2020年02月15日

懺悔の回顧録・愛娘の死(343)

思い出せる限りの記憶を取り出しておこう。

私の断片的に記憶は、保身的な発言になっているかもしれない。

稚拙な表現力は、誤解を招くことになるかもしれないが、これは私の回顧録です。


今回も、重い話になってしまった。

私が産院に駆けつけた時には、出産は終わっていた。

いつ産気づいてもよいように荷物は準備してある。

私に連絡が取れず、ひとりで入院。

心細かったことだろう。

初めて授かった子供は、女の子だった。

妻が眼を覚ますのを待って、「お疲れ様」と声を掛けた。

「赤ちゃんは元気か」と聞くと・・・

「赤ちゃんは、この産院では治療できない病気で、コロニーという施設に運ばれていった」

涙声で答えた。

看護婦は、コロニーは未熟児の施設だと教えてくれた。

産院で治せない病気の場合、名古屋では春日井市にあるコロニーに入院させるということを始めて知った。

次の日、私はコロニーに出向いた。

コロニーには、車椅子に乗ったり、松葉杖をついた患者が散歩していた。

リハビリに励んでいる姿も見られる。

面会は可能だったが、我が子は、無菌室でプラスチックの箱に入っていた。

我が子は、天使のように可愛かった。

この子のどこが悪いのだろう。

「病状は思わしくない」と医者は言う。

妻は、産院を3日目に退院し、家で、我が子の帰りを待っている。

私は、毎日コロニーに通った。

この子は、5万人に1人といわれる奇病で、直ることはないと言う。

1週間すると医者は「延命しますか」と聞いてきた。

予期していたことだが、すぐには受け止めることができなかった。

「妻と相談しますから」即答することを避けた。

こんな残酷な言葉をどうやって妻に伝えたらよいのか、苦悩した。

この日は、2人でコロニーを訪れた。

出産後、始めての我が子との対面に、妻は、涙ぐんで娘の名前を連呼した。

愛娘は「ルリ=瑠璃」と名付けた。

私たちは、涙を飲んで、赤ん坊の点滴を外すことに承諾した。

死刑宣告人になった気分だ。

妻は、一度も生きているルリを抱くことが叶わなかった。

もちろん、私も抱いていない。

ベビー服は、一度も手を通すことなく、処分されるのか。

裁縫はそれほど得意じゃないが、夜なべしてベビー服を作っていた。

慰める言葉が見つからない。

広い無機質なロビーで、手続きが終わるのを待った。

白壁とスチール椅子が、心を虚しくさせる。


離婚は、唐突に行われた。

ある日帰宅すると、キャビネットの棚に書類が置いてあった。

離婚届だ。

妻の名前と印が押してある。

何も告げずに出て行った。

家を出て行った理由は、聞いていない。

不安定で常識を離れた生活を楽しんでいてくれたと思い込んでいた。

「よっぽど、いやだったんだろう!」友人は言う。

愛想をつかれて逃げていったのが真相だろう。

追うことを考えたが、離婚を選択した彼女の心を取り戻す自信はなかった。

この時、妻は妊娠していた。

頭の片隅に、いつか戻って来てくれるだろう、と都合の良いことも考えていた。



続く・



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2020年02月07日

懺悔の回顧録・ハシシ不法所持(342)

「懺悔の回顧録」に戻ります。

今回は、ちょっと重い話かも。


手作り仲間が、インドからベルトに仕込んで持ち帰ったハシシ(大麻樹脂)。

お土産として、軽い気持ちで彼女に渡したのだろう。

法に触れる物だという感覚が薄く、気安く受け取ったのだと思う。

こういうことに、彼女は疎かった。

さくらんぼ大の樹脂塊は、喫煙されないまま何日も、キャビネットの下段のテーブルに置かれていた。


知人が逮捕されたのは、知らされていない。

先に連行された知人たちとの交流も薄いため、事件をまったく知らなかった。

「人畜無害」にいた彼女が署に連行された。

その現場を私は見ていない。

私の家に、刑事が来た。

知人の名前を告げたあと、「大麻」という言葉が出た。

ハシシのある場所は、知っている。

妻が、連行されたのを告げられた。

警察は、主犯は年長の私ではないかと疑っていたようだ。

私を捕まえようとマークし、数日間尾行したと言う。

刑事が部屋に入ってくる。

現物がなければ、逮捕は免れるだろう。

物は、目の前にある。

どう隠そうかと思案した。

トイレに捨てるが、飲み込むか。

飲み込むには大きすぎる。

隠す暇もなく、証拠の物は見つかってしまった。

だらしないが、私は観念した。

刑事は、証拠物件を確保した。

喫煙形跡のない現物に、ガッカリしたようだ。

在庫で残っていたパイプセットにも、喫煙した形跡はない。

これで彼女は、ハシシの不法所持で逮捕されることになる。

刑事たちは、証拠の品を持って帰っていった。


数日後、地元名古屋のテレビ・ニュースと新聞で報道された。

名古屋発の大掛かりな大麻事件として扱われていた。

私の嫌疑が消え、彼女が最後の逮捕者となって終結したようだ。


名古屋近郊の所轄警察の留置場された。

面会はできなかった。

その後、何の伝達もなく、凶悪犯の多い中村署に送られた。

殺人犯の女性と同室だったと言う。

たらい回しにされて、面会もできない。

この経験から、私は、警察には絶対協力しないと誓った。

裁判中、身柄は名古屋拘置所に預けられる。

拘置所に面会に行った。

こんな威圧感と閉塞感のある建物に、何日も泊めるわけにはいかない。

1日も早く、出してあげなくては。

弁護士を手配するにも、私に知り合いはいない。

民事なのか刑事なのか、それもわからない。

民間人のトラブルは民事、犯罪行為は刑事だと知り、細い糸を手繰って刑事裁判の弁護士を探し当てた。

女性の弁護士は、親身になってくれているようには思えない。

現金を工面して、弁護士に手渡す。

裁判にも傍聴した。

2週間ほどの拘置で、身柄を引き取った。

もっと早く、弁護士と保釈金の対応が早かったら、2週間も拘置されることはなかったかもしれない。

自分の対応の甘さが悔やまれる。

彼女はやつれることなく、元気な姿に救われた。

親戚縁者に迷惑をかけただろうが、家族の誰からも非難は受けなかった。

1976年、これを機に「人畜無害」を閉店。


続く・


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2020年02月04日

ゴア・ガルバとプンウキール・ウキラン寺院(341)

シリアスな話が続いたので、ここで気分転換にリラックスできるニュースをお届けしようと思っている。

バリ島の情報です。

ペジェン村の中心部へは、ウブドから車&バイクで20分ほどで着く。

中心地にある十字路角に、アパ?情報センター「ペジェン村歴史探訪」でおなじみの「プナタラン・サシ寺院」がある。

歴史探訪は、ペジェンの地を中心にして、10世紀から14世紀まで栄えたワルマデワ王国の遺跡を巡る。

ちなみに、400年間続いたワルマデワ王国は、1343年、マジャパイト王国のガジャ・マダ将軍率いる軍勢によって制服された。

こうして、ジャワ・ヒンドゥーがバリの持ち込まれたのだった。

ついでに、ツアーの説明をさせていただく。

◎ゴア・ガジャ→◎イエ・プル→◎テガリンガ遺跡→◎考古学博物館→◎クボ・エダン寺院→◎プセリン・ジャガット寺院→◎プナタラン・サシ寺院→◎ペジェン村散策(王家所有のインディゴ・バティック工場見学)

この中から、3時間のコースを選択する。


ペジェン村歴史探訪に「ゴア・ガルバ(Goa Garba)とプンウキールウキラン(Pengukur-Ukuran)寺院」が加えられないか思い立ち、出かけていった。

プナタラン・サシ寺院から10分ほどで「ゴア・ガルバとプンウキール・ウキラン寺院」に到着する。

プンウキール・ウキランは、測定という意味だそうだが、名前の意由来については定かでない。

寺院は、高台に建つバリ独特の様式を持つヒンドゥー寺院だ。

12世紀のジャヤパンガス王の治世以来建っていると伝えられている。

ペジェン村には、マジャパイト王国以前の寺院が多く存在し、これらの寺院は、サコ暦にもとずいて儀礼が行われている。

サコ暦は太陰暦で、月の満ち欠けの周期を基にしている、

プンウキール・ウキラン寺院のオダラン(寺院創立祭)は、毎年第2番目の月(Sasih Karo)の満月(Purnama)に行われる。

今年は、8月の3日になる。

個人的な見所は、奥の境内にあるリンガの飾られたチャンディだ。

Pengukur-Ukuran.jpg

リンガが飾られたチャンディは、初めて見る。

リンガは、ヒンドゥー教シバ神のシンボル。

なぜここに?の疑問が浮かぶ。





ゴア・ガルバの遺跡は、プンウキールウキラン寺院裏の渓谷にある。

世界遺産プクリサン(Pekerisan)川のほとり。

ゴアは「洞窟」を意味し、ガルバは「地球の腹」を意味する。

沐浴場の横に地下へもぐる階段があり、遠くクルンクンの「ゴア・ラワ」に通じていると言われる洞窟がある。

もしかすると、この洞窟が「地球の腹」と呼ばれる由縁かもしれない。

Goa Garba6.jpg

石の蓋をよけると、洞窟に続く階段が見える

この地は、クボ・イオ(Kebo Iwa)庵(いおり)で、瞑想場だったとも伝えられる。

クボ・イオは、14世紀のワルマデワ王国の大臣で、伝説の大男。

さまざまな逸話が残っている。

階段の岩に残っている足型は、クボ・イオのものだと言われているが、私の足と比べて格別の大きいようには見えない。

Goa Garba17.jpg

ゴア・ガルバとプンウキール・ウキラン寺院の見学は、一見の価値ありではないだろうかすゾ。




次回の懺悔の回顧録は、「ハシシ不法所持で逮捕!」です。


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2020年01月29日

懺悔の回顧録・アクション大須(340)

2人の思い出が、少ない。

愛していたはずなのに。

断片的な記憶を記してみた。

彼女の父親は、北海道の炭鉱に勤めていた。

閉山によって家族は、神奈川県に移住した。

そうした家庭の事情から、彼女は東京の高校に通うようになった。

結婚してから、神奈川県の実家に泊りがけで行ったことがある。

掛け布団の上にどてらをかけてくれたのを思い出す。

どてらを寝具として使うのを初めて知った。

札幌市手稲区の親戚を訪れたこともある。

一緒にスキーをした。

小・中学校を竹スキーで通った彼女は、スキーが上手かった。

東京の高校の同級生を訪ねた時は、青山の高級マンションに泊めてもらった。

思い出すのは、このくらい。

彼女は、私に寄り添うように存在していたのだろう。


今回も、私の回顧録のようになってしまっている。

とりあえず、読んでください。

あちこちのイベントに駆け巡っている時期に、新聞の地方版にこんな話が話題になっていた。

1970年代後半、栄や名古屋駅前の開発が進んだ事により衰退していく大須商店街に、客を呼び戻すためにの企画だ。

その賑わいを復活させたい、と持ち上がったイベント。

我々も、各地域でイベントの成功している。

どんな企画が行われているか、スケベ根性で覗いた。

顔を出したののが運の尽き。

企画は、まったく進んでいなかった。

「第二のふるさと創造」をテーマに掲げたこのイベントは、某大学教授が中心になって動いていた。

彼から「手伝ってくれない」と頼まれた。

アドバイスするうち、話は我々が参加することになっていた。

「できることはします」と協力の意思を伝えた。


そのイベントは、1975年(昭和50年)6月28日『人間のまつり、アクション大須』として開催された。

その後、「大須大道町人祭」と命名され、毎年10月中旬に開催されているようだ。

第1回は、1978年(昭和53年)の開催。

以上は、ウィキペディアに記載されていた。

アレヨアレヨといううちに、当日とになった。

私は大須観音の境内を中心に、イベントを打った。

と言っても、予算のないイベント。

私は友人・知人を動員した。

境内の一角で、コカコーラ協賛のドリンク・コーナーとトマトぶつけなどのコーナー。

メインは、鐘つき堂をステージにしたロックのライブ。

準備に忙しい私は、各会場を駆け巡る。

境内には、地面が見えないほどの人々で溢れかえっている。

フリーマケットの段取りは何度もしているが、音楽イベントは初めて。

不慣れな私は、かなり動揺している。

裾が裂けてしまったジョーパンのままで鐘つき堂に立ち、祭りの開催を告げた。

有名なファッション・デザイナーの訪問も告げさせられた。

ロックのライブは、名工大の現役学生が仕切ってくれたて助かった。

電源は落ちる、派出所からは音がウルサイとクレームがくる。

人ごみの中で、ロック・ライブをBGMに手づくり仲間による、おいらん道中が始まった。

おいらん道中に、先妻が主役として出演した。

高校生で演劇部員だった彼女は、舞台度胸があり、出演依頼はきっと即答したことだろう。

学校では、男役が多かったと聞いた。

予算の出ない手弁当のおいらん道中は、ただの道行きパフォーマンス。

しかし、前衛アーチストでもある手づくり仲間のパフォーマンスは、盛り上がっていた。

おいらんの彼女は、着物がはだけ貧乳が露出したとのこと。

そんなことを楽しいそうに話してくれた。

私はステージに付きっ切りのため、見学することはできなかった。

名工大の学生さんには、お礼を伝えることなく、その後、再会も果たしていない。


イベントは満足のいくものではなかったが、魅力的な褒美が降って湧いてきた。

地元大須に事務所を持つ篤志家から、自社ビルの地下を無料で提供してくれるという申し出があった。

若者たちに、チャンスを与える、太っ腹お社長だ。

近くには、演劇場の「七ツ寺共同スタジオ」と「バー・自由都市」がある。

地下は戦時中、防空壕として使われていたと教えてくれた。

積み上げられていた木材は、持ち上げると崩れた。

ゴミは、中型トラックに2台分あった。

掃除していくうちにタイルが合われれ、そこがかつての「カフェ」だったことが偲ばれた。

数人の友人を仲間に誘い込んで、店を作った。

外人部隊のような仲間で作り上げた店だから、店名を「コマンド」とした。

クリエーターの集まるバーにしたかった。

いつのまにか、ライブハウス「コマンド」になっていた。


続く・


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2020年01月22日

懺悔の回顧録・人畜無害(339)

今年に入って睡眠不足が続いている。

先妻との生活を断片的に思い出しては、その前後を構築しようとモガク夜。

まったく記憶が蘇ってこないことが多い。

薄情なものだ。

どうしても、話が私中心になってしまって申し訳ない。


彼女と知り合うちょっと前、会社勤めをしながら民家を改装した雑貨屋をオープンした。

郡道と呼ばれていたる街道にある、二階建ての一軒家。

愛知郡だったころの昭和時代の家並みや面影が残る道。

ネットで調べる前は、軍道だと思い込んでいた。

近く軍事工場があったという噂からの連想だった。

高度成長を成し遂げたばかりの活気の中で「大阪万博」が開催された1970年(3月15日から9月13日までの183日間)のこと。

1年間の海外放浪で持ち帰った物を、現金化したいと思いついて始めた。

大型ゴミを回収しアートとしてリサイクルした商品と、針金を曲げて作ったアクセサリー。

アメリカン衣料で購入したジーパンも売ったな。

屋号を「人畜無害」とした。

世間様に迷惑をかけないという、意気込みだ。

同じ頃、東京では「文化屋雑貨店」が開店している。

似たアイデアを持つ人間がいるものだと、その時に感じた。

名古屋駅前にある名鉄メルサがヤング館(現在のセブン館)をオープンしたのが、1972年。

オープンイベントで、針金細工で出店させてもらった。

手作りコーナーは人気で、たくさんの人が押しかけた。

商品が追いつかなかいほどだ。

閉店後、家に帰っては作った。

それでも追いつかないので、店頭でも作った。

懐かしい思い出だ。

名古屋でフリーマーケットが盛んに催されるようになったのも、この頃からだ。

もちろん「人畜無害」は、フリーマーケットの常連だ。


こうやって紐解いていかないと、彼女のことも思い出すことができない。

彼女は勤めを辞めて「人畜無害」を手伝ってくれることになった。

「こんな店がやりたかった!」と言ってくれた。

手先が器用で、アクセサリー小物を作り始めた。

人当たりが良く、お客とはすぐに打ち解け、常連客が増えた。

生き生きとして店番をしていた。

私は、仕事の途中で「人畜無害」に立ち寄った。

一悶着あった下請け業社の社長から「入り浸っている」と我が社の社長に密告があり、私は会社を辞めた。

フリーの店舗デザイナーになった。


これを機会に、私たちは結婚した。

19歳で結婚したいというのが彼女の夢。

私に依存はない。

現実には、20歳になっていたと思う。

貧乏な私に、結婚式ができる予算はない。

母親が「お金がないのなら、家で両家の顔見せだけでもいいのでは」と言ってくれた。

顔合わせは、私が暮らす市営住宅の一室で行われた。

彼女の家族は、両親と兄たちがが、遠路から訪れてくれた。

近くに住む兄は、私たちの結婚を最後まで望んでいなかったそうだ。

皆んなに可愛がられていた末っ子の娘だということが、伝わってくる。

母親が切り盛りした、質素だが心の暖まる「顔見せ」は、滞りなく終わった。


「人畜無害」は業績があがらず、店を任せて欲しいという知人に経営を託した。

知人に任せた「人畜無害」とは別に、友人の珈琲店の2階に「人畜無害」を開店した。

こちらも、暇だった。

旧「人畜無害」は、「元祖・人畜無害」と名打っていた。

彼女は時間を持て余し、仕事を探した。

身長167センチの彼女ならファッションモデルに最適と、友人のモデル事務所に紹介した。

名古屋でファッションショーの仕事はないのか、お呼びはかからなかった。

チラシや新聞広告のモデルには長身すぎたのか、こちらの仕事も少なかった。

スナックに勤めたこともある。

あまり酔客の接待には向いていなかったようだ。

思い出しながら、私は何度も懺悔している。


続く・

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2020年01月12日

懺悔の回顧録・一目惚れ(338)

彼女との一番の思い出は、出会いだ。

社会人(24才)となって初めて勤めた会社は、空間設計の事務所だった。

その会社には、3年間勤めた。

宮仕えは、これが最初で最後の経験。

この日、愛車Nコロ(ホンダの軽自動車・N360)が故障して、会社へは市バスで出勤した。

朝のラッシュのバスに乗るのは、初めてだ。

一日の疲れた身体を引きずっての帰宅もバス。

起点駅からビジネスマンやビジネスウーマンで、ギュウギュウ詰めになった。

車内は、人いきれで息苦しい。

私の下車駅は終点のふたつ手前で、1時間ほどかかる。

車窓からは、夜の闇しか見られない。

吊り革につかまり、居眠りするために目を閉じた。

風を感じて目を開けた。

行程の中間地点の駅で、乗客の半数ほどが降りたようだ。


吊り革に身体を預けている、ひとりの女性に魅せられた。

背の高いスリムな姿にパンタロンが似合っていた。

そこだけに、スポットが当たったようにクローズアップされている。

愛車が故障して、仕方なく乗ったバスに乗り合わせた女性に、運命の巡り合わせを感じた。


乗降口の近くのひとり席に、彼女は腰を下ろした。

彼女の全身が見えなくなったのは、残念だ。

乗客がまばらになった車内で、私は、どう声をきっかけを作ろうか悩んでいる。

彼女は仕事をしている女性に見える。

きっと、通勤にこのバスを使っているのだろう。

彼女に会うために、この時間帯のバスに乗ればきっかけはできる。

しかし、私は明日からNコロ出社だ。

このチャンスを逃してはいけない。

私の高揚感を今、伝えたい。


空席が目立つのに立っているのは不自然だと、私は最後部の座席に腰をおろした。

ここからなら、彼女の姿が見える。

終点に近づくにつれて、乗客は減っていく。

彼女に、降りる気配はない。

私は、次の駅で降りなくてはならない。

バスが止まり、自動ドアーが開いた。

彼女は降りない。

私も降りなかった。

次の駅でも、彼女は降りなかった。

この次は、終着駅だ。

彼女が降りた。

私は、そのあとに続いて降りた。

今のご時世なら、ストーカーと言われてしまうような行動だ。

そんな常識には、かまっていられない。

私は、彼女の背中を見ながら、どう声を掛けたものか悩んでいる。

家路を急いで、乗客2〜3人が追い越していった。

彼女は、私のことをまったく気に掛けず、前を歩いている。

こんな暗闇で後ろから声を掛ければ、彼女はきっと、怖がって逃げてしまうだろう。

あきらめよう、という心とは裏腹に、私は声を掛けていた。

「あの〜、すみませんが、お茶でも飲みませんか?」

彼女は、ビックリした顔で振り返り、私を覗くようにして見た。

しばらくの間をおいて、彼女の口から「いいですよ」の幸運な言葉が返ってきた。

2人は、バス停近くに1軒しかない小さな喫茶店に入った。

北海道出身だということ。

東京の高校を卒業したこと。

名古屋の有名ブティックに就職したこと。

最終のバスがなくなるまで話をした。

喫茶店の閉店を告げられ、支払いをしようと財布を開いた。

恥ずかしい話だが、財布にはお金が入っていなかった。

「ごめんなさい。お金持っていないので、おごってくれる」

なんて、ず〜ず〜しい奴だと、彼女は思っただろう。

このあと、連絡先を聞いて、私は2駅を歩いて家に帰った。

この機の逃してはというあせる気持ちが、私をこんな恥も外聞もない行動にさせたのだろう。

これは一目惚れ。

彼女が18才の春だった。


続く・


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2020年01月07日

懺悔の回顧録・プロローグ(337)

明けまして、おめでとうございます。

今年も拙い文章のブログを、お付き合い願えることを希望しています。

7月25日には、また一つ歳を重ねる。

昨年は、干支が6回巡った72歳を過ごした。

70歳を迎えたあたりから、孤独を感じ始めるようになった。

新年から愚痴って申し訳ない。

大きな要因は、先妻の訃報だったかもしれない。

2年前「日本食・影武者」に電話が入った。

「かあさんが、一週間前に死んだよ!」

息子からの一声に、身体が震えた。

一人息子が東京に就職していて、独り住まいだったと言う。

7日間も誰にも気づかれずにいたことの残酷さ。

他人事だと思っていた孤独死が、身内に起きたことに大きなショックを受ける。

何もしてやれなかった不甲斐ない自分に、腹が立った。

今の私に北海道は経済的に遠く、駆けつけることもできない。

二重、三重と申し訳なさがつのる。


私が25歳の時に結婚した彼女だ。

5歳年下の20歳だった。

18歳の彼女と知り合い、結婚生活は5年間。

身重の体で、離婚届を残して私の前から姿を消した。

彼女が別れたがっているなんて、まったく気がつかなかった。

だから、離婚の理由もわからない。

鈍感なんだな。

すぐに帰ってくるだろうと、単純に考えていた。

多忙を理由に、迎えに行く機会を逃してしまった。

25歳から30歳までの私は、己の前しか見ずに突き進んでいた気がする。

こんなことは理由にならないな。

単なる利己主義なだけの奴だった。

ある小説の中にあったセリフが、身にしみる。

「あなたにはまだ実感はないだろうけど、人に会えるのはね、生きている間だ」

逝った人は戻らない。

痛恨の後悔だ。

もう二度と会えないという思いは、いくら理屈でわかっていても、やるせない。

最善の方法は、時が戻って、すべてが元通りなることだ。

そんなことは、天地がひっくり返ってもありえない。

聞きたいことはイッパイあった。

伝えたいこともイッパイある。

あれこれ考えるだけで、切なさが込み上げてくる。

空白の時は、もう埋めれない。

心残り。

年頭に当たって、恋人になってくれた過去の全ての女性に、不誠実を悔恨したい。

現在、楽しい人生を送っている彼女たちの過去は語れない。

回顧録として、永眠した妻の思い出を書き残しておこうと思っている。

次回からしばらく「懺悔の回顧録」が続きます。

重いブログになると想像できる。

そんな話は読みたくないという方は、無視してください。


続く・


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2019年12月28日

愛猫チビタとのお別れ(336)

この頃、チビタの姿が見えない。

気になってはいるのだが、パチュンの家族に聞く勇気がない。

チビタは、私の愛猫の名前。

「ブンブン・カフェ」の時代からの付き合いだ。

ブンブン・カフェは、1998年から2006年までの8年間、ARMA正面玄関西隣にあった雑貨&カフェ。

ミクシイ(古っ!)とブログを回顧して、年月を確認してみた。

2006年8月、子猫が一匹、交通量の多い道路をヨチヨチと渡ってくる。

脇目もふらずに、一直線で店に入ってきた。

近づくと、足元にまとわりついた。

生後一ヶ月ほどか、目が開いたばかりのメス猫は、人懐っこかった。

一匹だけ捨てられたとは思えないので、迷い子とも考えられる。

飼い主か母猫が、捜しているかもしれない。

あたりを見回してみる。

道を渡って捜してみたが、それらしい姿は見えない。

母猫が捜しにくるかもしれないので、ブンブン・カフェの裏にある作業場に寝床を用意した。

チビタは、ブンブン・カフェの来店者の魂を掴んで人気者になった。

幸いというか、生憎というか、母猫も飼い主と思われる人物も現れない。

その後、私がトゥブサヨ村に引っ越すのを機会に同居することになる。

トゥブサヨ村滞在は、約5年間。

テガランタン村のグスティ・パチュン家に移り住んだのは、2013年から。

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2014年、私は25年ぶりの日本一時帰国を果たした。

帰国期間の2ヶ月は、パチュンの家族が面倒をみてくれた。

コロンビア移住計画で、パチュン家を引き払うことになった。

2015年02月に、後釜の住人に知人を紹介して旅発った。

チビタの世話は、知人が引き受けてくれた。

5月には、日本トランジット帰国の2ヶ月を経てコロンビアに向かった。

結果6ヶ月で帰って来てしまうのだが。

友人、知人には「帰ってくると思った!」と言われた。

その話は「南米コロンビアの旅」で、お楽しみください。

夢破れ、ウブドに戻って来たがパチュン家には知人が居る。

チビタの世話は、知人に続投してもらうことにした。

S田さんの借家を間借りしながら、テガランタン村を中心に、安下宿捜し。

古くからの知人・セナ家が、低価格で部屋を用意してくれた。

2016年から、セナ家に厄介になる。

チビタの様子を見に、たびたびパチュン家を訪れる。

私を覚えているようで、体をぶつけて甘えてくる。

2017年に知人がパチュン家を出たが、リフォームする必要があるからと借りられなかった。

知人がいなくなってから、チビタは年々、薄汚れて精彩がなくなっていく。

生い先が短いことを告げているように感じる。

早く移り住んで、チビタの面倒をみたい。

しかし私は、2020年4月から中部ジャワのボロブドゥール移住を考えている。

10月の1ヶ月のボロブドゥール滞在を期に、セナ家を出た。


2019年11月から、再びパチュン家に戻る。

チビタは、私の部屋には入って来ようとしない。

出会ってから、すでに13年を過ぎていた。

猫の年齢を斉藤式で計算すると、チビタは82歳の高齢だった。

1週間前、テラスの階段前で見かけてから姿を見ていない。

人前に姿を見せず、死期を迎える猫がいると聞いている。

真偽のほどは定かじゃないが、私はそう信じている。

テラスの前をうろうろしていたのは、別れの挨拶に来ていたのだろうか。

13年間、癒してくれてありがとう。

安らかにお休み。

chibita6.JPG


2013年04月12日:■愛猫「ちびた」(13)
http://itosan-ubud.seesaa.net/article/355051506.html
2013年08月09日:■愛猫ちびた&レーシー(47)
http://itosan-ubud.seesaa.net/article/371566565.html
2014年12月25日:■愛猫 “ちびた” のその後(90)
http://itosan-ubud.seesaa.net/article/411268980.html

■猫の年齢の換算法=斉藤式
生後12ヶ月を人間の20歳とみなし、1〜5歳を成人期とし、猫の年齢に6をかけ15を足した値を人間の歳とみなす。たとえば、猫2歳は、2×6+15=27。
6〜10は、中高年期で、換算式は、猫の年齢×5+20。
11〜15は、高齢期で、猫の年齢×4+30。
16歳以上が老齢期、猫の年齢×3+45。


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2019年12月23日

ピアスの穴あけは、通過儀礼(335)

世界には、様々な奇習がある。

グーグルで調べてみると。

★素手でサメを捕獲する(パプワ・ニューギニア)

★ライオンを狩る(マサイ族)

★木のツルで足首を縛り、30メートルの高さからジャンプする(バヌアツ共和国)

★体に牛糞を塗りたくり、牛の背中を渡り歩く(エチオピア)

★毒アリがたくさん入った手袋に手を突っ込む(サテレ・マウェ族)

かなり強烈で野蛮な奇習があげられていた。

これらは、成人としての通過儀礼だ。

調べてみて、慣習を残すのも重要だが、生死を伴う奇習は考えたほうが良いと思った。


インドネシアにも、奇習といえる成人の通過儀礼がある。

先住民族の刺青の習慣。

ニアス島の、2メートル程もある岩の跳び箱を飛び超える儀礼。

勇気を試される風習だ。

インドネシアは多宗教とは言え、イスラム色の強い国。

トルコ旅行の際に、イスラム教の男児割礼に立ち会ったことがある。

意外と、男児のアッケラカンとした態度に驚いたのを思い出す。

女子割礼があるとすれば、それは悪弊かもしれない。

割礼の意義について詳しく知らない私が、発言をすることは控えよう。

これ以外にも、島々や民族によって珍しい風俗習慣が残っていることだろう。


バリ島にも、珍しい風習が残っている。

数々のカルチャーショックを受けた。

風葬や闘鶏も珍しいが、削歯儀礼は衝撃的だった。

マレーシア・マラッカを訪れた時、博物館に立ち寄った時に、世界の7奇習のひとつと知った。

削歯儀礼は、前歯の上6本をヤスリで削って平らにする儀礼。

バリ人の信仰する宗教・ヒンドゥーダルモに、五つの教義(パンチョ・ヤドニョ)がある。

その一つのソ・ヤドニョ(五つの教義)が人間の儀礼で、生誕から火葬までの通過儀礼を行う。

削歯儀礼は成人としての通過儀礼で、火葬に付すまでに済ませねばならない。


ピアスの習慣もショックだった。

我が伊藤家では、親から授かった身体に傷をつけることは法度だった。

親に背くのは、不良のすることと心得ていた。

刺青はもちろんのこと、ピアスも駄目でしょう。

以外と常識的な考えをする男だったのです。

そんな不良行為が、バリでは乳幼児に施されていた。

これも通過儀礼。

儀礼として必要不可欠なもの。

生後42日の儀礼が終われ、ピアスの穴の開けてもよいとする。

昔は両親がピンで穴を開け、そこのアランアランの茎を刺したという。

現在は、プスケスマス(公共診療所)で、無料から廉価(村に行って異なる)で穴を開け金具を通してくれる。

生後105日目の儀礼(ウパチャラ・ニャンブータン)には、金のピアスに付け替えられる。

金には、特別な魔よけの力があると信じられている。

これは、バリ人が古来からの信仰するヒンドゥー教に由来する。

現在は必須ではないようだ。

たいがい一歳を過ぎる頃には、ちぎれて無くなっていることが多いそうだから、バリ人女性の全員がピアスの穴が空いているとは限らないようです。


日本脱出して、やってみたかったこと。

と言っても、30年前の話だ。

刺青を入れることと、ピアスをつけること。

度胸がなくて、親から授かった身体に傷をつけることができなかった。

ウブドに長期滞在を決意した時に、この二つを実行した。

刺青は、右上腕に聖獣バロンを入れた。

その時の話は「極楽通信・UBUD / P12〜P13 / TATTOはやっぱり痛かった」をお読みいただけると嬉しい。

今では、色落ちしてみすぼらしい限りだ。

ピアスは、日本から穴あけ機を持ってきてもらった。

「居酒屋・影武者」の囲炉裏コーナーで、カチャンと一瞬にして。

銀製品の町・チュルクで買った金のピアスも、バロンだったような気がする。

とっくの昔に落としてしまい、今は穴も塞がっている。

これは、私にとっての通過儀礼だったようだ。


posted by ito-san at 16:56| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月20日

ウブドからもっとも近い・チャンディ遺跡(334)

シルビオ・サントーサが発行していたバリ島の地図「PATH FINDER」は、インターネットの普及から廃刊に追いやられたようだ。

ウブド在住のシルビオの地図は、特にウブドが詳細で、徒歩でしか通ることのできないルートまで網羅していた。

私のウブド探索に、おおいに貢献してくれた。

ガイドブック「地球の歩き方」の散歩道紹介は、これを参考にした。

「バリ島ウブド・楽園の散歩道 / ダイヤモンド社」で、彼の功績を紹介(P141)している。

ボロボロになった「BALI PATH FINDER / 12th EDITION / 2015」が、私の手元にある。

折り目が切れ切れになった地図を広げて、ゴアガジャ周辺に目をやる。

かなり以前に、迷い込んだプセリン・ジャガット寺院(Pura Pusering Jagat)の裏手で、崩れかけたチャンディを見たのを思い出した。

チャンディは石造の寺院や霊廟のことを言うが、バリでは建造物はなく崖(Tebing)に直接掘られている。

そんなことからCandi Tebingを呼ぶ。

今頃、崩壊しているかもしれないな。

そんな不謹慎な期待を持って、出かけていった。

プセリン・ジャガット寺院は、修復されて威風堂々としていた。

村はずれのマンディ場の前を通り過ぎたところにバイクを止めて、階段を下りていく。

反対側から青年が上ってくる。

対岸のティティアピ村から来ていた。

身体を悪くしたので、健康のために散歩していると言う。

渓谷を見下ろすと、チャンディは記憶を辿るように存在していた。

崩壊はしていなかったが、以前より朽ちているように感じるのは気のせいか。

「ティティアピ村から来れば、ここまでバイクで下りられるよ」と教えられた。

すぐに確認がしたくて「ティティアピ側から下りてくるので、ここで待っててくれませんか?」と約束をして、バイクに戻った。

ティティアピ村の十字路を南下すると、突き当たりは火葬場。

沿道に「Candi Tebing Kelebutan」の表示。

kelebutan1.jpg

新設の歩道が、奥に続いている。

バイクで歩道を下ると、先ほど青年と立ち話をした場所に着いた。

プセリン・ジャガット寺院側とティティアピ村側からの合流地点だ。

足下は、川が流れる洞窟になっている。

青年の姿はなかった。

時間は午後5時、眼下に水浴びをする男性達の姿がある。

集団の中に、青年がいるのかもしれない。

渓谷に下りて行っても、裸体をビデオに撮るわけにいかない。

撮影は、次回にすることにした。

kelebutan2.jpg


この数日後、ティティアピ村から2度訪れている。

ウブドの西方・アンドンの十字路をホテル・マヤ・ウブド方面に向かった渓谷の向こうに、ティティアピ村はある。

ウブドからもっとも近いチャンディは、シンガクルタ村の「Candi Tebing Jukutpaku」だと思い込んでいた。

■私の瞑想スポット教えます!(328)http://itosan-ubud.seesaa.net/article/470768725.html

ウブドの変則十字路(サレン王宮)からだと、「Candi Tebing Kelebutan」と「Candi Tebing Jukutpaku」は、ほぼ同じ距離にある。

ゴア・ガジャだって2キロと差はなかった。

新設の歩道の途中に、チャンディが見える。

近づくと、持ち運びのアルミのハシゴが立て掛けてある。

これで下りるのだろう。

昇降してみたが、危険を感じて足が震えた。

高所恐怖症の方は、遠慮したほうが良いだろう。

真っ直ぐの階段を、渓谷に向かって下りていく。

右手に、アルミのハシゴで下りたチャンディが見える。

左手対岸には、朽ち果ててはいるが歴史の気配が感じられるチャンディが掘られている。

川の流れる洞窟には、水たまりでできていてマンディ場になっている。

子供達に混じって、私も水に浸かる。

kelebutan7.jpg

少量の水が落ちる滝には、小さな虹が映っていた。

kelebutan8.jpg

洞窟の中に入ることもできる。

子供達がマンディしている場所は、お尻が隠れるほどの水深だが、洞窟の入り口付近は胸まで浸かった。

滝の落水で、カメラを濡らすわけにはいかない。

洞窟内へは、合流地点の反対側から入った。




村人に、ツーリストを誘致しようという意識がないように見受けられる。

整備されて観光地になるのも好みじゃないが、崩壊して消滅してしまうのも問題だ。

「将来どうなっているか?」

そんなことも、楽しみの一つと考えることにしよう。
posted by ito-san at 17:06| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする