2017年02月27日

FOOD TRUCK PARK @ UBUD(119)

2月18日、サンギンガン通りのレストラン「インダス」横にて、食の祭典「FOOD TRUCK PARK」が開催された。

コーディネーターは、ウブド大通りにあるレストラン「CASA LUNA」と聞いている。

そう「インダス」は、カサルナの経営。

ライターズ・フェスティバルなど、手広く商売をしている欧米人女性がオーナー。

食べるものには興味がないが、覗いてみた。

私の目的は、イベントのタイトルにもなっているトラック(ワーゲン・バスetc)を改装した移動店舗を見ることだ。

「和食・影武者」で顔見知りになった日本人女性が「フード・トラックをやりたい」と言うのを聞いていたので、頼まれてもいない調査も兼ねている。

30年ほど前に、バニングカー&キャンピングカーを作る作業場を名古屋近郊の長久手町に持っていた。

そんなことから、改造車には思い入れがある。

改造した車やバイクをウブドで見かける。

インドネシアに車検の制度が、あるのかないのか?

きっと曖昧なのだろう。

会場には、数少なかったが、ユニークな改造車が目を楽しませてくれた。

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地価高騰で店舗の賃貸料も上がってるバリ。

こういった移動店舗のビジネスが増えていくことは考えられる。

空地を利用した軒下商売は、行商と同様にバリ人(インドネシア人)の得意とするところ。

イベントの開催も急増しているので、今後の需要が見込めるだろう。

インドネシア人には、ビジネス・チャンスだ。

VISA(入国査証)の必要な外国人は、簡単には手が出せない。

顔見知りになった日本人女性にも、伝えた。

移動店舗といえども、働くとなるとビジネス・ビザが必要。

そうなるば、会社を立ち上げなければならない。

それは、お金と時間がかかるというわけだ。

でも、彼女はやる気でいる。

もちろん私は、応援する。


今回の「FOOD TRUCK PARK」には、ウブドを中心にバリ南部の有名店が出店していた。

すべて、独立店舗を持っている有名店だった。

ちなみに有名どころは:

uma ubud by como=ウマ ウブド

la pancha mama=ラ パンチャ ママ

honeymoon bakery=ハネムーン ベーカリー

dounuts during=ドーナッツ ダーリン

secret gelato=シークレット ジェラート

seniman coffee=スニマン・カフェ

などなど。

ワイン屋も出てたね。

コーディネーターの力量を感じるイベントでした。

押し寄せるお客は、バリ人、インドネシア人、長期滞在の外国人、ツーリストと様々。

ライブ・ミュージック有りで、午後3時〜11時まで、盛り上がったいた。





posted by ito-san at 14:52| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月19日

ワインに詳しくない人間は、教養がない(118)

教養とはなんだろう。

ある本を読んで、こんなことを考えさせられた。

ある本とは「食がわかれば世界経済わかる」。

2008年の出版。

早稲田大学の教授が書いている。

全般的には、興味が惹かれる内容で、楽しく読ませて頂いた。

だが、ある部分でひっかかった。

それは、こんな内容だった。


『フランス人はシラク大統領の発言でわかるように、料理やワインについて教養のない人を軽く見るところがあります。

(これは前文にある「食い物のまずい国の人間は信用できない」の発言に由来している)

私もフランス人の友達が来たときは、お金をはたいて、できるだけ高いフランスワインを買ってきて飲ませることにしています。

ボルドーワインで最も高級と言われるシャトー・ペトリュスの古いビンテージものなどを飲ませたりすると、彼らに対しては歴然とした効果があるのです。

欧州復興開発銀行総裁のルミエールという、かつて私が財務官時代にフランス大蔵省次官だった友人がいますが、彼などもフランスの古いワインを出すと大変に喜びます。

食やワインに関する知識は何世紀も前から、ヨーロッパの貴族や王族の教養の一つになっています。

「食」というのは文化の中心ですから、「食」が貧しいということは文化が貧しいということになってしまいます。

シラク大統領ではありませんが、「イギリスだ、アメリカだと威張っているけれども、文化は貧しいではないか」と、いうことになるわけです。

特にフランス人はそうですが、ヨーロッパの人はこちらがワインや料理のことを知っていると、「こいつは教養がある」と思うようです。

食の話というのは向こうの人にとって、基本的教養の一つなのです。

従ってそれは外交上も重要で、外務省が機密費で高価なワインを買うのが良いことかどうかという問題はありますが、現実のはある程度必要なことなのでしょう。』

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ワインショップ@ウブド


こんな考え方の人がいるんですね。

驚きました。

食が文化だということは、私にもわかる。

しかし、その知識があるから教養があるとは、言い切れないのではないだろうか。

貧しい貧しくないは別として、ハンバーグもフライドチキンも文化のひとつと言える。

文化が貧しいと、教養がないのか?

料理&ワインのことが詳しくなくて、他人から「教養のない奴だ」と思われるとは考えられない。

私は料理にもワインにも興味がない。

「料理が出来ない人間はダメな奴」と言われたことがあるが、私だって味の良し悪しは別として、必要に迫られれば作る。

料理が苦手の母親が、教養のある子供を育てている。

ワインに詳しくなくても、社会人として尊敬を得ているし、教養も兼ね備えている人もいる。

榊原氏の住む環境が特殊なのか、私のような庶民には、当てはまらない話だ。

どこまでの知識を持っていれば、教養ある人なのか。

そんな物差しがあるとは思えないし。


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ワインショップ@ウブド


ワイン生産者と飲む消費者。

どこまで詳しい人をワイン通というのか?

ワインを飲まない人は、教養がない人なのか。

食については、料理する人、食べる人。

グルメ(食通)と言われる ”食い道楽” は、本当に舌がこえているのか。

私に言わせれば、ただの物知りなオタクだ。

嗜好関しては、好き嫌いに個人差があってもいい。

極論がもしれないが、のどがカラカラなら水も美味しい。

お腹がペコペコなら、何を食べても美味しい。

まさか、生産者や料理人は教養人じゃないということはないでしょう。

ワインはブドウから作るらしいから、生産者は農家だ。

野菜育てに奮闘している私は、消費者の知識より農業生産者の知識に軍配をあげる。

知識の量で人を評価してはいけないので、軍配も上げない方がいいな。

どちらにしても、富裕層を自認している人々の発想だろう。


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スーパーマーケット内のワインショップ


友人のひとりに、ワイン好きの男性がいる。

興味のない私には判断できないが、かなり詳しいとお見受けする。

その彼は、自慢するでもなく少し恥ずかしそうに蘊蓄を披露してくれる。

楽しく説明を聞くことができるのは、彼の人格の成せる技だ。

あくまでも自分の趣味として、他人に押し付けることなく楽しんでいる。

そんな物知りが近くに住んでいることが、嬉しい。

洋酒、日本酒に詳しい友人もいる。

彼らは、単なる物知りな人で、

ワインのことを知っていると、教養のある人になる。

それでいいのか。


教養は、人格を育てるひとつの要素=知識(データ)である。

手元にある辞書には、『社会人として必要な広い文化的知識、または、それによって養われる品位』とあった。

データは、他人に関心を持たせることはできても、人の役にたつことは少ない。

ワインの能書きを知らなくても生きていける。

知らないひとの方が多いと思う。

そんな人々をすべて教養のない奴と言い切ってよいのか。

そう言い切ってしまう人間のほうに、私は教養を感じない。

もうひとつ辞書には、『単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化、発展させるために学び養われる学問や芸術など』と書かれていた。

ワインに芸術的という表現を使うことがあったとしても、学問や芸術の分野のひとつとは思えない。

「重箱の隅を突つく」ような行為で気が引けるが、ちょっと気になる発言だったので、考えてみた。


posted by ito-san at 23:23| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月13日

イエ・プル=YEH PULUのレリーフ(117)

ウブドの東6キロほどのところに、「イエ・プル=YEH PULU」と呼ばれる遺跡がある。

場所は、ペジェン郡ブトゥルゥ(Bedulu)村。

ペジェンは、バリの王国(ワルマデワ)があった地域。

ワルマデワ王国は、ジャワのマジャパイト系王国に支配される14世紀まで400年間ほど続いた。

イエ・プルの遺跡は、14世紀の後半に彫られたレリーフ。

ペジェンに王国があった時代に残された、彫刻だと言われている。

高さ約3メートル、幅およそ25メートルの帯状の岸壁に彫られている。

マジャパイトの末裔が移り住み、都をバリ東部に移すと、ワルマデワ王国は忘れ去られた。

王国は痕跡も残さず姿を消し、多くの遺跡が埋もれてしまった。

イエ・プルは、水を意味する ”YEH” と容器を意味する ”PULU” からなっている。

「石の器から湧き出る聖水の泉」から付いた名称だろう。


「ウブッド十字路の番人〜バリ島今昔譚〜・霧の探訪者」の巻末に、レモンイエローのページがある。

マディ・クルトナゴロ 著・武内邦愛 訳。

ここに「トーキング・ストーンーイエ・プル」の話が載っている。

記憶が薄くなっているので再確認のため、20年ぶりに訪れることにした。

雨季の晴れ間を狙って、行ってみた。

ウブドからだと「ゴア・ガジャ」の遺跡を通り越してしばらく進むと、ギャニアールとペジェンを結ぶ幹線道路の十字路に出る。

真っすぐ進めば「サムアン・ティガ寺院」。

十字路を右折する。

500メートルほど進むと、左に大きくカーブする道路が交差する十字路がある。

ウブドの王宮のある変則十字路から、ここまで4キロほど。

バイクで、20分(渋滞に引っ掛からずに)。

イエ・プルへは、真っすぐ。

ここからは、ブトゥルゥ・ Batulumbang村。

さらに10分ほど走る。

イエ・プルの小さな看板を左折すると、道は行き止まり、料金場が見える。

バイクを止め、入場料を払って、階段を下りる。

■入場料:Rp15,000(大人)/Rp7,500(子供)

■駐車料金:Rp5,000(車)/Rp2,000(バイク)

■営業時間:10.00am〜6.00pm


バンガローに続くエントランスのような細道を、水田を左手に見ながら進む。

沐浴場を通り越し、樹々に囲まれた細道を、さらに進む。

清潔なトイレも設置されていた。

細道に寄り添うように流れる川のある、絶好の散歩道。

記憶には、この風景が残っていない。

あの頃、普通にあった景色なので、覚えていないのだろうか。

ウブドで見かけることの少なくなった、貴重な風景に感動している。

木々の林を抜け、目の前に水田が広がると、すぐそこはイエ・プル遺跡だ。

10分ほど歩いて、レリーフの入口に到着した。

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純朴な男

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トゥアック売りと美女

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老婆

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司祭とその娘と婿

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小太りの少年

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騎手

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戦い

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さらなる戦い

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カエルとヘビ

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ガネーシャ

レリーフの解説は「ウブッド十字路の番人〜バリ島今昔譚〜・霧の探訪者」を読んでください。


ガネーシャの奥の岸壁は、修行僧が瞑想したと思われる洞穴だ。

洞穴の正面に、イエ・プルの由来である、石の器から湧き出る聖水の泉がある。

不思議なことに、この場所は記憶に残っている。

以前は、池から顔を覗かせた直系40センチほどの円筒から、清水が湧き溢れていた。

今は、湧き水が少なくなったのか、池に水は満たされていない。

水は、脇から出ているパイプから流れている。

あの時は、女性のプマンク(僧侶)から聖水を頂いた。

今日は、寺守の老婆から花をもらい、お祈りをさせてもらった。

老婆に許しを得て、洞穴に腰をおろしてみた。

いにしえの修行僧の気持ちにはなれなかったが、気持ちがいい場所だった。



posted by ito-san at 18:50| 愛知 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月10日

変貌するウブドのホテル事情(116)

「星のや」が、ウブドの北に位置するペジェン村に、1月20日オープンした。

日本の情報に疎い私は知らなかったが、友人、知人に訊くと、

「高級なおもてなしで、料理も美味しい。一度は行ってみたい旅館&ホテル」

「20年くらいで急成長した日本旅館」

と、日本で人気な旅館&ホテルのようだ。

バリ島ペジェンにオープンした「星のや リゾート」は、私には、一生宿泊することのない高級ホテルだが。

私が下働きのする「アパ?情報センター」が「星のや リゾート」の営業方針と同意するところがあったようでツアーのいくつかをジョイントしてくれた。

アパ?の責任者・ワヤン君のバリを愛する心意気もかってくれたようだ。

「都会化するウブド地域(109)」で報告したように、バリ島のホテルラッシュは高級化へ進んでいる。

私が訪れた1990年代には想像もできない勢いだ。

27年も経っているのだから、変貌もするだろう。


山間の田舎の村ウブドに、旅行者が最初に泊まったのはウブド王宮だった。

ゲストとしての宿泊で、本当の意味でのホテルではない。

1925年、ウォルター・スピースが初めて訪れた時の宿泊施設は、ウブド王宮だと思われる。

一般の旅行者を最初に泊めたホテルは、ムティアラとチャンプアンと聞いている。

以前、聞き込みをしていた時、1955年のオープンと聞いた。

ムティアラは、ウブドの変則十字路にあるワンティラン(集会場)の南前にあった。

客室は8室。

主に、ジャカルタの旅行社から送られた旅行者だったそうだ。

ホテル・チャンプアンは、ウブド王宮の所有。

このホテルは、王宮がウォルター・スピースに提供した土地に彼が建てた(1928年)住宅兼アトリエを改築してオープンしたもの。

サラスワティの開業は、1978年。

「プリ・アニアール」もホテルとしてオープンしている。

高級ホテル・イバのオープンは、1995年。

元チャック・インと呼ばれた小さなバンガローが始まり。

ウブドの王族が所有だが、現在、経営は譲渡している。

名称も「Warwick Ibah Luxury Villas & Spa」に変名した。


節約旅行者・バックパッカー御用達の宿は、ホームステイと言う。

ホームステイと言っても、家族とともに同じ家屋に泊まって世話になるというわけでない。

別棟を借りる民宿のようなもの。

ホームステイの第一号は、モンキーフォレスト通りにある「オカ・ワティ」。

「ムスティカ・ロスメン」も古いと訊いているが、所在が確認できない。

ロスメンは、一般的にインドネシアでは商人宿のような使われ方をしているが、ウブドではホームステイと同意語。

私が最初に泊まったのは、カジェン通りの1番地「ロジャーズ・ホームステイ」だった。

「ロジャーさんの民宿」という意味だ。

カジェン通りは500メートルほどの長さで、左右に民家が並ぶ。

民家のほとんどが、ホームステイを商っている。

門や塀に、宿を商っているとわかる小さな看板が掛かっている。

民宿だからホームステイでよいと思うのだが、ロスメン、ゲストハウス、アコモデーション、ハウス、イン、ペンッションなどとさまざまな名称がついている。

観光客の目を引くために、名称で差別化をしているのだろう。

民家と言っても敷地が広いので、名古屋の兎小屋生活者だった私には屋敷に見える。

日本の旧農家にも似た、趣だ。

屋敷地域を外れて建てられた宿には、バンガロー、コテージ、ヴィラ、ロッジ、ホテルなどと命名されている。
こちらは、台所の設置された宿泊施設。

価格が、ホームステイより高く設定されている。

滞在を始めた当初、ウブドに何軒の宿があるか調べたことがある。

100件ほど調べたところで調査を中止した。

次からつぎへと宿泊施設が増えてゆくので、切りがないのだ。

今思えば、ウブドの人気が加速度的に上昇していた時期だった。

高級ホテルも、差別化のために変名してイメージチェンジを計っている。


近頃は、リゾートと付く名称が多い。

ホテル○○ではなく、○○リゾートとなる。

バリのエステサロン、スパの人気は近年、目を見張るものがある。

ウブドもご多分にもれず、スパの出店は多い。

ホテルの多くがスパを併設するようになった。

スパ設備があるのをアピールしたいホテルは、スパを加えて「リゾート&スパ」と名前を変えて、顧客の確保に努力している。

リゾート&ヴィラだったり、スイート&ヴィラだったり、リトリート&スパだったり。

そのほかには、リザーブ、ブティック、スタイル、コンベンション、ラグジュアリー(luxury)なんてわけのわからない単語がついているホテルもある。

例えば、ホテル・イバが「Warwick Ibah Luxury Villas & Spa」になったように。

蛇足だが、ラグジュアリー(豪華なさま、贅沢なさま)を「ランジェリーかと思った」、なんてトンチンカンなことを言う知人がいる。

ランジェリー(lingerie=装飾性の高い女性用下着)を知っている、お前が怪しいゾ。

同じ感想を抱いてしまった私も、怪しいオヤジの一人かもしれない。

今回は、私にまったく縁のないホテル事情を「変貌するウブドの宿泊施設」で振り返ってみました。






posted by ito-san at 17:13| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月08日

珊瑚でこさえた ”壁飾り”(115)

雨季も終盤。

お約束通り、サコ暦(Saka)の第9番目の月・Sasih Kasanga (カサンゴ)は、強風をともなう大雨が降る。

西暦では、2月頃にあたる。

この数日、雨が降っていない。

今日で4日目。

晴れ間を見つけて、洗濯物を干している光景を見かける。

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降り続く雨で、流木拾いにも出かけられない。

そんなことから、モビールの飾りに珊瑚を使っている。

隣島ロンボク・ギリ諸島に旅に行った知人が、お土産に持って来てくれた珊瑚。

珊瑚は、腔腸(こうちょう)動物のサンゴ虫が作る石灰質の骨組(と、何かに書いてあった)。

もちろん生きている珊瑚ではなく、海に打ち上げられた珊瑚ですよ。

だから、珊瑚の死骸です。

近頃、不心得のダイバーが増えて、踏まれた珊瑚が死んでいる。

私が住もうと思っていた1990年の海底とは、ほど遠いほど珊瑚は激減した。

その頃、珊瑚の持ち出しは禁止だと聞いた覚えがある。

落ちている珊瑚も少なかった。

今は、許されているのかもしれない。

大量に落ちているし。

どちらにしても、私には助かっている。

苦肉の策の珊瑚だが、これが以外とマッチした。

同じ海から拾ったものだから、当然と言えば当然かもしれない。

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今回は、大作に挑戦した。

といっても、縦90センチメートル×横80センチメートルほどの壁掛けだが。

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ロンボク島ギリ諸島を旅する知人、友人に告ぐ。

私にお土産なら、珊瑚の死骸でいいですよ。

よろしく。

posted by ito-san at 16:38| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする