2018年07月11日

テーブルの上に離婚届!(209)

息子からの電話で、別れた妻の訃報を聴いてから、すでに8が月以上が過ぎた。

「また、電話するから」は、荼毘の段取りがついたら連絡があるだろうと考えていた。

彼からかかってこない限り、私からは連絡の取りようがない。

なぜ、あのとき、連絡方法を聞かなかったのだろう。

電話をもらったのは、昨年の11月と記憶している。

この年は、親しい知人の不幸が続いた。

知り合いの死は切ない。

嫌いで別れたわけじゃない妻の死は、なお辛い。

電話は、東京から掛っていた。

「和食・影武者」に通話記録はあるのかな。

以前は、通話記録が送られてきていた。

記録が残っていれば、ありがたい。

残念だが現在、通話記録は送られていなかった。

このまま連絡が途絶えてしまうのが心配だ。


バスの中で見かけた彼女を、お金も持っていないのにコーヒーに誘った。

記憶は、しだいに色を帯び、甦ってきた。

薄れかけた記憶が流れ込んでくる。

時間が逆流し、次から次えと走馬灯のように記憶を映し出す。

私たちは、彼女が20歳になる前に結婚をした。


私が産院に駆けつけた時には、もう、妻の出産は終わっていた。

看護婦に「お子さんは、女の子でした」と告げられた。

妻は、疲れたのか眠っていた。

眼を覚ますのを待って「お疲れ様」と声を掛けた。

妻は涙ぐんでいた。

「赤ちゃんは、この産院では治療できない病気で、コロニーという施設に運ばれていった」

コロニーは、未熟児の施設だと看護婦に教えられた。

産院で治せない病気は、名古屋郊外の春日井市にあるコロニーに入院させるということを聞いた。

私は、次の日からコロニーに通った。

コロニーでは、リハビリに励んでいる身障者たちの姿が見受けられた。

プラスチックの箱に入った我が子は、天使のように可愛かった。

この子の身体のどこが悪いのだろう。

「病状は思わしくない」と医者は言う。

妻は、産院を3日目に退院し、家で、我が子の帰りを待っている。

1週間すると医者は「延命しますか?」と聞いてきた。

この子は、5万人に1人といわれる直腸が短い病気で、直ることはないと言う。

私は「妻と相談しますから」と即答を避けた。

次の日、2人でコロニーを訪れた。

出産後、始めての我が子との対面に、妻は、涙ぐんで娘の名前を連呼している。

私は、涙を飲んで、赤ん坊の点滴を外すことに承諾した。

我が子の死刑宣告人になってしまったのだ。

妻は、一度も生きている娘を抱くことが出来なかった。

もちろん、私も触れてもいない。

ベビー服は、一度も我が子が手を通すことはなかった。


ある日帰宅すると、テーブルの上に離婚届の用紙が置いてあり、妻の姿がなかった。

離婚届には、すでに、彼女の名前は書かれていた。

彼女の身体には、2度目の子供が宿っている。

初産で悲しい思いをしているので、妊娠は喜んでいるはずだ。

別れたい理由が、わからない。

私に、原因があるに違いない。

そんな会話を避けるかのように、姿を消した。

近くに住む義兄の家に行っているのだろう。

すぐに帰って来るだろうと、安易に考えていた。

いつまでも帰って来ていない。

忙しい仕事の合間を縫って、義兄の家を訪ねた。

引っ越したのか、空き家になっていた。

妻は、離婚届を置いて失踪したのだ。

失踪先は、郷里の札幌だろうと想像した。

実家の住所と電話番号も知らないが、役所で調べればわかるだろう。

ノンビリ構えているうちに、月日が流れていった。

今、これを書いていて、私は最低の男だと反省する。

懺悔の手記を、いつか必ず彼女の墓に届けたいと思う。



posted by ito-san at 17:17| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする