雨上がりの昼下がり。
フラッと立ち寄った「和食・影武者」の2人掛けテーブルに、懐かしい人の後ろ姿が見えた。
お互いウブドに滞在していても、滅多に会わない人もいる。
避けているわけじゃない、生活パターンが違うのだ。
ビールを飲んでいる彼女に「久しぶりです」と、声を掛けながらテーブルの前に立つ。
「本当に、久しぶりね」彼女が見上げた。
「伊藤さんも一緒に飲んで!」前の席を掌で促す。
こうなることはわかっていたので、素直に腰をおろした。
「先日ね!」が第一声。
訴えたかったことがあるようだ。
ウエーターのワヤン君にビールを追加し、私のためにグラスを頼んだ。
「先日、バリ南部の知人が私の家に訪ねて来た時にね『お手伝いさんを、図に乗らせちゃいけないよ!』と注意されちゃった」
苦笑いを浮かべた顔で続けた。
今日の話は、お手伝いさんについてのようだ。
知人のお宅も、お手伝いさんを雇っているそうだ。
私にはまったく縁のない、別世界の話。
知らない世界のことを論ずるのは避けたい。
聞き役に徹するのが賢明だろう。
お手伝いさんやスタッフの問題は、よく話題にのぼる案件だ。
私の目の前の彼女は、日本でも雇っていたことのある富裕層。
彼女の名前を便宜上、うわばみさんとしておこう。
なぜかって?
もちろん、大酒飲みだからですよ。
可愛い適当な名前が浮かばなかったもので、ゴメンナサイ。
うわばみさんのお宅には、住み込みのお手伝いさんが一人いる。
雇用主の都合で、住み込みか通いのお手伝いさんを選ぶ。
もちろんお手伝いさんは、女性の方。
男性の使用人もいる。
こちらはセキュリティを兼ねて、庭掃除や力仕事専門。
テラスで軽い昼食をとりながら、なにげなく話した内容が、知人の癇に障ったようだ。
それは、お手伝いさんと一緒に食事をしたこと。
知人は、それが彼らを「図に乗せる」のだと言う。
ここで言う図に乗るとは、つけあがるという意味だろう。
給料を払っている方が偉いと勘違いしている、上から目線の言葉ではないか。
雇用主と使用人の関係に、人間らしさは無用と考えているのだろう。
戦中と戦後の混乱期の「女中さん」と勘違いしているのかもしれない。
その昔は女中奉公と言って、嫁入り前の花嫁修業でもあったと聞く。
日本から「女中」という言葉を使わなくなったのは、いつの頃からだろう。
差別表現として、今は使用禁止用語だ。
タイムリーに経験したことのない私が、引用してはいけない昔話だが。
今の日本では賃金が高くて、よほどの富裕層にしかありえないが、ここウブドでは、日本にくらべ賃金が安いためお手伝いさんを頼める日本人も多い。
日本には、家政婦を斡旋する「家事代行サービス」という組織があり、契約社員として出張してくる。
駐在員の多いジャカルタ、スラバヤなどの都会にはあるようだが、ウブドに斡旋業者はない。
ウブドでお手伝いさんを探すには、現地の人に知合いを紹介してもらうパターンがほとんど。
紹介された女性に、当たり外れはある。
相性の問題だが。
使用人に対し厳しく接する人、家族の一員のように振る舞う人、がいる。
その中庸を選ぶ人もいるだろう。
うわばみさんは、住み込みのお手伝いさんとの関係を、家族のようにしたいと考ている。
お手伝いさんと一緒に食事をしたことが、なぜいけないのか理解できなかった。
相性が合うから、一緒に食事もできるのだ。
「図に乗せる」の言葉に、私も嫌な響きを感じた。
私的には、家族のように付き合っても欲しいと思っている。
うわばみさんの言動に同調する私は、相槌をうった。
私のグラスが空になっているのに気づいたうわばみさんが、ビールを注いでくれた。
「もうひとつ、理解できないことを言われたわ」
「それは?」ビールを啜りながら、私は先を促した。
「『洗濯機、お手伝いさんと仲間で使っているの? 汚いわよ!』だって」
思いもしなかった言葉に、驚いたと言う。
お手伝いさんは、終わった後の洗濯機の水槽は水洗いしている。
暴言を吐いた知人は、バリ人を汚いと思っているのかな。
それは、差別だよね。
バリが好きで住み始めた人の発言とは思えない。
住人に対して汚いと感じていては、共存は難しい。
「自分のお手伝いさんから、汚いと思われているかもしれないのに」うわばみさんは憤慨する。
これは、ほんの一例だ。
国によって事情は違うし、問題はさまざま。
バリにはバリのローカル・ルールがあるだろう。
知人は、現地の人と一線を引いて付き合えとアドバイスしてくれているのだ。
うわばみさんは、自分の常識で付き合っている。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」福沢諭吉の言葉だ。
私も、そう思っている。
うわばみさんは、鬱憤をほどよく晴らして帰っていった。