

身の丈30センチ近くになり、顔がデカイ。

ぶよぶよのゴム質の肌に赤い斑点だったリ青点が散らばっていたりする。

住人は歓迎していないのも知らずに、本人は家守のつもりでいる。

普段、屋根裏に姿を隠していて、トイレの時に表に出てくる。

彼らのトイレは、たいてい、場所は決まっている。

天井の、そして、なぜか角地が多い。

尻尾をあげてお尻を出して、力む。

少しの水分と大きなウンコを落とす。

目の前のコーヒーカップに、ポチャン・・・・。

気づかずに一気飲み。

以前、干しぶどうに紛れ込んでいたのを知らず、口にしたことがある。

※「テガランタン村滞在記・トッケイの鳴き声(63)」を合わせてお読みください。


つけっぱなしのテレビから、トッケイと言う単語が聞こえてきた。

振り向くと、トッケイの腹をハサミで裂くシーンが映っていた。

何のニュースをやっているのだろうと、テレビの前に移動した。

次に映ったのは、家内工場の風景だった。

忙しく働く女性達の作業台の上には、ウチワのようなものがうず高く積まれている。

ウチワは、小動物の剥製のように見える。

よ〜く見ると、それはトッケイの薫製だった。

大きさの揃ったトッケイが、開きになって串に刺されている。

立派な頭がついている。

数百匹はいるだろう。

この数を確保するためには、養トッケイ場があるはずだ。

金網で造られた大きな鳥かごを、思い浮かべた。

養トッケイ場いる多数のトッケイが、一斉に鳴く光景は凄まじいだろうと想像する。

あまり近寄りたくくはないが、怖いもの見たさで見学したい。

「ゲッコー・ゲッコー」「グァゴー・グァゴー」「ファックユー・ファックユー」「ポッポー・ポッポー」の合唱は、いったいどんな音響になるのだろう。

ジェゴグのムバルンのように、壮絶な音の戦いになるのだろうか。

もしかして、重低音が心地よい響きになるのかもしれない。

トッケイはどんなタイミングで、そして、なぜ鳴くのだろう。

何かの意思表示でもあるのかな、ふと思った。

「求愛のメッセージかも」と知人は言った。

トッケイに雌雄があるかどうか無知だが、鳴いているのはオスかもしれない。

クジャクのオスが自慢の羽根を見せるように、艶やかの声でメスに呼びかける。

トッケイのメスには、あの音色に悩殺されるのか。

ニュース・キャスターのコメントでは、取材は東ジャワ(ジャワ・ティモール)のようだ。

聞き逃して地名はわからない。

「かゆみ止めに効く」「アラックに混ぜて飲む」と言っている。

インドネシアの伝統的薬用ジャムーとして、輸出しているようだ。

私の語学力では、これ以上は理解できなかった。

バリ人でも、トッケーを丸焼きにして薬として服用していると聞く。

効能のほどは定かではない。

sate1.jpg

シドゥメン村に行く途中のことだ。

「私の家は貧乏だったからトッケイをサテ(sate)にして食べていました」

アパ?スタッフのヤンディ君が、ハンドルを握りながら衝撃的な発言をした。

「味は鶏肉みたいで、身体が熱くなってくる」と、ヤンディ君は懐かしそうにつぶやいた。

食用と言えば、バリ人はチチャッも食べていた。

これは可憐な、素速い、よく働くトカゲで、ランプの灯に寄ってくる虫をせっせ食べてくれる。

夜じゅうお互いにチッチッと鳴きかわしつつ勤勉に働き、朝の光といっしょにどこかへ消えてしまう。

チチャッには、グレー色の濃い種族と、透けるような色白の種族がいる。

「色白のチチャッは鶏肉のように美味しいよ」とテガランタン村のオカちゃんは言う。

串に刺して、イカのように姿焼き。

「サテ・チチャッ7本、おまちょど〜さま」

チチャッは、デウィ・サラスワティの化身だと言われている。

デウィ・サラスワティは、学問と芸術の女神。

会話の途中に「チチ」とチチャッが鳴くと「今の話は神様が認めているよ」ということらしい。

えっ! デウィ・サラスワティの化身を食べて、罰は当たらないのか。

そして、銀色に輝く肌を持って庭をはいずっているトカゲも食べる。

バリ語でルラサン(Lelasan)、インドネシア語ではBengkarungと呼ぶトカゲ。

バッソのスープに入れて食べると美味しいらしい。

「エナッ(おいしい)」と影武者のウエーター、ワヤンは言う。

試食したいと言うと「捕まえるのがたいへんです」と真顔で答えた。

「蛇に似た味だよ」ウエートレスのダユーが会話に参加して来た。

ダユーは、蛇を食べたことがあるのか?

バリ人の食文化は、底知れないものがある。

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「お誘いいただいた、トッケィ・チチャッ・ルラサンの試食会は、当方の健康上の都合により遠慮させていただきます」
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2013年11月19日

続・久々に怒っているゾ!(27)

怒りは、収まっていない。

クドイと思われる人もいよう。

いつまでも大人げないとお叱りも受けよう。

でも、聞いて欲しい。

もう一度だけ、お付き合いください。


件の “ヴィラ&レストラン” のオーナーだという人物が「日本食料理店・影武者」に現れた。

私のブログを読んだ誰かが注進したのだろう。

昼間だったが、この日は予約のお客があり、女将が偶然居合わせた。

現れたオーナーは、噂どうり欧米人男性とバリ人男性。

“ヴィラ&レストラン” は、欧米人男性とバリ人男性とのジョイント。

欧米人はベルギー人。

彼は、バリ人女性の恋人とよく現場に顔を見せるので、私は見知っている。

レストランは彼女に任せるらしい、と現場監督が教えてくれた。

「ウエスタン料理ですか? 日本食ですか?」 私の質問に、彼女は「わからんな〜い」と微笑むだけだった。

外国人がバリ人とのジョイントする理由は、バリで起業して就労VISAを取得するには多額のお金が必要だからだ。

就労VISA取得の作業を省くため、外国人はバリ人に名義を借りる。

インドネシア人とのジョイントは、外国人が起業する為の苦肉の策だ。

諸問題が起こるのは、こうした裏事情からでもある。

彼らは、しきりに謝っていたと、女将は言う。

そして女将は「私の旦那と駐車場のオーナーと話をしてください」と伝えた。


オーナーのバリ人男性のことだが。

現場の工事が始まった早々に、私が会っている人物と同じだろうか?

資材を運びやすいように、水を抜いた田んぼに竹の足場を敷く作業をしている人物から日本語で声が掛かった。

軽いナンパ言葉だと思うが、掛けられた日本語がなんだったかは覚えていない。

しかし、親しみやすい声に、その時、私は快く反応している。

「私の彼女は日本人。お金がないので、まだ結婚していません」と流暢な日本語で話す。

私は、彼が欧米人とジョイントしている人物だろうと察し、ひとこと忠告することにした。

ゆくゆく日本人女性と結婚するのなら、バリの日本人コミュニティーと接する機会も少なからずあるはず、彼も日本的習慣を知っていた方が良いだろうと思ったからだ。

「工事が始まる前に “影武者” に挨拶しておいた方がいいよ。それが日本式だから」


大きな声が聴こえた。

バリ語だったのだろう、私の前にいる彼が反応した。

彼は、背中を向けた。

黒髪を後ろで束ねた大柄のバリ人が、私の前に現れた。

「俺が、現場監督だ。なんかあったら俺に言え!」

私の態度が、彼に文句を言っている姿に見えたのだろう。

監督としては、彼をかばう必要があるのかもしれない。

私は、日本的習慣を告げた。

「俺は影武者のオーナーの知り合いだ。もう話はついている。それに、ここはバリだ。バリ式でやらせてもらう!」

えらい剣幕に、私も少したじろいだ。

虚勢を張るタイプか、監督の眼に臆病な性格が見えた。


実は、女将は、監督と大ゲンカをしている。

日が暮れてもトラックが駐車したままだった。

影武者のお客が来店する時間に近づいている。

監督に移動するように頼んだ。

その時の監督は、酒臭く酔っているようでもあった。

監督は、大声でどなり始めた。

「これ以上うるさく言うと、お前のレストランに何が起こっても知らないぞ。覚悟しろ!」

女将の胸ぐらを掴まんばかりで、恐怖を感じたと言っている。

酒の勢いを借りての逆ギレだ。

女将は、冷静に相手の非を訴え続けた。

監督は次第に声が小さくなり、弱々しく謝り始めたという。

そんなことがあっても、その後の状況は、さほど変わることはなかった。


職人さんが捨てたと思われるプラスチックボトルや、散乱した資材の破片を影武者のスタッフが片付ける。

影武者のスタッフは「触らぬ神に祟りなし」で、監督には逆らわないようにしている。

山と積まれた砂を、よけるようにお願いした。

しかし、それはバケツ2杯分ほどをヨケタだけだった。

私はデモンストレーションで、大家さんから借りてきたスコップで駐車場のへこんだ部分を砂で埋めた。

へこんだ部分は、トラックの進入で、敷石がめくれあがったところだ。

そんな姿を見ても職人さんたちは「好きでやってるのだろう」という雰囲気だ。

デモンストレーションも効果はなかった。

こんな経緯で、私は立腹している。

影武者は来年の4月に移転する。

それまで “ウヤムヤ” にするんだろうな。

できることなら、早く、平和的な解決策を見つけて欲しい。

以上で〜す。


※「日本料理店・影武者」駐車場問題解決!!

今年に入って(2014年1月)、オーナー代理としてワヤン君が「影武者」に現れた。

(現場で、私に話しかけて来た青年とは違っていた)

これまでの煩雑ないきさつについて、ワヤン君は真摯に謝罪し、駐車場は「影武者」の移転(5月)まで使用しないことを約束して帰っていった。

後ろ姿に、肩の荷が降りた、安堵のようなものが見えたのは気のせいか。

私の胸のモヤモヤは霧散していた。

みんなが、仲良く平穏に暮らせますように。(合掌)

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2013年11月14日

久々に怒っているゾ! (26)

「日本料理店・影武者」の賃貸契約終了は、今年の5月だった。

女将は、賃貸料の高騰で再契約を断念し、移転することになった。

ところが、移転予定先が来年にならないと工事に入れないため、一年の延長を高騰した家賃で借りることを余儀なくされた。

駐車場も同様に再契約だ。

もちろん駐車場の賃貸料も値上がりした。


そんな折り “影武者” の横に、“ヴィラ&レストラン” の建築工事が始まった。

建築現場へは “影武者” の駐車場を通らないと資材が運び込めない。

搬入のトラックが駐車するようになった。

日本でなら工事前に、オーナーか現場監督が向こう三軒両隣に「ご迷惑をお掛けします」と菓子折りひとつでも持って挨拶にいくのが常識。

しかし、誰も挨拶に来ていないようだ。

いったい何者がオーナーなんだろう。


朝から夕方まで、職人さんのバイクが我が物顔で駐車するようになった。

昼間インターネットをしに “影武者” に来ている私のバイクの定位置が職人さんに占領された。

積み降ろしのトラックが堂々と止まっている。

砂・砂利・セメント袋などなどの資材が置かれるようになった。

長時間駐車する軽トラックもある。

未だに、何の挨拶もない。

お客様が遠慮して駐車する場面を目撃した。

「お客様の邪魔になるので駐車しないで欲しい」と“影武者” のスタッフが再三注意するのだが、監督は聞く耳もたない。

女将は夕方出勤のため、そんな現状を知らない。

駐車場を借りるために女将がしてきた苦労を知っている私は、無断で使用する輩に腹が立って来た。

初代「影武者」オーナーとして、私の堪忍袋の緒がついにプッツンと言う音を立てて切れた。

現場の監督らしき人物に注意を促した。

しかし、監督&職人がバリ人ということもあって、あまりキツくも言えない。

“影武者” のスタッフも同じだろう。

職人の話によると、“ヴィラ&レストラン” のオーナーは欧米人男性とのことだ。

バリ人との共同経営という噂もある。

彼らは、知らぬ顔の半兵衛をきめこむつもりか。

バリ人なら諦めもしようが、同じ外国人滞在者では我慢はできない。

ここがバリだからって、許されることではない。

私は性善説を信じるので、彼も悪い人間ではないと思いたい。


ヴィラが一部完成した。

相変わらず、何の挨拶もない。

いまさら、挨拶に来られても困るが。

近々、レストランも完成するという。

“ヴィラ&レストラン” の関係者らしいバイクが少なくなった。

工事が終了すれば、工事関係者のバイクはなくなるだろう。

工事期間中、無断使用したわけだ。

心配なのは、今後、ヴィラ滞在者やレストランの利用者が “影武者” の駐車場を知らずに使うかもしれないということだ。

そんなことにでもなれば “影武者” 側も、知らずに使ってしまった “ヴィラ&レストラン” のお客様も、不愉快な思いをすることだろう。

できれば、そんなことが起こらないようにしたい。

相手にも言い分はあるだろうが、無断使用が許されていいはずがない。

欧米人オーナーは、すでに対策を施しているのかもしれない。

取り越し苦労かもしれないが、今までの経過を見る限り、オーナーの良識に期待できない。


工事期間中の駐車場無断使用は眼をつむって緩くした。

しかし、“ヴィラ&レストラン” の駐車場使用に眼をつむる気はない。

こんなことで今、気を揉んでいます。

こういうことにいちいちムカムカしていたら、毎日を平穏に暮らせないということはわかっている。

それにしても、気分のいいことではないでしょう。

不愉快な思いをしたくなかったら、他人に何かを期待するのをやめればいい。

常識的に行動できる他人に接したら、それに感動する方がましかもしれない。

「66歳にもなってもケツの穴が小さい(下品な言葉でゴメンなさい)」と言われそうですが、なかなかそんな境地になれないな。

久々に、怒っているオジさんでした。


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2013年10月30日

ウブドでケガをした(25)

先日、リピーターの知人がスーパーマーケットの入り口で転んだ。

転び方が悪かったのか、骨折していた。

バリでは、事故などを見つけると大勢の人が駆け寄ってくる。

軽いケガなら、大げさすぎて恥ずかしくなってしまうほどの人が集まる。

そして、本心から心配し親切に協力してくれる。

こんなところはバリ人の良いところだ。

事故を起こした本人が直接病院に行くことができる状態ならいいのだが、そうでない場合は親切にしてくれる他人にアンブランス=Ambulansと呼ばれる救急車を手配してもらう必要がある。

ホテルに宿泊していれば、専属のドクターを呼んでもらうこともできる。

知人の骨折は、かなり重傷だった。

幸い、事故現場が警察署前であったことから、通りかかりの人が連絡に走るなどの手助けをしれくれた。

警察官が軽トラックの荷台に乗せて、病院まで搬送した。

アンブランスを呼べばお金がかかる。

コミッションを請求するのが常のバリの警察官。

「警察官も親切だった」と知人は言う。


問題は、行き先だ。

ウブドには、UGD(Unit Gawat Darurat=緊急病院)と呼ばれる病院が数件ある。

警察官は、知人をマス村にあるUGDに担ぎ込んだ。

外国人の場合は、プンゴセカン村の「トヤ・メディカ・クリニック」かチャンプアンある「ウブド・クリニック」にアンブランスで運ばれ、検査の結果次第で、海外旅行保険サービスの受けられるデンパサールなどの病院に搬送されることが多い。

※TOYA MEDIKA CLINIC:TEL(0361)978078 & 2189000 / 081-999-273-555
 Web:toyamedikaclinic.com / Email:toyamedika@yahoo.com
※Ubud Clinic:TEL(0361)7811818

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知人のケガは手術を要する骨折だった。

ウブドよりは、デンパサールやクタにあるバリ南部の病院が設備、医療体制とも整っている。

それとて日本の技術と比べると不安は残るため、シンガポールか日本に行って治療する人もいる。

日本人なら日本では保険が使えるが、特にシンガポールなどは医療費が高額になる。

知人は海外旅行保険に加入していた。

ウブドに医療費の安いローカルの診療所は数件あるが、海外旅行保険サービスが受けられない。

マス村の病院も、海外旅行保険サービスが受けられなかった。

そういう場合、医療費の支払いは後日、日本で申請してから払い戻される。

ローカル診療所の場合、医療費は現金払いとなる。

それも手術前に支払わなくてはならない(デポジットは可能)。

バリ南部に行けば、保険手続きが承諾されれば治療でき、日本人医療アドバイザーが常駐している病院もある。

※共愛・KYOAI HEALTHCARE:0816-473-4997(日本人医療アドバイザー直通)
※SURYA HUSADHA HOSPITAL:0361-233787(デンパサール)/ 0361-775827(ヌサドウァ)
※BIMC HOSPITAL:0361-761263(クタ)/ 0361-9000911(ヌサドウァ)

UGD2.jpg

手術措置室のストレッチャーで数時間寝かされている知人は、不安顔だった。

日本語の通じる病院に変わるべきか悩んでいる。

しかし、今更病院を変わるのも酷だった。

手術費&病室の見積もりを承諾して手術、入院が決まった。

担当したドクターの技術も高く、病室も清潔で看護も満足するものであったようだ。

知人は、バリ人友人の援助を得て、無事手術を終え、帰国した。

マス村の緊急病院は、RUMAH SAKIT 《ARI CANTI=アリ・サンティ》。
※TEL(0361)982223-4
 Web:aricantihospital.com / Email:tcanti_hospital@yahoo.com


海外では医療費が高いので、海外旅行保険に加入することをお薦めします。

バイク事故の場合、無免許では保険が支給されないので、ご注意を。

万一の為、病院はどこにするか決め、電話番号を控えておいた方がよいでしょう。

くれぐれも、気をつけて旅をお続けください。

posted by ito-san at 16:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月21日

ムルカット(Melukat)(24)

《「アパ?情報センター|極楽通信・ウブド|バリ島見聞録」同時発信 》

2010年に入ってから、どういうわけかウブドを訪れる観光客に、ムルカット・ツアーを希望する人が増えている。

アパ?だけの日本人独占現象ではなく、欧米人にも人気がある。

というわけで、「ムルカットって何(APA)?」の問い合わせがある前に、アパ?としては答えを用意をしなくてはと知恵を絞ることにいたしました。


ムルカットは、お祈り前の清めのマンディ=Mandi(水浴び)より、ひとランク、アップした儀礼性の強いバリ人には欠かせない心身浄化の沐浴だ。

インド・ヒンドゥーの斎戒沐浴(斎は心の不浄を浄める意、戒は身の過ちを戒めるの意)、日本・神道の禊=ミソギ(身に罪または穢れのある時や重大な神事などに従う前、海や川で身を洗い浄める)に通じるものだ。


身近なところでは、結婚儀礼時のムルカットがある。

新郎新婦が、数人の親族をともなって近くの川へ出掛ける。

友人・知人の見守るなかでムルカットをする村もあると聞く。

川へは衣服をつけたまま入っていく。

これは恥ずかしいからだと思っていたが、そうではなかった。

新郎新婦は、川の中で衣服を全部脱いでスッポンポンの丸裸になる。

そして、身体と同時に、今まで着ていた衣服を洗濯する。

独身時代の汚れを洗い流すのが、この儀礼の目的だ。

ムルカットをすますと、用意された真新しい衣服と着替える。

これからの2人の新しい人生が始まるというわけだ。

今では、屋敷内にある浴場(これもマンディ場と言う)ですませる地域も増えているようです。

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タンパクシリン村に、古代遺跡沐浴場がある。

西暦962年に発見された石碑には、ミソギの儀礼が記されていた。

10世紀から14世紀までペジェンを中心に栄えたワルマデワ王国時代に、こんな神話がある。

インドラ神が手にした剣(Keris=クリス)を地上に突き刺すと、薬効の泉が沸き出した。

泉の水を飲んだ兵隊たちは、みるみるうちに息を吹き返し、蔓延しかけた邪悪なものを退治した。

この聖なる泉は、のちにティルタ・ウンプル(Tirta Empul)と名付けられる。

詳しくは、「極楽通信・ウブド|プクリサン川の神話」をお読み下さい。

いつの頃からか、聖泉で洗い浄めることが奨励されるようになり、1000年を経た現在も、多くのバリ人がティルタ・ウンプルを訪れムルカットして行く。

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ティルタ・ウンプルのムルカット場は、2つの大きなプールだ。

寺院側の壁面に並んだパゴダ型石彫の突起物から、満々と湧き水が吹き出されている。

最初のプールには13カ所の吹き口がある。

一般の人が使用できない吹き口があるので注意しよう。

9番目は神々への儀礼(Dewa Yadnya)専用、10番目は死者への儀礼(Pitara Yadnya)専用だ。

11番目は、不吉な夢を見た時にお祓いをする吹き口だそうだ。

腰まで水に浸かり、一番手前の吹き口から順にミソギをしていく。

プールの底は玉砂利が敷かれている。

水が落下するあたりに身体を入れる。

冷たい水が肌を打つ。

壁を隔てたプールには、通路を挟んで左手に3つ、右手に8つと並んで合計11カ所の吹き口がある。

余談だが、モンキーフォーレスト通りにある「カフェ・アンカサ」の水出しアイスコーヒーは、通路右手一番目の吹き口から戴いて来た聖水を使用している。

飲んだ人は「まろやかな味がした」と表現している。


プダンダ(高僧)、プマンク(僧侶)、バリアン(呪術師)から聖水を戴くムルカットもある。

最上級は、プダンダのムルカット。

プダンダの屋敷を訪ねて、マントラを唱えてもらいお祈りを捧げる。

ケガや病気の元となる悪いエネルギーを落とす。

受け手は、何も考えなくてもよろしい。

そのあと、特別に作った聖水を戴く。

たくさんの花が浮かべられた聖水が振りかけられる、というよりは降りかけられる。

まさに、ザブザブという感じだ。

「何も考えるな! 無心になるのじゃ!」


極楽通信・UBUD
バリ島見聞録ムルカット(Melukat)

posted by ito-san at 18:03| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月20日

あれから一年(23)

「アパ?情報センター」がスグリオ通りに移転して、10月5日で一年が経った。

前責任者・ニュマン君の「止めます」の一言で、予告なしの閉店。

私の少ない収入源が、突然ストップしてしまったのが昨年の8月のこと。

ビックリしました。

17年間続いていた “アパ?” がイキナリですよ。

や〜ぁ、あの時は、眼の前が真っ暗になりましたね。

当時スタッフのひとりであったワヤン君が「伊藤さんと仕事がしたいです」と、努力してくれたおかげでアパ?の復活が実りました。

この時のワヤン君の誠意が、私には暗闇に発する前途という小さな光源に見えた。

お客様には、突然の移転で事務所が見つからず、大変迷惑をおかけしておりますことを御詫びいたします。

今後とも、末永くお付き合いいただけることを願っております。

新責任者のワヤン君に期待してください。


突然のアパ?閉店で、私は私の将来を否応無しに考えさせられましたね。

これまでいかにノンビリさせてもらっていたか、ということでもありますが。

今後、何処でどう生きるか?

まず最初に浮かんだのが「日本に帰る」ことだった。

この発想は、私がかなり弱気になっている証拠です。

そして、このままウブドに残る。

もうひとつは、他の国で出直す。

この3つの選択肢が浮かんだ。

とりあえず来年、ゴールデンウィーク明けに日本に一時帰国してみようかなと考えている。

25年ぶりに土を踏む名古屋に、適応できるかがチョッと心配だ。


日本への一時帰国に踏ん切りをつけてくれたのが、知人の相葉さん率いるツアーだった。

ウブドの散歩を1時間ほど同行するだけで、日本円の収入を得ることが出来た。

この援助のおかげで、私の一時帰国が可能になったとも言える。

「株式会社ゆうエージェンシー」のウブド・ツアーは、2011年から始まって今年で3年目。

通常年1回のところ今年は、お客様の都合で2回催すこととなった。

今年から「文化・芸能・宗教のレクチャー」が、私の仕事として追加された。

今月は8名様のツアーで、14日から18日まで「ベベ・テピ・サワ」に滞在した。

私は15日の朝のバリ島レクチャーと18日のカジェン通りの散策に同行した。

1時間ほどのレクチャーという名の雑談は、バリ初日というの高揚感が全員から感じられ暖かい時間が共有できた。

年齢が近いことと、旅行慣れしている人ばかりなので、話していても楽しかった。

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最終日18日の散歩。

まずは、私が1990年から1991年にかけての1年間滞在した「ロジャーズ・ホームステイ」を案内。

バレ・ダジューのテラスに、ロジャーのお父さんがいた。

私専用の離れにあるマンディ場は、以前のままだった。
「ロジャーズ・ホームステイ」については「ウブド沈没」をお読みください。

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ツアーは無事に終了しました。

日本一時帰国基金援助ありがとうがざいました。

もちろん、相葉さんもツアーのお客様も、そんな私の事情は知りません。
posted by ito-san at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする