2018年05月31日

ウブディアン=Ubud-ian @ fecebook(202)

Ubud-ian.jpg

フェイスブックに、新しいページを作成した。

「アパ?情報センター」のフェイスブックとは、違った切り口で情報を交換したいと考えている。

名称を「ウブディアン=Ubud-ian」。

ウブディアンとは、正式にはバリニーズのウブド人のことを言う。

このページのウブディアンは、ウブドをこよなく愛する人々すべての称号とする。

愛し方にもいろいろあろうが「私はウブディアンだ」と自認できる方なら問題はない。

以前発行していた「極楽通信・UBUD」では、ウブドが大好きな人のことを「ウブド熱愛症候群」という言葉を使った。

私のブログを読んでくれている人に中にも、「ウブド熱愛症候群」の人がたくさんいると思う。

ウブドに関わることなら何でも受け入れます。

思い出を語ってもよし。

懐かしい写真を掲載してもよし。

どしどい投稿してください。

掲示板的な使い方で、情報交換していただければ満足です。

イベントのお知らせ、自己PR、会社のPR、なんでも受け付けますよ。

日本での情報でもOK。

せいぜい、ご利用ください。

fecebook「Ubud-ian」:https://www.facebook.com/ikariyachouhatu/

クリックしてください。


5月30日は、ガルンガン祭礼日だった。

前日のプナンパハンとガルンガン当日、翌日のマニス・ガルンガンは、バリ人にはハレの日。

私は、ツーリストを思い知らされる日である。

3日間、儀礼に参加せず、ただただグウタラ。

動画は、タマン村スリウェダリ通りに飾られた、ガルンガンのペンジュール。

動画の前半部分は、定位置での180度撮影。

後半部分(こちらを先に撮影している)は、負傷の右手でハンドルを持ち、左手にスマホを持ってスリウェダリ通りを南下する。

友達に知れたら、激怒もんだね。

本人もドキドキものでした。


posted by ito-san at 18:13| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月24日

『LOVE_TRAIN』再会は果たせなかった(201)

5月16日、名古屋から知人が訪ねてきた。

「和食・影武者」の女将・由美さんからメッセージがあったのは、私が下宿に着いてからだった。

「伊藤さん、ちょっと電話取ってよー」

2度目の電話のあと、午後6時06分に、こんなメッセージが届いた。

番号を登録していない電話には、出ないことにしている。

この番号は、由美さんの新規購入のスマートホンだった。


スウェントラ氏の火葬儀礼を終えて、バリ西部ヌガラからウブドに戻り「バロン・ブリッジ・カフェ」で、遅い遅い昼食をした。

4時から5時まで時間をつぶしたあと影武者に立ち寄った。

火葬儀礼に同行した大原さんも今夜は疲れているだろうから、夕食用におにぎり弁当に作ってもらった。

このあと、大原さんにバイクで送ってもらったばかり。


登録していない電話にリダイヤルした。

「伊藤です」

「今、名古屋の知り合いっていう人が来てるよ。かわるよ!」

由美さんは影武者から電話している、ということは。

えっ! すれ違いだったのか?

バリに行きますのメールが届いていたのは知っている。

まさか、ウブドまで足を伸ばしてくれるとは思ってもいなかった。

「ラブ・トレインの浅岡稔です」

電話の向こうから、懐かしい声が聞こえていた。

「やあ、久しぶり。40年ぶりかね」

私は25歳の時のクライアントだと勘違いしている。

「35年ぶりですよ、伊藤さん」

30歳の時の仕事だったのか。

5年ほど、遊んだ仲間でもある。

6kmほど先に、懐かしい友人がいる。

今からでも会いに行きたいが、今朝は6時起きでスウェントラ氏の火葬儀礼に参加して、眠気と疲れで体力を落としている。

それに今は、バイクに乗れない。

稔君は「声が聞けただけでいいですよ」と言ってくれた。

すぐに、また訪ねてきてくれるだろうと勝手に解釈して、今回の再会を諦めた。


3日後の影武者で、由美さんから嬉しい言葉を聞いた。

「ラブ・トレイン、伊藤さんのデザインのまま今でも営業してるってよ!」

ジ〜ン!胸に響く言葉。

水商売のことだ、もうとっくに移転したか閉店していると思っていた。

2014年の日本一時帰国の時も、そう思って訪ねなかった。

なんとかして会っておくべきだったか。


さっそく、現在の「ラブ・トレイン」の写真を送ってもらった。

連絡は、松本ニョロ芳寿さんとふざけた名前のスタッフと取っている。

ボスの稔君は、インターネット系が苦手のようだ。

営業形態は変わったようだが、内装はオープン当初と変わっていないようだ。

写真に、SINCE1979の文字。

39年前にオープンした店だ。

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『 LOVE_TRAIN 』が、いつまでも続くことを祈っています。

再会を夢見ているよ。


『 LOVE_TRAIN 』
愛知県名古屋市中区錦3丁目9ー15サンロードビル5F
TEL:052-971-9988
Web:http://sound.jp/lovetrain

LOVE_TRAIN.jpg
posted by ito-san at 18:20| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月23日

オジン3人の昼食会(200)

さあいよいよ、バイクの乗るゾ。

いまだに右手の手術あとは痛いのだが、日々の行動範囲が狭すぎで、精神的に不完全燃焼になりがち。

そろそろいいのじゃないかと自己判断をして、夜の「和食・影武者」の帰りからバイクの乗ることにしていた。

それが、5月20日。

右手は、まだ細い物は握れない。

バイクの右グリプに、これまで使っていた包帯を巻いて太くした。

grip.jpg

4月4日の事故当日以来だから、45日ぶりのバイクの運転になる。

なんとか家路に着くことができた。

家に着くまで、大原さんがうしろを走行してくれた。

どこまでも優しいオヤジだ。

腕の疲れは、動かしていなかったからだろう。

当分はウブドの中心部には出ず、下宿のあるテガランタン付近で走り慣らすことにする。


今回の事故で大原さんには、多大な世話になった。

4月6日から昨日の5月19日まで毎週土曜日と日曜日以外、「和食・影武者」から夕食とポットに入れたコピ・バリを運んでくれた。

日曜日は、週一の楽しみ「影武者」での夕食。

バイクの後ろに乗せて「影武者」を往復してくれた。

本当に助かりました。

感謝・感謝です。

土曜日は女将・由美さんの定休日なので、弁当も休み。

この日の夜は、大原さんと私に坂田さんを加えた3ジジで外食。

そんな夕食会で、ピザを作ろうという話になった。

本格的なピザは大変だからと、ピザ・トーストに落ちついた。

それが、4月14日に実行された。

pizza_toast.jpg

坂田さんと私は、まったく料理ができない。

自然の流れとして、シェフは大原さんということになる。

大原シェフの料理は、予想以上に美味しかった。

器用な男だ。

次週も、何か作ろうということになった。

ピザ・トーストを頬張りながら、それぞれが食べたい物をリクエストする。

「来週はスパゲティだね」というように、次週の献立がきまる。

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こうして土曜日の昼食は恒例となり、大原シェフが腕をふるうことになった。

大原さんにとっては、初めて挑戦する料理もある。

一週間ごとに課題が出された生徒のように、どうすれば美味しく食べられるか下調べも怠らない。

坂田さんと私は、食べる専門。

調味料などについての説明があるが、2人にとってはチンプンカンプン。

作り甲斐のない食客で、ゴメンなさい。

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4月28日:チャーハン

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5月05日:パエリア

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5月12日:焼うどん

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5月19日:ステーキ


昼食会は、坂田さんが帰国(21日)する2日前の19日まで続いた。

6週にわたって料理を作ってくれた大原さん、お疲れさまでした。

どれも美味しくいただきました。

また、いつかこんな催しをしたいですね。


45日間、ほぼ毎日の弁当の配達。

毎週土曜日の昼食会。

私の都合に合わせてバイクで送り迎えもしてくれた。

大原さんに、心から感謝。

おりがとうございました。
posted by ito-san at 15:59| Comment(2) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月19日

「スアールアグン芸術団」団長・スウェントラ氏逝去(199)

5月9日深夜(00時25分)ウブド在住の知人Aさんからメッセンジャーが届いた。

文面には「スウェントラさんの容態が非常に悪く」と書かれてあった。

察するに、以前から病気だったが、容態が悪化したということか。

「サンラー病院に入院されてますが、会いたい、と思われる方は躊躇せず会いに行った方がいいような状態です」

これって危篤ということでしょう。

「ステージ4のガンで、この2ヶ月ほど急激に容態が悪くなったようです」

ここ数年交流がなかったので、まったく知らなかった。

「奥様のKさんは、あまり公にしたくないようなので、スウェントラさんの昔からのお知り合いの方にだけ、取り敢えずお知らせさせていただいています」


スウェントラ氏は、ジェゴグ・ファンなら誰でも知っている「スアールアグン(Suar Agung)芸術団」団長さん。

廃れたジェゴグを復活させ、30年の間に世界的民族音楽に仕立てた中心人物だ。

私がスウェントラ氏を知ったのは、1992年のこと。

ウブドから車で5時間かけて、ジュンブラナ県ヌガラ郡サンカルアグン村のスウェントラ氏の屋敷に出かけた。

裏庭で、スアールアグンのジェゴグを鑑賞した。

ジェゴグ体験は2度目だが、スアールアグンを聴いたのは初めて。

視覚・聴覚に圧倒的なパワーを感じた。

波動が、大気と地面から押し寄せてくる。

いつのまにか涙を流していた、のを思い出す。

この感動を多くの人と分かち合いたいと「アパ?情報センター」主催で、定期公演を企画した。

5時間の道のりが苦でなかった。

定期公演が手を離れてからも、応援は続いている。


5月9日早朝(9時37分)には、知人NさんからLINEが届いた。

Aさんと、同じ内容のメールだった。

先日まで自宅で治療していた、と書かれていた。

入院先は、サンラーの肺専門病棟。

肺がんだったのか?

お見舞いについては「会いたい人は早めに行った方がいいかも」とあった。


5月9日(11時41分)Aさんから「個室に移るまでは、お見舞い控えてほしい、とのことです」と連絡が入った。

「個室に移ったらまた連絡をくれるそうです」

危篤状態なので、面会もままならないのだろう。

いや〜な胸騒ぎがする。


5月10日(午後3時51分)訃報の第一報は、Nさんから届いた。

逝去は、午後2時。

情報を得てから、瞬く間の急逝。

信じられないの一言。

信じたくないのかもしれない。

考えることを放棄した。


これより約1時間前(午後2時41分)名古屋の友人Mさんからメッセンジャーが届いていた。

スウェントラ氏の手術費用に対して、フェイスブックで寄付を募っているということだった。

他の知人からも「寄付をしたいのですが?」と、連絡が入っている。

奥様のKさんが公にしたくないというのだから、控えた方のがようだろうと思った。

内容がわからないので、私は名古屋の知人に、もう少し様子を見てからと返事をした。

すでに、この時には他界していたのだ。

寄付を募っていたのは、スウェントラ氏の息子グデ・オカさんだった。

アメリカに在住しているグデ・オカさんが英語でコメントしているのを、日本人の知人がシェアしていたようだ。


16日の火葬儀礼に参列してきた。





芸能解説:http://informationcenter-apa.com/gk_jegog.thml「ガムラン・ジェゴグ(jegog)」
極楽通信:http://informationcenter-apa.com/gt_jegog_1.html「感動の槌音・ジェゴグ」


1948年生まれのスウェントラ氏。

享年69歳は、私より1歳若い。

安らかな永眠をお祈りいたします。



*ウブドに絞り込んだ、ものすご〜くマニアックなYouTubeをやっています。
「いいね」ボタンを押してくださると、非常に励みになります。
YouTube伊藤博史の生涯旅人「バリ島ウブドに沈没」
https://www.youtube.com/@bali75
posted by ito-san at 23:07| Comment(2) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月12日

術後の経過報告です!(198)

5月5日、日本ではこどもの日。

私は、2週間ぶりの通院の日。

バイク事故から、ちょうど1ヶ月が経過した。

先回の通院の時に、担当の医師から包帯を巻かなくてよいと言われたが、突発的なことが怖くて外出する時には包帯をしている。

今日は担当医に会うので包帯を取って出かけた。

通院は、アパ?のワヤン君が付き添ってくれている。

ワヤン君のバイクを降り、病院に入ろうとして、いつもと違う様子を感じた。

救急処理室、受付、各医師の診療室と待合所が、解体されていたのだ。

うしろからガードマンの声がするので振り返ると、彼方を指差していた。

病院が、新館に移転したようだ。

真新しい病院は以前のような煩雑さはなく、各種窓口カウンターは整然として銀行のロービーのようになっていた。

先回の診察の時、レントゲンを撮ってくるように言われているので、まずはレントゲン室へ向かう。

胸部と右手のレントゲンを撮り終え、会計窓口に行って写真代を支払う。

病院での支払いは、デビットカードを使っている。

使い方も慣れた。

診療室は2階。

広い廊下の両側に、各診療室の扉が見える。

待合室は合同でなく、それぞれの掛かりつけの診療室前のベンチに座って待つ。

以前のように、人々でごった返していなかった。

30分ほど待って、名前が呼ばれた。

診療室は、以前より幾分広かった。

先生から傷の経過報告を受ける。

「まだ、骨が繋がっていないね」

先生は、レントゲン写真を見ながらそう言った。

「若けりゃ、もう大丈夫なんだろうが、あなたは老人だから遅いね」

ショックな言葉だったが、「そうなんだ」と納得した。

手のひらを包み込むようなジェスチャーをしながら「重いものを持たないようにして、リハビリしましょう」と言う。

「6月の2日か3日に、また来てください」

老人だから、用心に用心を重ねてもう1ヶ月様子を見ようということだろう。

今日で通院は最後だと思っていたのに、残念。

検診は、5分で終了。

診察費を支払って、病院をあとにする。

(注:病院で使われる言葉を知らないので、間違っていたらお許しください)


擦り傷のカサブタも取れ、手の甲の手術跡も外見的には完治しているように見える。

しかし、まだ痛さは残っている。

何もしない1ヶ月が過ぎ、身体と精神がそろそろ何かをしたがっている。

あと2週間くらいしたら、バイクを乗ろうかなとも、考えている。

2人乗りは無理だが、ゆっくり走れば心配ないだろう。

バイクが乗れるようになるまで、少し歩くことにしよう。

5月7日、「和食・影武者」まで、行くことにした。

小遣い稼ぎに置かせてもらっているココナッツ・オイルが、日曜日に行った時、残り少なくなっていたので届けたい。

まずはサレン王宮まで歩く。

怪我をした右手が、車やバイクに接触するのが怖くて右側を通行する。

包帯を巻いた右手をかばいながら歩く。

30分くらいで行けるだろうと思っていたら、40分もかかった。

これは年齢のせいだろう。

ウブド大通りサレン王宮前で、循環バス待ち。



バス停からウブド大通りを撮った動画。

15分間隔で走っているはずのバスだが、30分待たされた。

循環バスに乗って猿の森(モンキーフォレスト)の駐車場まで。

駐車場から、猿の森の脇道を通って影武者まで30分。

影武者で、昼食にカレーライスをいただく。

ネットを1時間ほどして、影武者をあとにした。

帰りは、来た時と逆のルート。

トータル5時間の散歩だった。

右手をどこかでぶつけることもなく、無事帰宅できた。

久しぶりに歩いたので、少々筋肉痛。

バイクを乗る予定の20日まで、まだ日にちがある。

あと2〜3度は、ウブドに歩くことにしよう。
posted by ito-san at 14:43| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする