2020年04月11日

越路吹雪さんを思い出す!(348)

3月27日に、外出自粛が始まってから、2週間が経つ。

幸い、世話になっているパチュン家に、ネット環境が整っていて助かっている。

お陰で、暇を持て余さずにいられる。

メールとフェイスブックも毎日、利用している。

YouTubeで、日本からのニュースを見るのが日課になった。

ニュースを見ていて、「あなたにおすすめ」メニューに、私の好きな女優さんの姿が写っていた。

彼女が主演のテレビ・ドラマ「越路吹雪・愛の生涯」だった。

越路吹雪さんは、シャンソン歌手として有名な芸能人。

「愛の讃歌」「ラストダンスは私に」「サントワマミー」「ろくでなし」などのヒット曲は、私も口ずさんだことがある。

彼女が師と仰ぐ、エディット・ピアフ女史の「愛の讃歌」は、フランス語の理解できない私の心にも響く。

主演の女性は、越路吹雪さんと同じ宝塚出身の女優。

ドラマを見て、越路吹雪さんが1980年に亡くなっていたのを知って驚いた。

Googleで検索すると、56歳の若さで死去していた。

40年前に亡くなっているので、知らない人も多いことだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=SyMeOtZbMKw
越路吹雪さんの「愛の讃歌」


越路吹雪さんとは、1968年、私が20歳の時に会っている。

会っていると言っても、お客様とスタッフの関係だ。

この頃私は節約旅行中で、フランス・パリの日本食店「桜」で、アルバイトをしていた。

バイト期間は6ヶ月。

これは不法滞在だ。

21歳の誕生日は、独りでヒッソリと迎えた。

越路吹雪さんのエピソードを思い出したので、書き留めておく。

当時、彼女が44歳だったのに驚く。

すでに、国民的歌手のひとりだった。

NHK紅白歌合戦に、1956年から1969年に連続出場していることが証明している。

彼女は、開店前の「桜」に顔を出した。

スタッフの食事中だ。

このレストランでは、食事は客席ですることになっている。

カウンターの裏や厨房内で、隠れてするようなことはしない。

賄いご飯だが、手抜きはない。

これは、経営者の方針だった。

私がウブドに「居酒屋・影武者」を開店した1992年、バックパカーを受け入れたいと考えていた。

残念なことに、インドネシアは不法労働者に厳しく、実現できなかった。

時効だろうと考えられる今だから公言するが、かく言う私は長い間、不法労働だった。

越路吹雪さんの話に戻そう。

「ごめんなさい。食事中だったのね」

食事中のスタッフを見て、彼女は戸惑っていた。

「開店前なんですよ」シェフが対応する。

「うどん! 美味しそう!」

そう、この日の食事はうどんだった。

シェフは「うどんでよければ、食べて行きませんか?」とすすめた。

私以外のスタッフは、彼女が有名な越路吹雪さんだとは気づいていないようだ。

乙女のような微笑みをたたえて、入り口に近いテーブルの腰を下ろした。

絶頂期幕開けの芸能人とは思えない、控えめな態度に、私は心を打たれた。

「桜」は、日本からの有名人が来店する店。

カンヌ映画祭に参加する監督たちも、紳士的だった。

世界的名声の高い指揮者の使いが、ご主人様の名前を挙げて、オーダーストップ後に弁当の注文しようとした。

有名人なら融通をつけてくれるだろうという、心根が嫌いだ。

私は、注文を断った。

彼女は、有名人を鼻にかけることもなかった。

食べていったのか否かは、記憶にない。

検索から、毎年行われている日生劇場リサイタルの合間を縫ってのパリ訪問だったろうと推測する。

今、自分の44歳を振り返っている。

https://www.youtube.com/watch?v=aPcHqDlROb4
エディット・ピアフ女史の「愛の讃歌」


posted by ito-san at 14:10| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月03日

人々の心の叫びは、通じるか?(347)

地球規模で、災害が勃発している。

4月1日発の長距離バスで、マゲランに移動する予定でいたが、断念した。

中国湖北省武漢市で2019年12月に発生した新型コロナウィルス肺炎(COVID19)が、世界中に広まった。

「在デンパサール日本総領事館」からのメールは、2月に入って頻繁になった。

そのほとんどが「新型コロナ・ウィルス」に関するニュースだ。

これまで対岸の火事だった災難が、今回は自分にも火の粉が降りかかりそうだ。

バリ島ウブドにも、その影響が現れた。

これまでウブド滞在30年の間に、大きなニュースは数々あった。

1995年1月17日の神戸淡路大震災

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件

2002年10月12日のバリ島自爆テロ事件

2004年12月26日のスマトラ沖地震

2006年5月27日のジャワ島中部地震

2011年3月11日の東日本大震災

2017年1月25のアグン山噴火

このほかにも、隣島の火山噴火や地震が頻繁に続いている。

その中で、バリ島爆弾事件とアグン山の噴火はみじかで起きた事件だったが、それでも恐怖は感じなかった。


「新型コロナ・ウィルス」のニュースが広まると、観光客の足が遠のいた。

航空機乗り入れを禁止する国が出ている。

日に日に、観光客姿が減ってきている。

観光の目玉である、悪霊払いの綺麗「オゴホゴ」のパレードを中止した。

こんことは、30年の滞在で初めてのことだ。

バロンダンスの起こりは、疫病の流行を鎮める為に行なわれた。

今回も盛大な疫病退治の儀礼を行うだろうと思っていたが、それはなかった。

バリ人の考え方も合理的になったということか。

近代化されたバリは、もう呪術的な力に頼れなくなってきたのか。

バリ人の進行する、ヒンドゥー教の神々が守ってくれると考える彼らさえ、今回は神頼みじゃいけないと考えたのだろう。

ニュピ ( Nyepi )の翌日も外出を禁止した。
(ニュピ:http://informationcenter-apa.com/kb_nyepi.html

世界は今、一丸となって「新型コロナ・ウィルス」に立ち向かっている。

その後は、外出自粛。

海外からの渡航者は、入国禁止となった。

各国の各地域で、最良の対策が施されていることだろう。

ネット上には、人っ子ひとりいない街が、映画のワンシーンに似た風景が映されている。

現実とは思えない、様々な情報が流れくる。

思いもよらない未来の世界が今、目に前で繰り広げられている。

死亡者の数をパーセンテージで表していることに、悪寒が走る。

数字では、悲惨さは伝わらない。

犠牲者を、ぞんざいに扱ってはいけない。

死は、もっと丁重に扱うべきだ。

私は、いつ死んでもいい心つもりで日本を旅発っている。

しかし、他人には迷惑をかけたくない。

個人としては、何もできないが、早急に終息することを強く望んでいる。

世界が高齢者人口のリストラを願うなら、それに従ってもいい。

率先して、名乗りをあげてもいい。

地球に平穏が戻るなら、72歳の命を捧げよう。

呼吸困難で苦しむのは嫌だから、できれば痛みの伴わない処置をお願いしたい。

これは、贅沢な望みか。

国(インドネシア・日本)が、政府が、決めたことには、素直に従おう。

前途の見通しは、決して明るくない。

むしろ暗いと言える。

2日午後6時、バリ・ヒンドゥー教徒は「新型コレラウイルスの終息」を願って、お祈りを捧げた。

人々の心の叫びは、通じるか?


posted by ito-san at 17:34| Comment(2) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月16日

30年前は、自給自足の生活だった(346)

朝から雨の降り続く日。

出かけられない私は、テラスで読書にふけった。

大家のパチュン君は、時間を持てあましていた。

働き者のパチュン君も、さすがに雨には逆らえないようだ。

昨日は、嫁いだ長女が旦那さんと2人の息子を伴って訪れ賑やかだった。

孫をあやす、おじいちゃんは相好を崩していた。

オヤツにピザのデリバリーを頼んでいる。

バリ人家庭で、デリバリー・サービスは普通になってきているようだ。

「バリの人も、ピザを食べられるようになったんだね」

パチュン君に声を掛けた。

私のまわりのバリ人は、チーズが嫌いだった。

「うん、もうチーズは大丈夫のようだね」

「人の集まる時は、たいていピザの配達を頼むんだよ」

テラスの腰を下ろしながら、言う。

「そう言えば、昔は自給してたよね」

私の質問に、パチュン君は嬉しげに答えてくれた。

1980年代のテガランタン村。

自給自足ができていた頃の話だ。

専業農家だからコメはある。

畑では、各種野菜。

もちろんオーガニック。

質素だが、これで十分に食事になる。

祭りの時には、庭に放し飼いの鶏が料理される。

目玉焼きも、ご馳走だ。

飲料水や炊事の水は、湧き水を汲みに行く。

燃料は、 ヤシの枯れ葉や枯れ枝で間に合う。

時には、男衆が田や川で手に入れた収穫物が食卓を賑やかす。

田んぼに入れば、タニシ、田うなぎ、カエルなどが捕れた。

川に行けば、魚、エビ、サワガニがいる。

食卓の文化がなかったバリでは、床に並べられる。

デザートは、庭に果物が豊富に実っている。

現金が必要なのは、灯りのための灯油だけ。

洗濯や水浴びは川だ。

川は、時にトイレになる。


パチュン君も田や川に獲物を求めで出かけたそうだ。

時には、友達と森に入ってリスを追いかける。

当時を懐かしがるように、身振り手振りで説明する。

リスは、ヤシの木に逃れる。

矢を手にした、友人が後を追う。

テッペンまで登りつめ逃げ場を失ったリスを、槍で射止める。

この時、ヤシの実を一つ取って降りる。

2匹なら2個というように、リスの数だけ取って来るのが村の掟らしい。

ヤシの実は、村の責任者に持っていく。

100個ほど集まったところで、売る。

得たお金は、村の福利厚生に当てるという。

テガランタン村独自の掟だと思っていたら、スバリ村でも同じ掟があった。

リスが一匹いると、ヤシの実が10個ほど被害に合うので、この掟は持ちつ持たれつなのだろう。

この日は、リスちゃんの肉がサテ(串焼き)になった贅沢な食事となるのである。

水トカゲ、ヘビ、トッケイ、トンボ、ドゥダル(羽蟻)なども食べたと、貧乏自慢の知人が語っていたのを思い出す。

30年ほど前まで、彼らは、こんなサバイバルな生活をしていたのだ。


posted by ito-san at 17:52| Comment(5) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月10日

懺悔の回顧録・最終回(345)

みぞおちあたりが熱くなる。

表現できない感情が、湧き上がってくる。

鉄道のポイントが切り替わるように、思い出す。

20代の笑顔の彼女が浮かぶ。

手の届きそうに、今にも会えるそうな雰囲気。

無理なことだと、すぐに悟る。

これは夢だ。


元妻からの音信が届く数年前に、こんなことがあった。

デンパサール空港に、友人を迎えに行ったある日。

彼女に似た女性が、ミーティング・ポイントから出てくるのを見た。

モデル風のお洒落な男女のグループに、彼女の姿がある。

離婚してからの彼女の人生を、私は想像した。

会いに来てくれたのかもしれない。

私の胸は、トキめいた。

遠目からでは、確信は持てない。

声も掛けられない。

グループの姿が消えるまで、見送った。

諦めきれなく、ウブドまで来るかもしれないとの期待した。

期待は、霧散した。

他人の空似。

未練心が起こした、虚しい幻想だったのだ。


遠い過去を、笑顔で語り合える年齢になった。

きっと、わだかまりなく会話は弾むだろう。

北海道で元気に生活している。

遠く離れていても、いつも幸せを願っていた。

訪ねれば、いつでも会えるという安心感があった。

また会えるだろうと楽観してところがある。

離れ離れになっていた期間に何があったか、何を考えたか、ポツリポツリと語り会う日がいつか訪れる。

2人しか知らない話がある。

生まれて一週間で命を絶った長女のこと。

再婚はしていなかったようだから、母子家庭で長男を育てている。

息子の成長過程を聞きたい。

送られて来た写真には、幸せそうな息子の笑顔が写っていた。

子育てした彼女を褒めてあげたい。

話し合いたいことがたくさんある。

本人の口からは聞くとこは、もう叶えられない。

彼女は、きっと幸せに生きたことだろう。

信じて疑わない。


未だに、訃報に実感がわかない。

息子から伝えられた訃報が、悪い冗談としか思えない。

順番なら私が先だろう。

やり場のない後悔を抱えながら、時間が少しづつ悲しみを忘れさせてくれるだろうか。

巻き戻しのできない時間の残酷さを感じる。

お寺に預けられていた娘の位牌は、数年前、彼女が故郷の北海道に持ち帰ったと、長姉から連絡があった。

亡き娘の誕生日も命日も覚えていない。

母娘の墓参りすることができれば、供養と懺悔をしたい。

息子と連絡が取れなければ、縁が途絶え、それすらできないことになる。

いつか必ず、息子から連絡が来るのを信じて待っている。

人生を振り返ることの尊さを感じる72歳。


おわり・


posted by ito-san at 18:34| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月27日

懺悔の回顧録・20年ぶりの便り(344)

こうして書いているうちに、少しずつ思い出してくる。

鮮明に浮かぶこともあるが、たいていはおぼろげに駆け抜けていく。


音信不通だった私を探し当ててくれたのは、元妻だった。

彼女から厚みのある封書が届いた。

実に、私の前から姿を消してから20年ぶりの音信だ。

私の同級生だった「人畜無害」の大家さんに、消息を尋ねたようだ。

誰にも告げずに日本を発ったが、時が経てば、それなりに情報も伝わるようだ。

手紙には、息子の素行が荒れていると書かれていた。

行く末が心配だから、お父さんから意見をしてくれという頼みだった。

父親の役目を果たしていない私に、そんな資格があるのだろうか。

息子には、一度も会ったことのないのだ。

ずっと連絡を取っていない息子に「会って欲しい」という、彼女の願いは聞き入れなくてはいけない。

それは私の勤めだろう。

私は、喜んで請け負った。


20歳になった息子がバリに訪ねてくることになった。

私は、どう対応していいものか悩んでいた。

こころに動揺を抱えて、空港に迎えに行った。

ミーティングポイントでの、私の第1声は「やあ〜!」だった。

ネームカード掲げていたかは、定かでない。

感動的な涙の初対面になると思っていたが、ハグもない、あっさりしたものだった。

息子も困惑していたように見える。

緊張していたのかもしれない。

前妻の細腕で育てた息子。

私より少し背が高く、両親のようにスリムだった。

顔立ちは、どちらに似てるのだろう。

どちらかと言えば、母親似かもしれない。


私が長期滞在していた「ロジャーズ・ホームステイ」に投宿した。

父親がどんな生活をしていたか見て欲しかった。

レンタバイクを借り、バトゥール山の裾野を走った。

口数の少ない子だった。

言葉を交わすことは少なかったが、親子として行動した。

母親は、父親のことをどんな風に伝えているのだろうか。

気にかかるが、聞くことはできなかった。

息子からも、何も質問はなかった。

どんな感情で父親を観察しているのだろう。

今は、私はの姿を見せることしかできない。

聞きたいこと話したいことは、たくさんある。

その時は、ありきたりの対応しかできなかった。

嬉しかったはずだが、戸惑ってもいた。


数年後、母子でウブドを訪ねて来てくれた。

「ブンブン・カフェ」の商品を仕入れていった。

彼女の住む市で、住民の起業を援助する企画が立った。

ワンフロアに、一坪ショップを数件募集していた。

雑貨店のプランを提出したそうだ。

「人畜無害」の再開を希望したのだろうか?

結果は承認されなかった。

市の職員に、私の商品が理解されなかったのだろう。

実現されていれば、繋がりができていただろうに、残念なことだった。


私は再婚したが、バリに来る前に離婚している。

彼女は独身だったのか。

再婚したと思っていた。

それすら知らない。

子育て、暮らしの話を詳しく聞きたかった。

気にはなったが、それを聞く勇気がなかった。

「家があるから、来る?」

これは、彼女からの信号だったのか。

今後、こうして関係が深まれば、おのずと情報が得られるだろう。

その時も、じっくり話し合う機会はなかった。


続く・


posted by ito-san at 13:52| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月15日

懺悔の回顧録・長女の誕生(343)

思い出せる限りの記憶を取り出しておこう。

私の断片的に記憶は、保身的な発言になっているかもしれない。

稚拙な表現力は、誤解を招くことになるかもしれないが、これは私の回顧録です。


今回も、重い話になってしまった。

私が産院に駆けつけた時には、出産は終わっていた。

いつ産気づいてもよいように荷物は準備してある。

私に連絡が取れず、ひとりで入院。

心細かったことだろう。

初めて授かった子供は、女の子だった。

妻が眼を覚ますのを待って、「お疲れ様」と声を掛けた。

「赤ちゃんは元気か」と聞くと・・・

「赤ちゃんは、この産院では治療できない病気で、コロニーという施設に運ばれていった」

涙声で答えた。

看護婦は、コロニーは未熟児の施設だと教えてくれた。

産院で治せない病気の場合、名古屋では春日井市にあるコロニーに入院させるということを始めて知った。

次の日、私はコロニーに出向いた。

コロニーには、車椅子に乗ったり、松葉杖をついた患者が散歩していた。

リハビリに励んでいる姿も見られる。

面会は可能だったが、我が子は、無菌室でプラスチックの箱に入っていた。

我が子は、天使のように可愛かった。

この子のどこが悪いのだろう。

「病状は思わしくない」と医者は言う。

妻は、産院を3日目に退院し、家で、我が子の帰りを待っている。

私は、毎日コロニーに通った。

この子は、5万人に1人といわれる奇病で、直ることはないと言う。

1週間すると医者は「延命しますか」と聞いてきた。

予期していたことだが、すぐには受け止めることができなかった。

「妻と相談しますから」即答することを避けた。

こんな残酷な言葉をどうやって妻に伝えたらよいのか、苦悩した。

この日は、2人でコロニーを訪れた。

出産後、始めての我が子との対面に、妻は、涙ぐんで娘の名前を連呼した。

愛娘は「ルリ=瑠璃」と名付けた。

私たちは、涙を飲んで、赤ん坊の点滴を外すことに承諾した。

死刑宣告人になった気分だ。

妻は、一度も生きているルリを抱くことが叶わなかった。

もちろん、私も抱いていない。

ベビー服は、一度も手を通すことなく、処分されるのか。

裁縫はそれほど得意じゃないが、夜なべしてベビー服を作っていた。

慰める言葉が見つからない。

広い無機質なロビーで、手続きが終わるのを待った。

白壁とスチール椅子が、心を虚しくさせる。

遺体を引き取ったのも、通夜や葬式はおこなわれたのかも、記憶はすっぽりと抜け落ちている。

戒名も思い出せない。

市営住宅の粗末な部屋の片隅のローテーブルの上に位牌があったのは覚えている。


離婚は、唐突に行われた。

ある日帰宅すると、キャビネットの棚に書類が置いてあった。

離婚届だ。

妻の名前と印が押してある。

何も告げずに出て行った。

近くに住む兄の家か、両親のいる神奈川か、それとも親類を頼って北海道に行ったのか。

家を出て行った理由は、聞いていない。

不安定で常識を離れた生活を楽しんでいてくれたと思い込んでいた。

「よっぽど、いやだったんだろう!」友人は言う。

愛想をつかれて逃げていったのが真相だろう。

追うことを考えたが、離婚を選択した彼女の心を取り戻す自信はなかった。

この時、妻は妊娠していた。

頭の片隅に、いつか戻って来てくれるだろう、と都合の良いことも考えている。

位牌は、長姉に頼んで近くのお寺に預けられていた。


続く・


posted by ito-san at 17:29| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月07日

懺悔の回顧録・ハシシ不法所持(342)

「懺悔の回顧録」に戻ります。

今回は、ちょっと重い話かも。


手作り仲間が、インドからベルトに仕込んで持ち帰ったハシシ(大麻樹脂)。

お土産として、軽い気持ちで彼女に渡したのだろう。

法に触れる物だという感覚が薄く、気安く受け取ったのだと思う。

こういうことに、彼女は疎かった。

さくらんぼ大の樹脂塊は、喫煙されないまま何日も、キャビネットの下段のテーブルに置かれていた。


知人が逮捕されたのは、知らされていない。

先に連行された知人たちとの交流も薄いため、事件をまったく知らなかった。

「人畜無害」にいた彼女が署に連行された。

その現場を私は見ていない。

私の家に、刑事が来た。

知人の名前を告げたあと、「大麻」という言葉が出た。

ハシシのある場所は、知っている。

妻が、連行されたのを告げられた。

警察は、主犯は年長の私ではないかと疑っていたようだ。

私を捕まえようとマークし、数日間尾行したと言う。

刑事が部屋に入ってくる。

現物がなければ、逮捕は免れるだろう。

物は、目の前にある。

どう隠そうかと思案した。

トイレに捨てるが、飲み込むか。

飲み込むには大きすぎる。

隠す暇もなく、証拠の物は見つかってしまった。

だらしないが、私は観念した。

刑事は、証拠物件を確保した。

喫煙形跡のない現物に、ガッカリしたようだ。

在庫で残っていたパイプセットにも、喫煙した形跡はない。

これで彼女は、ハシシの不法所持で逮捕されることになる。

刑事たちは、証拠の品を持って帰っていった。


数日後、地元名古屋のテレビ・ニュースと新聞で報道された。

名古屋発の大掛かりな大麻事件として扱われていた。

私の嫌疑が消え、彼女が最後の逮捕者となって終結したようだ。


名古屋近郊の所轄警察の留置場された。

面会はできなかった。

その後、何の伝達もなく、凶悪犯の多い中村署に送られた。

殺人犯の女性と同室だったと言う。

たらい回しにされて、面会もできない。

この経験から、私は、警察には絶対協力しないと誓った。

裁判中、身柄は名古屋拘置所に預けられる。

拘置所に面会に行った。

こんな威圧感と閉塞感のある建物に、何日も泊めるわけにはいかない。

1日も早く、出してあげなくては。

弁護士を手配するにも、私に知り合いはいない。

民事なのか刑事なのか、それもわからない。

民間人のトラブルは民事、犯罪行為は刑事だと知り、細い糸を手繰って刑事裁判の弁護士を探し当てた。

女性の弁護士は、親身になってくれているようには思えない。

現金を工面して、弁護士に手渡す。

裁判にも傍聴した。

2週間ほどの拘置で、身柄を引き取った。

もっと早く、弁護士と保釈金の対応が早かったら、2週間も拘置されることはなかったかもしれない。

自分の対応の甘さが悔やまれる。

彼女はやつれることなく、元気な姿に救われた。

親戚縁者に迷惑をかけただろうが、家族の誰からも非難は受けなかった。

1976年、これを機に「人畜無害」を閉店。


続く・


posted by ito-san at 15:14| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月04日

ゴア・ガルバとプンウキール・ウキラン寺院(341)

シリアスな話が続いたので、ここで気分転換にリラックスできるニュースをお届けしようと思っている。

バリ島の情報です。

ペジェン村の中心部へは、ウブドから車&バイクで20分ほどで着く。

中心地にある十字路角に、アパ?情報センター「ペジェン村歴史探訪」でおなじみの「プナタラン・サシ寺院」がある。

歴史探訪は、ペジェンの地を中心にして、10世紀から14世紀まで栄えたワルマデワ王国の遺跡を巡る。

ちなみに、400年間続いたワルマデワ王国は、1343年、マジャパイト王国のガジャ・マダ将軍率いる軍勢によって制服された。

こうして、ジャワ・ヒンドゥーがバリの持ち込まれたのだった。

ついでに、ツアーの説明をさせていただく。

◎ゴア・ガジャ→◎イエ・プル→◎テガリンガ遺跡→◎考古学博物館→◎クボ・エダン寺院→◎プセリン・ジャガット寺院→◎プナタラン・サシ寺院→◎ペジェン村散策(王家所有のインディゴ・バティック工場見学)

この中から、3時間のコースを選択する。


ペジェン村歴史探訪に「ゴア・ガルバ(Goa Garba)とプンウキールウキラン(Pengukur-Ukuran)寺院」が加えられないか思い立ち、出かけていった。

プナタラン・サシ寺院から10分ほどで「ゴア・ガルバとプンウキール・ウキラン寺院」に到着する。

プンウキール・ウキランは、測定という意味だそうだが、名前の意由来については定かでない。

寺院は、高台に建つバリ独特の様式を持つヒンドゥー寺院だ。

12世紀のジャヤパンガス王の治世以来建っていると伝えられている。

ペジェン村には、マジャパイト王国以前の寺院が多く存在し、これらの寺院は、サコ暦にもとずいて儀礼が行われている。

サコ暦は太陰暦で、月の満ち欠けの周期を基にしている、

プンウキール・ウキラン寺院のオダラン(寺院創立祭)は、毎年第2番目の月(Sasih Karo)の満月(Purnama)に行われる。

今年は、8月の3日になる。

個人的な見所は、奥の境内にあるリンガの飾られたチャンディだ。

Pengukur-Ukuran.jpg

リンガが飾られたチャンディは、初めて見る。

リンガは、ヒンドゥー教シバ神のシンボル。

なぜここに?の疑問が浮かぶ。





ゴア・ガルバの遺跡は、プンウキールウキラン寺院裏の渓谷にある。

世界遺産プクリサン(Pekerisan)川のほとり。

ゴアは「洞窟」を意味し、ガルバは「地球の腹」を意味する。

沐浴場の横に地下へもぐる階段があり、遠くクルンクンの「ゴア・ラワ」に通じていると言われる洞窟がある。

もしかすると、この洞窟が「地球の腹」と呼ばれる由縁かもしれない。

Goa Garba6.jpg

石の蓋をよけると、洞窟に続く階段が見える

この地は、クボ・イオ(Kebo Iwa)庵(いおり)で、瞑想場だったとも伝えられる。

クボ・イオは、14世紀のワルマデワ王国の大臣で、伝説の大男。

さまざまな逸話が残っている。

階段の岩に残っている足型は、クボ・イオのものだと言われているが、私の足と比べて格別の大きいようには見えない。

Goa Garba17.jpg

ゴア・ガルバとプンウキール・ウキラン寺院の見学は、一見の価値ありではないだろうかすゾ。




次回の懺悔の回顧録は、「ハシシ不法所持で逮捕!」です。


posted by ito-san at 19:18| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月29日

懺悔の回顧録・アクション大須(340)

2人の思い出が、少ない。

愛していたはずなのに。

断片的な記憶を記してみた。

彼女の父親は、北海道の炭鉱に勤めていた。

閉山によって家族は、神奈川県に移住した。

そうした家庭の事情から、彼女は東京の高校に通うようになった。

結婚してから、神奈川県の実家に泊りがけで行ったことがある。

掛け布団の上にどてらをかけてくれたのを思い出す。

どてらを寝具として使うのを初めて知った。

札幌市手稲区の親戚を訪れたこともある。

一緒にスキーをした。

小・中学校を竹スキーで通った彼女は、スキーが上手かった。

東京の高校の同級生を訪ねた時は、青山の高級マンションに泊めてもらった。

思い出すのは、このくらい。

彼女は、私に寄り添うように存在していたのだろう。


今回も、私の回顧録のようになってしまっている。

とりあえず、読んでください。

あちこちのイベントに駆け巡っている時期に、新聞の地方版にこんな話が話題になっていた。

1970年代後半、栄や名古屋駅前の開発が進んだ事により衰退していく大須商店街に、客を呼び戻すためにの企画だ。

その賑わいを復活させたい、と持ち上がったイベント。

我々も、各地域でイベントの成功している。

どんな企画が行われているか、スケベ根性で覗いた。

顔を出したののが運の尽き。

企画は、まったく進んでいなかった。

「第二のふるさと創造」をテーマに掲げたこのイベントは、某大学教授が中心になって動いていた。

彼から「手伝ってくれない」と頼まれた。

アドバイスするうち、話は我々が参加することになっていた。

「できることはします」と協力の意思を伝えた。


そのイベントは、1975年(昭和50年)6月28日『人間のまつり、アクション大須』として開催された。

その後、「大須大道町人祭」と命名され、毎年10月中旬に開催されているようだ。

第1回は、1978年(昭和53年)の開催。

以上は、ウィキペディアに記載されていた。

アレヨアレヨといううちに、当日とになった。

私は大須観音の境内を中心に、イベントを打った。

と言っても、予算のないイベント。

私は友人・知人を動員した。

境内の一角で、コカコーラ協賛のドリンク・コーナーとトマトぶつけなどのコーナー。

メインは、鐘つき堂をステージにしたロックのライブ。

準備に忙しい私は、各会場を駆け巡る。

境内には、地面が見えないほどの人々で溢れかえっている。

フリーマケットの段取りは何度もしているが、音楽イベントは初めて。

不慣れな私は、かなり動揺している。

裾が裂けてしまったジョーパンのままで鐘つき堂に立ち、祭りの開催を告げた。

有名なファッション・デザイナーの訪問も告げさせられた。

ロックのライブは、名工大の現役学生が仕切ってくれたて助かった。

電源は落ちる、派出所からは音がウルサイとクレームがくる。

人ごみの中で、ロック・ライブをBGMに手づくり仲間による、おいらん道中が始まった。

予算の出ない手弁当のおいらん道中は、ただの道行きパフォーマンス。

しかし、前衛アーチストでもある手づくり仲間のパフォーマンスは、盛り上がっていた。

おいらん道中に、先妻が主役として出演した。

高校時代に演劇部員だった彼女は、舞台度胸があり、出演依頼はきっと即答したことだろう。

背が高くて、胸はないけどスタイルのよかった彼女は、学校では男役が多かったと聞く。

おいらん役の彼女は、着物がずり落ちて貧乳が露出したとのこと。

筋金入りの貧乳で、当時テレビ放映していたペチャパイ・コンテストに出れば入賞間違いないほど。

そんなことを楽しいそうに話してくれた。

私はステージに付きっ切りのため、見学することはできなかった。

名工大の学生さんには、お礼を伝えることなく、その後、再会も果たしていない。


イベントは満足のいくものではなかったが、魅力的な褒美が降って湧いてきた。

地元大須に事務所を持つ篤志家から、自社ビルの地下を無料で提供してくれるという申し出があった。

若者たちに、チャンスを与える、太っ腹お社長だ。

近くには、演劇場の「七ツ寺共同スタジオ」と「バー・自由都市」がある。

地下は戦時中、防空壕として使われていたと教えてくれた。

積み上げられていた木材は、持ち上げると崩れた。

ゴミは、中型トラックに2台分あった。

掃除していくうちにタイルが合われれ、そこがかつての「カフェ」だったことが偲ばれた。

数人の友人を仲間に誘い込んで、店を作った。

外人部隊のような仲間で作り上げた店だから、店名を「コマンド」とした。

クリエーターの集まるバーにしたかった。

いつのまにか、ライブハウス「コマンド」になっていた。


続く・

posted by ito-san at 17:32| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月22日

懺悔の回顧録・人畜無害(339)

今年に入って睡眠不足が続いている。

元妻との生活を断片的に思い出しては、その前後を構築しようとモガク夜。

まったく記憶が蘇ってこないことが多い。

薄情なものだ。

どうしても、話が私中心になってしまって申し訳ない。


彼女と知り合うちょっと前、会社勤めをしながら民家を改装した雑貨屋をオープンした。

郡道と呼ばれていたる街道にある、二階建ての一軒家。

愛知郡だったころの昭和時代の家並みや面影が残る道。

ネットで調べる前は、軍道だと思い込んでいた。

近く軍事工場があったという噂からの連想だった。

高度成長を成し遂げたばかりの活気の中で「大阪万博」が開催された1970年(3月15日から9月13日までの183日間)のこと。

1年間の海外放浪で持ち帰った物を、現金化したいと思いついて始めた。

大型ゴミを回収しアートとしてリサイクルした商品と、針金を曲げて作ったアクセサリー。

アメリカン衣料で購入したジーパンも売ったな。

屋号を「人畜無害」とした。

世間様に迷惑をかけないという、意気込みだ。

同じ頃、東京では「文化屋雑貨店」が開店している。

似たアイデアを持つ人間がいるものだと、その時に感じた。

名古屋駅前にある名鉄メルサがヤング館(現在のセブン館)をオープンしたのが、1972年。

オープンイベントで、針金細工で出店させてもらった。

手作りコーナーは人気で、たくさんの人が押しかけた。

商品が追いつかなかいほどだ。

閉店後、家に帰っては作った。

それでも追いつかないので、店頭でも作った。

懐かしい思い出だ。

名古屋でフリーマーケットが盛んに催されるようになったのも、この頃からだ。

もちろん「人畜無害」は、フリーマーケットの常連だ。


こうやって紐解いていかないと、彼女のことも思い出すことができない。

彼女は勤めを辞めて「人畜無害」を手伝ってくれることになった。

「こんな店がやりたかった!」と言ってくれた。

手先が器用で、アクセサリー小物を作り始めた。

人当たりが良く、お客とはすぐに打ち解け、常連客が増えた。

生き生きとして店番をしていた。

私は、仕事の途中で「人畜無害」に立ち寄った。

一悶着あった下請け業社の社長から「入り浸っている」と我が社の社長に密告があり、私は会社を辞めた。

フリーの店舗デザイナーになった。


これを機会に、私たちは結婚した。

19歳で結婚したいというのが彼女の夢。

私に依存はない。

現実には、20歳になっていたと思う。

貧乏な私に、結婚式ができる予算はない。

母親が「お金がないのなら、家で両家の顔見せだけでもいいのでは」と言ってくれた。

顔合わせは、私が暮らす市営住宅の一室で行われた。

彼女の家族は、両親と兄たちがが、遠路から訪れてくれた。

近くに住む兄は、私たちの結婚を最後まで望んでいなかったそうだ。

皆んなに可愛がられていた末っ子の娘だということが、伝わってくる。

母親が切り盛りした、質素だが心の暖まる「顔見せ」は、滞りなく終わった。


「人畜無害」は業績があがらず、店を任せて欲しいという知人に経営を託した。

知人に任せた「人畜無害」とは別に、友人の珈琲店の2階に「人畜無害」を開店した。

こちらも、暇だった。

旧「人畜無害」は、「元祖・人畜無害」と名打っていた。

彼女は時間を持て余し、仕事を探した。

身長167センチの彼女ならファッションモデルに最適と、友人のモデル事務所に紹介した。

名古屋でファッションショーの仕事はないのか、お呼びはかからなかった。

チラシや新聞広告のモデルには長身すぎたのか、こちらの仕事も少なかった。

スナックに勤めたこともある。

あまり酔客の接待には向いていなかったようだ。

思い出しながら、私は何度も懺悔している。


続く・

posted by ito-san at 23:13| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする