2018年10月02日

滝巡り再開!@ Kanto Lampo Waterfalls (216)

個人的に盛り上がっていた「滝巡り」だが、7月25日の誕生日以来、遠のいていた。

念願のツインの滝を制覇してから、熱が冷めてしまったのかもしれない。

先日、滝の情報が知人からもたらされた。

何度も通っているバン村(Bang・Gianyar)にある「Kanto Lampo Waterfalls」だった。

グーグルで調べたコースと違うコースを教えられた。

こちらからだと、ウブドから30分とかからない。

情報で写真を見る限り、あまり期待できない。

近場だということで、行く気になった。


9月26日。

2ヶ月ぶり「滝巡り」。

ウブドから30分以内という近距離にあるフォトジェニック・スポット。

Kantolampo1.jpg

バイクを道端に止めて、20段ほどの階段を降りる。

途中の小屋で、入場料Rp10,000-を払い、さらに階段を降りていく。

欧米人ツーリストと正装したバリ人とすれ違う。

正装のバリ人は、階段に途中にある泉の湧くペジ寺院でお祈りをしていた。

ペジ寺院を右に折れると、水着姿のツーリストが大勢いた。

正装に包まれたバリ人と、ツーリストの水着姿が対照的で「どんなかな?」と疑問に思った。

水着の女性の横を抜けて先に進む。

右の崖から水が湧き出ている。

足元の岩場が、水に濡れて滑りやすい。

川に降りる階段は、岩場に作られていて、こちらも危険なほど滑る。

私は、手摺につかまって、屁っ放り腰で降りて行く。

Kantolampo2.jpg

フォトジェニック・スポットは、川を入った先にある。

流れ落ちる滝を背景に、楽しそうにポーズをとるのが、定番のようだ。

天気の良い日は、川で泳ぐのもいいだろう。

水着持参をおすすめする。

私は、川に入らずに動画を撮った。

上り下りする階段も、他の滝スポットより少なくて、楽チンだ。

フォトジェニック・スポットとしても合格点をあげられる。




(撮影:2018年9月26日)

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2018年08月29日

合同火葬儀礼の季節って?(215)

バリ島は、毎年7月から9月の間、合同火葬儀礼の季節になる。

火葬儀礼は、バリのヒンドゥー教の大切な儀礼。

マジャパイト王朝時代(14世紀)に入ってきたもので、それまで庶民は土葬であった。

ジャワのヒンドゥー教の影響を拒絶したバリ・アガと呼ばれている村では、今でも土葬か風葬(遺体を地上に放置)だ。

個人葬が主流だった時代から、合同葬として、何年かごとに村で一括して行うことが増えている。

合同葬の場合、個人葬に比べて、各遺族の経済的負担が軽くなるという利点があるからだ。

それまでは、数年から10数年、中には数10年も仮埋葬したままの遺体があった。

インドネシア政府は、疫病の心配があるとして、一つの村で2年から6年の周期で火葬を行うように指導している。

合同火葬儀礼は、ガベン・マサル(Ngaben Masal)と呼ばれる。

個人火葬儀礼の場合は、スードラ階層は「ガベン(ngaben)」、トリワンサ階層(プダンダ、クシャトリア、ウエシャ)は「プレボン(plebon)」という。


8月16日、私がお世話になっているテガランタン村が合同火葬儀礼の日だった。

火葬儀礼は、ダラム寺院前の広場で行われる。

広場は、仮埋葬の場でもある。

カーストを持った家族のエリアと持たない家族のエリアとに分かれていた。

その時、初めて目にする光景が2つあった。

ひとつは、エリアから離れた場所で、ささやかな儀礼を行っている集団だ。

知り合いのバリ人に、この疑問を尋ねると、

このグループは、小さなうちに亡くなった子供たちの儀礼だという。

歯が生える前に亡くなった子供だ、と答えが返ってきた。

他の知人からは、ティガ・オトン(ウク暦210日で1年で、3年目の通過儀礼)を行っていない子供だ、と教えてくれた。

人間としての通過儀礼であるポトン・ギギ (Potong gigi)が終わっていないからだろうか?

疑問は残るが、これは課題にしておこう。


もう一つの疑問は、一体だけ全体とは違う方角を向いているプトゥルガン(棺桶)だ。

これは、この家族に聞いた。

彼らは、パセック(pasek )親族集団の一つであるプラサリ(pulasari)一族とのこと。

プラサリの一族だけが、東方が望めるように、遺体の頭部が西側に安置される。

ダラム・バトゥレンゴン王が君臨するゲルゲル王朝時代(16世紀)に、それまであった曖昧な階層は、王国中心の階層に塗り替えられた。

パセック(pasek )親族集団は、ゲルゲル王朝時代以前からあったバリ土着に集団。

プラサリは、ダラム・カルカンの子孫で、王族の跡目争いから逃れるために、パセックの農民に身を隠した。

その後、王宮に戻りたいと許しを請うたが「一度、野にくだった者は、農民として暮らせ」と許しを得ることができなかった。

この一族が、パセック・プラサリと呼ばれている。

頭の向きは、それと関係しているのかもしれない。

王族としての、遺体の位置を違えることで威厳を保ったのかもしれない。

いや、まだまだ知らないことがたくさんある。

だから止められない、バリ島滞在。





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2018年08月15日

やっと、お礼を伝えることができた(214)

8月4日。

バイク事故から、まる4ヶ月が経った。

事故直後、現場近くのホテルの青年スタッフが、親身になって世話をしてくれた。

その時のことは、まだ記憶に新しい。


バイクが横転した状態から素早く抜け出し、エンジンを止めた。

ここまでは冷静で速やかな行動だった。

立ってはいるが、全身が痛みで悲鳴をあげている。

死にいたるような怪我ではないのは、わかる。

何をどうしていいのやら判らない状態で、呆然としている。

後方、15メートルほどのところで、ガンという音がした。

振り返ると、私にぶつかったバイクが倒れていた。

音を聞きつけた人々が、ワラワラと現れる。

一人の青年が「大丈夫ですか?」と、私に声をかけてくれた。

あとの数人は、後方のバイクに向かったようだ。

私は、返事をしたのかどうか覚えていない。

右手からは、血が滴り落ちていた。

リュックから日本手ぬぐいを出して傷口を縛った。

手ぬぐいは、すぐに真っ赤になった。

青年は、私のバイクを起こし、押していった。

私は、彼のあとについていった。

近くのホテルの駐車場まで運んでくれた。

「ここに座ってください」フロントの椅子を指差した。

青年の服装を見て、ホテルのスタッフだと理解した。

ホテルのエントランスを汚すわけにはいかないので、中に入ることを拒んだ。

道路に面した方に向かい、エントランスの段差に腰を下ろした。

少し気持ちが落ち着き、全身をチェックする余裕ができた。

手ぬぐいを解き右手甲を見ると、小指と薬指の間の切り傷がかなり深いのが見えた。

出血は、ここからだ。

右手ヒジ、左右の足のヒザ、左右の足首に擦り傷がある。

打撲もしているようだ。

重傷というわけではない。

安心をしたら、状況が見えてきた。

いつまでも、ここにいるわけにはいかない。

私はスマホを取り出し、友人に迎えに来て欲しいと伝えた。

青年がミネラルウォーターを差し出した。

これで傷口を洗えと言っているのだ。

私は、彼の好意に甘えることにした。

渡されたミネラルウォーターで傷を洗う。

「友人が迎えに来るまで、もうしばらく、ここにいさせて欲しい」と頼んだ。

次には、消毒用に、赤チンを持ってきてくれた。

化膿の応急処置を施してくれている。

どこまで親切なスタッフだ。

赤チンを傷口にかける。

傷の痛みで、赤チンのしみる痛みを感じない。

青年は、友人が迎えに来るまで、ず〜と側にいて、心配してくれた。

床の汚れもそのままに、私はバイクを運転して「和食・影武者」に向かった。


世話をしてくれた青年に、まだ、お礼をしていない。

青年にお礼を述べておかないと、見舞いの寄付をしていただいた人々の暖かい行為に背くことになるような気がする。

それよりも自分の気持ちが許さない。

ほとんど毎日、時には昼夜の2度、青年の勤めるホテルの前を通り過ぎる。

気になっているので、前を通る時には必ず覗くようにしている。

横見は危ないけどね。

青年の顔が見えたら声をかけようと思っているのだが、未だに姿を見かけたことがない。

こうして、4ヶ月が過ぎてしまった。

記憶が色あせてしまう前に、是非、お礼を伝えたい。

シフト勤務で、会えないかもしれないが、伝言だけでも置いていこう。

皆んなで分けられるように、人気店のケーキを買って持ってホテルを訪れた。

フロントにいた青年は、事故の時に世話をしてくれた青年に似ている。

「4ヶ月前、ここの前でバイク事故をした者ですが」

青年は、覚えていてくれたようで「あの時は、私だったです」と、顔をほころばせた。

「傷は大丈夫ですか?」

さっそくケガの心配をしてくれる。

「ありがとう。すっかり良くなりました」

私は、何度もお礼を言った。

これで、思いがけずおこった災難の区切りがついた。

青年の名前は、エディ君。

出身は、クルンクン県パクサバリ村だった。

毎年クニンガン祭礼日に繰り広げられる「喧嘩神輿」で有名な村だ。

私は、何度も見学に行っている。

次回の喧嘩神輿は、エディ君の勇姿を見に行こうかな。

そんな約束をして別れた。


エディ君の勤務先は「yoga ubud villa」

yogaubudvillas.jpg

▪︎Address: Jln.Sri wedari no.999 ubud-Bali
▪︎TEL:+62 361 9082525
▪︎Email:booking@yogaubudvillas.com
▪︎Web:www.yogaubudvillas.com

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2018年08月05日

天変地異の脅威にさらされて(213)

「和食・影武者」の女将・由美さんは、毎週土曜日が休日。

出勤しない日に、私のスペシャル・夕ご飯は用意されない。

そんなわけで、土曜日は他の店で夕食をとることが多い。

以前は、毎週のように「和るん・あんかさ」に行っていた。

「あんかさ」に、コテツちゃんが顔を見せなくなってから、足が遠のいた。

コテツちゃんは、「あんかさ」のオーナー・カデちゃんの旦那様。

こんな説明は、いらないか?

最近、コテツちゃんが夜8時頃から店に居ることが多くなり、私の立ち寄る頻度も高くなった。


28日(土)

「あんかさ」で夕食。

コテツちゃんと大原さんと3人で雑談をしながら、時折、テレビの画面に目を向ける。

テレビでは、日本のニュースが流れていた。

海岸線の道路に、高波が押し寄せている映像だった。

続いて、台風12号が日本に上陸する予想図が出た。

愛知県を直撃するかに見える台風は、Uターンして関西方面に進路を変えようとしているらしい。

これは大変だ。

西日本は、7月6日から降り続いた豪雨で被害を被ったばかり。

未だに復旧されていない状態で、さらに追い打ちをかけられるのか。

これ以上の被害を受けなければいいが、と心配になる。

「バリも2〜3日前から、高波の被害を受けているよ」

コテツちゃんが教えてくれた。

波打ち際に建つ住宅やホテル、ワルンやレストランに被害が出ているようだ。

「流木は高波にさらわれて、海岸は綺麗なものだった」

大原さんが情報を提供してくれた。

海岸からゴミがなくなるのは喜ばしいことだが、海からなくなったわけではない。

波に打ち上げらえていないのは、海中に漂っているからだ。

海岸のゴミの山や海中を漂うゴミを、ニュースで目にすることがある。

観光地としてのイメージを著しくダウンする画像だ。

ゴミ問題の解決を急がなければ、観光地としてのバリの地位も危ぶまれる。

個人的には、せっかく見つけた流木の穴場が砂を被って埋没してしまったことが悲しい。

サーファの知人は、波が高くてありがたがっていた。


29日(日)

寝床で地震を感じた。

目覚まし時計を見ると、6時50分を指していた。

外では家族が騒いでいる。

私は、どうにでもなれという思いで、再び眠りにつく。

その後は、普段の日常に戻った。

インターネットでニュースを検索。

ニュースでは、29日午前7時(日本時間同8時)前、マグニチュード(M)6.4の地震があった、と報じている。

震源地は、ロンボク島のリンジャニ山付近。

震源の深さは7.5キロ。

国家防災庁は、少なくとも14人が死亡し160人以上が負傷したと発表した。

死亡した中には、観光客も含まれているようだ。

隣の島で死者の出るほどの地震が起きたことに、大きなショックを受けた。

幸いバリは震度2.5ほどで、被害は出ていない。

バリに震度6以上の地震があれば、造作の甘いバリの家屋は全壊するところが出るだろう。

私は、違う意味でも軽いショックを受けていた。

週末が予定で埋まったので、週明けの月曜日にロンボク島に行く予定をしていた。

それは、明日(30日)だった。

ウブドからパロマのシャトル・バスに乗り、ギリ諸島のアイルと呼ばれる小島に渡るつもりをしていた。

目的地のギリ諸島も、途中に立ち寄るマタラムの街も地震の被害を受けている。

週末に渡っていれば、私も被害に遭っていたかもしれない。

これは運が良かったと言える。

バリではアグン山の噴火、ロンボクでは地震、日本では大雨と台風。

人智で及ばない天変地異の脅威にさらされている。


30日(月):16.00

在デンパサール日本国総領事館から、メールが届いた。

1)29日,西ヌサ・トゥンガラ(NTB)州ロンボク島北東部において,M6.4の地震が発生し,その後も余震が断続的に続いています。

2)同島に滞在されている方や渡航を予定されている方におかれましては,土砂崩れや家屋が倒壊している当該地域への来訪は避け,関連する災害や事故に巻き込まれないよう安全確保に努めてください。

3)万一,関連する災害や被害にあった方または被害にあった方を認知した場合には,総領事館に御連絡ください。

4)なお,この地震を受け,リンジャニ山の北側斜面に土砂崩れが生じた模様であり,現在登山禁止措置が執られています。


台風は、その後、九州南部・奄美地方を抜けて遠ざかって行ったようなので安心した。

バリの高波もおさまりつつある。

ロンボク島の地震も小康している。

私は、流木拾い&ロンボク島行きを、しばらく様子を見ることにした。


★7月5日:再びロンボクでマグニチュード(M)7の地震があった。
私が体感したのは、午後7時50分。


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2018年07月30日

ツインの滝 @ タバナン県(212)

バイク事故に遭って(4月4日)から、そろそろ4ヶ月になろうとしている。

怪我の回復に合わせて、少しずつバイクの走行距離を伸ばしている。

遠出ができないので、滝巡りはご無沙汰だ。

バイク・ツーリングをしたい欲求が芽生え始めた。

前々から気になっている、タンブリンガン湖の近くにある滝に行きたい。

今日25日は、私の71歳の誕生日。

久々に晴れ間が見えたので、思い切って出かけることにした。

滝の名前は「Twin Waterfalls」。

片道2時間のバイク・ツーリングになる。

途中で雨に降られたら、諦めよう。

それより、右手の怪我がどのくらい耐えられるかが心配だ。


ノンストップで、インスタグラム・スポットの丘に到着。

怪我の痛みも疲れも思ったより少ない。

目的地の「Twin Waterfalls」は、この先だ。

途中、滝の案内看板がいくつもある。

タンブリンガン湖が左手に見え隠れする道の右手に、目的地の看板を見つけた。

「Twin Waterfalls」の正式名は「Banyumala Twin Waterfalls」だった。

ここから先は、急坂を下る道になる。

車のわだちにコンクリートが敷かれ、二本の線が続いている。

コンクリートは、ところどころ割れ目ができている。

自動車とすれ違うため、バイクを止め、道の端に退けた。

走行に、かなり神経を使う。

右手に負担がかかったが、どうにか滝の近くまでたどり着いた。

青年に駐車料金Rp2,000-を払い、バイクをさらに先に進ませる。

空き地にバイクを止め、歩いて入場料金所まで行く。

無理すれば、ここまでバイクで来られそうだ。

今の私のテクニックでは、危険だろう。

滝までの道は、行き(下り)はヨイヨイ、帰り(登り)は地獄だった。

ツインの滝と聞いていたので、二筋の滝だとばかり思っていた。

滝については、これ以上は説明をしません。

気に入ったので、角度を変えて何度も動画を撮っています。

編集も長いものになってしまった。

では、動画で楽しんでください。



入場料金所で働く18歳の青年と話をした。

彼の誕生日は、7月20日。

私は「おめでとう!」と言って、手を差し伸べた。

握手をしながら「私は今日が誕生日だよ」と言うと、笑顔でお祝いの言葉をかけてくれた。

そのあと、庭で育てている果物や植物の話を聞いた。

この地域は、コーヒー豆とブンガ・スリブを生産している農家が多いと言う。

ブンガ・スリブは、たくさんのブンガ(花)という意味のインドネシア名。

インドネシア人は、ピサン(バナナ)・スリブのように、たくさんあることをスリブと表現するようだ。

バリ語の名前は忘れた、と言っていた。

ブンガ・スリブは、紫陽花(あじさい)のことだった。


昼食は、帰りに立ち寄ったチャンディクニンの市場でとった。

candikuning.jpg

市場では、お土産にイチゴを3パック買った。

一個は下宿の大家さん家族に、一個はいつもお世話になっている「和食・影武者」のスタッフに、あと一つは今夜の夕食のデザートにする。

「和食・影武者」での夕食は、友人たちが私の誕生日を祝ってくれた。

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2018UT_ito3.jpg

この日は、好天と友人に恵まれた1日でした。

感謝!


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2018年07月21日

見舞金支援終了のお知らせとお礼(211)

クラウド・ファウンディング「伊藤さんに、お見舞金を送る」が、7月18日に終了いたしました。

立ち上げてくれた友人から、昨夜「見舞金」を受け取りました。

手術代金に、つりあうほどの金額が集まりました。

皆さまから、たくさんの支援と激励の言葉をいただき感謝しております。

事故の時は、どうにでもなれという絶望感だったのですが、今はどうにかしなくてはと前向きな勇気が湧いています。

ご支援下さった皆さまに直接、お礼の言葉を述べさせていただきたいのですが、ハンドルネームでどなたかわからない人も多いため、誠に失礼とは思いますが、この場を借りでお礼を申し上げたいと思います。

どうもありがとうございました。

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2018年07月15日

この頃の合同火葬儀礼(210)

7月から9月の間は、合同火葬儀礼の季節。

(火葬儀礼:http://informationcenter-apa.com/kb_kasousiki.html

合同火葬儀礼は、一つの村で2年から6年に一度、7月から9月にかけて行われるバリのヒンドゥー教の大切な儀礼。


7月8日に行われたパダンテガル村の合同火葬儀礼(ガベン・マサル/Ngaben Masal)。

NgabenMasal1.jpg

この日は、104の遺体が荼毘に付した。

プトゥラガン(patulangan=お棺)は、一斉に火がつけられるのではなく、点在する約7基を一グループに分けて、順に燃やしていった。

以前は一斉に燃やしていたが、火葬場が手狭になったため、樹木の類焼を防ぐための手段なのだろう。

プトゥラガンも完全に燃え尽きる前に、消火された。

魂は、煙に乗って天上に行くと聞いていたが、こんな中途半端な煙で大丈夫なのかと心配になる。

時代とともに、儀礼も簡略されていくのか?


NgabenMasal2.jpg

NgabenMasal3.jpg

燃え残ったプトゥラガンは、場外に運び出され、トラッックに乗せられ廃棄処分場に向かった。

これも時代を象徴しているようだ。




2004年のテガランタン村の合同火葬儀礼の写真をアップしました。

(写真提供:A氏)

NgabenMasal(A1).jpg

数年の間、仮埋葬され、墓から掘り出された遺骸は、すでに骨になっていた。

遺骸を見つめる家族。

NgabenMasal(A2).jpg

遺骸を火葬する。

埋葬する前に火葬をする村もあり、火葬儀礼当日はシンボルを燃やす。

プトゥラガンのない、素朴な儀礼。

こんな火葬儀礼も、まだ各地で残っている。


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2018年07月11日

テーブルの上に離婚届!(209)

息子からの電話で、別れた妻の訃報を聴いてから、すでに8が月以上が過ぎた。

「また、電話するから」は、荼毘の段取りがついたら連絡があるだろうと考えていた。

彼からかかってこない限り、私からは連絡の取りようがない。

なぜ、あのとき、連絡方法を聞かなかったのだろう。

電話をもらったのは、昨年の11月と記憶している。

この年は、親しい知人の不幸が続いた。

知り合いの死は切ない。

嫌いで別れたわけじゃない妻の死は、なお辛い。

電話は、東京から掛っていた。

「和食・影武者」に通話記録はあるのかな。

以前は、通話記録が送られてきていた。

記録が残っていれば、ありがたい。

残念だが現在、通話記録は送られていなかった。

このまま連絡が途絶えてしまうのが心配だ。


バスの中で見かけた彼女を、お金も持っていないのにコーヒーに誘った。

記憶は、しだいに色を帯び、甦ってきた。

薄れかけた記憶が流れ込んでくる。

時間が逆流し、次から次えと走馬灯のように記憶を映し出す。

私たちは、彼女が20歳になる前に結婚をした。


私が産院に駆けつけた時には、もう、妻の出産は終わっていた。

看護婦に「お子さんは、女の子でした」と告げられた。

妻は、疲れたのか眠っていた。

眼を覚ますのを待って「お疲れ様」と声を掛けた。

妻は涙ぐんでいた。

「赤ちゃんは、この産院では治療できない病気で、コロニーという施設に運ばれていった」

コロニーは、未熟児の施設だと看護婦に教えられた。

産院で治せない病気は、名古屋郊外の春日井市にあるコロニーに入院させるということを聞いた。

私は、次の日からコロニーに通った。

コロニーでは、リハビリに励んでいる身障者たちの姿が見受けられた。

プラスチックの箱に入った我が子は、天使のように可愛かった。

この子の身体のどこが悪いのだろう。

「病状は思わしくない」と医者は言う。

妻は、産院を3日目に退院し、家で、我が子の帰りを待っている。

1週間すると医者は「延命しますか?」と聞いてきた。

この子は、5万人に1人といわれる直腸が短い病気で、直ることはないと言う。

私は「妻と相談しますから」と即答を避けた。

次の日、2人でコロニーを訪れた。

出産後、始めての我が子との対面に、妻は、涙ぐんで娘の名前を連呼している。

私は、涙を飲んで、赤ん坊の点滴を外すことに承諾した。

我が子の死刑宣告人になってしまったのだ。

妻は、一度も生きている娘を抱くことが出来なかった。

もちろん、私も触れてもいない。

ベビー服は、一度も我が子が手を通すことはなかった。


ある日帰宅すると、テーブルの上に離婚届の用紙が置いてあり、妻の姿がなかった。

離婚届には、すでに、彼女の名前は書かれていた。

彼女の身体には、2度目の子供が宿っている。

初産で悲しい思いをしているので、妊娠は喜んでいるはずだ。

別れたい理由が、わからない。

私に、原因があるに違いない。

そんな会話を避けるかのように、姿を消した。

近くに住む義兄の家に行っているのだろう。

すぐに帰って来るだろうと、安易に考えていた。

いつまでも帰って来ていない。

忙しい仕事の合間を縫って、義兄の家を訪ねた。

引っ越したのか、空き家になっていた。

妻は、離婚届を置いて失踪したのだ。

失踪先は、郷里の札幌だろうと想像した。

実家の住所と電話番号も知らないが、役所で調べればわかるだろう。

ノンビリ構えているうちに、月日が流れていった。

今、これを書いていて、私は最低の男だと反省する。

懺悔の手記を、いつか必ず彼女の墓に届けたいと思う。



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2018年07月04日

彼女が18才の春だった(208)

「日本から電話です」

スタッフに、耳元でささやかれた。

「和食・影武者」の電話に、私に掛かってくることは滅多にない。

私はスマートホンを使っていて、たいていはこちらに掛かってくる。

以前、「知人の知人ですが」の電話がよくあった。

煩わしい用件に立ち会うこともしばしば。

そんなわけで、スマートホンも登録した名前が表示されないと出ることはない。

「誰から?」と問うと、首を傾げて「昼にも掛かってきました」と答える。

知らない人からの電話には出たくないので、取り次がないように頼んである。

スタッフとしては、2度も掛かってきた電話だから重要だと考えたのだろう。

彼らの気持ちもわかる。

訝しく感じながら、電話に取ることにした。

「もしもし、伊藤です」

「タツトシだけど」の声がした。

札幌の住む息子の声だと、すぐにわかった。

何年振りだろう。

「久しぶりだね」

私の言葉にかぶせるように「お母さんが死んだ」と、つぶやくように答えた。

これは、悪い冗談だろうか?

久しぶりの電話に、いきなり、別れた妻の訃報。

それはないだろう。

息を飲み込んだまま、私は沈黙した。

答える言葉が見つからない。

「俺、今、東京に住んでいるんだけど、一週間前に死んだらしい」

その一言で、私の胸が悲しみに震えた。

孤独死だったんだ。

悲しい死に、私は責任を感じた。

私の思考を遮断するかのように、息子の声がした。

「また、電話するから」

こんな短い会話で、電話は切られた。

何かを忘れている。

私は何かをしなければいけない。

寂しさに、瞼の裏が滲んでいる。

今は、考え付かない。


遠い過去が蘇ってきた。

馴れ初めを思い出している。

24才の私がいる。

この日、愛車Nコロが故障して、市バスで通勤した。

一日の疲れた身体を引きずって、バスに乗る。

バスは、起点駅の栄からサラリーマンやOLでギュウギュウ詰め。

黒川、上飯田の駅で、乗客の半数ほどが降りた。

私は先ほどから、吊り革に身体を預けている、ひとりの女性が気になっていた。

そこだけにスポットが当たったように、クローズアップされていている。

パンタロンの似合う、背の高いスリムな姿に魅入っていた。

愛車が故障して、仕方なく乗ったバスに乗り合わせた女性に、運命の巡り合わせを感じた。

上飯田橋を渡ったあたりから空席ができ、彼女は出入り口に近いひとり席に腰を下ろした。

乗客がまばらになった車内で、私は、どう声を掛けようかと戸惑っている。

空席が目立つのに立っているのは不自然だと、私は、最後部の座席に坐った。

ここからなら、彼女の姿が見える。

終点に近づくにつれて、乗客は減っていく。

彼女に、降りる気配はない。

私は、次の駅で降りなくてはならない。

バスが止まり、自動ドアーが開いた。

彼女は降りない。

私も降りなかった。

次の駅でも、彼女は降りなかった。

この次は終点駅だ。

彼女が降り、そのあとに私が続いた。

今のご時世なら、ストーカーと言われてしまうような行動だ。

私は、彼女の背中を見ながら、どう声を掛けたものか悩んでいる。

終点で降りた、ほかの乗客2〜3人が、家路を急いで私を追い越していった。

彼女は、私のことをまったく気に掛けず、前を歩いている。

こんなところで後ろから声を掛ければ、彼女はきっと、怖がって逃げてしまうだろう。

あきらめよう、という心とは裏腹に

「あの〜、すみませんが、お茶でも飲みませんか?」

と、私は声を掛けていた。

彼女は、ビックリした顔で振り返り、私を覗くようにして見た。

しばらくの間をおいて、彼女の口から「いいですよ」の幸運な言葉が返ってきた。

2人は、バス停の近くの小さな喫茶店に入った。

最終のバスがなくなるまで話をしたことは覚えているが、興奮していたのか、何を話したかはまったく覚えていない。

恥ずかしい話だが、この時、私の財布にはお金が入っていなかった。

「ごめんなさい。お金持っていないので、貸してくれる」

なんて、ず〜ず〜しい奴だと、思っただろう。

このあと、連絡先を聞いて、私は2駅を歩いて家に帰った。

この機の逃してはというあせる気持ちが、私をこんな恥も外聞もない行動にさせたのだろう。

一目惚れ。

彼女が18才の春だった。


馴れ初めのシーンが、足早に通り過ぎていった。

我にかえると、連絡先を知らないことに気がついた。

別れた妻の電話番号も知らない。

東京に住む、息子の電話番号もわからない。



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2018年06月30日

ATM最終話『祝い再発行!』(207)

ATMの結末を気にかけてくださっている方がいるかも・・と考え。

これが最後の報告になることを期待して、アップします。

「いやいや、もうチュクップ(cukup=インドネシア語で充分に意)です」

こんな声が聞こえてきそうですが、まあ聞いてください。

毎度の夜の影武者でのこと。

銀行に出向いても、カードは発行されなかったという話をした。

その場のみんなは、「それは、怒らなければいけないよ」一応に言う。

怒れば、銀行側も困って発行してくれるというわけだ。


6月26日:「3度目の正直」

この諺が、ふさわしいかどうか不安ですが、とにかく3度目の銀行詣でです。

今回の私は、怒るゾと心に決めて部屋を出た。

銀行には、午前10時に着いた。

今日も、人で埋め尽くされている。

整理番号は528。

番号は、500から始まっているにだろう。

電光掲示板に表示されている番号は516。

かなり待たされるだろうと、覚悟した。

運良く、一番前の長椅子の左端が一人分あいていたので、腰を下ろした。

いつもなら待ち時間を利用して本を読むのだが、今朝は早く起きたのでまだ眠く、本を取り出すのをやめた。

どう怒るか、を考えることにした。

他人に怒りをぶつけることは得意でない。

怒りは、いつの間にか自分にも原因があるかもしれないと考え直している。

デビットカードをATMに飲み込まれてしまったのも、私の落ち度かもしれない。

自分に自信がないのだ。

時間が経つと、許している。

どうせ、私のインドネシア語や英語では通じないだろう。

演技で怒ってみようか。

待ち時間が1時間を過ぎた。

エアコンで身体が冷えてきた。

風邪をひきそうだ。

私の番が回ってくるまでは、まだは時間がかかるだろう。

さらに30分が過ぎると、トイレに行きたくなった。

順番は、あと6人目。

今トイレに立つと、戻ってきて座るところがなくなっているかもしれない。

立って待つのは辛いので、ギリギリまで座っていることにした。

電光掲示板の数字が525番になったが、そこから、先になかなか進まない。

辛抱できなくて、トイレに立った。

トイレから出ると、電光掲示板の表示が530と変わっている。

私の番号が飛び越えられた。

先客が座っているカウンターと銀行員のいないカウンターがある。

幸い、先ほど座っていた席が空いていた。

もう一度、腰を下ろした。


空いていたカウンターに、女性銀行員が座った。

私は席を立ち、整理番号528を見せた。

女性銀行員に「デビットカードを再発行したいのですが」と告げる。

「それで?」と言う顔をされたので、カードが戻ってこなかったことを説明した。

「では、デンパサールの本店に電話をして確認してみますので、しばらくお待ち下さい」丁寧な対応。

この段階で、私は怒る気力は失せていた。

彼女は席を外し、本店とコンタクトしたのかどうかはわからないが、しばらくして戻ってきた。

「調べるのに時間がかかるので、紛失届を提出したほうが早いですよ」と提案された。

「紛失届は、銀行が出してくれるのですか?」

「いえ、あなたが警察に行ってもらってきてください」

私がなくしたわけでもないのに、なぜ、私が警察に出向かなければならないのか。

警察は、なぜか緊張するので行きたくない場所だ。

グズグズしていて、書類作成に時間がかかるだろう。

ここは、怒ってもいい場面ですよね。

「今から警察に行って紛失届の書類を申請して、来週、出直して来るのですか?」不満を含んだ言葉で言ってみた。

「警察はすぐに作ってくれます。今から行ってください。戻ったら、私を指名してください」彼女はニッコリと微笑んだ。

「私は言葉ができないので、手紙を書いてください」ささやかな抵抗をした。

彼女は、メモを書いてくれた。

私は素直に、ウブド警察署に向かった。

警察署には昨日、大原さんに付き合って20年ぶりに来ているので、今日は緊張も少ない。

受付カウンターでメモを見せると、ベンチに座っていた男性が私を部屋に案内した。

書類はスムーズに出来上がった。

お礼も受け取らなければ経費も受け取らない、クリヤーな警察になっていた。

銀行に戻り、再び彼女のカウンターに着く。

時間は、昼12時を大きく回っていた。

「昼食はすみましたか?」彼女に、こんなことを聞く余裕ができている。

「私は、先ほどすませました。あなたわ?」

525から番号が進まない時に食事をとっていたのだろう。

私はまだですと答えると「飴でも食べてください」とカウンターの隅ある飴の入った器を指差した。

こんな会話をしながら、カードは速やかに作られ、再発行が完了した。

「テレマカシ!」と声をかけて席を立つ。

ガードマンに手伝ってもらい、新しいカードに、新しい暗証番号を登録した。

こちらの銀行のガードマンは、受付の役目もするのだ。

こうして、私のATM問題は、解決したのであった。



posted by ito-san at 03:26| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする