2026年04月05日

高山城址周辺を花見がてら散策!(73)

周遊できる観光エリアとして散歩してみた。

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どこからスタートしてもOKですが、車の方は高山城址&古城山稲荷、自転車の方は古城山稲荷からがよろしいかと。

ハイキングをしたい人は赤い点線の道を辿るといいと思うよ。

所要時間:流した感じで約一時間。見学と休憩を足してください。

○古城山稲荷・駐車場有りもみじ&蛍の名所
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○穴弘法・石仏群山道を登る
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○高山城址(市指定史跡)・駐車場有り
物見櫓スタート
土岐市街の眺望は素晴らしい
梅・桜の季節は見事です
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下り坂・急カーブを折れる

○高山公園・花見エリア
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○慈コ院
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○下街道・高山宿
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○明治天皇御小休所跡
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○南宮神社
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○明治天皇観陶聖跡碑
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○古城山稲荷・ふりだしに戻る

嫌になる程、暇な人にオススメする動画です。

46分27秒のダラダラ動画を、貴方は見るに耐えられるか。



ごめんなさい。しゃべりの滑舌悪くて聞き苦しいですね。
posted by ito-san at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年03月29日

山神温泉の歴史に終止符が打たれる!(72)

土岐市下石町に唯一ある温泉旅館が、今月3月31日に閉館すると知った。

700年以上の歴史を持つラジウム泉の山神温泉。

その一軒宿である、大正9年から100年以上の老舗温泉旅館・湯之元館の閉館だ。


鎌倉時代のこと、京の都に義延というたいそう弓が上手で、情深い武士がいました。

あるとき宮から、美濃地方の武家達を取り押さえるうように命じられた。

義延の妻は「留守はしっかりと守ります。どうか立派にお働きください。」とお守り袋を手渡します。

義延は、それを大切に懐中に入れ、勇ましく出立した。

その頃、美濃地方は激しい戦場で宮方は苦戦をしていた。

義延が加わると、味方の兵達は勢いを盛り返し、残る敵を東美濃の方に追っていった。

ある日、義延が戦で活躍してくれた愛馬の世話をしていると、物影から現れた男に背後から切りつけられて気を失った。

その後、気がついた義延が、傷口を押さえる物はないかと懐中をさぐると、手に触れたのはお守り袋だった。

義延は、お守り袋をたぐりよせ開けてみると、中には綺麗な黒髪と白い布が入っていた。

さっそく布を傷口にあてがうと、安堵とともに、懐かしい妻のことを思い出し、黒髪にもう一度手に触れようとした瞬間、フッと風が吹き、髪の毛はふわりと舞い上がった。

「あっ!」と手を伸ばし捕まえようとすると、風に舞う蝶のように飛んで行った。

夢中になって髪の後を追い、人里離れた渓谷に来た時、やっと髪を手にすることができた。

気がつくと、そこには岩からコンコンと湧き出る泉があった。

痛む傷口を浸し、乾いた喉を潤すと、戦の疲れが出たのか、そのまま眠り落ちてしまった。

目覚めてから、自由にならない身体で、泉の水で傷口を洗う養生を繰り返した。

不思議なことに、あんなに深かった傷口は、たちまち治ってしまった。

義延の無事を祈る妻の心が神を通じ、この泉に導き命を助けたのです。

傷の治った義延は、里に戻って村人に、そのことを告げると、泉が身体に良いという噂が村中に広まった。

その後、義延は山の清々しい風、川の澄んだせせらぎの音が聞こえる自然の中で、すっかり健康を取り戻し、京に向けて旅立った。

義延が傷を癒した話は次々に伝わり、彼が去った後も、泉には絶え間なく人々が訪れ湯地場となり、山神温泉として栄えるようになった。

(参考文献:土岐の昔ばなし第三話・山神温泉 / 発行:土岐市観光協会)

(●傷つき気を失い、うとうとしていると突然、夢枕に薬師如来が現われ、泉の水で傷を洗いなさいと告げられた。という説もあります。)




大正時代、ここに大衆浴場が生まれ、昭和のはじめ、これに休憩場や食堂を加えて旅館にしたのが、湯乃元館の始まりだということです。

こんな歴史に、終止符が打たれるのだ。

営業しているうちに、一目見ておきたかった。

以前より気になってはいた所だが、私の懐具合では宿泊も食事も無理だと諦めていた。

日帰り温泉の案内が1500円で出ていて、これなら私でも温泉の思い出に入浴できる。

宿泊、食事は金銭的に無理だが、せめて日帰り温泉でもと利用することにした。

久々の広い浴室と大きな湯船で、心地良かったです。

やっぱり、温泉はいいね!
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2026年03月24日

道を歩けば「チャンティック・可愛い!」と声をかけられる(71)

1990年、ウブドの濃密な空気感は、ロマンチックを通り越して艶っぽかった。

私は、そんな濃密な空気感に恋したようだ。

天真爛漫に生きているバリ人。

村人老若男女のすべてが、LOVEを纏っている感じ。

バリ人の優しさは、バリ島の魅力の一つでもある。

日本人男性にはない魅力を持つ男たち。

独断と偏見で言わせてもらえば、バリ人男性は、日本人女性に優しい。

男性の私にはわからないが、ウブド人の優しさに心を奪われる日本人女性は多いようだ。

知り合ったウブドの若者は、観光客を相手にした仕事をしたくて、日本語を話したがっていた。

そして、日本人女性を恋人にしたいとの思いもあった。

当時の日本人女性は、モテモテだった。

道を歩けば「チャンティック・可愛い!」と声をかけられる。

宿のスタッフは、日本人女性と話したくて積極的に声をかける。

「日本語を勉強したいんです!」と言えば、優しい日本人女性は応援したくなる。

彼女はまったくインドネシア語ができないので、自分の勉強にもなると考えたのだろう。

さっそく部屋の前のテラスで勉強会となる。

言葉が通じなくても、心で繋がっていると感じる瞬間がある。

もしかすると前世でバリ人だったかもしれないと思うほど、馴染んでしまう人もいる。

そして恋に落ちるのは、自然の流れだ。

女性達はそれを「バリ・マジックにかかった!」と言う。

これは私が、外野から見ていてそう感じたということです。

断っておきますが、今では宿のスタッフがテラスに座り込むということはないと思います。


男の私にも、ウブドの妖艶な雰囲気は感じていた。

人間の原始の感情を呼び起こされた思いだ。

ホテルと違ってホームステイのテラスは、敷居が低いのでよく訪ねた。

残念ではあるが、繁華になるに従ってこの空気感は薄まっていった気がする。
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2026年03月19日

パスポートと滞在許可証は肌身離さず持ち歩く(70)

本日は、ニュピ祭礼日。

そろそろウブドに、夕闇が近づいてくる頃でしょう。

日没から明朝まで、薄暗闇の中での生活です。

二年前、毛布をかぶってパソコンを操作していたのを懐かしく思い出しています。

日本にいる私は今、明るい電灯の下でこのメッセージを書いている。


ウブドでは、パスポートと滞在許可証を肌身離さず持ち歩いていた。

海外にいるのだから当然なんだが、私のバックパックには身分を証明する物と全財産が入っている。

毎年、ビザの更新にデンパサールのイミグレーションに出頭する。

年に一度なのだが、スクターで渋滞する道路を一時間かけて、デンパサールへ行くのは気が重かった。

ビザ代行業者と早朝8時の待ち合わせも、朝に弱い私には苦痛だった。

4年に一回は、海外に出てビザ取得。

ほとんどがシンガポールだが、マレーシア、タイに行ってこともある。

(コロナ禍では、国内での取得となったのはラッキーだった)

パスポートが手元に戻るまでは、いつも不安でした。

経済発展途上のインドネシアでは、役所仕事にルーズなことが多いのだ。

この数%の無秩序がなけでは、楽園の称号に偽りはないのだが。

現在はネット申請で簡素化され、スピードアップされていると聞いている。


パスポートに気を使わなくてすむ日本の生活は、憑き物が落ちた心地だ。

日本人にいると守られていると感じる。

帰国して、すぐに行ったのは銀行だった。

土岐市には、東濃信用金庫と農協が運営するJAの二社しかない(私の行動範囲内では)。

東濃信用金庫を訪れると、通帳を作るには住民票と認印(シャチハタ不可)が必要だと言われた。

いまだに印鑑が必要なんだと驚いた。

100円ショップで、三文判を購入。

続いて、住民票を取得するために、市役所に出向いた。

免許証も保険証も持っていない私は、身分を証明するものがない。

この時、パスポートが役に立った。

住所は、居候させてもらっている友人の家。

マイナンバーカードの受付をしていたので、評判が悪いのが気になったが申し込んだ。

アパートを借りるに際しては、本人確認書類・認印・住民票が必要だった。

本人確認は、パスポートで用が足りた。

ところで、パスポートの期限が切れていたらどうなっていたのかな。

今になってビビっている。
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2026年03月05日

私の日本脱出は、過多の生活に疲れたことも一因だった(69)

私の日本脱出は、過多の生活に疲れたことも一因だった。

幸いウブドでは、日本の新聞・テレビなどのメディアに接することもなく暮らすことができた。

情報を追っかけることのない日々は、目の前の現実を楽しむことに専念できる。

ウブドには、歴史や伝統に守られた、村人の営みがある。

自然と調和して生活している人々を見て、こんな生き方ができたらいいなと思った。

私は、不便を楽しむタイプかもしれない。


ワープロを入手すると、興味深いウブド生活を発信するために、小冊子「極楽通信UBUD」を1994年2月から1999年6月までの間、隔月で発行した。https://www.potomak.com/bali/ubud/ubud.html

1995年8月20日:「情報センター・アパ?」設立。

情報から逃れたはずなのに、いつの間にか発信する側に回っていた。


大きな災害の情報は、旅行者から耳に入った。

1995年1月17日:阪神・淡路大震災は、短波放送ラジオで刻々と拡大していく被害を聴いた。

ウブドでのんびり過ごしている間に、世界ではさまざまな事件が起こっている。

ウブドにインターネットが普及始めると、名古屋の友人が「ワープロがわりに使って!」とノートパソコンを置いていった。

パソコン環境は不得手と、手を染めないと誓っていたが、ミクシーで情報を発信するようになっていた。

一発目のミクシーがこれ。

2006年04月06日■マンガ・マドゥ

午前中の晴天が嘘のように、昼から雨が降り続いている。

マンガ・マドゥで昼食をしていると、2人の日本人女性ツーリストが入ってきた。

ゴアガジャ、考古学博物館、プナタランサシ寺院を貸し自転車で巡って来たと教えてくれた。

ペジェン・サラ村からウブドに入る急な坂を上って来たようで、2人とも息を切らしていた。

ウブドのイラスト・マップと「情報センター・アパ?」のディスカウント・カードを渡して別れた。

このあと私は「アパ?」に、DVDと本を返し、カフェ・ブンブンの作業場に向かった。


日本に帰って、ユーチューブを見ていると、知らないことばかり。

1990年5月から2024年10月までのウブド滞在34年間の日本の情報は、まったく浦島太郎状態。

この間の日本の政治・経済・芸術、etcの情報を得ようとしなかった。

流行した言葉や事象も知らない。

私の記憶は35年より前の日本で、亡くなった人の記事を見て「えっ、こんなに年をとったんだ!」と驚く。

空白の34年間をあえて埋めようとせずに、今は懐かしい曲を聴くのが楽しみの一つになっている。
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2026年02月09日

水浴びのウブドから、土岐市に移住してユニットバスで入浴できる幸せ!(68)

私のウブド滞在は、ロジャーズ・ホームステイから始まり、何か所を転々とした。

家賃は、電気代、水道代が含まれていて1万円ほど。

ガスは、プロパンガスで自分持ち。

一戸建ての時でも、電気代、水道代が含まれて家賃は2万円ほどだった。

バスタブ付き住居の時もあった。

今回はバスタブの話です。


私は、お風呂が大好物だ。

名古屋に住んでいる時には、家風呂があっても銭湯に行くほど。

ウブド人は、マンディ(水浴び)はするが入浴の習慣がない。

ロジャズ・ホームステイに、バスタブはない。

もちろん、ホットシャワーもない。

こんなもんだと諦めていたが、ビザの書き換えでシンガポールに行くと、宿のホットシャワーに身体が生き返る。

ウブドでも、旅行者がバスタブを望んでいることを知ると、ホームステイにもバスタブを設置するようになった。


外国映画で、泡まみれのバスタブのシーンを見ることがある。

どうやら、浴槽内で身体や髪を洗っているようだ。

仕上げは、浴槽内に設置されたシャワーで流す。

バスタブ使用者は、汚れを落とすだけが目的かもしれない。

間違っていたら訂正してください。

湯に浸かろうとすると、横たわることになるほど浅い浴槽。

私は外で洗ってから、腰を下ろして肩まで湯に浸かりたい。

滞在が長くなると、和風(深め)タイプの湯船が恋しくなってくる。


土岐市に移住して探した宿には、ユニットバスがついていた。

腰を下ろして肩まで湯に浸かる希望が叶った。

だが不安がある。

名古屋の生活では、追い炊きのできる湯船だった。

翌日に追い炊きできないのは、水の無駄遣いじゃないかと気になって、ず〜っと悩んでいる。

全自動洗濯機にも、使えないし。

これは不満じゃなくて、疑問です。

みんなはどうしてるか教えてください。


バスタブで思い出した旅の恥。

20歳、初の海外旅行はナホトカ航路〜シベリア鉄道。

この時、モスクワのホテルに泊まった。

バスタブも初体験。

広々とした浴室には、バスタブと便器が二台。

座り難かった便器は、水が止まらなくなった。

慌てて、飛び出したと記憶している。

ビデとは知らず使ってしまったようです。

パリ東駅構内の銭湯では、バスタブの蛇口が止められず溢れ出し、床は水浸し。

当時の私は、蛇口が湯と水の二つあることを知らなかった。

冷静に考えれば止められたと思うのだが、あの時は、言葉ができなかったので、焦って逃亡した。

一年間の放浪の旅は少しの写真と日記を残していたが、'90年の日本脱出の際にどこに預けたか思い出せず、旅の記憶が確認できないでいる。

詳細が説明できないのが悔しい!

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2026年02月01日

クラシックカーマニアには堪らないラインナップ!(67)

『旧車館』@岐阜県土岐市駄知町

原則月1回(第一日曜日)の不定期で、一月は休館だったので、今回やっと入館を果たした。
入場無料。
受付で、サインをして無料パンフレットをいただく。
「写真撮影は自由ですが車には触れないようにしてください」の説明を受ける。
正面ガラス扉から中を覗いた時には、この程度かと侮っていたが入館してびっくり。
覗いたのは、ほんの一部だった。
大きな倉庫が三つはあっただろうか。
そこにギッシリ、クラシックカーマニアには堪らないラインナップ。
大勢の車好きさんが熱心に鑑賞している。
車好きには堪らない場所だと思うけど、残念なことに私はマニアではない。
二つある地元の作家の作品が集められた部屋から、オーナーの地元愛が感じられた。
居心地よくて、のんびり二周した。
喫茶コーナーの前で「お茶でも飲んでいきなしゃすか?」と声をかけられる。
ミニコーヒーがサービスされた。
私は女性スタッフ二名(同年代)と、地元の話で花が咲く。
奥の椅子に腰を下ろしている恰幅のいい男性が、当館のオーナーだろう。
入館者と雑談をしている。
車談義で盛り上がっていた。
次の訪問では、オーナーから話が聞けたらいいなと思った。

準備万端、アクションカメラを胸につけて動画撮影したつもりが、まったく写っていなかった。
スマホの写真は残っている。
こんなもんですよ私のすることは。

駄知旧車館のホームページ:https://kyushakan.com/

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2026年01月23日

バロン・ランドゥン、ジェロ・ルーの正体は!(66)

キンタマーニ高原について自分の資料を漁っていたら見つけた「ウルン・ダヌ・バトゥール寺院(Pura Ulun Danu Batur)」の話。

折角なので、投稿しました。


11世紀、バトゥール山北側の外輪山の森に、ジャヤ・バングス(Jaya pangus)王国があった。

現在のダラム寺院バリンカン(Balingkang)のある地域と考えられる。

王として君臨していたのは、テットヤ・ジャヤ・バンクス。

テットヤ王は、妻のデウイ・ダヌ(Dewi Danu)と息子マヤ•テナワと一緒に暮らしていた。

そこへ中国から渡バリしてきた、高僧リムとその女弟子カン・チン・ウィー(Kang Ching Wie)の二人が王のもとを訪れた。

王と意気投合した二人は、長年バリに住みことになる。

年月が過ぎ、老いを感じてきた王は、息子マヤ•テナワに王座を譲った。

しかし、この息子は仏教の悪い教えばかりを説いたブッタ・ヒナヤナを支持したため、社会が乱れることを懸念した王は息子を自分の領地から追放した。

追放された息子はジャヤ・バングス王国を離れてバトゥール山南側に移り住み、ブッタ・ヒナヤマを信仰した。

バトゥール山南側は、現在のキンタマーニ地域と考えられる。

息子の勢力は年を増すごとに拡大し、とうとう父親の領土まで奪い取ってしまう。

母親は、この時の心労のため病死。

この後、マヤ•テナワ王は密かに恋心を抱いていた、カン・テン・ウィを嫁にすることを望み妻とした。

マヤ•テナワ王亡き後、カン・テン・ウィは、この地に寺院を建立し、ブッタの祠も一緒に建てた。

それが現在、景勝地として有名なキンタマーニ高原にあるウルン・ダヌ・バトゥール寺院である。

(ソンガン村のウルン・ダヌ・バトゥール寺院がバトゥール山の噴火で、キンタマーニ村に移動したという説あり)

なんてメモなんですが、どうも話の辻褄がクリアじゃないので、誰か補足してください!


マヤ•テナワ王が亡くなった時、民衆はバロン・ランドゥンを作った。

バロン・ランドゥンは、ジェロ・グデ(JERO GDE)と呼ばれる男性と、ジェロ・ルー(JERO LUH)と呼ばれる女性のペアーで、

結婚とその後の運命の物語が演じられている。

バリ語が理解できない私には、こちらも検証できない。

ジェロ・ルーが、カン・テン・ウィではないかとの説がある。


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2026年01月18日

ウブドでは、野放しの犬に遭遇する!(65)

いまさらですが、日本滞在が一年を過ぎて、気づいたことがある。

それは、町で犬を見かけることがないということ。

時々、小型犬にリードをつけて散歩している人を見つける程度。

こんな環境で育った日本人が、ウブドの町を散策していて野放しの犬に遭遇する経験は、さぞかし恐怖だったことだろう。

私もウブドに降り立った時(1990年5月)には、大いに戸惑ったはずだ。

ウブドには、我が物顔で道をウロウロする犬がたくさんいた。

センゴール(夜市)があった頃は、毛が全部抜けた皮膚病の犬や喧嘩で頭部がパッかり開いた犬がテーブルの下にいた。

首輪をつけていないが、一応に飼い犬なので、野良犬ではないんですよ。

一匹二匹の時もあれば、十数匹が集まっていることもある。

一匹が吠えると、門前に次から次へと犬が現れて吠える。

犬は、テリトリーがあるかのように飼い家の前で吠えて、道行く人を威嚇する。

通り過ぎれば、吠えるのを止める。

といっても、なかには吠えながらついてくる犬もいる。

知らないふりをするっと言っても、近づいて吠えられると怖いでよ。

数匹に同時に吠えられて、ビビったことを思い出す。

狭い道で出会ったり、数匹に道を塞がれたら焦りますよね。

私が注意していた時間帯があります。

夜10時頃から深夜2時頃までは、犬たちが徘徊する時間帯。

深夜0時前後はミーティングタイムで、道が交わる地点で十数匹が集まる。

石を投げたり棒を持って威嚇するのは、危険です。

その場は回避されたとしても、犬は威嚇した人物を思えていて次回の遭遇では、さらに激しく吠えてきますよ。
友人は、常日頃菓子パンを持っていて、近づいてきた犬に小さくちぎったパンを与えて手なずけいた。

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フェイスブックに犬に道を塞がれた時の対処法を問いたら、次のような答えがありました。

F.Yさん:犬に吠えられても、犬たちのほうに一切目線はやらずに、スーッと通り抜けるようにしています。
そうすると、犬たちもおとなしく、通してくれるように思います

Y.Aさん:とにかく目を合わさず知らぬ振りして通りすぎるのが精一杯でした。

T.Mさん:向かってきたらショーチしないよという気合い?でいたせいか囲まれたことはないです。

F.Kさん:吠えてきたら、ただ黙って立ち止まり、ゆっくり一歩ずつ歩きます。

Y.Aさん:影武者でしたたか酔い、野犬に囲まれるのが怖くて何度かカポにバイクで送ってもらいました

K.Tさん:教えてもらったマントラを口ずさみながら通ると、犬は避けてくれるだけで吠えもしません。
バリって本当に不思議よね、ってつくづく感じました。


古い記事ですが、バリ犬と遭遇した時の対応策は「極楽通信・UBUD」34「バリの犬(Anjing)」を参考に。
https://informationcenter-apa.com/gt_anjing.html
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2026年01月11日

マスッ・アンギン(Masuk Angin)は風邪をひいたの意味だった!(64)

バリのオートマチックスクーターの幕開けは、ヤマハ・ミオ(Mio)の発売からだ。

スクーター商戦がバリで始まったのは、いつ頃だったか?

まず、600万ルピアの台湾製の安価なスクーターが出た。

100ccクラスで、消臭剤(キムコ)に似た名前だった。

すぐに壊れ、修理が不可能だったので、半年もすると市場から消えていた。

2005年に、ヤマハがオートマチックのスクーター「ヌーフォ=NEUVO」と「ミオ=Mio」を発売。

ホンダは同年、オートマチック・スクーター「ファリオ=VARIO」を発売。

私のバイク遍歴は、アストレア800→アストレア・スター(ASTREA STAR)→アストレア・プリマ(ASTREA PRIMA)→スープラ(SEPRA)→スープ
ラX(SEPRA X)。

そして、オートマチックになって、ファリオ→スクーピーとホンダ一辺倒できている。


タイヤの空気が少なくなっているのに気づき、プンゴセカン村にあるバイク修理屋に立ち寄った。

若奥様が店先に出て来た。

いつものようにニコニコと微笑んで「アパ・カバール?」と声を掛けてくれる。

この店でガソリンを入れているが、今日は、タイヤに空気を補充してもらいに来た。

私のインドネシア語のボキャブラリーは極小で、どう頼んだものか悩んだ。

タイヤに空気を入れる。

それなら、空気(アンギン)と入れる(マスッ)でよいだろう。

私は臆せず「マスッ・アンギン」と元気に答えた。

その言葉に、若奥様の美しい微笑みが消えた。

「だからどうしたの」とでもいうような、困り顔になっている。

私が世間話をしに寄ったのではないことはわかっている。

若奥様は、すみやかに悟ってくれて、主人に空気を入れるように頼んでくれた。

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後で知ったが、マスッ・アンギン(Masuk Angin)は風邪(をひいた)の意味だった。

若奥様は「ここはベンケル(修理屋)よ。風邪をひいたのなら、ルマ・サキット(病院)かアポティック(薬局)へ行くべきよ」とでも言いたかったのだろう。

外国人がベンケルに立ち寄って「マスッ・アンギン!」と堂々と言われた時の若奥様は、さぞかし面食らったことだろう。

空気を入れてもらうには、マウ・アンギン(空気が欲しい)、ミンタ・アンギン(空気を下さい)を使いらしい。その他、「ブリ・アンギン
(Beri Angin=空気を買う)と言うのだと知った。

発音が悪くて通じないときは、最後の手段として、タイヤを指さし「アンギン・アンギン」と叫べばいいと友人が教えてくれた。
posted by ito-san at 18:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 土岐市に移住 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする