2017年01月27日

白鷺の村・プトゥルゥ・グヌン(114)

行って来ましたプトゥルゥ村。

我が家からだと北上してジュンジュンガン村経由が近い。

看板が、右手にプトゥルゥ村だと案内してくれる。


putulu_kokokan1.jpg


ココカンが生息するのは、バンジャール・プトゥルゥ・グヌン。

バンジャールは、最小単位の村(集落)のこと。

チケット売り場の前に立つ。

入村時に保護費を支払う。

料金は、Rp20,000-(大人)、Rp10,000-(子供)。

チケット売り場に、人が姿がない。

午後2時、ココガンたちは餌を求めて遠くの田んぼに飛び立っているだろう。

ココガンの外出中は、無料なのか?

チケット売り場を素通りして、村道に入る。

どことなく、村全体がかすんで見える。

そして、臭い。

排泄物で、緑のはずの沿道の樹木が灰色化しているのだ。

アスファルトの道路も、灰色&白色のマダラ。

バイクを降りて、樹木を見上げると・・・・・。

枝々に、ココカンが止まっている。

ココカンの群れ。

まさに鈴なりだ。

V型の編隊を組んで飛ぶココカンの姿は美しいバリの風物詩だが、生息地に私の興味が薄い。

ココカン・ウオッチングするために作られた小屋も、今では見るも無惨な廃墟になっている。

ウブド近郊の観光地としての役割は、果たしきれていないようだ。

ひょっとすると村人も、持て余しているのかもしれない。


私は、すこし気持ち悪くなったのを、動画を撮り終えると、ソソクサと村を立ち去った。

バンジャール・プトゥルゥ・グヌンを過ぎると、ココカンはいなくなる。

不思議な現象ではある。






「ウブッド十字路の番人」に載っていた「HOLY WATER」を探してバイクを走らせる。

地図に惑わされたが、なんとか到着。

通りにある集会場の横の細道を入って、1キロメートルほど村道を進んだところ。

ジュンジュンガン村との川境に、目的の湧き水はマンディ(沐浴)場になっていた。

バリ人の沐浴する姿も風物詩(と言っていいのか)。

散歩道のコースにいいななんて、考えている。

マンディ場は、低い壁で囲まれた露天のことが多い。

屋根のある小屋の前に立つと、中央の扉分がオープンになった小屋がある。

覗くと、裸のうしろ姿が目に飛び込んで来た。

女性が椅子に腰を下ろして、身体を洗っている。

イカン! ここは女性専用のマンディ場だ。

入口に、ISTRIの文字が書かれてある。

女性専用という意味だろう。

露天は男性専用で、女性は屋根のある小屋なのだ。

知らずに、裸の女性の姿を見てしまった。

歳のころなら30を少し超えたあたりか。

褐色の肌は健康そうで、一家を支えている力強さを感じだ。

ちょっぴり色気もあった。

申し訳ない、分析するほど魅入ってしまって。

ゴメンナサイ(低頭)。






ウク暦第二週ランドップ(Landep)サニスチャラ(Saniscara=Sabtu) クリウォン(Kliwon)の日に、鳥たちの儀礼が寺院で行われると書いてあった。

今年は、2月4日にあたる。

どんな儀礼をするのか興味がある。

行ってみようかな。


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2017年01月22日

プトゥルゥ村・白鷺の伝説(113)

テガランタン村ダラム寺院横の田んぼで、耕耘機が田の耕作を始めた。

田を耕していると集まってくるココカン(kokokan)。

ココカンは、バリの白鷺のこと。

せわしなく餌をついばむ姿に、しばし時間を忘れる。


kokokan.jpg
この時は、頭と背中の一部が薄茶色の鷺だった。


バリの風物詩に、ココカンがV型の編隊を組んで飛ぶ姿がある。

青空に、ココカンの羽が銀箔のように輝く。

夕焼けを浴びながら帰ってくる群れもある。

それはそれはウットリする風景だ。

幸運にも、ウブドは編隊が通過する上空の近くにある。

ココカンは、ウブド北部のプトゥルゥ(Petulu)村に生息している。

それも並の数ではない。

一時期には、一万五千羽が住み着いていたという。

沿道の樹々に、緑の樹が白くなるほど鈴なりだ。

その光景は壮観だろうが、道路は彼らの排泄物で真っ白。

通過する車とバイクにも、容赦なく糞爆弾は落とされる。

私もヘルメットや上着に、何度も直撃を浴びている。

歩きの場合は、傘をさした方がよいでしょう。

美しい光景の対極には、醜い光景が存在するのか。


ココカンがプトゥルゥ村に住み着いた話は、

「ウブッド十字路の番人〜バリ島今昔譚〜・霧の探訪者」(マディ・クルトナゴロ 著・武内邦愛 訳)に載っている。

白鷺が登場するのは「第二章 女神の使い ー 白鷺。

この不思議な出来事が起こったのは、1965年の11月7日のこと。

『鳥たちは風を切って飛び、プトゥルゥ周辺を旋回した。

白鷺は人間の愛を求め、プトゥルゥの村人たちは愛と平和をもって両腕を広げ、彼らを歓迎した。

村の上空を旋回した後、王である黒鷺に統率された白鷺たちは安全な木の上に身を落ち着け、それぞれにその美しい姿を休めた。

これが人間と自然の間の愛の神秘なのだ。

こうのよにして、女神の使いである白鷺の群れはプトゥルゥ村に住み着いた。

鷺たちの生活とプトゥルゥの住人たちの生活が一つになることは、女神のお望みだった。』


ココカンは、朝になって太陽が輝きだすと、満足するまで日光浴をする。

それから、クルンクン、スカワティ、デンパサール、タバナンと様々な方向に、思い思い飛び立って行く。

風向きによっては遠くシンガラジャまで行くものもいる。

夕暮れ前の午後5時、彼らは再びプトゥルゥへと集まってくる。

時には自分たちや子供たちの餌に、蛙やウナギをくわえてくるものもいる。

「ウブッド十字路の番人〜バリ島今昔譚〜・霧の探訪者」より抜粋。


プトゥルゥ村の起源も興味深いのでメモした。

「第一章 霧の探訪者 ー プトゥルゥ村の起源」

今から五百年前・・・・。(※14世紀末 ゲルゲル朝の始まりの時期だと推測する)

クルンクン王国の王様に「肉体的、精神的な傷を癒すという聖なる水を探せ」と命令される。
命令されたのは、クシャトリヤの青年(?)イ・グデ・グナッサ。

彼の苦難の旅が始まる。

この続きは、本をお買い求めください。


ココカンは「神様の使い」の鳥として、今でも大切に保護されている。

HORON SANCTUARY(白鷺生息地)として、ウブド近郊の観光地の一つ。

入村時に保護費を支払う。

さあ、出かけてみよう。

と言うことで、次回はプトゥルゥ村からのレポートです。






posted by ito-san at 16:46| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月20日

ワルン・タマン=Warung Tamanの移転(112)

スマラ・ラティ歌舞団の定期公演会場があるクトゥ村のメイン道路は、ティルタ・タワール通りと呼ぶ。

ウブド大通りからティルタ・タワール通りに入って(10メートル弱)すぐ左手にあったインドネシア中華料理の老舗「ワルン・タマン」が、昨年10月末に閉店した。

突然の閉店で、店の前に立って呆然としたことを覚えている。

外食ローテーションに入っている店なので、無くなったことに唖然とした。

「私のローテーションは、どうしてくれる!」と、心で叫んだ。


「ワルン・タマン」は、店名が示すように、タマン村のスリウェダリ通りで創業。

2004年から10年間営業した。

2015年に、クトゥ村ティルタ・タワール通りに移転した時には、店名が変わらなかった。

今回は、完全撤退だと思った。

理由は、経営者のジョニーさんが高齢で引退。

失礼、私よりはずっと若いかった。

移転オープンはないと思っていたので気にしていなかったが、ひょんなタイミングで「ワルン・タマン」の垂れ幕を発見した。

スーパーマーケット「デルタ・デワタ」に行く途中、アンドンの交叉点を左折した途端、渋滞に掴まった。

すぐに解放されるはずの渋滞の間、視線を左手のビルに向けた。

なんと、その2階に見つけたんです。

「ワルン・タマン」の垂れ幕看板を。

階段を上っていくと、店内は、広かった。

ティルタ・タワール通りにあった店の2倍はありそうだ。

見つけ難い場所だが、わかってしまえば便利なロケーションだ。

昨年2016年12月19日のオープンだと、スタッフの女性が教えてくれた。

メニューの内容と値段は変っていない。

開いてて良かった「ワルン・タマン」。

ジョニーさん、頑張ってよ。

さっそく定番のクオッティオ・ゴレン(ワルン・タマンでは、焼うどんと言っている)とナシ・プティ(白飯)とテ・パナス(暖かい紅茶)を頼む。


Warung_taman1.jpg


私の外食ローテーションですが。

朝食はとらない。

理由は、昼まで寝てるから。

そして、お腹が空くまで食事をしないので、食べる時は、ほとんどブランチになる。

目標は、一日一膳。

一日一善とともに、目標としている。

ブランチもガッチリ食べるわけではないので、平均、一食半といったところか。

パンですませることもあれば、プリアタン村の「パ・カイルン」でバッソの時もある。

ブランチのローテーションは、週2度ほど、ナシ・ゴレンを食べにトゥブサヨ村スクマ通りの「ワルン・サリ・ラサ」に。

Free WiFiで世話になる「カフェ・トピ」では、オムライス。

ティールームのコロッケとオムライスが、月一で加わったのは昨年からだ。

時々「バロン・ブリッジ・カフェ」で、アンカサ・テーストのカルボナーラを食べる。

「ワルン・タマン」の焼うどん+ライスは、ブランチ&夕食ローテーションの両方に入っている。


warung_taman2.jpg

warung_taman3.jpg


夕食は、基本「和食・影武者」で食べる。

9時頃に訪れる滞在者やリピーターと、駄弁りながらの食事は楽しい。

土曜日の夜は「影武者」に出勤しないので、ほかの店で外食。

「影武者」以外の夕食ローテーションは「和るん・あんかさ」をメインに、あちこち。

「あんかさ」では、餃子と出し巻とポテトサラダの注文が多い。

アンドン十字路を北に行ったグヌン・サリ通りの「ワルン・マンガ・マドゥ」では、カレー・アヤム。

南ゴータマ通りの「ワルン・ケレウー」では、フーヨンハイ。

「ワルン・ベ・パシ」もローテーション内だ。

ラーメンなどの麺類は好きではないし、ピザは食事として食べないのでローテーションには入らない。


※「ワルン・タマン」の情報です。

★メニュー:インドネシア・中華料理

★場所:スーパーマーケット「デルタ・デワタ」のアンドン十字路寄り左手に2階

★食事:ナシ・ゴレンRp17,000〜/ミー・ゴレン&フーヨンハイ&クゥエティオ(中華風焼うどん)Rp20,000-/etc

★飲物:テ・ボトルRp4,000-/バリコピRp5,000-/紅茶Rp,4000-/ビンタン・ビール大Rp35,000-小Rp22,000-/

★営業時間:10.00am〜10.00pm / 定休日:日曜/

(2017/1/16現在)






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2017年01月16日

人生の節目は7年、それとも10年?(111)

私がウブドに長期滞在を始めた1990年5月に、見つけたコンクリート製の像。

インドネシアの独立後に、国策のスローガンを具象化したのだろう。

今も立っている、二つの像。


Cukup2.jpg


独立後、人口増加の著しいインドネシアは「子供は二人で充分=Cukup dengan dua orang」の政策を掲げている。

子供は、一女一男が理想的な家族だと、奨励しているようだ。

男の子の掲げる右手の掌は、Vサインではなく二人を現しているのだろう。



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悲願の独立を成し遂げた新興国インドネシアは、国家統一にムルディカ(merdeka=独立)精神をアイデンティティとした。

戦士の像を見ることは多いが、農民の像というのは珍しくないかい。

農民が鍬を持って闘ったのか、それとも、バリの産業を農業と目標としたのか?


時代小説「でれすけ忍者」の冒頭に、こんな文章があった。

『およそ、習い事は7歳をもって始めるのが良いとされている。

人の歳は7の倍で区切る。

14で元服して大人になり、42の厄年で老境に向かう。

7歳は最初の節目、幼児から子供となる年齢だ。』


今年10回目の7の倍で、70歳を迎える。

私は、10歳単位で区切りを考えていたので、ちょっと気になった。

1回目の7の倍から思い起こしてみた。

『温故知新=おんこちしん』

「古きをたずねて新しきを知る」

1959年の伊勢湾台風で流される前まで、我が家の鴨居にかかっていた額に書かれてあった文字。

下町にあった長屋の鴨居にしては、立派な書だった。

何故か、思い出している。


1947年7月25日、6人兄弟の末っ子として名古屋市で生まれる。

1★1954年(7歳)

習い事を始めるのに良い年齢だとされているが、私は幼少の頃より習い事をした経験がない。

2★1961年(14歳)

昔は、この歳で元服して大人の仲間入りをする。

私の時代は中学生の1〜2年で、まだ子供だ。

3★1968年(21歳)

20歳から21歳にかけて、ヨーロッパ&中近東を漫遊。

これは10年の区切りのつもりだったが、7の区切りでもあったのだ。

4★1975年(28歳)&5★1982年(35歳)

25歳から35歳までは、激動の青春だった。

就職・「リサイクルと手作りの店・人畜無害」開店・退社・独立「店舗設計のドゥーイング・スタジオ」

・結婚・「ライブハウス・コマンド」オープン・離婚・「イング・プロダクション」設立

・再婚・養子と、区切りになるイベントは多々あった。

つまらないプライベートを暴露してるが、何年の出来事がまったく覚えていない。

情けない。

これが「ウブドの無責任男」の下地となった前兆だろう。

6★1989年(42歳)

42歳の1990年から、バリ・ウブドで長期滞在に入る。

離婚&厄年もなんのその。

大きな決断をした年だった。

7★1996年(49歳)

「アパ?情報センター」の設立は1995年8月20日。

1997年は、インドネシア通貨危機。

1998年に、スハルト政権32年間の長期独裁に終止符が打たれた。

「ブンブン・カフェ」は、1998年から2006年までの8年間。

微妙にズレてるね。

8★2003年(56歳)&9★2010年(63歳)

クタでの爆弾テロは、2002年。

このあたりの年にも、記憶が無ない。

誰か教えて〜!

10★2017年(70歳)

各節目、何をしていたかまったく思い起こせないが、きっと重要な節目だったような気がする。

どちらにしても、あまり気にしていないということですね。

一年一年を、精一杯生きてるからね。

50歳&60歳と10年の区切りで、アグン山を登った。

今年は取りあえず、70歳のアグン山登頂を目指すことにした。

さて、これからどう生きようかが問題です。

77歳の喜寿には、何をしているかな。

どんな区切りが待っているか。

今から、楽しみだ。


posted by ito-san at 16:24| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月14日

ベジ豆乳ソフトクリーム「M&A」(110)

毎日、必ず雨が降る。

今が雨季の真っただ中だと、思い知る。

雨が降るのを嫌がっているのではない。

裏庭の落ち葉焚きができないのが残念だが、むしろ、喜んでいる。

部屋に、雨音をともなった清々しい風が流れ込む。

これといった仕事もない私には、時間に縛られることもなく、雨が止むのをただ待つことができる。

雨が止んで顔を覗かせた太陽は、陽射しが強い。

こんな時には、アイスクリームだ。

取って付けたように、強引に話を持っていく。

前々から気になっていた、ベジ豆乳ソフトクリーム。


M&A2.jpg


ゴータマ通りのデヴィ・シータ寄りにある「 Ice Cream Shop @ M&A」。

狭い間口で、屋根裏のような2階のある店。

ジョクジャカルタのボロブドゥール近くで見た、小さな一戸建ての家に似ている。

こんな可愛い店がデザインしたかった。

私は純粋にバニラとチョコレートのミックス(Rp25,000-)を、ご賞味。

味良し、量多し。

トッピングの素材も各種。

次は、屋根裏のような2階でマッタリしようかな。

■営業時間:12.00〜22.00(年中無休)

■TEL:0878-6014-9205

■住所:ゴータマ通り







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2017年01月09日

都会化するウブド地域(109)

居候先の近くに、中級ホテルがオープンする。

中級といっても、安い部屋で一泊2万円、高いと7万円と聞いている。

そんな現状を見て思うことがあった。

バリ島のホテルラッシュは、私の想像を越えた勢いで進んでいる。

ご多分に漏れず、私の住むテガランタン村も中級ホテルがオープンし、ヴィラも増加している。

ホテルは、アクセスが良いか、景色が素晴らしければ辺鄙な村にも建つ。

「もうこれ以上、ホテルはいらない!」と、ホテル開発に批判するツーリストの声も多い。

土地代、借地料が値上がり、貸店舗や住宅の家賃も高くなってきている。

バリ島中が、金銭的に潤ってきているのは確かだ。

そして、貧富の差も著しくなってきた。

「バリ島は今、バブルだ」と表現し、2〜3年後にはバブルは弾けるだろうと予想する知人がいる。

私には、そうは思えない。

日本のバブルは、意図的に操作されたもの。

世界的に人気の観光地であるバリは、需要と供給の関係で起こっている景気で、まだまだ上向きだ。

頭打ちになることはあるだろうが、弾けるということない。


ホテルは、開業するためにスタッフを募集する。

バリには、従業員募集に特有の条件がある。

それは、スタッフをホテルが建つ村から村人を雇用するという、強制的な義務。

テガランタン村ではの30パーセント、スバリ村ではなんと40パーセントを現地雇いするという契約だ。

10年ほど前、契約を守らなくて、村人に嫌がらせを受けた高級ホテルがあった。

近日中にオープンするホテルのスタッフが決まれば、テガランタン村のほとんどの若者が就職することになるという。

直線で2キロに満たない地域に、150家族、およそ800人ほどが生活している。

高卒年齢以上の若者が何人いるか、わからないが、今後は雇用難となるらしい。

スバリ村では、すでに40パーセントの現地雇用は無理な状況となっている。


私がウブド滞在を始めた1990年のテガランタン村の北端は、畦道だった。

ホテルはもちろん宿泊施設もレストランもなかった。

最初に知り合った日本語ガイドのワヤン・カルタ君が、テガランタン村の出身だった。

その後知り合った先住者の日本人女性が紹介してくれた男性も、テガランタン村の若者たちだった。

私が居酒屋をオープンしたいと相談すると、その中のひとりで学校関係に務めるオカちゃんという青年を「この人は、真面目だから」と推薦してくれた。

オカちゃんは、物件を探しから地主との交渉と奔走してくれた。

そんな経路で、プンゴセカン村に「居酒屋・影武者」を作る時の大工は、全員テガランタン村の人だった。

毎日、30分かけて歩いて通って来た。

電気が敷設されていない村。

テガランタン村には、自給自足で生活する専業農家が多かった。

オカちゃんのような公務員は少ない。

ウブドにレストランを経営する人、バティック工場を持っている人もいるにはいたが、村内に仕事の口はなく、ほとんどがプータロー。

オカちゃんの弟アグン・ライ君は、ナイトマーケットで屋台を経営していた。

もうひとり弟アノム君は「男子専科のミスター・バリ」に努めていた。

「居酒屋・影武者」のオープンには、カルタ君の妹とオカちゃんの妹を雇うことにした。

どちらも美人で、お客様からの評判はよかった。

工事現場の下働きをしたのが、ナイトマーケットが閉鎖になってからプータローだったコップリン君。

ギャンブル好きの青年だ。

粗末な飯場に寝泊まりし、私が現場をのぞくと、道路沿いの小川の水でバリ・コピを淹れてくれる。

あまり衛生的とは思えないが、好意を素直に受けた。

コップリン君はその後、「影武者」の厨房に入る。

サテを焼く仕事は、天職だった。

闘鶏に狂って退職。

今は、弟のグン・バラット君が継いでいる。

その後、プータローを長く続けたコップリン君は、今回、新しくオープンしたホテルに駐車係の就職が決まった。

真面目に仕事をしようとしている。

27年も経てば、コップリン君も大人になるだ。


テガランタン村の電気の敷設は、90年代初頭。

電話の普及は、携帯からひとっ飛びにインターネット。

ホテルの廃棄物は分別されて業者が引き取り、下水も完備されているという。

雇用環境が整ったエリアを都会と呼ぶとすれば、ウブドはすでに都会だ。

ウブドに隣接する村々にも、都会化の波が押し寄せて来ている。

テガランタン村もそのひとつだろう。

以前、若者に「将来の何になりたい?」と聞いたことがある。

その頃に彼らに、具体的に想像できる仕事がなかった。

今は、様々な事業があることを知り、専門学校も開設されている。

今後、バリ人が起業するビジネスが増えることだろう。

そうなって、生活水準は上昇する。

バリ島が裕福になっていくのは良いのだが、私のようなお金を持っていない者には住みにくくなっていく。


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2017年01月04日

Waterfall @Tegenungan & Blangsinga(108)

明けましておめでとうございます。

2017年。

普段の日々と、なんら変りのない年明け。

早いもので、4日が過ぎました。

今年もよろしくお願いします。


ということで「滝巡り・第二弾」。

昨年の12月29日実行しています。

ティブマナの滝の4日後です。

第二弾は、Tegenungan滝とBlangsinga滝。

実は、このふたつは同じ滝なのです。

同じ川にある滝だが、それぞれの入口の村の名前がついている。

Tegenungan滝は下から望み、Blangsinga滝は上に降り立つ。

場所は、ウブドからバイクで、Tegenungan村には約30分、Blangsinga村には35分ほどと近場だ。

まずはウブドの南部をゴアガジャに向かって走り、途中、トンクラ村に右折する。

トンクラ村からクムヌ村に抜ける。

流木を拾いに行く時に通る道で、私のお気に入りの村道だ。

クムヌ村から幹線道路を突っ切って行くとTegenungan村の滝がある。


Tegenungan.jpg


Blangsinga村の滝は、クムヌ村から幹線道路を左折して、橋を越え対岸の村い向かうためブラバトゥ村を右折する。

この先が、流木拾いに行っていたサバ海岸だ。

流木拾いは今、サバ海岸を止めて、隣りのプルナマ海岸が本拠地になっている。

Blangsinga村のプセ・デサ寺院のあるT字路を右折した先が滝の入口だ。


Blangsinga.jpg


この日、2カ所の入口から入場して、ふたつのコースを体験してきた。

■入場料:大人Rp10,000-(Blangsingaは子供料金:Rp5,000-徴収する)

2回にわけで報告しようと思ったのですが、メインの滝が同じ映像では有り難みがない。

一本の動画にして、アップしたので御覧下さい。

実際には、Tegenungan滝が先で、Blangsinga滝があとに行ったのですが、画面上、こちらの方がいいかなと思い逆に編集してみました。


動画の順に説明します。

Blangsinga滝は、今年になってオープンした新参だ。

入場券はカラー印刷で、パンフレットも用意してある。

入口が閑散としているのは、PRが不充分なのだろう。

1996年にあったバンジージャンプ場の入口は、この辺りにあったのだろうか。

1年も営業せず姿を消したところをみると、村にそぐわないとの意見でもあったのだろう。

私も反対していた一人だった。

バンジージャンプの基礎部分が今も残っていると、トランシーバーを持った村人が教えてくれた。

レストランは作らず、飲物の売店だけに営業を許可しているようだ。

我が村の滝に訪れてくれたツーリストを歓迎するかのように、すれ違う村人がみな笑顔を見せてくれる。

村上げて取り組んでいる姿勢に、好感を持った。

滝までは約3分。


Tegenungan滝は、以前は地元若者のデイトコースだった。

川に降りる手前から、美しい滝の眺望が見える。

展望できるワルンが、2〜3軒営業していた。

展望できる空地もあった。

知人がレストランを経営していて、何度が訪れたことがある。

訪れるツーリストが少なく、閉店してしまった。

10数年ぶりに訪れたTegenunganは、滝に降りる沿道にたくさんのレストラン&土産物店が軒を連ね、賑やかな観光地になっていた。

川原までは7分ほどで下りられる。





どうですか、Tegenungan村とBlangsinga村、どちらの景色も捨て難いでしょう。

両方見ることをお薦めします。

Blangsinga村から下りて、Tegenungan村から戻るというコースも考えられます。

アパ?で、スペシャル・ツアーを作りましょうか?


posted by ito-san at 16:48| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする