2020年06月06日

トルコの旅・イスラム教割礼儀礼見学(4)

メルスィンのバスターミナルに、戻ってきた。

無事、オマール君にも会えた。

隣には、従兄弟だというトルコ人特有の濃い顔の男性がいた。

勘違いをしていなければ、昨日のうちに再会が果たせたのに、と悔やまれる。

彼らの車で、タルススの実家に向かう。

メルスィンは、メルスィン県の県庁所在地で港湾都市。

タルススは、メルスィンの衛星都市だろうくらいに考えていたが、検索すると古代ローマ帝国時代にはだったようだ。


車は、低層の家屋が並ぶ閑静な新興住宅街に入った。

そううちの二階建ての一軒家に、招かれた。

日本なら中流家庭に部類にはいる立派な建物だ。

記憶が薄くて、当時の状況が克明に説明できない。

バックパックを下ろすと、広い部屋に案内された。

部屋には、十数人々が床に腰をおろしていた。

男性は男性、女性は女性、子供は子供で固まっている。

トルコは、男尊女卑なのか。

床に広げられたビニール・クロスの上に、大きなパンとトマトスープの入った小皿がのっている。

皆んなそろっての昼食だ。

そこにいる人に見習って、片膝を立てた。

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朝食はカーペットの上で


子供の泣く声が聞こえた。

儀礼が始まったようだ。

割礼は、男子の性器の包皮の一部を切除する、成年男子への通過儀礼の風習。

この日は、3人の男児の割礼が行われると聞いた。

部屋は、誕生日パーティのように煌びやかに飾り付けられている。

立ち込める匂いに抵抗を感じ、少し吐き気をもよおしたので、早々に部屋を出た。

今思えば、中途半端な想像と場の雰囲気がそう思わせたのかもしれない。

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施術が終わると子供たちは、手に杖、頭に冠、ガウンを羽織った王子様の正装で、元気に外へ飛び出していった。

大人たちの安堵の顔が見える。

しばらくして、屋外に誘われた。

テント屋根が設えられた住宅の一画に、軽食が用意されたテーブルが2列並び、男たちが歓談していた。

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スピーカーから声が流れてきた。

わたしには理解できない言葉だ。

今夜のイベント内容が説明されているのだろう。

オマール君に連れられて、音源に向かう。

広場に大きなテント小屋が張られ、シンセサイザーと琵琶に似たウドと呼ばれる民族楽器、アンプやマイクが用意されている。

楽団員が登場し、ウドの旋律がギターのような調べを奏で、軽快なトルコ音楽が始まった。

老若男女、全員が踊りだす。

皆んなで手を繋ぎステップを踏む。

トルコの伝統的な舞踊なのだろうか、それともこの地方特有の踊りなのだろうか。

全員が楽しそうだ。

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音楽は延々と続き、踊り手も延々と踊る。

人生初のイスラム教割礼儀礼見学は、夜更けとともに終了した。

割礼儀礼は、ビッグイベント(祝宴)だった。

翌日は、大家族の遠足があった。

川が流れる公園に、ついて行った。

親類縁者の親睦を深める意味もあるのだろう。

おかげで、部外者の私も楽しい旅の思い出ができた。


■付録

ブログを仕上げるに、インドネシアのイスラム教の友人に割礼について、メールで聞いてみた。

簡単に説明してくださいと頼むと、こんな回答が返ってきた。

日本語の堪能な友人なので、原文のまま掲載します。

「割礼は元の目的は清潔の為です。

民族によって、割礼年がバラバラです。

スンダ族はだいたい7歳までにしますが、ジャワ族は中学生になる前、小学校生の時にする。

割礼方法は最近は医者でしてますが僕らの頃は割礼前の朝4時ぐらいに川に入って、麻痺させて、竹の川でチンポの先の皮膚を切る。

切った後に馬に乗せて、家に帰る。

家によってお祝い儀式が1日から1週間行う。

切ったチンポが乾くまでは数日ココナツの革を三日月の形にして、空気が入る様にサロンに挟む」

こんな赤裸々な言葉に、ビックリ。

「割礼しないと、罪になるのか?」と聞くと。

「ないけれど、イジメられバカにされる可能性あり」

「外から見ると残酷に感じるけど、イスラムの人は誇りに思っているのですね?」の質問には。

「はい、1人前の男のシンボルマークにもなる」

気になっていた、女性の割礼についても聞いてみた。

「ありますが儀式はない」

これ以上聞くのは、差し控えた。

機会があれば、インドネシアの割礼儀礼にも参加したいものだ。

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2020年05月31日

トルコの旅・地中海の最東部の街 タルスス(3)

この日は、歩道に張り出して営業しているレストランで夕食をした。

隣のテーブルで食事をしていたグループの一人に、声を掛けられた。

流暢な日本語だった。

キリムのお店を経営している、オメール君。

恋人は日本人だという。

カッパドキアに行く予定だと話すと「実家で割礼儀礼があるから来ないか」と誘われた。

そうトルコは、イスラム圏だ。

割礼儀礼については賛成できかねるが、慣習としては見てみたい気もする。

オメール君の実家は、カッパドキアから少し足をのばすだけで行けるという。

急ぐわけでも予定のある旅でもないので、儀礼のある日を聞いた。

カッパドキヤに滞在した後に、訪れると約束をした。

長距離バスの買えるツーリストオフィスを紹介してくれた。

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行き先は、トルコ中南部の街・タシュジュ(この時は、そう思っていた)。

長距離バスは、ギョレメから南下する。

ガイドブック「地球の歩き方・トルコ編」を携帯しているので、詳しく知ることができた。

これを書いている手元にガイドブックがないので、曖昧な記憶で記載している。

ガイドブックを参考に、車窓の町々を確認する。

街の解説や見どころなどを読んだ。

メルスィン(Mersin)のバスターミナルでローカル・バスを乗り換えた。

バスは通勤客を乗降しながら、いくつかの街を通り抜ける。

タシュジュは途中下車だった。

私の乗ってきバスは、先の目的地に向けて急いだ。

降車した人の流れは、幹線道路を外れていく。

その流れに従って進むと、ロータリーに出た。

見回すと、商店の少ない閑散とした港街だった。

ロータリーの向こうには、大きな船が見えた。

タシュジュは、地中海の最東端にある街。

船着き場には、キプロス島行きの案内が出ている。

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迎えのオメール君の姿は見えない。

心細くなってくる。

しばらくして、オメール君から携帯に電話がかかった。

「今、どこにいるの?」

「タシュジュ」と答えると「違う、タルスス(Tarsus)だよ」と言われた。

通り過ぎた街だ。

どうやら私は、待ち合わせの街を間違えていたようだ。

タルススは、メルスィンの手前30キロ地点にある。

タシュジュは90キロほど先。

オメール君は、メルスィンのバスターミナルで一時間も待っていてくれたようだ。

今から、メルスィンに戻るのは時間が遅すぎる。

明日、早朝のバスでメルスィンに戻る約束をした。


今夜は、この街に泊まることになる。

視界に、宿らしいものは見当たらない。

ロータリー前にあるホテルは、時間が遅かったのか閉まっていた。

あたりはすでに暗い。

もう、決断するしかない。

ロータリーの芝の上で、一夜を明かすことに決めた。

芝生には、出航待ち人が横になっている。

野宿には、最適な場所だ。

こんな時には、昔取った杵柄が役に立つ。

と言っても、ホームレスをしていたわけではありませんよ。

ナホトカ航路発で帰路シルクロードという旅の経験者だからといって、自慢できる杵柄を持っているわけではない。

アムステルダムでは、川に繋留されていた船に潜り込んで寝た。

早朝、船主に追い出された。

チューリッヒでは、駅前で寝た。

ホームレスのおじさんたちは、地下から温風の出るマンホール近くに寝場所を与えてくれた。

まだまだあるが、こんなところにしておこう。

だからといって、57歳の親父が異国で野宿はどんなもんですか? と自問する。

そんなことは御構い無しで、スヤスヤと快適な眠りについている。


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2020年05月24日

トルコの旅・イスタンブール(2)

イスタンブール訪問は、1970年以来の35年ぶりだ。

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1970年、その時の話を、少ししたい。

ギリシャのアテネからイスタンブールまでは、ヒッチハイクを敢行した。

幹線国道なのに、走っている車の数は少なかった。

長時間待つことが心細くなり、しかたなく大型トラックを止めた。

運転手はフレンドリーで、快適なドライブだった。

突然、トラックが路肩に止まった。

「私は、ここから国道を逸れる。あの灯りがイスタンブールだ!」

運転手の声が聞こえた。

灯りは、歩くには遠すぎる。

「家に寄って行け」と執拗に誘ってくる。

予感はしていたが、やっぱりホモだったか。

旅行中、何度もホモダチになる危険に遭遇したが切り抜けてきた。

ここで降ろされるのも困る。

ホモの餌食になるか、徒歩で走破するかの、残酷な二者選択を迫られた。

男色趣味とわかっていて、ついて行くわけにもいくまい。

結果、私は国道の途中で落とされた。

トラックは、無情にも脇道を曲がっていった。

あまりにもショックだったのか、どうやってイスタンブールにたどり着いたか、記憶がない。

プディング・ショップに寄った。

ヒッピーと呼ばれた旅行者たちが、情報交換のために必ず訪れる店だ。

(ヒッピー=トルコ語で ”恋する者” の意味)

どろどろのトルコ・コーヒーを啜りながら、ブルー・モスクを見上げた。

当時、トルコのコーヒー(カフヴェ)は、粉が細かく、味も濃い。

直接、粉を溶かして飲む。

飲み終えた時には。どろりとした軟泥状のものが、カップの底に残る。

桟橋で食べた、パンに焼き魚を挟んだサンドイッチは美味しかった。

グランド・バザールでトルコ石とカメラを物物交換した。

長姉の旦那に餞別でもらった一眼レフ・カメラは、旅の途中で壊れていた。

日本から長兄が送ってきた綺麗に写っている家族写真を見せると、商人は信用した。

ちょっとした詐欺行為に心が痛んだが、残り少なくなったお金は使いたくなかった。

安宿の鍵が壊れていて困ったことなどが、断続的に思い出される。


このあと、テヘラン(イラン)に向かう鉄道に乗るのだが、この記憶も少ない。

列車は、猛烈に込んでいた。

ボックス席に乗り合わせた青年は、拳銃を携帯した軍人だった。

どことなく危険な風貌。

遠慮なく、ジロジロと見つめてくる。

怒らせては大変だと、手にしていたトイレットペーパーをちぎって渡した。

青年は、ペーパーを鼻に近づけ匂いを嗅いだ。

香水の香るペーパーに感動したのか、顔がほころんだ。

ヨーロッパのカフェで失敬してきたトイレットペーパーが、こんなところで役に立つとは。

群がって来た乗客に配ると、瞬く間に一本がなくなった。

ピンクのトイレットペーパーの端切れを大事そうにして、匂いを嗅いでいる姿が滑稽だった。

トイレットペーパーを使わない民族なのか。

強烈な記憶がひとつある。

列車が止まった。

窓外を除くと、屋根のない人気のない、一本のプラットホームだった。

座り疲れた身体をほぐそうと、プラットホームに降りた。

数人が凝視する先を、誘われるように見た。

列車の下に、人がうずくまっている。

上半身が、こちらを見た。

事故だ、早く病院に連絡を。

私は「ホスピタル!ホスピタル!」と連呼した。

近くにいた男性が「近くに病院はない」短く答えた。

栄養失調の人が風圧で線路に落ちるのは、よくあることだと言う。

しばらくして、電車は出発した。

切断された身体を残して。

節約旅行に危険は付き物だと心得てはいるが、あらためて心を引き締めた記憶がある。

イスタンブールからバンコクまでは、1万円の旅だった。

1ドル365円の時代だ。

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35年ぶりに再訪したイスタンブールは、すっかり変貌して都会になっていた。

北ヨーロッパに古くからある街並に似ている。

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バックパックを背負っての宿探しは大変だった。

ウブドから来た節約生活者にとっては、宿泊費は割高に感じる。

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ホテルの窓からの景色

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プディング・ショップは、立派なレストランになっていた

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パフォーマンスをするアイスクリーム店

トルコ・コーヒーの記憶は美味しく思い出されていたが、今回飲んでみて、決して2杯目を頼もうとは思わない味だった。

1990年「寝床を探す旅」に、イスタンブールも候補地の一つだった。

バリ島ウブドを選択したのは、正解だったかもしれないと痛感している。

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2020年05月16日

トルコの旅・カッパドキア(Kapadokya)(1)

外出自粛で、時間が有り余っている。

MacBook Airに入っているデータを整理することにした。

古い旅のメモが出てきたので、読み返してみた。

2005年のトルコ・カッパドキアの旅。


私がカッパドキアを知ったのは、友人のレストランで手にした写真雑誌だった。

カッパドキアとは、馬の故郷と言う意味らしい。

「美しい馬のいる土地」という意味のペルシャ語で、カプトキー(kaputky)と発音された。

カッパドキアと呼ばれる一帯は、トルコ中部にある。

太古の昔、火山灰が堆積しそれが凝固したが、厳しい気象条件により風化して、柔らかい岩が削り取られ、堅い岩が残って奇岩となった。

中世、イスラム教徒により迫害されたキリスト教徒たちが岩をくり貫いて隠れ住むようになったと本にある。

この景観は異様であり、トルコ有数の観光地として知られている。

その奇岩の村の写真を見て、わたしは、是非行ってみたいと思った。


何の計画も立てずに行き当たりばったりの旅だから、参考にはならないと思うが、まあ読んでください。

これまでの経験から、こうして遠くへ来ると、この町には今後2度と訪れることはないかもしてない、という感慨が起こる。

そう思うと、この機会に充分に記憶に焼き付けておこうと、欲がでる。

こうして私の旅は、その土地を体感しようと、どん欲に歩き回ることになる。


バリ島滞在者の私は、タイ経由でトルコ・イスタンブールに向かった。

トランジットとは聞いていたが、まさか泊まりのなるとは。

エジプトの空港で降り、何のアナウンスも受けないまま、ウロウロ。

状況が飲み込めた時には、空港近くのホテルに押し込まれた。

英語もできないので、感に頼るしかない。

かなり焦ったゾ。

イスタンブールに数日泊まり、ツーリスト・オフィスでトルコ中央部の街・ギョレメ(Goreme)までの長距離バスのチケットを購入。

カッパドキアは、ギョレメ近郊にある。

快適な高速バスに乗り、首都アンカラを素通りしてギョレメのバスターミナルに降りる。

バスターミナルからは、ミニバスに乗り換え、カッパドキアへ向かう。

降り立つと、目の前は、夢に見た奇岩の風景。

「何?」 

「どうして?」
 
「なんでこうなる?」 

疑問が湧く。

これが見たかったのだ。

宿は、飛び込みで探す。

10分ほど歩いたところにあったケーブ・ホテルに決めた。

内部は、まさに洞窟だった。

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街の入り口広場にあるレンタル・バイクは、遠出するツーリスト用だろう。

私は、この街を歩いて巡ることにした。

奇岩の家々が点在する街中に、車の往来はない。

回り道、坂道、袋小路と起伏にとんだ道、T字路、Y字路、Z字路や複数の道が交差する。

放置された荷車が、古代を忍ばせる一種独特の情緒を醸し出している。

冷たい水の出る水道が目につく。

冬期に備えて薪として使われるのだろう、塀の上や壁にもたれかけた枯れ木が山になっている。

冬には雪が積もるらしい。

牛、鶏、犬、猫、鳩、牧歌的な風景。

ロバの糞がいたるところで悪臭を放っている。

その土地が気に入ると、そんな匂いも長所となって許されてしまう。

人口が少ないのか、村人と触れ合い機会は少ない。

老人がテーブルを囲んでゲームに興じていた。

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(麻雀のようなゲーム)

一時間も歩けば、街を一周できる。

街中を離れると、ガラガラヘビでも出そうな木々の少ない野原になる。

家並はないし、木陰も少ない。

木陰があったとしても観光客の好奇な眼があちこちに光っていて、立ち小便もままならない。

ちなみに、私はお腹を壊して、やせ細った木陰を探してキジ打ちをしたことがある。

冷や汗ものの勇気がいった。

途中トイレは無いので、出かける前に用は済ましていこう。


地層の違いで、先っちょに濃色の岩がのった、チョコレートスナック菓子「きのこの山」のような岩々の姿。

生クリームでものったような岩、ジョーズが頭をもたげているような岩、白雪姫の物語に出てくるこびとの家のような岩。

奇怪な円錐形の小山。

小山には、いくつもの窓らしき穴がある。

らくだのこぶのように連なる奇岩と岸壁に掘られた住居。

これは掘り出して作られた家だ。

2人がかりで、およそ1ヶ月で出来てしまうほど柔らかいという。

自然現象と、人間の技と生活の知恵によって作られた家。

常識では考えられない造形。

自然の造形物は、店舗デザイナーだった私には魅力的だった。

都会的直線が皆無で、自然の織りなす曲線で造られた街は、私の感性を有頂天にする。

サラサラと砂の落ちる音が聞こえる。

今でも風化している。

亀裂が入り、いずれは崩れるだろうと思われる岩。

危険のないように建築されているのだろうが、生活している人には申し訳ないが、わたしは崩れかけた塀や壁が好きだ。

これはツーリストのわがままな意見として聞いてください。

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網の目のような道を抜けて、丘の上に登る。

日本ならさしずめ裏山といったところだ。

街を見下ろす。

ひとつとして同じ形がないというのが嬉しい。

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夜は、奇岩と街路樹がライトアップされる。

きらめく街と夕焼けも美しい。

空気の澄んだこの土地なら、さぞかし星空は綺麗なことだろうと、期待をしていた。

残念なことにライトアップされた街灯の明かりで、満天の星をいうわけにはいかない。

生憎というか幸いというか、停電になった夜があった。

空には、満天の星が煌めいていた。

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(よく利用したカバブの店)

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(夕食に利用したレストラン)


ツアーに参加すると、地下都市、フレスコ画の残る岩窟教会、ウフララ渓谷などが見学できる。

陶器工場・キリム工場にも立ち寄る。

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(陶器工場)

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(キリム工場)

気球ツアーが人気のようだが、私にそんな余裕の予算はない。

トレッキング・コースは、どこまでも続く奇岩に圧倒される。

近くにいくつも奇岩の渓谷がある。

大地にいきなり窪地ができたように、大きな渓谷が広がる。

映画のロケ地になりそうだ。

さしずめアクション物かロマンス物。

私なら奇岩の屋根を失踪するアクション物だ。

キャラバンサライ(隊商宿)にも立ち寄った。

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(昼食付きのツアーだった)

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(ツアー・オフィスのスタッフと夕食)


10日間の滞在は、あっという間に過ぎた。

経済的に許されるなら、長期滞在してみたい場所となった。


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2020年05月07日

30年前・ウブドに沈没!(353)

今なお、「新型コロナウイルス」の蔓延が、世界中を脅かしている。

観光の島バリは、呼吸するのがやっとの状態。

熱帯の陽光のもと、貧窮の風が背筋を寒ざむと通り過ぎていく。

先行きは、未だ闇の中。

一日も早く終息をすることを熱望してやまない。


30年前の1990年5月7日、私はバリ島ウグラライ空港に降り立った。

当時の心境を「ウブドに沈没」で語っている。

読み返して、振り返ってみた。


■はじめに

このコラムは、わたしが1990年5月7日にバリの地を踏んだ時から、ウブド滞在の約1年間を思い出しながら記してみたものである。

コラムというより、日記かメモと呼んだ方がよいかもしれない。

1990年のウブドは、濃緑の墨があるとすれば、そんな墨で描かれた水墨画のような風景だった。

それは、ひとたび闇に包まれると、モノトーンのグラデーションの世界となったものだ。

タイトルの「ウブドに沈没」はウブドが水中に沈むのではなく、わたしがウブドの魅力に惹かれ長期滞在していく過程を意味している。

ウブドを訪れた第一印象は、「日本の30年前に似ている」だった。

郵便局が一軒。

郵便は住所不定の外国人には配達されないので、定期的に郵便局に出向かなければならない。

個人所有のテレビは少数で、村人は集会場に設置されたテレビを鑑賞していた。

モータリゼーションとは無縁の村で、自動車、バイクも数えるほどだった。

それから22年が経過した。

村で数台しかなかった電話は、電話線敷設より携帯電話の普及の方が早かった。

ウブドは、目覚ましく変貌した。

今では、インターネットが使える携帯を持っているバリ人が多い。

WiFi完備のホテル&レストランが普通になりつつある。

22年間、一度も日本に帰国しないほど沈没してしまった「ウブド」っていったいどんなところ?

これを読んで、あなたも「ウブド沈没」気分を味わってみてください。

記憶が薄くなって曖昧なところもあり、途中で思い出して追加&訂正することもあるのでお許しください。

後半は、ネタ薄。


■5月・1)寝床を探す旅

1990年5月7日

隣のシートに、20代後半と思われる日本人女性が座った。

小柄で色白、それ以外にこれといった外見的特徴のない女性だ。

わたしは、彼女に向かって軽く会釈をした。

「わたし、ウブドの花嫁になるの!」

喜びを隠しきれないようすで、彼女は話しかけてきた。

ウブドはインドネシア・バリ島の山間部にある芸術の村として有名なところだが、飛行機に隣り合わせた誰もが知っているとでも思っているのだろうか。
「わたしも、ウブドに行くんですよ」

「貴族に嫁いで有名になった女性もいるけど、わたしの彼は平民なの。そんなこと関係ないわよね。愛があれば」

そう言って、くったくなく笑った彼女の顔に、限りなく広がるバラ色の前途が光り輝いているようだった。

彼女は小さなノートのページをめくり始め、会話は一方的に終止符が打たれた。

同席した親しみで返した、わたしの励ましの言葉は、聞こえなかったようだ。


こんな調子で始まる「ウブドに沈没」。

「寝床を探す旅から」〜1991年3月(29)「ニュピ祭礼日の過ごし方」までを綴っている。

外出自粛の時間つぶしの、お読みい頂けれは嬉しいです。

こちらをクリックしてください:http://informationcenter-apa.com/ubud-chinbotu.html


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2020年04月25日

外出自粛のウブド!(352)

入国制限のため、ウブドの観光客は壊滅状態。

多くの店舗が休業&営業時間の短縮をしている。

新型コロナウイルスの終息は、いつのなるのだろう。

人々は、一縷の望みをつないで息を潜め、ことの成り行きを見つめている。

気になるウブドの感染状況(24日)。

微妙に、増えているようですね。

大型クルーズきゃく船で働いていた人々が帰ってきたからだ、という噂です。

陽性も陰性も理解できない私ですが、参考になったコメントを見つけたので添付します。

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⚫︎Konfirmasi Positif:肯定的な確認(ひょうっとすると、これが陽性のこと?)

⚫︎Sembuh:治癒

⚫︎Pasien Dalam Pengawasan(PDO) :監視対象者
38度以上の高熱、上気道に感染症が認められ、肺炎があり、感染者との濃厚接触あるいは感染国への渡航歴がある人というカテゴライズされている人。
⚪︎上気道(じょうきどう)は、呼吸器(気道)のうち、鼻から鼻腔、鼻咽腔、咽頭、喉頭までをいう。 これに対して、喉頭よりも肺側の気管、気管支、細気管支、肺を下気道(気管より末梢の気道)という。

⚫︎Orang Dalam Pemantauan(ODP):観察対象者

肺炎などの感染症状が出ていないものの、感染国への渡航歴がある人とされる。

⚫︎Orang Tanpa Gejala(OTG):症状のない人(これが理解できない)

⚫︎Lainnya:その他(これも理解できない)

いずれかのグループに区分けされた患者に対して優先的に感染検査が実施されているいうが、検査キットや機材が絶対的に不足していることからとても全員が検査を受けられるという状況ではないという。


ウブドの様子は?


日頃、観光客で賑わう「ウブドの十字路」と「テガララン村のライステラス」。


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タマン村では、スリウェダリ通りとサンダット通りの南入り口で、マスク着用のチェックを行っている。

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ビンタン・スーパーのレジでは、密着を防ぐための立ち位置が指定されている。
コンビニでも、同様に行われてようだ。
スーパー&コンビニでは、出入り口でマスク・チェックと掌にアルコール液の散布も行われている。

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デルタデワタ・スーパーで見かけたブースは、何用か?

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いつもなら大勢の人で賑わうウブド公設市場。

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こちらも、いつもは・・ウブド市場の南のデヴィシータ通りと結ぶカルナ通り。

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ウブド大通り西部、チャンプアン橋に向かう風景。

地獄を見ないうちに、終息して欲しいです。


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2020年04月22日

悩み多き、老人のつぶやき(351)

生活費の困窮を回避する目的で、ボロブドゥールへの本拠地移動を考えていた。

新型コロナウイルスの感染で、足止めをよぎなくされた。

日々、世界中で感染者は増えている。

今後、何ヶ月この状態が続くのか。

終息の先行きは、未だに見えていない。

このままでは、年内に貯金が底をつくのが目に見えている。

問題は、年末のリタイヤメント・ビザ更新だ。

今回の更新は5回目(5年目)の延長がすんだため、新たにビザ申請のために出国する必要がある。

出国はシンガポールにしている。

航空券とシンガポールでの代行業者への支払い、バリに戻ってから代行業者への手数料。

この金銭が用意できなければ、不法滞在になってしまう。

先行き不安な生活は、続いている。

私は、好き勝手に生きてきた。

「末路の哀れは、覚悟のうえ」

泣き言は言わないはずだったが、今回はちょっと堪えている。


的確じゃない例えかもしれないが、現在、人類は癌を宣告されたにも似ている。

正直言って、宣告されたことのない私には本当の意味で理解できないだろうから、不謹慎な発言かもしれない。

あるいは、余命を宣告されたのかもしれない。

手をつくしても、生き永らえることはできない事態。

患者本人、周りの人々の恥部が、露出することもある。

修羅場になるかもしれない。


人類の起源は、600万年前〜700万年前ほど。

人の起源は、20万年前と言われている。

この長い時間を人は、生き続けてきた。

様々な苦難もあったろう。

それでも、人類は続いている。

人の一生は、長くて100年ほど。

人間は、一生をまっとうして消滅する。

今回の新型コロナウイルスは、自然が帳尻を合わせようとしているのか。

人口の自然淘汰か。

そうは思いたくない。

連綿と続いた人類を、滅亡させてはならない。

人類の滅亡は、地球の滅亡でもある。

しかし、前途有望な若者には、地球は必要だ。

人類は、克服しなくてはいけない。

「万物の霊長」と言う傲慢な考えを捨てされ!

人類の恥部をさらけ出すことになるだろうが、新しい世界は、地球を救う力を携えていることだろう。

世界中の人々が総力をあげて立ち向かえば、光明はさしてくるはずだ。


泉谷しげるの「春夏秋冬」を口ずさんだら瞼の裏が熱くなった。

サビの部分は、こんな歌詞だ。

『今日ですべてが終わるさ 今日ですべてが変わる』

『今日ですべてがむくわれる 今日ですべてが始まるさ』

一日も早く、終息することを願望している。

悩み多き、老人のつぶやき、でした。


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2020年04月18日

さあ「ガーヤトリーマントラ」を唱えよう!(350)

至福とは、肉体ではなく、精神的なエクスタシーなり。

世界が、それに気がつけば、地球は救われる。(from itosan-ubud)


「 GAYATRI MANTRA 」

Om
オーム
至高の神よ

Bhur Bhuvah Suvaha
  
ブール ブヴァッ スヴァハ
  
地、空、天界

Tat Savitur Vareniyam
  
タット サヴィトゥル ヴァレーンニャム
  
私たちの聖なる母よ、その輝きは、
私たちの心にある暗闇を滅します。

Bhargo Devasya Dheemahi
  
バルゴー デーヴァッス ジャディーマヒ
  
私たちは、その聖なる輝きに瞑想します。

Dhiyo Yo Nah Prachodayath
  
ディヨー ヨー ナッ プラチョーダヤート
  
私たちの内なる知性を目覚めさせたまえ。




私たちはこのガーヤトリーマントラを唱える時、神を描写し(1〜3)、瞑想し(4)、祈願する(5)、という三つの意念が込められているのです。

ガーヤトリーマントラは、一日三回唱えることが定められています。

三回とはすなわち、朝と昼と夕方です。

ガーヤトリーは五つの顔をもつ女神であり、これら五つの顔(1〜5)を
  

もって存在するガーヤトリーは、五つの生命力(プラーナ)でもあります。
  

女神はすべての生命を守護し育てます。
  

生命を守護している時、この女神はサーヴィトリーと称されます。
  

サーヴィトリーは真理に基づく生活を送る人を守り導きます。
  

人の倫理的知性を高めようとする時、女神はガーヤトリーと称されます。
  

女神があなたの語る言葉を守護して育てる時、女神はサラスワティーと
称されます。
  

このように女神は、言葉と生命と倫理的知性を守り、ガーヤトリーとして
サーヴィトリーとしてサラスワティーとして、あらゆる方面から人を守護し
育てます。

これら五つの顔をもつ一つの神こそが、生命力そのものです。私たちの生命力を保つ植物をはぐくみ、世界を維持しているのは太陽です。
  

ですから、ガーヤトリーマントラを唱えている時、直接、太陽エネルギーに
『暗黒を追い払い、肉体が浄化され、アストラル体(感情体)が浄化され、コーザル体(魂の器)が浄化されますように』と祈っているのです。
posted by ito-san at 15:43| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月17日

外出自粛の日々!(349)

毎日、ネットで日本のニュースを見ている。

死亡者数をパーセンテージで示していることに業腹だが、新型コロナウイルス関係に使われる言葉も気に入らない。

意味の理解できない横文字言葉が使われていると思いませんか?

いちいち検索する必要がある。

クラスター(cluster):集団感染

ロックダウン(rockdown):都市封鎖

オーバーシュート(overshort):感染した人が急に増えること。感染した人を合わせた数が2〜3日の間に2倍に増えた時に使う

パンデミック(pandemic):感染症の世界的な大流行

ソーシャルディスタンス(Socialdistance):社会的距離

これでは、緊張感が伝わるわけはないだろう。

庶民に危機感を持たせないために、意識的に緩和する表現をしているとしか思えない。

英語の不得意な老人の私に、ひがみだろうか、そんな風に受け止めてしまう。

ダイレクトに日本語を使って欲しいと思うのは、私だけだろうか。


バリも、外出自粛が20日間を過ぎた。

メリハリのない日常と暗雲が漂う屋外に、活力が湧かない。

外出できないだけで、これだけ生命力が奪われてしまう。

じわじわと感染者の足音が近づいて来ている気配がする。

そろそろ、身近に感染者が出てきそうだ。


ニュビ前日の「お祓いの儀礼」


「和食・影武者」が臨時休業に入った4月1日から、私のルーティンワークが大幅に変わった。

勤め人ではないので、毎日が日曜日な生活をしている。

よって、昼ころになっての起床。

これまでは、午後3時30分頃からバイクで外出。

コンビニで雑貨の購入、バイクの給油、クリーニング店、スマホにSIMの補充、など。

一日ひとつの小さな用事を済ませる。

時には、お気に入りのカフェでコーヒータイム。

思い立つと写真や動画を撮りに出かけていた。

5時30分までには部屋に戻り、運動不足を感じれば縄跳びと軽い体操。

その後は、暗くなるまで、テラスで読書にふける。

烏の行水のようなマンディをすませる。

バスタブはあるのだが、経費節減で利用していない。

風呂好きな私には、ちょっと辛い。

午後8時45分の出発で「和食・影武者」に向かう。

女将からの心づくしの夕食をとったあとは、友人たちとの楽しい歓談だ。

これが私の日常でした。

読者の皆様には、こんなことを教えてもらっても何の興味もわかないことでしょう。


こんな平凡な日常が、いきなり遮断されたのです。

自粛だから外出はできるのだが、感染の拡大を防ぐ意味で、私は控えるようにしている。

新たなルーティンワークは、さらに日曜色を強くした。

雑貨の買い物は、村にある、マンク(お坊さん)の経営するワルンへ。

夕食は、大家さんに頼んだ。

大家さんの食事は質素だが、満足している。

外出を控えたので、バイクの給油、クリーニング店、スマホのSIM補充も軽減した。

ほとんど屋敷からと言うより、村から出ない生活だ。

先日、ちょっとウブドを駆け巡ってみた。

これまでツーリストで賑やかだったウブドは、閑散としていた。

通りには、重い空気が漂い、目に見えない邪鬼が蔓延っているように感じた。

幸いにして戦争は未体験だが、あたかも戦禍のように活気が失せるている。

そんな世界へ、出かけたいとは思わない。

終息の先行きが見えてこない。

何度も言うが『一日も早い終息を願っている』


posted by ito-san at 15:00| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月11日

越路吹雪さんを思い出す!(348)

3月27日に、外出自粛が始まってから、2週間が経つ。

幸い、世話になっているパチュン家に、ネット環境が整っていて助かっている。

お陰で、暇を持て余さずにいられる。

メールとフェイスブックも毎日、利用している。

YouTubeで、日本からのニュースを見るのが日課になった。

ニュースを見ていて、「あなたにおすすめ」メニューに、私の好きな女優さんの姿が写っていた。

彼女が主演のテレビ・ドラマ「越路吹雪・愛の生涯」だった。

越路吹雪さんは、シャンソン歌手として有名な芸能人。

「愛の讃歌」「ラストダンスは私に」「サントワマミー」「ろくでなし」などのヒット曲は、私も口ずさんだことがある。

彼女が師と仰ぐ、エディット・ピアフ女史の「愛の讃歌」は、フランス語の理解できない私の心にも響く。

主演の女性は、越路吹雪さんと同じ宝塚出身の女優。

ドラマを見て、越路吹雪さんが1980年に亡くなっていたのを知って驚いた。

Googleで検索すると、56歳の若さで死去していた。

40年前に亡くなっているので、知らない人も多いことだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=SyMeOtZbMKw
越路吹雪さんの「愛の讃歌」


越路吹雪さんとは、1968年、私が20歳の時に会っている。

会っていると言っても、お客様とスタッフの関係だ。

この頃私は節約旅行中で、フランス・パリの日本食店「桜」で、アルバイトをしていた。

バイト期間は6ヶ月。

これは不法滞在だ。

21歳の誕生日は、独りでヒッソリと迎えた。

越路吹雪さんのエピソードを思い出したので、書き留めておく。

当時、彼女が44歳だったのに驚く。

すでに、国民的歌手のひとりだった。

NHK紅白歌合戦に、1956年から1969年に連続出場していることが証明している。

彼女は、開店前の「桜」に顔を出した。

スタッフの食事中だ。

このレストランでは、食事は客席ですることになっている。

カウンターの裏や厨房内で、隠れてするようなことはしない。

賄いご飯だが、手抜きはない。

これは、経営者の方針だった。

私がウブドに「居酒屋・影武者」を開店した1992年、バックパカーを受け入れたいと考えていた。

残念なことに、インドネシアは不法労働者に厳しく、実現できなかった。

時効だろうと考えられる今だから公言するが、かく言う私は長い間、不法労働だった。

越路吹雪さんの話に戻そう。

「ごめんなさい。食事中だったのね」

食事中のスタッフを見て、彼女は戸惑っていた。

「開店前なんですよ」シェフが対応する。

「うどん! 美味しそう!」

そう、この日の食事はうどんだった。

シェフは「うどんでよければ、食べて行きませんか?」とすすめた。

私以外のスタッフは、彼女が有名な越路吹雪さんだとは気づいていないようだ。

乙女のような微笑みをたたえて、入り口に近いテーブルの腰を下ろした。

絶頂期幕開けの芸能人とは思えない、控えめな態度に、私は心を打たれた。

「桜」は、日本からの有名人が来店する店。

カンヌ映画祭に参加する監督たちも、紳士的だった。

世界的名声の高い指揮者の使いが、ご主人様の名前を挙げて、オーダーストップ後に弁当の注文しようとした。

有名人なら融通をつけてくれるだろうという、心根が嫌いだ。

私は、注文を断った。

彼女は、有名人を鼻にかけることもなかった。

食べていったのか否かは、記憶にない。

検索から、毎年行われている日生劇場リサイタルの合間を縫ってのパリ訪問だったろうと推測する。

今、自分の44歳を振り返っている。

https://www.youtube.com/watch?v=aPcHqDlROb4
エディット・ピアフ女史の「愛の讃歌」


posted by ito-san at 14:10| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする