2014年12月28日

インドラ神が休息していた丘から見た「ティルタ・ウンプル」(90)

12月25日:

朝から、曇り、時々雨、時々晴。

スコール・雷鳴を揃えて、南国の天気総出演だ。

この頃、雨模様が続いている。

今日は、晴れ間を見つけて遠出をした。

行き先は、タンパクシリン村。

遠出といっても、バイクで30分ほど山側に走れば着く。

晴れ間は長く続かず、黒い雲が空を覆った。


先日、知人からもらったバリ島の古い写真の一枚に、私の興味を引くものがあった。

「ティルタ・ウンプル・寺院=Pura Tirta Empul」の全景写真だ。

寺院向こうの丘に、あるはずのイスタナ(大統領の別荘)がない。

この写真の時代には、建っていなかったことになる。

時代は、インドネシアの独立前なのかもしれない。

樹木が少ないのも、気になる風景だ。

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「ティルタ・ウンプル」には、こんな伝説がある。

それは10世紀頃、バリに栄えたワルマデワ王国時代の神話。

マヤ・ダナワ王の悪政に苦しむ民を救うために、神々はインドラ神を地上につかわせた。

インドラ神とマヤ・ダナワ王の戦いは激しく続いた。

山奥に逃れたマヤ・ダナワ王は、毒を含んだ水の出る泉を造った。

王を追跡した兵隊たちは喉が乾き、泉の水を飲む。

兵は、苦しみもがき死んでいく。

この時、インドラ神は丘の上で休息していた。

急いで丘を下り、地上に剣(keris=クリス)を突き刺した。

そこからは、兵隊たちを生き返らせるための薬効の泉が湧きだした。

薬効の泉の水を飲んだ兵隊たちは、みるみるうちに息を吹き返していった。

そして、マヤ・ダナワ王を成敗した。

この泉を「ティルタ・ウンプル=聖なる泉」と名付けたと伝えられている。

(この話の詳細は「プクリサン川の神話(pekerisan)」で読んでください)


全景写真は、インドラ神が休憩していた丘から見た景色だ。

丘には、現在、プグリンガン寺院(Pura Pegulingan)が建っている。

寺院内に、ボロブドゥールと同時代と考えられる8世紀の遺跡が残っていて、近年ストゥーパが再建された。

インドラ神は、石積みのストゥーバの横で休んでいたのだろう。

私もそこで、横になり、同じ景色を見ようと出掛けたのだ。

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晴れ間は長く続かなかった。

丘に到着する頃には、黒い雲が空を覆った。

残念なことに、写真の景色は鬱蒼とした木々に遮られて見られなかった。

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寺院のまわりをしばらく徘徊。

灌漑用水は、湧き水を利用したと思われるほど透明な水が流れていた。

水の流れを聴き、心地よい風が通り過ぎる丘は、しばし頭脳に休息を与えてくれる。

帰路は、小雨に降られた。


※ユネスコの世界遺産《バリ島の水利組合システム「スバック」》ひとつに「 プクリサン川流域 」が含まれ「ティルタ・ウンプル・寺院」「プグリンガン寺院」も入っている。

posted by ito-san at 16:23| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月26日

「居酒屋・影武者」開店当初のメニューを発見!(89)


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初期「影武者」全景(1991年)

「日本料理店・影武者」開店当初のメニューを発見!

この頃は、日本料理店ではなく居酒屋としてやっていた。

オープンは、1991年7月10日。

電気配線工事が終わってなくて、発電機を借りて三日間営業した。

開店と同時にお客が殺到し、料理人のYさんは数秒間魂が抜けたようにパニックしていた。

当時の価格は、千ルピア単位。

1円が14ルピアのレートだった頃の話。

(1990年初頭の12ルピアからレートは急上昇)

手持ちの1994年資料によると「ワルン・カチュ」のナシチャンプールが、具の量によってRp1,000-からRp1,500-とある。

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■現在の価格(メニューの数は、初期の数倍になっている)

食事

◇FRESH VEGETABLE SALAD-Rp18,000-

◇DASHIMAKI------------ Rp18,000-

◇OHITASHI--------------Rp10,000-

◇POTATE KOROKKE-------スペシャルメニューとして残っている

◇YAKITORI-------------- Rp27,000-

◇NEGIMA----------------Rp27,000-

◇PORK NEGIMISO YAKI-----消滅

◇PORK SHOGA YAKI------- Rp43,000-

◇KARA AGE-------------- Rp43,000-

◇BEEF KUSHI YAKI---------無し

◇TONKATSU--------------Rp43,000-

◇KARE DON------------丼から皿に替わりました

◇KATSU KARE DON--------同上

◇ZOHSUI-----------------Rp29,000-

◇GOHAN・SMALL----------Rp5,000-

◇GOHAN・BIG-------------Rp8,000-

◇MISO SHIRU--------------Rp15,000-

◇RAKKASEI----------------消滅

ほぼ10倍といったところ。


飲物

◇BINTANG BEER・BIG------Rp32,000-

◇BINTANG BEER・SMALL---Rp22,000-

ビールはピッタリ10倍。

物価は10倍に、レートは1円が105ルピアで7.5倍。

感慨無量です。

posted by ito-san at 17:46| Comment(4) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月25日

愛猫 “ちびた” のその後(90)

私の鼻炎が最悪のピークだったのは、「ゴメンな “ちびた”!(87)」で報告した9月頃だ。

もしかすると、愛猫 “ちびた” の抜け毛がアレルギーの原因かもしれないと神経質になった時期。

これまで同居していた “ちびた” を、断腸の思いで入室を禁じた。

その時の悲しいエピソードは「ゴメンな “ちびた”!(87)」に詳しく書いた。

エピソードを読んだ猫好きの友人から「 “ちびた” が不憫で心配だから、その後の動向を教えて欲しい」という便りがあった。

そんなわけで、今回の報告となりました。

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鼻炎は、“ちびた” を部屋に入れなくなってから、徐々に良くなっていった。

今では、すっかり治っている。

だからと言って、原因が “ちびた” とは限らない。

花粉かもしれないし、 ダストかもしれない。

治ったんだから、“ちびた” の入室を解除しよう。

「カムバック・チビタ!」

これで、また鼻炎になったら、その時はその時。

また考えよう。

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昼間、扉を開けておいても、“ちびた” は部屋に入って来なくなった。

いつもテラスの椅子の上で横になっている。

12月、雨季に入って蒸し暑い夜が続いた。

風を入れるために、マンディ場に通じる扉を開けて寝るようにした。

こうしておけば “ちびた” も自由に入って来られる。

ある日、“ちびた” が忍び足で部屋に入って来た。

叱られるかもと、警戒しているような動作だ。

ベッドに飛び乗った重さを、足もとに感じた。

腰を引き気味に、忍び寄ってくる。

私の横で、両手を揃えて身体を沈めた。

ゴロンと横になり、私の身体に寄り添ってきた。

以前の習性を思い出しているのだろうな。

そのうち慣れるだろう。

しばらくして、外に出て行った。

以前は、私が起きるまで横で寝ていたのに。

きっと“ちびた” は、外での楽しみを見つけたのだろう。

食事は、台所でイブからもらっている。

トイレも庭でできるようになった。

すっかり、パチュン家の一員になったようだ。

嬉しいようで寂しい。

親心って、こんなものなのかな。

posted by ito-san at 23:06| Comment(0) | TrackBack(0) | テガランタン村滞在記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ウブド市場裏・カルナ通りの散策(88)

ウブド公設市場(pasar umum ubud)の裏に、デウィシータ通りに抜けられる道があるのをご存知ですか?

ホームステイを利用する、一部のツーリストしか興味を示さない界隈。

名称は、カルナ通り(jalan karna)。

モンキーフォレスト通りと並行してあり、値打ちなレストランが軒を連ねているゴータマ通りとに挟まれている。

在住者にも知らない人がいるほど、知名度の低い通りです。

ウブド人さえ、こんな名称の通りがあることを知る者は少ない。


2013年3月17日に公設市場が立て替えられる前は、ムランティン寺院横から市場内を横切りるか、モンキーフォレスト通りの「パンダワ・カセットショップ」横の路地を通って行ったものだ。

もちろん、徒歩かバイクでしか通行できない。

新設の公設市場が、以前と同じ位置に建てられようとした。

カルナ通りの住民は、ウブド大通りから直進できるようにと請願した。

申請は受けられ、建物は二分されウブド大通り側からの車の通行も可となった。

と言っても、日中は観光客が道路いっぱいに溢れ、車の通行は無理のようだが。

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ウブド大通り側の二分された建物。

久々に、カルナ通りを歩いてみた。

写真で説明しよう。

市場裏の土産物店は、すでにカルナ通りなのかもしれない。

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カルナ通り北口


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「ハイビスカス・ホームステイ」横の路地は「パンダワ・カセットショップ」横に通じ、モンキーフォレスト通りに抜ける。


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いつのまにやら土産物店が並ぶ通りになっていた。


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ツーリストの少ないこの時期で、この人出。

ピークになったら、どうなってしまうのだろう。

人の頭しか見えなかった「原宿・竹下通り」の光景を思い出した。

40年も前の記憶を思い起こし、何故か顔がニヤケタ。


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ローカルワルンの串焼きの煙が「ここは下町だ!」と主張している。


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ホームステイからバンガローに格上げされた老舗「サニア・ハウス」

ガルンガン祭礼日の前日(プナンパハン)だったため、ペンジョールの飾り付け風景が観られた。


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90年代、美味だと評判の高かった「ワルン・スローニー」のあと。

この日は、休日だったのか。

ホームステイだった「スローニー・ハウス」は「カルナ・ハウス」に名前が替わっていた。

スローニーは、当家の娘さんの名前だと記憶しているが、もしかすると嫁いで今はここにはいないのかもしれない。

極楽通信・UBUD ≫ ウブド奇聞 ≫「妖怪ガマンは赤たまねぎが苦手」に登場する「S・ハウス」は「スローニー・ハウス」のこと。


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カルナ通りの南口は、デヴィシータ通りを隔てて「トットッマック」が正面に見える。

200メートルほどの通りです。

空港で無理矢理通されるショッピング街よりは、楽しいよ。

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2014年12月18日

ガルンガン祭礼日の当日(87)

『 Selamat Hari Raya Galungan 』

『祝・ガルンガン祭礼日

ガルンガンは、バリの伝統的暦・ウク暦に従って210日ごとに巡って来る。

今年は5月11日と12月17日の2度訪れた。

17日はあいにくの曇り空だった。

村人は、まず村にある数々の寺院に供物を捧げ、そのあと家寺と親類の屋敷寺を巡ってお祈りをする。

暑さが避けられて幸いだったかもしれない。

内緒ですけど、私の滞在するテガランタン村では、お祈りのあと男衆はワンティラン(集会場)に集まってチュキをする。

チュキとは麻雀のトランプ版で、もちろんインドネシア御法度のギャンブルです。

訪問客もあり、ガルンガンは日本の正月風景に似ているかもしれない。

バリ人でない私には、まったく関係のない祭礼日。

ツーリストなんだと実感させられる日である。

前日・当日・翌日と、行きつけのレストランが休みになる。

私は、チョー暇になる。

昼過ぎから、ペンジョールが飾られたウブドの道筋をバイクで一回り。

正装姿のバリ人が、行き交うウブドの町。

女性は美しく、男性は凛々しく映る。



神々の降臨を待つ、準備の整ったパチュン家の家寺(ムラジャン)。

神聖な空間に仕上がっているように感じられる。

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家々の門前にペンジョールが立てられた。

前日遅くまで作業をしていた家もあったが、間に合ったようだ。

タマン村スリウェダリ通りを北部から見下ろす。

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緩やかな坂で道幅の狭いスリウェダリ通りは、ペンジョールのトンネルが一段と美しく並ぶ。

ウブド近郊では、一二を争う美しさだ。

同じ条件のカジェン通りも、毎年見応えのあるペンジョールが立つ。

ゴメンなさ〜い、今年は写真を撮っていない。


ペンジョールが2本立っている家は、先年(210日以内に)当家で婚姻儀礼があり、一家族増えたことを報せている。

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スゥエタ通りで見つけたネオンのついたペンジョールがふたつ。

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家に帰ると、バレ・ダギンに家族が集まっていた。

「ミーティングですか?」と声を掛けながら部屋に向かう。

振り返りながら、先ほど見たネオンのついたペンジョールの話を伝えた。

「どうしたんだろうね、最近のバリ人は?」とパチュン君。

娘のアユちゃんが「ナタール(Natal=クリスマス)が近いから、一緒にしたんじゃないの」と、若者らしい冗談を言う。

私は、うなずきながら部屋に入った。

posted by ito-san at 17:42| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村徒然記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月15日

ペンジョール制作に忙しいバリ人の男衆(86)

17日のガルンガン祭礼日に備えて、バリ人はペンジョール作りに忙しい。

16日の午前中には、各家の門前に立てることになっている。


市場には、ロンタル椰子の葉で作られた装飾品がずらりと並んでいる。

年々、飾りパーツの種類が増えている。

おかげで、制作の手間が軽減しているようだ。

一本の予算は、20万〜30万ルピア(約¥3,000-)から。

100万ルピア(約¥10,000-)を越えると、かなり豪華になる。

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カメラを向けると、ポーズをとったり笑顔を返してくれるバリ人が好きだ。

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ペンジョール作りは男衆の仕事。

日曜日だったからか、あちらこちらでペンジョール制作の風景が観られた。

サッカー場にて

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タマン村スリウェダリ通りにて

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テガランタン村入口付近にて

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もちろん我がパチュン家でも

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パチュン家では、息子のコマンが一任されて頑張っていた。

こうして、バリの文化が伝承されていく。
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2014年12月11日

ウブド・カントール王家の火葬儀礼(85)

スゥエタ通りを挟んでサレン王宮の西側にある「カントール王宮」の(火葬儀礼(プレボン=plebon)が12月9日にあった。

カントール王宮は、1947年に、東インドネシア国の初代大統領に就任したチョコルド・グデ・ラカ・スカワティの生家。

彼は、植民地時代に外国の芸術家たちを招き、ウブド発展の立役者となった人物。

オランダ政府と親交の篤かった彼は、オランダ様式の建物を持っていた。

その建物が事務所(kantor)に見えたところから、プリ・カントールの名称がついたと聞いている。

以前は、資料館になっていて見学が出来た。


“今世紀最大” と言われた火葬儀礼を何度も見学している。

その後も、大きな火葬儀礼は観た。

贅沢な話だが、もう、観なくてもいいかなと思うほどだ。

と言うことで、今回は行列に参加せず、前日のカントール王宮と当日の火葬後風景を見学することにした。

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前庭にそびえ立つビンギンの巨樹と、木上のクルクルの塔は必見だ。

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火葬儀礼前夜(8日)

ライトアップされたバデ@カントール王宮前


亡くなられたのは建築家で、ジャカルタなどの高速道路建設に貢献した人物。

ウブドの歴史に興味があった時、カントール王宮前の旧カフェ・アンカサの大家さんだったアノム氏とデンパサールにお宅を訪問してお会いしている。

学究肌の方だと聞いていたので、気難しい人ではないかと緊張して訪ねたが、気さくな方だったと記憶している。

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12時30分、私の滞在するテガランタン村の渓谷の向こうをバレ・ガンジュールの音が通り過ぎて行く。

バデ&ルンブーを担ぐことになっているブントゥユン村の男衆だろう。

ブントゥユン村は、スゥエタ通りの北上にある。

バレ・ガンジュール隊が今から南下するとすれば、出発は午後1時になるだろう。

火葬場は、トゥブサヨ村ダラム・プリ寺院前。

私が火葬場に到着した2時には、すでにバデ&ルンブーは運ばれていた。

意外と早く着いたようだ。

道路を隔てた向こう側に、建築中のホテルが見える。

これは、シティホテルという名のアパートだ。
 
情緒も何も無いホテルがウブドに増えている。

村はずれの火葬場は今、町中に変貌しつつある。

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トゥブサヨ村スクマ通り「カフェ・アロンアロン」のあとに、11月26日オープンした不動産屋「red Lotus」経営の「RESTO WHITE YELLOW」でコーヒーブレイク。

厳粛な火葬儀礼が、ほとんど観光気分の見学になってきている。

これもロケーションに、神秘性が薄くなってきたからだろうか?

それとも、私の気持ちがウブドから遠のいてきているからだろうか?

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2014年12月08日

ドゥダル=Dedalu(羽蟻)発生注意報(84)

注意報と言っても毎年のことですが。

バリ島の雨季の始まりを告げる風物詩は、夜7時頃になると現れる羽アリ。

体長2センチ弱、こげ茶色の羽アリ。

ドゥダル(dedalu)と呼ばれている。

ドゥダルについては 「アパ?情報センター」ホームページ
極楽通信・UBUD
極楽通信 ≫ 「ドゥダルはバリ島の風物詩」に詳しく書きました。

是非、一読ください。

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地中に穴を開けて、吹き出すように、一気に舞い上がり、灯りに突進してゆく。

恐ろしい光景だ。

毎年、ウブド村では11月末に発生する。

正確にはわからないが、最盛期は2週間ほど続く。

雨季の始まりも、この頃になる。

雨の日には、発生しないようだ。

アスファルトやコンクリートに固められられたせいか、ウブド中心部の発生率は少なくなった気がする。

ホテルでは、虫嫌いなお客様からクレーム出ていると聞く。

ドゥダルが好きな人は少ないかもしれない。


谷口五郎編の「インドネシア・日本語辞典」1999年版で「dedalu」を調べると「dedalu api」でヤドリギとあった。

これは関係がなさそうだ。

そう、ドゥダルはバリ語です。

「インドネシア語ではラロン(Laron)だよ」と教えてくれた知人がいた。

辞典で見ると、ラロンはシロアリとある。

大辞林で羽蟻を調べると「交尾期に羽が生じたアリやシロアリ」とあった。


今夜も7時近くになると、窓を閉め、部屋の電気を消す。

これを忘れると、羽アリの乱舞に悩まされることになる。

ベッド脇の電気スタンドを灯して、8時まで読書。


(写真提供:鳥居正さん/無断でゴメン!)

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2014年12月04日

バリ人男性をちょっと考察・婚姻儀礼(83)

“授かり婚(おめでた婚)” “駆け落ち婚” のことを書いておいて、正真正銘の結婚についてお伝えしないのはよろしくない。

と言うことで、いよいよ結婚についてお話しよう。

その前に、バリの結婚形態にいくつかを紹介しておく。

名称については、それぞれの地域によって異なることが多いので、ご了承願います。

“授かり婚” に該当するバリ語は言葉が見つからなかったが、駆け落ち婚は、ンロロッド=ngrorod(または、ムライビン=melaibin(ben))だった。

これは(ンロロッド&ムライビン)、逃げる(lari=インドネシア語)という意味らしい。

養子をもらう、入り婿婚は、ニュンタナ(nyentana)。

親同士が決めた “いいなづけ” は、ディジョドォカン(dijodohkan)。

予約婚である、マパディ(mapadik)などがある。

結婚が決まると、花婿方が供物などを持って花嫁の家に行き、花嫁を貰い受けたいと申し入れ承諾を得る。

婚姻儀礼は、バリ語で “ンガンテン(nganten)”、トリワンサ層が使う丁寧語では、ムクラブ・コンベ(mekerab kombe)/パウィワハン(pawiwahan)と言う。

インドネシア語では、プルカウィナン(perkawinan)&プルニカアン( pernikahan)となる。


婚礼日は、バリ・ヒンドゥー・ダルモのからふさわしい日が選ばれる。

ガルンガン祭礼日前に結婚儀礼が多いので、機会があれば参列させてもらうといい。

ウブドはもちろんのこと、バリ島にバリ・ヒンドゥー教徒のための婚姻儀礼施設は無い。

バリには、プラと呼ばれるヒンドゥー教寺院がたくさんあるが、日本の寺院や神社のように結婚式場として使われることはない。

では、いったい彼らはどこで婚姻儀礼をあげるのか?

なんと! 花婿の実家で執り行われるのです。

別に、なんと!と、驚くほどのことでもない。

日本でも、実家でおこなっていた時代はある。

住宅事情と経済的事情で姿を消したのであろうことは理解できる。

最近バリでは、披露宴をホテルであげるカップルも増えてきている。

将来、バリ人の結婚式も、日本人と同様に結婚式専用の施設でおこなわれることになるのであろうか?

それは味気ない。

なんとか花婿の実家で執り行うと言う慣習を残して欲しいものだ。

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バリ人の屋敷には、必ず、家寺(サンガ・ムラジャン)と、中央にバレ・ダギン(bale dangin)と呼ばれる慣習の行事が行われる東屋がある。

子供の誕生、削歯、婚姻、葬儀など人間の儀礼(マヌシャ・ヤドニョ=manusa yadnya)に関するすべてをおこなう、神聖な場所。

儀礼は、このバレ・ダギンと家寺を中心にして行われる。

敷地内の建物はそれぞれに役目があり、それに従って使われる。

バレ・ダギンは飾られ、たくさんの供物が安置されている。

供物作りは、バンジャールの女衆の仕事だ。

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バンジャールの男衆は、数週間前から門前や屋敷内に装飾を施し、庭に参列者のための日除けや椅子を用意する。

装飾はプルンクンガン(Pelengkungan)と呼ばれる。

近頃日除けは、貸しテントを使用するようになった。

婚礼は宗教・慣習にのっとり、簡易なものから複雑なものまで、高い費用をかけた豪華なものから質素なものまである。


婚姻儀礼は、次のように行われる。

これは、私が数々参列した婚姻儀礼の模様をまとめたものです。

写真は「アパ?情報センター」スタッフのワヤン君から拝借しました。

地域によって、カーストによって、儀礼の方法が違うことがあるので、こちらもご了承願います。

花婿・花嫁はバレ・ダジョー(ムテン)と呼ばれる建物に居を構え、儀礼に備える。

私がパチュン家で住まわせてもらっているのと同じ建物だ。

バレ・ダジョー前には、バナナの葉で作られた門、塀が飾られ、本日の主役がここから出入りすることがわかる。

日本料理店・影武者のスタッフ、ワヤン君の婚姻儀礼では、庭で「闘鶏」を見た。

これは純粋にムチャル(地霊をおさめる)の儀礼だったようだ。


早朝6時:プマンク(僧侶)が到着。

プマンクは、バレ・ダギンとバレ・ダジョーの間の庭に敷かれたゴザに腰を下ろし、家寺に向かってお祈りを始める。

バレ・ダジョーから花婿・花嫁が正装で登場。

親族が見守る中、儀礼が始まった。

花嫁の持った約30センチ四方の草の敷物を花婿がクリス(青銅の短剣)で刺し貫く、花婿が作ったラワールを花嫁が売り歩くという商いの真似をする。

この一連の儀礼的行為は、これから2人で力を合わせてやっていきましょうという意味。

このあと、2本の枝に渡した糸を歩いて切った。

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午前8時:花婿・花嫁は、家族に付き添われて近くの川へマンディに行く。

最近は、家にあるカマル・マンディ(浴室)で済ますことが多くなった。

マンディ場で、真新しい服に着替える。

家寺に入り、プマンク(僧侶)の儀礼執行とともに、花婿家の祖先に祈りを捧げる。

この儀礼は、霊力の強い正午をまたがないよう午前中に行われる。

このあと、花嫁の実家が近い場合は、花嫁の家に向かう。

そしてプマンクの儀礼執行とともに、花嫁家の家寺で2人が祈る。

これはプジャティ(pejati)といい、花嫁が実家を出て花婿の家に入ることを花嫁側の祖先にことわる儀礼です。

実家が遠い場合は、ほかの日に行う。

マンディのあと花婿・花嫁はバレ・ダジョーに戻り、しばしの休憩のあと婚礼衣装に着替える。

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午後2時:プダンダ(高僧)到着。

プダンダは、バレ・ダギンの一段高くなった台に鎮座し、衣装を着替え儀礼の準備をする。

花婿・花嫁がバリの婚礼衣装で登場し、飾られたバレ・ダギンにあがる。

アンクルンの演奏とワヤン・ルマが演じられ中で、プダンダの厳粛な儀礼が始まる。

お祈りをし、清めの儀礼(melukat、mejaya-jaya)を執行してもらう。

プダンダから儀礼が終了したことを告げられる。

儀礼が滞りなく終り、2人は目出たく結婚することができました。

ワヤン君の結婚儀礼は、プダンダではなくプマンクだった。

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午後4時:披露宴。

友人・知人は、儀礼終了後の披露宴に招待される。

儀礼に参列することも許されるので、興味のある方は早朝から参加しましょう。

招待客がぞくぞくと訪問する。

玄関に設置された受付で芳名録にサインし、プレゼントを渡す。

近年、プレゼントは減少し、キャッシュを包んで用意されたボックスに投入するようになった。

受付で飲物のボトルとスナック菓子を手渡され、先に進む。

花婿・花嫁が満面の笑顔で、ひとり一人をお迎えする。

お祝いの言葉を交わす。

招待客は、祝辞を伝えると奥に進み、用意された椅子に腰を下ろす。

披露宴が始まり、村長、親類代表の来賓が挨拶する。

村長、親類代表の前で、バンジャールの成員になった書類にサインする。

バリ人の婚姻は、村人、そして、互いの村(バンジャール)同士が認めて成立するというところがある。

結婚届を提出しただけで、いつのまにか結婚していましたというのは、バリでは認められない。

招待状には、一度に大勢が訪問しないように、それぞれ時間を割り振って出席する時間が指定してある。

賃貸結婚式場ではないので、時間に制限がない。

都合が悪ければ、指定時間以外でもかまわない。

招待される者としては、有り難いシステムだ。

招待客は、切れ目なく訪れる。

しばらく歓談していると、食事を薦められる。

奥庭のテーブルの上に、バンジャールの男衆によって準備されたバリ料理が幾皿にも盛られている。

バイキング形式で、自ら手にした皿に料理をのせナシ・チャンプールを盛りつける。

来訪した順に食事をすませると、三々五々帰路につく。

新郎新婦は、参列者を見送る。

午後10時:すべてのお客様が帰ると、セレモニーは終了する。


長くなってしまったが、以上がバリ・ヒンドゥー・ダルモの婚姻儀礼一例です。

ほかにも、様々なバリエーションがあるようです。

このあと3日間一歩も家から出れないとか、新婚旅行は行くのか、それ以前に結納の儀礼はあったのか、なんてこと。

興味ある方は、自分の眼で確かめてください。


※参考文献:極楽通信UBUD・Vol.15「Upacara Perkawinan・結婚式」&「バリ宗教ハンドブック」吉田竹也・著
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2014年12月02日

祠の屋根の葺き替え作業(89)

白い雲が空一面を覆い、青空を遮っている。

陽射しは柔らかく、過ごしやすい。

気温が高く生温い風が吹くと、雨が降ると予告する。

2日に1回は雨が降るようになった。

スコールと呼ぶには弱い雨だ。

毎日、雨が降るようになり、降雨時間も長くなる。

雨の合間に、晴れ間が見える。

こうして雨季は、徐々にやってくる。

早朝の4時。

雷の音で目が覚めた。

近くに落ちたような凄まじい音だ。

スコールの音も聴こえる。

ゴロゴロ・ガラガラ・バッシャン。

バリバリと雷の音が、何度も響いた。


先週からパチュン家では、ムラジャン(家寺)の祠の屋根の葺き替えが始まった。

15年ぶりの葺き替えらしい。

祠は、プリンゲー(=Palinggih、ローマ字表記がはっきりしない)と呼ばれている。

バリの寺院には、必ずいくつかのプリンゲーがある。

プリンゲーは椅子の意味で、神が降臨する祠のことを指す。

神々が降臨する12月17日のガルンガン祭礼日前には終わらせたいようだ。

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9月18日:パチュン家ムラジャンのオダラン。修繕前の祠が見える。


今回の素材は20年間は耐えられると、パチュン君は言う。

屋根に使われるのは、ジャコー椰子(シュロ椰子)の幹を包む黒い樹毛。

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年々、バリ島のジャコー椰子が減り、樹毛が入手困難となり、ジャワ島から仕入れられているそうだ。

運ばれて来た樹毛は、すでに掃除され選別された状態だった。

材料がなくなれば、屋根の素材も変っていくだろう。

家寺が地上から一階二階の屋上に設置されたように、焼き物の瓦や新建材の屋根になるのか。

地中とは、土を詰めたパイプで繋がっているから良しとする屋上の家寺。

地霊も苦笑いしていることだろう。

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屋根葺きの構造には、それなりに理由がだろう。

私の語学力では理解できないだろうと、聞くことをあきらめている。

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カット作業は大変に見える。

専門のノミでカットする。

ヒゲは、魚の小骨ほどの固さで簡単には折れなかった。

ノミのような道具は、バリ語でKAPATと言うらしい。

ちなみに、ノミは、パハット(pahat)。

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仕上げのブラシかけ。

近づいている雨季を心配したが、葺き替え作業は2日間で終了した。

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あとは、パチュン君が自ら着色する。

器用なパチュン君は、なんでもこなす働き者だ。

「12月6日の満月の日には間に合わせるんだ」と意気込んでいる。

ムラジャンから、調しっぱずれの口笛が聴こえる。

インドネシアで人気の日本の歌、五輪真弓の「こころの友」だ。

奥さんのマデは、ギターを弾き日本語で唄うことができる。

日本人のお客様が訪れると披露することもある。

仲の良い夫婦だ。


※後日談
パチュン君の着色作業も滞りなく終わり、12月6日はプマンクによる儀礼が行われた。

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posted by ito-san at 15:53| Comment(1) | TrackBack(0) | テガランタン村滞在記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする