2013年10月17日

スハティのワヤン君(22)

ワヤン君(Wayan Kardika)は、東モンキーフォーレスト通りにある「スハティ・ゲスト・ハウス」の経営者。

日本人旅行者に人気の宿泊施設だ。

1990年前半は、郵便局のあるジュンバワン通りにあった。

その頃のワヤン君は、スタッフの一人だった。

どういういきさつで、現在の地位になったかは訊いていない。

いつから現在の場所に移動したのかを訊くのも忘れている。

親切なワヤン君には、たくさんの日本人ファンがいる。

私のブログ読者の中にも、知り合いは多い。

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ワヤン君ファンの皆様に、新しい情報です。

先月10月1日、「スハティ・ゲスト・ハウス」のエントランスに、インドネシア&バリ料理「ワルン・ダリ・ハティ=Warung Dari Hati 」がオープンした。(写真:左手)

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正面向かって右手は「スハティ・スパ」。


椰子の実の器に入ってサービスされるカレーやスープがバリっぽくてGOOD。

ローカルワルンよりは高いですが、レストランに比べれば格段に安くて美味しいですよ。

応援してやってください。

★食事:ナシゴレンRp25,000-/ナシチャンプール&ミーゴレン&ツナカレーRp30,000-/チキンカレーRp35,000-/ベジタリアン・メニュー有り
★飲物:紅茶Rp10,000〜Rp15,000-/コーヒーRp15,000-/ジュース各種Rp15,000-/ビンタンビール大Rp28,000-小Rp20,000-/
★営業時間:10.00am〜10.00pm/定休日・儀礼祭礼日/
★Web:http://sehatiguesthouse.web.fc2.com/warung.html

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古い話ですが、ワヤン君がNHK教育テレビで放映されていた「さわやか3組」に出演したことを知っていましたか?

ご存じない方の為に、ここで紹介させていただきます。

「さわやか3組」は、1987年4月8日〜2009年3月11日まで続いた小学生向け教育ドラマです。

ワヤン君は、小山高生さん脚本の1996年、第16回「ワヤンさん、いらっしゃい」に出演した。

ウブドが大好きで、毎年のように訪れている小山さんは、「Dr.スランプ」「聖闘士星矢」「ドラゴンボールZ」などの脚本家です。

「極楽通信・ウブド Vol.1ーDari Japang」に小山さんからの手紙が掲載されていたので、無断で転載させていただきました。


いつも楽しく拝読しております。

Newsを一つご報告させて戴きます。

私の定宿でもある御馴染みの Sehati Guest House の Wayan Kardika 君が、私(小山高生)が脚本を担当するNHK教育テレビの学校放送・小学3&4年生向けの道徳ドラマ「さわやか3組」にバリ人の役で出演します。

よろしかったら日本在住のWayanファンのみなさんに、貴誌を通じてお知らせいただけましたら幸いです。

ロケーションを12月8日〜12日まで栃木市で行い、スタジオ収録を12月16日にNHKスタジオで行います。

その間、彼にはリハーサルが待ち受けております。


これは「わが国の文化や伝統に関心を持ち、国を大切にする」という道徳の指導要綱の徳目を、各小学校のクラスの道徳の時間で指導する際の教材となるものです。

まず授業の始めにドラマを視聴し、その後で先生と児童がそれをもとにディスカッションする為の資料になるわけです。

話の内容は・・・、「単身赴任でバリのホテルに料理指導に行っていたレギュラーの女の子・三和の父親が、半年ぶりに日本へ帰る所から始まります。

その時、父親がバリで知り合ったワヤン青年を栃木の自宅に連れて帰るのです。

そして、小学4年生の一人娘・三和とワヤンとが互いにカルチャーショックを受けつつも、交流を深めるというもの」です。

彼は重要なゲストキャラクターとして台詞もたくさんあり、日本の子供とガムランを演奏するシーンもあります。

また、父親が8ミリビデオで撮ってきたバリの記録(実は今回私が撮影したものを使う予定です)を三和たちのクラスで見せるシーンも登場します。

その際、Sehatiのスタッフ、ワヤン君の妻子も登場する予定です。

ラストでは、降ってきた雪に大喜びのワヤンさんを見ながら、三和が「いつか私もバリ島に行ってみるわ!! 気きっと行く!」と決意します。

もちろん、「私が案内します」というワヤンさんの台詞が続きます。

15分番組ということで、また道徳の時間ということもあって制約が多く、決して十分ではありませんが、それでも日本人とバリ人の理解と友好を願って書かせて戴いたものです。

日本在住の読者のみなさん、放送時間がとんでもない時間ですが、よろしかったら録画でもして戴いて御覧下さい。

ご意見、ご感想などお聞かせ戴けたら幸いです。

1995年11月27日


すでに終わっているので、放送予定は掲載しませんでした。

「極楽通信・ウブド」で告知したものの、実はわたくし「ワヤンさん、いらっしゃい」を見ていません。

小山先生、ゴメンナサイ。

内容を読み返してみて、改めて見てみたいと思っております。

小山先生、次回来ウブドの際には「USB」に入れて持って来てください。

ワヤン君の「ワルン・ダリ・ハティ」で上映会をしましょう。
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2013年10月12日

ビスマ通りの変貌(21)


Jl.Bisma.jpg

ウブド大通りに、T字で交わるビスマ通り(Jl.Bisma)。

高等学校とレストラン「ミロス・ガーデン」の間を入って、南下する通り。

家並みのない、左右に田んぼが広がる農道の行き先は畦道へと続く。

「サマズ・コテージ」「プリンガ・ジュイタ」「ポンドック・インダ」

ライス・フィールドの中に、心地よい風の通るバンガローが点在している。

夜には、蛍の乱舞が見られるだろう。

農道の終わりに “祠” が建っている。

地元の人が「このあたりでよく宇宙人を見るよ」と言う “祠” だ。

「蛍の光を見て、宇宙人だとか霊魂だとか、思い込んでいるだけじゃないの?」

私の知人が、幽体筆記&宇宙人遭遇の不思議な体験をした。

体験場所は「サマズ・コテージ」。

あ〜あ、教えちゃった。

「サマズ・コテージ」に迷惑がかからなければいいが。

この話は「ウブド沈没:■10月・20) 妖怪ガマンは赤たまねぎが苦手」の後半部分に書いてあります。

“祠” の向こうには、椰子の林に守られるように田んぼが広がっている。

右手の椰子林の中に「ブチュビュー・バンガロー」がある。

畦道の遥か彼方に、鬱蒼としたモンキーフォーレストが見える。

(★1990年代の追想でした)


モンキーフォレスト通りと平行して北南に走るビスマ通りを歩いてみた。

久しぶりだ。

2年ぶりぐらいだろうか。

ビスマ通りの入り口は、車がスレ違うにキツいほどの狭い道路。

右手は「ミロス・ガーデン」、左手は高等学校。

入り口に立つと、眼の前に、急な坂道が立ちはだかる。

車だと進入するのが厄介だが、交通量の多いウブド大通りに合流するのも骨が折れる。

ウブド大通りの渋滞をつくる地点のひとつである。

乗用車のドライバーが困った顔をして私を見ている。

オッといけない、私のせいで小さな渋滞が始まっている。

道路の真ん中で立っていたのだ。

私は、20センチ角のコンクリートブロックが敷き詰められた坂道を上り始めた。

「ミロス・ガーデン」裏手にワルンが建ち、その横に私的にはNGデザインの「Sushi Bar Rouge」が開店していた。

レストラン《セム・ジャン 》は、その隣。

「セム・ジャン」は、カジェン通りにある「ロダ・ホームステイ」が経営する「情報センター・ロダ」があったところ。

このあたり最近まで空き地で、奥に2〜3軒のバンガローがあり欧米人が長期滞在していたと記憶している。

その先、左手に人気レストラン「Cafe Des Artistes」がある。

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緩やかに蛇行する道をさらに先に進むと、セットバック&セミパブリックが施されたレストランとバンガローのエントランスが続いている。

1990年代のバンガローの面影はなく、新しいホテル&レストランが急増していた。

モンキーフォレスト通りと違って落ち着いて散策ができるのは、歩きにくい歩道がないからだろう。

迂回路でないため交通量も少ない。

すれ違う人の姿も少ない。

フクロウを描くワヤンさんのアトリエ&ギャラリー「オウル・ハウス (http://homepage1.nifty.com/owlhouse622/html)」は、このあたりだ。

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「ブチュビュー・バンガロー」の看板がその先に見える。

宇宙人が降りて来ていた祠は見当たらない。

ヒタヒタと染込むような不思議な空気感が姿を消して、今は、健康的なリゾートの雰囲気が漂っている。

ここから、コンクリートブロック石畳の路肩が土になる。

さらに進むと「コマネカ・ビスマ」「プルティウィ・ビスマ」などの中級ホテルや格安ホテルが続き、建築中のホテルが散在している。

渓谷沿いの土地は完売(or長期リース)と聞く。

土埃が舞い上がるのは、乾季だからか、それとも工事現場が多いためか。

この時期、ここを歩くのは辛いかも。

ヨッシャ!「オウル・ハウス」までを “ビスマ通り散策コース” と認定しよう。

気合いが入っていますが、まったく権威はありませんので。

南下するほど、建物は少なくなる。

コンクリートブロックが途切れた。

今、ビスマ通りの北口から約1キロの地点に立っている。

遠くまで来たと思うより、奥に来たと感じるのは、この道が通り抜けできない行き止まりだからだろうか。

まっすぐ草道を進むと、死者の寺・ダラム寺院があるモンキーフォレストの深い渓谷に突き当たる。

この渓谷エリアは今でも密度の濃い空気が漂っていて、私の好きな散策スポットの一つだ。

渓谷エリアに踏み込み、左折して砂利道を下る。

砂利道の向こうには二車線の橋が架かっている。

橋向こうは、車が通り抜けできない狭い道になる。

徒歩、自転車、バイクで抜けると、そこはモンキーフォレスト前だ。

今のところウブド大通りに出られる北口に活気があり、表玄関としての賑やかな体裁ができている。

道路が整備されても、北玄関&南玄関とも道幅が狭いのがネックだよな。

将来、車が通り抜け出来るようになれば、モンキーフォレスト通りの渋滞を避けてビスマ通りに迂回する車両が増えるだろう。

回遊性のある道路として、ビスマ通りも発展するだろう。

そして近い将来、ビスマ通りもモンキーフォレスト通り同様に、道路沿いの田んぼがなくなるのだ。


所要時間:北玄関口から南玄関口まで約30分。

正直に申し上げます。

実は私はバイクに乗って取材しました。

ゴメンナサイ。
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2013年10月07日

ワヤン・プルワントのこと(20)


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プンゴセカン通り(影武者の近く)にあるイタリア料理の繁盛店「マンマミーア」が、道路を隔てた目の前に移転した。

なぜ移転したか? 理由は謎だ。

移転先は、すでに3度ほどイタリア料理店が短期間のうちに開店閉店を繰り返している場所。

相変わらず「マンマミーア」は繁盛している。

「マンマミーア」の空店舗にイタリア料理店が出店したが、1ヶ月程で閉店してしまい取材していない。

そのあと8月2日に、店名が変わってイタリアレストランがオープンした。

「またイタリアンか!」私は絶叫しそうになった。

ウブドは今、イタリア料理がブームかのように次々と開店している。

特に、この界隈は激戦地だ。

私の取材は、最低1ヶ月を経過することを条件としている。

ウブドの店舗は、目まぐるしく変わる。

ガイドブックには、6ヶ月以上経過しない店舗は紹介しないように注意している。

1ヶ月を待って、8月2日に開店した新店舗「マリクマリ=marikemari」を取材。

内装は、ほとんど「マンマミーア」のままで、ピザ釜がグレードアップされていた。

人気絶好調の「マンマミーア」の正面という条件で勝算はあるのか。

この店も早々と撤退するだろうと客観視した。


ある日、ワヤン・プラワント(Wayan Purwanto)が影武者を訪ねて来た。

話を聞くと、なんと「マリクマリ」のマネージャー兼シェフはプラワントだった。

「大ショック!」

イタリアンフードに食傷気味のウブドで、イタリアレストランの新参入は難しい。


ワヤン・プルワントは「スマラ・ラティ」創立期の客員メンバーの一人だった。

デワ・マハルディカ(1996.9.13没)と交互に舞台に立ち、クビヤール・トロンポンかクビヤール・ドゥドゥックを踊っていた。

「今夜は、どちらが踊るのかな」前奏のあと、中央から出てくる踊り手を凝視したものだ。

もちろん私はプルワント待ち。

プルワントの切れのある力強さと妖艶なしなやかさを併せ持つクビヤール・ドゥドゥックに、私はシビレタを感じた。

創作者のマリオもそうだが、本来は男らしい男がしなやかに踊るから見応えがあるのだ。

記憶に乏しいが、マハルディカが他界してから1年ほどしてプルワントの姿が見えなくなった。

マハルディカが踊っている時は “オカマ” の踊りと言われていた。

プルワントが出演しなくなったあとスマラティの公演を見た観光客が「プリアタンで見た時もそうだったけど、この踊りって、お客を笑わせるお笑い系ですか?」と聞かれた。

「化粧が “おてもやん” なんだよね」と、勝手な感想を言う。

観光客から見た場合、それも正しい意見なのかもしれない。

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子供で上手な子はいるし、女性や中性的な男性の素晴らしい踊り手もいる。

中腰での踊りは、生半可な体力ではできない。

腰高や座り込んでいる踊り手がいるのには、ガッカリする。

「どんなバリ舞踊にも言えることだが、美貌に惹き付けられて技量のチェックを見逃しがちにならないように、チェックする時には眼を細めて全身を、特に足下に注目して見るように」と高名な舞踊家に教えられた。

現時点でクビヤール・ドゥドゥックの頂点は、デワ・ニョマン君だろう。

男色的には、眉目秀麗なデワ・ニョマン君は好きなタイプだ。

美しいにこしたことはないが、私的には、クビヤール・ドゥドゥックは美形が媚を売る踊りではないと思い込んでいる。

未だに、プルワントの右に出るクビヤール・ドゥドゥックの踊り手に出会ったことがない。

プルワント絶賛で、デワ君ゴメン。


「居酒屋・影武者」の開店と「スマラ・ラティ」の創立期が近く、どちらも熱い時期だったこともあり、公演後、影武者にメンバーが集った日が続いた。

芸能談義に花を咲かせた夜が、幾度もあった。

同じ釜の飯を食った仲間という感じだ。

毎週のように定期公演に顔を出した。

奉納舞踊にもたびたび同行したし、幾度か共演もさせて頂いた。


突然、プルワントは私たちの前から姿を消した。

客船に乗って働いていると、噂で聞いた。

ボーイとして船に乗り、マイアミに降りてからは、中華の料理人、最後は寿司職人として5年ほど働いて帰国。

11年間のアメリカ・マイアミ生活。

「一度も踊りたいとは、思わなかった」私が思い描いた想像とはかけ離れた答えが返ってきた。

「なぜ、海外に?」という質問をしても、私の拙いインドネシア語では、たとえ答えが返ってきても理解できなかっただろう。

また、話してもくれなかったかもしれない。


現在は、師匠のイダ・バグース・ブランシンガ(Ida Bagus Blangsinga)を後援する立場にあり、本人が踊ることは少ない。

2012年9月1日:会場「GEOKS」にて、日本人舞踊家・大西由希子とジョイント公演「PENCARIAN」でコンテンポラリーを披露している。

これが彼の舞踊の方向性のような気がする。

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そんな彼がマネージャー兼シェフをする店が「マリクマリ」だ。

これは応援しないわけにはいかないだろう。

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2013年09月25日

グスティ家の三姉妹(19)

バリ芸能に興味ある人々に、グスティ(Gusti)家は芸術一家として知られている。

グスティ家の三姉妹、長女のアルタティック=Artatik(1980年1月14日生)、次女のユリアティ=Yuriati(1984年2月15日生)、三女のビダニ=Bidani(1986年4月26日生)は、プリアタン村を代表する踊り手である。

お気づきだと思いますが、我が大家さんのグスティ家とは違うようです。

そうです、お察し通り、プリアタン・トゥブサヨ村のグスティ家のことです。


「ご結婚、おめでとうございます」

三女のビダニが、9月9日に結婚儀礼をすませた。

彼女のファンも多いと思うので、ここで報告することにした。

これでグスティ家の三姉妹は、すべて嫁に出たことになる。

末っ子で長男の情報は少ないので、ここでは省略させてもらう。

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1990年代初頭、プリアタン村のイブイブ(婦人連)ガムラン・グループで踊られた「タリ・クリンチ=ウサギのダンス」

元気に飛び跳ねる幼年の踊り娘たちの姿は、微笑ましかった。

幼稚園の学芸会のような舞踊に、イブイブたちの優しい眼が注がれる。

そこで、ひときわ人目を引く少女がいた。

バリ舞踊に詳しくない素人から見ても、ブレのない動きとキレのある動きに無駄が少なかった。

それいぜんに、明らかにほかの踊り娘たちと違う空気をまとっていた。

これをオーラと呼ぶのだろうか。

見えないエネルギーを私は感じていた。

この踊り娘に注目していた、日本人観光客は多かったと思う。

「彼女は、きっと素晴らしい踊り娘になるよ」と、予言する友人もいた。

彼女の動向を追っかけるファンが現れるようになった。

そして友人の予言通り、チョンドンの踊り子として開花した。

オイリーの後を継いで、グヌン・サリ(Gunung Sari)歌舞団とティルタ・サリ(Tirta Sari)歌舞団で、レゴン(チョンドン)を踊る彼女は、天才少女として頭角を現していく。

日本人の「追っかけ現象」に拍車がかかる。

ポートレート写真を大きな額に入れてプレゼントした、私の友人カメラマンが2人いる。

どちらも私が立ち会った。

今でも、飾ってあるのだろうか。

ユリアティがチョンドンの踊り子として人気が沸騰する時期、実家の敷地に宿泊施設が完成。

名前も「ユリアティ・ハウス」。

ユリアティ・ファンには、たまらない施設だ。

彼女は、何度も招請されて日本公演している。

NHK教育テレビ「アジア語楽紀行」(2005年4月)では、インドネシア語の先生として出演。

インドネシア語教本「アジア語楽紀行」が出版されている。


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「極楽通信UBUD・Vol.25」に紹介された「ユリアティ・ハウス」
興味のある方は「Club Bali・極楽通信UBUD」をご覧ください。


ビダニもユリアティと同じ軌跡をたどった。

タリ・クリンチで人目を引き、レゴンの踊り子となる。

これは私の趣味だが、ビダニは、ユリアティより一段と美形だと思う。

ビダニの追っかけも現れた。

ユリアティとビダニの人気は凄まじかった。

「今夜、ユリアティは出演しますか?」「今夜、ビダニは、どの公演に出演しますか?」

こんな問い合わせが《アパ?情報センター》にある。

グヌン・サリとティルタ・サリの定期公演に、彼女たち見たさの日本人観光客が押し寄せた。

人気芸能人の2人にも会える「ユリアティ・ハウス」に、日本人宿泊客は絶えない。

こうして、日本人リピーターの根城となっていく。

一般的にバリ人は、観光客を心から歓迎し家族のように接してくれる。

彼らの優しい待遇に、自分は特別なんだ「私は家族の一員なんだ」と錯覚してしまう日本人は多い。

「うちの娘が、今夜、チョンドン踊りますよ」なんて、勘違いオヤジがウザイ発言をする。

ビダニとユリアティが、お前をお父さんだとは思っていないゾ! 眼を覚ませ!オヤジ。

テラスから望遠カメラを構えて彼女たちの日常の姿を追う、宿泊客のキモイおじさんは多々。

家族の気持ちは知る由もないが、有名人の宿命にしても迷惑な話だ。

結婚した彼女たちは、こんな露骨な好奇の眼から逃れられる。

過去形になってしまうが「一世を風靡した」と言う言葉を、彼女たちに捧げたい。

今後、彼女たちのように大輪を咲かせる踊り子が現れるだろうか。

バリ島の芸能が廃れないためにも、現れて欲しいと願っている。

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「居酒屋・影武者」を訪れたユリアティとビダニ


長女・アルタティック(Artatik)は、パダンテガル村の「ラハユ・バンガロー(Rahayu Bungalow)」の長男に嫁いでいる。

彼女のオレッグ・タムリリンガンは、いい。

三姉妹の中では一番踊りは巧いだろうと、批評家風に知ったかぶってみよう。

彼女の舞踊指導能力は優れていて、日本人の舞踊愛好家がたくさん教えを受けている。

アパ?推薦の先生です。

三姉妹には、テガランタンの住民・西村家の新築祝いのパーティーで、グヌン・サリ歌舞団の演奏で踊ってもらったこともある。(アパ?でお願いできます)

ビダニの結婚を機会に、過去を振り返ってみました。

最後に、グスティ家の健康と幸福を祈願して。

「オ〜ム・シャンティ・シャンティ・シャンティ・オ〜ム」

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2013年08月17日

映画「Puputan Margarana」出演(18)

8月17日は、68回目のインドネシア独立記念日。

1949年に「連邦共和国」、1950年に「共和国」として完全独立を果たしたのだが、インドネシア国家は1945年8月17日を独立記念日としている。

1942年3月から1945年8月15日までの3年5ヶ月、日本軍の占領統治があった歴史を、我々日本人は忘れてはならい。


毎年、この時期になると思い出すことがある。

それは1995年のことだ。

インドネシアが共和国として独立するために立ち上がったバリ人ヌグラ・ライ(Gusti Ngura Rai)を主人公に、当時を再現した独立戦争物語「仮題:ププタン・マルガラナ(Puputan Margarana)」の映画撮影がバリ島の各地で行われた。

インドネシア独立50周年を記念しての映画。

日本の敗戦とともに、スカルノ初代大統領はインドネシアの独立を宣言する。

再び植民地化を目指すオランダに対して、アンボンを除くインドネシアの各勢力は各地で闘争に入った。

バリ島も激戦地となり、のちにマルガラナ村(タバナン県)で終焉を迎える。

全員が討ち死にしたことから、バリの王国時代、オランダ軍と戦った王族の「死の行進=ププタン」のイメージを重ねた仮題がつけられている。

独立戦争の英雄となったグスティ・ングラ・ライ将軍は、ムングイ(Mengwi)の北にあるチャナンサリ(Carang Sari)王宮の子息。

彼の名前は、バリの国際空港に冠されている。

残留日本兵が、この闘争に協力した話はバリ人も知っている。

20数名の元日本兵がバリ義勇軍を指導し、その多くが戦死した。

思い出すのは、当時ウブドに滞在していた友人たちと、その映画に出演した時のことだ。


「居酒屋・影武者」の掲示板に、インドネシア語のチラシが貼られた。

「インドネシア人女性とイタリア人男性のカップルが来て、貼っていった」と影武者のスタッフ、ワヤン君は言う。

内容は、インドネシアのテレビ局がテレビ映画撮影のため、日本人アクターを数名募集しているということだった。

撮影期間中は、出演料+軍隊お墨付きの滞在ビザ(4ヶ月)がもらえるという魅力的な話だ。

まず、カズ君が参加したいと表明した。

内容の詳細はわからないが、私もインドネシアへの日頃の恩返しと好奇心とで出演してみよう考えていた。

チラシに、特技の覧がある。

私は、特殊メイクの経験がある深谷さん(漫画家)と、デザイナーの鈴木さんを誘うことにした。

場面によって随時募集しているようだ。


☆7月31日

4人は、それぞれのバイクに跨がり、デンパサール・レノン地域にある事務所へ出かけた。

映画のスポンサーは、陸軍だとのこと。

軍のPRにもなるという趣旨かもしれない。

軍隊は、さまざまなアルバイトをしていて、裕福だと聞いている。

事務所は軍隊と関係する建物のようだ。

ロビーには、大勢のインドネシア人がたむろしていた。

その一人に出向いた旨を伝えた。

しばらく待たされたあと、スタッフと思われる若者に、助監督だと言われる人物を紹介された。

小柄で自由人という風貌の人物だった。


シーンを3つこなして150万ルピア(6万円)。(この頃のレートは、1円⇒Rp25-)

出演料の半額を手付けとしてもらい、残金はクランク・アップしてからという契約だった。

カットごとに、受け取りは5万ルピア。

シーンとカットがどのくらいあるのかわからないが、とにかく、いくらかのギャラはもらえそうだ。

軍隊がバックなら安心だろうと、出演の意志があることを助監督に伝えた。

契約書類に記名している間、助監督は我々の風貌を覗き見ている。

役柄とを照合しているのだろう。

そして、オーディションもなく即合格。

きっと、暇な日本人なら誰でもよかったのだろう。

ローマ字で書かれた日本語の台本一部を手渡された。

台本から、バリを舞台にした戦争映画だということは理解できた。

ところが、台本の日本語が意味不明。

助監督にそう伝えると、「そうですか。それでは直しておいてください」と笑顔で答えた。

ストーリーの全容がわからないが、とりあえず、日本語として意味の通じる台本にしよう。

頼まれたからでなく、こんな不明瞭な日本語では、内容を把握できない。

私としては、セリフを覚えておきたいので加筆訂正することにした。

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☆8月1日

「影武者」の前にモスグリーン色の軍隊専用バスが停まっていた。

カズ君は、コテツ君(現:カフェ・アンカサのオーナー)を伴って現れた。

残念だが、鈴木さんは出演を辞退した。

インドネシア人のエバァさんは映画コーディネータースタッフで、イタリア人のロベルトさん(現:ピザ・バグースのオーナー)は役者として出演する。

エバァさんは、簡単な自己紹介を終えると、わたしたちをバスに誘導した。

護送車に似た軍隊のバスに乗せられた我々は、デンパサールの事務所に向けて出発した。


この日は衣裳合わせのようだ。

事務所の裏に、小道具の製作場がある。

チョコレート色の軍服が手渡された。

飾りのポケットがついた簡素な軍服は、縫製が悪いのか身体にシックリこない。

私に合う寸法の長靴が見つからず、オーダーとなった。

我々の役は、残留日本兵。

私は阿南少佐、カズ君は平良定三、それぞれに役柄が振り分けられた。

実在した人物なので、できるだけ風貌、背丈の似た出演者を決めたようだ。

小さな長靴を履いた軍服姿で、スチール写真を数枚撮られた。

実感はないが、取りあえず役者としてスタートしたようだ。


☆8月2日

デンパサールのクシマン王宮で記念式典が催されることになり、わたしたちも招待された。

拿捕(だほ)された捕虜のようにして、軍隊専用バスに乗り込む。

王宮の内庭に併設してある、独立戦争当時の写真や軍機の展示コーナーを見学した。

欧米人キャストと合流。

筋肉質でワイルドな個性のポルトガル人。

やたらと陽気なドイツ人。

その他大勢の日本兵エキストラは、中国系インドネシア人の学生が演じる。

インドネシア兵には、現役の軍隊が出演する。

記念式典に出席する前に、男性キャストの断髪があった。

ウブド滞在以来、床屋に行くのが面倒でのばしていた、私のトレードマークである長髪は潔く切られた。

メーキャップ・スタッフはジャカルタから来ている男たちだが、全員がオカマちゃんだった。

カズ君はその後、彼(彼女)らと何度も撮影現場で顔を合わせるうち、強烈なアタックを受けたそうだ。

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白襟が縫い付けられた濃紺の軍服姿で、記念式典に列席。

気分はアクター。ちょっとウキウキ。

バリ州知事の挨拶、来賓の挨拶のあと、主演男優と女優の紹介があった。

ジャカルタから来た有名な俳優さんらしい。

申し訳ないが、インドネシアの映画事情に興味のない私は、存じ上げていなかった。

会食の余興は、バリらしくトペン・ボンドレスが披露された。

バリ州知事イダ・バグース・オカ氏と軍最高幹部の人物と並んで写真を撮らせてもらった。

この写真を「影武者」の目立つところに貼っておけばイミグレーションも文句を言わないだろう、な〜んてセコイことを考えている小心者のitosan。(結局、何の役に立たなかった)

会食のあと、いよいよクランク・イン。

屋敷内の一角で、ングラ・ライと数名の独立軍による作戦会議シーンが撮影された。

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☆後日談

軍隊お墨付きの滞在ビザは、シンガポールまで出掛けて行ったが取得できなかった。

監督とエバァさんに談判したが、らちがあかない。

欧米人の多くが「話が違う」と言って止めていった。

そして、映画は資金不足で中止となる。

どうやら、使い込みをした悪党がいたようだ。

残りあと少しだったというのに、残念なことだ。


撮影現場のエピソード、気になりますか?

そのうち気が向いた時に書こうかな。

それまで、気長にお待ちください。



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2013年08月01日

ポトンバビ・完全取材(17)

建築中の「ワルン・スバリ」の様子を見に、スバリ村に出掛けた日曜日の昼下がり。

まずは、グスティ家に立ち寄ろう。

いつものように屋敷の裏口から入ると、裏庭に大勢の男衆の姿が見えた。

ムラジャン(家寺)のオダラン(寺院祭礼)の準備だろう。

前年に100年目の大きなオダランをすませた翌年も、それなりに大きいと聞いている。

明日の29日が、そのオダランの日だ。

忘れていたわけではない。

明日、来ることができるかどうかわからないので、今日顔を出したのだ。

ラッキーなことに、なんと、ポトン・バビ(Potong Babi)が今まさに始まろうとしているところだった。

大きな儀礼では、ポトン・バビが行われる。

人間の代わりに、豚が生け贄になるのだ。

儀礼が小規模の場合は、鶏やアヒルが生け贄になる。

深夜に行われることが多いポトン・バビが、真っ昼間に見学できるタイミングは少ない。

噛みタバコをもらって、すぐに失礼するつもりでいたが、このチャンスは見逃せない。

久しぶりのポトン・バビ体験の再演だ。


ポトン・バビはインドネシア語で、ポトン(Potong)が “切る” バビは(Babi) “豚” のこと。

バリ人同士では、バリ語で“ナンパー・チェレン”と言っている。

チェレンが豚。

早い話 “豚の屠殺” だ。

動物の屠殺シーンを見るのをラッキーなって言ってると動物愛護団体から抗議がきそうだが、これはバリ人の信仰するヒンドゥー教の神聖な儀礼である。

そんなわけで、動物愛護の皆さん、私の無礼な発言をお許しください。

前回は参加して醜態を晒したので、今回は写真取材に専念することにした。

醜態は「極楽通信・UBUD:「14ポトン・バビ体験記」を読んでください。


まずは、豚に聖水をかけ清めることから始まる。

これがバリらしいところだ。

豚のノドにナイフが入る。

鮮血がドッと流れ出す。

前回は、竹の半割をノドに刺し込み樋にして、血を流して下で鍋で受けていた。

今回は、直接、鍋に落とし込んでいる。


血が止まると、豚を移動した。

バケツの血は、儀礼の料理・ラワールに混ぜられる。

こぼれた血を、犬が美味しそうに舐めている。

バーナーが用意された。

運ばれた豚の、産毛を焼くのだ。

バーナーの調子が悪いので、伝統的手段である枯れた椰子の葉束を燃やした。

産毛を焦がし、そげ落とす。

そして、洗い流す。

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腹の中央にあるヘソを切り、引っ張ると紐状に繋がった腸のようなものが出て来る。

それを丁寧に取り出していく。

血抜きを終わっているからか、ほとんど血は出ない。

大きく腹を裂いた。

大小様々な腸が現れた。

それをすくい上げるようにして取り出しだ。

意外と冷静に見つめている私がいるのに驚く。

腸は、小川に運ばれて洗われる。


腸が出された肉塊となった豚は、シートの敷かれた場所に移動される。

いよいよ、解体作業だ。

単に切るだけではなく、叩き切る、削ぎ落とされる。

手際よく解体されていく。

生臭さからだろうか、少し吐き気がしてくる。

血を見たら、耐えられないかもしれないと思った。

男衆は平気な顔で作業に取り組んでいる。

Potong-Babi2.jpg

解体作業が終わると、続いて供物とラワール料理にかかる。

表皮+脂肪と部位に切り分けていく。

切り落とされた肉の固まりは、それぞれの行程にわかれる。

各部位に分かれた肉は、大きな鍋で煮込まれるもの、細かく刻まれるもの、ひき肉機にかけられるのもとある。

煮込まれた表皮+脂肪は、サイコロ状に切られ串の刺されるものと、脂肪を剥ぎ取った表皮は千切りされてラワールに混ぜられる。

剥ぎ取られた脂肪は、飾り物に使われる。

ひき肉機にかけられた肉は、つくね用と腸詰め(ウルタン)用に分けられる。


今まで見たことのない手の込んだ細工の竹串に、つくねをつけている数人に男衆がいる。

プマンクに尋ねると、供物用のサテで9種類あると教えてくれた。

9種類は「椰子の実の話(29)」で勉強したナワォ・サンゴ(Nawa Sangga)のことだった。

9方位に、神の武器(神器)を竹で形作り、そこにつくねをねりつけていく。

これは、供物として指定の位置に置かれる。

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これら一連の作業が滞りなくスムーズ行われている。

これだけの仕事量を、10数人の男衆が流れるように携わっている。

素晴らしい連携プレイだ。

慣れているとはいえ、見事な分業システムだ。

力もいるし、動きっぱなしで疲れているはず。

無駄口や一服する者はおらず、皆、真剣だ。

これは、バリ人のゴトンロヨン(相互扶助)の精神からくるものだろうか。

私には、到底出来ない作業だ。

オダラン前日のブト・カロを鎮めるムチャル儀礼まで、いっきに突入していった。

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2013年07月24日

タマン・ヌサ=taman-nusa(16)

「Discover Indonesia《 タマン・ヌサ=Taman-Nusa 》」

ギャニアール県の東端、北へ数キロでバンリ県、川を隔ててクルンクン県という県境に、新たにオープンする観光施設の名称だ。

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Nusaは、祖国、島を現すインドネシア語。Tamanには、完全な、遊園地、熱心と3つの意味があるが、ここでは遊園地と考えていいだろう。

コンセプトは、インドネシアの国家標語である「多様性の中の統一」だと思われる。

一万数千もの島々からなるインドネシアは、日本の約5倍の国土を有し、300以上の民族と部族語とに分かれると言われている。

同じ島内でも、山をひとつ越えるだけで言語がまったく違うことをインドネシア国内の旅で、私は体験している。

この多数の民族をひとつに結びつけるのが「多様性の中の統一」。

ひとつの言語、ひとつの文化、伝統を強要するのではなく、お互いの相違を理解し、それを基礎にして新たな国家、文化を創造していくのが、この標語の理念だ。


スバリ村のグスティ君がオープン前の見学をオーナーから招待を受けていて「一緒に行こう」と私が誘われた。

お互いの都合の良い7月7日(日)に、出掛けた。

オーナーのサントーソ氏は、ジャカルタ出身の中華系インドネシア人だった。

案内は、クトゥ村に在住している長男ロベルト君がしてくれた。

7月10日オープンと聞いているが、建築途中のところが目立つ。

これは突貫工事をしても、10日には間に合わないのではないかと、人ごとながら心配になる。

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★ステージ・スペースになる建物の屋根は、トランプのスペード型をした「シリーの葉(Daun Sirih)」の意匠が、薄鉄板を溶接して葺かれていた。

シリーは、インドネシアの各地に古くからある嗜好品で、神聖なものと考えられ、今でも祝宴には饗される。
バリでは、大きな儀礼には、供物として神々に捧げられる。

★未来をテーマにしたパビリオンは、椰子の葉の細く固い芯の部分・リディ(Lidi)をまとめで作った「ほうき=サプ・リディ(Sapu Lidi)」をデザインしたものだった。

サプは、ほうきの意味。バリ語では、サンパッ・リディ=Sampat Lidiと呼ぶ。

リディには教訓がある。

「Lidi sebatang mudah dipatahkan, tetapi sapu seikat tak mudah dipatahkan.」

(一本の椰子の葉の芯は折れやすいが、まとまってひとつのほうきになれば折れ難い)

民族の結束を願望した教訓をシンボルに用いたようだ。

解説するロベルト君の顔には、充実感が満ちていた。

「タマン・ヌサ 」のマネジャーとして自覚がそうさせるのだろう。

私は「日本にもそれと似た言葉があるよ」と、

一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかける、毛利元就の「三本の矢」の逸話を伝えた。

★バティックとワヤン・クリッの展示館は建築途中たった。

サントーソ氏の膨大なコレクションなのだろう。

★印のパビリオンは、建築途中のため写真を撮っていない。


ここから先には、インドネシア各地の独特の建物、60以上の民族家屋が再現されている。

こちらは9割かた完成していて、調度品が揃っている家屋もある。

100年前の家屋を移設したと説明されたが、村落によっては現在でも使用されている家屋だ。

バリ島以外には、ジャワ島、ロンボク島、スンバワ島、フローレス島、スンバ島、スラウェシ島を旅をしたことがある私の記憶に残っている民族家屋もある。

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入場料がドル建てということは、対象は海外からの観光客か。

ロベルト君に、ローカルの入場料を尋ねたが、考慮中という答えだった。

「タマン・ヌサ 」でインドネシア各地の施設を見ることができてしまえば、インドネシア国内を旅行する人が減るのではないかという考え方も生まれてくるだろう。

2ヶ月の滞在ビザでは、日本の約5倍の国土を持つインドネシア全土を観光するのは難しいので、お手軽な「タマン・ヌサ 」ですましてしまえというツーリストも現れるかもしれない。

私も初めはそう考えていた。

しかし現状は、情報があまりにも少なく、現地まで行くツーリストは少ない。

逆に「タマン・ヌサ 」を見学して興味が惹かれ情報を得て、旅をしようと考える人が増えるのではないかと考えを変えた。

私としては、現地に行って肌で感じて欲しいのが本心だが、今は、これもありかなという思うようになった。

そんな意味では、コンパクトにまとまった「タマン・ヌサ 」は、有意義な施設かもしれない。

愛知県の犬山市に「野外民族博物館・リトルワールド」がある。

一周2.5kmの周遊路に沿って、世界の民家を移設・復元している。

園内は、異国情緒いっぱい。

建築物のうち、歴史上にも文化芸術上にも価値があるものを末永く保存する事業だ。

「タマン・ヌサ 」も、そんな役割を担った施設の一つだと考えている。


ロベルト君は、私の質問にひとつひとつ丁寧に答えてくれた。

残念なのは、私の語学力不足で充分に理解できなかったことだ。

「日本語の説明書を販売してください」と、私は私のために頼んだ。

園内一周、約一時間。

すべてのパビリオンを見学するとなると、3時間のコースになるだろう。

折り返し地点にカフェ・コーナーも設けられ、決して無理なコースではないだろう。

完成が待ちどうしくなってきた。

後日の情報では、無理だとしか思えなかった7月10日オープンを死守したようだ。

私には中途半端なオープンとしか考えられない。


★営業時間:8.30am〜17.00pm/
★入場料:50US$(大人)/25US$(子供)/ローカルRp150,000-/
★TEL:+62-361-952952/
★FAX :+62-361-953005/
★Email:sales@taman-nusa.com/
★Web:www.taman-nusa.com/

帰路では、街道沿いにあるローカルに人気のワルン「Rumah Makan TALIWANG」に立ち寄った。

もちろん、タリワン=TALIWANG(Ayam Bakar)セットを注文。

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2013年07月17日

バンリのサイババ崇拝・弐(15)

「バンリのサイババ崇拝・壱(14)」からの続きです。

やっと本題に入ります。

ワヤン・スタモ君が、私の世話になっているパチュン家まで、車で迎えに来てくれた。

私は、バリの寺院に参拝する時の正装に身を包んで待っていた。

あいにく家族の姿が見えなく、ワヤン君は挨拶することができなかった。



今日の訪問目的は、ワヤン君夫妻が開設した「瞑想センター」の見学だ。

奥さんのイブ・アユ・ラクシュミには、アパ?情報センター「バリヤン体験・ツアー」の「スピリチュアル・ヒーリング」で世話になっている。

人気のツアーなので、一度、ロケーションを見ておこうと招待を受けることにした。

招待された住居は、新興住宅地の内にあった。

瞑想センター内に入る前に、履物を脱ぎ裸足になる。

15年の歳月の間に、神聖な寺院といった趣の住宅と立派な瞑想センターが完成していた。

文章でうまく描写することができないので、写真を添付することにする。

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アパ?の「スピリチュアル・ヒーリング」は平日に行われている。

毎週日曜日には信奉者が集まって瞑想の日になる。

それを「アグリ・ホトラ=Agni Hotra」と呼ぶらしい。

私が訪れた日は、瞑想の日になっている日曜日だった。

見学だけで帰る予定でいたが、その場の雰囲気に流されるようにして、参加することになった。

老若の信奉者が男女左右に分かれて、小さな座布団に腰を降ろした。

私は、信奉者の一番うしろに席を取った。

午後5時過ぎ、イブ・アユ・ラクシュミが登場すると「アグリ・ホトラ」儀礼が始まった。

グル・ラクシュミが、右手に持った鈴を激しく鳴らした。

霊媒師を想像させる仕草だ。

マントラを唱える大きな声が、左手に持つマイクを通して聞こえる。

呪文のようにマントラを繰り返す。

マントラを唱えると、サイババからお告げが降りてくるという。

宗教に興味がない私は、こういう場所が苦手だ。

「えらいところへ来てしまった」と動揺する。

辞退した気持ちはいっぱいだが、今日はワヤン君の送迎つきなので、途中で帰るわけにはいかない。

最後まで見届けてやろうという、中途半端な好奇心もわいてきている。

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グル・ラクシュミが誕生日の歌を唄う。

私の知っている通俗的な歌だった。

信奉者の子供の誕生日儀礼のようだ。

ケーキの上のロウソクが1本のところをみると、1歳の誕生日なのだろう。

グル・ラクシュミに相談をしてから、子供が授かった夫妻の長男だという話。

聖水の振りかけて、誕生日の儀礼は終わったようだ。



遅れて来た信奉者が、私のうしろに座る。

60人ほどが集まっていた。

多い日には150人ほどになると、ワヤン君があとで教えてくれた。

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信奉者のひとりがマイクを手にして、マントラを唱える。

鳴りものが入る。

参加している全員が手拍子を打ち、マントラの合唱を始めた。

全員がマントラを唄うことができるようだ。

私の耳に聞き分けられるのは「オーム」と「シャンティ・シャンティ」だけだ。

歌詞がわからない私には、霊歌のようでもあり、祈りのようにも見える。

お金を聖火に投じて燃やす場面もある。

聖火信仰=護摩(ホーマ)祈祷のひとつなのだろうか。

疑問ばかりが浮かぶ。

サイババを骨格にしたヒンドゥー教のようなものであり、その亜流の新興宗教にも見える。

奇妙な歌は、続けられる。

しかし、ある種の厳粛さを醸し出している。

隣のうら若き女性は、涙を流していた。

ヴィプーティ(聖灰)を頂き、こめかみに付ける。

儀礼は、8時過ぎに終了した。

信奉者たちは皆、高揚感と浄化された清々しさとがないまぜになった顔をしている。

グル・ラクシュミは、3時間、唄いっぱなしであった。

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信奉者が一列に並び、順にサティア・サイババの写真が飾られた祭壇のある部屋に入りお祈りをする。

最後に、私は部屋に招き入れられた。

ワヤン君とともにお祈りをする。

聖盃から滲み出て来ると教えられた「アムリタ(聖なる蜜)」を頂いた。

ヴィプーティは、祭壇裏に飾られた額縁のガラスに自然に浮き出てくらしい。

摩訶不思議なものを見せてもらった。



興味ある体験ではあるが、疑問は残る。

訪問する前は「アグリ・ホトラ」儀礼ツアーを考えていたが、果たして、日本人はこういうものを好むのか、心配になってきた。

ワヤン君夫妻が主宰なので応援したいのだが、どうしても違和感は拭えなかった。


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2013年07月15日

バンリのサイババ崇拝・壱(14)

知人から、2012年8月20日(月)6.00pmからマス村の大広場で護摩(ホーマ)法要があるとの情報あり。

バリで護摩法要とは、不思議なり。

好奇心の強い私は、もちろん見学に出掛けた。

広場では、護摩木を焚いている(ように見える)10以上の集団ができていた。

その光景に顔を背けるバリ人もいた。

私も腰が引けている。

受付が用意されていて、勧誘されるのではないかと不安。

通りがかりのバリ人に「何をしているのです?」と問うと、「純潔と平穏の実現と精神の自覚を起こすため、大地を司る女神・プリティウィにお祈りをしている」と答えた。

私が知っているのは、信奉者が踊っている「クリシュナ崇拝」だけだった。

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1993年、私が最初にバリ舞踊を教えてもらったワヤン先生の奥さんが「クリシュナ崇拝」だった。

クリシュナもヒンドゥーの神だが、バリのヒンドゥー教とは関係が薄いので、村人から疎まれていた。

それが先生のお父さんの悩みの種だと、先生を紹介してくれた知人が教えてくれた。

バリのヒンドゥー教にもインドの各宗派が浸透し、活発に活動しているようだ。

「サティア・サイババ崇拝」もそのひとつだろう。



ご存知だと思いますが、少々説明をさせていただきます。

「サティア・サイババ」は、インドのスピリチュアルリーダー。

インド国内では多くの要人も聖者として認める霊的指導者。

活動本拠地としてインドのいくつか のアシュラム、病院、学校があるほか、数百万の信奉者と世界126カ国に1200のサティヤ・サイ・ババ・センターを持つ。

サティア・サイババはシルディ・サイババの生まれ変わりと言われている。

シルディ・サイババ(1838年生まれとされる)は神の化身として信者たちから崇められた聖者。

「使命をまっとうするために、8年後に南インドのヴィシュヌ神を信仰する家に生まれ変わる」と予言して1918年に死んだ。

その予言通りに転生したのが、1926年生まれのサティア・サイババとされる。

サティア・サイババは、1926年11月23日生〜2011年4月24日没。

サイババという名称は「サイ」と「ババ」が合体したものである。

前者はイスラーム教の「聖者」、後者はヒンドゥー教の「父親」を意味する。

つまり、サイババとは、ヒンドゥー教とイスラーム教が合体した超宗教的な尊称なのである。(参考:ウィキペデア/「ヒンドゥー教の本」学研)



余談だが、私が滞在始めた頃のウブドには「サニアシン」と呼ばれるツーリストが多く滞在していた。

「バグワン・シュリ・ラジニーシ師」を崇拝する人々だ。

「ラジニーシ師」は、独自の瞑想法を開発し、1974年インドのプーナにアシュラムを創設し「真の宗教の必要性」を説いた人物だ。

晩年は「和尚」と改名。1990年死去。(参考:「ヒンドゥー教の本」学研)

当時、バリ北部ブレレン県イエ・サニ村とバリ東部カランガッサム県チャンディダサ村にアシュラムがあった。

日本での私の知人にも何人かの「サニアシン」がいる。

バリのあと、プーナで会う約束した女性がいた。

この約束は、私の「ウブド沈没」で保古となった。



前置きが長くなってしまったが、本題は「ワヤン・クリシュナ(42)」で書いた、ワヤン・スタモ君の話だ。
両親兄弟と住むバンリの自宅を訪れた時のこと。

10数年前だと思うが、正確に何年だったかは思い出せない。

ワヤン君が再婚してから、始めてのお宅訪問だ。

案内された部屋には、サティア・サイババの大きな写真が壁に飾ってあった。

トレードマークのアフロヘアーとオレンジ色の法衣姿の写真だ。

この頃、すでにサティア・サイババは有名であったが、私はまったく興味がなく知識もなかった。

サティア・サイババの写真の前で、お祈りをした。

私がサティア・サイババを理解したと解釈したのか、夫妻は当時私が経営していた「ブンブン・カフェ」に、ガネーシャの石像を用意してくれた。

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「ブンブン・カフェ」には、ブラック・マジックがかかっていたそうだ。

夫妻は度々「ブンブン・カフェ」を訪れて、サティア・サイババにコンタクトをとってくれる。

歌を唄い、ガネーシャ像にミルクを掛け「これで安心です」と言って帰っていった。



本題に入るまでに、息切れしてしまいました。

続きは、次回「バンリのサイババ崇拝・弐(15)」ということで。

posted by ito-san at 16:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月08日

バリ人の祈り(13)

「トゥピ・サワ・ヴィラス」内のオープン・カフェに、朝特有の清々しい風と陽射しが飛び込んでくる。

「株式会社ゆうエージェンシー」バリツアーの「バリの芸能と文化」レクチャーは、原稿から脱線しながらアットホームな雰囲気で進んでいる。

これはもう、レクチャーとは言えないだろう。

皆、熱心に聴き、疑問な点には質問をしてくる。

「嫁と姑の関係はどうですか?」

年輩の人には気にかかる問題ですね。

寝不足な私の緊張もほぐれ、雄弁になってきた。

「日本料理店・影武者」の大テーブルで、夜な夜な集う常連客の雑談に似ている。

こういった雰囲気の中で話をするのは、得意な方だ。



皆様が最初に目に留まる物は、供物を捧げる姿でしょうか。

供物は、神々に感謝を現す行為です。

上に置く供物は天上界の神、地上に置く供物は地の神ブタカロ=悪霊に対してです。

供物は日々、家寺、屋敷内の各所と玄関前に捧げられます。

家族の代表がひとりで執り行う。ほとんどが女性で主婦のことが多い。

寺院への供物は、祭礼日や満月・暗月、その他儀礼のある日に限られます。

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音楽、舞踊、絵画、彫刻は、神々に捧げる供物でした。

でしたと。過去形で表現したのは、現在は職業として成り立っている人もいるからです。

バリ舞踊の始まりは、おそらく神事における呪術師(シャーマン)の仕草からだったでしょう。

土着信仰の強い古代は、神々と交感するトランス状態の踊りが主流だったと思われる。

村人が神々の降座を廻って舞った素朴なものだったかもしれません。

バリ人の生活は、信仰と慣習と芸能が三つ巴になって成り立っています。

どれひとつ欠けてもバリの文化は成り立ちません。

芸能を奉納することで信仰と絆を繋いでいます。

バリの信仰には芸能が不可欠だし、芸能は村人の生活の一部であり、信仰はバリ人の日常になっている。



バリ人は、祠の前で日々お祈りをするわけではありません。

祈りは、個人個人が心の中で行います。

神は自分の中にいて、いつどこでも祈ることができるのです。

祈りはバクティ(神への献身的な信仰と愛=親愛)と言われる。(称号を持った階層ではムスポと言う。インドネシア語ではスンバヤン)

バクティといわれる祈りの行為は、神々と一体となることを望んでいます。

バクティすることで、人類愛につながり、いつしか自我は空となり、神人一体の妙境に達するようになる。

これが「解脱の境地」と考えている。

バリ人の宇宙観は、大きな宇宙=ブアナ・アグンと小さな宇宙=ブアナ・アリットです。ブアナ・アリットは、個人です。

インド・ヒンドゥーでは大きな宇宙はブラフマン(梵)、小さな宇宙はアートマン(我)と呼ばれているようです。

寺院でのお祈りは、宇宙の平穏と地球の平和、人々の安泰を願います。

決して、個人的な願い事、例えば「商売繁盛」「合格祈願」などはしないようです。

日常の行事、例えば、家を建てる日、竹や木を切る日、踊りを習い始めるのに良い日、などは、バリの暦に従って行われます。

問題が起こった時、例えば、病人が出る、物がなくなる時などはバリアンとよばれる呪術師を訪れます。

ビジネスを始めるときなどにも、相談に行きます。



※自分の経験値や共通点のある情報は、理解しやすいので耳を傾ける。

今更、知る意味もないものは誰だって興味をもたない。

私がそうだからと言って、他の人もそうとは限らないのだろうが。

バリのヒンドゥー教の歴史的背景にあまり興味が起きないだろうと、時間も残り少なくなっていたので私は勝手に解釈し割愛することにした。



それでは皆さん、ウブドを歩いてバリ人を観察してみてください。

多くの疑問がわくほど、バリに興味を持っていただけると思います。

では、楽しいバリ旅行をお過ごしください。



レクチャーと言う名の雑談は、私的には、失礼もなくつつがなく終了した。

これも参加した旅行者の方々全員が、好意的だったからだ。

原稿は、とちった時のお守りで、やぱりメモの役目しかしていなかった。

フロント前で記念写真を撮り、6月20日創刊された日本人向けウブドの月刊フェリーペーパー 『あっ!とウブド=@UBUD』を、皆さんに一部づつお配りして、私はヴィラをあとにした。
posted by ito-san at 16:38| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする