スバリ村のグスティ君がリーダーを務める、伝統芸能「ジョゲッ・ピンギタン」が、今年の「バリ・アート・フェスティバル」に出場することが決まったらしい。
スバリ村のジョゲッ・ピンギタンとは、27年来の付き合い。
伝統芸能の保存を願う私としては、嬉しい限りだ。
バリ・アート・フェスティバルは、毎年6月中旬の土曜日から7月中旬の土曜日までの一ヶ月間開催される。
今年は39回目。
現地の人に訊ねる時は「ペーカーベー=P・K・B」と言わないと理解してもらえないので、ご注意。
P・K・Bは、「Pesta Kesenian bali=フェスタ・クスニアン・バリ」の短縮語。
P・K・B出場のお披露目と最終審査が18日にギャニアール市で行われるらしい。
私は、グスティ君のインドネシア語をそう理解した。
当日が近くなって、詳しい情報がフェスブックのウブド・コミュニティ(https://www.facebook.com/ubudcommunity)から入手できた。
4月15日から19日まで開催されている「ギャニアール市制記念行事」のパレードに出場することがわかった。
テガララン郡のスバリ村を含んだクリキ地域は、18日に参加する。
パレードの練習は、クリキ村の公道で2度行っている。
ウブド・コミュニティの情報には、ギャニアール市制246年と書かれていた。
これは、246回目という意味でははないだろう。
単純に計算して2017年から246年を引くと1771年。
初回の1771年は、バリ島は、クルンクン王朝から各王国が分離独立して9王国になった時代。
ギャニアールは、その9王国の一つ。
王国時代に、使われた暦はウク暦ウク暦かサコ暦だったろう。
西暦を使って誕生日を祝っていたとは思えない。
歴史を振り返り、ギャニアールの地に王国ができてから西暦で246年を経たという意味と理解しよう。
グループの正装一式が、サポーターの私にも用意された。
そこまでされたら、行列に参加しないわけにはいかないだろう。
ガムラン隊を乗せた台車を押す覚悟はできた。
スバリ村のグループの登場は、午後2時30分。
この時間に間に合えば良いだろうと考えていたが、グスティ君は「正午12時には始まるので、それより前に到着していたほうがいいよ」とアドバイスする。
パレードは、モニュメントのある十字路からスタートして、王宮のある十字路までの大通りを東進する。
道路が閉鎖され、混雑が予想されるので、ウブドを午前11時に出発することにした。
グスティ君もそうだが、バリ人は往々にして自分の村が中心で、他の村のことは興味が薄く全体を把握していないことが多い。
結果は、スケジュールもわからず、ただただ、熱い陽射しの中で、待ちわびることになる。
11時30分、ギャニアールに到着。
道路は、まだ閉鎖されていない。
大通りの沿道には、ペンジョールが飾られ、大きなゲートが道をまたいで設置されていた。
沿道の立て看板には、JKPI(jaringan kota pusaka indonesia=インドネシア遺産のネットワーク)とある。
人影は疎らだ。
いつ始まるのかまったく予想できない。
バイクを町外れに止める。
下見のための散策。
王宮前の広場では、植木市と民芸品の展示ブースが作られていた。
午後1時を過ぎた辺りから、出演者と思われる衣裳の一団を見かけるようになった。
午後2時を過ぎると、あちこちに小さな人垣ができていた。
知合いのバリ人から声を掛けられ「スタートは4時だよ」と聞いた時は、もう帰ろうと思った。
正装をもらった手前、そうもいかない。
グスティ君の一団を見るまで、もう少し辛抱しよう。
嬉しいことに、行列は市場前を午後3時にスタートした。
しかし行列は、このあと4時間も続くのであった。
沿道は、観衆で埋め尽くされた。
椅子を求めて入ったワルンのイブは「毎年始まるのは3時だよ」と教えてくれた。
「11時30分から来ている」と言うと「午後2時30分に来れば、いいよ」と、断言された。
巨大なバロン・ケケが登場。
全長10メートルほどのラクササ・バロン ケケ(Barong Ketket Raksasa)に度肝を抜かれた。
行列は、王宮のある十字路手前でパフォーマンスが上演する。
この日は、ギャニアールの7つの郡と7つの州から芸能が参加している。
テガララン郡は、最後尾だった。
彼らもこの時間まで、待たされたのだ。
お疲れさま。
このあとワンティラン前のステージでは芸能が上演されるようだが、ギャニアール滞在8時間を経過して私はかなり疲れている。
残念だが、ウブドに戻ることにした。
次回、来るとすれば、スケジュールを熟知したうえで午後2時30分に着くようにしよう。
それとも、パレードはパスして、夜間ステージで上演される芸能を鑑賞しようか。
2017年04月23日
2017年04月20日
ある踊り子の愛の奇跡「 ニ・ポロック」(127)
入手の難しい本が手に入った。
毎年2月か3月にあるバリの祭礼日ニュピに合わせてバリを訪れている知人が持って来てくれた。
1990年1月11日出版の中古品を、古本屋で見つけてくれた。
知人の名前は、田尾さん。
2ヶ月ほど滞在していく。
彼は、バリ関係の本を見つけるとお土産に持って来てくれる。
今回の本の表題は、「ある踊り子の愛の奇跡 ニ・ポロック」。
財団法人 大同生命国際文化基金(アジアの現代文芸)から発行されている。
著者:ヤティ・マルヤティ・ウィハルジャ。訳者:山根しのぶ。
ニ・ポロックの名前は、知っていた。
ベルギー人画家ル・マーヨールと結婚した、バリ舞踊レゴンの踊り娘として。
サヌール海岸に美術館があり、ubud-chinbotu「ウブド沈没」以前の旅で訪れことがある。
その時は「サヌール・ビーチ・ホテル」、現在の「インナ・グランド・バリ・ビーチ」に宿泊した。
かれこれ30年以上前の話だ。
ル・マーヨールは、1932年にバリを訪れている。
その時に、モデルになったのが当時15歳のニ・ポロックだった。
3年後に結婚している。
歳の差37。
1946年、サヌール海岸に居を構えた。
ル・マーヨール:1880〜1958。
ニ・ポロック:1917〜1985。
彼女の半生を綴ったのが「ある踊り子の愛の奇跡 ニ・ポロック」。
読んでいて、ル・マーヨールの情熱が伝わる。
彼らの住居が、ル・マーヨール美術館として一般公開されている。
「ニ・ポロック」を読み終えて、にわかに美術館を訪れてみたくなった。
サヌール訪問は、昨年9月26日、サヌール沖に難破した船の石碑を見に行って以来。
(※その時の話は「バリ島物語・コミック版が出版(87)」に書いた)
美術館の開館時間を調べるために、ガイドブック「地球の歩き方・バリ島」を開いた。
ガイドブックには、画家の名前をル・メイヨールと表記している。
「ニ・ポロック」の本の日本語訳には、ル・マーヨールとある。
スペルは、Le Mayer。
チケット売り場の女性は「ル・マーヨール」と発音した。
どちらでも問題はないのだが、ちょっと気になったので記録しておいた。
展示遺作は、89点となっている。
開館時間と入場料が変っていたので訂正しておく。
金曜日をのぞいて、毎日開館08.00〜15:30。
いやいや、祝祭日は休館のようだ。
金曜日は、08.00〜12:30と早じまいだ。
入館料は、ツーリスト価格・大人Rp50,000-子供Rp25,000-。
ル・マーヨール美術館は、30年前となにも変らず、そこにあった。
海岸端に、ひっそり建つ一軒家。
美術館はサヌール唯一の観光スポットだが、観光客の目には入らないようだ。
海岸には、マリンスポーツと海水浴場の観光客。
その観光客を当て込んだ土産店が並ぶ。
付近の景色は変っているのだろうが、私の記憶は曖昧だ。
美術館の管理は、行き届いているようだ。
思っていたよりも、大きな建物ではなかった。
海岸の村・サヌールで、愛する女性をモデルに絵筆をとって一生を終えたル・マーヨール。
1932年から、インドネシア激動を時代を肌で感じながらも自由奔放に描きなぐった絵は、どれも力強い。
何故か、勇気をもらった気がした。
毎年2月か3月にあるバリの祭礼日ニュピに合わせてバリを訪れている知人が持って来てくれた。
1990年1月11日出版の中古品を、古本屋で見つけてくれた。
知人の名前は、田尾さん。
2ヶ月ほど滞在していく。
彼は、バリ関係の本を見つけるとお土産に持って来てくれる。
今回の本の表題は、「ある踊り子の愛の奇跡 ニ・ポロック」。
財団法人 大同生命国際文化基金(アジアの現代文芸)から発行されている。
著者:ヤティ・マルヤティ・ウィハルジャ。訳者:山根しのぶ。
ニ・ポロックの名前は、知っていた。
ベルギー人画家ル・マーヨールと結婚した、バリ舞踊レゴンの踊り娘として。
サヌール海岸に美術館があり、ubud-chinbotu「ウブド沈没」以前の旅で訪れことがある。
その時は「サヌール・ビーチ・ホテル」、現在の「インナ・グランド・バリ・ビーチ」に宿泊した。
かれこれ30年以上前の話だ。
ル・マーヨールは、1932年にバリを訪れている。
その時に、モデルになったのが当時15歳のニ・ポロックだった。
3年後に結婚している。
歳の差37。
1946年、サヌール海岸に居を構えた。
ル・マーヨール:1880〜1958。
ニ・ポロック:1917〜1985。
彼女の半生を綴ったのが「ある踊り子の愛の奇跡 ニ・ポロック」。
読んでいて、ル・マーヨールの情熱が伝わる。
彼らの住居が、ル・マーヨール美術館として一般公開されている。
「ニ・ポロック」を読み終えて、にわかに美術館を訪れてみたくなった。
サヌール訪問は、昨年9月26日、サヌール沖に難破した船の石碑を見に行って以来。
(※その時の話は「バリ島物語・コミック版が出版(87)」に書いた)
美術館の開館時間を調べるために、ガイドブック「地球の歩き方・バリ島」を開いた。
ガイドブックには、画家の名前をル・メイヨールと表記している。
「ニ・ポロック」の本の日本語訳には、ル・マーヨールとある。
スペルは、Le Mayer。
チケット売り場の女性は「ル・マーヨール」と発音した。
どちらでも問題はないのだが、ちょっと気になったので記録しておいた。
展示遺作は、89点となっている。
開館時間と入場料が変っていたので訂正しておく。
金曜日をのぞいて、毎日開館08.00〜15:30。
いやいや、祝祭日は休館のようだ。
金曜日は、08.00〜12:30と早じまいだ。
入館料は、ツーリスト価格・大人Rp50,000-子供Rp25,000-。
ル・マーヨール美術館は、30年前となにも変らず、そこにあった。
海岸端に、ひっそり建つ一軒家。
美術館はサヌール唯一の観光スポットだが、観光客の目には入らないようだ。
海岸には、マリンスポーツと海水浴場の観光客。
その観光客を当て込んだ土産店が並ぶ。
付近の景色は変っているのだろうが、私の記憶は曖昧だ。
美術館の管理は、行き届いているようだ。
思っていたよりも、大きな建物ではなかった。
海岸の村・サヌールで、愛する女性をモデルに絵筆をとって一生を終えたル・マーヨール。
1932年から、インドネシア激動を時代を肌で感じながらも自由奔放に描きなぐった絵は、どれも力強い。
何故か、勇気をもらった気がした。
2017年04月14日
ハンディタイプのウォシュレット(126)
ウブドに滞在されたことのあるあなたに、お尋ねします。
ホテルやレストランのトイレで、便器近くの壁にノズルの付いたホースが掛かっているのを、目にしたことはありませんか。
これは、便座に腰を下ろしたまま、手に取ることができます。
ホースのノズルからは、通常、シャワーのように水が出て来ます。
さて、このホースは何に使うものでしょうか?
バリのトイレは、マンディ場として水浴びもできる構造になっていることが多い。
シャワーとして使ってもよいのでしょうが、水圧が強いのと、常にノズルに手をかけていないと水が止まってしまうので使いかっては悪いです。
もうお分かりですね。
そうです、ハンディタイプのウォシュレットだったんです。
その昔バリの便器は、日本同様の座り込みタイプだった。
トイレ内の片隅に水槽が設置されていて、水をヒシャクで掌にすくってお尻を洗っていた。
この頃、「どちらを向いて座ったらよいのか? 」とよく訊かれた。
右利きの人は右手にヒシャクを持って、左手で洗うだろう。
だから水槽は、出来れば右側に控えて欲しい。
左利きの人は、逆になる。
ダメダダメダ、バリでは、左利きの人も右手で持たなくては。
これはバリの信仰上のルールだ。
右手は清浄、左手は不浄として認識されている。
水槽の位置は、ところによって違っていた。
壁に向かって座るのか、壁を背にして座るのか、悩んだものだ。
座り込み便器の形状を見ると、壁を背にするようだ。
うまく水をかけることができず、お尻をベタベタに濡らした。
パンツは濡れたままだが、すぐに乾く。
私はOKだったが、濡れたままを嫌がる人も多かった。
この頃のウブド、一般家庭でも水槽の姿は消え、ハンディタイプのウォシュレットが普及しはじめている。
便座に付いたウォシュレットは、高級ホテルと一部富裕層にしか普及していない。
なにげなく使っていたが、右利き専用なのか右側に設置されていることが多い。
先日友人から、今まで、疑問にも思わなかったことを訊かれた。
それは、ウォシュレットのハンドルの持ち方だった。
「シャワーのハンドルの持ち方に困っている知人がいる」と友人から聞いた。
目的のホールにあたらず、勢い良く後ろに飛ばして、便器まわりを水浸しにしてしまうらしい。
時には、下着をベタベタに濡らしてしまうこともあるという。
私は下着など濡れてもかまわないので、考えもしなかった。
ハンドルの持ち方で困っている人がいるのに驚いた。
ウブド滞在の達人と噂される私としては、検証する必要があるだろう。
さっそく検証してみた。
持ち方には、3種類の基本形ある(右利きの場合)。
持ち方基本形1
持ち方基本形2
持ち方基本形3
指の添え方に違いがあるだろうが、たいていこの3つのパターンに当てはまるだろう。
さてあなたは、どの持ち方が正しいと思いますか?
?????????
これには、正解はありません。
得意不得意があって、人それぞれの方法でかまわない。
自分の使い易い方法を探そう。
他人がどんな方法で使っているか、気にしない。
こんな取るに足らないことで、悩まないでください。
ちなみに私は、基本形の2番目に、親指を添えた形です。
諸君の健闘を祈る。
ホテルやレストランのトイレで、便器近くの壁にノズルの付いたホースが掛かっているのを、目にしたことはありませんか。
これは、便座に腰を下ろしたまま、手に取ることができます。
ホースのノズルからは、通常、シャワーのように水が出て来ます。
さて、このホースは何に使うものでしょうか?
バリのトイレは、マンディ場として水浴びもできる構造になっていることが多い。
シャワーとして使ってもよいのでしょうが、水圧が強いのと、常にノズルに手をかけていないと水が止まってしまうので使いかっては悪いです。
もうお分かりですね。
そうです、ハンディタイプのウォシュレットだったんです。
その昔バリの便器は、日本同様の座り込みタイプだった。
トイレ内の片隅に水槽が設置されていて、水をヒシャクで掌にすくってお尻を洗っていた。
この頃、「どちらを向いて座ったらよいのか? 」とよく訊かれた。
右利きの人は右手にヒシャクを持って、左手で洗うだろう。
だから水槽は、出来れば右側に控えて欲しい。
左利きの人は、逆になる。
ダメダダメダ、バリでは、左利きの人も右手で持たなくては。
これはバリの信仰上のルールだ。
右手は清浄、左手は不浄として認識されている。
水槽の位置は、ところによって違っていた。
壁に向かって座るのか、壁を背にして座るのか、悩んだものだ。
座り込み便器の形状を見ると、壁を背にするようだ。
うまく水をかけることができず、お尻をベタベタに濡らした。
パンツは濡れたままだが、すぐに乾く。
私はOKだったが、濡れたままを嫌がる人も多かった。
この頃のウブド、一般家庭でも水槽の姿は消え、ハンディタイプのウォシュレットが普及しはじめている。
便座に付いたウォシュレットは、高級ホテルと一部富裕層にしか普及していない。
なにげなく使っていたが、右利き専用なのか右側に設置されていることが多い。
先日友人から、今まで、疑問にも思わなかったことを訊かれた。
それは、ウォシュレットのハンドルの持ち方だった。
「シャワーのハンドルの持ち方に困っている知人がいる」と友人から聞いた。
目的のホールにあたらず、勢い良く後ろに飛ばして、便器まわりを水浸しにしてしまうらしい。
時には、下着をベタベタに濡らしてしまうこともあるという。
私は下着など濡れてもかまわないので、考えもしなかった。
ハンドルの持ち方で困っている人がいるのに驚いた。
ウブド滞在の達人と噂される私としては、検証する必要があるだろう。
さっそく検証してみた。
持ち方には、3種類の基本形ある(右利きの場合)。
持ち方基本形1
持ち方基本形2
持ち方基本形3
指の添え方に違いがあるだろうが、たいていこの3つのパターンに当てはまるだろう。
さてあなたは、どの持ち方が正しいと思いますか?
?????????
これには、正解はありません。
得意不得意があって、人それぞれの方法でかまわない。
自分の使い易い方法を探そう。
他人がどんな方法で使っているか、気にしない。
こんな取るに足らないことで、悩まないでください。
ちなみに私は、基本形の2番目に、親指を添えた形です。
諸君の健闘を祈る。
2017年04月11日
スグリオ川の増水 @ ワルン・ソパ(125)
昨日は一日、晴天だった。
今日も、今のところ青空だ。
一昨日の9日は、曇天と哀しいほどの雨模様。
午後2時30分、居候先を出た時に、雨は降っていなかった。
ウブド中心部に向かって南下すると、すれ違うバイク乗りたちは全員雨合羽を着ていた。
この先は、雨なんだろう。
バイクを道端に止めて、雨合羽をかぶる。
マヌマン通りで大雨に見舞われた。
こんな集中豪雨をゲリラ豪雨と表現するらしい。
行き先を変更して、スグリオ通りに避けると十字路は洪水だった。
インドネシア語で、洪水のことは「Banjir=バンジール」と言う。
道路面より20センチほど増水している。
「ワルン・ソパ」に避難することにした。
週に2〜3度、WiFiを利用しているレストランだ。
バイクを止めると、入口には道路を見つめるスタッフが鈴生り。
雨合羽を着たまま、席を確保する。
リュックを椅子に置いて、入口に戻る。
目の前のスグリオ通りは、激流のスグリオ川と化していた。
時折、自動車が散水車のように水をまき散らして走り去る。
この風景は、以前からあったウブドの風物詩。
ソパの客は、すべて旅行者。
一応に、洪水風景をカメラにおさめていた。
彼らの国では、珍しい光景なんだろうな。
時は、午後3時少し前。
ジョーク好きなバリ人の知人が「これって、観光にできるかな?」なんて、私と同じ発想をしていたのに苦笑した。
夕方、家路につくと、タマン村スリウェダリ通りの豪華なペンジュールの一本が横になっていた。
この日は、ウブド各地でバンジール(洪水)とペンジュールの倒壊があったことだろう。
昔々。
と言っても27年ほど前のこと。
マヌマン通りで大雨に見舞われた時、ワンテラン(集会場の建物)に逃げ込み、雨宿りをした。
ヤシ殻の流れる風景をボ〜と見ながら、3〜4時間過ごしたことを思い出す。
数年後、同じワンテランで雨宿りをしていた。
雨宿りで一緒になった日本人女性ツーリストに「この雨、どのくらいで止みますかね?」と訊かれた。
天気予報官でもないのに、その時私は、「3時間もすれば止みますよ」と答えていた。
女性は「そうですか」と素直に頷いて雨宿りを再開した。
みんなノンビリしていた。
今夜は満月。
今のところ晴。
満天の星が見られるといいな。
2017年04月01日
プンゴセカン村ビンギン大樹の倒壊(124)
3月28日、サコ暦の新年(1939年)・ニュピ(=NYEPI) は、つつがなく明けた。
ニュピは、1991年から25回ほど体験していいる。
その日1日、労働(アマティ・カルヤ)、通りへの外出(アマティ・ルルンガン)、火の使用(アマティ・グニ)、殺生(アマティ・ルラングアン)などが禁じられている。
火は、現代では電灯も含まれる。
この4つを守り、精神を集中させ、心を穏やかにし、世界の平和、最高神イダ・サンヒャン・ウィディに祈るのが、バリ人の信仰するヒンドゥーの慣習だ。
前夜は、村々でオゴホゴ神輿が繰り出す。
オゴホゴを見学するのも、25回ほどということになる。
昨年(2016)は、タバナンの山中の村で、トランスのあるオゴホゴ行列を見学した。
一昨年(2015)は、南米コロンビアに旅立つ前の日本一時帰国で、バリに居なかった。
その前の年(2014)は、テガランタン村のオゴホゴ行列に参列した。
その前の前の年(2013)は、プリアタン村を見学。
ウブドのオゴホゴを見学するのは、5年ぶりになる。
観光客も多いが、村の人口も増えているようで、凄い人出だ。
ポリウレタンや発泡スチロールなどの材料の入手が用意になり、造作が繊細になってきている。
着色は、スプレーで吹き付けているようだ。
オゴホゴの数も、年々増えている。
動画は、ウブドの十字路。
こんな神輿が何十体も、変則十字路で奇声をあげる。
熱気が伝わるでしょうか。
これより10日ほど前のこと。
知人から「プンゴセカン村の中心地にそびえ立っていたビンギンの大樹が、切られていたよ」と情報があった。
ウブドの南に位置するプンゴセカン村とは、縁が深い私。
切られた原因を探る義務がある(と思っている)。
さっそく出かけて行った。
遠くから見つけられるビンギンは、ランドマークの役目をしている。
大きな影を作る鬱蒼とした大樹は、威厳がある。
大樹に宿る精霊は、この地の人々の生活や時の移り変わりを見てきたに違いない。
鬱蒼と茂っていたころのビンギン
現場に立ってビックリ。
畏敬の念を抱かせた大樹は、見るも無惨な骨骨の老木になっていた。
早朝に開かれ市に、日陰がないのは辛いだろう。
朝市は、村人のコンビニエンス・ストアー&井戸端会議の場。
大樹にサロン(腰布)を巻いているプマンク(僧侶)に「どうしたんですか?」と聞いてみた。
2月4日のTumpek Landopの日に、大きな音をともなって倒れたと言う。
樹齢1000年。
寿命だったのか?
排気ガスに負けたのか?
根っこをコンクリートで固められ、水分の補充が充分に行き届かなかったのか?
こうして悪いところを切っておけば、また、生き返るそうだ。
ビンギンの生命力に期待しよう。
無惨な骨骨になってしまったビンギン
プンゴセカン村のビンギン大樹には、こんなエピソードがある。
昔々、プンゴセカン村に3人組の泥棒が入った。
村人に追い詰められた泥棒は、ビンギンに上り枝の茂みに身を隠した。
時間が経てば泥棒は観念して下りてくるだろうと、村人は、樹の下で待った。
しかし、1昼夜が過ぎ、2日3日と過ぎても泥棒は下りてこない。
結局、そのまま姿を現さなくなった。
村人たちは口々に、この樹に棲みついているハントゥー(妖怪)に喰われてしまったのだと噂する。
このハントゥーは、夜な夜な樹から下りてきては鶏を食べてしまうそうだ。
顔は狼、身体は猫、尻尾は長く、足は犬のようだが3本しかない、という奇怪な動物だそうだ。
さてさてそんなエピソードのあるビンギン大樹が、丸裸になってしまった。
ハントゥーはどうしてたんでしょうね。
枝が払われ、朽ちた幹がカットされて、慌ててどこかへ移住したのかな。
緑が豊富なったら、戻ってきて欲しいね。
※バリ島見聞録「ビンギン (Bingin)」
ニュピは、1991年から25回ほど体験していいる。
その日1日、労働(アマティ・カルヤ)、通りへの外出(アマティ・ルルンガン)、火の使用(アマティ・グニ)、殺生(アマティ・ルラングアン)などが禁じられている。
火は、現代では電灯も含まれる。
この4つを守り、精神を集中させ、心を穏やかにし、世界の平和、最高神イダ・サンヒャン・ウィディに祈るのが、バリ人の信仰するヒンドゥーの慣習だ。
前夜は、村々でオゴホゴ神輿が繰り出す。
オゴホゴを見学するのも、25回ほどということになる。
昨年(2016)は、タバナンの山中の村で、トランスのあるオゴホゴ行列を見学した。
一昨年(2015)は、南米コロンビアに旅立つ前の日本一時帰国で、バリに居なかった。
その前の年(2014)は、テガランタン村のオゴホゴ行列に参列した。
その前の前の年(2013)は、プリアタン村を見学。
ウブドのオゴホゴを見学するのは、5年ぶりになる。
観光客も多いが、村の人口も増えているようで、凄い人出だ。
ポリウレタンや発泡スチロールなどの材料の入手が用意になり、造作が繊細になってきている。
着色は、スプレーで吹き付けているようだ。
オゴホゴの数も、年々増えている。
動画は、ウブドの十字路。
こんな神輿が何十体も、変則十字路で奇声をあげる。
熱気が伝わるでしょうか。
これより10日ほど前のこと。
知人から「プンゴセカン村の中心地にそびえ立っていたビンギンの大樹が、切られていたよ」と情報があった。
ウブドの南に位置するプンゴセカン村とは、縁が深い私。
切られた原因を探る義務がある(と思っている)。
さっそく出かけて行った。
遠くから見つけられるビンギンは、ランドマークの役目をしている。
大きな影を作る鬱蒼とした大樹は、威厳がある。
大樹に宿る精霊は、この地の人々の生活や時の移り変わりを見てきたに違いない。
鬱蒼と茂っていたころのビンギン
現場に立ってビックリ。
畏敬の念を抱かせた大樹は、見るも無惨な骨骨の老木になっていた。
早朝に開かれ市に、日陰がないのは辛いだろう。
朝市は、村人のコンビニエンス・ストアー&井戸端会議の場。
大樹にサロン(腰布)を巻いているプマンク(僧侶)に「どうしたんですか?」と聞いてみた。
2月4日のTumpek Landopの日に、大きな音をともなって倒れたと言う。
樹齢1000年。
寿命だったのか?
排気ガスに負けたのか?
根っこをコンクリートで固められ、水分の補充が充分に行き届かなかったのか?
こうして悪いところを切っておけば、また、生き返るそうだ。
ビンギンの生命力に期待しよう。
無惨な骨骨になってしまったビンギン
プンゴセカン村のビンギン大樹には、こんなエピソードがある。
昔々、プンゴセカン村に3人組の泥棒が入った。
村人に追い詰められた泥棒は、ビンギンに上り枝の茂みに身を隠した。
時間が経てば泥棒は観念して下りてくるだろうと、村人は、樹の下で待った。
しかし、1昼夜が過ぎ、2日3日と過ぎても泥棒は下りてこない。
結局、そのまま姿を現さなくなった。
村人たちは口々に、この樹に棲みついているハントゥー(妖怪)に喰われてしまったのだと噂する。
このハントゥーは、夜な夜な樹から下りてきては鶏を食べてしまうそうだ。
顔は狼、身体は猫、尻尾は長く、足は犬のようだが3本しかない、という奇怪な動物だそうだ。
さてさてそんなエピソードのあるビンギン大樹が、丸裸になってしまった。
ハントゥーはどうしてたんでしょうね。
枝が払われ、朽ちた幹がカットされて、慌ててどこかへ移住したのかな。
緑が豊富なったら、戻ってきて欲しいね。
※バリ島見聞録「ビンギン (Bingin)」