彼女との一番の思い出は、出会いだ。
社会人(24才)となって初めて勤めた会社は、空間設計の事務所だった。
その会社には、3年間勤めた。
宮仕えは、これが最初で最後の経験。
この日、愛車Nコロ(ホンダの軽自動車・N360)が故障して、会社へは市バスで出勤した。
朝のラッシュのバスに乗るのは、初めてだ。
一日の疲れた身体を引きずっての帰宅もバス。
起点駅からビジネスマンやビジネスウーマンで、ギュウギュウ詰めになった。
車内は、人いきれで息苦しい。
私の下車駅は終点のふたつ手前で、1時間ほどかかる。
車窓からは、夜の闇しか見られない。
吊り革につかまり、居眠りするために目を閉じた。
風を感じて目を開けた。
行程の中間地点の駅で、乗客の半数ほどが降りたようだ。
吊り革に身体を預けている、ひとりの女性に魅せられた。
背の高いスリムな姿にパンタロンが似合っていた。
そこだけに、スポットが当たったようにクローズアップされている。
愛車が故障して、仕方なく乗ったバスに乗り合わせた女性に、運命の巡り合わせを感じた。
乗降口の近くのひとり席に、彼女は腰を下ろした。
彼女の全身が見えなくなったのは、残念だ。
乗客がまばらになった車内で、私は、どう声をきっかけを作ろうか悩んでいる。
彼女は仕事をしている女性に見える。
きっと、通勤にこのバスを使っているのだろう。
彼女に会うために、この時間帯のバスに乗ればきっかけはできる。
しかし、私は明日からNコロ出社だ。
このチャンスを逃してはいけない。
私の高揚感を今、伝えたい。
空席が目立つのに立っているのは不自然だと、私は最後部の座席に腰をおろした。
ここからなら、彼女の姿が見える。
終点に近づくにつれて、乗客は減っていく。
彼女に、降りる気配はない。
私は、次の駅で降りなくてはならない。
バスが止まり、自動ドアーが開いた。
彼女は降りない。
私も降りなかった。
次の駅でも、彼女は降りなかった。
この次は、終着駅だ。
彼女が降りた。
私は、そのあとに続いて降りた。
今のご時世なら、ストーカーと言われてしまうような行動だ。
そんな常識には、かまっていられない。
私は、彼女の背中を見ながら、どう声を掛けたものか悩んでいる。
家路を急いで、乗客2〜3人が追い越していった。
彼女は、私のことをまったく気に掛けず、前を歩いている。
こんな暗闇で後ろから声を掛ければ、彼女はきっと、怖がって逃げてしまうだろう。
あきらめよう、という心とは裏腹に、私は声を掛けていた。
「あの〜、すみませんが、お茶でも飲みませんか?」
彼女は、ビックリした顔で振り返り、私を覗くようにして見た。
しばらくの間をおいて、彼女の口から「いいですよ」の幸運な言葉が返ってきた。
2人は、バス停近くに1軒しかない小さな喫茶店に入った。
北海道出身だということ。
東京の高校を卒業したこと。
名古屋の有名ブティックに就職したこと。
最終のバスがなくなるまで話をした。
喫茶店の閉店を告げられ、支払いをしようと財布を開いた。
恥ずかしい話だが、財布にはお金が入っていなかった。
「ごめんなさい。お金持っていないので、おごってくれる」
なんて、ず〜ず〜しい奴だと、彼女は思っただろう。
このあと、連絡先を聞いて、私は2駅を歩いて家に帰った。
この機の逃してはというあせる気持ちが、私をこんな恥も外聞もない行動にさせたのだろう。
これは一目惚れ。
彼女が18才の春だった。
続く・