息子からの電話で、別れた妻の訃報を聴いてから、すでに8が月以上が過ぎた。
「また、電話するから」は、荼毘の段取りがついたら連絡があるだろうと考えていた。
彼からかかってこない限り、私からは連絡の取りようがない。
なぜ、あのとき、連絡方法を聞かなかったのだろう。
電話をもらったのは、昨年の11月と記憶している。
この年は、親しい知人の不幸が続いた。
知り合いの死は切ない。
嫌いで別れたわけじゃない妻の死は、なお辛い。
電話は、東京から掛っていた。
「和食・影武者」に通話記録はあるのかな。
以前は、通話記録が送られてきていた。
記録が残っていれば、ありがたい。
残念だが現在、通話記録は送られていなかった。
このまま連絡が途絶えてしまうのが心配だ。
バスの中で見かけた彼女を、お金も持っていないのにコーヒーに誘った。
記憶は、しだいに色を帯び、甦ってきた。
薄れかけた記憶が流れ込んでくる。
時間が逆流し、次から次えと走馬灯のように記憶を映し出す。
私たちは、彼女が20歳になる前に結婚をした。
私が産院に駆けつけた時には、もう、妻の出産は終わっていた。
看護婦に「お子さんは、女の子でした」と告げられた。
妻は、疲れたのか眠っていた。
眼を覚ますのを待って「お疲れ様」と声を掛けた。
妻は涙ぐんでいた。
「赤ちゃんは、この産院では治療できない病気で、コロニーという施設に運ばれていった」
コロニーは、未熟児の施設だと看護婦に教えられた。
産院で治せない病気は、名古屋郊外の春日井市にあるコロニーに入院させるということを聞いた。
私は、次の日からコロニーに通った。
コロニーでは、リハビリに励んでいる身障者たちの姿が見受けられた。
プラスチックの箱に入った我が子は、天使のように可愛かった。
この子の身体のどこが悪いのだろう。
「病状は思わしくない」と医者は言う。
妻は、産院を3日目に退院し、家で、我が子の帰りを待っている。
1週間すると医者は「延命しますか?」と聞いてきた。
この子は、5万人に1人といわれる直腸が短い病気で、直ることはないと言う。
私は「妻と相談しますから」と即答を避けた。
次の日、2人でコロニーを訪れた。
出産後、始めての我が子との対面に、妻は、涙ぐんで娘の名前を連呼している。
私は、涙を飲んで、赤ん坊の点滴を外すことに承諾した。
我が子の死刑宣告人になってしまったのだ。
妻は、一度も生きている娘を抱くことが出来なかった。
もちろん、私も触れてもいない。
ベビー服は、一度も我が子が手を通すことはなかった。
ある日帰宅すると、テーブルの上に離婚届の用紙が置いてあり、妻の姿がなかった。
離婚届には、すでに、彼女の名前は書かれていた。
彼女の身体には、2度目の子供が宿っている。
初産で悲しい思いをしているので、妊娠は喜んでいるはずだ。
別れたい理由が、わからない。
私に、原因があるに違いない。
そんな会話を避けるかのように、姿を消した。
近くに住む義兄の家に行っているのだろう。
すぐに帰って来るだろうと、安易に考えていた。
いつまでも帰って来ていない。
忙しい仕事の合間を縫って、義兄の家を訪ねた。
引っ越したのか、空き家になっていた。
妻は、離婚届を置いて失踪したのだ。
失踪先は、郷里の札幌だろうと想像した。
実家の住所と電話番号も知らないが、役所で調べればわかるだろう。
ノンビリ構えているうちに、月日が流れていった。
今、これを書いていて、私は最低の男だと反省する。
懺悔の手記を、いつか必ず彼女の墓に届けたいと思う。