2018年08月29日

合同火葬儀礼の季節って?(215)

バリ島は、毎年7月から9月の間、合同火葬儀礼の季節になる。

火葬儀礼は、バリのヒンドゥー教の大切な儀礼。

マジャパイト王朝時代(14世紀)に入ってきたもので、それまで庶民は土葬であった。

ジャワのヒンドゥー教の影響を拒絶したバリ・アガと呼ばれている村では、今でも土葬か風葬(遺体を地上に放置)だ。

個人葬が主流だった時代から、合同葬として、何年かごとに村で一括して行うことが増えている。

合同葬の場合、個人葬に比べて、各遺族の経済的負担が軽くなるという利点があるからだ。

それまでは、数年から10数年、中には数10年も仮埋葬したままの遺体があった。

インドネシア政府は、疫病の心配があるとして、一つの村で2年から6年の周期で火葬を行うように指導している。

合同火葬儀礼は、ガベン・マサル(Ngaben Masal)と呼ばれる。

個人火葬儀礼の場合は、スードラ階層は「ガベン(ngaben)」、トリワンサ階層(プダンダ、クシャトリア、ウエシャ)は「プレボン(plebon)」という。


8月16日、私がお世話になっているテガランタン村が合同火葬儀礼の日だった。

火葬儀礼は、ダラム寺院前の広場で行われる。

広場は、仮埋葬の場でもある。

カーストを持った家族のエリアと持たない家族のエリアとに分かれていた。

その時、初めて目にする光景が2つあった。

ひとつは、エリアから離れた場所で、ささやかな儀礼を行っている集団だ。

知り合いのバリ人に、この疑問を尋ねると、

このグループは、小さなうちに亡くなった子供たちの儀礼だという。

歯が生える前に亡くなった子供だ、と答えが返ってきた。

他の知人からは、ティガ・オトン(ウク暦210日で1年で、3年目の通過儀礼)を行っていない子供だ、と教えてくれた。

人間としての通過儀礼であるポトン・ギギ (Potong gigi)が終わっていないからだろうか?

疑問は残るが、これは課題にしておこう。


もう一つの疑問は、一体だけ全体とは違う方角を向いているプトゥルガン(棺桶)だ。

これは、この家族に聞いた。

彼らは、パセック(pasek )親族集団の一つであるプラサリ(pulasari)一族とのこと。

プラサリの一族だけが、東方が望めるように、遺体の頭部が西側に安置される。

ダラム・バトゥレンゴン王が君臨するゲルゲル王朝時代(16世紀)に、それまであった曖昧な階層は、王国中心の階層に塗り替えられた。

パセック(pasek )親族集団は、ゲルゲル王朝時代以前からあったバリ土着に集団。

プラサリは、ダラム・カルカンの子孫で、王族の跡目争いから逃れるために、パセックの農民に身を隠した。

その後、王宮に戻りたいと許しを請うたが「一度、野にくだった者は、農民として暮らせ」と許しを得ることができなかった。

この一族が、パセック・プラサリと呼ばれている。

頭の向きは、それと関係しているのかもしれない。

王族としての、遺体の位置を違えることで威厳を保ったのかもしれない。

いや、まだまだ知らないことがたくさんある。

だから止められない、バリ島滞在。





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2018年08月15日

やっと、お礼を伝えることができた(214)

8月4日。

バイク事故から、まる4ヶ月が経った。

事故直後、現場近くのホテルの青年スタッフが、親身になって世話をしてくれた。

その時のことは、まだ記憶に新しい。


バイクが横転した状態から素早く抜け出し、エンジンを止めた。

ここまでは冷静で速やかな行動だった。

立ってはいるが、全身が痛みで悲鳴をあげている。

死にいたるような怪我ではないのは、わかる。

何をどうしていいのやら判らない状態で、呆然としている。

後方、15メートルほどのところで、ガンという音がした。

振り返ると、私にぶつかったバイクが倒れていた。

音を聞きつけた人々が、ワラワラと現れる。

一人の青年が「大丈夫ですか?」と、私に声をかけてくれた。

あとの数人は、後方のバイクに向かったようだ。

私は、返事をしたのかどうか覚えていない。

右手からは、血が滴り落ちていた。

リュックから日本手ぬぐいを出して傷口を縛った。

手ぬぐいは、すぐに真っ赤になった。

青年は、私のバイクを起こし、押していった。

私は、彼のあとについていった。

近くのホテルの駐車場まで運んでくれた。

「ここに座ってください」フロントの椅子を指差した。

青年の服装を見て、ホテルのスタッフだと理解した。

ホテルのエントランスを汚すわけにはいかないので、中に入ることを拒んだ。

道路に面した方に向かい、エントランスの段差に腰を下ろした。

少し気持ちが落ち着き、全身をチェックする余裕ができた。

手ぬぐいを解き右手甲を見ると、小指と薬指の間の切り傷がかなり深いのが見えた。

出血は、ここからだ。

右手ヒジ、左右の足のヒザ、左右の足首に擦り傷がある。

打撲もしているようだ。

重傷というわけではない。

安心をしたら、状況が見えてきた。

いつまでも、ここにいるわけにはいかない。

私はスマホを取り出し、友人に迎えに来て欲しいと伝えた。

青年がミネラルウォーターを差し出した。

これで傷口を洗えと言っているのだ。

私は、彼の好意に甘えることにした。

渡されたミネラルウォーターで傷を洗う。

「友人が迎えに来るまで、もうしばらく、ここにいさせて欲しい」と頼んだ。

次には、消毒用に、赤チンを持ってきてくれた。

化膿の応急処置を施してくれている。

どこまで親切なスタッフだ。

赤チンを傷口にかける。

傷の痛みで、赤チンのしみる痛みを感じない。

青年は、友人が迎えに来るまで、ず〜と側にいて、心配してくれた。

床の汚れもそのままに、私はバイクを運転して「和食・影武者」に向かった。


世話をしてくれた青年に、まだ、お礼をしていない。

青年にお礼を述べておかないと、見舞いの寄付をしていただいた人々の暖かい行為に背くことになるような気がする。

それよりも自分の気持ちが許さない。

ほとんど毎日、時には昼夜の2度、青年の勤めるホテルの前を通り過ぎる。

気になっているので、前を通る時には必ず覗くようにしている。

横見は危ないけどね。

青年の顔が見えたら声をかけようと思っているのだが、未だに姿を見かけたことがない。

こうして、4ヶ月が過ぎてしまった。

記憶が色あせてしまう前に、是非、お礼を伝えたい。

シフト勤務で、会えないかもしれないが、伝言だけでも置いていこう。

皆んなで分けられるように、人気店のケーキを買って持ってホテルを訪れた。

フロントにいた青年は、事故の時に世話をしてくれた青年に似ている。

「4ヶ月前、ここの前でバイク事故をした者ですが」

青年は、覚えていてくれたようで「あの時は、私だったです」と、顔をほころばせた。

「傷は大丈夫ですか?」

さっそくケガの心配をしてくれる。

「ありがとう。すっかり良くなりました」

私は、何度もお礼を言った。

これで、思いがけずおこった災難の区切りがついた。

青年の名前は、エディ君。

出身は、クルンクン県パクサバリ村だった。

毎年クニンガン祭礼日に繰り広げられる「喧嘩神輿」で有名な村だ。

私は、何度も見学に行っている。

次回の喧嘩神輿は、エディ君の勇姿を見に行こうかな。

そんな約束をして別れた。


エディ君の勤務先は「yoga ubud villa」

yogaubudvillas.jpg

▪︎Address: Jln.Sri wedari no.999 ubud-Bali
▪︎TEL:+62 361 9082525
▪︎Email:booking@yogaubudvillas.com
▪︎Web:www.yogaubudvillas.com

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2018年08月05日

天変地異の脅威にさらされて(213)

「和食・影武者」の女将・由美さんは、毎週土曜日が休日。

出勤しない日に、私のスペシャル・夕ご飯は用意されない。

そんなわけで、土曜日は他の店で夕食をとることが多い。

以前は、毎週のように「和るん・あんかさ」に行っていた。

「あんかさ」に、コテツちゃんが顔を見せなくなってから、足が遠のいた。

コテツちゃんは、「あんかさ」のオーナー・カデちゃんの旦那様。

こんな説明は、いらないか?

最近、コテツちゃんが夜8時頃から店に居ることが多くなり、私の立ち寄る頻度も高くなった。


28日(土)

「あんかさ」で夕食。

コテツちゃんと大原さんと3人で雑談をしながら、時折、テレビの画面に目を向ける。

テレビでは、日本のニュースが流れていた。

海岸線の道路に、高波が押し寄せている映像だった。

続いて、台風12号が日本に上陸する予想図が出た。

愛知県を直撃するかに見える台風は、Uターンして関西方面に進路を変えようとしているらしい。

これは大変だ。

西日本は、7月6日から降り続いた豪雨で被害を被ったばかり。

未だに復旧されていない状態で、さらに追い打ちをかけられるのか。

これ以上の被害を受けなければいいが、と心配になる。

「バリも2〜3日前から、高波の被害を受けているよ」

コテツちゃんが教えてくれた。

波打ち際に建つ住宅やホテル、ワルンやレストランに被害が出ているようだ。

「流木は高波にさらわれて、海岸は綺麗なものだった」

大原さんが情報を提供してくれた。

海岸からゴミがなくなるのは喜ばしいことだが、海からなくなったわけではない。

波に打ち上げらえていないのは、海中に漂っているからだ。

海岸のゴミの山や海中を漂うゴミを、ニュースで目にすることがある。

観光地としてのイメージを著しくダウンする画像だ。

ゴミ問題の解決を急がなければ、観光地としてのバリの地位も危ぶまれる。

個人的には、せっかく見つけた流木の穴場が砂を被って埋没してしまったことが悲しい。

サーファの知人は、波が高くてありがたがっていた。


29日(日)

寝床で地震を感じた。

目覚まし時計を見ると、6時50分を指していた。

外では家族が騒いでいる。

私は、どうにでもなれという思いで、再び眠りにつく。

その後は、普段の日常に戻った。

インターネットでニュースを検索。

ニュースでは、29日午前7時(日本時間同8時)前、マグニチュード(M)6.4の地震があった、と報じている。

震源地は、ロンボク島のリンジャニ山付近。

震源の深さは7.5キロ。

国家防災庁は、少なくとも14人が死亡し160人以上が負傷したと発表した。

死亡した中には、観光客も含まれているようだ。

隣の島で死者の出るほどの地震が起きたことに、大きなショックを受けた。

幸いバリは震度2.5ほどで、被害は出ていない。

バリに震度6以上の地震があれば、造作の甘いバリの家屋は全壊するところが出るだろう。

私は、違う意味でも軽いショックを受けていた。

週末が予定で埋まったので、週明けの月曜日にロンボク島に行く予定をしていた。

それは、明日(30日)だった。

ウブドからパロマのシャトル・バスに乗り、ギリ諸島のアイルと呼ばれる小島に渡るつもりをしていた。

目的地のギリ諸島も、途中に立ち寄るマタラムの街も地震の被害を受けている。

週末に渡っていれば、私も被害に遭っていたかもしれない。

これは運が良かったと言える。

バリではアグン山の噴火、ロンボクでは地震、日本では大雨と台風。

人智で及ばない天変地異の脅威にさらされている。


30日(月):16.00

在デンパサール日本国総領事館から、メールが届いた。

1)29日,西ヌサ・トゥンガラ(NTB)州ロンボク島北東部において,M6.4の地震が発生し,その後も余震が断続的に続いています。

2)同島に滞在されている方や渡航を予定されている方におかれましては,土砂崩れや家屋が倒壊している当該地域への来訪は避け,関連する災害や事故に巻き込まれないよう安全確保に努めてください。

3)万一,関連する災害や被害にあった方または被害にあった方を認知した場合には,総領事館に御連絡ください。

4)なお,この地震を受け,リンジャニ山の北側斜面に土砂崩れが生じた模様であり,現在登山禁止措置が執られています。


台風は、その後、九州南部・奄美地方を抜けて遠ざかって行ったようなので安心した。

バリの高波もおさまりつつある。

ロンボク島の地震も小康している。

私は、流木拾い&ロンボク島行きを、しばらく様子を見ることにした。


★7月5日:再びロンボクでマグニチュード(M)7の地震があった。
私が体感したのは、午後7時50分。


posted by ito-san at 15:48| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする