2016年07月23日

シルビオ・サントーサ氏との再会(76)

トゥブサヨ村スクマ通りをダラム・プリ寺院から南下すると、ローカルに人気の「ワルン・サリ・ラサ」がある。

この店のナシゴレンは、炒飯ぽい私好みの味。

週に、2度は行く。

毎回、ナシゴレン(Rp10,000-)とテ・ボトル(Rp4,000-)。

Rp14,000-は、只今のレート(¥1=Rp123)だと約114円。

私が入っていくと、注文する前から「ナシゴレン」と言われる。

バイクを止めるところから見られている。

「ナシゴレン」が来たとでも、思っているのだろう。

期待は裏切れない。

テ・ボトルは、自分で冷蔵ケースから出す。

ナシゴレンは、吉野家の牛丼ほどの早さで出て来る。

早くて、安くて、美味しい、三拍子揃った店が「ワルン・サリ・ラサ」。


サリ・ラサの2軒南隣りにワルンがオープンしたのは気がついていた。

3月頃だったか、記憶は定かでない。

店名は「ワルン・ユニーク」。

気にはなっていたが、サリ・ラサの前を素通りして、眼と鼻の先で浮気はできない。

この日、サリ・ラサの前まで来て気がついた。

日曜日が定休日だというのは知っているが、この日が日曜日だというのを忘れていた。

さて、どうしよう。

この機会に「ワルン・ユニーク」に入ってみようか。

店頭でメニューを見ていると、店内から声が掛かった。

よく聞き取れなかったが、きっとインドネシア語で「いらっしゃいませ」とでも言ったのだろう。

声のした方を見ると、見覚えのある顔がそこにあった。

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シルビオ・サントーサ氏だ。

バリ島の地図「バリ・パスファインダー」の出版者。

シルビオ氏とは、10年前に「バリ島ウブド 楽園の散歩道」のインタビューで会って以来だ。

それより以前は、26年前のウブドのセンゴールだった。

間違いないと思いながらも、もうひとつ自信が持てない。

彼は、私のことを覚えていないようだった。

メニューは、さして高くはない。

もう少し、観察しようと、店に入った。

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ナシゴレンを注文した。

どこに行ってもナシゴレン。

ナシゴレンなら、カレーライス同様、少々まずくても食べられるほどの好物。

シルビオ氏が、厨房に立った。

ナシゴレンの味は、サリ・ラサにはかなわない。

懐かしい人に会えたので良しとしよう。

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年を重ねて、風貌に以前のハツラツさはなくなったが、シルビオ氏に間違いない。

私は、帰りがけに声を掛けた。

住まいはクトゥ村、息子がイギリスに行っている。

会話から検証しても、間違はいない。

「健康のために、ワルンを開いている」と言う。

「話が弾めば、深夜まで営業してるよ」と言う。

夜な夜な、ウブドのセンゴールを徘徊していたシルビオ氏の姿を思い出した。

アラック(椰子酒)が入り、興にのるとウブドを熱く語ってくれる。

店名のユニークの意味、きっとシルビオ氏本人のことを指しているのだろう。

忘れられていたのは残念だが、お互いに大好きなウブドで生きていることに感謝だ。


「ワルン・ユニーク」のメニュー

★食事:カレー各種Rp15,000〜Rp35,000-/ナシゴレン&ミーゴレンRp20,000-/チャプチャイRp25,000-/etc

★飲物:コピバリ&紅茶(ホット)各種Rp5,000-(アイス)/ビンタンビール大Rp40,000-小20,000-/etc

★営業時間:11.00am〜10.00pm (気が向けば深夜まで)/ 定休日・儀礼祭礼日/


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2016年07月18日

クトゥッ・リエールさんの火葬儀礼(75)

イ・クトゥッ・リエール(I Ketut Liyer)さんの火葬儀礼が、7月16日、盛大に執り行われた。

ご存知のように、ジュリア・ロバーツ主演の映画『Eat, Pray, Love』(邦題:食べて、祈って、恋をして)で一躍世界的に有名になったバリ人。

場所は、プンゴセカン村ダラム寺院の火葬場。

リエールさんは、バリヤン=Balian(バリの呪術師)

専門は、手相占い&薬草による病気治療。

生前、アパ?では「バリヤン体験」で、大変お世話になった。

お疲れさまでした。

天国でノンビリお過ごしください。


映画『Eat, Pray, Love』は、エリザベス・ギルバート著の紀行記の映画化だ。

エリザベス・ギルバート氏が、ウブドでリエールさんと出会う。

リエールさんは、ウブドでは高名なバリヤン。

手相占いを受けたエリザベス・ギルバート氏の人生が、変わっていく。

2010年9月17日に各国で封切られ、日本でも公開された。

紀行記の日本語訳(訳者:那波かおり)は、ランダムハウス講談社から2009年12月16日に出版。

Laveの章で、バリ島が登場する。

映画は、ウブドの風景が随所に映し出されている。

内容はともかく、ウブド好きにはヨダレものの風景が映る。

※MIXIの日記に、ウブドでの撮影裏話風が残っていたので巻尾に掲載しておきました。

後ほどお読みください。


私が最初のリエールさんにお会いしたのは、1991年、プンゴセカン村の知人宅の屋敷寺での祭礼だった。

リエールさんは僧侶(プマンク)で、その場を取り仕切っていた。

力強く精悍な顔つきに、バリの呪術師を認めた。

その後、手にした書物「虹の理論」に、リエールさんの名前を見つける。

「虹の理論」は、平成2年9月25日・発行された中沢新一の著書。

「第二章ファルマコスの島」は、リエール氏に弟子入りした時にまとめたレポートと聞いている。

ブラック・マジックの話だ。


この日は、デワ・カワン(kawan)氏の家族の火葬儀礼も行われた。

カワン氏はプンゴセカンスタイルの画家で、旧影武者前にあったギャラリーのオーナー。

「Tako Casa」「Le Moulin」などの大家さんだ。

インドネシア語で友人の意味を表す「kawan」さん。

大勢の弔問客が訪れていた。

プンゴセカン村は、私にとってゆかりの深かった村。

多くの知った顔に出会った。

皆、一様に年輪を刻んだ風貌に変っている。

在ウブド26年を懐かしく、また、感慨深く思った火葬儀礼となった。


火葬儀礼で出合った人々。

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デワ・ニョマン・スギ君は、マイペースで歩いていました


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デワ・ニョマン・イラワン君は、御神輿を担いだようだ


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「グリー・フイルド・バンガロー」のボス、サンタナ氏がプマンク(僧侶)になっていた


その他、大勢の方にお会いしましたが、割愛です。


プンゴセカン村でリエールさんとお分かれしたあと、ウブドの合同火葬儀礼へとバイクを飛ばした。

久々の火葬儀礼のはしごだ。



クトゥッ・リエール氏の火葬儀礼



デワ・カワン氏家族の火葬儀礼


2009年12月28日:MIXIの日記です。

10月の始め、ウブドにハリウッド映画の撮影隊が来るとの噂が立った。

そして、実際に15日にはベントゥユン村で撮影があった。

主演女優はジュリア・ロバーツ。

ウブドのパサール、ペネスタナン、プンゴセカン等々で撮影が行われ、彼女を一目見たくて、ウブド在住の幾人かが追っかけた。

私もその1人。

「ジュリア・ロバーツ見た?」が、在住者の挨拶になっていた。

映画は、著者:エリザベス・ギルバートの紀行文「Eat, Pray, Love」の映画化。

公開予定は2011年と1年も先。

知ってしまうと、一日も早く観たいのが人の心というもの。

撮影現場は追っかけたものの、原作を読んでいないので、あらすじも掴めない。

邦訳が出ればいいのにな、と思っていた矢先、

12月16日訳者:那波かおり、でランダムハウス講談社から出版された。

さっそく、近日中に来ウブドする知人に頼んだ。

副題:女が直面するあらゆること探求の書

第1部:イタリア/イタリアでは食べまくり
第2部:インド/インドでは瞑想に励み
第3部:インドネシア/バリでは恋をした(帯より抜粋)

バリは、ウブドでの話だ。

話は、プンゴセカンのバリアン、クトゥさんを中心にして展開していく。

ジュンバワン通りの「トラディショナル・バリニーズ・ヒーリング・センター」。

モンキーフォレストも登場する。

ペネスタナンでの撮影は、クトゥ氏所有の治療手引きをコピーするのシーンだったようだ。

ウブドらしいエピソードの数々に、ウブド好きは、親近感で満腹になることだろう。

原作が、どんな映画に姿を変えるか、そんなことも楽しみの一つだ。


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2016年07月17日

合同火葬儀礼の季節到来(74)

バリ・ヒンドゥー・ダルモで、もっとも大切な儀礼は火葬儀礼。

火葬儀礼には、個人葬と合同葬(ガベン・マサル/Ngaben Masal)がある。

合同火葬儀礼は、一つの村で2年〜6年に一度に行われる。

時節は、サコ暦のなかから人間(特に死者)の儀礼にもっとも適したサシー・カロ(sasih karo=第2月)。

西暦の7月から9月の間にあたる。

毎年、どこかの村で合同火葬儀礼が執り行われている。

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7月15日に、ウブドの北に隣接するクトゥ村で合同火葬儀礼があった。

この村では、5年ぶりのこと。

5年分の遺体が、この日、合同で火葬されることになる。

火葬場には、火葬堂(バレ・パバスミアン)が14基用意されている。

私が到着した時間には、すでに、プトゥラガン(張り子の棺=patulangan)も安置されていた。

一家族に、一基の火葬堂と一体のプトゥラガン。

遺体は23体。

5年の間に、故人が2名以上出ている家族があるのだ。

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珍しい、半牛半魚のプトゥラガン


バリは公開火葬。

火葬の途中、遺体が跳ね起きるのを防ぐため、竹で押さえる。

燃え盛る火の中に、遺体が確認できる。

遺体が燃えていくのを目の当たりにする。

これは、かなりカルチャーショックだった。

そんな光景を見に来た観光客も多かっただろう。

今では、鉄板で囲われて、遺体が燃え落ちていく姿は見られない。

見せないようにしてるのかもしれない。

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この頃、合同火葬儀礼では、遺体が燃える光景は見られない。

遺体は数日前に掘り起こされ、その場でバーナーで燃やされる。

死者に対する感情が、私たち日本人と違うのを実感する。

傍目から見ると、遺体が雑に扱われているように見えるが、遺体はすでに抜け殻だ。

火葬儀礼は、魂の浄化儀礼。

死を、魂の旅たちと考えで解放する。

燃やされるプトゥラガンには、シンボル(+遺灰)が安置される。

数年前から遺体を掘り起こさず、シンボル(+埋葬場の土)を作ってそれを燃やす村も増えている。

シンボルの正体は、人体の絵を描いた木札を入れた白布の包み、だそうな。


合同火葬儀礼のプトゥラガンは小さい。

大人の遺体を入れるには、小さすぎる。

死後、数年経ている遺体は小さくなっているのだろうと、都合良く考えていた。

しかし、日数の新しい遺体もあるはず。

この頃と思っていたが、私が知らなかっただけで、合同火葬儀礼では、以前から遺体は事前に燃やされていたのかもしれない。


儀礼のプロセスが、延々と続いている。

我々観光客が見たいのは、遺体が燃えるところだ。

いつ始まるかわからない。

ひたすら、待つのみだ。

焼けるような陽射しの中、プトゥラガンに火がつけられた。

熱風が押し寄せて来る。

プトゥラガンの燃え落ちるのが早い。

遺体は、すでにシンボル(遺灰)になっている。

見物人が引いていく。

お疲れさま。

私も、その場を後にした。






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2016年07月14日

高僧プダンダの火葬儀礼(73)

雨に打たれたせいか、窓を開け放して寝たせいか、風邪をひいてしまった。

9日から、鼻水垂れ流しの生活だった。

頭は鈍痛、身体もだるい、節々も少し痛い。

影武者25周年の10日も体調の悪い状態で、顔を出した。

大テーブルに鼻をかんだトイレットペーパーを山積みにして、冴えない顔の私が腰を下ろしている姿を想像してください。

見られたものではなかったはず。

幸い、何のイベントもなかったので助かった。

身内だけで、ささやかな乾杯をした。

「30周年には、何かしようかね」と女将を話を交わした。

もし影武者が存続していて、さらに私がウブドに居たらの話だ。

あと5年後の私は、元気な身体でウブドで徘徊しているのだろうか?

できることなら、30周年を迎えたいと思っている。

風邪の治療は、薬を使わず、ひたすら寝ることにした。

13日には、鼻水は治まり、ほぼ治った。


テガランタン村で12日、高僧プダンダの火葬儀礼が行われた。

相変わらず儀礼で忙しい日々のバリ人だ。

葬式だからと、正装は黒シャツを着て出かけ。

どうも私の持っている情報が間違っていたようで、村人は皆白いシャツを装っていた。

僧侶の火葬儀礼では、白が基本なのだろうか。

次回からは、白にしよう。

鼻水垂らして待ち構えていた場所は、偶然にもダラム寺院のジェニトゥリ(Genitri=菩提樹)の下だった。

表皮の剥がれたルドラクシャを数個摘んで、ポケットにしまう。


高僧プダンダの火葬儀礼の動画です。

風邪のため、燃やすところまでは参列していません。






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2016年07月12日

ベベ(アヒル)の行列(72)

アヒルのことは、インドネシア語でベベ(bebek)、バリ語ではイティ(itik)。

10年ほど前、kのないベベ(bebe)は、どこかの国のファッションと知った。

その時、インドネシア語→日本語の辞書で「bebe」を調べてみたことがある。

語源は、ポルトガル語。

1)女の子の着物・ガウン

2)植民地時代の地方政官

3)乳児・ベビー

とあった。

日本の童謡にある「♪赤いベベ着たお人形は♪」のベベは、ひょっとするとひょっとするかもと思った。

思っただけで、確証は取っていない。


バリの風物詩に、隊列を組んだべべの行進がある。

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田んぼに水が張られ、田植えの前にべべが放たれる。

これは水利組合で決まられた行事。

大量に飼っている農家から借りる。

多い田んぼでは、100匹を越えることもある。

餌をついばんだべべの排泄物が肥やしになると言う。

日本で言う「カルガモ農法」と同じだ。

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べべは、田んぼの立ててある竿を中心にして、餌をついばむ。

竿の先には、小さな布が付いている。

これが目印だ。

移動は、それまで田んぼの立ててあった竿を先頭に進む。

小さな布の付いた竿を持った、おじさんの後ろをついて、べべは移動する。

おばさんのべべ使いを、一度も見たことがない。

もしかすると、この仕事、男子専科か。

日本では、まず100匹ものべべが行進する姿を見ることはないだろう。

先頭の一匹の行動は、瞬時に最後尾まで伝わる。

先頭役はだれがするのか?

瞬時の伝達の能力は何なのか?

疑問点は数々あるが、道路を占領してピョコピョコ右往左往するべべの微笑ましい姿は見て。その疑問はスルーする。

この光景に例えて、日本人ツーリストをべべと呼ばれていた時代があった。

団体旅行華やかな頃のことだ。

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なぜべべは、小さな布についていくのか。

生まれて最初に見たものをお母さんだと思い込む、剃り込みと言われるが、そうではない。

これは、遺伝子の仕業らしい。

ちょうど手にした本に、ハイイロガンの話が載っていた。

バリのべべにも通じる物があったのでメモしておいた。

それは、こんな内容だった。

ハイイロガンは、生まれながらに親の姿を知っているわけではない。

こんな羽色で、形はこうで、こんな歩き方をするなどという細かい情報をいちいち遺伝子は請け負うわけにはいかない。

その代わり遺伝子は、こんなプログラムを考え出した。

「ふ化後初めて見たもののうち、大きくて、しかも動くものをよく覚えよ。

歩けるようになったら、いつでもどこでもついて行くのだ」

自然界でこの条件を満たすものは、酔狂な動物行動学者を除けばまず間違いなく自分の親である。

遺伝子はそのあたりのことをよく承知しており、手を抜けばよい部分については徹底して手を抜くことにしているらしい。

そうかこれは、剃り込みとは言わず、遺伝子の仕業なのだ。

バリでは、こんな遺伝子の特徴を利用して、竿の先に付けた布をべべたちの目印にしたのだった。

思いのほか竿の先の布は小さいが、生まれてすぐの、べべのべべ(ベビー)たちには、さぞ大きく見えたことだろう。

べべがハイイロガンと同種かどうか確認していない。

ネット環境の悪い住居にいるので、検索できないでいる。

調べるのは、いつになることかわかりませんが、次回に繰り越すことにしました。

それとも、誰か教えてくれる?

(写真提供:田尾美野留)





posted by ito-san at 18:24| 愛知 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月10日

パチュン家の長女アユの結婚(71)

7月6日、パチュン家長女・アユの婚姻儀礼が執り行われた。

おめでとうございます。


嫁ぎ先は、デンパサール市内。

儀礼は午前中に、新郎の実家で行われた。

私は、午後からのパチュン家での儀礼に参加させていただいた。

婚姻儀礼には何度も参列しているが、お嫁さんの実家から嫁を送り出す儀礼は初めてのことだ。

パチュン家には、テガランタン村から大勢の村人が参列していた。

陽射しが暑いので、皆、日陰を探して腰をおろしている。

デンパサールで婚姻儀礼を終えた新郎新婦、そして家族・親類縁者、村人が出向いて来た。

これは嫁をもらいにきた儀礼か?

新郎の情報は、まったく知らない。

本人が愛し、両親が認めている結婚相手の身上調査を私がすることもない。


パチュン家は、2013年3月10日から2015年2月1日にかけて、お世話になった。

家族にも、優しくしてもらった。

(詳しくは「テガランタン村滞在記」をお読みください)

コロンビアの旅行中、アユには「私が帰るまで結婚式はしないください」とフェースブックでコメントした。

が、まさかその通りになるとは。

バリに戻ってから何度もパチュン君に「アユの結婚式はいつになるの」と問いても「わからない」との返事が返ってくるだけ。

バリでは、本人同士の意志が固まるまで、結婚することを両親にも伝えないようだ。

途中で、破談になることを嫌うのか。

だから、急に結婚の日取りが決まる。

授かり婚が多いのも、子供が出来てしまえば別れないだろうという気持ちからだ。

授かり婚とは、俗にいう「できちゃった婚」のこと。

10年ほど前からパチュン家と縁のあるF氏ご夫妻が、日本からアユの結婚式のために飛んで来ていた。

彼らも「結婚式には、是非、呼んでください」と伝えてあったようだ。

F氏ご夫妻は、午前中の婚姻儀礼にも参列している。

怠け者の私とは、入れ込み方が違う。

私は、送り出す婚姻儀礼に参加できたことで良しとした。


私が暮らしていた懐かしい部屋の前で、村の世話役による儀礼が行われた。

本人同士、両家の両親、そして両家の村の合意を得る。

結束の強い村組織のバリでは、婚姻は村の結縁でもある。

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寛ぐ新郎新婦

この部屋は今、友人のB君が住んでいる。

B君は、このめでたき日に、運転手&カメラマンとしてお手伝いしていた。

私が住んでいれば、私の仕事だったところだ。

B君、ありがとう。

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アユは、グスティのカーストから称号のない階層に嫁ぐので、家寺でのお祈りはこれが最後になるのかもしれない。

バリのカーストは称号だけが残っているのだが、慣習にも少し影響をおよぼしているところがある。


長男マデ君がクルーズの仕事で参列できなかったが、その分次男コマン君が張り切っていた。

パチュン君も奥さんも、緊張しているようだった。

胸に熱いものが込み上げてくる。

他人の幸せそうな姿に、私の心も満ち足りてくる。

末永く、お幸せに。

お父さん、お母さん、お疲れさまでした。






※ 婚姻儀礼:http://informationcenter-apa.com/kb_pernikahan.html

※「伊藤博史のブログ|生涯旅人・ウブド村徒然記 / バリ人男性をちょっと考察・婚姻儀礼(83)


posted by ito-san at 17:06| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月07日

ウブドの生コン事情(70)

7月に入ってから、ルドラクシが一粒も落ちてこなくなった。

毎日、あんなに落ちていたのがピッタリと止んだ。

実のなる時期があるのを知った。

際限なく収穫できるものだと信じていたので、キズものやイビツなルドラクシは処分していた。

処分した残りは、ほんの少しだった。

ブレスレット作りは、遅々として進まない。

老い先は短いが、ノンビリいこう。


先日、タマン村のスリウェダリ通りの建築現場で面白い物を見つけた。

まず、写真を見てください。

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コンクリートを流し込む作業で、こんな重機を使っていた。

ミキサーは珍しくはないが、その後が珍しい。

それは、私には初お見みえの道具だった。

こねられたセメントは、鉄柱に添え付けられた箱に流し込まれる。

箱は、人力に寄って、鉄柱を昇っていく。

簡易昇降機だ。

上が待ち構えている作業員が、箱からコンクリートを流し込んでいく。

重機と呼ぶほどの規模ではないが、かなり便利な代物だ。

小さな建築物なら、この道具で充分だろう。


以前、この程度の現場は人海戦術だった。

写真を御覧下さい。

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1990年頃の写真です。

何度も紹介している写真なので、ご存知方も多いかもしれませんね。

バケツリレーで、コンクリートを流しています。

プンゴセカン村のガソリンスタンド近くの建築現場です。

男性に混じって働く、婦人の姿がタクマしい。

簡易昇降機は普及していないのか、ところによっては今でもこの風景が見られる。

働き者の婦人たちのアルバイトは減ってしまうが、簡易昇降機の普及は必要だろう。


ウブドも大きな建築物が増えている。

近年、写真のような重機で流し込んでいるのを見かける。

コンクリート・ドレーン機とでも呼ぶのか?

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プンゴセカン通りの「カキアン・ベーカリー」前の現場だったと記憶しています。

渋滞回避のため、コンクリートミキサー車が出動するのは深夜のことが多い。

こんな風景も、ウブドが都会になってきたと実感する要因だ。


話を冒頭に戻す。

ルドラクシと同時に、落ち葉も減った。

これが雨季と乾季の変わり目なのだろうか?

だとしたら、大きな発見だ。

落ち葉を熊手でかき集めながら、ルドラクシを拾うという楽しい日課が奪われた。

さて次は、何して時間をつぶそうか。


posted by ito-san at 16:50| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月02日

クレープの店「ル・ムーラン」(69)

私的には、丸くて薄い皮に砂糖をまぶして、扇状にたたんだのがクレープと認識している。

皮の材料は知らない。

生まれて始めて口にしたクレープは、フランスはパリのカルチェラタンでの立ち食いだった。

20歳の時だから、49年も前の話だ。

1969年に出発した節約旅行の途中、パリで6ヶ月間アルバイト生活を送った。

バリではあり、パリです。

今でも鮮明に記憶している。

田舎もんの私には、縁の薄い食味だった。

テークアウト専門の小さなクレープ店前に、できている行列の最後部についた。

前に並ぶのはフランス人だろう。

地元のパリジャン&パリジェンヌかもしれない。

客は、クレープ手にすると歩きながら頬張り始める。

歩きながら食べることを「行儀が悪い」と教えられた私には抵抗がある。

が、食べながら歩く姿はオシャレに映った。

私も歩きながら食べることにした。

生まれて初めて手にしたクレープは、扇状にたたまれて白い薄紙に包まれていた。

ザラメ砂糖が包まれた肉厚の薄いクリーム色のクレープは、甘かった。

その時、インプットされた味が未だに忘れられないでいる。

他にも種類はあったと思うが、フランス語の話せない私が、どうやって注文したかも覚えていない。


その後の日本滞在20年間、そしてバリ滞在25年間にクレープを食する機会はみつけれなかった。

バリ南部に出向けば食べられただろうが、それは面倒だった。

1990年代、ウブドではパンケーキ(ホットケーキ)が主流だった。

ロスメン(宿)の朝食メニューにも含まれている。

アイスクリームが珍しかったウブド。

冷蔵庫が無い、あったとしても頻繁に訪れる停電では、アイスクリームは保存できない。

王宮関係のレストランで、辛うじて食べられた。

当時、パンケーキの上にアイスクリームをのせたメニューは、私の大好物だった。


2015年のコロンビア・サレント滞在中に、軽いカルチャーショックを受ける。

無知とは恐ろしい。
「クレーパー・コー(CREPERS CO)」という店に入った時のこと。

クレーパーは、クレープのことだと思う。

店名にクレーパーとつけているくらいだから、クレープ専門店だろう。

クレープは、スイート系のお菓子と認識している私。

だから、食後のデザート的役目。

この日は、3時のオヤツに入店した。

たくさんの種類から一つを選ぶ。

私のイメージとはかけ離れた、まさかのクレープが運ばれて来た。

それは、15センチ角・厚み3センチのオムレツのようだった。

ボリュームのあるクレープは、食事だ。

縁日で買い食いするお好み焼きの感覚クレープを、ホークとナイフで食べる。

これはクレープ発祥地フランスとは違う南米独自の文化か?

思いもしなかった展開に、ショックを受けた。

その時の話は、WiFi ポイント・その壱「CREPERS CO」(42)をお読みください。


昨年(2015年)夏、ウブドにクレープ専門店がオープンした。

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名前は「Le Moulin」。

場所は、プンゴセカンは「ママミーア」の斜め前、メキシコ料理店「タコ・カサ」の並び。

フランス人のオーナー&シェフ。

早くも、人気店になっている。

一年が経過し、店も落ちついたことだろう、と覗いてみた。

クレープはスイート系のデザートだと思っていたら、甘いお菓子系のクレープ・シュクレ(Crepes sucrees=砂糖のクレープ)以外に、軽食系のクレープ・サル(Crepes salees=塩のクレープ)があった。

チョコレートのかかったクレープを、ホークとナイフを使って食べた。

これは誰もが知る文化だ。

コロンビアに行く前に知っていたら、困惑することもなったろうに。

本格的クレープの食べられる店がウブドに出店したことに驚いている。

これは近代化の証だろう。

(資料提供・南国うまうま日記&イブウブ子@バリ島奮闘記)


Le-Moulin2.jpg

Le-Moulin3.jpg


★食事:クレープ・シュクレRp35,000〜/クレープ・サルRp45,000〜/etc

★飲物:コーヒーRp20,000〜/紅茶Rp22,000〜/ジュース各種Rp35,000-/ビンタンビール大Rp35,000-小Rp24,000-/etc


詳しくは、次のブログを御覧下さい。

※南国うまうま日記/バリ島ウブドの生活:「ウブドにできた!クレープのお店・ル・ムーラン(Le Moulin)

※イブウブ子@バリ島奮闘記:「イケメンフレンチが作るクレープ屋さん@le moulin


posted by ito-san at 23:38| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月27日

ガヤトリ・マントラ(68)

このところ平穏な日々が続いている。

慌ただしくもなく、暇すぎるわけでもない。

知人が持ってきてくれたガヤトリ・マントラ(GAYATHRI MANTRA)を聴きながら、ルドラクシャのブレスレットを作る平穏な毎日。

ガヤトリ・マントラは、ヒンドゥー教の真言。

女性の透き通る声が、耳朶に心地よい。

知人は、詩歌訳もプリントしてくれていた。

こんな内容でした。

(ガヤトリ・マントラ、日本語訳、インドネシア語訳の順です)

(1) Om(オーム)

至高の神よ

Om,

(2) Bhur(ブール) Bhuvah(ブヴァッ) Suvaha(スヴァハ)

地、空、天界

adalah Bhur Bhuvah Swah .

(3) Tat(タット) Savitur(サヴィトゥル) Vareniyam(ヴァレーンニャム)

私たちの聖なる母よ、その輝きは、私たちの心にある暗闇を滅します.

kita pusatkan pikiran pada kecemerlangan dan

(4) Bhargo(バルゴー) Devasya(デーヴァッスヤ) Dheemahi(ディーマヒ)

私たちは、その聖なる輝きに瞑想します.

kemuliaan Sang Hayang Widhi

(5) Dhiyo (ディヨー)Yo(ヨー) Nah(ナッ) Prachodayath(プラチョーダヤート)

私たちの内なる知性を目覚めさせたまえ.

semoga diberikan semangat pikiran kita .


このガヤトリ・マントラを唱える時、神を描写し(1〜3)、瞑想し(4)、祈願する(5)、という3つの意念が込められている。

一日3回唱えることが定められています。

3回とはすなわち、朝と昼と夕方です。

朝は夜明け、昼は正午、夕方は日没と解釈しています。

時間の節目で、霊力が強いと言われる瞬間。

早朝はできないので、正午か日没に唱えるようにしている。

敬虔なヒンドゥー教徒というわけじゃないので、時間厳守ではない。

インドのマントラでは、上記の詩歌を延々と繰り返す。

延々は、108回と聞く。

では、皆さんご唱和ください。


バリのマントラは、6番まである。

1番は同じ詩歌(スペルの違いはある)。

テレビなどで、朝・昼・夕とお坊さんの唱える、のんびりしたマントラが流れる。

Om, Om, Omで始まり、Om Santih, Santih, Santih Omで終わる。

意味は理解できないが、心が浄化されるように気持ちになる。

オダラン(寺院祭礼)で、マントラを唱えながらお祈りできる日を夢見ながら聴いている。

あくまでも夢。

バリのマントラを覚えるのは無理だ。

バリ人の瞑想好きな知人は「Om Bhur Bhuvah Suvaha」を三回唱えるだけでもいいよ、と教えてくれた。

究極の短縮マントラだ。

これなら、今でもできる。

まずは、1番だけでも詠えるように努力しています。



posted by ito-san at 18:57| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月22日

ハヌマン・アートスペースのオープン(67)

この頃のウブド、昼間は暑いが夜になると肌寒い。

パッチをはいて、寝ている。

ラクダのモモヒキじゃないよ。

日本が夏の時、バリは寒い時期。

8月なれば、もっと冷えるだろう。

夜、バイクの外出時には、長袖を着用。

ジャンパーを着ることもある。


ウブド大通りに近くハヌマン通りにある、私のお気に入りギャラリー「ハヌマン・アートスペース=Hanoman Art Space」。

今年(2016年)に入って、店舗の改築工事が始まり閉店していた。

家賃の高騰で、イワンさんの店が再開できるか心配だ。

オープンできたとしても、以前のユニークなファサードがどこまで再現できるか気にかかる。

旅行者が、記念写真を撮っていくほどの人気のファサード。

それは、イワンさん自身も不安に思っていることだった。

6月初旬、装いも新たにオープンした。

ギャラリーは半分に縮小されていた。

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ファサードも頑張って、イメージに近づけている。

まあ、こんなところだろう。

ウブドのユニークな店が、ドンドン姿を消していく。


アートスペースには、私のつたない絵を置かせて頂いている。

私の「引きこもりの日々」に描いている、こまい絵だ。

絵と言えるどうかも、怪しい代物。

でも、たまに売れている。

再び、絵を置かせて頂こうと、図々しく持って行った。

新しい作品、恥を忍んでをアップしました。

暇のある方は、是非とは言いませんが、覗いてみてください。

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引きこもっていても、日々、それなりにすることはある。

こまい絵に挑戦する日。

流木を手にする日。

今は、ルドラクシャに手を染めることが多い。

「引きこもりの日々(18)http://itosan-ubud.seesaa.net/article/431840148.html」は、昨年12月29日にブログでアップしているので、読んで頂けると嬉しいです。
お願い事ばかりで、ゴメン。


posted by ito-san at 18:42| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする