2017年06月29日

スラマット・ダタン・ウブド(138)

「スラマット・パギ」おはようございます。

「スラマット・ダタン」ようこそウブドへ。

ウブド滞在一日目の朝。

爽やかに、お目覚めできましたか?

空気感は、違いましたか?

年に一度、相葉さんの主催する「芸術の村・ウブド」ツアーに呼ばれて早起きしている伊藤博史です。

私のことを簡単に紹介すると、42歳でウブドを訪れて、そのまま沈没してしまった男です。

28年間、ウブドを根城にして楽しませていただいております。

このツアーは、ウブドを中心とした文化体験と、相葉さんの得意分野である織物に触れる企画です。

明日は、シドメン村の織物「ソンケット(縫取織)」と、トゥガナン村の経緯絣「グリンシン」を見学する予定ですね。

魅力あるツアーだと思います。

余談ですが、先日、相葉さんのフェースブックを見て驚きました。

相葉さんの得意分野は、織物ばかりではないのですね。

木工家具造りにも、プロの技を持っているのですよ。

私も少しかじったことがあるので、わかります。

相葉さんの好意で、こんな楽しいコーナーを持たせて頂いたことに感謝しています。

先ほど私が挨拶した「スラマット・パギ」ですが、インドネシア語で、おはようございますの意味です。

スラマットは、私のお気に入りの言葉です。

いろいろな意味がありますが、私は「祝福を願う心」と解釈しています。

スラマット・パギは、朝を迎えられたことに祝福を。

スラマット・ダタンは、来訪されたことに祝福を、ですね。


今から、一時間半ほど、私とバリについての雑談を楽しみましょう。

私は学者や先生ではないのに、専門的な話はできません。

脱線するかもしれませんが、許してください。

楽しければ、バグースと言うことで。

バグースは、GOODという意味です。

よく使う言葉ですので、覚えて、使ってください。

このあとウブドの中心部へ散策に出かける予定になっていますよね。

散歩の途中、村人に「チャンティック!」と、声を掛けられることがあると思います。

商品を手に取って身につけると、店員さんに「チャンティック!」と言われたりします。

何度も、言われると思います。

多分、きっと、おそらく。

さて、この「チャンティック」の意味は、何でしょう?

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お客様8名と相葉さんクエッション。

そうです、奇麗、美しい、可愛いと言う意味です。

(リアクションに期待)

冗談は、このくらいにしておきましょう。

aiba2017.jpg

私はどこにいるでしょう?

皆さん全員が、初めてのバリ訪問ですか?

バリをどんなイメージでとらえていますか?

自己紹介を兼ねて、おひとりおひとりから、イメージを聞いてみたいと思います。

突然のお願いで、申し訳ない。

これは「芸術の村・ウブド」ツアーの初日に、私がレクチャーした冒頭の原稿です。

このあと本日のレクチャーのタイトルにもなっている「バリの芸能と文化」についての原稿は作ってあったのですが、

話の流れは自由行動となってしまった。

自己紹介とそれぞれのバリに対する思い入れに皆で対応して、思いのほか話は盛り上がり、楽しい時間が経過した。

人生経験の豊富な方々だったせいか、和気あいあいの雰囲気で、1時間30分を乗り切ることができた。

来年も早起きしますので、呼んでください。

ウブド訪問が、満喫できることを願っています。

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2017年06月27日

「和るん・あんかさ」20周年のプレゼント(137)

ウブドに滞在する日本人&訪れるツーリストに、

「ウブドで人気なカフェはどこですか?」と問えば、

ほとんどの人が「カフェ・アンカサ」と答えるだろう。

誰もが認める、日本人に人気のカフェ。

オープンが1997年と古いから、知名度も高い。

一号店は、サレン王宮のあるスゥエタ通りを北上した左手にあった。

現在、コンビニになっているところ。

この場で12年間ほど続けたあと、モンキーフォレスト通りに移転した。

多くの顧客を掴んでいた。

モンキーフォレスト通りに移転してから8年。

今年の4月で、トータルで20年になった。

ウブドで20年間も営業を続けるのは、至難の技だと想像する。

「カフェ・アンカサ」は今、「和るん・あんかさ」と変名して、和食中心の店になっている。

和食になったが、以前からの苦めのコーヒーは今でも飲める。

私は、ドリップてたてた苦めのコーヒーが好みだ。

ウブドで唯一、私の嗜好に合ったコーヒーが飲めるのが「和るん・あんかさ」だ。

6月24日、20周年謝恩会が催された。

あまり多くの人で溢れていたため、写真を撮ることをためらった。

だから、当日の模様は、一枚もありません。


謝恩会の一足先に、店で使ってもらうランプシェードを届けた。

8年前にモンキーフォレスト通りに移転した時にも、バナナペーパーを貼ったランプシェードを二つプレゼントしている。

この時には、私が作ったバナナペーパーを貼ったと思う。

今回も2つ、要望された。

自信はないが、コテツに頼まれたなら作らニャなるまい。

謝恩会が予定される3週間前ほどから、記憶を頼りに制作を始めた。

銅線を利用した下地の枠は完成した。

しかし、肝心のバナナペーパーが手に入らない。

バナナペーパーは、数年前から「和食・影武者」のスタッフ・クトゥト君が作っている。

私が指導して後を継いでくれた、頼りがいのある奴だ。

そんな彼が、今年3月に急死した。

今でも信じられない気持ちでいる。

手伝っていた村の友人も、もう制作できないと言う。

私がクトゥト君の家に出向いて作るのも、辛いものがある。

メイド・イン・バンリのバナナペーパーは、あきらめるしかない。

思案していたところ、テガランタンのオカちゃんことを思い出した。

そうだオカちゃんは以前、私の見よう見まねでバナナペーパーを作っていた。

忙しい彼だが、私も一緒に作業すると言えば、断らないだろう。

頼むと心良く引き受けてくれた。

今から作れば、ランプシェードに間に合うかもしれない。

クトゥト君の道具を、利用させてもらおう。

お兄さんは寂しそうだったが、承諾をしてくれた。

道具一式を、形見のような気持ちで引き取ってきた。

バナナペーパーは、20周年謝恩会の一週間前に出来上がって来た。

ギリギリで間に合いそうだ。

8年前に制作記憶を思い起こしながら作ったが、まったく形は異なったものとなってしまった。

あの時は、雲をかたどって作った。

思い出した時には、もう半ば出来上がっていた。

「和るん・あんかさ」20周年、おめでとう。

末永く繁栄することを祈っています。


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制作途中のランプシェード

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手前の2つが今回制作のランプシェード



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2017年06月16日

ひっそりと佇むチャンディ(記念碑)(136)

ウブドの良さを再認識する小さな旅。

私の取って置きを教えます「第2弾」。

第1弾は、■取って置きの「マンディ場」教えます(131)でした。

いつのまにかシリーズになっている。

今回は、「Candi Tebin」の遺跡を紹介します。

訪れる人の少ない、密かな名勝です。


バリ・パスフィンダーに載っていた「Candi 」の文字。

こんなところにチャンディがある?

パスフィンダーは、ウブド在住のジャワ人シルビオが編集している地図。

ウブド近郊には、彼が自ら歩いた散歩道が点線で掲載されていた。

「グーグルマップの普及で、私の地図が売れなくなったよ」と嘆いていたのは1年前。

興味をひかれて訪れたのは、20年前のこと。

今回は、そんな昔の記憶を頼りに行ってみた。

当時は、通り過ぎて住まうほど寂しい場所だった。

チャンディのある場所は、シンガクルタ・ジュクパク(Jukutpaku)村。

ウブド南部の村ニュークニンから、左に大きくカーブする橋を渡る。

その昔、「サーカスブリッジ」と呼ばれた竹の橋が架かっていた場所だ。

詳しくは、■サーカスブリッジ@ニュークニン村(72)」を読んでください。

橋の対岸が、シンガクルタ・ジュクパク村。

田んぼの風景が残っている、静かな村。

以前は、遠くまで見通すことのできる田園風景が広がっていた。

橋の架かる渓谷沿いは、緑のジャングルが覆っている。

チャンディは、この渓谷沿いにひっそりと佇んでいる。

橋を渡って200メートルほど行くと、Tの字を右横に倒した形のT字路がある。

進路を左手に取る。

寺院、小学校、公設市場、広場を左に見ながら進む。

大きなビンギン樹のある広場を回り込むようにして左折すると、集落に出る。

ここがジュクパク村の入口だ。

集落に入り、100メートルほどの左手に寺院がある。

寺院横にあるコンクリート・ブロックが引き詰められた道が「Candi Tebin」の入口。

立派な案内板がたっている。

ここから動画を見て頂くと言うことで、説明を省きます。



いくら苦手だからと言って、まったく現場の解説がないのは、あまりにもつれないだろう。

ちょっと反省したので、ちょっと説明を入れます。

苔むした急な階段を下りる時、カメラを持ったまま尻餅をついたことは内緒にして欲しい。

渓流沿いの岩壁に佇む、チャンディ。

いつの時代に造られたのか、銘記されていない。

ペジェンに残るチャンディ遺跡・クヌンカウイと同じなら11世紀だ。

瞑想の洞穴もあるところを見ると、同じ時代の流れを汲んでいるとも考えられる。

清々しい渓流の音に、悠久を感じる。

いにしえの人々も、この清流に癒されたことだろう。

切立った岩壁から流れ落ちるパンチョランも含めて、一見の価値あり。

※パンチョランは、湧き水をパイプ(竹・塩ビ・鉄etc)を通して落としている場所のこと)


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2017年06月12日

底知れぬ・椰子の木のパワー(135)

フェースブックにアップした椰子の木の写真が、大受け。

タイトルは「なんで、こ〜なるの?」

タマン村スリウェダリ通りの椰子並木で、見つけた一本。

毎日通っているのに、なぜ、今日に限って気に留めたのか。

この日は、私の機嫌がよほど良かったのかな。

普段、いかに周囲に注意を払っていないかということですよね。

せっかくバリにいるのだから、もっと景色を楽しもう、と反省。

kelapa.jpg


それにしてもこの曲がり方尋常じゃないよね。

どうやったら、こうなるの。

小さな時に、人の手が加えられ、無理矢理形作ったのか?

そんなことをする意味が見当たらない。


そして、届いたコメントがこちらの数々。

「成長中に根性が曲がったのでしょうか?」

「反抗期のなごり?」

「踊ってるんじゃない?」

「わたしみたい。歪んでる。(^-^)」

「時々、変な椰子の木がありますよね。旦那の実家に上が2つに分かれた椰子の木があります。」

「他と違って変わったのがいますよね。^_^」

「精霊が強く抱きしめたのかも。」

などなど。


これらにコメントに、丁寧にお答えしました。

「身に覚えがあるのかな?」

「とんがってない反抗期なら、可愛いいかな。」

「椰子の葉は、踊りの振り付けにたとえられるけど、妖気に誘われて幹まで踊りはじめたかな。」

「美人は、歪んでいても許されるから。」

「変な椰子の木の写真、コレクションしようかな。二股の椰子の写真、送ってください。」

「これも個性かな。」

「美しい精霊に、めろめろって、感じかな?」


コメントにあった、2つに分かれた椰子の木。

Kさんから送られてきた写真を見て、驚愕。

これがなんと、椰子の幹の先が5〜6つに分かれているではありませんか。

まあ、写真を見てください。

kelapa1.jpg


「なんで、こ〜なるの?」

接ぎ木説がでましたが、信憑性はありません。

写真は、22年前の画像だそうです。

Kさんの実家にある椰子の木。

「帰省した際に、同じ木を探して写真を撮ってきます」と約束してくれました。

この椰子の木が残っているかが問題ですが。

不思議な力が宿っている椰子の木。

22年前を経た今も、きっと残っていると信じたい。

いつが、鮮明な画像がお届けできる日が訪れるでしょう。

ちなみに、Kさんは亡き舅に「接ぎ木でもしたのですか」と聞いたことがあるそうです。

その時の答えは「自然に生えてきた」だったと言う。


これをきっかけに「なんで、こ〜なるの?」椰子の木の写真をコレクションすることにしました。

皆様からの情報(写真)お待ちしております。

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倒れたまま(きっと強風)成長している椰子の木
(写真提供・大原正博)



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2017年06月08日

稲の神「デウィ・スリ」を祀る神聖な棟(134)

バリ人の家屋は、古くからの慣習にしたがって敷地内の建物の配置が決まっている。

ウブドの場合、聖なる家寺は北東の角に位置し。

人間の儀礼を行うバレ・ダギンは中央東側。

家族の住む棟であるバレ・ダジョーは北面、バレ・ダオーは西面にある。

不浄と言われるトイレや台所は南西隅に建っている。

道に面して門が備えられるが、屋敷のレイアウトはどこも同じというのが興味深い。

家屋レイアウト1.jpg
「バリ島ウブド 楽園の散歩道」より


3週間ぶり(6月5日)に、スバリ村のグスティ家を訪れた

グスティ家には、門を入って真っすぐの位置にバレ・ダギンに「ジナン=jineng」が建っている。

ジナンに供物が飾られていた。

27年という長い付き合いなのに、初めて見た。

田んぼを持つ家にある米蔵のことをジナンと呼ぶ。

2メーター四方ほどで、四本の柱で支えられた小さな高床式の2階建て。

米は、屋根裏のような2階に収納される。

1階部分はオープンで、あずまやのような佇まい。

家族の憩いの場所になる。

グスティ家では、いつもここでお婆ちゃんが供物を作っている。

私は、訪れるとまずここに腰を下ろし、お婆ちゃん所有のシリー箱から、噛みタバコを一つかみかすめる。

時々、シリー箱の片隅に小銭を隠し入れる。

グスティ君が留守のときは、戻って来るまでのひと時をお婆ちゃんと雑談を楽しむ。

お婆ちゃんは、供物作りの手を休まずに、話に相づちをうってくれる。

横になって午睡を決め込むこともある。

この日は、グスティ君が留守だった。

もちろん私は、噛みタバコを失敬して、お婆ちゃんと雑談をはじめる。

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新築される前は、アランアラン葺きの屋根だった


グスティ君が戻って来たので、さっそくジナンの供物について訊ねた。

「今日は、マンタニン=Mantanin」の儀礼があったとの答え。

同じ水路を利用するスバック=水利組合が、稲刈りが終わったあとにする儀礼らしい。

ジナンは、稲の神「デウィ・スリ(Dewi Sri)」を祀る神聖な棟(米蔵)。

右手に聖水の入った壷を持つ、田んぼや稲の女神。

水田のあちこちに、デウィ・スリを祀る祠が建っている。

田植えや稲刈りの始めには、必ず、祠に供物を捧げ儀礼をおこなう。

祠.jpg
田んぼの隅に建っているいる祠


デウィ・スリは女神だから、田植えは男性の仕事だった。

種まきは、男の仕事というわけだ。

この頃は、人手不足で女性も田植えをするようになった。

バリ島の発展とともに、消えていく慣習がある。

農業を継ぐ跡取りが減っている。

農地が観光施設に変っていく。

屋敷のレイアウトにも変化が見られる。

町中では、土地の有効利用からか、家寺が2〜3階に上げられた。

家屋も2〜3階建ての近代的な建築になってきている。

「観光の島・バリ」として発展していく過程で、観光資源の田んぼや慣習が消滅していく。

しかたがないと言ってしまえば、それまでだ。 何か、良いアイデアはないだろうか?

私には、まったく良案は浮かばない。

次世代のバリの若者に期待したい。


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2017年06月02日

デワ・ワルン @ ゴータマ通り(133)

ウブドでバックパッカーに一番人気の『ワルン=Warung』は、どこか?

私なりに考えてみた。

ウ〜ん、私的には「デワ・ワルン=Dewa Warung」でしすかね。

ウブドにあるすべてのワルンを観察したわけではないので、あくまでも主観ですよ。

と言うことで、今回は、デワ・ワルン・ファンの皆様に向けてのブログになりました。

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現在のデワ・ワルン外観


デワ・ワルンは、ウブドにセンゴール(ナイトマーケット)があった時代からの老舗ワルンだ。

ウブドのセンゴールは、現在のパサールの駐車場で、1989年〜1993年11月22日までの4年間存在していた。

テニス・コートが3つ入るほどの広場は、市場より1メートルほど低くなった窪地だった。

広場というにはあまりにもお粗末な、砂塵の舞い上がる小さな砂漠のような空き地に15軒ほどの屋台が並んだ。

デワ・ワルンは、その中の一軒で、バックパッカーの情報交換の場として人気があった。

私も、毎晩のように通った常連の一人だ。

オーナーは、テガランタン村の若者たち。

テガランタン村との付き合いが深いのは、こんな経過があったからだろう。

センゴールが閉鎖されたあと、デワ・ワルンはパダンテガル村スグリオ通りに移転した。

この時、オーナーはデワ君となった。

スグリオ通りの後、ゴータマ通りに移転し現在に至っている。

2002年9月8日に開店した「ワルン・ビアビア=Warung Biah-Biah」と同じ年にオープンしていると記憶する。

場所は「ワルン・ビアビア」から10メートルほど南、デヴィ・シータ通り寄り。

屋敷門を挟んで、3軒目がデワ・ワルンだ。

立地条件と安価が売りで、常に繁盛している。

バックパッカー人気ワルンの地位は、この頃から揺るぎない。

そして、現在も情報交換の場としての役割は失っていないようだ。


センゴールにある時は、毎晩のように通っていたワルンだが、「影武者」を開店させてからは立ち寄ることがなかった。

10年ほど前に一度、訪れたことがある。

その時、運悪く1時間待っても料理が出てこなかった。

お客も少ないのに何で? の疑問を抱いて厨房を覗いた。

そこには、チンタラと働くスタッフの姿があった。

駄弁っている暇があったら手を動かせ!

久々に切れて、紅茶代も払わずに出て来た。

それ以後、一度も行っていない。

先月の終わり、知人が立ち寄った「デワ・ワルン」。

「美味しかったよ!」と言うので、覗いてみた。

高台にあるため、階段を数段上る。

店舗もフロアが二段になっている。

5年前に改装をしたが、雛壇状の店舗は変っていない。

床は、コンクリートの打ちっ放しなしから、タイル張りとなっていた。

安普請だったテーブルは、重厚な一枚板に変った。

スタッフが、たくさんいるので、待たされることはない。

以前、オーダーはお客が用紙に書き込んでいた。

今回は、ウエートレスが注文を聞いてくれた。

スタッフはグレー色のTシャツに、統一されている。

背中の「DEWA WARUNG UBUD」のプリントが、ちょっとハイセンスな感じ。

ナシ・チャンプールも、私的には合格点。

帰りがけに、知った顔が厨房に入って行った。

「居酒屋・影武者」の開店スタッフだったプルナミちゃん(オカちゃんの妹)だ。

彼女が働いているのなら、これからはちょくちょく通おうかな。

「ごちそうさまでした」

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ナシ・チャンプール


★メニュー:インドネシア・中華料理。ベジタリアン・メニュー有り

★食事:テンペ・カレーRp22,000-/ナシ・ゴレンRp22,000-/ナシ・チャンプールRp25,000-/

★飲物:アイスティーRp12,000-/ジュース各種Rp15,000-/ビンタン・ビールRp35,000-/

★営業時間:10.00am〜10.00pm / 定休日:ニュピ

★TEL:081-3372-68250/


デワ・ワルン・ファンの皆様に向けて、スペシャルビデオです。




posted by ito-san at 18:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする