2017年03月22日

影武者スタッフ・クトゥット君の訃報 (123)

先週の日曜日(12日)から、この一週間、知人の訃報が続いた。

年を取ると知合いが増える。

そのどこかが、綻びる。

この日(19日)で、4人目。

「和食・影武者」のスタッフ・クトゥット君が逝った。

女将の由美さんから電話で知ることになる。

聞いたときは、唖然として、声もでなかった。

「どうして! どうして! どうして!」

心の中で叫んでいた。

近い将来、年取った私を実家に住まわせて面倒見てくれると言っていたではないか。


クトゥット君は、21年前に私が雇い入れたスタッフだ。

ウブドでホテル勤めをしているお兄さんが、頼みに来た。

お兄さんが、なぜ私を知っていたかは、記憶にない。

20歳だった彼は、生意気盛りの顔で私に接した。

私は、こんな態度の若者に共感を得る。

接客を担当したのだが、適任だった。

陽気な性格は、スタッフの牽引役になり。

店舗の造作にも気を配り、適切に指示をする。

手先が器用で、私が伝授したバナナの幹で作る紙も作れるようになった。

彼の実家近くで行われる合同火葬儀礼に、アパ?情報センターのツアーで参加した。

「帰りに、家に寄ってくれ」と誘われた。

そのときに賄われた料理が、参加した日本人全員の嗜好に合った。

もちろん私も満足した。

料理上手な奥さんのカルニーとクトゥット君を「ワルン・ビアビア」のオープニング・スカウトに誘ったことがある。

「私は、ここでお世話になっているので、止めるわけにはいかない」と義理堅いことを言う若者だった。

カルニーは働いてくれて、レシピーを作ってくれた。

レシピーは今でも受け継がれていると、現在のオーナーから聞いている。

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今年の7月で70歳になる私は、死の覚悟は出来ている。

今生に未練を残さない生活を心掛け、いつでも旅立てるように心構えはしている。

これからの一年一年は、神様からのおまけの人生だと思っている。

両親が他界した時、すでに社会人だった私の涙の源泉は、思い出だった。

他人の死の悲しみは、思い出の数だけある。

私の死で悲しむ者もいるだろうが、年齢で大往生だと納得してくれるだろう。


しかし、クトゥット君の場合は違う。

彼は、41歳と若い。

大往生とは違う。

働き盛りだ。

残された者の悲しみを計らなければいけない年齢だ。

若者の死の悲しみは、深い。

奥さんのカルニーも若い、2人の男児も幼い。

彼らの喪失感は、私には想像もできない。

お母さん、お兄さんも、さぞかし悔しかろう。

クトゥット君は、精神的な病を克服できなかった。

苦しみは、他人が計り知ることはできない。

辛かっただろう。

生死をさまよった数ヶ月で、くだした決断。

自分で命を断つことだった。

来世を選ぶほど、苦悩したのだ。

愛妻と二人の息子を残して、さぞかし心残りだろう。

私の人生で、はじめて経験する知人の死に様。

信じられない。

認めたくない。

バンジャールで火葬が出来ないため、火葬はその日のうちにヌサ・ドゥアにある葬儀場で行われた。

私は、列席しなかった。

頭も内臓も空っぽ、身体は重いのに足は地につかない、そんな状態で、大雨の中、バイクを走らせる気にならなかった。

実は、クトゥット君の死を受け入れられなくて、先送りいしたいのだ。

引き延ばしたところで、現実は変らないのに。


「影武者」での夕食後、クトゥット君は、何も言わずコピ・バリを出してくれる。

いつのまにか、他のスタッフも見習って恒例になっていた。

「あずき寒天、食べますか? アイスクリームは何をのせますか?」デザートを進めてくれる。

花粉症の鼻をズーグー鳴らしていると、トイレットペーパーのロールが一巻きテーブルに置かれる。

いつも気にかけてくれていた。

私は、いつまでも忘れない。

クトゥット君、もう苦しむことはないね。

安らかにお眠り。

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2017年03月18日

ワルン・ティンティン=Warung TINGTING(122)

ウブド西部・ペネスタナン村には、数多くのツーリストが長期滞在する。

特にビンタン・スーパーの裏手一体は、欧米人の住む特別エリア。

「ここはバリ?」と錯覚するほどの雰囲気を持った町並みだ。

そんな環境のせいか、オシャレな店が増えている。

「ワルン・ティンティン」も、そんな一軒。

ペネスタナン村の端、メイン道路を西にカーブすると人気カフェ「ベスパ」がある。

「ベスパ」の東側の村道を直進して、家並みが左右に残る石畳を進むと、道は100メートルほどで行き止まる。

右手は、プシンパナン・ウルンダヌー寺院(Pura Pesimpangan Ulundanu)。

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正面に見えるのが「ワルン・ティンティン」。


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一階のステンドグラスとピー玉のはめ込まれた階段が、印象的だった。


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2階席は、風が吹き抜けて心地よい。


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友人のミサトさんが描いたスケッチが置いてあった。


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手作りの万華鏡が、アンティックな雰囲気を醸し出していて気に入った。


ワルンの玄関横の建物で、グラインダーで何かを削る作業をしている男性を見つけた。

興味をひかれたので中を覗いた。

ステンドグラスを作っている工房だった。

20年前に、オーストラリア人から手解きを受けたらしい。

その頃に、ワルンのある場所で工房を持ったと言う。

男性は「ワルン・ティンティン」のオーナーだった。

どおりで、店内にステンドグラスが多いはずだ。

貧乏な家庭に生まれ、苦労をした話を聞く。

図面を持ってくれば、注文に応じてくれる。

ちなみに万華鏡は、Rp550,000-だそうです。


メニューが手頃な値段なのでお薦めです。

★メニュー:インドネシア料理

★食事:ミーゴレン&ガドガドRp20,000-/ナシチャンプール&ナシゴレンRp25,000-/etc

★飲物:紅茶Rp10,000〜/コーヒーRp15,000〜/ジュースRp15,000〜/ビンタン・ビール大Rp35,000-小Rp25,000-/etc

★営業時間:8.00am〜10.00pm(定休日・ニュピ&ガルンガン&クニンガンの祭礼日)

★Phone:(62 361) 975 954

★Email:Tingtingwarung@gmail.com





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2017年03月11日

アヤム・カンプン=Ayam kampung(121)

コーヒーは、かまどで沸かした湯を使っている。

薪は、使わなくなった流木の木っ端。

コーヒー一杯分のお湯を沸かすには、木っ端も少しでいい。

暑い昼下がり、いつものようにかまどの前に立つ。

何度も言うが、私は暑い日でも焚き火をするほど火を見るのが好きだ。

かまどの上に、真っ黒に煤けたヤカンをのせる。

インドネシア製100円ライターで、雑誌の数ページを握りつぶした紙に火をつける。

かまどの口に、火をもっていく。

からっぽのはずのかまどの中に、何かが入っている。

茶色い塊。

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恐る恐る覗いてみる。

何者かの目が、暗闇で動いた。

赤いトサカの鶏だ。

威嚇する目が、私を睨む。

具合のよいネグラなのだろう。

そうはいかない、私はお湯が沸かしたいのだ。

可哀想だが、出て行ってもらおう。

鶏に、火を近づける。

微動だもしない。

眼光が、いっそう鋭くなる。

図々しい奴だ。

いきなり飛びかかられては、怖い。

短い棒で、お腹を軽く突ついてみた。

いっこうに動く気配はない。

お腹の辺りを棒で少し、持ち上げてみた。

白い物が見えた。

もしかすると卵かもしれない。

親鳥が卵を温めているのか?

それなら、邪魔はできない。

この場所は、暖かく、そして安全なのだろう。

イブに聞くと「この鶏は、卵をとらせないために絶対に動かない」と言う。

ということは、卵がかえるまで、かまどから出て行かないということか。

お湯を沸かすのをあきらめるしかない。


セナ家では、放し飼いの鶏がけたたましい声をあげ、庭を走り回っている。

時には、テラスまで上って来て、糞をする。

追い払う、イブの大声が聞こえる。

親鶏5匹が、それぞれうしろに子供を8匹ほど従えている。

テリトリーをつくって、餌をついばんむ。

子供のすべてが成長すれば、庭中、鶏でいっぱいになる。

そうにはならないところをみると、適当なところで食べているのだろう。

庭で飼う鶏は、アヤム・カンプンと呼ばれ美味しい。

卵も栄養価が高い。

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卵は、何日でかえるのだろうか?

無知な私は、そんなことも知らない。

3週間ほどだと、イブは言う。

ネットで検索すると「抱卵を始めた日から21日目に自らの力で殻を割り、誕生を迎えます」とあった。

「えっ〜! その間ず〜とコーヒーが飲めないの!」

ここで、いくつもの疑問が浮かんだ。

鶏は、平均一日に一個の卵を産むと聞いている。

交尾しなくても卵を産む。

これを、無精卵と言うらしい。

セナ家では、オスとメスが同居していて自由に交尾をするので、有精卵かもしれない。

生み続けていては、抱卵する暇がない。

ネットで検索すると「ニワトリなどの鳥は、一斉抱卵の習性がありますので、ある程度卵を産んでから抱卵します」とある。

抱卵を始めたら、21日間は、卵を生まないというわけだ。

この期間、メス鶏の餌はどうしているのだろう。

この年になっても、知らないことのほうが断然多い。

日々、これ学習だね。


今月の初め、かまどが明け渡された。

モヒカン柄のひよこが8匹、母鶏の懐に隠れている。

ひよこにかえることはできなかった卵が、一つ。

一子から九子まで、9日間に渡って産み落とされたことになる。

抱卵の始まりは九子から、数えるのかな?

誕生日は、産卵日なのかひよこにかえった日か?

あとで検索してみよう。

みんな、食べられるまで元気に育てよ。

さて、久しぶりにお湯を沸かしてコーヒーでも淹れるか。



知らなかったウンチク:

本来は、生物学的な意味で「卵」、食材として「玉子」というように区別されるが、2014年現在では、生のものを「卵」、調理されたものを「玉子」という使い分けがされるようになってきているという。



posted by ito-san at 14:24| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

ジャマイカ料理の ”Jambali Cafe”(120)

ジャマイカと聞いて思い浮かぶのは、レゲエ(reggae)&ボブ・マーリー&ドレッドだ。

知識が貧困で、ゴメンナサイ。

一度は行ってみたいと思っていた、中米の国。

「南米コロンビアの旅」の途中に訪問したいと思っていたが、お金が足りなくて断念した。


なぜ、いきなりジャマイカの話か、と言うと。

先日の「 FOOD TRUCK PARK @ UBUD」で、ジャマイカ料理の店「Jambali Cafe」が出店していた。

この日は、すごい人出で試食することができなかった。

単純な私は、どんなものか知らないジャマイカ気分を味わいたくなった。

気になったら即実行。

2月25日に行って来ました。

場所は、ペネスタナン村。

ウブドからチャンプアン橋を越えて、すぐ左手の坂を上る。

上りきると道は、右にカーブする。

目的のレストランは、カーブから50メートルほどの左手にあった。

壁に描かれたジャマイカの国旗とボブ・マーリーの写真パネルが目印。

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ジャマイカ人と思われる女性が、迎えてくれた。

店名の上に書かれている "MICHELE'S" は、彼女の名前なのだろう。

レゲエ・レゲエした店を想像したが、店内は意外と落ちついたトーン。

私の思うレゲエ・レゲエした店とは。

視覚的には、赤・黄・緑のラスタカラー。

聴覚的には、ボブ・マーリーのBGM。

臭覚的には、マリファナ(大麻)の匂い。

最初(1990年5月)に数日滞在した、バリ南部の観光地クタでは、そんなイメージの店があった。

ウブドに長期滞在するようになって、バリのイメージは一変した。

これがバリの本来の姿だろう。

クタで見かけたツーリストのドレッドに「ここまで来て、どうしてドレッドなの?」と疑問を投げかけたことがある。

その時の恋人は「あなたがバリの正装するのと同じよ」と言っていた。

ちょっと違うような気がしたが、反論はしなかった。


貧困な知識を、ネットで補充してみた。

1960年代後半に、レゲエは誕生した。

1970年代には、ボブ・マーリーが登場しジャマイカ音楽の象徴となる。

1年ほどの世界節約旅行から帰国したばかりの私が、反戦歌に耳を傾けていた時期。

ラスタ・カラーは、黒、赤、緑、金色(黄色)の4色の組み合わせ。

赤、黄、緑とユダのライオンは運動のシンボル。

これはジャマイカ独立のために戦った黒人戦士の黒、戦いで流れた血の赤、ジャマイカの自然の緑、ジャマイカの国旗の金色(太陽の色)を表すらしい。


「Jambali Cafe」に、ラスタファリのシンボル旗はない。

この旗が、ジャマイカの国旗だと思っていた時期があった。

ラスタ・カラーも充満していない。

女将のコンセプトなのだろうか。

見晴らしのよい、2階に席をとった。

メニューにコーヒーがない。

ミネラルウォーターを頼んだ。

ジャマイカ料理を知らない私は、無難にベジタリアン・ココナッツ・カレーを食すことにした。

ベジタリアン・ココナッツ・カレーは、普通に美味しかった。

これでは、ジャマイカ料理の特徴はわからない。

よって、食に対するコメントは、いつものように無し。

期待したレゲエ・レゲエした店ではなかったが、意外と落ち着けたので、再訪もありかな。

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COCONUT CURRY 'ITAL STEW'(Rp50,000-)

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JAMAICAN JERK CHICKEN DINNER(Rp85,000-)


★メニュー:ジャマイカ料理

★食事:メインディッシュRp85,000〜RP110,000-/ベジタリアンRp45,000〜Rp55,000-/etc

★飲物:ミネラルウォーターRp8,000-/ジンジャーレモネードRp25,000-/紅ビンタン・ビール小Rp30,000-/etc

★営業時間:5.00pm〜9.30pm(月曜日)/12.00am〜9.30pm(火曜日〜土曜日)/(定休日:日曜日)

★Phone:+62 81 246 588 938 ★Email:michelesjambali@yahoo.com

★Web:jambalicafe.com



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2017年02月27日

FOOD TRUCK PARK @ UBUD(119)

2月18日、サンギンガン通りのレストラン「インダス」横にて、食の祭典「FOOD TRUCK PARK」が開催された。

コーディネーターは、ウブド大通りにあるレストラン「CASA LUNA」と聞いている。

そう「インダス」は、カサルナの経営。

ライターズ・フェスティバルなど、手広く商売をしている欧米人女性がオーナー。

食べるものには興味がないが、覗いてみた。

私の目的は、イベントのタイトルにもなっているトラック(ワーゲン・バスetc)を改装した移動店舗を見ることだ。

「和食・影武者」で顔見知りになった日本人女性が「フード・トラックをやりたい」と言うのを聞いていたので、頼まれてもいない調査も兼ねている。

30年ほど前に、バニングカー&キャンピングカーを作る作業場を名古屋近郊の長久手町に持っていた。

そんなことから、改造車には思い入れがある。

改造した車やバイクをウブドで見かける。

インドネシアに車検の制度が、あるのかないのか?

きっと曖昧なのだろう。

会場には、数少なかったが、ユニークな改造車が目を楽しませてくれた。

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地価高騰で店舗の賃貸料も上がってるバリ。

こういった移動店舗のビジネスが増えていくことは考えられる。

空地を利用した軒下商売は、行商と同様にバリ人(インドネシア人)の得意とするところ。

イベントの開催も急増しているので、今後の需要が見込めるだろう。

インドネシア人には、ビジネス・チャンスだ。

VISA(入国査証)の必要な外国人は、簡単には手が出せない。

顔見知りになった日本人女性にも、伝えた。

移動店舗といえども、働くとなるとビジネス・ビザが必要。

そうなるば、会社を立ち上げなければならない。

それは、お金と時間がかかるというわけだ。

でも、彼女はやる気でいる。

もちろん私は、応援する。


今回の「FOOD TRUCK PARK」には、ウブドを中心にバリ南部の有名店が出店していた。

すべて、独立店舗を持っている有名店だった。

ちなみに有名どころは:

uma ubud by como=ウマ ウブド

la pancha mama=ラ パンチャ ママ

honeymoon bakery=ハネムーン ベーカリー

dounuts during=ドーナッツ ダーリン

secret gelato=シークレット ジェラート

seniman coffee=スニマン・カフェ

などなど。

ワイン屋も出てたね。

コーディネーターの力量を感じるイベントでした。

押し寄せるお客は、バリ人、インドネシア人、長期滞在の外国人、ツーリストと様々。

ライブ・ミュージック有りで、午後3時〜11時まで、盛り上がったいた。





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2017年02月19日

ワインに詳しくない人間は、教養がない(118)

教養とはなんだろう。

ある本を読んで、こんなことを考えさせられた。

ある本とは「食がわかれば世界経済わかる」。

2008年の出版。

早稲田大学の教授が書いている。

全般的には、興味が惹かれる内容で、楽しく読ませて頂いた。

だが、ある部分でひっかかった。

それは、こんな内容だった。


『フランス人はシラク大統領の発言でわかるように、料理やワインについて教養のない人を軽く見るところがあります。

(これは前文にある「食い物のまずい国の人間は信用できない」の発言に由来している)

私もフランス人の友達が来たときは、お金をはたいて、できるだけ高いフランスワインを買ってきて飲ませることにしています。

ボルドーワインで最も高級と言われるシャトー・ペトリュスの古いビンテージものなどを飲ませたりすると、彼らに対しては歴然とした効果があるのです。

欧州復興開発銀行総裁のルミエールという、かつて私が財務官時代にフランス大蔵省次官だった友人がいますが、彼などもフランスの古いワインを出すと大変に喜びます。

食やワインに関する知識は何世紀も前から、ヨーロッパの貴族や王族の教養の一つになっています。

「食」というのは文化の中心ですから、「食」が貧しいということは文化が貧しいということになってしまいます。

シラク大統領ではありませんが、「イギリスだ、アメリカだと威張っているけれども、文化は貧しいではないか」と、いうことになるわけです。

特にフランス人はそうですが、ヨーロッパの人はこちらがワインや料理のことを知っていると、「こいつは教養がある」と思うようです。

食の話というのは向こうの人にとって、基本的教養の一つなのです。

従ってそれは外交上も重要で、外務省が機密費で高価なワインを買うのが良いことかどうかという問題はありますが、現実のはある程度必要なことなのでしょう。』

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ワインショップ@ウブド


こんな考え方の人がいるんですね。

驚きました。

食が文化だということは、私にもわかる。

しかし、その知識があるから教養があるとは、言い切れないのではないだろうか。

貧しい貧しくないは別として、ハンバーグもフライドチキンも文化のひとつと言える。

文化が貧しいと、教養がないのか?

料理&ワインのことが詳しくなくて、他人から「教養のない奴だ」と思われるとは考えられない。

私は料理にもワインにも興味がない。

「料理が出来ない人間はダメな奴」と言われたことがあるが、私だって味の良し悪しは別として、必要に迫られれば作る。

料理が苦手の母親が、教養のある子供を育てている。

ワインに詳しくなくても、社会人として尊敬を得ているし、教養も兼ね備えている人もいる。

榊原氏の住む環境が特殊なのか、私のような庶民には、当てはまらない話だ。

どこまでの知識を持っていれば、教養ある人なのか。

そんな物差しがあるとは思えないし。


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ワインショップ@ウブド


ワイン生産者と飲む消費者。

どこまで詳しい人をワイン通というのか?

ワインを飲まない人は、教養がない人なのか。

食については、料理する人、食べる人。

グルメ(食通)と言われる ”食い道楽” は、本当に舌がこえているのか。

私に言わせれば、ただの物知りなオタクだ。

嗜好関しては、好き嫌いに個人差があってもいい。

極論がもしれないが、のどがカラカラなら水も美味しい。

お腹がペコペコなら、何を食べても美味しい。

まさか、生産者や料理人は教養人じゃないということはないでしょう。

ワインはブドウから作るらしいから、生産者は農家だ。

野菜育てに奮闘している私は、消費者の知識より農業生産者の知識に軍配をあげる。

知識の量で人を評価してはいけないので、軍配も上げない方がいいな。

どちらにしても、富裕層を自認している人々の発想だろう。


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スーパーマーケット内のワインショップ


友人のひとりに、ワイン好きの男性がいる。

興味のない私には判断できないが、かなり詳しいとお見受けする。

その彼は、自慢するでもなく少し恥ずかしそうに蘊蓄を披露してくれる。

楽しく説明を聞くことができるのは、彼の人格の成せる技だ。

あくまでも自分の趣味として、他人に押し付けることなく楽しんでいる。

そんな物知りが近くに住んでいることが、嬉しい。

洋酒、日本酒に詳しい友人もいる。

彼らは、単なる物知りな人で、

ワインのことを知っていると、教養のある人になる。

それでいいのか。


教養は、人格を育てるひとつの要素=知識(データ)である。

手元にある辞書には、『社会人として必要な広い文化的知識、または、それによって養われる品位』とあった。

データは、他人に関心を持たせることはできても、人の役にたつことは少ない。

ワインの能書きを知らなくても生きていける。

知らないひとの方が多いと思う。

そんな人々をすべて教養のない奴と言い切ってよいのか。

そう言い切ってしまう人間のほうに、私は教養を感じない。

もうひとつ辞書には、『単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化、発展させるために学び養われる学問や芸術など』と書かれていた。

ワインに芸術的という表現を使うことがあったとしても、学問や芸術の分野のひとつとは思えない。

「重箱の隅を突つく」ような行為で気が引けるが、ちょっと気になる発言だったので、考えてみた。


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2017年02月13日

イエ・プル=YEH PULUのレリーフ(117)

ウブドの東6キロほどのところに、「イエ・プル=YEH PULU」と呼ばれる遺跡がある。

場所は、ペジェン郡ブトゥルゥ(Bedulu)村。

ペジェンは、バリの王国(ワルマデワ)があった地域。

ワルマデワ王国は、ジャワのマジャパイト系王国に支配される14世紀まで400年間ほど続いた。

イエ・プルの遺跡は、14世紀の後半に彫られたレリーフ。

ペジェンに王国があった時代に残された、彫刻だと言われている。

高さ約3メートル、幅およそ25メートルの帯状の岸壁に彫られている。

マジャパイトの末裔が移り住み、都をバリ東部に移すと、ワルマデワ王国は忘れ去られた。

王国は痕跡も残さず姿を消し、多くの遺跡が埋もれてしまった。

イエ・プルは、水を意味する ”YEH” と容器を意味する ”PULU” からなっている。

「石の器から湧き出る聖水の泉」から付いた名称だろう。


「ウブッド十字路の番人〜バリ島今昔譚〜・霧の探訪者」の巻末に、レモンイエローのページがある。

マディ・クルトナゴロ 著・武内邦愛 訳。

ここに「トーキング・ストーンーイエ・プル」の話が載っている。

記憶が薄くなっているので再確認のため、20年ぶりに訪れることにした。

雨季の晴れ間を狙って、行ってみた。

ウブドからだと「ゴア・ガジャ」の遺跡を通り越してしばらく進むと、ギャニアールとペジェンを結ぶ幹線道路の十字路に出る。

真っすぐ進めば「サムアン・ティガ寺院」。

十字路を右折する。

500メートルほど進むと、左に大きくカーブする道路が交差する十字路がある。

ウブドの王宮のある変則十字路から、ここまで4キロほど。

バイクで、20分(渋滞に引っ掛からずに)。

イエ・プルへは、真っすぐ。

ここからは、ブトゥルゥ・ Batulumbang村。

さらに10分ほど走る。

イエ・プルの小さな看板を左折すると、道は行き止まり、料金場が見える。

バイクを止め、入場料を払って、階段を下りる。

■入場料:Rp15,000(大人)/Rp7,500(子供)

■駐車料金:Rp5,000(車)/Rp2,000(バイク)

■営業時間:10.00am〜6.00pm


バンガローに続くエントランスのような細道を、水田を左手に見ながら進む。

沐浴場を通り越し、樹々に囲まれた細道を、さらに進む。

清潔なトイレも設置されていた。

細道に寄り添うように流れる川のある、絶好の散歩道。

記憶には、この風景が残っていない。

あの頃、普通にあった景色なので、覚えていないのだろうか。

ウブドで見かけることの少なくなった、貴重な風景に感動している。

木々の林を抜け、目の前に水田が広がると、すぐそこはイエ・プル遺跡だ。

10分ほど歩いて、レリーフの入口に到着した。

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純朴な男

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トゥアック売りと美女

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老婆

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司祭とその娘と婿

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小太りの少年

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騎手

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戦い

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さらなる戦い

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カエルとヘビ

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ガネーシャ

レリーフの解説は「ウブッド十字路の番人〜バリ島今昔譚〜・霧の探訪者」を読んでください。


ガネーシャの奥の岸壁は、修行僧が瞑想したと思われる洞穴だ。

洞穴の正面に、イエ・プルの由来である、石の器から湧き出る聖水の泉がある。

不思議なことに、この場所は記憶に残っている。

以前は、池から顔を覗かせた直系40センチほどの円筒から、清水が湧き溢れていた。

今は、湧き水が少なくなったのか、池に水は満たされていない。

水は、脇から出ているパイプから流れている。

あの時は、女性のプマンク(僧侶)から聖水を頂いた。

今日は、寺守の老婆から花をもらい、お祈りをさせてもらった。

老婆に許しを得て、洞穴に腰をおろしてみた。

いにしえの修行僧の気持ちにはなれなかったが、気持ちがいい場所だった。



posted by ito-san at 18:50| 愛知 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月10日

変貌するウブドのホテル事情(116)

「星のや」が、ウブドの北に位置するペジェン村に、1月20日オープンした。

日本の情報に疎い私は知らなかったが、友人、知人に訊くと、

「高級なおもてなしで、料理も美味しい。一度は行ってみたい旅館&ホテル」

「20年くらいで急成長した日本旅館」

と、日本で人気な旅館&ホテルのようだ。

バリ島ペジェンにオープンした「星のや リゾート」は、私には、一生宿泊することのない高級ホテルだが。

私が下働きのする「アパ?情報センター」が「星のや リゾート」の営業方針と同意するところがあったようでツアーのいくつかをジョイントしてくれた。

アパ?の責任者・ワヤン君のバリを愛する心意気もかってくれたようだ。

「都会化するウブド地域(109)」で報告したように、バリ島のホテルラッシュは高級化へ進んでいる。

私が訪れた1990年代には想像もできない勢いだ。

27年も経っているのだから、変貌もするだろう。


山間の田舎の村ウブドに、旅行者が最初に泊まったのはウブド王宮だった。

ゲストとしての宿泊で、本当の意味でのホテルではない。

1925年、ウォルター・スピースが初めて訪れた時の宿泊施設は、ウブド王宮だと思われる。

一般の旅行者を最初に泊めたホテルは、ムティアラとチャンプアンと聞いている。

以前、聞き込みをしていた時、1955年のオープンと聞いた。

ムティアラは、ウブドの変則十字路にあるワンティラン(集会場)の南前にあった。

客室は8室。

主に、ジャカルタの旅行社から送られた旅行者だったそうだ。

ホテル・チャンプアンは、ウブド王宮の所有。

このホテルは、王宮がウォルター・スピースに提供した土地に彼が建てた(1928年)住宅兼アトリエを改築してオープンしたもの。

サラスワティの開業は、1978年。

「プリ・アニアール」もホテルとしてオープンしている。

高級ホテル・イバのオープンは、1995年。

元チャック・インと呼ばれた小さなバンガローが始まり。

ウブドの王族が所有だが、現在、経営は譲渡している。

名称も「Warwick Ibah Luxury Villas & Spa」に変名した。


節約旅行者・バックパッカー御用達の宿は、ホームステイと言う。

ホームステイと言っても、家族とともに同じ家屋に泊まって世話になるというわけでない。

別棟を借りる民宿のようなもの。

ホームステイの第一号は、モンキーフォレスト通りにある「オカ・ワティ」。

「ムスティカ・ロスメン」も古いと訊いているが、所在が確認できない。

ロスメンは、一般的にインドネシアでは商人宿のような使われ方をしているが、ウブドではホームステイと同意語。

私が最初に泊まったのは、カジェン通りの1番地「ロジャーズ・ホームステイ」だった。

「ロジャーさんの民宿」という意味だ。

カジェン通りは500メートルほどの長さで、左右に民家が並ぶ。

民家のほとんどが、ホームステイを商っている。

門や塀に、宿を商っているとわかる小さな看板が掛かっている。

民宿だからホームステイでよいと思うのだが、ロスメン、ゲストハウス、アコモデーション、ハウス、イン、ペンッションなどとさまざまな名称がついている。

観光客の目を引くために、名称で差別化をしているのだろう。

民家と言っても敷地が広いので、名古屋の兎小屋生活者だった私には屋敷に見える。

日本の旧農家にも似た、趣だ。

屋敷地域を外れて建てられた宿には、バンガロー、コテージ、ヴィラ、ロッジ、ホテルなどと命名されている。
こちらは、台所の設置された宿泊施設。

価格が、ホームステイより高く設定されている。

滞在を始めた当初、ウブドに何軒の宿があるか調べたことがある。

100件ほど調べたところで調査を中止した。

次からつぎへと宿泊施設が増えてゆくので、切りがないのだ。

今思えば、ウブドの人気が加速度的に上昇していた時期だった。

高級ホテルも、差別化のために変名してイメージチェンジを計っている。


近頃は、リゾートと付く名称が多い。

ホテル○○ではなく、○○リゾートとなる。

バリのエステサロン、スパの人気は近年、目を見張るものがある。

ウブドもご多分にもれず、スパの出店は多い。

ホテルの多くがスパを併設するようになった。

スパ設備があるのをアピールしたいホテルは、スパを加えて「リゾート&スパ」と名前を変えて、顧客の確保に努力している。

リゾート&ヴィラだったり、スイート&ヴィラだったり、リトリート&スパだったり。

そのほかには、リザーブ、ブティック、スタイル、コンベンション、ラグジュアリー(luxury)なんてわけのわからない単語がついているホテルもある。

例えば、ホテル・イバが「Warwick Ibah Luxury Villas & Spa」になったように。

蛇足だが、ラグジュアリー(豪華なさま、贅沢なさま)を「ランジェリーかと思った」、なんてトンチンカンなことを言う知人がいる。

ランジェリー(lingerie=装飾性の高い女性用下着)を知っている、お前が怪しいゾ。

同じ感想を抱いてしまった私も、怪しいオヤジの一人かもしれない。

今回は、私にまったく縁のないホテル事情を「変貌するウブドの宿泊施設」で振り返ってみました。






posted by ito-san at 17:13| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月08日

珊瑚でこさえた ”壁飾り”(115)

雨季も終盤。

お約束通り、サコ暦(Saka)の第9番目の月・Sasih Kasanga (カサンゴ)は、強風をともなう大雨が降る。

西暦では、2月頃にあたる。

この数日、雨が降っていない。

今日で4日目。

晴れ間を見つけて、洗濯物を干している光景を見かける。

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降り続く雨で、流木拾いにも出かけられない。

そんなことから、モビールの飾りに珊瑚を使っている。

隣島ロンボク・ギリ諸島に旅に行った知人が、お土産に持って来てくれた珊瑚。

珊瑚は、腔腸(こうちょう)動物のサンゴ虫が作る石灰質の骨組(と、何かに書いてあった)。

もちろん生きている珊瑚ではなく、海に打ち上げられた珊瑚ですよ。

だから、珊瑚の死骸です。

近頃、不心得のダイバーが増えて、踏まれた珊瑚が死んでいる。

私が住もうと思っていた1990年の海底とは、ほど遠いほど珊瑚は激減した。

その頃、珊瑚の持ち出しは禁止だと聞いた覚えがある。

落ちている珊瑚も少なかった。

今は、許されているのかもしれない。

大量に落ちているし。

どちらにしても、私には助かっている。

苦肉の策の珊瑚だが、これが以外とマッチした。

同じ海から拾ったものだから、当然と言えば当然かもしれない。

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今回は、大作に挑戦した。

といっても、縦90センチメートル×横80センチメートルほどの壁掛けだが。

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ロンボク島ギリ諸島を旅する知人、友人に告ぐ。

私にお土産なら、珊瑚の死骸でいいですよ。

よろしく。

posted by ito-san at 16:38| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月27日

白鷺の村・プトゥルゥ・グヌン(114)

行って来ましたプトゥルゥ村。

我が家からだと北上してジュンジュンガン村経由が近い。

看板が、右手にプトゥルゥ村だと案内してくれる。


putulu_kokokan1.jpg


ココカンが生息するのは、バンジャール・プトゥルゥ・グヌン。

バンジャールは、最小単位の村(集落)のこと。

チケット売り場の前に立つ。

入村時に保護費を支払う。

料金は、Rp20,000-(大人)、Rp10,000-(子供)。

チケット売り場に、人が姿がない。

午後2時、ココガンたちは餌を求めて遠くの田んぼに飛び立っているだろう。

ココガンの外出中は、無料なのか?

チケット売り場を素通りして、村道に入る。

どことなく、村全体がかすんで見える。

そして、臭い。

排泄物で、緑のはずの沿道の樹木が灰色化しているのだ。

アスファルトの道路も、灰色&白色のマダラ。

バイクを降りて、樹木を見上げると・・・・・。

枝々に、ココカンが止まっている。

ココカンの群れ。

まさに鈴なりだ。

V型の編隊を組んで飛ぶココカンの姿は美しいバリの風物詩だが、生息地に私の興味が薄い。

ココカン・ウオッチングするために作られた小屋も、今では見るも無惨な廃墟になっている。

ウブド近郊の観光地としての役割は、果たしきれていないようだ。

ひょっとすると村人も、持て余しているのかもしれない。


私は、すこし気持ち悪くなったのを、動画を撮り終えると、ソソクサと村を立ち去った。

バンジャール・プトゥルゥ・グヌンを過ぎると、ココカンはいなくなる。

不思議な現象ではある。






「ウブッド十字路の番人」に載っていた「HOLY WATER」を探してバイクを走らせる。

地図に惑わされたが、なんとか到着。

通りにある集会場の横の細道を入って、1キロメートルほど村道を進んだところ。

ジュンジュンガン村との川境に、目的の湧き水はマンディ(沐浴)場になっていた。

バリ人の沐浴する姿も風物詩(と言っていいのか)。

散歩道のコースにいいななんて、考えている。

マンディ場は、低い壁で囲まれた露天のことが多い。

屋根のある小屋の前に立つと、中央の扉分がオープンになった小屋がある。

覗くと、裸のうしろ姿が目に飛び込んで来た。

女性が椅子に腰を下ろして、身体を洗っている。

イカン! ここは女性専用のマンディ場だ。

入口に、ISTRIの文字が書かれてある。

女性専用という意味だろう。

露天は男性専用で、女性は屋根のある小屋なのだ。

知らずに、裸の女性の姿を見てしまった。

歳のころなら30を少し超えたあたりか。

褐色の肌は健康そうで、一家を支えている力強さを感じだ。

ちょっぴり色気もあった。

申し訳ない、分析するほど魅入ってしまって。

ゴメンナサイ(低頭)。






ウク暦第二週ランドップ(Landep)サニスチャラ(Saniscara=Sabtu) クリウォン(Kliwon)の日に、鳥たちの儀礼が寺院で行われると書いてあった。

今年は、2月4日にあたる。

どんな儀礼をするのか興味がある。

行ってみようかな。


posted by ito-san at 18:29| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする