バリ人が熱狂的に応援している、サッカーチームがある。
サッカーは、インドネシア語でスッパボーラ(Sepakbola)。
フットボール(Football)と呼ぶ国は、多い。
バリ州ギャニアール県に本拠地を置くフットボールクラブ「ペルシサム・プトラ・サマリンダ」。
一般的には「バリ・ユナイテッド」で通っている。
インドネシアのトップフライトであるリーガ「1」に出場する、プロ・サッカーチーム。
本拠地: ギャニャール・ Kapten I Wayan Dipta Stadium
監督: Stefano Cugurra Teco
設立: 1989年
所属リーグ: リーガ1、 AFCカップ
その本拠地スタジアムに、併設開店したのが「Bali United Café」。
存在は、サポーターしている友人のインスタグラムで知った。
そして、行ってきました「バリ・ユナイテッド・コーヒー」。
スタジアムに来たのは、これで2度目。
初回は、2017年11月12日。
「BALI UNITED」対「PERSEGRES」のインドネシア・リーグ戦。
初観戦で興奮した話は「http://itosan-ubud.seesaa.net/article/454964194.html・インドネシアのサッカー・リーグが熱い!(164)」を読んでみてください。
あれだけ興奮したのに、その後、一度も観戦していない。
スポーツは、自分でするのは好きだが、他人がするのはあまり見ない。
田んぼに中に作られたスタジアムは、遠くからでも見つけられるので、迷うことはない。
カフェは、観覧席の外周の下にある。
飲食店と子供の遊園地などの施設も揃っている。
この日(9月11日)は試合がない日だった。
それでも、幾人かの客がいる。
「Bali United Cafe」は今風のモダンなカフェで、夜はライブでもあるのか楽器が置かれたステージがあった。
こうして見ると、広いライブハウスにも見える。
喫煙コーナーが2箇所作られていて、1箇所はフィールドが見える位置にある。
テーブルにフィールドが描かれているのが、スタジアムらしい
一通り、店内を見学したあと、フィールドの見えるテーブルを確保。
カウンターで、メニュー用紙にカフェラティ(Rp6,000-)とチキンバーガー(Rp20,000-)にチェックを入れる。
安い!
これは、ローカルワルン価格だ。
支払いを済ませ、受付カードを手に、席に戻る。
サポーターの友人に、ホームで試合がある日の料金を聞いた。
二階にあるVIP席と同じ料金のRp200,000-で、食事と飲み物が付くようだ。
VIP席は、食事&飲み飲みは付かない。
ホームで試合がない日でも、アウェイでゲームがあればテレビで観戦できる。
テレビで観戦の日は、食事と飲み物が付くRp50,000-のパケットを購入する。
VIP席
クーラー付きで、Free WiFiもあるし、試合がなくても利用価値はある。
2019年09月25日
2019年09月21日
「ウブド・本の交換会」閉会(326)
寂しいニュースをお伝えしなければならない。
ウブドの人気イベント(自称?)だった「ウブド・本の交換会」が、閉会することになった。
9月1日「和るん・あんかさ」主催を持って、終了。
実に、100回。
幕開けの第1回は、2009年3月21日「カフェ・アンカサ」だった。
10年間、続いたことになる。
私が長期滞在を始めた1990年代、ウブドに紀伊国屋もBookOffもなかった。
あれから30年になろうとする、今もない。
バリ島内どこを探しても、日本の新書を扱う書店はなかった。
日本人のバックパッカーが手放していった本が、数件の古本屋で手に入る程度。
古本屋の本は、旅行記や精神世界系に偏っていた。
現在、古本屋の姿を見かけない。
知り合った旅行者が置いていった本が、数冊。
その本も、ほとんどが旅行記か精神世界系だった。
観光客が増えるとともに、日本語の書物が少しずつ手に入るようになった。
作者やジャンルも囚われている余裕はない。
恋愛・推理・歴史・エッセーなんでも読み漁った。
ビザ取得でシンガポールに出掛けると、三越百貨店内にある「紀伊国屋書店」を覗き、物色する。
税金が加算された本は節約旅行者には贅沢品で、一冊手に入れるのにサンザン悩んだことを思い出す。
長期滞在者のほとんどが、こんな読書事情の中で暮らしていたと思う。
私は、読書好きというわけではなかった。
日本では、ビジネス専門書かインテリアデザイン関係の雑誌しか読まない。
こんな私が、活字に恋しくなったんですよ。
貪欲に本を読みたい人には、本の絶対数が足らない。
「新しい本が読みた〜い!」
そんな要望から「ウブド・本の交換会」が、スタートした。
言い出しっぺたちが、実行委員スタッフに任命された。
ピンクのスタッフ・Tシャツ
最初は、純粋に本の交換が目的だった。
徐々に、コミュニティーの場としての役目も担っていった。
本を読む人が減っているようにも思われる。
インターネットに詳しくないが、電子書籍が読めるようになったのが大きな要因だろうか?
蔵書の新陳代謝が悪く、参加者の足が遠のいていく。
新陳代謝を促進するのは、旅行者の協力が必須だ。
旅行者に絶好の情報交換の場になるだろうと考えていたが、まったく見向きもされなかった。
何度も存続が危ぶまれたが、スタッフミーテングで打開策を考えてきた。
推薦本の紹介。
スタンプカードの発行。
交換の方法をポイント制にした。
本の交換だけでは人が集まらず、来場を促すために、さまざまなプランが出た。
フリーマーケットとバザーを併設した。
フリーマーケットの古着は、地元の娘さんたちに評判がよかった。
おでん、たこ焼き、お好み焼き・焼きそば、ラーメン、ピザ、ケーキ、豆腐、様々な総菜がテーブルに並んだ。
売り上げの10%が「ウブド・本の交換会」の活動資金としてご寄付された。
寄付金が貯まると、新作文芸書を購入した。
ポイントカードの景品購入に、寄付金を充てたこともある。
年末には「大ビンゴ大会」を催した。
景品のスポンサーになってくれた、ホテルやレストランやスパetcに感謝した。
一般公募した「ゆるキャラ・ハノメン」も、あと製作に入るだけという段階で頓挫してしまいましたね。
会場は「和るん・あんかさ(旧名:カフェ・アンカサ)」以外は、「ワルン・ソフィア」「和食レストラン・萬まる」「サリナ・ワルン」「ビンタン・ダイニング」「ティー・ルーム」と転々とした。
楽しい思い出がいっぱいだ。
打開策のアイデアも枯渇し、手の打ちようがなくなった。
惜しまれる声も聞こえるが、これも時代の流れ。
本を抱えて交換に来る人、イベントを楽しみにして参加してくれる人もいる。
気をきかせたリピーターさんが、土産に日本の小説を持って来てくれることが嬉しかった。
新刊をどっさ買い込んで交換会に寄付してくださった「本の運び屋」さん。
一人一人の暖かい行為が、交換会を盛り上げてくれた。
そんな方々には、申し訳ない気持ちがいっぱいだ。
最後に、会場を提供してくださったお店、フリーマーケットやバザーに出店してくださった方々、準備&後片づけに奔走してくれたボランティアのスタッフ、会場に足を運んでくださったすべての皆さま。
本当にありがとうございました。
ウブドの人気イベント(自称?)だった「ウブド・本の交換会」が、閉会することになった。
9月1日「和るん・あんかさ」主催を持って、終了。
実に、100回。
幕開けの第1回は、2009年3月21日「カフェ・アンカサ」だった。
10年間、続いたことになる。
私が長期滞在を始めた1990年代、ウブドに紀伊国屋もBookOffもなかった。
あれから30年になろうとする、今もない。
バリ島内どこを探しても、日本の新書を扱う書店はなかった。
日本人のバックパッカーが手放していった本が、数件の古本屋で手に入る程度。
古本屋の本は、旅行記や精神世界系に偏っていた。
現在、古本屋の姿を見かけない。
知り合った旅行者が置いていった本が、数冊。
その本も、ほとんどが旅行記か精神世界系だった。
観光客が増えるとともに、日本語の書物が少しずつ手に入るようになった。
作者やジャンルも囚われている余裕はない。
恋愛・推理・歴史・エッセーなんでも読み漁った。
ビザ取得でシンガポールに出掛けると、三越百貨店内にある「紀伊国屋書店」を覗き、物色する。
税金が加算された本は節約旅行者には贅沢品で、一冊手に入れるのにサンザン悩んだことを思い出す。
長期滞在者のほとんどが、こんな読書事情の中で暮らしていたと思う。
私は、読書好きというわけではなかった。
日本では、ビジネス専門書かインテリアデザイン関係の雑誌しか読まない。
こんな私が、活字に恋しくなったんですよ。
貪欲に本を読みたい人には、本の絶対数が足らない。
「新しい本が読みた〜い!」
そんな要望から「ウブド・本の交換会」が、スタートした。
言い出しっぺたちが、実行委員スタッフに任命された。
ピンクのスタッフ・Tシャツ
最初は、純粋に本の交換が目的だった。
徐々に、コミュニティーの場としての役目も担っていった。
本を読む人が減っているようにも思われる。
インターネットに詳しくないが、電子書籍が読めるようになったのが大きな要因だろうか?
蔵書の新陳代謝が悪く、参加者の足が遠のいていく。
新陳代謝を促進するのは、旅行者の協力が必須だ。
旅行者に絶好の情報交換の場になるだろうと考えていたが、まったく見向きもされなかった。
何度も存続が危ぶまれたが、スタッフミーテングで打開策を考えてきた。
推薦本の紹介。
スタンプカードの発行。
交換の方法をポイント制にした。
本の交換だけでは人が集まらず、来場を促すために、さまざまなプランが出た。
フリーマーケットとバザーを併設した。
フリーマーケットの古着は、地元の娘さんたちに評判がよかった。
おでん、たこ焼き、お好み焼き・焼きそば、ラーメン、ピザ、ケーキ、豆腐、様々な総菜がテーブルに並んだ。
売り上げの10%が「ウブド・本の交換会」の活動資金としてご寄付された。
寄付金が貯まると、新作文芸書を購入した。
ポイントカードの景品購入に、寄付金を充てたこともある。
年末には「大ビンゴ大会」を催した。
景品のスポンサーになってくれた、ホテルやレストランやスパetcに感謝した。
一般公募した「ゆるキャラ・ハノメン」も、あと製作に入るだけという段階で頓挫してしまいましたね。
会場は「和るん・あんかさ(旧名:カフェ・アンカサ)」以外は、「ワルン・ソフィア」「和食レストラン・萬まる」「サリナ・ワルン」「ビンタン・ダイニング」「ティー・ルーム」と転々とした。
楽しい思い出がいっぱいだ。
打開策のアイデアも枯渇し、手の打ちようがなくなった。
惜しまれる声も聞こえるが、これも時代の流れ。
本を抱えて交換に来る人、イベントを楽しみにして参加してくれる人もいる。
気をきかせたリピーターさんが、土産に日本の小説を持って来てくれることが嬉しかった。
新刊をどっさ買い込んで交換会に寄付してくださった「本の運び屋」さん。
一人一人の暖かい行為が、交換会を盛り上げてくれた。
そんな方々には、申し訳ない気持ちがいっぱいだ。
最後に、会場を提供してくださったお店、フリーマーケットやバザーに出店してくださった方々、準備&後片づけに奔走してくれたボランティアのスタッフ、会場に足を運んでくださったすべての皆さま。
本当にありがとうございました。
2019年09月14日
ランプシェードの製作・ハウツー(325)
旅のブログはひとまずお休みにして、しばらくはウブドでの近況を報告します。
モンキーフォレスト通りにある「和るん・あんかさ」に、私の作ったランプシェードが4つぶら下がっている。
お客様がその内の一つを選ばれ、「あれと同じデザインのランプシェードが欲しい」と要望があった。
こんなことは珍しいので、快く受注した。
そんなわけで久しぶりに、製作することになった。
「和るん・あんかさ」のランプシェード
その製作過程を紹介したいと思う。
何年も前の作品なので、作り方を忘れている部分もあり、同じようにできるか自信がない。
下地のフレームには竹ひごを使うことが多いが、「あんかさ」のランプシェードには、曲げやすい2ミリの銅線を使っているので同じものにした。
ウブドでは電線しか売っていないので、ビニールの被覆を剥がす作業から始まる。
仕上がりが、縦横50センチのボール型のランプシェードを想定。
電球の取り出し口として、下部開放部の幅を20センチと設定。
横50センチと開放部幅20センチに見合う直径の輪っかを作る。
輪っかは、銅線の先を曲げて繋ぐ。
繋ぎ目は飛び出ないように、金槌で叩いてできるだけ平らにする。
こうしておかないと、紙が貼り難くなってしまう。
フレームの形は説明が難しいので、各自で苦労してください。
大小2つの輪っかを繋いていく。
図面通りにはいかないので、行き当たりばったり。
センスが発揮される作業です。
注意点は、吊るために中心のバランスを取ること。
銅線の繋ぎ目も、平らにすることを忘れないように。
針金は、凧紐でキツく縛っていく。
縛り目は、中側。
縛り目の紐は短く切って、木工ボンドで押さえる。
フレームが完成したら、いよいよ紙を張ります。
銅線に、筆で木工ボンドを塗る。
クリップで留めながら、紙を張っていく。
はみ出た紙は、ボンドが乾くのを待って、カッターで切り落とす。
重ね目は、銅線の細さに切って張る。
この作業が、一番神経を使います。
注文のランプシェードは、住宅に使われるということなので、「あんかさ」の時より丈夫に作った。
「あんかさ」のが丈夫じゃないという意味ではなく、反省点を加味した結果です。
そんなわけで、同じデザインにはならなかった。
一品ものだから、勘弁して欲しい。
今回のバナナ・ペーパーは、先回マゲランで指導した人たちの作品を送ってもらった。
彼らとのコラボレーション作品というわけだ。
なかなかの出来栄えだと、自画自賛しております。
しかし、疲れた〜!
バイク事故の右手の後遺症と、老齢化のせいだと思う。
注文は承っていません。
完成したランプシェード
モンキーフォレスト通りにある「和るん・あんかさ」に、私の作ったランプシェードが4つぶら下がっている。
お客様がその内の一つを選ばれ、「あれと同じデザインのランプシェードが欲しい」と要望があった。
こんなことは珍しいので、快く受注した。
そんなわけで久しぶりに、製作することになった。
「和るん・あんかさ」のランプシェード
その製作過程を紹介したいと思う。
何年も前の作品なので、作り方を忘れている部分もあり、同じようにできるか自信がない。
下地のフレームには竹ひごを使うことが多いが、「あんかさ」のランプシェードには、曲げやすい2ミリの銅線を使っているので同じものにした。
ウブドでは電線しか売っていないので、ビニールの被覆を剥がす作業から始まる。
仕上がりが、縦横50センチのボール型のランプシェードを想定。
電球の取り出し口として、下部開放部の幅を20センチと設定。
横50センチと開放部幅20センチに見合う直径の輪っかを作る。
輪っかは、銅線の先を曲げて繋ぐ。
繋ぎ目は飛び出ないように、金槌で叩いてできるだけ平らにする。
こうしておかないと、紙が貼り難くなってしまう。
フレームの形は説明が難しいので、各自で苦労してください。
大小2つの輪っかを繋いていく。
図面通りにはいかないので、行き当たりばったり。
センスが発揮される作業です。
注意点は、吊るために中心のバランスを取ること。
銅線の繋ぎ目も、平らにすることを忘れないように。
針金は、凧紐でキツく縛っていく。
縛り目は、中側。
縛り目の紐は短く切って、木工ボンドで押さえる。
フレームが完成したら、いよいよ紙を張ります。
銅線に、筆で木工ボンドを塗る。
クリップで留めながら、紙を張っていく。
はみ出た紙は、ボンドが乾くのを待って、カッターで切り落とす。
重ね目は、銅線の細さに切って張る。
この作業が、一番神経を使います。
注文のランプシェードは、住宅に使われるということなので、「あんかさ」の時より丈夫に作った。
「あんかさ」のが丈夫じゃないという意味ではなく、反省点を加味した結果です。
そんなわけで、同じデザインにはならなかった。
一品ものだから、勘弁して欲しい。
今回のバナナ・ペーパーは、先回マゲランで指導した人たちの作品を送ってもらった。
彼らとのコラボレーション作品というわけだ。
なかなかの出来栄えだと、自画自賛しております。
しかし、疲れた〜!
バイク事故の右手の後遺症と、老齢化のせいだと思う。
注文は承っていません。
完成したランプシェード
2019年09月12日
ロンボク島・バイクツーリング・最終回(324)
いよいよ、ロンボク島のメモも最終回になった。
どんな結末になるか、最後までお楽しみください。
今日、バリ島に戻ることにした。
早朝に出立すれば、夕方にはウブドに着く。
ホテルの朝食は、サービスされない契約なので、途中でどこかに立ち寄ろう。
ロンボクは、先住民ササック族の島。
帰路の沿道に、ササック族の部落がある。
前回に来た時に一度来ているので、立ち寄るとすれば二度目の訪問になる。
はずであったが、見逃して通り過ぎてしまった。
バイクのガソリンが残り少なたったので、立ち寄った小店が、偶然にも部落の入り口近くだった。
併設されたワルンに、数人の男性客がいる。
私は、コピを頼んで、側にあった石に腰を下ろした。
「はい、コピ・ロンボク」女将が手渡した。
話し好きな人たちと見えて、いろいろと質問してくる。
途中から、インドネシア語でない単語が混じる。
ササック語のようだ。
どこの民族も地元の言葉を教えたがりで、しきりにササック語で話しかけてくる。
雑談しているうちに、部落に入ることがどちらでもよくなり、話し込んでしまった。
彼らも、執拗に入場をすすめてこなかった。
それでも、部落の変化を確かめようと入場口を覗いてみた。
入ってすぐのところに売店が並んでいる風景が見えて、それ以上進むことを遠慮した。
新国際空港のプラヤ(PRAYA)も、道中にある。
国際空港の雰囲気は乏しい。
レストランに入って昼食にサンドイッチと思ったが、それらしい店が見つからなかった。
さあ、あとはLembar港まで、直行だ、
Lembarの港に到着。
走行距離のメーターは、34376.1を指していた。
出発時のメーターを引くと、34376.1ー34005.6=およそ370キロを走ったことになる。
この距離が多いのか少ないのかわからないが、ノンビリした旅には違いない。
愛バイク・スクーピーは、故障も事故もなく無事にウブドまで送り届けてくれそうだ。
フェリーの待ち時間は、一時間ほど。
物売りから飲み物とスナック菓子を買い、縁石に腰を下ろして時間を潰す。
フェリーに乗り込み、バイクを止めてデッキに登る。
階段の途中で、乗組員の男性に声を掛けられた。
「レンタル・ルームがある」と言うと、背中を見せてさっさと歩いて行く。
ついていくと、船内の扉を開けた。
中は、衣服などが雑然としていて、狭くて息の詰まりそう部屋だった。
どうやら、船員専用の寝室のようだ。
「Rp150,000-でどうだ?」
彼は私のようなツーリストに、自分の部屋を貸してアルバイトをしているのだろう。
丁重に断って、その場を離れた。
フェリー内の休憩室に、マットの敷かれたエリアがある。
マットは、畳一枚分の大きさで、10枚ほどが敷き詰められていた。
茶色のビニールカバーが張られた、厚さ6センチほどの代物だ。
横になっていると、係員(のような)の男性にRp50,000-を請求された。
高いと思ったが、眠りたかったので、値段交渉もせずに支払った。
となりで寝転がっていたオヤジは、Rp30,000-請求されていた。
やっぱりボラれたか。
オヤジは、クッションを剥がして板の間に横になった。
こううい手があったのか。
汽笛が聴こえる。
パダンバイ(padangbai)港に、近づいようだ。
クッションのおかげで、疲れはまったくない。
この体調なら、ウブドまでのバイク走行も難なくこなせそうだ。
バリ島への下船も、ロンボク島同様にノーチェック。
以前、バニワンギに旅をした帰路のフェリーでは、ポリスによるパスポートとバイク証明書の厳重なチェックがあった。
テロ対策は、しなくなったのか。
それとも、ジャワ島からの入島だけがチェックされるのか。
こうして、ガルンガン祭礼日を避けた三泊四日のバイクツーリングの旅は終わったのであった。
どんな結末になるか、最後までお楽しみください。
今日、バリ島に戻ることにした。
早朝に出立すれば、夕方にはウブドに着く。
ホテルの朝食は、サービスされない契約なので、途中でどこかに立ち寄ろう。
ロンボクは、先住民ササック族の島。
帰路の沿道に、ササック族の部落がある。
前回に来た時に一度来ているので、立ち寄るとすれば二度目の訪問になる。
はずであったが、見逃して通り過ぎてしまった。
バイクのガソリンが残り少なたったので、立ち寄った小店が、偶然にも部落の入り口近くだった。
併設されたワルンに、数人の男性客がいる。
私は、コピを頼んで、側にあった石に腰を下ろした。
「はい、コピ・ロンボク」女将が手渡した。
話し好きな人たちと見えて、いろいろと質問してくる。
途中から、インドネシア語でない単語が混じる。
ササック語のようだ。
どこの民族も地元の言葉を教えたがりで、しきりにササック語で話しかけてくる。
雑談しているうちに、部落に入ることがどちらでもよくなり、話し込んでしまった。
彼らも、執拗に入場をすすめてこなかった。
それでも、部落の変化を確かめようと入場口を覗いてみた。
入ってすぐのところに売店が並んでいる風景が見えて、それ以上進むことを遠慮した。
新国際空港のプラヤ(PRAYA)も、道中にある。
国際空港の雰囲気は乏しい。
レストランに入って昼食にサンドイッチと思ったが、それらしい店が見つからなかった。
さあ、あとはLembar港まで、直行だ、
Lembarの港に到着。
走行距離のメーターは、34376.1を指していた。
出発時のメーターを引くと、34376.1ー34005.6=およそ370キロを走ったことになる。
この距離が多いのか少ないのかわからないが、ノンビリした旅には違いない。
愛バイク・スクーピーは、故障も事故もなく無事にウブドまで送り届けてくれそうだ。
フェリーの待ち時間は、一時間ほど。
物売りから飲み物とスナック菓子を買い、縁石に腰を下ろして時間を潰す。
フェリーに乗り込み、バイクを止めてデッキに登る。
階段の途中で、乗組員の男性に声を掛けられた。
「レンタル・ルームがある」と言うと、背中を見せてさっさと歩いて行く。
ついていくと、船内の扉を開けた。
中は、衣服などが雑然としていて、狭くて息の詰まりそう部屋だった。
どうやら、船員専用の寝室のようだ。
「Rp150,000-でどうだ?」
彼は私のようなツーリストに、自分の部屋を貸してアルバイトをしているのだろう。
丁重に断って、その場を離れた。
フェリー内の休憩室に、マットの敷かれたエリアがある。
マットは、畳一枚分の大きさで、10枚ほどが敷き詰められていた。
茶色のビニールカバーが張られた、厚さ6センチほどの代物だ。
横になっていると、係員(のような)の男性にRp50,000-を請求された。
高いと思ったが、眠りたかったので、値段交渉もせずに支払った。
となりで寝転がっていたオヤジは、Rp30,000-請求されていた。
やっぱりボラれたか。
オヤジは、クッションを剥がして板の間に横になった。
こううい手があったのか。
汽笛が聴こえる。
パダンバイ(padangbai)港に、近づいようだ。
クッションのおかげで、疲れはまったくない。
この体調なら、ウブドまでのバイク走行も難なくこなせそうだ。
バリ島への下船も、ロンボク島同様にノーチェック。
以前、バニワンギに旅をした帰路のフェリーでは、ポリスによるパスポートとバイク証明書の厳重なチェックがあった。
テロ対策は、しなくなったのか。
それとも、ジャワ島からの入島だけがチェックされるのか。
こうして、ガルンガン祭礼日を避けた三泊四日のバイクツーリングの旅は終わったのであった。
2019年09月05日
ロンボク島・バイクツーリング・その五(323)
なんと、6時間走りっぱなしだった。
ロンボク島の南海岸にあるクタ・ビーチは、すっかり様変わりしていた。
入り口には波乗りのモニュメントが建ち、記憶の欠片も見当たらない。
本当に、ここで良いのかと戸惑ってしまう。
目指した安ロスメンは見当たらず、海岸沿いに向かうと、ゲートがあり車&バイクの乗り入れのチェックがある。
海岸沿いの道路は、広い石畳となり全面遊歩道になっていて、リゾート化している。
以前にあった、バンガロー棟は消え、新しいホテルが建っていた。
どれだけ変貌したか1996年4月15日発行の「極楽通信・UBUD Vol.13」に、小田蘭丸のペンネームで私が投稿した記事があるのでそれを読んでもらいたい。
クタの村を入り、四つ角を左に折れると海岸線に並行して路肩の朽ちたアスファルトの一本道が続く。
右手に海岸、左手にはバンガローが点在している。
シャトルバスは、「Segara Anak」バンガローの前に止まった。
売店のような小屋は、プラマ社のオフィスだ。
15、6歳の少年がバンガローの客引きに来るが、彼らの世話にならずにバンガローは簡単に探せる。
バンガローは一軒一軒が広い敷地を持っていて、レストランを併設しているところが多い。
部屋はいたって質素で、ウブドのバンガローを想像すると雲泥の差である。
海岸はリアス式で、入江になっている。
道路脇はくるぶしまで埋まってしまう白いパウダー状の砂だが、浜辺は2mmほどの豆粒状の砂だった。
近くには未開発の海岸が無数にあり、どの海岸の水も限りなく透明に近いブルーで、すこぶる美しい。
最近、リゾート地として名が知られてきたが、プール付きの立派なホテルはまだない。
かつてのギリ諸島がそうであったように、荒地に簡素な建物が建っているだけである。
宿代は安いが、かなりチープな旅に慣れた人でないと宿泊は難しいかもしれない。
料金は、Rp5,000〜Rp25,000-まで。
ブランケットのないところもあるようなので、サロン(布)を用意して行くのがよいだろう。
バンガローでレンタルの自転車やバイクを手配してくれる。
自転車はRp5,000-、バイクはRp15,000-。
バイクは数が少ないためかレンタル料は高め。
バイクを借りて村を一望できる丘まで登ると、眼下に広がる風景は原始そのままを思わせる。
海岸には子供たちのパイナップルやマンゴ売りが、かなりしつこくつきまとって来る。
遠出でして他の海岸へ行くのも良いが、体長60cmほどもあるトカゲが道を飛び出してくるので要注意。
海岸は、すでにインドネシア政府に買い占められ、今建っている海岸沿いのバンガローはすべて西側に強制的に移動させられ、その跡地にはドイツ、スイス、日本などの外国資本の高級ホテルが建つリゾート計画があると聞いた。
新国際空港がプラヤ(PRAYA)に1996年に着工され、2000年開港の予定だ。
そのころには、ロンボク島クタも一大リゾート地になっていることだろう。
23年ぶりに訪れて、予想した通りになっていた。
参考のために、1996年に作ったイラストマップを添付しておく。
とりあえず、以前の面影を残す崩れかかったバンガローに入った。
名前は「SURFERS INN」。
目の前の海岸に、サーファーの姿はない。
フロントには誰の姿もなく、庭に座り込んでスマホを見ている3人の若者に声を掛ける。
リーダと思われる女性が立ち上がり、部屋の説明をする。
進んでお客を勧誘するつもりはないようだ。
部屋数が多いのに、客の姿が見えない。
オーナー不在で、スタッフはやる気をなくしているようだ。
このバンガロー、数年後には無くなっているだろうと、お節介な気分になる。
クーラー&ホットシャワー付きRp30,0000-の部屋を、朝食なしでRp150,000-で値段交渉成立。
WIFIがあると言っていたが一番奥の部屋で、電波は届いていなかった。
部屋は清潔で、申し分なかった。
暑いイメージのあったクタだったが、陽射しが強い割りに暑くなかった。
部屋のクーラーも必要はなかった。
今日は、私の72歳の誕生日。
独り物思いにしたりながら、ワルンで夕食。
今回の旅の目的のひとつに、誕生日を独り静かに迎えたいというのもあった。
人生を振り返り、余生を熟考する。
ロンボク島の南海岸にあるクタ・ビーチは、すっかり様変わりしていた。
入り口には波乗りのモニュメントが建ち、記憶の欠片も見当たらない。
本当に、ここで良いのかと戸惑ってしまう。
目指した安ロスメンは見当たらず、海岸沿いに向かうと、ゲートがあり車&バイクの乗り入れのチェックがある。
海岸沿いの道路は、広い石畳となり全面遊歩道になっていて、リゾート化している。
以前にあった、バンガロー棟は消え、新しいホテルが建っていた。
どれだけ変貌したか1996年4月15日発行の「極楽通信・UBUD Vol.13」に、小田蘭丸のペンネームで私が投稿した記事があるのでそれを読んでもらいたい。
クタの村を入り、四つ角を左に折れると海岸線に並行して路肩の朽ちたアスファルトの一本道が続く。
右手に海岸、左手にはバンガローが点在している。
シャトルバスは、「Segara Anak」バンガローの前に止まった。
売店のような小屋は、プラマ社のオフィスだ。
15、6歳の少年がバンガローの客引きに来るが、彼らの世話にならずにバンガローは簡単に探せる。
バンガローは一軒一軒が広い敷地を持っていて、レストランを併設しているところが多い。
部屋はいたって質素で、ウブドのバンガローを想像すると雲泥の差である。
海岸はリアス式で、入江になっている。
道路脇はくるぶしまで埋まってしまう白いパウダー状の砂だが、浜辺は2mmほどの豆粒状の砂だった。
近くには未開発の海岸が無数にあり、どの海岸の水も限りなく透明に近いブルーで、すこぶる美しい。
最近、リゾート地として名が知られてきたが、プール付きの立派なホテルはまだない。
かつてのギリ諸島がそうであったように、荒地に簡素な建物が建っているだけである。
宿代は安いが、かなりチープな旅に慣れた人でないと宿泊は難しいかもしれない。
料金は、Rp5,000〜Rp25,000-まで。
ブランケットのないところもあるようなので、サロン(布)を用意して行くのがよいだろう。
バンガローでレンタルの自転車やバイクを手配してくれる。
自転車はRp5,000-、バイクはRp15,000-。
バイクは数が少ないためかレンタル料は高め。
バイクを借りて村を一望できる丘まで登ると、眼下に広がる風景は原始そのままを思わせる。
海岸には子供たちのパイナップルやマンゴ売りが、かなりしつこくつきまとって来る。
遠出でして他の海岸へ行くのも良いが、体長60cmほどもあるトカゲが道を飛び出してくるので要注意。
海岸は、すでにインドネシア政府に買い占められ、今建っている海岸沿いのバンガローはすべて西側に強制的に移動させられ、その跡地にはドイツ、スイス、日本などの外国資本の高級ホテルが建つリゾート計画があると聞いた。
新国際空港がプラヤ(PRAYA)に1996年に着工され、2000年開港の予定だ。
そのころには、ロンボク島クタも一大リゾート地になっていることだろう。
23年ぶりに訪れて、予想した通りになっていた。
参考のために、1996年に作ったイラストマップを添付しておく。
とりあえず、以前の面影を残す崩れかかったバンガローに入った。
名前は「SURFERS INN」。
目の前の海岸に、サーファーの姿はない。
フロントには誰の姿もなく、庭に座り込んでスマホを見ている3人の若者に声を掛ける。
リーダと思われる女性が立ち上がり、部屋の説明をする。
進んでお客を勧誘するつもりはないようだ。
部屋数が多いのに、客の姿が見えない。
オーナー不在で、スタッフはやる気をなくしているようだ。
このバンガロー、数年後には無くなっているだろうと、お節介な気分になる。
クーラー&ホットシャワー付きRp30,0000-の部屋を、朝食なしでRp150,000-で値段交渉成立。
WIFIがあると言っていたが一番奥の部屋で、電波は届いていなかった。
部屋は清潔で、申し分なかった。
暑いイメージのあったクタだったが、陽射しが強い割りに暑くなかった。
部屋のクーラーも必要はなかった。
今日は、私の72歳の誕生日。
独り物思いにしたりながら、ワルンで夕食。
今回の旅の目的のひとつに、誕生日を独り静かに迎えたいというのもあった。
人生を振り返り、余生を熟考する。