2013年06月19日

西村邸を訪問(40)

陶芸工房スティアをさらに北上して、右手に並ぶ民家の間を入ったところで、悠々自適のテガランタン村住まいを送っている知人がいる。

西村一成・久美子夫妻だ。

夫妻の初バリ訪問は1993年。いきなりのウブド滞在。

1993年10月3日〜10月15日の日程で、ウブド郵便局のあるジュンバワン通りの「スハティ・ゲスト・ハウス=Sehati Guest House」に滞在。

その頃のことが「極楽通信・UBUD」(1999年廃刊)Vol.6〜Vol.9に「うぶどぅ日記」として掲載されている。
取材・文はライターの久美子さん。当時の体験が克明に書かれている。

PDFとして復刻した「Club Bali・極楽通信UBUD」でダウンロードして見ることができますよ。


「極楽通信・UBUD」編集管理者でウブド熱愛症候群H氏の取り計らいで、私と知り会うこととなった。

西村夫妻も初バリでウブド熱愛症候群に取り憑かれ、毎年ウブド通いをすることになる。

ウブド熱は一向に覚めやらず、5年後(1998年)には、土地を購入することになった。

私はオカちゃんを紹介し、オカちゃんはテガランタン村の親戚デワさんの裏に土地を見つけてくれた。

裏地と言っても、田んぼの景色とアグン山が眺望できる望めるロケーションは、観光客にとっては申し分のない物件だった。

この時夫妻は、将来、ウブドに住むんだと心に誓ったのだろう。

ここまで夫妻が、ウブドに惚れ込んだ理由は訊いていない。

観光スポットがあるわけでもないし、特に素晴らしい景観があるわけでもない。

ウブドの魅力を説明するのは難しい。


2006年に着工。

デザインは始め、私がお手伝いするつもりでいたが、自然素材をふんだんに使った私のデザインでは西村夫妻は納得できないだろうと知人を紹介することにした。

モダンなデザインならこの人にお願いした方がいいだろうと、私は草野球仲間の山路さんにお願いした。

山路さんと西村夫妻は意見が投合し、アイデアを出し合っていった。

そして2008年、おしゃれなヴィラが完成した。

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旦那の一成さんは、東京の某テレビ制作会社に勤務。

2011年5月に、55歳で早期退職した。

これが2011年3月11日の東北地震後と言うこともあり、他人からは「避難か」と非難される。

夫妻にとっては、地震以前からの移住計画だったが、そんな白い眼で見られてしまったと、嘆いている。

現在、日本とバリで半年ごとに滞在。

オカちゃんのバックアップもあり、村人との交流もスムーズで、嫌な思いもなく快適な生活を送ることができている。

1993年の初バリ訪問から今まで、ウブドに住みたいという気持ちが初心と変わらないと言うのも驚きだ。

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おかげで、私は食事に呼ばれたり、プールを拝借して、悠々自適のおこぼれに預かっている。


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2013年06月17日

陶芸工房(39)

知人がテガランタン村で陶芸工房を持っている。

工房名は、スティア(Setia)。

場所は「ワルン・テガル・アスリ」を北上した左手。

ウィディア・バッティク(WIDYA BATIK)の看板が出ている家だ。

向かいには、カルタの末弟・マンコッ(ニョマン・バンコックの短縮名)が20年契約で貸し出した田んぼにヴィラが建築中。マンコッは、その金で屋敷裏に一戸建て貸しヴィラを建てている。

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工房スティアのオーナーM子さんとは、名古屋時代から縁がある。

私が名古屋・八事日赤の「珈琲処・石橋」2階で「人畜無害」という雑貨屋を商っている時代に、女子高生の彼女は通っていたと言う。

その後、大須に作ったライブハウス「コマンド」にも、顔を出していたらしい。

そしてウブドで会う。これはかなり縁のある糸で繋がっているかも。

彼女とは、共通の知人が多かった。

そんな彼女が、2004年、テガランタン村に工房を建てて長期滞在に入った。

ちょっと大げさな言い方だが、ウブド初の日本人陶芸家である。

作品の多くは、ほのぼのとした雰囲気を持ち、見ている者の心が落ち着かされる。


工房の大家さんは、セノ(Sena)。

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セノは、私の家具作りを手伝ってもらっていた大工さんで、オカちゃんの幼友達だ。

お父さんも大工さんで「居酒屋・影武者」の工事に関わっていた。

私は、資材置き場兼作業場を庭の一角に作らせてもらった。

仕事を発注するという暗黙の了解で無料で借りられた。

現在は、親戚のお兄ちゃんがバッティク工房に使っている。

セノは、先月(5月)にクリアン・バンジャール(町内会長)に就任した。

8月、テガランタン村は、合同葬儀がある。

これまでより更に忙しくなることが想像される。

写真は、仕事現場に突入して撮らせてもらったもの。


工房スティアは、私の資材置き場兼作業場の隣に建った。

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希望者があれば、野焼きを体験させてくれるし陶芸を習うこともできる。

私も以前、作品を作らせてもらったり、工房の庭で野焼きを体験させてもらったことがある。

連絡は:bnr_setia.jpg

ゴータマ通りに、アンテナ・ショップ「スティア」を開店しています。

もちろん、工事はセノが施工した。

ユニークで可愛い店舗に、ほのぼの作品が揃っていますよ。

是非一度、お立寄りください。

店長に変わって伊藤が低頭しております。

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2013年06月15日

パチュン君にお客様(38)

パチュン君の仕事は、日本語ガイド。

土曜日から、日本人のお客様がウブドを訪れている。

3年ごとにバリを訪れ、今回が7度目の訪問になる日本人男性だ。

3度目のバリ訪問で知り合ったガイドがパチュン君。

今では、家族ぐるみで仲良くしている。

パチュン君が旅行会社を変わった後も、彼とはずっとつき合いがある。


旅行最終日に、屋敷を訊ねて来る予定になった。

「明日、私の友人が訪ねてきます。伊藤さんにも会ってもらいたいです。イブ・オカのバビグリンを買って来るから、一緒にお昼を食べましょう」

パチュン君の外国人知人の訪問は、私がこの家にお世話になって初めてだ。

これは一肌脱がなくては。

私は、ホスト役に徹することにした。


当日、私はいつもより早起きして、テラスで読書をしながら待機した。

と言っても、起床は10時だったが。

12時少し廻ったところで、家の前で車の扉が開閉する音がした。

「伊藤さん! 友達が来ました」。パチュン君の元気な声が聞こえる。

パチュン君と運転手のロロス君に挟まれて、日本人男性がビデオを片手にやってきた。

私は起き上がり、バレ・ダンギン(儀礼用東屋)に移動した。


私は握手を交わし、自己紹介した。

彼の名前は「SUGIYAMA さん」、静岡出身で現在は北名古屋市住まい。

年は、私より10歳若かった。

さっそくバビグリンの昼食。

ところで、その北名古屋市って?

ウィキペディアで調べると「2006年3月20日、西春日井郡師勝町と西春町が合併し発足した」とある。

私の居ないうちに、何とも納得できない市名にしたものだ。

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バビグリンは、バビは豚+グリンは回す=豚の丸焼き。

主に、儀礼の時に振る舞われるバリの伝統料理。

「イブ・オカ」のバビグリンは、ウブドはもちろんバリ島中でも有名で、毎日大勢の観光客が訪れる。

ウブドのローカル・ワルンが、今はウブドの観光名所になっている。

今回のバビグリンは、新しく開店したばかりの「グン・チュン=Gung Cung」で購入。

「グン・チュン」は「イブ・オカ」の息子の経営で、厨房は同じだろうから味も同じ。

何ぶりかで食べた「イブ・オカ」のバビグリンは美味しいのだが、ベジーな食生活をしている今の私には重い味だった。

バビグリンを頬張りながら、雑談は続く。

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子供たちが、日本からのお土産をもらっていた。

SUGIYAMA さんには、3年前のまだ幼かった子供たちの記憶が残っていたのだろう。

お土産は、ちょっと低学年向けのように感じた。

それでも、お土産をもらうのは嬉しい。

子供たちは、オモチャに戯れていた。


パチュン家訪問の短い時間を終えて、sugiyamaさんは笑顔で車に乗った。

車の窓からビデオを構えながら、sugiyamaさんは「3年後に、また会いましょう」と言って去っていった。

私は無事ホスト役を終えてホットすると同時に、もう彼とは会うことはないだろうと想念していた。


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2013年06月13日

ワルン・テガル・アスリ(37)

時々、パチュン君の奥さん・マデが昼食にナシ・ブンクス(持ち帰り弁当)を買って来てくれる。

ワルン・サリ・ルジェキ(テガランタン村への道程(21)で紹介)のナシ・チャンプールかほとんどだが、たまに他のワルンでティパット・サントッ(=Tipat Santok。Tipat Cantokとも言う)を買って来る。

ティパット・サントッは、ちまきのように調理したご飯と茹でた野菜をスパイシーなピーナッツ・ソースであえた物。私の好物バリ料理だ。


ティパット・サントッを食べに、イブ・マデ御用達の「ワルン・テガル・アスリ=Warung Tegal Asri」を探しに出掛けることにした。

「テガル・アスリのティパットは美味しいけど、ナシチャンプールはワルン・サリ・ルジェキの方が美味しいからね」と教えられた。

「ワルン・テガル・アスリ」は、寺院群を北上してすぐ右手にあると聞いている。

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テガル・アスリは、ジャランジャランの1(30)で、出会ったプマンク(専属僧侶)の屋敷前で家族が営業していた。

雑貨屋を兼ねていて、村人が頻繁に訪れる。

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イブ・マデの忠告を守って、私はティパット・サントッを注文した。

「辛くしないで」と付け加えた。

ひとつしかないテーブルの椅子に腰掛けて待っていると、地元の村人が次から次ぎへとブンクスを頼んで持ち帰っていく。

こんな地元民御用達のワルンに腰を落ち着けれ時間をつぶしていれば、バリ文化を知る機会にもなりそうだ。

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★食事:ナシチャンプールRp8,000-/ティパット・サントッRp5,000-/
★飲物:バリ・コピ&紅茶Rp2,000-/テ・ボトルRp3,000-/エス・チャンプールRp3,000-/
★デザート:ルジャックRp3,000-/
☆ルジャック(Rujak)は、熟していない果物&野菜の盛り合わせに不思議な味のタレがかかった、甘くて、酸っぱくて、塩っぱくて、辛いサラダ(この説明では、理解できませんよね)」。私が目撃した当店のルジャックは、マンゴだけだった。
★営業時間:8.30am〜8.00pm/定休日・儀礼祭礼日。

イブ・マデはティパットをRp4,000-で買っている。ナシ・チャンプールもRp7,000-と聞いている。私が訊いた価格はツーリスト価格だろう。


眼前の屋敷の壁に「ミスター・バリ」の看板が出ているのが眼に入った。

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「ミスター・バリ」は、1990年前後にウブドの地元若者のオシャレ心をくすぐった男子専科のブティックだ。

オダラン(寺院祭礼)の正装に「ミスター・バリ」白シャツが目立ったのもこの時期だった。

若者たちにならって、私も「ミスター・バリ」の白シャツを着てオダランに出掛けたものだ。

今は、クタの本店しか残っていない。看板は、当時店頭に掛かっていた物だろう。

イブに「どうしてミスター・バリの看板がここにあるの?」と聞くと「ここの娘が「ミスター・バリ」のオーナーと結婚したからよ」との答えが返ってきた。(※オカちゃんのお母さんの弟の娘と判明)

2人しかいない従業員が、どちらもテガランタン村の若者だったのも道理だ。

ひとりは、オカちゃんの弟アノム。ジャランジャランの2(31)でヴィラを紹介したアノムだ。おかげさまでヴィラは、借り手が見つかったそうです。

もうひとりは、オカちゃんの妹プルナミと結婚したデワ君だ。

「ミスター・バリ」のオーナーは、ワイルドな風貌のバリ人。ジョゲッ・ブンブンの飛び入りで、本格的な舞踊を演じるのを眼にしたことがある。


ティパット・サントッがテーブルに置かれた。

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イブ・マデがブンクスしてくる物より量が多い。これならツーリスト価格でも納得しよう。

ティパットの写真を撮っていると、先日、プマンクの写真を撮っている時に現れたおじさんが、迎えの屋敷から現れた。

このおじさんの妹が「ミスター・バリ」のオーナーと結婚したということだ。

おじさんの次男マデは、日本人女性と結婚して名古屋に行っている。どことなく寂しそうに見えたのは、私の勝手な想像だろうか。

独身の長男が「アパ・カバール(元気ですか)・イトーさん?」と叫び、私の返事も聞かず、バイクを飛ばして行った。

どこの日本人妻が供物作りが巧いとか、手伝わないとか・・・。

たわいもない噂話に花を咲かすのも、地元ワルンの面白いところだ。

イブを交えたおじさんとの話に相づちをうっていて、ティパット・サントッの味を堪能することはできなかった。

バリ文化を知る機会は、やってこなかった。

こういう時もある。



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2013年06月10日

お世話になった面々の2(36)

カルタの次に、ウブドで世話になった人物は「オカちゃん」だ。

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本名、アナッ・アグン・オカ。

ブリ・オカ=オカ兄ちゃんと呼ばれて村人に慕われている。

運命の巡り合わせか、オカちゃんの出現で私の「居酒屋・影武者」開店が可能になった。

「居酒屋・影武者」の開店に尽力をつくしてくれたのが、オカちゃんだ。

カルタの妹ラティとオカちゃんの妹プルナミが、ウエートレスとして手伝ってくれた。

どちらも美人で、お客様に人気があった。

しばらくして、オカちゃんはカルタの妹ラティと結婚する。

こうしてカルタ家とオカちゃん家は親戚となったのだ。


早くに父親を亡くした長男のオカちゃんは、2人の弟と妹1人を育てるのに苦労した。

オカちゃんの苦労話は、涙を誘う。

マスでギャラリーを経営する親戚のアグン・ラカさんの紹介で、バリ東部クルンクン県バクサバリ村にある先生になるための高等学校に入学した。

バクサバリ村パンティ寺院の喧嘩神輿の情報は、こんな経過からだったのを思い出した。

弟のアンギン(ライ)がウブドのセンゴールで外国人ツーリストが多く訪れるワルン(デワ・ワルンの前身)を経営していた関係で、オカちゃんはツーリストとの交遊を持ち私とも知り会うきっかけとなった。

私のヴィザの保証人は、オカちゃんの推薦でアグン・ラカさんになってもらうことができた。

オカちゃんはテガララン村の教育委員会に勤める公務員。

教職員の免許を持っていが、なぜか事務職に就いている。(※新情報では、今は、道徳を教えているそうだ)

仕事は堅いがそこはバリ人、闘鶏には眼がない。


現在、ブンデサ・アダット(慣習村村長)の責任を仰せつかっているようだが、寺院の改修工事の資金繰りに四苦八苦しているのがやつれた顔からうかがわれる。(※村長ではなく、No3だったのを確認)

オカちゃんとの出会いは「ウブド沈没・日本食料理店の開店計画 」に詳しく書きました。是非、お読みください。



思い出深い男というのはコプリンだ。

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本名、アナッ・アグン・ライ。

こいつは上半身タトゥーのオウチャク坊主。

私の右腕にある聖獣バロンのタトゥーは、ウブドにタトゥー屋がなかった時代にコプリンの悪友に彫ってもらったもの。

カルタやオカちゃんよりずっと年下だ。

アンギン(ライ)のワルンで働いていて、常連客である私をからかうのが趣味のような奴。

Gianyarが巧く言えなくて、何度も直された。

ギャニ(Giany)アール(ar)と発音すると「ギャ(Gia)/ニヤール(nyar)」と言い直される。

「3ヶ月も滞在していて、自分の住んでる市の名前ひとつ言えないのか?」

こんな憎まれ口を叩くコプリンだが、憎めない。

月夜に、カンテラを抱えて田んぼに出かけ、田うなぎ(リンドゥン)、たにし(カックール)、かえる(コド)などを捕まえるのが巧い自然児だ。

闘鶏狂いのコプリンに愛想が尽きた奥さんは、子供を連れて実家に帰ってしまった=結果、離婚。

ジャワ人女性と再婚。

奥さんは、ヒンドゥー・ダルモに改宗している。

闘鶏好きは、未だに、改心されていないようだ。

コプリンとのエピソードが「ウブド沈没・居酒屋・影武者の工事開始」に少々。お読みください。


蛇足だが、Gianyarについて蘊蓄を。

時は、1771年4月1日。

新しく領主が赴任した地を「Geria (屋敷=バリ語)Anyar(新しい=バリ語)」と名付けられた。

そして、いつのまにか「ギャニヤール」と呼ばれるようになった。

毎年4月1日は、市の中心部で創立のセレモニーが催される。

(情報源は、影武者の知識人ダユーでした)


特にお世話になった2名と思い出深い1名以外にも、たくさんの知り合いがいるテガランタン村。

今後、どういう形でブログに登場して来るか楽しみだ。

テガランタン村滞在が、面白くなってきている今日この頃の私です。

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2013年06月07日

お世話になった面々の1(35)

テガランタン村には、私がウブドに滞在し初めてお世話になった面々がたくさんいる。

これまでブログに時々登場し、これからも名前がちょくちょく出ると考えられる人物たち。

特にお世話になった2名と思い出深い1名を、ここで紹介しておきたい。


まずはカルタ(Karta)だ。

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本名、ワヤン・カルタ・ウイグラハ。

私がウブドに滞在して最初に知人として付き合うようになったバリ人がカルタだった。

彼の存在が、私のウブド滞在を可能にしたと言っても過言でないだろう。

カルタの経歴を訊いてきた。

1958〜9年生まれ。

この頃のバリ人は、バリ歴のオトン(誕生日)を重視していて、西暦の生年月日を把握していないことが多い。

小学校(SD1=現在ハヌマン通り入り口角の村役場のあるところ)と中学校(SMP1=現在も同じビスマ通り入り口角にある)は、ウブドに30分かけて徒歩で通った。

バイクは村に4台の所有者がいた。

電気も通っていなかった時代。もちろん電話もテレビも車もない。

学校が休みの時には、ピクニック気分でウブド・サレン王宮に出向いたと言う。

王宮では、訪れた外国人に芸能を鑑賞してもらうことがあった。それを見に行くのだ。

ウブド近郊の村々から、カルタと同様にピクニック気分でウブドを訪れる人は多かったと語る。

ガルンガン・クニンガンにもウブドに遊びに行ったと言う。

当時はウブドも田舎だったが、電気が灯り外国人ツーリストが訪れる村に、田舎者が憧れる気持ちは想像できる。

現在でもウブドは、近郊の村からすればあでやかなエリアだ。

カルタは高校卒業後、ホテル・ウブド(プリ・アニヤール)でルームボーイとして働く。

この時に、奥さんカデと出会った。

結婚は、カルタ21歳、アノム19歳。

プリ・ルキサン美術館前にあったホテル・プリ・マス経営のレストラン・ムナラでボーイをしたあと、アグン・ライ・ギャラリーで売り子として長期勤務。

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ギャラリーでの仕事がカルタの日本語を上達させた。

日本語が話せるようになりギャラリーを辞め、日本人ツーリストのガイドをするようになった。

「私の名前は、カルタです。日本の歌留多と同じです」。これが彼のキャッチ・フレーズだ。

写真でわかるように、カルタは美少年。これを見逃す女性は、少なかっただろう。

近くに奥さんのアノムが居たため、女性問題について詳しく訊くことができなかった。

詳しくは「ウブド沈没・ワヤン・カルタとの出会い」をお読みください。

私と知り合った当時(1990年)のカルタは、31〜32歳。

ちなみに私は42歳。


カルタだけで時間切れのため、他2名は次回の「お世話になった面々の2(36)」で登場します。

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2013年06月03日

椰子の実の植樹(34)

川マンディ(33)で言い忘れたことがある。

テガランタン村では、井戸があっても川マンディを愛用していた。

バリ島の発展とともに、汚染され始めた水質に危惧していたが、現在は、水道が敷設されて清潔な水が豊富に利用できる。

時々、断水することがあるが、以前に比べれば格段に便利になった。

写真の洗濯場は、断水時の予備だろうか。

こうして、川マンディの文化は消滅していく。

カルタの実家は、兄弟がそれぞれにマンディ(シャワールーム+トイレ)のある家を構えていて、川マンディすることはない。

カルタ一族の名誉のために加筆しておきます。(近代化が名誉と、私は思っていないが)


今日も昼からテラスで、ゴロゴロ。

雷の音ではありません。

読書をしていると、パチュン君の姿が横切った気配がした。

見ると、パチュン君が椰子の実を持って渓谷に向かうところだった。

私は、急いでカメラを手にし、後ろ姿を追った。

「何をしているの?」。私は声を掛ける。

好奇心の強いツーリストと同じ敷地内に住むと、こんな質問攻めに合う。

普通はツーリストの方が、住人の好奇の眼に晒されるのだが、我が家は逆である。

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パチュン君は迷惑そうな顔も見せずに「椰子の実を植えるんですよ。20年もすれば大きくなるよ」と答える。

椰子の実から、大きな緑の葉が伸びていた。

「これは買ってくるのですか?」

「これはニュー・ブランから採ったものです」と庭の椰子の木を指差す。

椰子の実の話(29)」で勉強したパンチョ・デワォでは、ニュー・ブランはカンギン(右または東)の方角で、神はイスワロ神で色は白だったことを復習する。

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「表皮が黒くなった実を、しばらく放置しておくと芽が出て来るんですよ」

木になっている実でも、すでに切り落とした実でも、表面が黒くなれば大丈夫らしい。

頭の部分を少し裂いておくと、そこから芽がでてくる。

「これを、土に植えるだけで生育するですよ」

おぉぉぉ〜! そんな簡単にできるとは知らなかった。

椰子の果肉にも果汁にも、種が入っていないことは経験済みだ。

果実に種子が一粒入っているのか、それとも、果実自体がひとつの種子なのか。

無知とは恐ろしいもの。

椰子の実がそのまま苗になるのだと、初めて知って感心する。

苗は、椰子の実を栄養にして育っていくのか。

バナナにも種はなく、根分かれしてバナナの幹は増えていく。

熱帯の植物に、私の疑問はつのる一方だ。



パチュン君は、軽快な足取りでV字の渓谷に下りて行った。

将来の景色を考えて椰子の実を植えている姿が頼もしく映る。


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2013年05月30日

川マンディ(33)

「ジャランジャランの3(32)」で「マンディ」という言葉を使いましたが、何のことかわかりましたでしょうか?

文章の前後でなんとなく想像した人、すでに知っているバリ・フリークもいたでしょう。

私としては、以前に説明したと思っていたので説明なしで話を進めてしまいました。

「失礼しました」(低頭)


マンディ(mandi)は水浴びのことです。

「やっぱりね、そう思ったよ」。あなたの想像した通りですね。

バリ人はお祈りの前には必ずマンディする、これは身を浄める沐浴でもある。

詳しくは「マンディ(mandi)」をお読みください。


テガランタン村の東側にも川がある。

こちらの川は渓谷ではなく、幅が狭くて水深の浅い小川だ。

川岸からすぐに川に入れるため、東側の家々では川マンディが通常だ。

私も一度、この川でマンディの経験がある。

場所は、カルタの実家。

屋敷の裏の林を抜けると、竹薮の林になる。

小川は、竹林をSの字を書いて流れている。

この川が、カルタ家のマンディ場だ。

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マンディ場は、川上から水浴び場→洗濯場→トイレとなる。

真っ裸での水浴びは、爽快だった。

川下で洗濯をしていない時は、水浴び場はトイレとして使用可となる。

隣の家は、やはり川上から水浴び場→洗濯場→トイレとなる。

ということは・・・・。

川上で誰かがトイレをしているときは・・・・。

♪プカプカプカ〜♪

私の体験した時は、川上に人の気配はなかった(はず)。

あまり想像したくない。

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話のついでだから、川トイレの注意事項を伝授しておこう。

まず、下半身を水面から沈める。当然、下着は脱いでいます。

この時、顔は川上を見て座ること。

なぜならば、踏ん張ってから、悲惨な結果が待っているからです。

♪波をチャプチャプチャプチャプかき分け〜て♪

これ以上は、下品な話になってしまうので省略します。

あとは、あなたの逞しい想像で。


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2013年05月27日

ジャランジャランの3(32)

テガランタン村の西は渓谷を挟んで、王宮から北上するスゥエタ通りが並行して走っている。

渓谷の向こうは、カルタの家があるサクティ村だ。

そこには、私がウブドの滞在し初めてすぐ(1990年)に建て始めた私の家が残っている。

この話は「ウブド沈没・サクティに家を建てる」に、書き残してあります。

お暇な時にでも、お読みください。


今日の散歩は、ダラム寺院前のムラジャパティ寺院横にある小道を通って、“渓谷越え”をしようと考えている。

「テガランタン村散策コース」の「地球の歩き方・バリ島編」掲載をもくろんでの野望を抱いた探索だ。

出来れば、カルタの家に寄りたい。

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雑草の繁る小道が終わると、渓谷へ降りる道が続く。

渓谷への道は、コンクリートで出来た階段だった。

階段は、先で左折しているように見える。

「この先に、何が待ち構えているだろうか」と不安と期待がうずく風景だ。

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人の往来が少ないのと、このところ雨模様が続いたからか、階段は少し苔むしていた。

風が冷たく感じる。

ゆっくりと、そして注意深く歩を進める。

ここまでは、順調だ。

この道ならツーリストが歩いても安全だろう。

苔むした階段を下りて踊り場に立つと、階段は左手に続いていた。

頭上は曇り空。眼の前はジャングル。

眼下に祠が見える。ベジー(Beji)寺院と呼ばれる祠だろう。

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ベジーには湧き水が出ていて、寺院で使われる聖水は、ここから運ばれる。

神々を清めるところでもあるため、壁で囲まれていることが多い。

壁は、生理中の女性を隔離するためだと聞いた。

テガランタン村のススオナン(ご神体)は、ここに運ばれ、聖水を頂く。

パチュン君の話では、現在湧き水は枯れていて、オダラン(寺院祭礼)の時には崖に竹筒を刺して滲み出るささやかな水を汲むとのこと。

壁で囲まれていないのは、村人のマンディはここでしないからだろう。

ベジーは、バリ語の丁寧語で川のこと。

バリ語の通常語で川はトゥカド(Tukad)、インドネシア語ではスンガイ(Sungai)だ。

マンディを川ですることの多かった時代、称号を持つ村人は、川マンディをペジーと言ったようだ。

ベジー寺院の足もとには、テガランタン村とサクティ村の人たちの川マンディ場がある。

今は、訪れる村人はなく、寂れている。

Beji-4.jpg


サクティ村への道は、竹薮が覆いかぶさり塞がれていた。

這いずってでも登ろうと試みたが、踏み込む勇気がわかなかった。

身体にまとわりつく湿った空気が、私をためらわせた。

残念だが、あきらめて引き返すこといした。

ペジー寺院の祠に、手を合わせ頭を垂れる。

「テガランタン村散策コース」は、ここまでとしよう。

帰りは階段がキツく感じた。

そして、雨が降り始めた。


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2013年05月22日

ジャランジャランの2(31)

♪さ〜んぽは、つづく〜よ、ど〜こまでも。

なんて気分で、テガランタン村の外れまで行ってみよう。


まずは、オカちゃんの弟・アノム君が建てたヴィラを紹介。

家族で住むのは、まだ先になりそうなので、取りあえずレンタルするそうです。

全館2棟で年間250万円。別々だと大きい棟が年間150万円、小さい棟が年間100万円ということだ。

金額でおわかりのように、私にはまったく縁のない物件ですが、オカちゃんに頼まれて宣伝することになりました。

希望の方は、私まで連絡ください。

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2013年05月08日:■テガランタン村北部(25)で紹介したが、テガランタン村の北隣はジュンジュンガン村だ。

ジュンジュンガン村に入ってすぐ右手に「NOT FOR SELE」の野点看板があることも、その時に紹介した。

素朴な作りの看板に、地元農民の代弁かも、と共感していた。

この日の散歩で「not for sele」の看板が、デジタル文字に変わっていたのを発見。

今回の看板には、お金がかかっているように見える。

アーチスト作とは、薄々気がついていたが、この文字で確定的だ。

アーチストの主張が表面化した時点で、この作品も興ざめである。残念至極!

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「not for sele」看板の道を隔てた反対側にある、"オーガニック農園" の紹介を前回忘れていたので、改めてここで。

アパ?のウブドnoニュース「2012年10月3日(水曜日/晴):《ハルス・オーガニック・ファーム》」でも紹介した。

「ワルン・ボタッ・マリア」経営のオーガニック・ファームに7年間勤務のソロ出身ハルス君が、丹精こめた野菜たちをお求めください。

トーモロコシ=1キロRp10,000-/トマト=1キロRp10,000-/野菜(レタス・コリアンダー・バジル・ルッコラ)=Rp10,000-。

★営業時間:8.00am〜16.00pm/定休日・日曜
★TEL:081-337-382099/
★オーガニック野菜の作り方のアドバイスもしてくれます。
★配達もOK。

小さい看板で目立たないので、ご注意を。

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今回のジャランジャランはここまで。

posted by ito-san at 18:08| Comment(0) | TrackBack(0) | テガランタン村滞在記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする