2018年03月27日

念願のタンブリンガン湖に到着!(192)

2月の3日と9日に挑戦したタンブリンガン湖訪問。

その話は「レケレケ(LekeLeke)の滝 @Tabanan」「湖道沿いに、インスタ映えする造形物群」に書いた。

どちらも、雨にたたられて果たせなかった。


雨季も終わりに近づいた感のある3月20日、タンブリンガン湖訪問に3度目の挑戦。

なぜここまで、こだわるのか?

それは、数々の楽しい思い出があるからです。

カメラマンの渡部 赫(ガク)さんに連れられて訪れたのが最初。

記憶が曖昧だが、1995年だったと思う。

「行ってからのお楽しみ!」と赫さんは、目的地の詳細を明らかにしなかった。

道は下り坂になった。

赫さんの運転する車は、森に向かって続く悪路を直進する。

前方の森が、徐々に開けてきた。

小さく湖面が見える。

突然、目の前に全貌が現れた。

四方を丘に囲まれた小さな湖は、静寂に包まれ、美しい風景を作り出していた。

思いがけない景観に、同乗していた知人たちが感嘆の声をあげる。

湖畔に、ひっそりと佇むグブン寺院(Pura Gubung)の姿もいい。

赫(ガク)さん、とっておきを紹介してくれたのだ。

"バリ島「楽園紀行」(1996年3月25日・発行)"の取材も兼ねていた時期だった。

原生林トレッキング・コースがあるのを知って出かけたのが、1996年。

その時の話は「http://www.potomak.com/bali/ubud/vol-17.pdf極楽通信UBUD・Vol.17・原生林を訪ねて(黄昏野ラーダー) P12~13」に書いた。

当時の恋人と、グブン寺院のオダランに訪れたこともある。

1997年には、友人たちとカヤックをした。

http://www.potomak.com/bali/ubud/vol-21.pdf極楽通信UBUD・Vol.21・カヤック(黄昏野ラーダーとあぶない探検隊) P12~13」

思い出深い、場所だ。

4年ほどまえから湖の水かさがあがり始め、グブン寺院と湖畔の村が水没したと聞いて、気になっていた。

原生林のトレッキングもできなくなったのか、それも確認したい。


インスタグラム・スポットに目もくれず、一路タンブリンガン湖に向かう。

愛バイクのホンダ・スクピーも各所点検済みで順調な走行。

滝巡りは帰路にしようと決めている。

タンブリンガン湖を左手に見ながら、外輪山の峰道を進む。

すばらく進むと、視界から湖が見えなくなる。

今回も湖畔行きの道が見つからない。

かなりの距離を走っているし、景色に記憶がない。

ムンドゥック村の表示がやたらに見えはじめる。

通り過ぎたということだ。

ムンドゥック村は、オランダ統治時代に高官の別荘があったところを聞いている。

山奥の村だが、今でも、避暑地として欧米人ツーリストに人気があり、宿泊施設も多い。

途中で見かけた、タンブリンガンの案内板が正しかったようだ。

引き返す途中にあるレストラン「Ngiring-Ngewadang=ンィリン・ンウエダン」で昼食をとる。

バリ語の丁寧語で「コーヒーを飲みましょう」という意味らしい。

末尾に動画を掲載したので、あとで見てください。

案内板の示す方角に進む。

道は、湖を右から回り込むようにしてあった。

進むうちに、思い出される風景が現れてきた。

このまま真っ直ぐに行けばいい。

タンブリンガン湖の湖面が見えた。

大勢の釣り人の姿が見える。

情報通り、グブン寺院は水没していた。

バイクを止めて、唖然と見つめる。

Pr.Gubung1.jpg



右にある湖面沿いの道は、森に続く。

以前、原生林トレッキング・コースの入り口があった方向だ。

バイクで森の中に向かう。

道が途中で水没している。

これ以上進めないものかと左右を見回すと、林の中にバイクの轍が見えた。

もう少し進んでみようと、林に入ってみた。

道は、落ち葉でぬかるんでいる。

私のバイクテクニックでは、これ以上進めない。

道端にバイクを止めて、歩くことにした。

カヌーを係留している小屋が見えた。

4人の婦人がたむろしている。

小屋は、ワルンかもしれない。

ワルンならコピ・バリが飲めるだろう。

タンブリンガン湖の訪問を果たしたことだし、ここらで小休止したい。

一番年かさの婦人に「コピ・バリある?」と聞いてみた。

4人の婦人が一斉に「あるよ!」と答えてくれた。

しかし、小屋を覗くと、そこは荷物置き場だった。

ここはワルンじゃない。

年かさの婦人が、グラスを取り出してコピ・バリの用意をしている。

「どこから来た?」「どこに住んでる?」「いつまでいる?」etc

久しぶりの質問攻撃。

話しているうち、婦人たちがトレッキングのツアー客の帰路をカヌーで迎えに行く要員なのを知った。

原生林のトレッキングは、村人の手によって存続していた。

カヌーで湖面遊覧30分:Rp200,000-(1〜4名まで)

ジャングルトレッキング+カヌー(2時間):Rp350,000-(1〜4名まで)

これに入村料:一グループRp100,000-がプラスされる。

コーヒー代を払おうとすると、受け取らなかった。

次回、トレッキングに来ることを約束して、小屋を後にした。


行き過ぎて見つけたレストラン「Ngiring-Ngewadang」




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2018年03月19日

ニュピ・サカ暦1940年の正月(191)

バリ人の信仰するヒンドゥー・ダルマ。

その信仰をつかさどるに重要なのが、古くから伝わる2つの暦。

サカ暦ウク暦

2018年3月17日は、サカ暦1940年の正月ニュピだった。

ニュピ前夜は、村々でオゴホゴ神輿が練り歩く。

オゴホゴの行列は、バリ観光の一つにもなっている。

私は昼間にウブド近郊の村々を覗いて、夜のオゴホゴをパスした。


ペネスタナン村のオゴホゴ


マス村のオゴホゴ

今年のニュピ前夜は、多くのレストランが休みか早仕舞いをした。

昨年はそんなことはなかったので、新しく何かが取り決められたのだろう。

ニュピ当日の食材を確保するのに難儀しているのに、前夜の夕食まで心配しなくてはいけなくなった。

通常夕食は9時過ぎなんだが、早仕舞いが多いと聞いて早飯にすることにした。

ほとんどのワルンは閉店している。

レストランも、めぼしい店はすべて休業。

日没が近くなるとオゴホゴが練り歩く。

この時間帯は、各所で道路閉鎖になる。

今年、プリアタン村のオゴホゴがないと聞いていたので、こちら方面のレストランを探すことにした。

まだ時間は6時だが、すでに道路は閑散としている。

アンドン地域で、やっと見つけたレストランに入る。

「VIMALA」飛び込みしては、当たりだった。

帰路、9時を過ぎても閉鎖されている道路があり閉口した。


今年のニュピは、サイレントデーに加えて、インターネットも使用できないという徹底したものだった。

近頃、このサイレントデー=ニュピを経験するために訪れる観光客も増えていると聞く。

ニュピは新月なので、星が綺麗だ。

夕食には「和食・影武者」からカレーのルーをもらっている。

それを温めて食した。

何もすることができないので、1日、ただただ横になっている。

これでは、普段の生活とほとんど変わりない。

薄明かりを灯して、本を読もうと思うが。

あいにくこの日は、サカ暦の祭礼日・サラスワティ(Hari Suci Saraswati)と重なり、読書ができない。

バリ・ヒンドゥー教徒じゃないが、掟は守らないと。

腰が痛くなるほど、横になった。

星を見るのも面倒で、そのまま寝てしまった「ニュピ」。


posted by ito-san at 16:49| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月13日

古都バンリを巡る旅!(190)

10世紀半ばから400年続いたバリ王国=ワルマデワ王朝時代、バトゥール山の山裾にあるこの地は、バリで最も気候のよい領地として王家の避暑地だった。

バンリの名称が使われるようになったのは、ゲルゲル王朝が隆盛を極めていた16世紀なかばのこと。

当時の王が、息子のひとりデワ・グデ・バンチンガンに「北西に進み、赤い森に出たらそこに自分の王国を造るように」と伝えた。

バンチンガンは言われるままに進み「赤い森・bang giri」を見つけて王国を興した。

バンリとは、バン・ギリがなまったものだと言われている。

現在は、バンリ県の県庁所在地。(参照:地球の歩きかた・バリ島)


1995年のこと。

バンリ市内の安宿に宿泊し、市制記念行事や寺院を訪問した。

その時、ダラム寺院のオダラン(寺院祭礼)で知り合ったのがワヤン・バンリ君。

現在彼は、奥様のイブ・アユ・ラクシュミさんと《サティア・サイババ瞑想センター》を主宰している。

瞑想センターでの名前は「Yan Govinda Krisna 」。

夜の境内で、ワヤン・バンリ君は、日本語で話しかけてきた。

「日本語を勉強しています。友達になってくれませんか?」

唐突な、友達申請だ。

滅多に日本人観光客に出会うことがないので、勇気を出して声を掛けたという感じ。

「明日、宿を訪ねます。バンリを案内させてください」

新手のガイド売り込みかもしれないが、それならそれで良い。

熱心に日本語を勉強していることが感じられたし、外見も好感が持てた。

私で役に立てるなら付き合ってみよう。

翌朝、ワヤン・バンリ君は約束通り宿を訪ねてきた。

お薦めの場所を案内してもらうことになった。

・バンリ王宮

・ケヘン寺院(11世紀頃、国寺として、スリ・ブラフマ・クムティ・クトゥによって建立されたと言われている)

・バンリの丘(クヘン寺院北側にある、バンリの街を見下ろすことのできる小高い丘)

・プングリプラン(伝統村)

・ジュヘム村のチャンディ遺跡

・ティルタ・ハルム寺院

・ジャンクリックの丘

・グリアンの丘

これらを2〜3日かけて回ったと記憶している。

その時のコラムを「極楽通信・UBUD」の Vol.8(1995年4月25日発行)「UBUDよろず百科」に掲載した。
http://www.potomak.com/bali/ubud/vol-08.pdf

「BANGLIは今日も雨だった」と、しょうもないタイトルで紹介している。

こちらも、一読ください。

Club Bali・極楽通信UBUD」からダウンロードできます。


この年、「アパ?情報センター」開設を計画中だった私は「仕事をする気ならウブドに来い」と誘った。

こうして、ワヤン・バンリ君は、1995年8月20日設立のメンバーに加わった。

バンリは不思議パワーの強い土地柄で、高名なバリアンが多くいる。

宗教心が篤く瞑想好きな彼には、バンリの寺院巡りとバリアン訪問を担当してもらった。

「バリアン・ツアー」の始まりだ。

ワヤン・バンリ君がアパ?のスタッフに加わったことで、私のバンリ巡りは熱心になった。

バンリ地方に残るトランス儀礼の幾つかを鑑賞することができた。

瞑想スポットも、数々訪問した。

時には、寺院の奉納舞踊に誘ってくれた。


1995年に案内してもらった場所で、忘れられない情景がある。

今月の初め、その幾つかを巡った。

ジュヘム村のチャンディ遺跡は、変わらず静寂の中にあった。

バンリの丘にひっそりと佇む寺院の峰伝いの参道は、記憶通りに苔むしていた。




もっとも印象に残っているのは「ティルタ・ハルム寺院」の風景だ。

バンリ王国時代の王家の避暑地として作られた寺院。

豊富な湧き水をたたえた丘の中腹に、へばりつくようして建っている。

僧侶の読経と落水の音に誘われて、お祈りが心地よかった。

訪れたのは、オダランの真っ最中。

飾り付けも見応えがあった。

もう一度訪れたいと、前々から考えていた。

薄い記憶を頼りに、バイクを走らせた。

ウブドから40分ほどの街道に、案内板があった。

案内板には、550メートルとある。

記録では、350メートルになっている。

長い階段をくだった記憶はある。

川に向こうの崖に、寺院が見える。

清々しい水の音が絶え間なく聞こえる。

往路20分は、思っていたほど大変ではなかった。

境内に入ると、心地良い風が通り過ぎていった。

ちょうど居合わせた村人と一緒に、お祈りすることができた。

念願は叶った。



女僧に別れを告げ、帰路につく。

復路は、ハードだった。

時間的には30分ほどだが、急勾配の登り階段が老体にはキツい。

疲れ果てて沿道に倒れこむ。

その時、横になって撮った動画がこれ。




帰路がなければ、何度も訪れたい寺院なんだがな〜。

できれだ、オダラン時に訪れたい。

オダランの初日は、ウク暦の第九週(JULUNGWAGI)・SELASA (ANGGARA) KLIWON。

今年は、5月15日にあたる。

体力を鍛えて出直してくるか。


posted by ito-san at 16:15| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月06日

ガソリンスタンドで誤魔化された!(189)

インドネシアのガソリン販売は国営・プルタミナ(Pertamina)が、ほぼ独占。

民間としてはシェル石油があるらしいが、バリには進出してない。

ガソリン・スタンドのことは、ポンパ・ベンシン(Pompa bensin)と言う。

ポンパは圧力の作用で液体や気体を吸い上げたり送ったりする機械のことで、ベンシンはガソリン。

バリでは、ガソリンスタンドのことを「ポンパ・ベンシン」または「プルタミナ」と言わないと通じない。

販売店は、プルタミナ直営とフランチャイズがある。

価格は全国同一のはずなんですが・・・運送コストの差で地域によって格差があるようです。

ここでウブドの豆知識。

ウブド地域のポンパ・ベンシン1号店は、1998年のテガス村(マス方面)でした。

ちょうど20年前ですね。

その後、プンゴセカン店、アンドン店が続いて開店する。

ウブドの発展に、加速度がかかった時期ですかね。

ガソリンの種類は、4つある。

1)プレミアム(PREMIUM): 一番安いレギュラーガソリン

2)プルタライト(PERTALITE): 新しく発売されたガソリン

3)プルタマックス(PERTAMAX):レギュラーとハイオクの中間

4)プルタマックス プラス(PERTAMAX PLUS):ハイオク

ウブド・エリアでは、プルタライトとプルタマックスの2種類しか売られていない。

料金は、プルタライトRp7,600-、プルタマックスRp8,900-。

Pertamina1.jpg


そろそろ、本日の本題。

この頃、ポンパ・ベンシンで誤魔化されたという話をよく聞く。

どうやら、注文よりガソリンが少ないことがあるらしい。

バイクでポンパ・ベンシンに立ち寄ります。

プルタライトかプルタマックスの販売機の前でバイクを止める。

シートをあげて、タンクの蓋を開ける。

そうバリでは、ここまでは自分でします。

先客のいる時は、その状態で後列に並んで待つ。

行列ができている場合もある。

自分の番が来たら、注文。

この時、リッターで頼むか、金額で頼むかを決めます。

満タンとお願いしたりリッターで頼むと、釣り銭が小銭になる可能性がある。

それが面倒なので、Rp1万、Rp1.5万、Rp2万の金額で頼む。

Rp2万の場合なら「ドゥアプルリブ(20,000)」と言うだけでいい。

ポンパ・ベンシンのスタッフが、販売機の左にある4×4のボタンで、金額を打ち込みます。

そして、ノズルをタンクに差し込み給油する。

金額に達すると、給油は自動的に停止する。

支払いを済ませ、タンクの蓋を閉め、シートを下ろして出発です。

これが、給油の一連の流れです。

バイクを走らせてから、ガソリンメーターの針が上がらないのに気づくというパターン。

やられた!と気がついた時には、もう遅い。

まだ、こんなことが続いているのか、という感想ですね。


Pertamina2.jpg

ガソリンの購入時の注意事項です。

「ドゥアプルリブ(20,000)」と注文すると、スタッフが販売機に金額を打ち込みます。

その時、右側一番上の窓のメーターがゼロであることを確認する。

前の人の金額が残っている場合があるので、注意だそうです。

販売機のメカニックがどうなっているのかは知らないので、説明できませんが。

給油する前に、ポンプの数字が「ゼロですね」と確認を入れる地域もあるくらいだから、もめる原因になっているのでしょうね。

一番大切なことは、注文した金額がデジタル表示されるのを確認することです。

これをすれば、誤魔化されることはありません。

真ん中の窓は、リーター表示。

一番下の窓に、プルタマックスの価格=8,900の数字が見えます。

Rp1万、Rp1.5万の給油では悪さしづらいとみえて、被害にあうのはRp2万が多い。

Rp2万の注文で、Rp1万を抜くんだから大胆な行動だ。

車だと、Rp20万〜Rp30万の給油だから大きく抜かれるぞ。

給油の流れは同じです、ご注意ください。

まさかと思っているので、タンクの中を覗かずに蓋を閉める。

覗いたとしても、あとのまつり。

「少ないじゃない、これでRp2万?」とクレームをつけても、「そうだ」ととぼけられたら、どうすることもできない。


被害を受けるのは外国人と決まっている。

Rp1万は、3月5日のレート(129.25)だと約77円だ。

ツーリストが警察沙汰にしないのをいいことに、つけアガっているのかな。

店全体で悪さをするのではなく、一部の輩の悪癖だ。

バリにだって、悪い奴はいる。

人を疑うのは気が引けるが、嫌な思いをしたくはない。

嫌な思いをするくらいなら、事前の確認をシッカリしよう。

こんな説明で理解できたかな。

復習します。

販売機の表示がゼロをあることを確認すること。

金額が正しく打ち込まれるところまでは、見ましょう。

それでは「スラマット・ジャラン! 良い、旅を!」


posted by ito-san at 17:07| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月02日

ドゥリアンの季節っていつ?(188)

ドゥリアン(durian)って知ってますか?

外皮に、マッターホルンような鋭角のトゲ(ドゥリ=duri)が覆っている外見からつけられた名前のようだ。

もちろん知ってますよね。

匂い臭いと敬遠されているあれですよ。

あんなに美味しいのに、臭いからとしいたげられている果物だ。

でも、「果物の王様」とも言われている。

美味しいと言う人と、まずいと言う人とに分かれる。

臭いと言う人と、別に臭くないですよと、言う人に分かれる。

私は、美味しいと思うし、確かに匂いは強烈だが、臭いとは思わない。


イブに、ドリアンと言っても通じない時があった。

辞書でスペリングを調べて見ると「durian」と書かれてある。

英語もスペルは、durian。

もしかすると、発音は「ドゥリアン」ではないだろうか?

次に「ドゥリアン」と発音したら通じた。

それから私は、ドゥリアンと発音するようにしている。

蛇足だが、フランス語でドゥリアン=de rienと発音すると「You're welcome」と言う意味になるようだ。

durian1_1.jpg

外皮は、若いうちは灰緑色で、熟すにつれ赤茶色が強くなってくる。

大きさは1sくらいの物から、大きい物だと大人の頭ほどになる。

我が家の庭で採れるドゥリアンは、小ぶりだ。

スーパーマーケットでは、Rp25,000〜Rp50,000-で売っていると聞いた。

私は、無料で頂ける。

ドゥリアンは雨季に入ると旬になると聞いていて、そう信じていた。

バリの雨季は、11月〜4月。

11月に入っても、ドゥリアンの姿を見ない。

昨年もそうだった。

異常気象で、旬の時期が変わったのか。

2月の後半になって、我が家のドゥリアンが落ちはじめた。

もしかすると、シーズンは、この時期かもしれないと考えた。

ネットを検索してみたらちょっと、バリ島産ドリアンのシーズンは雨季の終わり頃と書かれてある。

ず〜と思い違いをしていたようだ。


落ちてくるドゥリアンは、すでに熟していて美味しい。

美味しさの見分け方はわからないので、今回は、ドゥリアンの割り方を勉強した。

床に叩きつけたり、足で踏んづけても割れるが、それでは大人気ない。

自前の斧を使いました。

写真で見ての通り、ドゥリの密集している箇所がある。

durian2.jpg

小さめのドゥリが密集しているところに斧をいれると、簡単に割れた。

durian3.jpg

いくつかの房に分かれていて、薄皮に包まれたクリーム色果肉が入っている。

durian4.jpg

一箇所割れれば、あとは、簡単に裂ける。

果肉を掴むと、形がくずれるほど柔らかい。

種をおおっている果肉にカブリつく。

生クリームのような柔らかい食感。

うまく表現できませんので、ゴメンなさい。

種を、なめるようにして食べる。

指についた果肉もシャブる。

食べだしたら、やめられない止まらない。

一房まるまる食べられるほどの好物だ。

匂いは、裂いた外皮の房に水を入れて飲むと消えると聞いている。

確かに匂いは消えるようだが、私はそんな無粋なことはしない。

私は、匂いも含めて好物だから。

種は蒸すと、栗のような味になって食べられる。

以前、バリ人の知人が「バリの栗です」と持ってきてくれたのがドゥリアンの種だった。

それ以来、食べていない。

バイクで走っていると、ドゥリアンの独特な匂いが漂ってくる。

街道に、たくさんの出店が並ぶ。

これも南国の風物詩。

ドゥリアンのシーズンは、4月まで続く。

あなたも一度、騙されたと思ってチャレンジしてみてください。

私は日々、ドゥリアンが落ちてくるのを待っている。

posted by ito-san at 17:38| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする