2020年11月10日

プンゴセカン村に引っ越し(353)

9月29日のポカポカ陽気の昼下がり。

テラスで寛いでいた私に、家主のパチュン君が話しかけてきた。

「クタの親類の娘が、海外の仕事が終了して帰って来る。テガランタン村のホテルで就職が決まり、10月からこの村に移って来たいと言われている」と言う。

コロナの影響で、海外の就職先を解雇されたのだろうか。

就職が決まったことは、祝福したい。

「ほかの部屋は使っているので」と、言葉を濁す。

私に、この部屋を明け渡してくれ、と言いたいのだろう。

とぼけて聞き流せばいいものを、感の良い私は、言葉の内容を汲み取ってしまう。

これまで、まったくそんな素振りを見せなかったので、寝耳に水だった。

突然の宣告に、唖然とした。

よりによって、先の見通しのつかないコロナ禍の最中で。

日本帰国、ボロブドゥール移住、ウブドに止まるかの選択に苦慮しているこの時期に、まさかの事態だ。

困惑で、小さなパニックを起こしている。

「今は家賃も安くなっているだろうから、部屋はすぐに見つかると思うよ」と、ありがたくもないアドバイスをしてくれる。

私の払う家賃が少額なのも、理由のひとつかもしれない。

2015年のコロンビアに旅立つ前、奥さんから「伊藤さんは、家族の一人だから、ズ〜といてくれると思ったのに!」の一言が胸に残り、甘えていたのかもしれない。

頭の中は、すでに転居先を模索していた。

パチュン君にも、何らかの思惑があるだろう。

彼の立場を考慮すると、拒むことはできない。

一ヶ月の猶予をもらって「10月中には出て行きます」と応えた。


友人の家、以前に滞在したことのある宿など、幾つかの候補が思い浮かんだ。

積極的に動かないうちに、「和食・影武者」のスタッフの一人が空き部屋を見つけてきてくれた。

1軒目は、屋敷の一番奥で、数段の階段を降りる。

階段が濡れていて、滑るのが難点だ。

部屋は、湿気を含んだ古い部屋だった。

雨風がしのげればよいと考えていた私には、ここでも問題なかった。

2軒目は、住居が密集しているが、部屋は真新しく清潔だった。

1軒目を見た後だから真新しく見えたわけはなく、実際に改装したばかりで、まだ誰にも使われていない部屋だった。

私は、借りたいと即決した。

「影武者」のスタッフは、1軒目を見た時から、こちらを推薦するつもりだったようだ。

こうして、プンゴセカン村に転居することが決まった。


11月1日からの入居だが、新しい大家さんは、1週間前から荷物の運び入れを承諾してくれた。

2週間の猶予があるので、バイクで引っ越しをすることにした。

自称・生涯旅人の家財道具は、バックパッカー荷物に工具少々と着替えがプラスされる程度だ。

コロンビア移住を諦めたあとも、4月にボロブドゥール移住を考えていたので、大きな荷物はほとんどない。

1週間で運ぶことのできる荷物以外は、一時、影武者に預けることにした。

預けた荷物は、引っ越してから運ぶ予定だ。

1週間は、毎日少しの荷物を運んだ。

10月31日の最終日、最後の荷物と共に、パチュン家を後にした。

家賃の不足分は、バイクを手放すときに精算する約束だ。

今回のパチュン家滞在は、ほぼ一年間。

快適な住空間だった。

以前、私の置いていった家具のうちベッドは虫に食われ新しくなっていたが、タンスと本棚、その他小物は揃っていた。

ホットシャワーとバスタブとの別れが、辛かった。

お世話になりました。

プンゴセカン村のデワさん家に、引っ越し完了。

この日から、新しい下宿先に泊まることになる。

家具ひとつない部屋だが、バックパカーの私には、まったく問題はない。

ホットシャワーがないのは可哀想だと、「影武者」の女将が一口ガスレンジとガスボンベ、大きなヤカンを用意してくれた。

今度の下宿先は「和食・影武者」に、バイクで5分とかからない。

近すぎて寄り道ができないのが、ちょっと残念だが。

真新しい部屋での生活も、10日目になる。

長々とつまらない日常を綴りましたが、コロナ禍の中、ストレスを溜めないように心がけて生活を送っている私の情報です。

1日も早くコロナが終息して、皆様に再会できることを楽しみにしております。


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2020年11月05日

第4弾:徘徊老人のハイカイ先は? (352)

私が旅の信条としていること。

それは、世界のどこにもおもしろくない場所など存在しない、だ。

自分が行き先に選んだ場所をオモシロがれないとしたら、それを楽しむ努力が足りない自分の責任だろう。

想定と違うなら、その想定を軌道修正すればいい。

それでも、どうしても楽しめないというなら、立ち去ればいい。

通過者には、その自由がある。

だが、選んだ場所を批判する権利はない。

今回の徘徊も、楽しませていただきました。

お楽しみください。


《 第13回:徘徊老人・ハヌマン通りに残る空き地 》

パダンテガル村ハヌマン通り沿いに、一つ残る空き地を撮影。

画家・ブディアナ氏のアトリエがあった建物横の小道を入る。

小道沿いに、日本人の友人・知人の定宿が並ぶ。




《 第14回:徘徊老人 @ 和食・影武者 》

「和食・影武者」の南(裏手)にあるタマン寺院。

村人にはタマン寺院と呼ばれているが、聖水を作る湧き水のでるベジ寺院でもある。

苔むした寺院の鄙びた感が好きだ。




《 第15回:徘徊老人@ペネスタナン村 》

ペネスタナン村とカティッランタン村の村境にある、かつて畔道だった小道を入る。

一望できた田園風景は、ヴィラ棟に遮られていた。

しばらく進むと、田園風景が残る場所に出た。

風を感じて、ガゼボで休憩。

小道を前進すれば、クデワタン村の大通りに繋がる。

一時間ほどで往復できる散歩コースだ。




《 第16回:徘徊老人@プリアタン村 》

プリアタン村パンデ(Pande)寺院横の小道を入る。

パンデ寺院は、鍛冶屋の親族集団の寺院。

パンデの称号で呼ばれる、太古の火の祭司だ。

その昔、神秘的な炎を操り、霊力を持つ金属を細工し、男性生殖器の象徴である呪的なクリスなどの神聖な物を作ったところから、バリ人に尊敬されている。

カースト導入後も、スードラではあるが、カーストに属さない特別な階層として扱われている。

建築中のパンデ集団事務棟の北(うしろ)の田園風景は、広がっていた。

休憩した小屋の横にある畦道を進めば、もっと楽に徘徊できたかもしれない。

次回があれば、釣り堀・レストラン「サワ・インダ」まで行ってみたい。





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2020年10月24日

日本占領下・バリ島からの報告:鈴木政平(351)

自粛生活で、読書がすすむ。

残念なことに、読む本がなくなった。

蔵書を引っ張り出しみた。

再読した本を紹介する。

「日本占領下・バリ島からの報告(東南アジアでの救育政策):鈴木政平」

日本軍占領下のアンボンとバリ島に、2年半の間、赴任した教育者が残した報告書。

日本認識、日本的訓練、日本語教育を目的とした指導に打ち込む著者の姿勢が報告されている。

1943年〜1944年(昭和18年〜昭和19年)のバリ滞在中の報告書は、現在でも大差のない事柄もあり、バリ好きには興味が持てる読み物だろう。

州都が、北部バリのシンガラジャだった頃の実話。

私は訪れた1990年に、同様の感想を得たことに驚いた。

46年の時を経ても、まったく変わらない文化がそこにあった。

そして、30年後の現在を訪れる人々は、変わらないと感じるか、変わったと感じるか。

そんなことに興味があって、この本の内容を原文のままで抜粋して記載した。

Report from Bali1.jpg


第二信 第一節 バリ島点描

この島はどこへ行っても田、田、田、田の連続であります。

半年ぶりで一望千里の水田を見たときの私たちのよろこびを想像してみてください。

まったく内地へ帰ったような親しみを感じたものであります。

しかも、水利が非常によく行きとどいて、山の中腹まで開拓されているのは感心のほかはありません。

畔の切り方、苗代の様式、苗の植え方、農夫のすげ笠までが、内地とほとんど同じです。

もしその間に椰子の木立の点在がなかったならば、誰だって内地に来たんじゃないか、という錯覚をおこしたにちがいありません。

ところがここに、内地の水田風景とは途方もなくちがった一点があるのです。

こちらでは早苗をとっているかと思うと、その隣では稲が一尺も伸びて青々と波うっている、そうかと思うと向こうからは、抜穂の収穫を頭にのせて運んでくる女の群れがあるといった有様なんです。

つまり内地の、4、5、6、7、8、9、10、11月の水田風景が、ここでは同じ場所に圧縮されて、一緒くたに展開されている。

年柄年中稲が実るという証拠ですが、しかし聞けば、年二回の収穫はせぬという。──施肥をしないから、二回とったんでは地力がつづかない、というのです。


第八節 

この島を訪れる誰でもが、ヒンズー文化の伝統を引く建築、彫刻のすぐれた特異性におどろかぬものはないでしょう。

それはもちろん奈良時代などに現れたような渾然たる総合性は見られず、またあれほど優雅、巧緻、精彩、気品はありませんが、しかし、それにもまさる単純が豪壮さがあり、神秘的な諧謔さがあります。

さらにここ独特のゴン音楽と踊りとが織りなす絢爛たる総合的舞踊芸術に至っては、遺憾ながら日本には比肩すべきものがないのではないかと思われるほどであります。


第三信 第十五節 伝統的文化と宗教指導 

すでに多くの人々によっても紹介せられているように、独自の香りとゆたかな個性に彩られた輝かしい固有の文化を発見するものでありまして、その意味では南方地域においてはまれに見る文化人だということが出来るのであります。

これは通りすがりの旅行者などにもただちにそれと感得出来るような際立ったすがたを呈しているもので、例えば寺院建築、それに配置された彫像、あるいは集落形式、家屋構造、住民の風俗等は特にそうでありますが、もししばらく滞在でもするものであれば、さらに独特の音楽や舞踊、さては祭式、年中行事等にも自然にふれる機会が出てきますし、絵画や工芸などの特色を発見するにも至るでしょう。

卒然としてこの島にやってきた人々でさえもそうでありますから、もしジャワやその他の島々についての見聞や知識をもったものであれば、さらにいっそう鋭くその特異性について印象を得るでしょうし、この小っぽけな島だけが万緑中の紅一点のごとく、別種の彩りをもっているのかと、研究的な興味をさえそそられるにちがいないと思われます。


旅行者や研究家たちはよく「バリ人の生活はスンバーヤン(祭祀)に終始している」とか「千ヶ寺の島バリ」とか語っていますが、これは決して誇張した言葉ではなく、正しく事実の真を突いたものということが出来ます。

二カ年に近いバリの生活において我々は、スンバーヤンの主要なるものについては若干の知識をもつことができましたが、その細かなものに至っては枚挙にいとまなく、到底理解どころではない有様でありました。

−−シンガラジャ市内だけに限って見ても、スンバーヤンの供物をささげた盛装の女たちを見ぬ日とては少ないほどで、いったいこの島にはどれほどの祭日があるか、なんびとも容易に知ることの出来ない有様であります。

冠婚葬祭はもとより、ほとんど一切の年中行事がヒンズー信仰にもとづいていることは申すまでもなく、建築彫刻絵画工芸、音楽舞踊演劇等、何らかの意味でヒンズー教につながりをもたぬものは少ないのであります。

彼らが生活歴(これはインド伝来の太陰暦でありますが)のほかスンバーヤン歴(一年を二百十日とす。すなわち七日を一単位とするもの三十箇によりて構成せらる)をもっていること、そしてその祭祀歴が圧倒的な力をもっていて、生活歴の使用が主として農事に限られていることなども、彼らの信仰生活の根ぶかさを物語っているものと申さねばなりません。


結信 第二節 バリ人諸君に呈する書

十年後、二十年後のバリ、それはいったいどんなすがたのものであろう。

アゴン山は依然としてその雄姿を三千余メートルの天空に聳立させているだろうし、バトール湖は今日と同じようにバトール山の噴煙を映しているだろうし、ニッピやサラスワテの奇習もまた今日と同様年々歳々に行われているだろうし、ガロンガンのペンジョル(飾り物)は相変わらず諸君の家の門口や街頭を美しく飾っているだろう。

諸君は相変わらずゴンを楽しみ闘鶏に興じ、ハリラヤには取っておきの美しいサロンやスレンダンを着飾ってお寺詣りに忙しいことだろう。

おそらくこうした生活の面には何ら変化もないことだろう。

そして私もこうした方面には変化ないことを希望してやまないものである。


どうでしたが?

自分の感想と、相違はありましたか?

きっと、同感する部分も多かったと思います。

77年を経ても、変わらないバリは素晴らしい。


「日本占領下・バリ島からの報告」著者:鈴木政平
 (1999年8月16日・第1刷発行)
(アパ?の蔵書あります。貸し出し可)


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2020年10月15日

知っていました? バリの祭壇・祠の数々(350)

《 知っていましたか? 》

ウブドを散策していて、T字路の交じ合う場所に、必ずと言ってよいほど祠が設置されているのを。

屋根を持たない座椅子のような造りの祠です。

このあたりには神々のいることが多く、平穏無事を願う村人は、神々に休んで頂こうと祠に供物を用意して感謝をあらわしているのだそうです。


Padmasana1.jpg
ウブド大通りとスリウェダリ通りのT字路

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ウブド大通りとハヌマン通りのT字路

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ハヌマン通りとデヴィシータ通りのT字路

寺院や屋敷寺にも、座所がある。

大寺院の祭壇を「パドマサナ=Padmasana」と呼ぶが、小さな祠は「パドマサリ=Padmasana」と呼び分けているようです。

この解釈でいくと、T字路の祠はパドマサリと呼ぶのかな。

村人は、使い分けているようには思えないが。

神々や祭壇には様々あり、名称がはっきりしないところもある。

パドマサナは、太陽神スルヨ(Surya)のための祭壇。

スルヨはバリ・ヒンドゥーの教えによると、最高神イダ・サンヒャン・ウィディ(Ida Sanghyan widhi)でもあり、またシワ神でもある。

最高神イダ・サンヒャン・ウィディの座する処なので、上部に物質はないのです。

神々は、祭礼時に決められた祭壇に降臨してくると考えられている。

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プラタナンサシ寺院のパドマサナ

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グスティ家の屋敷寺のパドマサナ


フェイスブックに、沖縄にも石敢当(いしがんとう)と呼ばれる、似たような風習があるとのコメントがあった。

T字路に、悪霊除けの石敢当と呼ばれる守り神を置いているそうです。

精霊信仰の残る地域には、同じような風習が残っているようですね。

バリでは、邪悪に対する供物は地面に直接置く。

ブタ・カラと呼ばれる悪霊は、地表を徘徊するするからだ。

パドマサナは、神の座する処との認識のようです。

*蛇足だが、パドマは蓮。
両足を組む座法・蓮華座は「パドマ・アーサナ」と言うようですね。
語源は、ここかな。

バリには、「Tunjung」という呼び名の蓮がある。

Padma_tunjung.jpg
調べてみると、睡蓮のようです


《 知っていましたか? 》

こんなのも、道端に立っているのを。

パドマサナとは、違う形をしていますね。

名称は、Indrablakaと言うそうです。

Indrablaka1.jpg
道端に立つ祠

Indrablaka2.jpg
屋敷門に立つ祠

また、田んぼに立っているのも見かけます。

田んぼには、田んぼと稲の女神デウィ・スリ(Dewi Sri)を祀っている。

これはサンガと呼ぶようです。

Sanga.jpg
田んぼに立つ祠

一般カーストの屋敷寺もサンガ。

このタイプの祠は、寺院や屋敷寺などにもあるが名称は異なるようです。

限りなく面倒なので、私はこれ以上知るのをやめることにした。


《 知っていましたか? 》

バリ人の屋敷を訪れて、門を入った正面に小さな壁があるのを。

壁の名称は「アリン・アリン=Aling aling」。

aling_aling1.jpg

aling_aling2.jpg

これはマジック避けの壁。

手品じゃありませんよ。

レアック=Leakによる魔術のこと。
レアックの話は:「極楽通信・UBUD 」レアック=Leyakをお読みください。

悪しきものの侵入を防ぐための壁。

邪悪な存在は、真っ直ぐにしか進めないと考えているようです。

これなんかは、沖縄の石敢当と似てますね。

アリン・アリンを見かけない屋敷も増えてきた。

これは、近年の傾向か?

理解せずに習慣として行ってきた風習が、少しづつ消えていっていると感じる。

変化するのは、仕方がないことだ。

見られるうちに、体験しておきたいと思う今日この頃です。


posted by ito-san at 17:14| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月08日

老舗ワルン・Dew Warungの移転(349)

ウブドには、かつてナイトマーケット(夜市)があった。

1989年〜1993年11月22日までの4年間のことです。

地元の人は「センゴール=Senggol」と呼んでいた。

センゴールの昔話は、「極楽通信・UBUD 」センゴール=Senggolをお読みください。

場所は、現在のウブド・パサールの駐車場になっているところ。

駐車場は、午前中は朝市に使われ、午後から駐車場になる。

当時は、砂塵の舞い上がる小さな砂漠のような空き地で、やはり午前中は朝市に使われていた。

夕方になると、カキリマ屋台が15軒ほど運び込まれてセンゴールに変身する。

日本人ツーリストが溜まったワルンは、今のデワ・ワルンの前身だ。

もちろん、私もそこの常連客。


センゴールが閉鎖され、デワ・ワルンはスグリオ通りに出店した。

その後、ゴータマ通りに移る。

「ワルン・ビアビア」の出店は、立地の回遊性とデワ・ワルンがあるということで、今後発展するだろうと考えたからだ。

思惑通りゴータマ通りは、出店が相次ぎ、ツーリストに人気の通りとなった。

格安メニューのデワ・ワルンは、ツーリスト御用達として繁盛店の地位を確保とする。


今回のコロナ禍には勝てず、涙を飲んでゴータマ通り店20年の歴史を閉じる。

テガランタン村の実家に移転。

ウブドの中心部から3キロメートルと、これまでに比べると立地は悪くなる。

老舗の根性を見せて欲しいと願う。




実家テガランタンのワルン。

偶然、スリン(笛)奏者で有名なGus Teja君に会う。

彼は、デワ・ワルンの常連のようだ。




屋敷裏に田んぼの風景が残っていた。




食べているところのレポート。

これは食レポとは言わないようです。




デワ君とのツーショット。

恥ずかしがり屋なのに、よく写ってくれました。


Wewa_Warung Menu.jpg





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2020年10月03日

第3弾:徘徊老人のハイカイ先は? (348)

今日も今日とて、あてどもなく徘徊。

コンセプトの乏しい動画ですか、コロナ禍終息まで、今しばらくお付き合いください。


《 第9回:徘徊老人・ダラム寺院ウブド 》

15分57秒の長い徘徊ですゾ!

火葬場の場面で挿入した動画が、急に大きな音になるのでご注意ください。




《 第10回:徘徊老人・トゥブサヨ村裏道 》

今回の徘徊目的は「Aji Bungalow」の確認です。

途中、空しか写っていない箇所があったので5分ほどカットしました。




《 第11回:徘徊老人・ウブド王宮周辺 》

ウブド王宮の敷地を一周する道があるのをご存知でしたか。

今回は、観光客のあまり利用しない裏道を徘徊しました。

なんの変哲もない小道ですが、情報として知っていても良いかも。




《 第12回:徘徊老人・トゥブサヨからプリアタンへ 》

戻りは、上り坂が長くて疲れた。




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2020年09月26日

第2弾:徘徊老人のハイカイ先は? (347)

「徘徊老人のハイカイ先は?」シーリズ化していますが、未だに上手く収録できないでいる。

台本なしのぶっつけ本番なのが、よくないのかな。

と言って、あんちょこを用意するほどの語りもしない。

動画の編集もままならないので、見苦しい仕上げになっています。

新型コロナ感染症が終息するまでの徘徊予定です。

いつになるのかわかりませんが、それまでお付き合いください。


《 第5回:徘徊老人のハイカイ先は? 》

ニュークニン村とシンガクルタ村を結ぶ橋は、1997年2月の完成。

それまでは、人がすれ違うにいっぱいの狭い竹の橋を渡っていた。

ツーリストは、この橋を「サーカスブリッジ」と呼んでいたようだ。

沐浴場だった川ですが、ホテルが建ち、観光客に見られるのを村人が嫌ったようで、今では沐浴する姿は見られません。

徘徊老人のカクカク動画は、NG物ですが、これもありかなと思ってアップ。




《 第6回:徘徊老人のハイカイ先は? 》

「クブンインダ(Kebun_Indah)・バンガロー」

プンゴセカン通りに「初代・影武者」があった頃、友人の多くが泊まったバンガロー。

そう、あなたとあなたのために動画をアップしました。

畦道の奥にあり、田園風景も美しかった。

台本なしの行き当たりばったりのレポートは、ボキャブラリーが少ないので難儀ですね。

クブンインダは「カフェ・ワヤン」の経営で、他にトゥブサヨの実家は「ファミリー・ゲスト・ハウス」を、ニュークニン村には「アラム・インダ=Alam Indah」」「アラム・シャンティ=Alam Shanti」「アラム・ジワ=Alam Jiwa 」がある。




《 第7回:徘徊老人のハイカイ先は? 》

今回は散歩道を探してのハイカイ。

3カ所ほど早送りがあって見苦しいですが、全編が長くなってしまうので、我慢ください。

回遊性がないのが残念ですが、ウブド内の散策で、この景色はレベルが高いですよ。

編集が下手でゴメンなさい。




《 第8回:徘徊老人のハイカイ先は? 》

パンダワ(Pandawa)ミュージックの北面の小道を抜けて、カルナ通りへ。




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2020年09月18日

先進国と発展途上国という言葉に異論!(346)

田舎っぽさが気に入って、滞在を始めたウブド。

滞在を始めてすぐ、この村は人類が理想とする先進した村ではないだろうかと思った。

そう言う意味で、使い古された言葉だが「最後の楽園」を感じた。

街づくりに興味がある私が最初に驚いたのは、1990年に訪れた時に、すでに「セミパブリックスペース」があったことだ。

今では、日本でも普通に使われている言葉だろう。

セミパブリックスペースとは、プライベートなスペースとパブリックなスペースの中間的な役割をする場所。

例えば、屋敷内と外。

ウブドには、屋敷の道路側に幅の狭い空間があり、ほとんどが小さな庭になっている。

私は、曖昧なスペースと呼んでいる。

曖昧な部分は、バリの二元論にも通じると思っている。

「バリ人の信仰するヒンドゥー教の二元論について考える(355)http://itosan-ubud.seesaa.net/article/476168500.html

道路ギリギリに、家が建っているわけでないので、圧迫感がない。

滞在当時、塀も生け垣だったり、低い土塀だったので、さらに圧迫感は薄い。


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(写真提供:中村政広氏)

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(写真提供:中村政広氏)

現在は、わずかしか残っていないが、田舎に行け、ばまだ見られる風景だ。

滞在が長くなるうち、この曖昧さは、バリの個性でもあること気がついた。

そう、キッチリ割り切らなくてもいいだろう、と言う考え方だ。

これが、ストレスを溜めないテクニックに思えた。


バンプ(Bump)の存在にも目を奪った。

バンプとは、道路の一部を隆起させ、通過する車両に上下の振動を及ぼすことで運転者に減速を促す構造物の総称。

機能や形状によって、スピードバンプやスピードクッションなどとも称される。

インドネシア語では、ホリス・ティドゥールと云う。

横たわっている警察官とも訳そうか。

日本では、ニュータウンや住宅地などに設置されている。

ウブドでは、幹線道路を除いて、すべての道にバンプが敷設されていた。

残念ながら、簡易なため壊れやすいバンプでもあった。

bump.jpg


先進国、後進国という言葉がある。

先進国は、高度な工業化を達成し、技術水準ならびに生活水準の高い、経済発展が大きく進んだ国家のこと。

後進国は、経済発展や開発の水準が先進国に比べて低く、経済成長の途上にある国を指すらしい。

後進国は、侮蔑的な言葉とされ、現在では発展途上国(開発途上国)の呼称が一般的になっている。

途上国という言葉にしても、先進したとされる国の、上から目線としか思えない。

よその家と比較して「うちはお宅より、文化的生活しています」だから先進国なのよ的な発想だ。

先進国にしても、到着点に達したわけではない。

すべての国は、現在進行形の発展途上国。

あえて先進を使うなら「先進途上国」だろう。


人間がもっとも人間らし生きられる国造りに、すべての国は邁進している。

インドネシアには、外部と接触を持たない村があり、数世紀前の文明のままで生活している人々がいる。

先進国の人々は文明人と称し、文明に取り残された(本人たちは、そう思っていないかもしれないのに)人々をしばしば未開人=野蛮人と呼ぶ。

果たして文明は今、正しい方向に向かっているのだろうか、それは疑問だ。

発展途上国とされる国民は、先進したいと願っているのだろうか。

果たして、先進する必要があるのか。

開発することが良いのか?

発展することが良いのか?

私的には、先進の反意語は後退だと思っている。

人類は、今、後退するべきかもしれない。

退行的進化だ。


ウブドが、退行的進化した村ではないかと感じた点を、いくつかあげてみる。

バンジャールと呼ばれる最小単位の村組織は、その一つだ。

役割は、寺院の維持、管理、寺院祭礼の運営や奉仕活動(ンガヤ)だ。

さらに、バンジャールの集会場や村内の道路などの労働奉仕(ゴトンロヨン)。

そして、村民同士の相互扶助。

相互扶助は人類の誕生以来、世界各地に存在していたようだが、現存しているのは珍しいと思われる。

日本にもあった、ようですね。

ンガヤ&ゴトンロヨンの連絡が頻繁にあるため、干渉は密である。

先進国のコミュニケーション不足と比べれば、かなり干渉過多かもしれない。

生活の拠点がバンジャールにあれば、日本のような孤独死はない。

日常生活にも、退行的進化を感じた。

朝陽とともに仕事を始め、日没には仕事を終える。

それは、信仰儀礼中心の生活だからだろう。

庭には野菜や果物がなり、飼われた鶏は卵を産む。

半自給自足。

儀礼の時には、鶏や豚を生贄にする。

生贄にされた動物は、その後ご馳走になって給される。

飲料水には、湧き水が豊富に供給できる。

充分に食事がとれて、健康であれば、それで良いのではないだろうか。

裸足での生活。

古着のようだが、洗濯は頻繁にされている。

無駄に贅沢はしないのだ。

バリアンと呼ばれる呪医師がいる。

呪医師は、いろいろな薬用植物を使用して治療する。

あとは、近代医療設備の整った病院があれは、もう怖いものない。

万全な医療と衛生管理が行き届いた生活。

自分に必要と思われる物だけを選んで、享受していこう。

望むならば、個人個人が楽しくあれば、いい。


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2020年09月13日

ミンタ・ウアンに遭遇したら!(345)

徘徊老人の動画を撮りに出かけた、ある日の午後。

行き先は、ウブドの西・チャンプアン橋を越えたサンギンガン通りにある「ビンタン・スーパー」。

「ビンタン・スーパー」の南側に、壁に沿うようにして階段がある。

階段を上り路地を進むと、見晴らしのよい田んぼに出る(はず)。

今回の徘徊は、このあたりの散歩コースを開拓したいと目論んでいる。


帰りに買い物をしたいので、バイクを「ビンタン・スーパー」の駐車場に止めた。

駐車場の端にある階段を下りる。

歩道に出ると、幼児を抱えた若い女性が右手を出してきた。

ミンタ・ウアン(minta uang)=お金を求める仕草だ。

妖怪じゃありません、我々と同じ人間ですよ。

お乞食さん、でもありません。

一説では、バリ東部の貧困の村がらの出稼ぎだという。

某村の風習のようなもので、ある時期になると出現する。

顔ぶれは変わるが、今では一年を通して見かけるようになった。

幼児は同郷の村人から借りてくることもあるらしい。

モンキーフォレスト通りやガソリンスタンド近くなどの、大勢の人がいそうな場所にいる。

観光地ウブドのイメージが悪くなるのを懸念して、ギャニアール県は時々、警官を動員して彼女ら締め出しをする。

私は、遭遇すると、たいてい小銭を渡すようにしている。

これは、托鉢する修行僧に対するお布施のようなものだと心得ている。

ウエストバッグに、小銭が入っていた。

掴むとRp500-が、4枚出てきた。

いつもなら全部渡すところだが、この日はなぜか2枚を差し出した。

手のひらにのせて、歩き始める。

彼女たちは、感謝の意を表さない。

5メートル先に、もうひと組の親子がこちらを見ていた。

先ほどの女性よりも、さらに若い。

コインを渡すところを見ていただろう。

グループじゃないだろうから、ひとりに渡したからって済むことではない。

彼女に、施しをしないわけにはいかないだろう。

残っていたRp500-2枚を渡した。

財布の中には、一万ルピア以上の札しか入っていない。

もうひと組いたら、どうしてただろう。

2組のミンタ・ウアンをやり過ごして、徘徊ために階段を上る。


次の日、動画の撮り忘れがあったため、再びビンタン・スーパーへ向かった。

買い物がないので、バイクを路肩に止めることにした。

路肩には、バイクが列をなして止まっている。

ちょうど階段前に、一番分のスペースがあいていた。

駐車して、歩き始めると、目の前に一台のバイクが止まった。

婦人が運転していた。

バイクに乗ったまま、声を掛けてくる。

「この近くで、仕事はありませんか?」

かなり唐突な質問だった。

サンギンガン通りの従業員募集の情報が、私の耳に届くはずもない。

コロナ禍で解雇の噂は、聞こえてくるが。

私は、困惑した。

そんな私の表情を見てとったのか、こんなことを言う。

「仕事が見つからなくて。シンガラジャまで戻るのですが、ガソリンがなくなりかけていて」

今すぐ、お金が必要な状況なのだと理解した。

ということは、砂やブロックを運ぶ日当の仕事を探していたのか。

ウブドに、日雇い仕事の受けいれ業者があるかどうかも知らないし、昼3時を過ぎた時間から仕事を探すのも難しいだろう。

彼女の話を、腰を据えて聞いてやる時間はない。

私の頭の中は、混乱している。

仕事は見つけられないが、なんとかしてあげたい。

できることと言えば、ガソリン代を少しカンパすることくらいだ。

「これでガソリンを買ってください」と、1万ルピア札を渡した。

節約生活している私にとって、たとえ少額でも痛い出費だ。

果たして、これでシンガラジャまで帰れるかどうかはわからないが、今の私にはこれしかできない。

婦人を疑う気持ちは、起こらなかった。


2日続けてのミンタ・ウアン遭遇。

観光客がいなくなった今、ビンタン・スーパーマーケットの脇は長期滞在の外国人を待ち構えるに最適な場所なのだろう。

ガードマンのいる入り口には近づかないし、駐車場内には入ってこないので、普通は遭遇しない。

初めから渡すつもりでいる私には問題ないが、こういう行為の許せない人にとっては「鬱陶しい」ことかもしれない。

風習とは言え、好ましい行動とは考え難い。

インドネシアの経済が発展すれば、ミンタ・ウアンの姿も減るのだろうか?


posted by ito-san at 15:01| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月02日

徘徊老人のハイカイ先は?(344)

コロナ禍の外出自粛で、怠惰な時間を浪費する日々。

何もしないより、何かをしていたい。

そんな思いで、自撮り棒を買ったのをキッカケにして、フェイスブックに己の姿をさらけ出すことにした。

みんなに忘れられないために、との言い訳を含んで。

高齢になって、恥ずかし気もなく露出趣味が漏出してきた。

この歳になると、「恥ずかしい」という感覚が希薄になるようだ。

「徘徊老人のハイカイ先は?」のタイトルで投稿している。

写真じゃなく、それも動画で喋りも入れて。

と言っても、全編私の顔が入っているのも鬱陶しいだろうと考え、景色はカメラで撮影しています。

フェイスブックの友達が、ブログの読者とは限らない。

重複している人には申し訳ないが、投稿を掲載させていただいます。

フェイスブックで繋がっていない友人のために。

これまでの4回分を、公開します。


《 第1回:徘徊老人のハイカイ先は? 》

デヴィシータ通りの橋の上に立って、緊張気味にコメントしている。

さて、行き先はどこだ!





《 第2回:徘徊老人のハイカイ先は? 》

プンゴセカン通りのある場所に立っています。

「グリーン・フィールド」と「テガル・サリ」のリピーターの方には、懐かしい風景かもしれません。

自撮り棒の使い方がイマイチ掴めないのと、畦道での使用は危険だと判断して、普通のカメラに持ち替えました。

ひとりで喋るのって、難しいね。

他人には、独り言をつぶやいて歩いている、変な徘徊老人に見えているのかな?





《 第3回:徘徊老人のハイカイ先は? 》

プンゴセカンにあった頃の「初代・影武者」の跡を訪ねてみた。

庭から見えていた田んぼは、全滅。

これではホタルも飛んできませんね。

裏にあったコスは、廃墟。

「二代目・・影武者」は、ゲスト・ハウスになっていました。





《 第4回:徘徊老人のハイカイ先は? 》

「和るん・あんかさ」のある路地をハイカイしました。

「アパ?情報センター」があったところも紹介しています。

「ホワイト・ハウス・バンガロー」を「スリー・ブラザーズ」と言い続けていますが、終了間際に気づいて訂正しています。

誤報のないように気をつけていますが、そこは老人のすること間違いは多くなると思います。

そこのところ、よろしく!

畦道を通って「ホワイトハウス」に行くのですが、右手・南側には下りの田んぼが遠くまで続く風景でした。





バリ関係と旅の動画を、細々とYouTubeにアップしているので、覗いてやってください。

https://www.youtube.com/channel/UCuxCYokJu-mzTfxTK5Xe2eg?view_as=subscriber

よろしく!



posted by ito-san at 11:39| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする