2017年05月03日

私の辞書に「偶然」はない!(129)

5月1日のこと。

夜の出勤、「和食・影武者」への出発時間を間違えた。

いつもは8時45分に部屋を出る。

9時前後には、坂田さんをプンゴセカンの十字路付近でピックアッップすることができる。

たいていは坂田さんが、先に待っていてくれる。

しかし、この日、坂田さんの姿はない。

そして、なかなか現れない。

ちょっと足を伸ばして、コンビニ前の屋台付近を歩く。

トウモロコシが美味しそうな匂いをあげて焼き上がっている。

ここからなら、宿から出て来る坂田さんの姿が見られるはず。

慌てて出て来る姿を想像していたが、それもない。

もう一度、待ち合わせの場所に戻った。

やはり居ない。

嫌な予感!

スマートフォンで時間を確認した。

液晶画面には、20:05が浮かんでいる。

あれっ!

時間、間違えたか?

一時間早く家を出たのだ。

部屋に戻るには、中途半端な時間。

早めに「影武者」に行こうかな。

呼び出せば坂田さんは出て来てくれるだろうが、それも申し訳ない。

さてさて、どうしよう。

どうやって時間をつぶそうか。

そうだ、買い物を思い出した。

明日の予定を今、済ませてしまえばよいのだ。

プリアタン村にあるコンビニで、目的の商品を購入。

私は今、鼻風邪でマスクをしている。

マスクの下は、ティッシュペーパーが両鼻に詰めてある。

コンビニ前で、マスクを外し、新しいティッシュペーパーに詰め替えた。

時計は、20:20。

まだまだ、中途半端な時間だな。

アンドン地域に近々オープンすると聞いているスーパーマーケット「ペピート」まで、ツーリングしてみようか。

「ペピート」は、バリ南部で有名なスーパーマーケットらしい。

今年の初め、ウブドの南地域に開店して人気を博している。

私は一度も行ったことがないので、人気の要因はわからない。

プリアタン大通りを疾走中、夜空にイルミネーションの卑猥な色が目に付いた。

イルミネーションのキラメキは、ペンジョールを飾っていた。

penjor_illumination1.jpg


5年ほど前、カジェン通りのペンジョールのひとつに、クリスマスに使われる点滅ランプがついていたのを見た。

その後、一度も見かけなかったのは、評判が悪かったからだろうか。

オダラン(寺院祭礼)の舞踊公演も、年々、照明が派手になってきている。

ツーリストがとやかく言う筋合いではないが、個人的には素朴が好みだ。


アンドンの交差点を突っ切って「ペピート」の前。

大きな電飾看板を、ファサードに取り付けているところだった。

店内には、すでに什器が並んでいる。

この様子だと、今月中には開店かな。

9時までには、まだ時間がある。

のんびりバイクを走らせても、時間はつぶせない。

鼻水も止まらない。

クシャミも出てきた。

夜風は、風邪に悪い。

しかたがない、坂田さんに早く出て来てもらおう。

一路プンゴセカンへ。

ハヌマン通り南下した「カキアン・ベーカリー」前で、面影のある2人ずれの姿を発見。

ウダンをした後ろ姿に、記憶がよみがえる。

まさかとの思いはあったが、声をかけてみることにした。

バイクを止めて「お〜い!」。

振り返ったご両人は、やはり知合いだった。

彼らは、カキアンで明朝食用のパンを買って宿に戻るところ。

私は、時間つぶしでブラブラしていた途中。

会うべくして会うんだな。

私に、偶然はない。

年末年始にお会いした時、5月に来ると聞いたのを思い出した。

再会の挨拶を交わして別れようとする私のマスク姿に気がついたのか「葛根湯を持ってますよ」の一言。

私は「ちょうだい・頂戴」の二言。

では、宿「テガル・サリ」までと相成った。

「テガル・サリの借景が、以前と、すっかり変っちゃってね!」

そうこれが、気に入らない景色・今日の2つ目。

私の趣味の問題ですが、と断りをいれて。

テガリサリ・バンガローの向こうに見えるアパートのようなホテルの夜景。

evitel.jpg

こういう興ざめする風景が、否だ。

ウブドに似合わないと思っている

表のプンゴセカン通りから見える紫色の看板も気に入らない。

このホテル名前は「the evitel resort」。


話し込んでしまい、待ち合わせの時間を少し過ぎてしまった。

痛め止めなど数種の薬をもらい、宿を辞去する。

食後に服したパブロンゴールドは効果てきめん。

いつのまにか、鼻水は止まっていた。

早出の結果が、葛根湯の入手に繋がった出来事。

この再会は、やはり必然だったんだろうな。


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2017年04月23日

ラクササ(巨大)・バロン ケケ(128)

スバリ村のグスティ君がリーダーを務める、伝統芸能「ジョゲッ・ピンギタン」が、今年の「バリ・アート・フェスティバル」に出場することが決まったらしい。

スバリ村のジョゲッ・ピンギタンとは、27年来の付き合い。

伝統芸能の保存を願う私としては、嬉しい限りだ。

バリ・アート・フェスティバルは、毎年6月中旬の土曜日から7月中旬の土曜日までの一ヶ月間開催される。

今年は39回目。

現地の人に訊ねる時は「ペーカーベー=P・K・B」と言わないと理解してもらえないので、ご注意。

P・K・Bは、「Pesta Kesenian bali=フェスタ・クスニアン・バリ」の短縮語。


P・K・B出場のお披露目と最終審査が18日にギャニアール市で行われるらしい。

私は、グスティ君のインドネシア語をそう理解した。

当日が近くなって、詳しい情報がフェスブックのウブド・コミュニティ(https://www.facebook.com/ubudcommunity)から入手できた。

4月15日から19日まで開催されている「ギャニアール市制記念行事」のパレードに出場することがわかった。

テガララン郡のスバリ村を含んだクリキ地域は、18日に参加する。

パレードの練習は、クリキ村の公道で2度行っている。


ウブド・コミュニティの情報には、ギャニアール市制246年と書かれていた。

これは、246回目という意味でははないだろう。

単純に計算して2017年から246年を引くと1771年。

初回の1771年は、バリ島は、クルンクン王朝から各王国が分離独立して9王国になった時代。

ギャニアールは、その9王国の一つ。

王国時代に、使われた暦はウク暦ウク暦かサコ暦だったろう。

西暦を使って誕生日を祝っていたとは思えない。

歴史を振り返り、ギャニアールの地に王国ができてから西暦で246年を経たという意味と理解しよう。


グループの正装一式が、サポーターの私にも用意された。

そこまでされたら、行列に参加しないわけにはいかないだろう。

ガムラン隊を乗せた台車を押す覚悟はできた。

スバリ村のグループの登場は、午後2時30分。

この時間に間に合えば良いだろうと考えていたが、グスティ君は「正午12時には始まるので、それより前に到着していたほうがいいよ」とアドバイスする。

パレードは、モニュメントのある十字路からスタートして、王宮のある十字路までの大通りを東進する。

道路が閉鎖され、混雑が予想されるので、ウブドを午前11時に出発することにした。

グスティ君もそうだが、バリ人は往々にして自分の村が中心で、他の村のことは興味が薄く全体を把握していないことが多い。

結果は、スケジュールもわからず、ただただ、熱い陽射しの中で、待ちわびることになる。

JKPI_1.jpg


JKPI_2.jpg


11時30分、ギャニアールに到着。

道路は、まだ閉鎖されていない。

大通りの沿道には、ペンジョールが飾られ、大きなゲートが道をまたいで設置されていた。

沿道の立て看板には、JKPI(jaringan kota pusaka indonesia=インドネシア遺産のネットワーク)とある。

人影は疎らだ。

いつ始まるのかまったく予想できない。

バイクを町外れに止める。

下見のための散策。

王宮前の広場では、植木市と民芸品の展示ブースが作られていた。

午後1時を過ぎた辺りから、出演者と思われる衣裳の一団を見かけるようになった。

午後2時を過ぎると、あちこちに小さな人垣ができていた。

知合いのバリ人から声を掛けられ「スタートは4時だよ」と聞いた時は、もう帰ろうと思った。

正装をもらった手前、そうもいかない。

グスティ君の一団を見るまで、もう少し辛抱しよう。

嬉しいことに、行列は市場前を午後3時にスタートした。

しかし行列は、このあと4時間も続くのであった。

沿道は、観衆で埋め尽くされた。

椅子を求めて入ったワルンのイブは「毎年始まるのは3時だよ」と教えてくれた。

「11時30分から来ている」と言うと「午後2時30分に来れば、いいよ」と、断言された。

巨大なバロン・ケケが登場。

全長10メートルほどのラクササ・バロン ケケ(Barong Ketket Raksasa)に度肝を抜かれた。




行列は、王宮のある十字路手前でパフォーマンスが上演する。

この日は、ギャニアールの7つの郡と7つの州から芸能が参加している。

テガララン郡は、最後尾だった。

彼らもこの時間まで、待たされたのだ。

お疲れさま。

このあとワンティラン前のステージでは芸能が上演されるようだが、ギャニアール滞在8時間を経過して私はかなり疲れている。

残念だが、ウブドに戻ることにした。

次回、来るとすれば、スケジュールを熟知したうえで午後2時30分に着くようにしよう。

それとも、パレードはパスして、夜間ステージで上演される芸能を鑑賞しようか。





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2017年04月20日

ある踊り子の愛の奇跡「 ニ・ポロック」(127)

入手の難しい本が手に入った。

毎年2月か3月にあるバリの祭礼日ニュピに合わせてバリを訪れている知人が持って来てくれた。

1990年1月11日出版の中古品を、古本屋で見つけてくれた。

知人の名前は、田尾さん。

2ヶ月ほど滞在していく。

彼は、バリ関係の本を見つけるとお土産に持って来てくれる。

今回の本の表題は、「ある踊り子の愛の奇跡 ニ・ポロック」。

財団法人 大同生命国際文化基金(アジアの現代文芸)から発行されている。

著者:ヤティ・マルヤティ・ウィハルジャ。訳者:山根しのぶ。

Ni Pollok1.jpg


ニ・ポロックの名前は、知っていた。

ベルギー人画家ル・マーヨールと結婚した、バリ舞踊レゴンの踊り娘として。

サヌール海岸に美術館があり、ubud-chinbotu「ウブド沈没」以前の旅で訪れことがある。

その時は「サヌール・ビーチ・ホテル」、現在の「インナ・グランド・バリ・ビーチ」に宿泊した。

かれこれ30年以上前の話だ。

ル・マーヨールは、1932年にバリを訪れている。

その時に、モデルになったのが当時15歳のニ・ポロックだった。

3年後に結婚している。

歳の差37。

1946年、サヌール海岸に居を構えた。

ル・マーヨール:1880〜1958。

ニ・ポロック:1917〜1985。

彼女の半生を綴ったのが「ある踊り子の愛の奇跡 ニ・ポロック」。

読んでいて、ル・マーヨールの情熱が伝わる。

彼らの住居が、ル・マーヨール美術館として一般公開されている。

Ni Pollok2.jpg



「ニ・ポロック」を読み終えて、にわかに美術館を訪れてみたくなった。

サヌール訪問は、昨年9月26日、サヌール沖に難破した船の石碑を見に行って以来。

(※その時の話は「バリ島物語・コミック版が出版(87)」に書いた)

美術館の開館時間を調べるために、ガイドブック「地球の歩き方・バリ島」を開いた。

ガイドブックには、画家の名前をル・メイヨールと表記している。

「ニ・ポロック」の本の日本語訳には、ル・マーヨールとある。

スペルは、Le Mayer。

チケット売り場の女性は「ル・マーヨール」と発音した。

どちらでも問題はないのだが、ちょっと気になったので記録しておいた。

展示遺作は、89点となっている。

開館時間と入場料が変っていたので訂正しておく。

金曜日をのぞいて、毎日開館08.00〜15:30。

いやいや、祝祭日は休館のようだ。

金曜日は、08.00〜12:30と早じまいだ。

入館料は、ツーリスト価格・大人Rp50,000-子供Rp25,000-。


ル・マーヨール美術館は、30年前となにも変らず、そこにあった。

海岸端に、ひっそり建つ一軒家。

美術館はサヌール唯一の観光スポットだが、観光客の目には入らないようだ。

海岸には、マリンスポーツと海水浴場の観光客。

その観光客を当て込んだ土産店が並ぶ。

付近の景色は変っているのだろうが、私の記憶は曖昧だ。

美術館の管理は、行き届いているようだ。

思っていたよりも、大きな建物ではなかった。

海岸の村・サヌールで、愛する女性をモデルに絵筆をとって一生を終えたル・マーヨール。

1932年から、インドネシア激動を時代を肌で感じながらも自由奔放に描きなぐった絵は、どれも力強い。

何故か、勇気をもらった気がした。





posted by ito-san at 15:08| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月14日

ハンディタイプのウォシュレット(126)

ウブドに滞在されたことのあるあなたに、お尋ねします。

ホテルやレストランのトイレで、便器近くの壁にノズルの付いたホースが掛かっているのを、目にしたことはありませんか。

これは、便座に腰を下ろしたまま、手に取ることができます。

ホースのノズルからは、通常、シャワーのように水が出て来ます。

さて、このホースは何に使うものでしょうか?

バリのトイレは、マンディ場として水浴びもできる構造になっていることが多い。

シャワーとして使ってもよいのでしょうが、水圧が強いのと、常にノズルに手をかけていないと水が止まってしまうので使いかっては悪いです。

もうお分かりですね。

handshower.jpg

そうです、ハンディタイプのウォシュレットだったんです。


その昔バリの便器は、日本同様の座り込みタイプだった。

トイレ内の片隅に水槽が設置されていて、水をヒシャクで掌にすくってお尻を洗っていた。

この頃、「どちらを向いて座ったらよいのか? 」とよく訊かれた。

右利きの人は右手にヒシャクを持って、左手で洗うだろう。

だから水槽は、出来れば右側に控えて欲しい。

左利きの人は、逆になる。

ダメダダメダ、バリでは、左利きの人も右手で持たなくては。

これはバリの信仰上のルールだ。

右手は清浄、左手は不浄として認識されている。

水槽の位置は、ところによって違っていた。

壁に向かって座るのか、壁を背にして座るのか、悩んだものだ。

座り込み便器の形状を見ると、壁を背にするようだ。

うまく水をかけることができず、お尻をベタベタに濡らした。

パンツは濡れたままだが、すぐに乾く。

私はOKだったが、濡れたままを嫌がる人も多かった。

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この頃のウブド、一般家庭でも水槽の姿は消え、ハンディタイプのウォシュレットが普及しはじめている。

便座に付いたウォシュレットは、高級ホテルと一部富裕層にしか普及していない。

なにげなく使っていたが、右利き専用なのか右側に設置されていることが多い。

先日友人から、今まで、疑問にも思わなかったことを訊かれた。

それは、ウォシュレットのハンドルの持ち方だった。

「シャワーのハンドルの持ち方に困っている知人がいる」と友人から聞いた。

目的のホールにあたらず、勢い良く後ろに飛ばして、便器まわりを水浸しにしてしまうらしい。

時には、下着をベタベタに濡らしてしまうこともあるという。

私は下着など濡れてもかまわないので、考えもしなかった。

ハンドルの持ち方で困っている人がいるのに驚いた。

ウブド滞在の達人と噂される私としては、検証する必要があるだろう。


さっそく検証してみた。

持ち方には、3種類の基本形ある(右利きの場合)。

持ち方基本形1
handshower1.jpg


持ち方基本形2
handshower2.jpg


持ち方基本形3
handshower3.jpg



指の添え方に違いがあるだろうが、たいていこの3つのパターンに当てはまるだろう。

さてあなたは、どの持ち方が正しいと思いますか?

?????????

これには、正解はありません。

得意不得意があって、人それぞれの方法でかまわない。

自分の使い易い方法を探そう。

他人がどんな方法で使っているか、気にしない。

こんな取るに足らないことで、悩まないでください。

ちなみに私は、基本形の2番目に、親指を添えた形です。

諸君の健闘を祈る。


posted by ito-san at 17:41| 愛知 | Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月11日

スグリオ川の増水 @ ワルン・ソパ(125)

Banjir @ Jl.Sugriwa.jpg


昨日は一日、晴天だった。

今日も、今のところ青空だ。


一昨日の9日は、曇天と哀しいほどの雨模様。

午後2時30分、居候先を出た時に、雨は降っていなかった。

ウブド中心部に向かって南下すると、すれ違うバイク乗りたちは全員雨合羽を着ていた。

この先は、雨なんだろう。

バイクを道端に止めて、雨合羽をかぶる。

マヌマン通りで大雨に見舞われた。

こんな集中豪雨をゲリラ豪雨と表現するらしい。
 
行き先を変更して、スグリオ通りに避けると十字路は洪水だった。

インドネシア語で、洪水のことは「Banjir=バンジール」と言う。

道路面より20センチほど増水している。

「ワルン・ソパ」に避難することにした。

週に2〜3度、WiFiを利用しているレストランだ。

バイクを止めると、入口には道路を見つめるスタッフが鈴生り。

雨合羽を着たまま、席を確保する。

リュックを椅子に置いて、入口に戻る。

目の前のスグリオ通りは、激流のスグリオ川と化していた。

時折、自動車が散水車のように水をまき散らして走り去る。

この風景は、以前からあったウブドの風物詩。

ソパの客は、すべて旅行者。

一応に、洪水風景をカメラにおさめていた。

彼らの国では、珍しい光景なんだろうな。

時は、午後3時少し前。

ジョーク好きなバリ人の知人が「これって、観光にできるかな?」なんて、私と同じ発想をしていたのに苦笑した。

夕方、家路につくと、タマン村スリウェダリ通りの豪華なペンジュールの一本が横になっていた。

この日は、ウブド各地でバンジール(洪水)とペンジュールの倒壊があったことだろう。


昔々。

と言っても27年ほど前のこと。

マヌマン通りで大雨に見舞われた時、ワンテラン(集会場の建物)に逃げ込み、雨宿りをした。

ヤシ殻の流れる風景をボ〜と見ながら、3〜4時間過ごしたことを思い出す。

数年後、同じワンテランで雨宿りをしていた。

雨宿りで一緒になった日本人女性ツーリストに「この雨、どのくらいで止みますかね?」と訊かれた。

天気予報官でもないのに、その時私は、「3時間もすれば止みますよ」と答えていた。

女性は「そうですか」と素直に頷いて雨宿りを再開した。

みんなノンビリしていた。


今夜は満月。

今のところ晴。

満天の星が見られるといいな。





posted by ito-san at 15:26| 愛知 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月01日

プンゴセカン村ビンギン大樹の倒壊(124)

3月28日、サコ暦の新年(1939年)・ニュピ(=NYEPI) は、つつがなく明けた。

ニュピは、1991年から25回ほど体験していいる。

その日1日、労働(アマティ・カルヤ)、通りへの外出(アマティ・ルルンガン)、火の使用(アマティ・グニ)、殺生(アマティ・ルラングアン)などが禁じられている。

火は、現代では電灯も含まれる。

この4つを守り、精神を集中させ、心を穏やかにし、世界の平和、最高神イダ・サンヒャン・ウィディに祈るのが、バリ人の信仰するヒンドゥーの慣習だ。

前夜は、村々でオゴホゴ神輿が繰り出す。

オゴホゴを見学するのも、25回ほどということになる。

昨年(2016)は、タバナンの山中の村で、トランスのあるオゴホゴ行列を見学した。

一昨年(2015)は、南米コロンビアに旅立つ前の日本一時帰国で、バリに居なかった。

その前の年(2014)は、テガランタン村のオゴホゴ行列に参列した。

その前の前の年(2013)は、プリアタン村を見学。

ウブドのオゴホゴを見学するのは、5年ぶりになる。

観光客も多いが、村の人口も増えているようで、凄い人出だ。

ポリウレタンや発泡スチロールなどの材料の入手が用意になり、造作が繊細になってきている。

着色は、スプレーで吹き付けているようだ。

オゴホゴの数も、年々増えている。

動画は、ウブドの十字路。

こんな神輿が何十体も、変則十字路で奇声をあげる。

熱気が伝わるでしょうか。




これより10日ほど前のこと。

知人から「プンゴセカン村の中心地にそびえ立っていたビンギンの大樹が、切られていたよ」と情報があった。

ウブドの南に位置するプンゴセカン村とは、縁が深い私。

切られた原因を探る義務がある(と思っている)。

さっそく出かけて行った。

遠くから見つけられるビンギンは、ランドマークの役目をしている。

大きな影を作る鬱蒼とした大樹は、威厳がある。

大樹に宿る精霊は、この地の人々の生活や時の移り変わりを見てきたに違いない。

Bingin_Pengosekan1.jpg

鬱蒼と茂っていたころのビンギン

現場に立ってビックリ。

畏敬の念を抱かせた大樹は、見るも無惨な骨骨の老木になっていた。

早朝に開かれ市に、日陰がないのは辛いだろう。

朝市は、村人のコンビニエンス・ストアー&井戸端会議の場。

大樹にサロン(腰布)を巻いているプマンク(僧侶)に「どうしたんですか?」と聞いてみた。

2月4日のTumpek Landopの日に、大きな音をともなって倒れたと言う。

樹齢1000年。

寿命だったのか?

排気ガスに負けたのか?

根っこをコンクリートで固められ、水分の補充が充分に行き届かなかったのか?

こうして悪いところを切っておけば、また、生き返るそうだ。

ビンギンの生命力に期待しよう。

Bingin_Pengosekan2.jpg

無惨な骨骨になってしまったビンギン

プンゴセカン村のビンギン大樹には、こんなエピソードがある。

昔々、プンゴセカン村に3人組の泥棒が入った。

村人に追い詰められた泥棒は、ビンギンに上り枝の茂みに身を隠した。

時間が経てば泥棒は観念して下りてくるだろうと、村人は、樹の下で待った。

しかし、1昼夜が過ぎ、2日3日と過ぎても泥棒は下りてこない。

結局、そのまま姿を現さなくなった。

村人たちは口々に、この樹に棲みついているハントゥー(妖怪)に喰われてしまったのだと噂する。

このハントゥーは、夜な夜な樹から下りてきては鶏を食べてしまうそうだ。

顔は狼、身体は猫、尻尾は長く、足は犬のようだが3本しかない、という奇怪な動物だそうだ。


さてさてそんなエピソードのあるビンギン大樹が、丸裸になってしまった。

ハントゥーはどうしてたんでしょうね。

枝が払われ、朽ちた幹がカットされて、慌ててどこかへ移住したのかな。

緑が豊富なったら、戻ってきて欲しいね。


※バリ島見聞録「ビンギン (Bingin)


posted by ito-san at 17:55| 愛知 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月22日

影武者スタッフ・クトゥット君の訃報 (123)

先週の日曜日(12日)から、この一週間、知人の訃報が続いた。

年を取ると知合いが増える。

そのどこかが、綻びる。

この日(19日)で、4人目。

「和食・影武者」のスタッフ・クトゥット君が逝った。

女将の由美さんから電話で知ることになる。

聞いたときは、唖然として、声もでなかった。

「どうして! どうして! どうして!」

心の中で叫んでいた。

近い将来、年取った私を実家に住まわせて面倒見てくれると言っていたではないか。


クトゥット君は、21年前に私が雇い入れたスタッフだ。

ウブドでホテル勤めをしているお兄さんが、頼みに来た。

お兄さんが、なぜ私を知っていたかは、記憶にない。

20歳だった彼は、生意気盛りの顔で私に接した。

私は、こんな態度の若者に共感を得る。

接客を担当したのだが、適任だった。

陽気な性格は、スタッフの牽引役になり。

店舗の造作にも気を配り、適切に指示をする。

手先が器用で、私が伝授したバナナの幹で作る紙も作れるようになった。

彼の実家近くで行われる合同火葬儀礼に、アパ?情報センターのツアーで参加した。

「帰りに、家に寄ってくれ」と誘われた。

そのときに賄われた料理が、参加した日本人全員の嗜好に合った。

もちろん私も満足した。

料理上手な奥さんのカルニーとクトゥット君を「ワルン・ビアビア」のオープニング・スカウトに誘ったことがある。

「私は、ここでお世話になっているので、止めるわけにはいかない」と義理堅いことを言う若者だった。

カルニーは働いてくれて、レシピーを作ってくれた。

レシピーは今でも受け継がれていると、現在のオーナーから聞いている。

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今年の7月で70歳になる私は、死の覚悟は出来ている。

今生に未練を残さない生活を心掛け、いつでも旅立てるように心構えはしている。

これからの一年一年は、神様からのおまけの人生だと思っている。

両親が他界した時、すでに社会人だった私の涙の源泉は、思い出だった。

他人の死の悲しみは、思い出の数だけある。

私の死で悲しむ者もいるだろうが、年齢で大往生だと納得してくれるだろう。


しかし、クトゥット君の場合は違う。

彼は、41歳と若い。

大往生とは違う。

働き盛りだ。

残された者の悲しみを計らなければいけない年齢だ。

若者の死の悲しみは、深い。

奥さんのカルニーも若い、2人の男児も幼い。

彼らの喪失感は、私には想像もできない。

お母さん、お兄さんも、さぞかし悔しかろう。

クトゥット君は、精神的な病を克服できなかった。

苦しみは、他人が計り知ることはできない。

辛かっただろう。

生死をさまよった数ヶ月で、くだした決断。

自分で命を断つことだった。

来世を選ぶほど、苦悩したのだ。

愛妻と二人の息子を残して、さぞかし心残りだろう。

私の人生で、はじめて経験する知人の死に様。

信じられない。

認めたくない。

バンジャールで火葬が出来ないため、火葬はその日のうちにヌサ・ドゥアにある葬儀場で行われた。

私は、列席しなかった。

頭も内臓も空っぽ、身体は重いのに足は地につかない、そんな状態で、大雨の中、バイクを走らせる気にならなかった。

実は、クトゥット君の死を受け入れられなくて、先送りいしたいのだ。

引き延ばしたところで、現実は変らないのに。


「影武者」での夕食後、クトゥット君は、何も言わずコピ・バリを出してくれる。

いつのまにか、他のスタッフも見習って恒例になっていた。

「あずき寒天、食べますか? アイスクリームは何をのせますか?」デザートを進めてくれる。

花粉症の鼻をズーグー鳴らしていると、トイレットペーパーのロールが一巻きテーブルに置かれる。

いつも気にかけてくれていた。

私は、いつまでも忘れない。

クトゥット君、もう苦しむことはないね。

安らかにお眠り。

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2017年03月18日

ワルン・ティンティン=Warung TINGTING(122)

ウブド西部・ペネスタナン村には、数多くのツーリストが長期滞在する。

特にビンタン・スーパーの裏手一体は、欧米人の住む特別エリア。

「ここはバリ?」と錯覚するほどの雰囲気を持った町並みだ。

そんな環境のせいか、オシャレな店が増えている。

「ワルン・ティンティン」も、そんな一軒。

ペネスタナン村の端、メイン道路を西にカーブすると人気カフェ「ベスパ」がある。

「ベスパ」の東側の村道を直進して、家並みが左右に残る石畳を進むと、道は100メートルほどで行き止まる。

右手は、プシンパナン・ウルンダヌー寺院(Pura Pesimpangan Ulundanu)。

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正面に見えるのが「ワルン・ティンティン」。


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一階のステンドグラスとピー玉のはめ込まれた階段が、印象的だった。


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2階席は、風が吹き抜けて心地よい。


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友人のミサトさんが描いたスケッチが置いてあった。


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手作りの万華鏡が、アンティックな雰囲気を醸し出していて気に入った。


ワルンの玄関横の建物で、グラインダーで何かを削る作業をしている男性を見つけた。

興味をひかれたので中を覗いた。

ステンドグラスを作っている工房だった。

20年前に、オーストラリア人から手解きを受けたらしい。

その頃に、ワルンのある場所で工房を持ったと言う。

男性は「ワルン・ティンティン」のオーナーだった。

どおりで、店内にステンドグラスが多いはずだ。

貧乏な家庭に生まれ、苦労をした話を聞く。

図面を持ってくれば、注文に応じてくれる。

ちなみに万華鏡は、Rp550,000-だそうです。


メニューが手頃な値段なのでお薦めです。

★メニュー:インドネシア料理

★食事:ミーゴレン&ガドガドRp20,000-/ナシチャンプール&ナシゴレンRp25,000-/etc

★飲物:紅茶Rp10,000〜/コーヒーRp15,000〜/ジュースRp15,000〜/ビンタン・ビール大Rp35,000-小Rp25,000-/etc

★営業時間:8.00am〜10.00pm(定休日・ニュピ&ガルンガン&クニンガンの祭礼日)

★Phone:(62 361) 975 954

★Email:Tingtingwarung@gmail.com





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2017年03月11日

アヤム・カンプン=Ayam kampung(121)

コーヒーは、かまどで沸かした湯を使っている。

薪は、使わなくなった流木の木っ端。

コーヒー一杯分のお湯を沸かすには、木っ端も少しでいい。

暑い昼下がり、いつものようにかまどの前に立つ。

何度も言うが、私は暑い日でも焚き火をするほど火を見るのが好きだ。

かまどの上に、真っ黒に煤けたヤカンをのせる。

インドネシア製100円ライターで、雑誌の数ページを握りつぶした紙に火をつける。

かまどの口に、火をもっていく。

からっぽのはずのかまどの中に、何かが入っている。

茶色い塊。

Ayam1.jpg


恐る恐る覗いてみる。

何者かの目が、暗闇で動いた。

赤いトサカの鶏だ。

威嚇する目が、私を睨む。

具合のよいネグラなのだろう。

そうはいかない、私はお湯が沸かしたいのだ。

可哀想だが、出て行ってもらおう。

鶏に、火を近づける。

微動だもしない。

眼光が、いっそう鋭くなる。

図々しい奴だ。

いきなり飛びかかられては、怖い。

短い棒で、お腹を軽く突ついてみた。

いっこうに動く気配はない。

お腹の辺りを棒で少し、持ち上げてみた。

白い物が見えた。

もしかすると卵かもしれない。

親鳥が卵を温めているのか?

それなら、邪魔はできない。

この場所は、暖かく、そして安全なのだろう。

イブに聞くと「この鶏は、卵をとらせないために絶対に動かない」と言う。

ということは、卵がかえるまで、かまどから出て行かないということか。

お湯を沸かすのをあきらめるしかない。


セナ家では、放し飼いの鶏がけたたましい声をあげ、庭を走り回っている。

時には、テラスまで上って来て、糞をする。

追い払う、イブの大声が聞こえる。

親鶏5匹が、それぞれうしろに子供を8匹ほど従えている。

テリトリーをつくって、餌をついばんむ。

子供のすべてが成長すれば、庭中、鶏でいっぱいになる。

そうにはならないところをみると、適当なところで食べているのだろう。

庭で飼う鶏は、アヤム・カンプンと呼ばれ美味しい。

卵も栄養価が高い。

Ayam2.jpg


卵は、何日でかえるのだろうか?

無知な私は、そんなことも知らない。

3週間ほどだと、イブは言う。

ネットで検索すると「抱卵を始めた日から21日目に自らの力で殻を割り、誕生を迎えます」とあった。

「えっ〜! その間ず〜とコーヒーが飲めないの!」

ここで、いくつもの疑問が浮かんだ。

鶏は、平均一日に一個の卵を産むと聞いている。

交尾しなくても卵を産む。

これを、無精卵と言うらしい。

セナ家では、オスとメスが同居していて自由に交尾をするので、有精卵かもしれない。

生み続けていては、抱卵する暇がない。

ネットで検索すると「ニワトリなどの鳥は、一斉抱卵の習性がありますので、ある程度卵を産んでから抱卵します」とある。

抱卵を始めたら、21日間は、卵を生まないというわけだ。

この期間、メス鶏の餌はどうしているのだろう。

この年になっても、知らないことのほうが断然多い。

日々、これ学習だね。


今月の初め、かまどが明け渡された。

モヒカン柄のひよこが8匹、母鶏の懐に隠れている。

ひよこにかえることはできなかった卵が、一つ。

一子から九子まで、9日間に渡って産み落とされたことになる。

抱卵の始まりは九子から、数えるのかな?

誕生日は、産卵日なのかひよこにかえった日か?

あとで検索してみよう。

みんな、食べられるまで元気に育てよ。

さて、久しぶりにお湯を沸かしてコーヒーでも淹れるか。



知らなかったウンチク:

本来は、生物学的な意味で「卵」、食材として「玉子」というように区別されるが、2014年現在では、生のものを「卵」、調理されたものを「玉子」という使い分けがされるようになってきているという。



posted by ito-san at 14:24| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

ジャマイカ料理の ”Jambali Cafe”(120)

ジャマイカと聞いて思い浮かぶのは、レゲエ(reggae)&ボブ・マーリー&ドレッドだ。

知識が貧困で、ゴメンナサイ。

一度は行ってみたいと思っていた、中米の国。

「南米コロンビアの旅」の途中に訪問したいと思っていたが、お金が足りなくて断念した。


なぜ、いきなりジャマイカの話か、と言うと。

先日の「 FOOD TRUCK PARK @ UBUD」で、ジャマイカ料理の店「Jambali Cafe」が出店していた。

この日は、すごい人出で試食することができなかった。

単純な私は、どんなものか知らないジャマイカ気分を味わいたくなった。

気になったら即実行。

2月25日に行って来ました。

場所は、ペネスタナン村。

ウブドからチャンプアン橋を越えて、すぐ左手の坂を上る。

上りきると道は、右にカーブする。

目的のレストランは、カーブから50メートルほどの左手にあった。

壁に描かれたジャマイカの国旗とボブ・マーリーの写真パネルが目印。

Jambali1.jpg

ジャマイカ人と思われる女性が、迎えてくれた。

店名の上に書かれている "MICHELE'S" は、彼女の名前なのだろう。

レゲエ・レゲエした店を想像したが、店内は意外と落ちついたトーン。

私の思うレゲエ・レゲエした店とは。

視覚的には、赤・黄・緑のラスタカラー。

聴覚的には、ボブ・マーリーのBGM。

臭覚的には、マリファナ(大麻)の匂い。

最初(1990年5月)に数日滞在した、バリ南部の観光地クタでは、そんなイメージの店があった。

ウブドに長期滞在するようになって、バリのイメージは一変した。

これがバリの本来の姿だろう。

クタで見かけたツーリストのドレッドに「ここまで来て、どうしてドレッドなの?」と疑問を投げかけたことがある。

その時の恋人は「あなたがバリの正装するのと同じよ」と言っていた。

ちょっと違うような気がしたが、反論はしなかった。


貧困な知識を、ネットで補充してみた。

1960年代後半に、レゲエは誕生した。

1970年代には、ボブ・マーリーが登場しジャマイカ音楽の象徴となる。

1年ほどの世界節約旅行から帰国したばかりの私が、反戦歌に耳を傾けていた時期。

ラスタ・カラーは、黒、赤、緑、金色(黄色)の4色の組み合わせ。

赤、黄、緑とユダのライオンは運動のシンボル。

これはジャマイカ独立のために戦った黒人戦士の黒、戦いで流れた血の赤、ジャマイカの自然の緑、ジャマイカの国旗の金色(太陽の色)を表すらしい。


「Jambali Cafe」に、ラスタファリのシンボル旗はない。

この旗が、ジャマイカの国旗だと思っていた時期があった。

ラスタ・カラーも充満していない。

女将のコンセプトなのだろうか。

見晴らしのよい、2階に席をとった。

メニューにコーヒーがない。

ミネラルウォーターを頼んだ。

ジャマイカ料理を知らない私は、無難にベジタリアン・ココナッツ・カレーを食すことにした。

ベジタリアン・ココナッツ・カレーは、普通に美味しかった。

これでは、ジャマイカ料理の特徴はわからない。

よって、食に対するコメントは、いつものように無し。

期待したレゲエ・レゲエした店ではなかったが、意外と落ち着けたので、再訪もありかな。

Jambali2.jpg

COCONUT CURRY 'ITAL STEW'(Rp50,000-)

Jambali3.jpg
JAMAICAN JERK CHICKEN DINNER(Rp85,000-)


★メニュー:ジャマイカ料理

★食事:メインディッシュRp85,000〜RP110,000-/ベジタリアンRp45,000〜Rp55,000-/etc

★飲物:ミネラルウォーターRp8,000-/ジンジャーレモネードRp25,000-/紅ビンタン・ビール小Rp30,000-/etc

★営業時間:5.00pm〜9.30pm(月曜日)/12.00am〜9.30pm(火曜日〜土曜日)/(定休日:日曜日)

★Phone:+62 81 246 588 938 ★Email:michelesjambali@yahoo.com

★Web:jambalicafe.com



posted by ito-san at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする