2016年12月30日

Waterfall(Air Terjun)@Tibumana(107)

「和食・影武者」のスタッフ、クトゥット君が病気で休んでいると聞いた。

20年前、私が雇い入れたスタッフのひとりだ。

「ウブド・ヴィレッジ・ホテル」で働くお兄さんの紹介で来た。

当時20歳だった彼の第一印象は、突っ張った感じの青年だった。

私は、こういう生意気盛りの男が好きだ。

ウエーターとして、働いてもらった。

5年間の働きぶりを見て、新規開店する「ワルン・ビアビア」を任せたいと思った。

「友人がバリ料理専門の店を出すのだが、奥さんと一緒にやってくれないか?」

クトゥット君の奥さんは、日本人の味覚にあうバリ料理を作る。

「私は、影武者に世話になっているので止めたくない」

これが、彼の返事だった。

義理堅い男だ。

今では、影武者になくてはならない存在。

私をオヤジのように慕ってくれ、気にもかけてくれている。

私にとってもクトゥット君は、家族のひとり。

心配で、バンリの実家に見舞いに行った。

5、6年ぶりの訪問になる。

テラスで友人と話しているクトゥット君がいた。

外見からでは、まったく病人には見えない。

目を赤くして、病状を訴える。

原因不明の病気に、不安顔だった。

私には、病源を推し量ることはできない。

「早急に、確かな病院に行くように」

言葉を掛けて、その場をあとにした。


ウブドへの戻り道、滝を案内する野立て看板を沿道に見た。

3〜4年前から、ツーリストの間で滝巡りが人気だ。

「アパ?情報センター」の下働きとしては、気になるところ。

久しぶりの晴れ間、立ち寄ることにした。


tibumana1.jpg


ここは、バンリ県アプアン村のバングンルマ・カワン集落にあるティブマナの滝。

(Br.Bangunlemah Kawan, Desa Apuan, Kecamtan Susut, Kabupaten Bangli)

ウブドからだと、ギャニアール市に向かう途中、ビテラ(Bitera)の十字路を左折する。

一路、アプアン村に向かって北上する。

左右には、棚田と集落を繰り返す景色。

野立て看板が、右手に見える。

バングンルマ・カワン集落の入口だ。

100メートルほどの集落を抜けると、ティブマナの滝に続く農道に出る。


tibumana2.jpg


農道は、ダラム寺院前で行き止りになった。

ビテラの交差点からここまで、バイクで13分ほど。

ウブドから30〜40分。

ダラム寺院前にバイクを止めて、寺院横の細道を通って奥に進む。

料金所で入場料Rp10,000-を払い、滝に向かう。

5分ほど階段を降りると、ティブマナの滝の降り立った。

水量が少ないのは、晴の日が続いているからだろう。

上りは7分ほど。

たったの7分で、息が切れる。

来年70歳の誕生日(7月25日)に、アグン山に登る計画がある。

ここで私は考えた。

こんな体力では、登頂は無理だろう。

そして、私は決めた。(決断の早いのが私の取り柄)

足腰を鍛えるために、滝巡りをしようと。

こうして、私のバリ島滝巡りが始まる(予定)。

バリ島に、いくつの滝があるのか知らない。

渓谷の多いバリ島のこと、20ヶ所はくだらないだろうと想像できる。

いくつまで踏破できることやら。



 


posted by ito-san at 16:51| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月28日

小さなダムを利用した橋(106)

10年ほど前に出合った景色が忘れられないでいる。

バイクで道に迷って遭遇した場所。

バンリにある寒村を訪ねた帰りだった。

南下すれば幹線道路に出られるだろうと、ひたすら田舎道を走っていた。

道が川原で遮られた。

川原では、水浴びをする子供たちの姿がある。

釣り人もいる。

バリの原風景を見ている心地がした。

水量を調節する小さなダムが、目の前に見える。

私が来た道を戻ろうとした時、一台のバイクがダムの上を渡っていった。

近づいていくと、ダムはバイクが利用できる橋だった。

バイク一台が、やっと通ることが出来る狭さ。

欄干はない。

渡っていいのか不安になる橋。

橋として認められているかは怪しい。

水面までの距離は深く、一息で渡る切ることが出来ないほどの川幅。

ウブドの南、マワン村にあった木の橋に次ぐ危険度の高さだ。

スリルはある。

欄干のない橋を、釣り人や子供たちの姿を感じながら渡った。

渡って進んだ先は、ペジェン村の南集落。

サムアンティガ寺院前に出て、やっと場所の確認ができた。


12月25日、思い出のダム探しに出かけた。

おおよその位置は掴んでいるが、迷ってたどり着いた場所、どの道を走ったか覚えていない。

サムアンティガ寺院前の道から、先回の逆にたどってみることにした。

いくつかの集落を左折右折する。

そろそう東に向かわないと、ドンドン目的地から遠のいていく気がする。

こんなに遠くはなかったはず。

ペジェン村を通り越してしまうのではないかと心配になる。

先を走るバイクが数台、右折した。

この道が怪しい。

神のお導きだろう。

私は、右折するバイクについて行った。

川原が見えてきた。

目的のダムも見える。


Dam1.jpg


ダムは思っていたより小さかった。

欄干がついていた。

記憶では、川幅も広く、もっと渓谷だった。

子供たちが飛び込んでいた深さのある水溜りが見当たらない。

釣り人もいない。

日曜日だと言うのに、川原で遊ぶ人の姿はない。

賑やかな場所だったはずだが。

ここじゃないのかもしれない。

ダムを渡って川下を探すことにした。

道は、川原を離れていく。

ダムは見つからない。

もう一度、先ほどのダムに戻ってみる。

思い出の景色は、記憶の隅に追いやられた。


Dam2.jpg


川下に、車が渡る場所がある。

(動画の後半に出て来ます)

これも、現代には珍しい代物だ。

豪雨の日は渡れないだろうな。

つい先日の、雷をともなった豪雨のことを思った。

家に戻ってパスフィンダーの地図を見ると、この場所には「WARNING ! Only for Cyclists」と赤文字で載っていた。





 
posted by ito-san at 17:09| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月19日

「バリ島・楽園紀行」出版記念パーティ(105)

16年ぶりにウブドに戻り、長期滞在に入った大原氏。

たくさんの写真を残してくれていた。

私の持っていた写真は、ウブドの湿気で全滅にだったので、ありがたい限りだ。

その中から、こんな写真を見つけた。

新潮社「バリ島・楽園紀行」出版記念パーティの時の写真だ。

写真家・渡部 赫(かく)さんが編集したガイドブックで、ウブド在住の日本人数人が協力した。

私もそのひとりだった。

賑やかなことが大好きな渡部さんの音頭で、出版記念パーティをウブドで催すことになった。

時は、1998年4月22日。

スハルト政権32年間の長期独裁に、終止符が打たれた年だ。

インドネシア国内情勢は最悪で、各地に暴動があり、バリ島の渡航危険度が最高になり、日本からの観光客が激減した。

為替レートは、1円→Rp[1月77.50-/2月75.50-/3月73.00-/4月61.90-/5月58.25-/6月77.55-/7月104.200/8月87.00-/9月76.00-/10月77.00-/11月59.50-/12月61.25]と記録がある。

会場は、アルマ美術館前の「レストラン・エグザイレス」。

ローバートハリスさん(現在、作家・J-WAVEラジオDJ)を中心に、つかささん、マーチン君が運営していた店。

今はない。

この日は、数時間を借り切った。

庭では、バリ舞踊を上演。

出演者は、すべて私の知人・友人たち。


では、出演者を紹介します。

影武者の女将・由美さんの旦那デドさん。

デドさんの従兄弟マデ・カディットさん。

芸術大学(現在のISI)の卒業生。

マデさんの奥様も芸術大学(現在のISI)の卒業生。

デドさんの従兄弟クトゥット・スワンドラさん。

やはり、芸術大学(現在のISI)の卒業生。

友人のyoyoさん。

芸術大学(現在のISI)に在学中の友人・小谷哲郎野君。

渡部さんの要望で、人気急上昇中のユリアティちゃんに特別出演を依頼。

付き添いに、ウブド王宮定期公演の花形スター・グンマニさんとユリアティちゃんの母親、そして姉のアルタティックちゃんと妹のビダニちゃんが来ていた。

贅沢で盛大な公演となった。


ユリアティちゃんには「トゥヌン」を披露してもらった。


ユリアティ1998.jpg


オレッグ・タムリリンガンは、yoyoさんと小谷野君。


yoyo1998.jpg



聖獣バロンの踊り手で有名なデドさんは、この時10年ぶりに「バリス・トゥンガル」踊る。

デドさんは、幼少の頃バリス・トゥンガル大会で優勝している。


デド1998.jpg



デドさんの従兄弟マデさんの奥さんが踊る「タルナ・ジャヤ」。

彼女は「タルナ・ジャヤ」発祥の地シンガラジャ出身。


madeの奥さん1998.jpg



マデさんの「トペン・トゥア」。


made1998.jpg



「ジャウッ(ク)」は、私の先生コンピアンさん。


コンピアン1998.jpg



私の「トペン・ムニエール」。


ito1998.jpg



クトゥット・スワンドラの「トペン・ゴンブラン」。

着替えてる場所から直接踊り始めた。

彼の発想には、いつも度肝を抜かれる。

このあと数年して、チュディルと呼ばれるユーモラスな役で奉納舞踊に出演し、人気を博すことになる。


クトゥット・スワンドラ1998.jpg



演奏は、プンゴセカン村のグループ「スダマニ」。

クンダン奏者のデワ・アリットとルディットの顔が懐かしい。


スダマニ1998.jpg



18年前の記憶は、おぼろげだ。

写真を見ても、鮮明には思い出せない。

こんな豪華な仲間と一緒に踊れたのは、幸運だった。

貴重な写真が手に入ったこと、大原さんに感謝です。


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2016年12月13日

ウブド・ラジオに出演(104)

『日本時間10時、バリ時間9時になりました! 

ウブドラジオです。本日は12月9日の金曜日。

今夜もバリ島ウブドわるんあんかさより、

あなたの週末にウブドをねじ込む一時間、

生配信でお届けしたいと思います。』


トシ君の元気な声と、コテツちゃんの控え目な声が聴こえる。

場所は、モンキーフォレスト通りにある「和るん・あんかさ」のワンフロアー。

その場に居合わせたお客さんを巻き込んでの放送。

ウブド・ラジオといっても、映像で同時発信。

私は理解できていないが、インターネットで生配信している。


MCにあるように、毎週金曜日・日本時間夜10時(バリ時間夜9時)から1時間の予定で放送。

予定と言ったのは、往々にして1時間を越えることが多いからだ。

ちなみに過去、私が出演した日は2時間近くになっている。

今回も、1時間30分は越えていた。

私が出演したのは9日の金曜日。

7日のテガランタン村での奉納舞踊を中心に話を進めます。

御覧下さい。



ウブドラジオvol.207


「ウブド・ラジオ」のホームページはこちら「http://ubudradio.com」。


posted by ito-san at 23:08| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月09日

リベンジに思わぬ誤算(103)

ウブドに滞在始めた頃(1990年)に知り合った日本人先住者に、「いとうさん、人生、なめてるね!」と言われたことがある。

自分には身に覚えがないのだが、彼女から「ウブドの無責任男」とも、あだ名された。

16年ぶり以上だと思うが、今回、我がセノ家のオダランで奉納舞踊をすることにした。

久しぶりなのに、なんとかなるだろうと高をくくっているところが、なめているんだろうな。

復習は、プンゴセカン村のコンピアン先生の家で一度だけ。

それもコーヒーを飲みながら、雑談込みの1時間程度。

あとは、YouTubeにアップされているムニエールを見て研究。

そう、私が奉納する舞踊は「トペン・ムニエール(Monyer)」と呼ばれている。

踊りは、我流のアドリブでいくことに決めている。

問題は、ガムランの音と合うかどうかだ。

4日の奉納舞踊で録音した「トペン・トゥア」を何度も聴いて、ガムランの音は覚えた。

当日は「トペン・トゥア」に合わせて踊りことになる。

しかし、結果的には不満足の舞踊になってしまった。


夜7時スタートの予定は、高僧プダンダ待ちで、1時間30分遅れで始まった。

今夜は、幸い雨は降っていない。

子供たちのルジャンが終わった。


Rejang.jpg
写真提供:大原正博


トペン・クラスが終わった。


topeng_keras.jpg
写真提供:大原正博


次が私の番だ。

出だしは、悪くなかった。

ガムランの音を掴むことができた。

それからがいけない。

歩き始めて、次に強く音を引き出す動作の場面にきた。

ガムランの音がバラバラに聴こえて、とらえどころが見つからない。

胸当て衣裳を着けると足下がまったく見えなくなり、足運びが不充分になった。

こんな初歩的なことも、16年の歳月で風化していた。

音を聴くために、ゆっくりとした動作で踊る。

しかし、目的の音は掴めない。

しばらく踊ってみるが、ダメだ。

余裕がなくなってきている。

こうなったら、勝手に踊るしかない。

考えていた振り付けを飛ばして、早送りしたビデオのように切り上げた。

ヒンドゥーの神々様、御免なさい。



itosanのトペン・ムニエール、出だし部分の1分32秒
動画提供:ウブド・ラジオ



動画でガムランを聴くと、問題なく音が掴める。

ガムラン演奏が悪いわけではなかった。

では、なぜ聴こえなかったのだろう。

耳が遠くなったのかもしれない。

老いたせいにしているが、これが、私の実力だ。

根本的には、練習不足だとは思う。

反省して練習に打ち込もうと考えないところが、人生なめてる無責任男の真骨頂でもある。

今回を、私の奉納舞踊の最後にしたい。

初舞台のテガランタン村で、引退奉納ができたことは幸せだった。

バリの芸能が末永く続くとこを、切に願っている。

なんて、偉そうなことを言ってみる。


この時の様子を9日(金)の「ウブド・ラジオ」で、話すことになった。

毎週金曜日10時(日本時間)、バリ島ウブドからインターネット生配信。

http://ubudradio.com

時間のある方は、覗いてみてください。


posted by ito-san at 14:16| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月06日

ムチャル(=Mecaru)の儀礼(102)

我が家のオダラン(創立記念祭)の本番は7日で、10日まで続く。

12月2日は、Potong Babi = ポトン・バビ(ブタの解体)があった。

※「ポトン・バビ体験記

※「ポトンバビ・完全取材(Potong Babi)

動画でアップしたので御覧下さい。

ちょっとグロイかもですので、残酷なのが苦手な方は飛ばしてください。

血は、すでに他の場所で抜いてある。

解体場所は、屋敷前のスバック(水利組合)の水路。

内蔵を取り出すところまでです。

肉の捌きは、明朝だとのこと。

とうことは、昼飯は血入りラワールとバビ・ケチャップ入りのナシチャンプールだ。

私も、ご馳走をご相伴しよう。






12月4日には、ムチャルが執り行われた。

ムチャルは、チャル(caru)とも言われ、ブト・カロ(下界の神々)や邪悪な力をはらうための儀礼。

特徴は、さまざまな動物が供物獣として使われこと。

小さなムチャルは一匹、普通で5匹。

セノ家では、未確認ですが、相当の数を生け贄にしたようだ。

小さなワンちゃんは、どうなったかな?

闘鶏、奉納芸能(舞踊、影絵芝居)と盛りたくさんのムチャル儀礼の日でした。


儀礼のための闘鶏(タジェン=Tajen)が、裏庭で開帳。

血を流すことで、地の霊を鎮める。

※「タジェン(Tajen = 闘鶏)






同時進行で、芸能が奉納された。

玄関先では、子供たちによる奉納舞踊ルジャン(Rejang)とトペン(仮面劇)が演じられた。

動画は、テガランタン村の子供たちによるルジャンの前半一部。

高僧プダンダを待って3時間。

踊る時には、雨が降り始めた。

それでも、けなげに奉納舞踊に向かう子供たち。

大雨の降る中、表情も変えずに無垢に踊る姿に感動。

7日は、私もこの場所でトペンを奉納する予定だ。






屋敷に中央にあるバレ・ダギンでは、スクリーンを張らずに演ずるワヤン・クリット(影絵芝居)が奉納された。

スクリーンを使わないので影絵にならないワヤン・クリットのことを、ワヤン・ルマ(=Wayang Lemah)という。

※「ワヤン・クリット(Wayang Kulit=影絵芝居)






雨の中、雨具を着てのムチャル儀礼。

セノ家の家族、村人、皆様、お疲れさまでした。


posted by ito-san at 16:22| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月03日

奉納舞踊・リベンジである(101)

決めた!

踊ることを決めた。

何日間も悩んだ末の結論だ。

我がセノ家の家寺のオダランが、12月7日にある。

今回は、家寺創設以来の大規模な儀礼を執り行うようだ。

この次は、100年後(バリ歴210日が一年)かも、とセノ氏は言っている。

「奉納舞踊しないのか?」

私が以前、奉納舞踊をしていたことを知っている、まわりの村人が訊いてくる。

住まわせてもらっているのに、村人と同じようにはお手伝いできない。

男性は祭壇作り、女性は供物作りの相互扶助(インドネシア語でゴトンロヨン)をしている。

ゴトンロヨンは、バリの重要な文化だ。

私ができることは、バリ舞踊。

テガランタン村での奉納舞踊は、私の初舞台だった。

初舞台は、最悪の奉納舞踊となった。

その話は「神々に捧げる踊り・第一章 バリ舞踊に挑戦」に書いてあるので読んでください。

20年ぶりのリベンジの意味を含めて承知した。

お面と衣裳の一式は、日本一時帰国(2014年)の折りに日本に持ち帰り、水野さんに預けてある。

もう踊らないと決めたので、水野さんに使ってもらおうと考えていた。

今回、お面を2つ、日本から知人に運んで来てもらった。

踊らないと、固い決意をしたのが16年前。

奉納舞踊は16年ぶりになる。

踊らなくなった理由は、踊れないと感じたからだ。

その時の、気持ちをどこかに書き留めたつもりでいたが、見つからない。

もしかすると思っていただけで、その時の強烈な印象が強く残っていただけなのかもしれない。


Monyer.jpg
写真提供:大原正博(踊り手・itosan)


今、思い出している。

タガスカンギナン村・デサ寺院のオダランが近い。

リノ氏から「トペン、踊らないかと」誘われている。

3度目の奉納舞踊になる予定だ。

オダランの前日、リノ氏の家で下げいことなった。

ガムラン奏者の集まりが悪い。

全員揃わず、クンダン(太鼓)奏者がいなかった。

いよいよ私の音合わせ。

音が掴めず、恐る恐る踊り始める。

リノ氏が横から現れ、「今回は、こんな感じで」と手ほどきをする。

今までにない、振り付けだった。

難しい振り付けだ。

焦った。

私の技量に合わせて教えてよ! と叫びたくなる。

この場でガムランと会わせなければ、本番では立ち往生するだろう。

舞踊が悲惨になることは、目に見えている。

一通りおさらいすると「じゃあ明日」ということになった。

おいお〜い。

バリ人なら、これでOKなんだろうが、私は日本人。

それも、物覚えの悪いオヤジだよ。

「明日は、全員揃うから大丈夫」と言われても。

新しい振り付けを、まったく記憶できないまま、私は帰った。


次の日、私は寺院に行かなかった。

リノ氏の振り付けが覚えられていなければ、今までの踊り方で踊ればいい。

身体が、登校拒否&出社拒否(この表現であってるのかな?)のように動かない。

踊る自信が、まったくなくなっていた。

巧く踊りたいという気持が、ビビらしているのだろうか?

奉納舞踊は、巧く踊る必要はない。

神に捧げる心持ちがあればいいのだ。

そんなことはわかっている。

リノ氏には、あとで「逃げたな!」と言われた。

「風をひいた」と言い訳を伝えたが、逃げたのは確かだった。

これまでは満足に踊れなくても、寺院での舞踊が心地よくてチャレンジを繰り返してきた。

つぎは、もっと心を込めてと思う。

プレッシャーは感じなかった。

今回は、私の奉納舞踊に対する考えが、根底から覆された感がある。

何か得体の知れない物が、私の舞踊に待ったをかけた。

もう一度、バリの文化・宗教・慣習を修得せよ、と言われているようだった。

私は、この日から踊ることを止めた。

その時の気持ちは、今でもうまく説明がつかない。


セナ家のオダランに一役できればと、封印を解いた。

奉納舞踊は、12月7日。

安穏な精神状態で、のぞめたらいいなと思っている。


posted by ito-san at 23:13| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする