2017年02月19日

ワインに詳しくない人間は、教養がない(118)

教養とはなんだろう。

ある本を読んで、こんなことを考えさせられた。

ある本とは「食がわかれば世界経済わかる」。

2008年の出版。

早稲田大学の教授が書いている。

全般的には、興味が惹かれる内容で、楽しく読ませて頂いた。

だが、ある部分でひっかかった。

それは、こんな内容だった。


『フランス人はシラク大統領の発言でわかるように、料理やワインについて教養のない人を軽く見るところがあります。

(これは前文にある「食い物のまずい国の人間は信用できない」の発言に由来している)

私もフランス人の友達が来たときは、お金をはたいて、できるだけ高いフランスワインを買ってきて飲ませることにしています。

ボルドーワインで最も高級と言われるシャトー・ペトリュスの古いビンテージものなどを飲ませたりすると、彼らに対しては歴然とした効果があるのです。

欧州復興開発銀行総裁のルミエールという、かつて私が財務官時代にフランス大蔵省次官だった友人がいますが、彼などもフランスの古いワインを出すと大変に喜びます。

食やワインに関する知識は何世紀も前から、ヨーロッパの貴族や王族の教養の一つになっています。

「食」というのは文化の中心ですから、「食」が貧しいということは文化が貧しいということになってしまいます。

シラク大統領ではありませんが、「イギリスだ、アメリカだと威張っているけれども、文化は貧しいではないか」と、いうことになるわけです。

特にフランス人はそうですが、ヨーロッパの人はこちらがワインや料理のことを知っていると、「こいつは教養がある」と思うようです。

食の話というのは向こうの人にとって、基本的教養の一つなのです。

従ってそれは外交上も重要で、外務省が機密費で高価なワインを買うのが良いことかどうかという問題はありますが、現実のはある程度必要なことなのでしょう。』

ワインショップ@ウブド1.jpg
ワインショップ@ウブド


こんな考え方の人がいるんですね。

驚きました。

食が文化だということは、私にもわかる。

しかし、その知識があるから教養があるとは、言い切れないのではないだろうか。

貧しい貧しくないは別として、ハンバーグもフライドチキンも文化のひとつと言える。

文化が貧しいと、教養がないのか?

料理&ワインのことが詳しくなくて、他人から「教養のない奴だ」と思われるとは考えられない。

私は料理にもワインにも興味がない。

「料理が出来ない人間はダメな奴」と言われたことがあるが、私だって味の良し悪しは別として、必要に迫られれば作る。

料理が苦手の母親が、教養のある子供を育てている。

ワインに詳しくなくても、社会人として尊敬を得ているし、教養も兼ね備えている人もいる。

榊原氏の住む環境が特殊なのか、私のような庶民には、当てはまらない話だ。

どこまでの知識を持っていれば、教養ある人なのか。

そんな物差しがあるとは思えないし。


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ワインショップ@ウブド


ワイン生産者と飲む消費者。

どこまで詳しい人をワイン通というのか?

ワインを飲まない人は、教養がない人なのか。

食については、料理する人、食べる人。

グルメ(食通)と言われる ”食い道楽” は、本当に舌がこえているのか。

私に言わせれば、ただの物知りなオタクだ。

嗜好関しては、好き嫌いに個人差があってもいい。

極論がもしれないが、のどがカラカラなら水も美味しい。

お腹がペコペコなら、何を食べても美味しい。

まさか、生産者や料理人は教養人じゃないということはないでしょう。

ワインはブドウから作るらしいから、生産者は農家だ。

野菜育てに奮闘している私は、消費者の知識より農業生産者の知識に軍配をあげる。

知識の量で人を評価してはいけないので、軍配も上げない方がいいな。

どちらにしても、富裕層を自認している人々の発想だろう。


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スーパーマーケット内のワインショップ


友人のひとりに、ワイン好きの男性がいる。

興味のない私には判断できないが、かなり詳しいとお見受けする。

その彼は、自慢するでもなく少し恥ずかしそうに蘊蓄を披露してくれる。

楽しく説明を聞くことができるのは、彼の人格の成せる技だ。

あくまでも自分の趣味として、他人に押し付けることなく楽しんでいる。

そんな物知りが近くに住んでいることが、嬉しい。

洋酒、日本酒に詳しい友人もいる。

彼らは、単なる物知りな人で、

ワインのことを知っていると、教養のある人になる。

それでいいのか。


教養は、人格を育てるひとつの要素=知識(データ)である。

手元にある辞書には、『社会人として必要な広い文化的知識、または、それによって養われる品位』とあった。

データは、他人に関心を持たせることはできても、人の役にたつことは少ない。

ワインの能書きを知らなくても生きていける。

知らないひとの方が多いと思う。

そんな人々をすべて教養のない奴と言い切ってよいのか。

そう言い切ってしまう人間のほうに、私は教養を感じない。

もうひとつ辞書には、『単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化、発展させるために学び養われる学問や芸術など』と書かれていた。

ワインに芸術的という表現を使うことがあったとしても、学問や芸術の分野のひとつとは思えない。

「重箱の隅を突つく」ような行為で気が引けるが、ちょっと気になる発言だったので、考えてみた。


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2017年02月13日

イエ・プル=YEH PULUのレリーフ(117)

ウブドの東6キロほどのところに、「イエ・プル=YEH PULU」と呼ばれる遺跡がある。

場所は、ペジェン郡ブトゥルゥ(Bedulu)村。

ペジェンは、バリの王国(ワルマデワ)があった地域。

ワルマデワ王国は、ジャワのマジャパイト系王国に支配される14世紀まで400年間ほど続いた。

イエ・プルの遺跡は、14世紀の後半に彫られたレリーフ。

ペジェンに王国があった時代に残された、彫刻だと言われている。

高さ約3メートル、幅およそ25メートルの帯状の岸壁に彫られている。

マジャパイトの末裔が移り住み、都をバリ東部に移すと、ワルマデワ王国は忘れ去られた。

王国は痕跡も残さず姿を消し、多くの遺跡が埋もれてしまった。

イエ・プルは、水を意味する ”YEH” と容器を意味する ”PULU” からなっている。

「石の器から湧き出る聖水の泉」から付いた名称だろう。


「ウブッド十字路の番人〜バリ島今昔譚〜・霧の探訪者」の巻末に、レモンイエローのページがある。

マディ・クルトナゴロ 著・武内邦愛 訳。

ここに「トーキング・ストーンーイエ・プル」の話が載っている。

記憶が薄くなっているので再確認のため、20年ぶりに訪れることにした。

雨季の晴れ間を狙って、行ってみた。

ウブドからだと「ゴア・ガジャ」の遺跡を通り越してしばらく進むと、ギャニアールとペジェンを結ぶ幹線道路の十字路に出る。

真っすぐ進めば「サムアン・ティガ寺院」。

十字路を右折する。

500メートルほど進むと、左に大きくカーブする道路が交差する十字路がある。

ウブドの王宮のある変則十字路から、ここまで4キロほど。

バイクで、20分(渋滞に引っ掛からずに)。

イエ・プルへは、真っすぐ。

ここからは、ブトゥルゥ・ Batulumbang村。

さらに10分ほど走る。

イエ・プルの小さな看板を左折すると、道は行き止まり、料金場が見える。

バイクを止め、入場料を払って、階段を下りる。

■入場料:Rp15,000(大人)/Rp7,500(子供)

■駐車料金:Rp5,000(車)/Rp2,000(バイク)

■営業時間:10.00am〜6.00pm


バンガローに続くエントランスのような細道を、水田を左手に見ながら進む。

沐浴場を通り越し、樹々に囲まれた細道を、さらに進む。

清潔なトイレも設置されていた。

細道に寄り添うように流れる川のある、絶好の散歩道。

記憶には、この風景が残っていない。

あの頃、普通にあった景色なので、覚えていないのだろうか。

ウブドで見かけることの少なくなった、貴重な風景に感動している。

木々の林を抜け、目の前に水田が広がると、すぐそこはイエ・プル遺跡だ。

10分ほど歩いて、レリーフの入口に到着した。

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純朴な男

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トゥアック売りと美女

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老婆

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司祭とその娘と婿

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小太りの少年

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騎手

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戦い

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さらなる戦い

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カエルとヘビ

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ガネーシャ

レリーフの解説は「ウブッド十字路の番人〜バリ島今昔譚〜・霧の探訪者」を読んでください。


ガネーシャの奥の岸壁は、修行僧が瞑想したと思われる洞穴だ。

洞穴の正面に、イエ・プルの由来である、石の器から湧き出る聖水の泉がある。

不思議なことに、この場所は記憶に残っている。

以前は、池から顔を覗かせた直系40センチほどの円筒から、清水が湧き溢れていた。

今は、湧き水が少なくなったのか、池に水は満たされていない。

水は、脇から出ているパイプから流れている。

あの時は、女性のプマンク(僧侶)から聖水を頂いた。

今日は、寺守の老婆から花をもらい、お祈りをさせてもらった。

老婆に許しを得て、洞穴に腰をおろしてみた。

いにしえの修行僧の気持ちにはなれなかったが、気持ちがいい場所だった。



posted by ito-san at 18:50| 愛知 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月10日

変貌するウブドのホテル事情(116)

「星のや」が、ウブドの北に位置するペジェン村に、1月20日オープンした。

日本の情報に疎い私は知らなかったが、友人、知人に訊くと、

「高級なおもてなしで、料理も美味しい。一度は行ってみたい旅館&ホテル」

「20年くらいで急成長した日本旅館」

と、日本で人気な旅館&ホテルのようだ。

バリ島ペジェンにオープンした「星のや リゾート」は、私には、一生宿泊することのない高級ホテルだが。

私が下働きのする「アパ?情報センター」が「星のや リゾート」の営業方針と同意するところがあったようでツアーのいくつかをジョイントしてくれた。

アパ?の責任者・ワヤン君のバリを愛する心意気もかってくれたようだ。

「都会化するウブド地域(109)」で報告したように、バリ島のホテルラッシュは高級化へ進んでいる。

私が訪れた1990年代には想像もできない勢いだ。

27年も経っているのだから、変貌もするだろう。


山間の田舎の村ウブドに、旅行者が最初に泊まったのはウブド王宮だった。

ゲストとしての宿泊で、本当の意味でのホテルではない。

1925年、ウォルター・スピースが初めて訪れた時の宿泊施設は、ウブド王宮だと思われる。

一般の旅行者を最初に泊めたホテルは、ムティアラとチャンプアンと聞いている。

以前、聞き込みをしていた時、1955年のオープンと聞いた。

ムティアラは、ウブドの変則十字路にあるワンティラン(集会場)の南前にあった。

客室は8室。

主に、ジャカルタの旅行社から送られた旅行者だったそうだ。

ホテル・チャンプアンは、ウブド王宮の所有。

このホテルは、王宮がウォルター・スピースに提供した土地に彼が建てた(1928年)住宅兼アトリエを改築してオープンしたもの。

サラスワティの開業は、1978年。

「プリ・アニアール」もホテルとしてオープンしている。

高級ホテル・イバのオープンは、1995年。

元チャック・インと呼ばれた小さなバンガローが始まり。

ウブドの王族が所有だが、現在、経営は譲渡している。

名称も「Warwick Ibah Luxury Villas & Spa」に変名した。


節約旅行者・バックパッカー御用達の宿は、ホームステイと言う。

ホームステイと言っても、家族とともに同じ家屋に泊まって世話になるというわけでない。

別棟を借りる民宿のようなもの。

ホームステイの第一号は、モンキーフォレスト通りにある「オカ・ワティ」。

「ムスティカ・ロスメン」も古いと訊いているが、所在が確認できない。

ロスメンは、一般的にインドネシアでは商人宿のような使われ方をしているが、ウブドではホームステイと同意語。

私が最初に泊まったのは、カジェン通りの1番地「ロジャーズ・ホームステイ」だった。

「ロジャーさんの民宿」という意味だ。

カジェン通りは500メートルほどの長さで、左右に民家が並ぶ。

民家のほとんどが、ホームステイを商っている。

門や塀に、宿を商っているとわかる小さな看板が掛かっている。

民宿だからホームステイでよいと思うのだが、ロスメン、ゲストハウス、アコモデーション、ハウス、イン、ペンッションなどとさまざまな名称がついている。

観光客の目を引くために、名称で差別化をしているのだろう。

民家と言っても敷地が広いので、名古屋の兎小屋生活者だった私には屋敷に見える。

日本の旧農家にも似た、趣だ。

屋敷地域を外れて建てられた宿には、バンガロー、コテージ、ヴィラ、ロッジ、ホテルなどと命名されている。
こちらは、台所の設置された宿泊施設。

価格が、ホームステイより高く設定されている。

滞在を始めた当初、ウブドに何軒の宿があるか調べたことがある。

100件ほど調べたところで調査を中止した。

次からつぎへと宿泊施設が増えてゆくので、切りがないのだ。

今思えば、ウブドの人気が加速度的に上昇していた時期だった。

高級ホテルも、差別化のために変名してイメージチェンジを計っている。


近頃は、リゾートと付く名称が多い。

ホテル○○ではなく、○○リゾートとなる。

バリのエステサロン、スパの人気は近年、目を見張るものがある。

ウブドもご多分にもれず、スパの出店は多い。

ホテルの多くがスパを併設するようになった。

スパ設備があるのをアピールしたいホテルは、スパを加えて「リゾート&スパ」と名前を変えて、顧客の確保に努力している。

リゾート&ヴィラだったり、スイート&ヴィラだったり、リトリート&スパだったり。

そのほかには、リザーブ、ブティック、スタイル、コンベンション、ラグジュアリー(luxury)なんてわけのわからない単語がついているホテルもある。

例えば、ホテル・イバが「Warwick Ibah Luxury Villas & Spa」になったように。

蛇足だが、ラグジュアリー(豪華なさま、贅沢なさま)を「ランジェリーかと思った」、なんてトンチンカンなことを言う知人がいる。

ランジェリー(lingerie=装飾性の高い女性用下着)を知っている、お前が怪しいゾ。

同じ感想を抱いてしまった私も、怪しいオヤジの一人かもしれない。

今回は、私にまったく縁のないホテル事情を「変貌するウブドの宿泊施設」で振り返ってみました。






posted by ito-san at 17:13| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月08日

珊瑚でこさえた ”壁飾り”(115)

雨季も終盤。

お約束通り、サコ暦(Saka)の第9番目の月・Sasih Kasanga (カサンゴ)は、強風をともなう大雨が降る。

西暦では、2月頃にあたる。

この数日、雨が降っていない。

今日で4日目。

晴れ間を見つけて、洗濯物を干している光景を見かける。

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降り続く雨で、流木拾いにも出かけられない。

そんなことから、モビールの飾りに珊瑚を使っている。

隣島ロンボク・ギリ諸島に旅に行った知人が、お土産に持って来てくれた珊瑚。

珊瑚は、腔腸(こうちょう)動物のサンゴ虫が作る石灰質の骨組(と、何かに書いてあった)。

もちろん生きている珊瑚ではなく、海に打ち上げられた珊瑚ですよ。

だから、珊瑚の死骸です。

近頃、不心得のダイバーが増えて、踏まれた珊瑚が死んでいる。

私が住もうと思っていた1990年の海底とは、ほど遠いほど珊瑚は激減した。

その頃、珊瑚の持ち出しは禁止だと聞いた覚えがある。

落ちている珊瑚も少なかった。

今は、許されているのかもしれない。

大量に落ちているし。

どちらにしても、私には助かっている。

苦肉の策の珊瑚だが、これが以外とマッチした。

同じ海から拾ったものだから、当然と言えば当然かもしれない。

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今回は、大作に挑戦した。

といっても、縦90センチメートル×横80センチメートルほどの壁掛けだが。

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ロンボク島ギリ諸島を旅する知人、友人に告ぐ。

私にお土産なら、珊瑚の死骸でいいですよ。

よろしく。

posted by ito-san at 16:38| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月27日

白鷺の村・プトゥルゥ・グヌン(114)

行って来ましたプトゥルゥ村。

我が家からだと北上してジュンジュンガン村経由が近い。

看板が、右手にプトゥルゥ村だと案内してくれる。


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ココカンが生息するのは、バンジャール・プトゥルゥ・グヌン。

バンジャールは、最小単位の村(集落)のこと。

チケット売り場の前に立つ。

入村時に保護費を支払う。

料金は、Rp20,000-(大人)、Rp10,000-(子供)。

チケット売り場に、人が姿がない。

午後2時、ココガンたちは餌を求めて遠くの田んぼに飛び立っているだろう。

ココガンの外出中は、無料なのか?

チケット売り場を素通りして、村道に入る。

どことなく、村全体がかすんで見える。

そして、臭い。

排泄物で、緑のはずの沿道の樹木が灰色化しているのだ。

アスファルトの道路も、灰色&白色のマダラ。

バイクを降りて、樹木を見上げると・・・・・。

枝々に、ココカンが止まっている。

ココカンの群れ。

まさに鈴なりだ。

V型の編隊を組んで飛ぶココカンの姿は美しいバリの風物詩だが、生息地に私の興味が薄い。

ココカン・ウオッチングするために作られた小屋も、今では見るも無惨な廃墟になっている。

ウブド近郊の観光地としての役割は、果たしきれていないようだ。

ひょっとすると村人も、持て余しているのかもしれない。


私は、すこし気持ち悪くなったのを、動画を撮り終えると、ソソクサと村を立ち去った。

バンジャール・プトゥルゥ・グヌンを過ぎると、ココカンはいなくなる。

不思議な現象ではある。






「ウブッド十字路の番人」に載っていた「HOLY WATER」を探してバイクを走らせる。

地図に惑わされたが、なんとか到着。

通りにある集会場の横の細道を入って、1キロメートルほど村道を進んだところ。

ジュンジュンガン村との川境に、目的の湧き水はマンディ(沐浴)場になっていた。

バリ人の沐浴する姿も風物詩(と言っていいのか)。

散歩道のコースにいいななんて、考えている。

マンディ場は、低い壁で囲まれた露天のことが多い。

屋根のある小屋の前に立つと、中央の扉分がオープンになった小屋がある。

覗くと、裸のうしろ姿が目に飛び込んで来た。

女性が椅子に腰を下ろして、身体を洗っている。

イカン! ここは女性専用のマンディ場だ。

入口に、ISTRIの文字が書かれてある。

女性専用という意味だろう。

露天は男性専用で、女性は屋根のある小屋なのだ。

知らずに、裸の女性の姿を見てしまった。

歳のころなら30を少し超えたあたりか。

褐色の肌は健康そうで、一家を支えている力強さを感じだ。

ちょっぴり色気もあった。

申し訳ない、分析するほど魅入ってしまって。

ゴメンナサイ(低頭)。






ウク暦第二週ランドップ(Landep)サニスチャラ(Saniscara=Sabtu) クリウォン(Kliwon)の日に、鳥たちの儀礼が寺院で行われると書いてあった。

今年は、2月4日にあたる。

どんな儀礼をするのか興味がある。

行ってみようかな。


posted by ito-san at 18:29| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月22日

プトゥルゥ村・白鷺の伝説(113)

テガランタン村ダラム寺院横の田んぼで、耕耘機が田の耕作を始めた。

田を耕していると集まってくるココカン(kokokan)。

ココカンは、バリの白鷺のこと。

せわしなく餌をついばむ姿に、しばし時間を忘れる。


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この時は、頭と背中の一部が薄茶色の鷺だった。


バリの風物詩に、ココカンがV型の編隊を組んで飛ぶ姿がある。

青空に、ココカンの羽が銀箔のように輝く。

夕焼けを浴びながら帰ってくる群れもある。

それはそれはウットリする風景だ。

幸運にも、ウブドは編隊が通過する上空の近くにある。

ココカンは、ウブド北部のプトゥルゥ(Petulu)村に生息している。

それも並の数ではない。

一時期には、一万五千羽が住み着いていたという。

沿道の樹々に、緑の樹が白くなるほど鈴なりだ。

その光景は壮観だろうが、道路は彼らの排泄物で真っ白。

通過する車とバイクにも、容赦なく糞爆弾は落とされる。

私もヘルメットや上着に、何度も直撃を浴びている。

歩きの場合は、傘をさした方がよいでしょう。

美しい光景の対極には、醜い光景が存在するのか。


ココカンがプトゥルゥ村に住み着いた話は、

「ウブッド十字路の番人〜バリ島今昔譚〜・霧の探訪者」(マディ・クルトナゴロ 著・武内邦愛 訳)に載っている。

白鷺が登場するのは「第二章 女神の使い ー 白鷺。

この不思議な出来事が起こったのは、1965年の11月7日のこと。

『鳥たちは風を切って飛び、プトゥルゥ周辺を旋回した。

白鷺は人間の愛を求め、プトゥルゥの村人たちは愛と平和をもって両腕を広げ、彼らを歓迎した。

村の上空を旋回した後、王である黒鷺に統率された白鷺たちは安全な木の上に身を落ち着け、それぞれにその美しい姿を休めた。

これが人間と自然の間の愛の神秘なのだ。

こうのよにして、女神の使いである白鷺の群れはプトゥルゥ村に住み着いた。

鷺たちの生活とプトゥルゥの住人たちの生活が一つになることは、女神のお望みだった。』


ココカンは、朝になって太陽が輝きだすと、満足するまで日光浴をする。

それから、クルンクン、スカワティ、デンパサール、タバナンと様々な方向に、思い思い飛び立って行く。

風向きによっては遠くシンガラジャまで行くものもいる。

夕暮れ前の午後5時、彼らは再びプトゥルゥへと集まってくる。

時には自分たちや子供たちの餌に、蛙やウナギをくわえてくるものもいる。

「ウブッド十字路の番人〜バリ島今昔譚〜・霧の探訪者」より抜粋。


プトゥルゥ村の起源も興味深いのでメモした。

「第一章 霧の探訪者 ー プトゥルゥ村の起源」

今から五百年前・・・・。(※14世紀末 ゲルゲル朝の始まりの時期だと推測する)

クルンクン王国の王様に「肉体的、精神的な傷を癒すという聖なる水を探せ」と命令される。
命令されたのは、クシャトリヤの青年(?)イ・グデ・グナッサ。

彼の苦難の旅が始まる。

この続きは、本をお買い求めください。


ココカンは「神様の使い」の鳥として、今でも大切に保護されている。

HORON SANCTUARY(白鷺生息地)として、ウブド近郊の観光地の一つ。

入村時に保護費を支払う。

さあ、出かけてみよう。

と言うことで、次回はプトゥルゥ村からのレポートです。






posted by ito-san at 16:46| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月20日

ワルン・タマン=Warung Tamanの移転(112)

スマラ・ラティ歌舞団の定期公演会場があるクトゥ村のメイン道路は、ティルタ・タワール通りと呼ぶ。

ウブド大通りからティルタ・タワール通りに入って(10メートル弱)すぐ左手にあったインドネシア中華料理の老舗「ワルン・タマン」が、昨年10月末に閉店した。

突然の閉店で、店の前に立って呆然としたことを覚えている。

外食ローテーションに入っている店なので、無くなったことに唖然とした。

「私のローテーションは、どうしてくれる!」と、心で叫んだ。


「ワルン・タマン」は、店名が示すように、タマン村のスリウェダリ通りで創業。

2004年から10年間営業した。

2015年に、クトゥ村ティルタ・タワール通りに移転した時には、店名が変わらなかった。

今回は、完全撤退だと思った。

理由は、経営者のジョニーさんが高齢で引退。

失礼、私よりはずっと若いかった。

移転オープンはないと思っていたので気にしていなかったが、ひょんなタイミングで「ワルン・タマン」の垂れ幕を発見した。

スーパーマーケット「デルタ・デワタ」に行く途中、アンドンの交叉点を左折した途端、渋滞に掴まった。

すぐに解放されるはずの渋滞の間、視線を左手のビルに向けた。

なんと、その2階に見つけたんです。

「ワルン・タマン」の垂れ幕看板を。

階段を上っていくと、店内は、広かった。

ティルタ・タワール通りにあった店の2倍はありそうだ。

見つけ難い場所だが、わかってしまえば便利なロケーションだ。

昨年2016年12月19日のオープンだと、スタッフの女性が教えてくれた。

メニューの内容と値段は変っていない。

開いてて良かった「ワルン・タマン」。

ジョニーさん、頑張ってよ。

さっそく定番のクオッティオ・ゴレン(ワルン・タマンでは、焼うどんと言っている)とナシ・プティ(白飯)とテ・パナス(暖かい紅茶)を頼む。


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私の外食ローテーションですが。

朝食はとらない。

理由は、昼まで寝てるから。

そして、お腹が空くまで食事をしないので、食べる時は、ほとんどブランチになる。

目標は、一日一膳。

一日一善とともに、目標としている。

ブランチもガッチリ食べるわけではないので、平均、一食半といったところか。

パンですませることもあれば、プリアタン村の「パ・カイルン」でバッソの時もある。

ブランチのローテーションは、週2度ほど、ナシ・ゴレンを食べにトゥブサヨ村スクマ通りの「ワルン・サリ・ラサ」に。

Free WiFiで世話になる「カフェ・トピ」では、オムライス。

ティールームのコロッケとオムライスが、月一で加わったのは昨年からだ。

時々「バロン・ブリッジ・カフェ」で、アンカサ・テーストのカルボナーラを食べる。

「ワルン・タマン」の焼うどん+ライスは、ブランチ&夕食ローテーションの両方に入っている。


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夕食は、基本「和食・影武者」で食べる。

9時頃に訪れる滞在者やリピーターと、駄弁りながらの食事は楽しい。

土曜日の夜は「影武者」に出勤しないので、ほかの店で外食。

「影武者」以外の夕食ローテーションは「和るん・あんかさ」をメインに、あちこち。

「あんかさ」では、餃子と出し巻とポテトサラダの注文が多い。

アンドン十字路を北に行ったグヌン・サリ通りの「ワルン・マンガ・マドゥ」では、カレー・アヤム。

南ゴータマ通りの「ワルン・ケレウー」では、フーヨンハイ。

「ワルン・ベ・パシ」もローテーション内だ。

ラーメンなどの麺類は好きではないし、ピザは食事として食べないのでローテーションには入らない。


※「ワルン・タマン」の情報です。

★メニュー:インドネシア・中華料理

★場所:スーパーマーケット「デルタ・デワタ」のアンドン十字路寄り左手に2階

★食事:ナシ・ゴレンRp17,000〜/ミー・ゴレン&フーヨンハイ&クゥエティオ(中華風焼うどん)Rp20,000-/etc

★飲物:テ・ボトルRp4,000-/バリコピRp5,000-/紅茶Rp,4000-/ビンタン・ビール大Rp35,000-小Rp22,000-/

★営業時間:10.00am〜10.00pm / 定休日:日曜/

(2017/1/16現在)






posted by ito-san at 17:11| 愛知 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月16日

人生の節目は7年、それとも10年?(111)

私がウブドに長期滞在を始めた1990年5月に、見つけたコンクリート製の像。

インドネシアの独立後に、国策のスローガンを具象化したのだろう。

今も立っている、二つの像。


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独立後、人口増加の著しいインドネシアは「子供は二人で充分=Cukup dengan dua orang」の政策を掲げている。

子供は、一女一男が理想的な家族だと、奨励しているようだ。

男の子の掲げる右手の掌は、Vサインではなく二人を現しているのだろう。



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悲願の独立を成し遂げた新興国インドネシアは、国家統一にムルディカ(merdeka=独立)精神をアイデンティティとした。

戦士の像を見ることは多いが、農民の像というのは珍しくないかい。

農民が鍬を持って闘ったのか、それとも、バリの産業を農業と目標としたのか?


時代小説「でれすけ忍者」の冒頭に、こんな文章があった。

『およそ、習い事は7歳をもって始めるのが良いとされている。

人の歳は7の倍で区切る。

14で元服して大人になり、42の厄年で老境に向かう。

7歳は最初の節目、幼児から子供となる年齢だ。』


今年10回目の7の倍で、70歳を迎える。

私は、10歳単位で区切りを考えていたので、ちょっと気になった。

1回目の7の倍から思い起こしてみた。

『温故知新=おんこちしん』

「古きをたずねて新しきを知る」

1959年の伊勢湾台風で流される前まで、我が家の鴨居にかかっていた額に書かれてあった文字。

下町にあった長屋の鴨居にしては、立派な書だった。

何故か、思い出している。


1947年7月25日、6人兄弟の末っ子として名古屋市で生まれる。

1★1954年(7歳)

習い事を始めるのに良い年齢だとされているが、私は幼少の頃より習い事をした経験がない。

2★1961年(14歳)

昔は、この歳で元服して大人の仲間入りをする。

私の時代は中学生の1〜2年で、まだ子供だ。

3★1968年(21歳)

20歳から21歳にかけて、ヨーロッパ&中近東を漫遊。

これは10年の区切りのつもりだったが、7の区切りでもあったのだ。

4★1975年(28歳)&5★1982年(35歳)

25歳から35歳までは、激動の青春だった。

就職・「リサイクルと手作りの店・人畜無害」開店・退社・独立「店舗設計のドゥーイング・スタジオ」

・結婚・「ライブハウス・コマンド」オープン・離婚・「イング・プロダクション」設立

・再婚・養子と、区切りになるイベントは多々あった。

つまらないプライベートを暴露してるが、何年の出来事がまったく覚えていない。

情けない。

これが「ウブドの無責任男」の下地となった前兆だろう。

6★1989年(42歳)

42歳の1990年から、バリ・ウブドで長期滞在に入る。

離婚&厄年もなんのその。

大きな決断をした年だった。

7★1996年(49歳)

「アパ?情報センター」の設立は1995年8月20日。

1997年は、インドネシア通貨危機。

1998年に、スハルト政権32年間の長期独裁に終止符が打たれた。

「ブンブン・カフェ」は、1998年から2006年までの8年間。

微妙にズレてるね。

8★2003年(56歳)&9★2010年(63歳)

クタでの爆弾テロは、2002年。

このあたりの年にも、記憶が無ない。

誰か教えて〜!

10★2017年(70歳)

各節目、何をしていたかまったく思い起こせないが、きっと重要な節目だったような気がする。

どちらにしても、あまり気にしていないということですね。

一年一年を、精一杯生きてるからね。

50歳&60歳と10年の区切りで、アグン山を登った。

今年は取りあえず、70歳のアグン山登頂を目指すことにした。

さて、これからどう生きようかが問題です。

77歳の喜寿には、何をしているかな。

どんな区切りが待っているか。

今から、楽しみだ。


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2017年01月14日

ベジ豆乳ソフトクリーム「M&A」(110)

毎日、必ず雨が降る。

今が雨季の真っただ中だと、思い知る。

雨が降るのを嫌がっているのではない。

裏庭の落ち葉焚きができないのが残念だが、むしろ、喜んでいる。

部屋に、雨音をともなった清々しい風が流れ込む。

これといった仕事もない私には、時間に縛られることもなく、雨が止むのをただ待つことができる。

雨が止んで顔を覗かせた太陽は、陽射しが強い。

こんな時には、アイスクリームだ。

取って付けたように、強引に話を持っていく。

前々から気になっていた、ベジ豆乳ソフトクリーム。


M&A2.jpg


ゴータマ通りのデヴィ・シータ寄りにある「 Ice Cream Shop @ M&A」。

狭い間口で、屋根裏のような2階のある店。

ジョクジャカルタのボロブドゥール近くで見た、小さな一戸建ての家に似ている。

こんな可愛い店がデザインしたかった。

私は純粋にバニラとチョコレートのミックス(Rp25,000-)を、ご賞味。

味良し、量多し。

トッピングの素材も各種。

次は、屋根裏のような2階でマッタリしようかな。

■営業時間:12.00〜22.00(年中無休)

■TEL:0878-6014-9205

■住所:ゴータマ通り







posted by ito-san at 00:42| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月09日

都会化するウブド地域(109)

居候先の近くに、中級ホテルがオープンする。

中級といっても、安い部屋で一泊2万円、高いと7万円と聞いている。

そんな現状を見て思うことがあった。

バリ島のホテルラッシュは、私の想像を越えた勢いで進んでいる。

ご多分に漏れず、私の住むテガランタン村も中級ホテルがオープンし、ヴィラも増加している。

ホテルは、アクセスが良いか、景色が素晴らしければ辺鄙な村にも建つ。

「もうこれ以上、ホテルはいらない!」と、ホテル開発に批判するツーリストの声も多い。

土地代、借地料が値上がり、貸店舗や住宅の家賃も高くなってきている。

バリ島中が、金銭的に潤ってきているのは確かだ。

そして、貧富の差も著しくなってきた。

「バリ島は今、バブルだ」と表現し、2〜3年後にはバブルは弾けるだろうと予想する知人がいる。

私には、そうは思えない。

日本のバブルは、意図的に操作されたもの。

世界的に人気の観光地であるバリは、需要と供給の関係で起こっている景気で、まだまだ上向きだ。

頭打ちになることはあるだろうが、弾けるということない。


ホテルは、開業するためにスタッフを募集する。

バリには、従業員募集に特有の条件がある。

それは、スタッフをホテルが建つ村から村人を雇用するという、強制的な義務。

テガランタン村ではの30パーセント、スバリ村ではなんと40パーセントを現地雇いするという契約だ。

10年ほど前、契約を守らなくて、村人に嫌がらせを受けた高級ホテルがあった。

近日中にオープンするホテルのスタッフが決まれば、テガランタン村のほとんどの若者が就職することになるという。

直線で2キロに満たない地域に、150家族、およそ800人ほどが生活している。

高卒年齢以上の若者が何人いるか、わからないが、今後は雇用難となるらしい。

スバリ村では、すでに40パーセントの現地雇用は無理な状況となっている。


私がウブド滞在を始めた1990年のテガランタン村の北端は、畦道だった。

ホテルはもちろん宿泊施設もレストランもなかった。

最初に知り合った日本語ガイドのワヤン・カルタ君が、テガランタン村の出身だった。

その後知り合った先住者の日本人女性が紹介してくれた男性も、テガランタン村の若者たちだった。

私が居酒屋をオープンしたいと相談すると、その中のひとりで学校関係に務めるオカちゃんという青年を「この人は、真面目だから」と推薦してくれた。

オカちゃんは、物件を探しから地主との交渉と奔走してくれた。

そんな経路で、プンゴセカン村に「居酒屋・影武者」を作る時の大工は、全員テガランタン村の人だった。

毎日、30分かけて歩いて通って来た。

電気が敷設されていない村。

テガランタン村には、自給自足で生活する専業農家が多かった。

オカちゃんのような公務員は少ない。

ウブドにレストランを経営する人、バティック工場を持っている人もいるにはいたが、村内に仕事の口はなく、ほとんどがプータロー。

オカちゃんの弟アグン・ライ君は、ナイトマーケットで屋台を経営していた。

もうひとり弟アノム君は「男子専科のミスター・バリ」に努めていた。

「居酒屋・影武者」のオープンには、カルタ君の妹とオカちゃんの妹を雇うことにした。

どちらも美人で、お客様からの評判はよかった。

工事現場の下働きをしたのが、ナイトマーケットが閉鎖になってからプータローだったコップリン君。

ギャンブル好きの青年だ。

粗末な飯場に寝泊まりし、私が現場をのぞくと、道路沿いの小川の水でバリ・コピを淹れてくれる。

あまり衛生的とは思えないが、好意を素直に受けた。

コップリン君はその後、「影武者」の厨房に入る。

サテを焼く仕事は、天職だった。

闘鶏に狂って退職。

今は、弟のグン・バラット君が継いでいる。

その後、プータローを長く続けたコップリン君は、今回、新しくオープンしたホテルに駐車係の就職が決まった。

真面目に仕事をしようとしている。

27年も経てば、コップリン君も大人になるだ。


テガランタン村の電気の敷設は、90年代初頭。

電話の普及は、携帯からひとっ飛びにインターネット。

ホテルの廃棄物は分別されて業者が引き取り、下水も完備されているという。

雇用環境が整ったエリアを都会と呼ぶとすれば、ウブドはすでに都会だ。

ウブドに隣接する村々にも、都会化の波が押し寄せて来ている。

テガランタン村もそのひとつだろう。

以前、若者に「将来の何になりたい?」と聞いたことがある。

その頃に彼らに、具体的に想像できる仕事がなかった。

今は、様々な事業があることを知り、専門学校も開設されている。

今後、バリ人が起業するビジネスが増えることだろう。

そうなって、生活水準は上昇する。

バリ島が裕福になっていくのは良いのだが、私のようなお金を持っていない者には住みにくくなっていく。


posted by ito-san at 22:51| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする