2017年04月14日

ハンディタイプのウォシュレット(126)

ウブドに滞在されたことのあるあなたに、お尋ねします。

ホテルやレストランのトイレで、便器近くの壁にノズルの付いたホースが掛かっているのを、目にしたことはありませんか。

これは、便座に腰を下ろしたまま、手に取ることができます。

ホースのノズルからは、通常、シャワーのように水が出て来ます。

さて、このホースは何に使うものでしょうか?

バリのトイレは、マンディ場として水浴びもできる構造になっていることが多い。

シャワーとして使ってもよいのでしょうが、水圧が強いのと、常にノズルに手をかけていないと水が止まってしまうので使いかっては悪いです。

もうお分かりですね。

handshower.jpg

そうです、ハンディタイプのウォシュレットだったんです。


その昔バリの便器は、日本同様の座り込みタイプだった。

トイレ内の片隅に水槽が設置されていて、水をヒシャクで掌にすくってお尻を洗っていた。

この頃、「どちらを向いて座ったらよいのか? 」とよく訊かれた。

右利きの人は右手にヒシャクを持って、左手で洗うだろう。

だから水槽は、出来れば右側に控えて欲しい。

左利きの人は、逆になる。

ダメダダメダ、バリでは、左利きの人も右手で持たなくては。

これはバリの信仰上のルールだ。

右手は清浄、左手は不浄として認識されている。

水槽の位置は、ところによって違っていた。

壁に向かって座るのか、壁を背にして座るのか、悩んだものだ。

座り込み便器の形状を見ると、壁を背にするようだ。

うまく水をかけることができず、お尻をベタベタに濡らした。

パンツは濡れたままだが、すぐに乾く。

私はOKだったが、濡れたままを嫌がる人も多かった。

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この頃のウブド、一般家庭でも水槽の姿は消え、ハンディタイプのウォシュレットが普及しはじめている。

便座に付いたウォシュレットは、高級ホテルと一部富裕層にしか普及していない。

なにげなく使っていたが、右利き専用なのか右側に設置されていることが多い。

先日友人から、今まで、疑問にも思わなかったことを訊かれた。

それは、ウォシュレットのハンドルの持ち方だった。

「シャワーのハンドルの持ち方に困っている知人がいる」と友人から聞いた。

目的のホールにあたらず、勢い良く後ろに飛ばして、便器まわりを水浸しにしてしまうらしい。

時には、下着をベタベタに濡らしてしまうこともあるという。

私は下着など濡れてもかまわないので、考えもしなかった。

ハンドルの持ち方で困っている人がいるのに驚いた。

ウブド滞在の達人と噂される私としては、検証する必要があるだろう。


さっそく検証してみた。

持ち方には、3種類の基本形ある(右利きの場合)。

持ち方基本形1
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持ち方基本形2
handshower2.jpg


持ち方基本形3
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指の添え方に違いがあるだろうが、たいていこの3つのパターンに当てはまるだろう。

さてあなたは、どの持ち方が正しいと思いますか?

?????????

これには、正解はありません。

得意不得意があって、人それぞれの方法でかまわない。

自分の使い易い方法を探そう。

他人がどんな方法で使っているか、気にしない。

こんな取るに足らないことで、悩まないでください。

ちなみに私は、基本形の2番目に、親指を添えた形です。

諸君の健闘を祈る。


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2017年04月11日

スグリオ川の増水 @ ワルン・ソパ(125)

Banjir @ Jl.Sugriwa.jpg


昨日は一日、晴天だった。

今日も、今のところ青空だ。


一昨日の9日は、曇天と哀しいほどの雨模様。

午後2時30分、居候先を出た時に、雨は降っていなかった。

ウブド中心部に向かって南下すると、すれ違うバイク乗りたちは全員雨合羽を着ていた。

この先は、雨なんだろう。

バイクを道端に止めて、雨合羽をかぶる。

マヌマン通りで大雨に見舞われた。

こんな集中豪雨をゲリラ豪雨と表現するらしい。
 
行き先を変更して、スグリオ通りに避けると十字路は洪水だった。

インドネシア語で、洪水のことは「Banjir=バンジール」と言う。

道路面より20センチほど増水している。

「ワルン・ソパ」に避難することにした。

週に2〜3度、WiFiを利用しているレストランだ。

バイクを止めると、入口には道路を見つめるスタッフが鈴生り。

雨合羽を着たまま、席を確保する。

リュックを椅子に置いて、入口に戻る。

目の前のスグリオ通りは、激流のスグリオ川と化していた。

時折、自動車が散水車のように水をまき散らして走り去る。

この風景は、以前からあったウブドの風物詩。

ソパの客は、すべて旅行者。

一応に、洪水風景をカメラにおさめていた。

彼らの国では、珍しい光景なんだろうな。

時は、午後3時少し前。

ジョーク好きなバリ人の知人が「これって、観光にできるかな?」なんて、私と同じ発想をしていたのに苦笑した。

夕方、家路につくと、タマン村スリウェダリ通りの豪華なペンジュールの一本が横になっていた。

この日は、ウブド各地でバンジール(洪水)とペンジュールの倒壊があったことだろう。


昔々。

と言っても27年ほど前のこと。

マヌマン通りで大雨に見舞われた時、ワンテラン(集会場の建物)に逃げ込み、雨宿りをした。

ヤシ殻の流れる風景をボ〜と見ながら、3〜4時間過ごしたことを思い出す。

数年後、同じワンテランで雨宿りをしていた。

雨宿りで一緒になった日本人女性ツーリストに「この雨、どのくらいで止みますかね?」と訊かれた。

天気予報官でもないのに、その時私は、「3時間もすれば止みますよ」と答えていた。

女性は「そうですか」と素直に頷いて雨宿りを再開した。

みんなノンビリしていた。


今夜は満月。

今のところ晴。

満天の星が見られるといいな。





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2017年04月01日

プンゴセカン村ビンギン大樹の倒壊(124)

3月28日、サコ暦の新年(1939年)・ニュピ(=NYEPI) は、つつがなく明けた。

ニュピは、1991年から25回ほど体験していいる。

その日1日、労働(アマティ・カルヤ)、通りへの外出(アマティ・ルルンガン)、火の使用(アマティ・グニ)、殺生(アマティ・ルラングアン)などが禁じられている。

火は、現代では電灯も含まれる。

この4つを守り、精神を集中させ、心を穏やかにし、世界の平和、最高神イダ・サンヒャン・ウィディに祈るのが、バリ人の信仰するヒンドゥーの慣習だ。

前夜は、村々でオゴホゴ神輿が繰り出す。

オゴホゴを見学するのも、25回ほどということになる。

昨年(2016)は、タバナンの山中の村で、トランスのあるオゴホゴ行列を見学した。

一昨年(2015)は、南米コロンビアに旅立つ前の日本一時帰国で、バリに居なかった。

その前の年(2014)は、テガランタン村のオゴホゴ行列に参列した。

その前の前の年(2013)は、プリアタン村を見学。

ウブドのオゴホゴを見学するのは、5年ぶりになる。

観光客も多いが、村の人口も増えているようで、凄い人出だ。

ポリウレタンや発泡スチロールなどの材料の入手が用意になり、造作が繊細になってきている。

着色は、スプレーで吹き付けているようだ。

オゴホゴの数も、年々増えている。

動画は、ウブドの十字路。

こんな神輿が何十体も、変則十字路で奇声をあげる。

熱気が伝わるでしょうか。




これより10日ほど前のこと。

知人から「プンゴセカン村の中心地にそびえ立っていたビンギンの大樹が、切られていたよ」と情報があった。

ウブドの南に位置するプンゴセカン村とは、縁が深い私。

切られた原因を探る義務がある(と思っている)。

さっそく出かけて行った。

遠くから見つけられるビンギンは、ランドマークの役目をしている。

大きな影を作る鬱蒼とした大樹は、威厳がある。

大樹に宿る精霊は、この地の人々の生活や時の移り変わりを見てきたに違いない。

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鬱蒼と茂っていたころのビンギン

現場に立ってビックリ。

畏敬の念を抱かせた大樹は、見るも無惨な骨骨の老木になっていた。

早朝に開かれ市に、日陰がないのは辛いだろう。

朝市は、村人のコンビニエンス・ストアー&井戸端会議の場。

大樹にサロン(腰布)を巻いているプマンク(僧侶)に「どうしたんですか?」と聞いてみた。

2月4日のTumpek Landopの日に、大きな音をともなって倒れたと言う。

樹齢1000年。

寿命だったのか?

排気ガスに負けたのか?

根っこをコンクリートで固められ、水分の補充が充分に行き届かなかったのか?

こうして悪いところを切っておけば、また、生き返るそうだ。

ビンギンの生命力に期待しよう。

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無惨な骨骨になってしまったビンギン

プンゴセカン村のビンギン大樹には、こんなエピソードがある。

昔々、プンゴセカン村に3人組の泥棒が入った。

村人に追い詰められた泥棒は、ビンギンに上り枝の茂みに身を隠した。

時間が経てば泥棒は観念して下りてくるだろうと、村人は、樹の下で待った。

しかし、1昼夜が過ぎ、2日3日と過ぎても泥棒は下りてこない。

結局、そのまま姿を現さなくなった。

村人たちは口々に、この樹に棲みついているハントゥー(妖怪)に喰われてしまったのだと噂する。

このハントゥーは、夜な夜な樹から下りてきては鶏を食べてしまうそうだ。

顔は狼、身体は猫、尻尾は長く、足は犬のようだが3本しかない、という奇怪な動物だそうだ。


さてさてそんなエピソードのあるビンギン大樹が、丸裸になってしまった。

ハントゥーはどうしてたんでしょうね。

枝が払われ、朽ちた幹がカットされて、慌ててどこかへ移住したのかな。

緑が豊富なったら、戻ってきて欲しいね。


※バリ島見聞録「ビンギン (Bingin)


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2017年03月22日

影武者スタッフ・クトゥット君の訃報 (123)

先週の日曜日(12日)から、この一週間、知人の訃報が続いた。

年を取ると知合いが増える。

そのどこかが、綻びる。

この日(19日)で、4人目。

「和食・影武者」のスタッフ・クトゥット君が逝った。

女将の由美さんから電話で知ることになる。

聞いたときは、唖然として、声もでなかった。

「どうして! どうして! どうして!」

心の中で叫んでいた。

近い将来、年取った私を実家に住まわせて面倒見てくれると言っていたではないか。


クトゥット君は、21年前に私が雇い入れたスタッフだ。

ウブドでホテル勤めをしているお兄さんが、頼みに来た。

お兄さんが、なぜ私を知っていたかは、記憶にない。

20歳だった彼は、生意気盛りの顔で私に接した。

私は、こんな態度の若者に共感を得る。

接客を担当したのだが、適任だった。

陽気な性格は、スタッフの牽引役になり。

店舗の造作にも気を配り、適切に指示をする。

手先が器用で、私が伝授したバナナの幹で作る紙も作れるようになった。

彼の実家近くで行われる合同火葬儀礼に、アパ?情報センターのツアーで参加した。

「帰りに、家に寄ってくれ」と誘われた。

そのときに賄われた料理が、参加した日本人全員の嗜好に合った。

もちろん私も満足した。

料理上手な奥さんのカルニーとクトゥット君を「ワルン・ビアビア」のオープニング・スカウトに誘ったことがある。

「私は、ここでお世話になっているので、止めるわけにはいかない」と義理堅いことを言う若者だった。

カルニーは働いてくれて、レシピーを作ってくれた。

レシピーは今でも受け継がれていると、現在のオーナーから聞いている。

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今年の7月で70歳になる私は、死の覚悟は出来ている。

今生に未練を残さない生活を心掛け、いつでも旅立てるように心構えはしている。

これからの一年一年は、神様からのおまけの人生だと思っている。

両親が他界した時、すでに社会人だった私の涙の源泉は、思い出だった。

他人の死の悲しみは、思い出の数だけある。

私の死で悲しむ者もいるだろうが、年齢で大往生だと納得してくれるだろう。


しかし、クトゥット君の場合は違う。

彼は、41歳と若い。

大往生とは違う。

働き盛りだ。

残された者の悲しみを計らなければいけない年齢だ。

若者の死の悲しみは、深い。

奥さんのカルニーも若い、2人の男児も幼い。

彼らの喪失感は、私には想像もできない。

お母さん、お兄さんも、さぞかし悔しかろう。

クトゥット君は、精神的な病を克服できなかった。

苦しみは、他人が計り知ることはできない。

辛かっただろう。

生死をさまよった数ヶ月で、くだした決断。

自分で命を断つことだった。

来世を選ぶほど、苦悩したのだ。

愛妻と二人の息子を残して、さぞかし心残りだろう。

私の人生で、はじめて経験する知人の死に様。

信じられない。

認めたくない。

バンジャールで火葬が出来ないため、火葬はその日のうちにヌサ・ドゥアにある葬儀場で行われた。

私は、列席しなかった。

頭も内臓も空っぽ、身体は重いのに足は地につかない、そんな状態で、大雨の中、バイクを走らせる気にならなかった。

実は、クトゥット君の死を受け入れられなくて、先送りいしたいのだ。

引き延ばしたところで、現実は変らないのに。


「影武者」での夕食後、クトゥット君は、何も言わずコピ・バリを出してくれる。

いつのまにか、他のスタッフも見習って恒例になっていた。

「あずき寒天、食べますか? アイスクリームは何をのせますか?」デザートを進めてくれる。

花粉症の鼻をズーグー鳴らしていると、トイレットペーパーのロールが一巻きテーブルに置かれる。

いつも気にかけてくれていた。

私は、いつまでも忘れない。

クトゥット君、もう苦しむことはないね。

安らかにお眠り。

posted by ito-san at 17:01| 愛知 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月18日

ワルン・ティンティン=Warung TINGTING(122)

ウブド西部・ペネスタナン村には、数多くのツーリストが長期滞在する。

特にビンタン・スーパーの裏手一体は、欧米人の住む特別エリア。

「ここはバリ?」と錯覚するほどの雰囲気を持った町並みだ。

そんな環境のせいか、オシャレな店が増えている。

「ワルン・ティンティン」も、そんな一軒。

ペネスタナン村の端、メイン道路を西にカーブすると人気カフェ「ベスパ」がある。

「ベスパ」の東側の村道を直進して、家並みが左右に残る石畳を進むと、道は100メートルほどで行き止まる。

右手は、プシンパナン・ウルンダヌー寺院(Pura Pesimpangan Ulundanu)。

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正面に見えるのが「ワルン・ティンティン」。


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一階のステンドグラスとピー玉のはめ込まれた階段が、印象的だった。


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2階席は、風が吹き抜けて心地よい。


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友人のミサトさんが描いたスケッチが置いてあった。


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手作りの万華鏡が、アンティックな雰囲気を醸し出していて気に入った。


ワルンの玄関横の建物で、グラインダーで何かを削る作業をしている男性を見つけた。

興味をひかれたので中を覗いた。

ステンドグラスを作っている工房だった。

20年前に、オーストラリア人から手解きを受けたらしい。

その頃に、ワルンのある場所で工房を持ったと言う。

男性は「ワルン・ティンティン」のオーナーだった。

どおりで、店内にステンドグラスが多いはずだ。

貧乏な家庭に生まれ、苦労をした話を聞く。

図面を持ってくれば、注文に応じてくれる。

ちなみに万華鏡は、Rp550,000-だそうです。


メニューが手頃な値段なのでお薦めです。

★メニュー:インドネシア料理

★食事:ミーゴレン&ガドガドRp20,000-/ナシチャンプール&ナシゴレンRp25,000-/etc

★飲物:紅茶Rp10,000〜/コーヒーRp15,000〜/ジュースRp15,000〜/ビンタン・ビール大Rp35,000-小Rp25,000-/etc

★営業時間:8.00am〜10.00pm(定休日・ニュピ&ガルンガン&クニンガンの祭礼日)

★Phone:(62 361) 975 954

★Email:Tingtingwarung@gmail.com





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2017年03月11日

アヤム・カンプン=Ayam kampung(121)

コーヒーは、かまどで沸かした湯を使っている。

薪は、使わなくなった流木の木っ端。

コーヒー一杯分のお湯を沸かすには、木っ端も少しでいい。

暑い昼下がり、いつものようにかまどの前に立つ。

何度も言うが、私は暑い日でも焚き火をするほど火を見るのが好きだ。

かまどの上に、真っ黒に煤けたヤカンをのせる。

インドネシア製100円ライターで、雑誌の数ページを握りつぶした紙に火をつける。

かまどの口に、火をもっていく。

からっぽのはずのかまどの中に、何かが入っている。

茶色い塊。

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恐る恐る覗いてみる。

何者かの目が、暗闇で動いた。

赤いトサカの鶏だ。

威嚇する目が、私を睨む。

具合のよいネグラなのだろう。

そうはいかない、私はお湯が沸かしたいのだ。

可哀想だが、出て行ってもらおう。

鶏に、火を近づける。

微動だもしない。

眼光が、いっそう鋭くなる。

図々しい奴だ。

いきなり飛びかかられては、怖い。

短い棒で、お腹を軽く突ついてみた。

いっこうに動く気配はない。

お腹の辺りを棒で少し、持ち上げてみた。

白い物が見えた。

もしかすると卵かもしれない。

親鳥が卵を温めているのか?

それなら、邪魔はできない。

この場所は、暖かく、そして安全なのだろう。

イブに聞くと「この鶏は、卵をとらせないために絶対に動かない」と言う。

ということは、卵がかえるまで、かまどから出て行かないということか。

お湯を沸かすのをあきらめるしかない。


セナ家では、放し飼いの鶏がけたたましい声をあげ、庭を走り回っている。

時には、テラスまで上って来て、糞をする。

追い払う、イブの大声が聞こえる。

親鶏5匹が、それぞれうしろに子供を8匹ほど従えている。

テリトリーをつくって、餌をついばんむ。

子供のすべてが成長すれば、庭中、鶏でいっぱいになる。

そうにはならないところをみると、適当なところで食べているのだろう。

庭で飼う鶏は、アヤム・カンプンと呼ばれ美味しい。

卵も栄養価が高い。

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卵は、何日でかえるのだろうか?

無知な私は、そんなことも知らない。

3週間ほどだと、イブは言う。

ネットで検索すると「抱卵を始めた日から21日目に自らの力で殻を割り、誕生を迎えます」とあった。

「えっ〜! その間ず〜とコーヒーが飲めないの!」

ここで、いくつもの疑問が浮かんだ。

鶏は、平均一日に一個の卵を産むと聞いている。

交尾しなくても卵を産む。

これを、無精卵と言うらしい。

セナ家では、オスとメスが同居していて自由に交尾をするので、有精卵かもしれない。

生み続けていては、抱卵する暇がない。

ネットで検索すると「ニワトリなどの鳥は、一斉抱卵の習性がありますので、ある程度卵を産んでから抱卵します」とある。

抱卵を始めたら、21日間は、卵を生まないというわけだ。

この期間、メス鶏の餌はどうしているのだろう。

この年になっても、知らないことのほうが断然多い。

日々、これ学習だね。


今月の初め、かまどが明け渡された。

モヒカン柄のひよこが8匹、母鶏の懐に隠れている。

ひよこにかえることはできなかった卵が、一つ。

一子から九子まで、9日間に渡って産み落とされたことになる。

抱卵の始まりは九子から、数えるのかな?

誕生日は、産卵日なのかひよこにかえった日か?

あとで検索してみよう。

みんな、食べられるまで元気に育てよ。

さて、久しぶりにお湯を沸かしてコーヒーでも淹れるか。



知らなかったウンチク:

本来は、生物学的な意味で「卵」、食材として「玉子」というように区別されるが、2014年現在では、生のものを「卵」、調理されたものを「玉子」という使い分けがされるようになってきているという。



posted by ito-san at 14:24| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

ジャマイカ料理の ”Jambali Cafe”(120)

ジャマイカと聞いて思い浮かぶのは、レゲエ(reggae)&ボブ・マーリー&ドレッドだ。

知識が貧困で、ゴメンナサイ。

一度は行ってみたいと思っていた、中米の国。

「南米コロンビアの旅」の途中に訪問したいと思っていたが、お金が足りなくて断念した。


なぜ、いきなりジャマイカの話か、と言うと。

先日の「 FOOD TRUCK PARK @ UBUD」で、ジャマイカ料理の店「Jambali Cafe」が出店していた。

この日は、すごい人出で試食することができなかった。

単純な私は、どんなものか知らないジャマイカ気分を味わいたくなった。

気になったら即実行。

2月25日に行って来ました。

場所は、ペネスタナン村。

ウブドからチャンプアン橋を越えて、すぐ左手の坂を上る。

上りきると道は、右にカーブする。

目的のレストランは、カーブから50メートルほどの左手にあった。

壁に描かれたジャマイカの国旗とボブ・マーリーの写真パネルが目印。

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ジャマイカ人と思われる女性が、迎えてくれた。

店名の上に書かれている "MICHELE'S" は、彼女の名前なのだろう。

レゲエ・レゲエした店を想像したが、店内は意外と落ちついたトーン。

私の思うレゲエ・レゲエした店とは。

視覚的には、赤・黄・緑のラスタカラー。

聴覚的には、ボブ・マーリーのBGM。

臭覚的には、マリファナ(大麻)の匂い。

最初(1990年5月)に数日滞在した、バリ南部の観光地クタでは、そんなイメージの店があった。

ウブドに長期滞在するようになって、バリのイメージは一変した。

これがバリの本来の姿だろう。

クタで見かけたツーリストのドレッドに「ここまで来て、どうしてドレッドなの?」と疑問を投げかけたことがある。

その時の恋人は「あなたがバリの正装するのと同じよ」と言っていた。

ちょっと違うような気がしたが、反論はしなかった。


貧困な知識を、ネットで補充してみた。

1960年代後半に、レゲエは誕生した。

1970年代には、ボブ・マーリーが登場しジャマイカ音楽の象徴となる。

1年ほどの世界節約旅行から帰国したばかりの私が、反戦歌に耳を傾けていた時期。

ラスタ・カラーは、黒、赤、緑、金色(黄色)の4色の組み合わせ。

赤、黄、緑とユダのライオンは運動のシンボル。

これはジャマイカ独立のために戦った黒人戦士の黒、戦いで流れた血の赤、ジャマイカの自然の緑、ジャマイカの国旗の金色(太陽の色)を表すらしい。


「Jambali Cafe」に、ラスタファリのシンボル旗はない。

この旗が、ジャマイカの国旗だと思っていた時期があった。

ラスタ・カラーも充満していない。

女将のコンセプトなのだろうか。

見晴らしのよい、2階に席をとった。

メニューにコーヒーがない。

ミネラルウォーターを頼んだ。

ジャマイカ料理を知らない私は、無難にベジタリアン・ココナッツ・カレーを食すことにした。

ベジタリアン・ココナッツ・カレーは、普通に美味しかった。

これでは、ジャマイカ料理の特徴はわからない。

よって、食に対するコメントは、いつものように無し。

期待したレゲエ・レゲエした店ではなかったが、意外と落ち着けたので、再訪もありかな。

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COCONUT CURRY 'ITAL STEW'(Rp50,000-)

Jambali3.jpg
JAMAICAN JERK CHICKEN DINNER(Rp85,000-)


★メニュー:ジャマイカ料理

★食事:メインディッシュRp85,000〜RP110,000-/ベジタリアンRp45,000〜Rp55,000-/etc

★飲物:ミネラルウォーターRp8,000-/ジンジャーレモネードRp25,000-/紅ビンタン・ビール小Rp30,000-/etc

★営業時間:5.00pm〜9.30pm(月曜日)/12.00am〜9.30pm(火曜日〜土曜日)/(定休日:日曜日)

★Phone:+62 81 246 588 938 ★Email:michelesjambali@yahoo.com

★Web:jambalicafe.com



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2017年02月27日

FOOD TRUCK PARK @ UBUD(119)

2月18日、サンギンガン通りのレストラン「インダス」横にて、食の祭典「FOOD TRUCK PARK」が開催された。

コーディネーターは、ウブド大通りにあるレストラン「CASA LUNA」と聞いている。

そう「インダス」は、カサルナの経営。

ライターズ・フェスティバルなど、手広く商売をしている欧米人女性がオーナー。

食べるものには興味がないが、覗いてみた。

私の目的は、イベントのタイトルにもなっているトラック(ワーゲン・バスetc)を改装した移動店舗を見ることだ。

「和食・影武者」で顔見知りになった日本人女性が「フード・トラックをやりたい」と言うのを聞いていたので、頼まれてもいない調査も兼ねている。

30年ほど前に、バニングカー&キャンピングカーを作る作業場を名古屋近郊の長久手町に持っていた。

そんなことから、改造車には思い入れがある。

改造した車やバイクをウブドで見かける。

インドネシアに車検の制度が、あるのかないのか?

きっと曖昧なのだろう。

会場には、数少なかったが、ユニークな改造車が目を楽しませてくれた。

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地価高騰で店舗の賃貸料も上がってるバリ。

こういった移動店舗のビジネスが増えていくことは考えられる。

空地を利用した軒下商売は、行商と同様にバリ人(インドネシア人)の得意とするところ。

イベントの開催も急増しているので、今後の需要が見込めるだろう。

インドネシア人には、ビジネス・チャンスだ。

VISA(入国査証)の必要な外国人は、簡単には手が出せない。

顔見知りになった日本人女性にも、伝えた。

移動店舗といえども、働くとなるとビジネス・ビザが必要。

そうなるば、会社を立ち上げなければならない。

それは、お金と時間がかかるというわけだ。

でも、彼女はやる気でいる。

もちろん私は、応援する。


今回の「FOOD TRUCK PARK」には、ウブドを中心にバリ南部の有名店が出店していた。

すべて、独立店舗を持っている有名店だった。

ちなみに有名どころは:

uma ubud by como=ウマ ウブド

la pancha mama=ラ パンチャ ママ

honeymoon bakery=ハネムーン ベーカリー

dounuts during=ドーナッツ ダーリン

secret gelato=シークレット ジェラート

seniman coffee=スニマン・カフェ

などなど。

ワイン屋も出てたね。

コーディネーターの力量を感じるイベントでした。

押し寄せるお客は、バリ人、インドネシア人、長期滞在の外国人、ツーリストと様々。

ライブ・ミュージック有りで、午後3時〜11時まで、盛り上がったいた。





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2017年02月19日

ワインに詳しくない人間は、教養がない(118)

教養とはなんだろう。

ある本を読んで、こんなことを考えさせられた。

ある本とは「食がわかれば世界経済わかる」。

2008年の出版。

早稲田大学の教授が書いている。

全般的には、興味が惹かれる内容で、楽しく読ませて頂いた。

だが、ある部分でひっかかった。

それは、こんな内容だった。


『フランス人はシラク大統領の発言でわかるように、料理やワインについて教養のない人を軽く見るところがあります。

(これは前文にある「食い物のまずい国の人間は信用できない」の発言に由来している)

私もフランス人の友達が来たときは、お金をはたいて、できるだけ高いフランスワインを買ってきて飲ませることにしています。

ボルドーワインで最も高級と言われるシャトー・ペトリュスの古いビンテージものなどを飲ませたりすると、彼らに対しては歴然とした効果があるのです。

欧州復興開発銀行総裁のルミエールという、かつて私が財務官時代にフランス大蔵省次官だった友人がいますが、彼などもフランスの古いワインを出すと大変に喜びます。

食やワインに関する知識は何世紀も前から、ヨーロッパの貴族や王族の教養の一つになっています。

「食」というのは文化の中心ですから、「食」が貧しいということは文化が貧しいということになってしまいます。

シラク大統領ではありませんが、「イギリスだ、アメリカだと威張っているけれども、文化は貧しいではないか」と、いうことになるわけです。

特にフランス人はそうですが、ヨーロッパの人はこちらがワインや料理のことを知っていると、「こいつは教養がある」と思うようです。

食の話というのは向こうの人にとって、基本的教養の一つなのです。

従ってそれは外交上も重要で、外務省が機密費で高価なワインを買うのが良いことかどうかという問題はありますが、現実のはある程度必要なことなのでしょう。』

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ワインショップ@ウブド


こんな考え方の人がいるんですね。

驚きました。

食が文化だということは、私にもわかる。

しかし、その知識があるから教養があるとは、言い切れないのではないだろうか。

貧しい貧しくないは別として、ハンバーグもフライドチキンも文化のひとつと言える。

文化が貧しいと、教養がないのか?

料理&ワインのことが詳しくなくて、他人から「教養のない奴だ」と思われるとは考えられない。

私は料理にもワインにも興味がない。

「料理が出来ない人間はダメな奴」と言われたことがあるが、私だって味の良し悪しは別として、必要に迫られれば作る。

料理が苦手の母親が、教養のある子供を育てている。

ワインに詳しくなくても、社会人として尊敬を得ているし、教養も兼ね備えている人もいる。

榊原氏の住む環境が特殊なのか、私のような庶民には、当てはまらない話だ。

どこまでの知識を持っていれば、教養ある人なのか。

そんな物差しがあるとは思えないし。


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ワインショップ@ウブド


ワイン生産者と飲む消費者。

どこまで詳しい人をワイン通というのか?

ワインを飲まない人は、教養がない人なのか。

食については、料理する人、食べる人。

グルメ(食通)と言われる ”食い道楽” は、本当に舌がこえているのか。

私に言わせれば、ただの物知りなオタクだ。

嗜好関しては、好き嫌いに個人差があってもいい。

極論がもしれないが、のどがカラカラなら水も美味しい。

お腹がペコペコなら、何を食べても美味しい。

まさか、生産者や料理人は教養人じゃないということはないでしょう。

ワインはブドウから作るらしいから、生産者は農家だ。

野菜育てに奮闘している私は、消費者の知識より農業生産者の知識に軍配をあげる。

知識の量で人を評価してはいけないので、軍配も上げない方がいいな。

どちらにしても、富裕層を自認している人々の発想だろう。


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スーパーマーケット内のワインショップ


友人のひとりに、ワイン好きの男性がいる。

興味のない私には判断できないが、かなり詳しいとお見受けする。

その彼は、自慢するでもなく少し恥ずかしそうに蘊蓄を披露してくれる。

楽しく説明を聞くことができるのは、彼の人格の成せる技だ。

あくまでも自分の趣味として、他人に押し付けることなく楽しんでいる。

そんな物知りが近くに住んでいることが、嬉しい。

洋酒、日本酒に詳しい友人もいる。

彼らは、単なる物知りな人で、

ワインのことを知っていると、教養のある人になる。

それでいいのか。


教養は、人格を育てるひとつの要素=知識(データ)である。

手元にある辞書には、『社会人として必要な広い文化的知識、または、それによって養われる品位』とあった。

データは、他人に関心を持たせることはできても、人の役にたつことは少ない。

ワインの能書きを知らなくても生きていける。

知らないひとの方が多いと思う。

そんな人々をすべて教養のない奴と言い切ってよいのか。

そう言い切ってしまう人間のほうに、私は教養を感じない。

もうひとつ辞書には、『単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化、発展させるために学び養われる学問や芸術など』と書かれていた。

ワインに芸術的という表現を使うことがあったとしても、学問や芸術の分野のひとつとは思えない。

「重箱の隅を突つく」ような行為で気が引けるが、ちょっと気になる発言だったので、考えてみた。


posted by ito-san at 23:23| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月13日

イエ・プル=YEH PULUのレリーフ(117)

ウブドの東6キロほどのところに、「イエ・プル=YEH PULU」と呼ばれる遺跡がある。

場所は、ペジェン郡ブトゥルゥ(Bedulu)村。

ペジェンは、バリの王国(ワルマデワ)があった地域。

ワルマデワ王国は、ジャワのマジャパイト系王国に支配される14世紀まで400年間ほど続いた。

イエ・プルの遺跡は、14世紀の後半に彫られたレリーフ。

ペジェンに王国があった時代に残された、彫刻だと言われている。

高さ約3メートル、幅およそ25メートルの帯状の岸壁に彫られている。

マジャパイトの末裔が移り住み、都をバリ東部に移すと、ワルマデワ王国は忘れ去られた。

王国は痕跡も残さず姿を消し、多くの遺跡が埋もれてしまった。

イエ・プルは、水を意味する ”YEH” と容器を意味する ”PULU” からなっている。

「石の器から湧き出る聖水の泉」から付いた名称だろう。


「ウブッド十字路の番人〜バリ島今昔譚〜・霧の探訪者」の巻末に、レモンイエローのページがある。

マディ・クルトナゴロ 著・武内邦愛 訳。

ここに「トーキング・ストーンーイエ・プル」の話が載っている。

記憶が薄くなっているので再確認のため、20年ぶりに訪れることにした。

雨季の晴れ間を狙って、行ってみた。

ウブドからだと「ゴア・ガジャ」の遺跡を通り越してしばらく進むと、ギャニアールとペジェンを結ぶ幹線道路の十字路に出る。

真っすぐ進めば「サムアン・ティガ寺院」。

十字路を右折する。

500メートルほど進むと、左に大きくカーブする道路が交差する十字路がある。

ウブドの王宮のある変則十字路から、ここまで4キロほど。

バイクで、20分(渋滞に引っ掛からずに)。

イエ・プルへは、真っすぐ。

ここからは、ブトゥルゥ・ Batulumbang村。

さらに10分ほど走る。

イエ・プルの小さな看板を左折すると、道は行き止まり、料金場が見える。

バイクを止め、入場料を払って、階段を下りる。

■入場料:Rp15,000(大人)/Rp7,500(子供)

■駐車料金:Rp5,000(車)/Rp2,000(バイク)

■営業時間:10.00am〜6.00pm


バンガローに続くエントランスのような細道を、水田を左手に見ながら進む。

沐浴場を通り越し、樹々に囲まれた細道を、さらに進む。

清潔なトイレも設置されていた。

細道に寄り添うように流れる川のある、絶好の散歩道。

記憶には、この風景が残っていない。

あの頃、普通にあった景色なので、覚えていないのだろうか。

ウブドで見かけることの少なくなった、貴重な風景に感動している。

木々の林を抜け、目の前に水田が広がると、すぐそこはイエ・プル遺跡だ。

10分ほど歩いて、レリーフの入口に到着した。

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純朴な男

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トゥアック売りと美女

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老婆

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司祭とその娘と婿

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小太りの少年

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騎手

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戦い

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さらなる戦い

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カエルとヘビ

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ガネーシャ

レリーフの解説は「ウブッド十字路の番人〜バリ島今昔譚〜・霧の探訪者」を読んでください。


ガネーシャの奥の岸壁は、修行僧が瞑想したと思われる洞穴だ。

洞穴の正面に、イエ・プルの由来である、石の器から湧き出る聖水の泉がある。

不思議なことに、この場所は記憶に残っている。

以前は、池から顔を覗かせた直系40センチほどの円筒から、清水が湧き溢れていた。

今は、湧き水が少なくなったのか、池に水は満たされていない。

水は、脇から出ているパイプから流れている。

あの時は、女性のプマンク(僧侶)から聖水を頂いた。

今日は、寺守の老婆から花をもらい、お祈りをさせてもらった。

老婆に許しを得て、洞穴に腰をおろしてみた。

いにしえの修行僧の気持ちにはなれなかったが、気持ちがいい場所だった。



posted by ito-san at 18:50| 愛知 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする