2020年01月29日

懺悔の回顧録・アクション大須(340)

2人の思い出が、少ない。

愛していたはずなのに。

断片的な記憶を記してみた。

彼女の父親は、北海道の炭鉱に勤めていた。

閉山によって家族は、神奈川県に移住した。

そうした家庭の事情から、彼女は東京の高校に通うようになった。

結婚してから、神奈川県の実家に泊りがけで行ったことがある。

掛け布団の上にどてらをかけてくれたのを思い出す。

どてらを寝具として使うのを初めて知った。

札幌市手稲区の親戚を訪れたこともある。

一緒にスキーをした。

小・中学校を竹スキーで通った彼女は、スキーが上手かった。

東京の高校の同級生を訪ねた時は、青山の高級マンションに泊めてもらった。

思い出すのは、このくらい。

彼女は、私に寄り添うように存在していたのだろう。


今回も、私の回顧録のようになってしまっている。

とりあえず、読んでください。

あちこちのイベントに駆け巡っている時期に、新聞の地方版にこんな話が話題になっていた。

1970年代後半、栄や名古屋駅前の開発が進んだ事により衰退していく大須商店街に、客を呼び戻すためにの企画だ。

その賑わいを復活させたい、と持ち上がったイベント。

我々も、各地域でイベントの成功している。

どんな企画が行われているか、スケベ根性で覗いた。

顔を出したののが運の尽き。

企画は、まったく進んでいなかった。

「第二のふるさと創造」をテーマに掲げたこのイベントは、某大学教授が中心になって動いていた。

彼から「手伝ってくれない」と頼まれた。

アドバイスするうち、話は我々が参加することになっていた。

「できることはします」と協力の意思を伝えた。


そのイベントは、1975年(昭和50年)6月28日『人間のまつり、アクション大須』として開催された。

その後、「大須大道町人祭」と命名され、毎年10月中旬に開催されているようだ。

第1回は、1978年(昭和53年)の開催。

以上は、ウィキペディアに記載されていた。

アレヨアレヨといううちに、当日とになった。

私は大須観音の境内を中心に、イベントを打った。

と言っても、予算のないイベント。

私は友人・知人を動員した。

境内の一角で、コカコーラ協賛のドリンク・コーナーとトマトぶつけなどのコーナー。

メインは、鐘つき堂をステージにしたロックのライブ。

準備に忙しい私は、各会場を駆け巡る。

境内には、地面が見えないほどの人々で溢れかえっている。

フリーマケットの段取りは何度もしているが、音楽イベントは初めて。

不慣れな私は、かなり動揺している。

裾が裂けてしまったジョーパンのままで鐘つき堂に立ち、祭りの開催を告げた。

有名なファッション・デザイナーの訪問も告げさせられた。

ロックのライブは、名工大の現役学生が仕切ってくれたて助かった。

電源は落ちる、派出所からは音がウルサイとクレームがくる。

人ごみの中で、ロック・ライブをBGMに手づくり仲間による、おいらん道中が始まった。

予算の出ない手弁当のおいらん道中は、ただの道行きパフォーマンス。

しかし、前衛アーチストでもある手づくり仲間のパフォーマンスは、盛り上がっていた。

おいらん道中に、先妻が主役として出演した。

高校時代に演劇部員だった彼女は、舞台度胸があり、出演依頼はきっと即答したことだろう。

背が高くて、胸はないけどスタイルのよかった彼女は、学校では男役が多かったと聞く。

おいらん役の彼女は、着物がずり落ちて貧乳が露出したとのこと。

筋金入りの貧乳で、当時テレビ放映していたペチャパイ・コンテストに出れば入賞間違いないほど。

そんなことを楽しいそうに話してくれた。

私はステージに付きっ切りのため、見学することはできなかった。

名工大の学生さんには、お礼を伝えることなく、その後、再会も果たしていない。


イベントは満足のいくものではなかったが、魅力的な褒美が降って湧いてきた。

地元大須に事務所を持つ篤志家から、自社ビルの地下を無料で提供してくれるという申し出があった。

若者たちに、チャンスを与える、太っ腹お社長だ。

近くには、演劇場の「七ツ寺共同スタジオ」と「バー・自由都市」がある。

地下は戦時中、防空壕として使われていたと教えてくれた。

積み上げられていた木材は、持ち上げると崩れた。

ゴミは、中型トラックに2台分あった。

掃除していくうちにタイルが合われれ、そこがかつての「カフェ」だったことが偲ばれた。

数人の友人を仲間に誘い込んで、店を作った。

外人部隊のような仲間で作り上げた店だから、店名を「コマンド」とした。

クリエーターの集まるバーにしたかった。

いつのまにか、ライブハウス「コマンド」になっていた。


続く・

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2020年01月22日

懺悔の回顧録・人畜無害(339)

今年に入って睡眠不足が続いている。

元妻との生活を断片的に思い出しては、その前後を構築しようとモガク夜。

まったく記憶が蘇ってこないことが多い。

薄情なものだ。

どうしても、話が私中心になってしまって申し訳ない。


彼女と知り合うちょっと前、会社勤めをしながら民家を改装した雑貨屋をオープンした。

郡道と呼ばれていたる街道にある、二階建ての一軒家。

愛知郡だったころの昭和時代の家並みや面影が残る道。

ネットで調べる前は、軍道だと思い込んでいた。

近く軍事工場があったという噂からの連想だった。

高度成長を成し遂げたばかりの活気の中で「大阪万博」が開催された1970年(3月15日から9月13日までの183日間)のこと。

1年間の海外放浪で持ち帰った物を、現金化したいと思いついて始めた。

大型ゴミを回収しアートとしてリサイクルした商品と、針金を曲げて作ったアクセサリー。

アメリカン衣料で購入したジーパンも売ったな。

屋号を「人畜無害」とした。

世間様に迷惑をかけないという、意気込みだ。

同じ頃、東京では「文化屋雑貨店」が開店している。

似たアイデアを持つ人間がいるものだと、その時に感じた。

名古屋駅前にある名鉄メルサがヤング館(現在のセブン館)をオープンしたのが、1972年。

オープンイベントで、針金細工で出店させてもらった。

手作りコーナーは人気で、たくさんの人が押しかけた。

商品が追いつかなかいほどだ。

閉店後、家に帰っては作った。

それでも追いつかないので、店頭でも作った。

懐かしい思い出だ。

名古屋でフリーマーケットが盛んに催されるようになったのも、この頃からだ。

もちろん「人畜無害」は、フリーマーケットの常連だ。


こうやって紐解いていかないと、彼女のことも思い出すことができない。

彼女は勤めを辞めて「人畜無害」を手伝ってくれることになった。

「こんな店がやりたかった!」と言ってくれた。

手先が器用で、アクセサリー小物を作り始めた。

人当たりが良く、お客とはすぐに打ち解け、常連客が増えた。

生き生きとして店番をしていた。

私は、仕事の途中で「人畜無害」に立ち寄った。

一悶着あった下請け業社の社長から「入り浸っている」と我が社の社長に密告があり、私は会社を辞めた。

フリーの店舗デザイナーになった。


これを機会に、私たちは結婚した。

19歳で結婚したいというのが彼女の夢。

私に依存はない。

現実には、20歳になっていたと思う。

貧乏な私に、結婚式ができる予算はない。

母親が「お金がないのなら、家で両家の顔見せだけでもいいのでは」と言ってくれた。

顔合わせは、私が暮らす市営住宅の一室で行われた。

彼女の家族は、両親と兄たちがが、遠路から訪れてくれた。

近くに住む兄は、私たちの結婚を最後まで望んでいなかったそうだ。

皆んなに可愛がられていた末っ子の娘だということが、伝わってくる。

母親が切り盛りした、質素だが心の暖まる「顔見せ」は、滞りなく終わった。


「人畜無害」は業績があがらず、店を任せて欲しいという知人に経営を託した。

知人に任せた「人畜無害」とは別に、友人の珈琲店の2階に「人畜無害」を開店した。

こちらも、暇だった。

旧「人畜無害」は、「元祖・人畜無害」と名打っていた。

彼女は時間を持て余し、仕事を探した。

身長167センチの彼女ならファッションモデルに最適と、友人のモデル事務所に紹介した。

名古屋でファッションショーの仕事はないのか、お呼びはかからなかった。

チラシや新聞広告のモデルには長身すぎたのか、こちらの仕事も少なかった。

スナックに勤めたこともある。

あまり酔客の接待には向いていなかったようだ。

思い出しながら、私は何度も懺悔している。


続く・

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2020年01月12日

懺悔の回顧録・一目惚れ(338)

彼女との一番の思い出は、出会いだ。

社会人(24才)となって初めて勤めた会社は、空間設計の事務所だった。

その会社には、3年間勤めた。

宮仕えは、これが最初で最後の経験。

この日、愛車Nコロ(ホンダの軽自動車・N360)が故障して、会社へは市バスで出勤した。

朝のラッシュのバスに乗るのは、初めてだ。

一日の疲れた身体を引きずっての帰宅もバス。

起点駅からビジネスマンやビジネスウーマンで、ギュウギュウ詰めになった。

車内は、人いきれで息苦しい。

私の下車駅は終点のふたつ手前で、1時間ほどかかる。

車窓からは、夜の闇しか見られない。

吊り革につかまり、居眠りするために目を閉じた。

風を感じて目を開けた。

行程の中間地点の駅で、乗客の半数ほどが降りたようだ。


吊り革に身体を預けている、ひとりの女性に魅せられた。

背の高いスリムな姿にパンタロンが似合っていた。

そこだけに、スポットが当たったようにクローズアップされている。

愛車が故障して、仕方なく乗ったバスに乗り合わせた女性に、運命の巡り合わせを感じた。


乗降口の近くのひとり席に、彼女は腰を下ろした。

彼女の全身が見えなくなったのは、残念だ。

乗客がまばらになった車内で、私は、どう声をきっかけを作ろうか悩んでいる。

彼女は仕事をしている女性に見える。

きっと、通勤にこのバスを使っているのだろう。

彼女に会うために、この時間帯のバスに乗ればきっかけはできる。

しかし、私は明日からNコロ出社だ。

このチャンスを逃してはいけない。

私の高揚感を今、伝えたい。


空席が目立つのに立っているのは不自然だと、私は最後部の座席に腰をおろした。

ここからなら、彼女の姿が見える。

終点に近づくにつれて、乗客は減っていく。

彼女に、降りる気配はない。

私は、次の駅で降りなくてはならない。

バスが止まり、自動ドアーが開いた。

彼女は降りない。

私も降りなかった。

次の駅でも、彼女は降りなかった。

この次は、終着駅だ。

彼女が降りた。

私は、そのあとに続いて降りた。

今のご時世なら、ストーカーと言われてしまうような行動だ。

そんな常識には、かまっていられない。

私は、彼女の背中を見ながら、どう声を掛けたものか悩んでいる。

家路を急いで、乗客2〜3人が追い越していった。

彼女は、私のことをまったく気に掛けず、前を歩いている。

こんな暗闇で後ろから声を掛ければ、彼女はきっと、怖がって逃げてしまうだろう。

あきらめよう、という心とは裏腹に、私は声を掛けていた。

「あの〜、すみませんが、お茶でも飲みませんか?」

彼女は、ビックリした顔で振り返り、私を覗くようにして見た。

しばらくの間をおいて、彼女の口から「いいですよ」の幸運な言葉が返ってきた。

2人は、バス停近くに1軒しかない小さな喫茶店に入った。

北海道出身だということ。

東京の高校を卒業したこと。

名古屋の有名ブティックに就職したこと。

最終のバスがなくなるまで話をした。

喫茶店の閉店を告げられ、支払いをしようと財布を開いた。

恥ずかしい話だが、財布にはお金が入っていなかった。

「ごめんなさい。お金持っていないので、おごってくれる」

なんて、ず〜ず〜しい奴だと、彼女は思っただろう。

このあと、連絡先を聞いて、私は2駅を歩いて家に帰った。

この機の逃してはというあせる気持ちが、私をこんな恥も外聞もない行動にさせたのだろう。

これは一目惚れ。

彼女が18才の春だった。


続く・


posted by ito-san at 23:29| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月07日

懺悔の回顧録・プロローグ(337)

明けまして、おめでとうございます。

今年も拙い文章のブログを、お付き合い願えることを希望しています。

7月25日には、また一つ歳を重ねる。

昨年は、干支が6回巡った72歳を過ごした。

70歳を迎えたあたりから、孤独を感じ始めるようになった。

新年から愚痴って申し訳ない。

大きな要因は、先妻の訃報だったかもしれない。

2年前「日本食・影武者」に電話が入った。

「かあさんが、一週間前に死んだよ!」

息子からの一声に、身体が震えた。

一人息子が東京に就職していて、独り住まいだったと言う。

7日間も誰にも気づかれずにいたことの残酷さ。

他人事だと思っていた孤独死が、身内に起きたことに大きなショックを受ける。

何もしてやれなかった不甲斐ない自分に、腹が立った。

今の私に北海道は経済的に遠く、駆けつけることもできない。

二重、三重と申し訳なさがつのる。


私が25歳の時に結婚した彼女だ。

5歳年下の20歳だった。

18歳の彼女と知り合い、結婚生活は5年間。

身重の体で、離婚届を残して私の前から姿を消した。

彼女が別れたがっているなんて、まったく気がつかなかった。

だから、離婚の理由もわからない。

鈍感なんだな。

すぐに帰ってくるだろうと、単純に考えていた。

多忙を理由に、迎えに行く機会を逃してしまった。

25歳から30歳までの私は、己の前しか見ずに突き進んでいた気がする。

こんなことは理由にならないな。

単なる利己主義なだけの奴だった。

ある小説の中にあったセリフが、身にしみる。

「あなたにはまだ実感はないだろうけど、人に会えるのはね、生きている間だ」

逝った人は戻らない。

痛恨の後悔だ。

もう二度と会えないという思いは、いくら理屈でわかっていても、やるせない。

最善の方法は、時が戻って、すべてが元通りなることだ。

そんなことは、天地がひっくり返ってもありえない。

聞きたいことはイッパイあった。

伝えたいこともイッパイある。

あれこれ考えるだけで、切なさが込み上げてくる。

空白の時は、もう埋めれない。

心残り。

年頭に当たって、恋人になってくれた過去の全ての女性に、不誠実を悔恨したい。

現在、楽しい人生を送っている彼女たちの過去は語れない。

回顧録として、永眠した妻の思い出を書き残しておこうと思っている。

次回からしばらく「懺悔の回顧録」が続きます。

重いブログになると想像できる。

そんな話は読みたくないという方は、無視してください。


続く・


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2019年12月28日

愛猫チビタとのお別れ(336)

この頃、チビタの姿が見えない。

気になってはいるのだが、パチュンの家族に聞く勇気がない。

チビタは、私の愛猫の名前。

「ブンブン・カフェ」の時代からの付き合いだ。

ブンブン・カフェは、1998年から2006年までの8年間、ARMA正面玄関西隣にあった雑貨&カフェ。

ミクシイ(古っ!)とブログを回顧して、年月を確認してみた。

2006年8月、子猫が一匹、交通量の多い道路をヨチヨチと渡ってくる。

脇目もふらずに、一直線で店に入ってきた。

近づくと、足元にまとわりついた。

生後一ヶ月ほどか、目が開いたばかりのメス猫は、人懐っこかった。

一匹だけ捨てられたとは思えないので、迷い子とも考えられる。

飼い主か母猫が、捜しているかもしれない。

あたりを見回してみる。

道を渡って捜してみたが、それらしい姿は見えない。

母猫が捜しにくるかもしれないので、ブンブン・カフェの裏にある作業場に寝床を用意した。

チビタは、ブンブン・カフェの来店者の魂を掴んで人気者になった。

幸いというか、生憎というか、母猫も飼い主と思われる人物も現れない。

その後、私がトゥブサヨ村に引っ越すのを機会に同居することになる。

トゥブサヨ村滞在は、約5年間。

テガランタン村のグスティ・パチュン家に移り住んだのは、2013年から。

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2014年、私は25年ぶりの日本一時帰国を果たした。

帰国期間の2ヶ月は、パチュンの家族が面倒をみてくれた。

コロンビア移住計画で、パチュン家を引き払うことになった。

2015年02月に、後釜の住人に知人を紹介して旅発った。

チビタの世話は、知人が引き受けてくれた。

5月には、日本トランジット帰国の2ヶ月を経てコロンビアに向かった。

結果6ヶ月で帰って来てしまうのだが。

友人、知人には「帰ってくると思った!」と言われた。

その話は「南米コロンビアの旅」で、お楽しみください。

夢破れ、ウブドに戻って来たがパチュン家には知人が居る。

チビタの世話は、知人に続投してもらうことにした。

S田さんの借家を間借りしながら、テガランタン村を中心に、安下宿捜し。

古くからの知人・セナ家が、低価格で部屋を用意してくれた。

2016年から、セナ家に厄介になる。

チビタの様子を見に、たびたびパチュン家を訪れる。

私を覚えているようで、体をぶつけて甘えてくる。

2017年に知人がパチュン家を出たが、リフォームする必要があるからと借りられなかった。

知人がいなくなってから、チビタは年々、薄汚れて精彩がなくなっていく。

生い先が短いことを告げているように感じる。

早く移り住んで、チビタの面倒をみたい。

しかし私は、2020年4月から中部ジャワのボロブドゥール移住を考えている。

10月の1ヶ月のボロブドゥール滞在を期に、セナ家を出た。


2019年11月から、再びパチュン家に戻る。

チビタは、私の部屋には入って来ようとしない。

出会ってから、すでに13年を過ぎていた。

猫の年齢を斉藤式で計算すると、チビタは82歳の高齢だった。

1週間前、テラスの階段前で見かけてから姿を見ていない。

人前に姿を見せず、死期を迎える猫がいると聞いている。

真偽のほどは定かじゃないが、私はそう信じている。

テラスの前をうろうろしていたのは、別れの挨拶に来ていたのだろうか。

13年間、癒してくれてありがとう。

安らかにお休み。

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2013年04月12日:■愛猫「ちびた」(13)
http://itosan-ubud.seesaa.net/article/355051506.html
2013年08月09日:■愛猫ちびた&レーシー(47)
http://itosan-ubud.seesaa.net/article/371566565.html
2014年12月25日:■愛猫 “ちびた” のその後(90)
http://itosan-ubud.seesaa.net/article/411268980.html

■猫の年齢の換算法=斉藤式
生後12ヶ月を人間の20歳とみなし、1〜5歳を成人期とし、猫の年齢に6をかけ15を足した値を人間の歳とみなす。たとえば、猫2歳は、2×6+15=27。
6〜10は、中高年期で、換算式は、猫の年齢×5+20。
11〜15は、高齢期で、猫の年齢×4+30。
16歳以上が老齢期、猫の年齢×3+45。


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2019年12月23日

ピアスの穴あけは、通過儀礼(335)

世界には、様々な奇習がある。

グーグルで調べてみると。

★素手でサメを捕獲する(パプワ・ニューギニア)

★ライオンを狩る(マサイ族)

★木のツルで足首を縛り、30メートルの高さからジャンプする(バヌアツ共和国)

★体に牛糞を塗りたくり、牛の背中を渡り歩く(エチオピア)

★毒アリがたくさん入った手袋に手を突っ込む(サテレ・マウェ族)

かなり強烈で野蛮な奇習があげられていた。

これらは、成人としての通過儀礼だ。

調べてみて、慣習を残すのも重要だが、生死を伴う奇習は考えたほうが良いと思った。


インドネシアにも、奇習といえる成人の通過儀礼がある。

先住民族の刺青の習慣。

ニアス島の、2メートル程もある岩の跳び箱を飛び超える儀礼。

勇気を試される風習だ。

インドネシアは多宗教とは言え、イスラム色の強い国。

トルコ旅行の際に、イスラム教の男児割礼に立ち会ったことがある。

意外と、男児のアッケラカンとした態度に驚いたのを思い出す。

女子割礼があるとすれば、それは悪弊かもしれない。

割礼の意義について詳しく知らない私が、発言をすることは控えよう。

これ以外にも、島々や民族によって珍しい風俗習慣が残っていることだろう。


バリ島にも、珍しい風習が残っている。

数々のカルチャーショックを受けた。

風葬や闘鶏も珍しいが、削歯儀礼は衝撃的だった。

マレーシア・マラッカを訪れた時、博物館に立ち寄った時に、世界の7奇習のひとつと知った。

削歯儀礼は、前歯の上6本をヤスリで削って平らにする儀礼。

バリ人の信仰する宗教・ヒンドゥーダルモに、五つの教義(パンチョ・ヤドニョ)がある。

その一つのソ・ヤドニョ(五つの教義)が人間の儀礼で、生誕から火葬までの通過儀礼を行う。

削歯儀礼は成人としての通過儀礼で、火葬に付すまでに済ませねばならない。


ピアスの習慣もショックだった。

我が伊藤家では、親から授かった身体に傷をつけることは法度だった。

親に背くのは、不良のすることと心得ていた。

刺青はもちろんのこと、ピアスも駄目でしょう。

以外と常識的な考えをする男だったのです。

そんな不良行為が、バリでは乳幼児に施されていた。

これも通過儀礼。

儀礼として必要不可欠なもの。

生後42日の儀礼が終われ、ピアスの穴の開けてもよいとする。

昔は両親がピンで穴を開け、そこのアランアランの茎を刺したという。

現在は、プスケスマス(公共診療所)で、無料から廉価(村に行って異なる)で穴を開け金具を通してくれる。

生後105日目の儀礼(ウパチャラ・ニャンブータン)には、金のピアスに付け替えられる。

金には、特別な魔よけの力があると信じられている。

これは、バリ人が古来からの信仰するヒンドゥー教に由来する。

現在は必須ではないようだ。

たいがい一歳を過ぎる頃には、ちぎれて無くなっていることが多いそうだから、バリ人女性の全員がピアスの穴が空いているとは限らないようです。


日本脱出して、やってみたかったこと。

と言っても、30年前の話だ。

刺青を入れることと、ピアスをつけること。

度胸がなくて、親から授かった身体に傷をつけることができなかった。

ウブドに長期滞在を決意した時に、この二つを実行した。

刺青は、右上腕に聖獣バロンを入れた。

その時の話は「極楽通信・UBUD / P12〜P13 / TATTOはやっぱり痛かった」をお読みいただけると嬉しい。

今では、色落ちしてみすぼらしい限りだ。

ピアスは、日本から穴あけ機を持ってきてもらった。

「居酒屋・影武者」の囲炉裏コーナーで、カチャンと一瞬にして。

銀製品の町・チュルクで買った金のピアスも、バロンだったような気がする。

とっくの昔に落としてしまい、今は穴も塞がっている。

これは、私にとっての通過儀礼だったようだ。


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2019年12月20日

ウブドからもっとも近い・チャンディ遺跡(334)

シルビオ・サントーサが発行していたバリ島の地図「PATH FINDER」は、インターネットの普及から廃刊に追いやられたようだ。

ウブド在住のシルビオの地図は、特にウブドが詳細で、徒歩でしか通ることのできないルートまで網羅していた。

私のウブド探索に、おおいに貢献してくれた。

ガイドブック「地球の歩き方」の散歩道紹介は、これを参考にした。

「バリ島ウブド・楽園の散歩道 / ダイヤモンド社」で、彼の功績を紹介(P141)している。

ボロボロになった「BALI PATH FINDER / 12th EDITION / 2015」が、私の手元にある。

折り目が切れ切れになった地図を広げて、ゴアガジャ周辺に目をやる。

かなり以前に、迷い込んだプセリン・ジャガット寺院(Pura Pusering Jagat)の裏手で、崩れかけたチャンディを見たのを思い出した。

チャンディは石造の寺院や霊廟のことを言うが、バリでは建造物はなく崖(Tebing)に直接掘られている。

そんなことからCandi Tebingを呼ぶ。

今頃、崩壊しているかもしれないな。

そんな不謹慎な期待を持って、出かけていった。

プセリン・ジャガット寺院は、修復されて威風堂々としていた。

村はずれのマンディ場の前を通り過ぎたところにバイクを止めて、階段を下りていく。

反対側から青年が上ってくる。

対岸のティティアピ村から来ていた。

身体を悪くしたので、健康のために散歩していると言う。

渓谷を見下ろすと、チャンディは記憶を辿るように存在していた。

崩壊はしていなかったが、以前より朽ちているように感じるのは気のせいか。

「ティティアピ村から来れば、ここまでバイクで下りられるよ」と教えられた。

すぐに確認がしたくて「ティティアピ側から下りてくるので、ここで待っててくれませんか?」と約束をして、バイクに戻った。

ティティアピ村の十字路を南下すると、突き当たりは火葬場。

沿道に「Candi Tebing Kelebutan」の表示。

kelebutan1.jpg

新設の歩道が、奥に続いている。

バイクで歩道を下ると、先ほど青年と立ち話をした場所に着いた。

プセリン・ジャガット寺院側とティティアピ村側からの合流地点だ。

足下は、川が流れる洞窟になっている。

青年の姿はなかった。

時間は午後5時、眼下に水浴びをする男性達の姿がある。

集団の中に、青年がいるのかもしれない。

渓谷に下りて行っても、裸体をビデオに撮るわけにいかない。

撮影は、次回にすることにした。

kelebutan2.jpg


この数日後、ティティアピ村から2度訪れている。

ウブドの西方・アンドンの十字路をホテル・マヤ・ウブド方面に向かった渓谷の向こうに、ティティアピ村はある。

ウブドからもっとも近いチャンディは、シンガクルタ村の「Candi Tebing Jukutpaku」だと思い込んでいた。

■私の瞑想スポット教えます!(328)http://itosan-ubud.seesaa.net/article/470768725.html

ウブドの変則十字路(サレン王宮)からだと、「Candi Tebing Kelebutan」と「Candi Tebing Jukutpaku」は、ほぼ同じ距離にある。

ゴア・ガジャだって2キロと差はなかった。

新設の歩道の途中に、チャンディが見える。

近づくと、持ち運びのアルミのハシゴが立て掛けてある。

これで下りるのだろう。

昇降してみたが、危険を感じて足が震えた。

高所恐怖症の方は、遠慮したほうが良いだろう。

真っ直ぐの階段を、渓谷に向かって下りていく。

右手に、アルミのハシゴで下りたチャンディが見える。

左手対岸には、朽ち果ててはいるが歴史の気配が感じられるチャンディが掘られている。

川の流れる洞窟には、水たまりでできていてマンディ場になっている。

子供達に混じって、私も水に浸かる。

kelebutan7.jpg

少量の水が落ちる滝には、小さな虹が映っていた。

kelebutan8.jpg

洞窟の中に入ることもできる。

子供達がマンディしている場所は、お尻が隠れるほどの水深だが、洞窟の入り口付近は胸まで浸かった。

滝の落水で、カメラを濡らすわけにはいかない。

洞窟内へは、合流地点の反対側から入った。




村人に、ツーリストを誘致しようという意識がないように見受けられる。

整備されて観光地になるのも好みじゃないが、崩壊して消滅してしまうのも問題だ。

「将来どうなっているか?」

そんなことも、楽しみの一つと考えることにしよう。
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2019年12月15日

テガリンガ(Tegallingah)の遺跡で奇跡! (333)

12月に入って、暑い日が続いている。

例年より、暑いと他人は言う。

思考能力が鈍るほどの暑さで、ブログに手をつける気も起きない。

手先を動かすだけのランプシェード作りははかどり、注文の2つを完成させた。

今日(13日)は、昼2時頃に通り雨があり、ちょうど良い潤いの涼しさになった。

3日ほど前から、まとまった雨が降るようになったのは、雨季に入る兆候か。

暦の上では、11月で雨季に入っているはずだが、今年は遅いようだ。

涼しさのおかげで、そろそろブログを仕上げなくてはという気になった。

気分転換に「カキアン・ベーカリー」で、WiFiと洒落込む。

冷房が私の頭を冴えさせてくれるのを期待しての行動だ。


さて、何を書こうか?

ランブット・スダナ(Rambut Sedana)の吉日に出掛けた、チャンディを記録しておこう。

チャンディは石造の寺院や霊廟のことを言うが、バリでは建造物はなく崖(Tebing)に直接掘られている。

そんなことからCandi Tebingを呼ぶ。

この日は、ウブドの北東に位置するブドゥル村に残る「Candi Tebing Tegallinga」を目指した。

グヌン・カウィやゴア・ガジャの遺跡は有名だが、ここはまったく知名度がない。

ブドゥル村は、10〜14世紀に栄えたといわれるワルマデワ王朝時代(バリ王国)の遺跡が多く残る地域。
発掘されていないが、王宮があったのも、この地域だと確信している。

「Candi Tebing Tegallinga」は以前、バリ人知人のフェイスブックに紹介されたのを見て、気になっていた。

グーグル・マップを頼りに、愛バイク・スクーピーを走らる。

矢印が示す場所を何度も周回した。

村人に尋ねると「この小道を進めばいい」と言う。

tegallingah2.jpg

半信半疑で進むと、確かに目的地に出た。

しかしこの道は、情報として紹介できるルートではない。

正式ルートは、帰路の際に探すことにする。



とにかく、数時間を掛けて到着。

入場料大人Rp30,000-のところを、長期滞在者証明書でRp20,000-に。

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手渡された英語の説明書に書かれていた文章を、要約してみよう。

「Candi Tebing Tegallinga」は近年、クライスマンというオランダの考古学者によって発見された。

テガリンガ集落を流れるパクリサン川沿いの崖壁に刻まれている。

タンパクシリンにあるグヌン・カウィと同じ11世紀の遺跡と推定される。

以下、省略。

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渓谷に向かって下りて行く。

崖のチャンディが見えてきたので、カメラを構えた。

チャンディの階段は濡れていた。

滑りそうだな、と想像した瞬間に現実となった。

右手にカメラを持ったまま、ケツで数段滑る。

もう少して、左側の崖に落ちそうだった。

ここまま落ちるかもと、かなり危険を感じた。

頭も腰も打っていない。

ズボンはベタベタだが、運良く、擦り傷もない。

リュックのパソコンは大丈夫かな。

不幸は起こらなかったが、怪我をしていてもおかしくはない状況だった。

近くに人のいない状況で、身動きできなかったらと身震いした。

老齢72歳、これからは、十分に注意を心がけようと心に誓う。

気持ちが落ち着いたところで、見学を始める。

皆様は、動画を御覧ください。




ここからが、今回メーンの奇跡の話。

駐車場の脇にあるワルンで、コピ・バリを注文した。

支払いを先に済まそうと、ズボンの後ろポケットに手を当てた。

手応えがない。

財布がないのだ。

どこに仕舞ったのだろう。

カバンの中も料金場周辺も調べた。

あれっ!

泥んこズボンの右ポケットが裂けている。

階段を滑った時に、ポケットが破れてサイプが落ちたのかもしれない。

慌ててチャンディに走った。

戻りで、すれ違ったカップルが見つけたかもしれない。

すれ違ったのは、彼らだけだ。

彼らが届けてくれるか、取得してしまうかは五分五分だ。

カップルの姿が見えた。

私が転んだ場所を通り過ぎている。

息急き切っている私の姿を見て「どうしたのかな?」という顔をしている。

見つけたのを、とぼけているのだろうか。

疑い深くなっている自分に嫌悪。

私は階段の上に立った。

一抹の期待を込めて、彼らに声を掛けた。

「財布は、落ちてませんか?」

彼らは、互いに顔を見合わせている。

拾ってくれたのだろか?

どうしようか、迷っているようにも思える。

男性が階段を上りかけようとした時、私は奇跡を見つけた。

水浸しになった、黒い財布がある。

財布は、苔むした階段と同調していて、彼らには見えなかったのだ。

「ありました! トゥリマカシ!」

少しでも疑ったことを詫びる気持ちで、カップルにお礼を言った。

訪れる人の少ないところでラッキーだった。

チケット売り場の女性に「ありました!」と報告。

「よかったね、今日はランブット・スダナだから、神様が守ってくれたんだね」

今日は、お金に感謝し、大金の貸し借りはしない、借金を返さないとされている。

関係あるかどうかわからないが、そんな言葉が暖かく受け止められた。

ワルンのおばさんも「カウンターの上で濡れた札を乾かすといい」と、優しい言葉を掛けてくれた。

大きく動揺もしたが、結果オーライの「Candi Tebing Tegallinga」見学だった。


正しいルートは、ギャニアールの幹線道路からです。

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おまけの動画:

グヌン・カウィ(Candi tebing・Gunung Kawi)


ゴア・ガジャ(Goa Gajah)



posted by ito-san at 13:09| Comment(2) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月25日

野生ゾウコンニャクの花 ・発見!(332)

「極楽通信・UBUD」のニュースに《 ビスマ通りとカティランタン村を結ぶ橋 》を投稿したのは、2015年11月20日こと。

あれから、まる4年が経ったていた。

11月19日、工事の進行状況が気になるので、出かけて行った。

ビスマ通りの南端を、ホテルの入り口を入るように右折する。

ホテルの脇を抜けて、数十メートル進むと道はぷっつりと途切れる。

橋はここから、対岸に架けられる。

対岸はカティランタン村じゃなく、ペネスタナン村かもしれない。

現場は、時間が止まっているかのように、4年前とまったく変わっていなかった。

渓谷を下り、竹の橋を渡る。

陸橋は、このあたりの上を通るのだろう。




この日、渓谷の戻り道で見たものは衝撃だった。

急坂の途中、野草に混じって鮮やかな朱色が目に入った。

形態は、キャベツか白菜に似ている。

私の知識には、そのくらいしか浮かばない。

よれよれの帽子をのせたような真紅の物体は、何だ?

初めて見る植物だ。

この真っ赤っかは、突然変異か?

触るのも、勇気がいる。

指先で触れてみるて、中は空洞のような感触。

あとで調べようと、写真に収めて帰った。

Elephant foot yam1.jpg


夜の「和食・影武者」で、写真を友人に見せると「ゾウコンニャクかもしれないね」という答えが返ってきた。

ネットで調べると、そっくりな画像がゾクゾクと出てきた。

間違いない。

英名:Elephant foot yam。

グロテスクなものは花だった。

花が、象の皮膚に似ているからこんな名前がついたのだろろうと思っていたが、どうやら塊茎(かいけい)の形がゾウの足に似ているのが名前の由来らしい。

開花するのも珍しいが、3日間しか寿命がないという非常に貴重な花だった。

こんな貴重な花なら、動画を撮っておいたほうが良いだろう。

1日おいて、21日に出かけた。

もしかすると、誰かに取られて、もう無くなっているかもしれない。

ありがたいことに、心配は危惧に終わった。

ゾウコンニャクは、私を待っているかのように佇んでいた。

しかし、開花期間が過ぎたのか、色はくすんでいる。

私が遭遇したのは、絶好のタイミングだったようだ。

花を押し上げると、中から雄花・雌花が見える。

雌花から悪臭がすると紹介されているが、鼻風邪だったせいか私には臭く感んじなかった。




今後、どう成長するのかは見届けたい気がする。

渓谷の急坂を通うには体力に堪える。

いっそのこと手元に置いておこうと、翌日22日には、あとさきも考えず塊茎ごと抜いてきた。

今、「和食・影武者」の庭にこっそり置いてある。

Elephant foot yam2.jpg


*インドの伝統医学"アーユルヴェーダ"では、ゾウコンニャクの塊茎に鎮痛、抗炎症、抗鼓腸、消化促進、媚薬、若返りと強壮作用があるとされていて、寄生虫、炎症、咳、鼓腸、便秘、貧血、痔、疲労といった広い範囲の治療に使用されるということです。

posted by ito-san at 17:45| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月21日

タバコの花を初めてみた(331)

72年間生きていても、初めての経験はたくさんある。

ピンクの可憐な花が咲くタバコもそうだ。

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ボロブドゥールのあるマゲラン地域は、タバコの産地。

雨季に入る11月前の数ヶ月、パパイヤ畑にはタバコが栽培される。

タバコ栽培は、収入が良いらしい。

世話になっている「Kopi Mpat」の近くの畑にもタバコはあった。

タバコがどんな植物かも知らないので、気がつかなかったのだ。

気がつけば、どこもかしこもタバコ畑。

草丈は大人の身長ほどの高さになり、先には美しい花が咲く。

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タバコの葉は、下から順に収穫していく。

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収穫した葉は、細かく切って天日で乾燥させる。

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このあと、タバコ会社に買い上げられていくのでしょうね。






posted by ito-san at 19:33| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする