こうして書いているうちに、少しずつ思い出してくる。
鮮明に浮かぶこともあるが、たいていはおぼろげに駆け抜けていく。
音信不通だった私を探し当ててくれたのは、元妻だった。
彼女から厚みのある封書が届いた。
実に、私の前から姿を消してから20年ぶりの音信だ。
私の同級生だった「人畜無害」の大家さんに、消息を尋ねたようだ。
誰にも告げずに日本を発ったが、時が経てば、それなりに情報も伝わるようだ。
手紙には、息子の素行が荒れていると書かれていた。
行く末が心配だから、お父さんから意見をしてくれという頼みだった。
父親の役目を果たしていない私に、そんな資格があるのだろうか。
息子には、一度も会ったことのないのだ。
ずっと連絡を取っていない息子に「会って欲しい」という、彼女の願いは聞き入れなくてはいけない。
それは私の勤めだろう。
私は、喜んで請け負った。
20歳になった息子がバリに訪ねてくることになった。
私は、どう対応していいものか悩んでいた。
こころに動揺を抱えて、空港に迎えに行った。
ミーティングポイントでの、私の第1声は「やあ〜!」だった。
ネームカード掲げていたかは、定かでない。
感動的な涙の初対面になると思っていたが、ハグもない、あっさりしたものだった。
息子も困惑していたように見える。
緊張していたのかもしれない。
前妻の細腕で育てた息子。
私より少し背が高く、両親のようにスリムだった。
顔立ちは、どちらに似てるのだろう。
どちらかと言えば、母親似かもしれない。
私が長期滞在していた「ロジャーズ・ホームステイ」に投宿した。
父親がどんな生活をしていたか見て欲しかった。
レンタバイクを借り、バトゥール山の裾野を走った。
口数の少ない子だった。
言葉を交わすことは少なかったが、親子として行動した。
母親は、父親のことをどんな風に伝えているのだろうか。
気にかかるが、聞くことはできなかった。
息子からも、何も質問はなかった。
どんな感情で父親を観察しているのだろう。
今は、私はの姿を見せることしかできない。
聞きたいこと話したいことは、たくさんある。
その時は、ありきたりの対応しかできなかった。
嬉しかったはずだが、戸惑ってもいた。
数年後、母子でウブドを訪ねて来てくれた。
「ブンブン・カフェ」の商品を仕入れていった。
彼女の住む市で、住民の起業を援助する企画が立った。
ワンフロアに、一坪ショップを数件募集していた。
雑貨店のプランを提出したそうだ。
「人畜無害」の再開を希望したのだろうか?
結果は承認されなかった。
市の職員に、私の商品が理解されなかったのだろう。
実現されていれば、繋がりができていただろうに、残念なことだった。
私は再婚したが、バリに来る前に離婚している。
彼女は独身だったのか。
再婚したと思っていた。
それすら知らない。
子育て、暮らしの話を詳しく聞きたかった。
気にはなったが、それを聞く勇気がなかった。
「家があるから、来る?」
これは、彼女からの信号だったのか。
今後、こうして関係が深まれば、おのずと情報が得られるだろう。
その時も、じっくり話し合う機会はなかった。
続く・
2020年02月27日
2020年02月15日
懺悔の回顧録・長女の誕生(343)
思い出せる限りの記憶を取り出しておこう。
私の断片的に記憶は、保身的な発言になっているかもしれない。
稚拙な表現力は、誤解を招くことになるかもしれないが、これは私の回顧録です。
今回も、重い話になってしまった。
私が産院に駆けつけた時には、出産は終わっていた。
いつ産気づいてもよいように荷物は準備してある。
私に連絡が取れず、ひとりで入院。
心細かったことだろう。
初めて授かった子供は、女の子だった。
妻が眼を覚ますのを待って、「お疲れ様」と声を掛けた。
「赤ちゃんは元気か」と聞くと・・・
「赤ちゃんは、この産院では治療できない病気で、コロニーという施設に運ばれていった」
涙声で答えた。
看護婦は、コロニーは未熟児の施設だと教えてくれた。
産院で治せない病気の場合、名古屋では春日井市にあるコロニーに入院させるということを始めて知った。
次の日、私はコロニーに出向いた。
コロニーには、車椅子に乗ったり、松葉杖をついた患者が散歩していた。
リハビリに励んでいる姿も見られる。
面会は可能だったが、我が子は、無菌室でプラスチックの箱に入っていた。
我が子は、天使のように可愛かった。
この子のどこが悪いのだろう。
「病状は思わしくない」と医者は言う。
妻は、産院を3日目に退院し、家で、我が子の帰りを待っている。
私は、毎日コロニーに通った。
この子は、5万人に1人といわれる奇病で、直ることはないと言う。
1週間すると医者は「延命しますか」と聞いてきた。
予期していたことだが、すぐには受け止めることができなかった。
「妻と相談しますから」即答することを避けた。
こんな残酷な言葉をどうやって妻に伝えたらよいのか、苦悩した。
この日は、2人でコロニーを訪れた。
出産後、始めての我が子との対面に、妻は、涙ぐんで娘の名前を連呼した。
愛娘は「ルリ=瑠璃」と名付けた。
私たちは、涙を飲んで、赤ん坊の点滴を外すことに承諾した。
死刑宣告人になった気分だ。
妻は、一度も生きているルリを抱くことが叶わなかった。
もちろん、私も抱いていない。
ベビー服は、一度も手を通すことなく、処分されるのか。
裁縫はそれほど得意じゃないが、夜なべしてベビー服を作っていた。
慰める言葉が見つからない。
広い無機質なロビーで、手続きが終わるのを待った。
白壁とスチール椅子が、心を虚しくさせる。
遺体を引き取ったのも、通夜や葬式はおこなわれたのかも、記憶はすっぽりと抜け落ちている。
戒名も思い出せない。
市営住宅の粗末な部屋の片隅のローテーブルの上に位牌があったのは覚えている。
離婚は、唐突に行われた。
ある日帰宅すると、キャビネットの棚に書類が置いてあった。
離婚届だ。
妻の名前と印が押してある。
何も告げずに出て行った。
近くに住む兄の家か、両親のいる神奈川か、それとも親類を頼って北海道に行ったのか。
家を出て行った理由は、聞いていない。
不安定で常識を離れた生活を楽しんでいてくれたと思い込んでいた。
「よっぽど、いやだったんだろう!」友人は言う。
愛想をつかれて逃げていったのが真相だろう。
追うことを考えたが、離婚を選択した彼女の心を取り戻す自信はなかった。
この時、妻は妊娠していた。
頭の片隅に、いつか戻って来てくれるだろう、と都合の良いことも考えている。
位牌は、長姉に頼んで近くのお寺に預けられていた。
続く・
私の断片的に記憶は、保身的な発言になっているかもしれない。
稚拙な表現力は、誤解を招くことになるかもしれないが、これは私の回顧録です。
今回も、重い話になってしまった。
私が産院に駆けつけた時には、出産は終わっていた。
いつ産気づいてもよいように荷物は準備してある。
私に連絡が取れず、ひとりで入院。
心細かったことだろう。
初めて授かった子供は、女の子だった。
妻が眼を覚ますのを待って、「お疲れ様」と声を掛けた。
「赤ちゃんは元気か」と聞くと・・・
「赤ちゃんは、この産院では治療できない病気で、コロニーという施設に運ばれていった」
涙声で答えた。
看護婦は、コロニーは未熟児の施設だと教えてくれた。
産院で治せない病気の場合、名古屋では春日井市にあるコロニーに入院させるということを始めて知った。
次の日、私はコロニーに出向いた。
コロニーには、車椅子に乗ったり、松葉杖をついた患者が散歩していた。
リハビリに励んでいる姿も見られる。
面会は可能だったが、我が子は、無菌室でプラスチックの箱に入っていた。
我が子は、天使のように可愛かった。
この子のどこが悪いのだろう。
「病状は思わしくない」と医者は言う。
妻は、産院を3日目に退院し、家で、我が子の帰りを待っている。
私は、毎日コロニーに通った。
この子は、5万人に1人といわれる奇病で、直ることはないと言う。
1週間すると医者は「延命しますか」と聞いてきた。
予期していたことだが、すぐには受け止めることができなかった。
「妻と相談しますから」即答することを避けた。
こんな残酷な言葉をどうやって妻に伝えたらよいのか、苦悩した。
この日は、2人でコロニーを訪れた。
出産後、始めての我が子との対面に、妻は、涙ぐんで娘の名前を連呼した。
愛娘は「ルリ=瑠璃」と名付けた。
私たちは、涙を飲んで、赤ん坊の点滴を外すことに承諾した。
死刑宣告人になった気分だ。
妻は、一度も生きているルリを抱くことが叶わなかった。
もちろん、私も抱いていない。
ベビー服は、一度も手を通すことなく、処分されるのか。
裁縫はそれほど得意じゃないが、夜なべしてベビー服を作っていた。
慰める言葉が見つからない。
広い無機質なロビーで、手続きが終わるのを待った。
白壁とスチール椅子が、心を虚しくさせる。
遺体を引き取ったのも、通夜や葬式はおこなわれたのかも、記憶はすっぽりと抜け落ちている。
戒名も思い出せない。
市営住宅の粗末な部屋の片隅のローテーブルの上に位牌があったのは覚えている。
離婚は、唐突に行われた。
ある日帰宅すると、キャビネットの棚に書類が置いてあった。
離婚届だ。
妻の名前と印が押してある。
何も告げずに出て行った。
近くに住む兄の家か、両親のいる神奈川か、それとも親類を頼って北海道に行ったのか。
家を出て行った理由は、聞いていない。
不安定で常識を離れた生活を楽しんでいてくれたと思い込んでいた。
「よっぽど、いやだったんだろう!」友人は言う。
愛想をつかれて逃げていったのが真相だろう。
追うことを考えたが、離婚を選択した彼女の心を取り戻す自信はなかった。
この時、妻は妊娠していた。
頭の片隅に、いつか戻って来てくれるだろう、と都合の良いことも考えている。
位牌は、長姉に頼んで近くのお寺に預けられていた。
続く・
2020年02月07日
懺悔の回顧録・ハシシ不法所持(342)
「懺悔の回顧録」に戻ります。
今回は、ちょっと重い話かも。
手作り仲間が、インドからベルトに仕込んで持ち帰ったハシシ(大麻樹脂)。
お土産として、軽い気持ちで彼女に渡したのだろう。
法に触れる物だという感覚が薄く、気安く受け取ったのだと思う。
こういうことに、彼女は疎かった。
さくらんぼ大の樹脂塊は、喫煙されないまま何日も、キャビネットの下段のテーブルに置かれていた。
知人が逮捕されたのは、知らされていない。
先に連行された知人たちとの交流も薄いため、事件をまったく知らなかった。
「人畜無害」にいた彼女が署に連行された。
その現場を私は見ていない。
私の家に、刑事が来た。
知人の名前を告げたあと、「大麻」という言葉が出た。
ハシシのある場所は、知っている。
妻が、連行されたのを告げられた。
警察は、主犯は年長の私ではないかと疑っていたようだ。
私を捕まえようとマークし、数日間尾行したと言う。
刑事が部屋に入ってくる。
現物がなければ、逮捕は免れるだろう。
物は、目の前にある。
どう隠そうかと思案した。
トイレに捨てるが、飲み込むか。
飲み込むには大きすぎる。
隠す暇もなく、証拠の物は見つかってしまった。
だらしないが、私は観念した。
刑事は、証拠物件を確保した。
喫煙形跡のない現物に、ガッカリしたようだ。
在庫で残っていたパイプセットにも、喫煙した形跡はない。
これで彼女は、ハシシの不法所持で逮捕されることになる。
刑事たちは、証拠の品を持って帰っていった。
数日後、地元名古屋のテレビ・ニュースと新聞で報道された。
名古屋発の大掛かりな大麻事件として扱われていた。
私の嫌疑が消え、彼女が最後の逮捕者となって終結したようだ。
名古屋近郊の所轄警察の留置場された。
面会はできなかった。
その後、何の伝達もなく、凶悪犯の多い中村署に送られた。
殺人犯の女性と同室だったと言う。
たらい回しにされて、面会もできない。
この経験から、私は、警察には絶対協力しないと誓った。
裁判中、身柄は名古屋拘置所に預けられる。
拘置所に面会に行った。
こんな威圧感と閉塞感のある建物に、何日も泊めるわけにはいかない。
1日も早く、出してあげなくては。
弁護士を手配するにも、私に知り合いはいない。
民事なのか刑事なのか、それもわからない。
民間人のトラブルは民事、犯罪行為は刑事だと知り、細い糸を手繰って刑事裁判の弁護士を探し当てた。
女性の弁護士は、親身になってくれているようには思えない。
現金を工面して、弁護士に手渡す。
裁判にも傍聴した。
2週間ほどの拘置で、身柄を引き取った。
もっと早く、弁護士と保釈金の対応が早かったら、2週間も拘置されることはなかったかもしれない。
自分の対応の甘さが悔やまれる。
彼女はやつれることなく、元気な姿に救われた。
親戚縁者に迷惑をかけただろうが、家族の誰からも非難は受けなかった。
1976年、これを機に「人畜無害」を閉店。
続く・
今回は、ちょっと重い話かも。
手作り仲間が、インドからベルトに仕込んで持ち帰ったハシシ(大麻樹脂)。
お土産として、軽い気持ちで彼女に渡したのだろう。
法に触れる物だという感覚が薄く、気安く受け取ったのだと思う。
こういうことに、彼女は疎かった。
さくらんぼ大の樹脂塊は、喫煙されないまま何日も、キャビネットの下段のテーブルに置かれていた。
知人が逮捕されたのは、知らされていない。
先に連行された知人たちとの交流も薄いため、事件をまったく知らなかった。
「人畜無害」にいた彼女が署に連行された。
その現場を私は見ていない。
私の家に、刑事が来た。
知人の名前を告げたあと、「大麻」という言葉が出た。
ハシシのある場所は、知っている。
妻が、連行されたのを告げられた。
警察は、主犯は年長の私ではないかと疑っていたようだ。
私を捕まえようとマークし、数日間尾行したと言う。
刑事が部屋に入ってくる。
現物がなければ、逮捕は免れるだろう。
物は、目の前にある。
どう隠そうかと思案した。
トイレに捨てるが、飲み込むか。
飲み込むには大きすぎる。
隠す暇もなく、証拠の物は見つかってしまった。
だらしないが、私は観念した。
刑事は、証拠物件を確保した。
喫煙形跡のない現物に、ガッカリしたようだ。
在庫で残っていたパイプセットにも、喫煙した形跡はない。
これで彼女は、ハシシの不法所持で逮捕されることになる。
刑事たちは、証拠の品を持って帰っていった。
数日後、地元名古屋のテレビ・ニュースと新聞で報道された。
名古屋発の大掛かりな大麻事件として扱われていた。
私の嫌疑が消え、彼女が最後の逮捕者となって終結したようだ。
名古屋近郊の所轄警察の留置場された。
面会はできなかった。
その後、何の伝達もなく、凶悪犯の多い中村署に送られた。
殺人犯の女性と同室だったと言う。
たらい回しにされて、面会もできない。
この経験から、私は、警察には絶対協力しないと誓った。
裁判中、身柄は名古屋拘置所に預けられる。
拘置所に面会に行った。
こんな威圧感と閉塞感のある建物に、何日も泊めるわけにはいかない。
1日も早く、出してあげなくては。
弁護士を手配するにも、私に知り合いはいない。
民事なのか刑事なのか、それもわからない。
民間人のトラブルは民事、犯罪行為は刑事だと知り、細い糸を手繰って刑事裁判の弁護士を探し当てた。
女性の弁護士は、親身になってくれているようには思えない。
現金を工面して、弁護士に手渡す。
裁判にも傍聴した。
2週間ほどの拘置で、身柄を引き取った。
もっと早く、弁護士と保釈金の対応が早かったら、2週間も拘置されることはなかったかもしれない。
自分の対応の甘さが悔やまれる。
彼女はやつれることなく、元気な姿に救われた。
親戚縁者に迷惑をかけただろうが、家族の誰からも非難は受けなかった。
1976年、これを機に「人畜無害」を閉店。
続く・
2020年02月04日
ゴア・ガルバとプンウキール・ウキラン寺院(341)
シリアスな話が続いたので、ここで気分転換にリラックスできるニュースをお届けしようと思っている。
バリ島の情報です。
ペジェン村の中心部へは、ウブドから車&バイクで20分ほどで着く。
中心地にある十字路角に、アパ?情報センター「ペジェン村歴史探訪」でおなじみの「プナタラン・サシ寺院」がある。
歴史探訪は、ペジェンの地を中心にして、10世紀から14世紀まで栄えたワルマデワ王国の遺跡を巡る。
ちなみに、400年間続いたワルマデワ王国は、1343年、マジャパイト王国のガジャ・マダ将軍率いる軍勢によって制服された。
こうして、ジャワ・ヒンドゥーがバリの持ち込まれたのだった。
ついでに、ツアーの説明をさせていただく。
◎ゴア・ガジャ→◎イエ・プル→◎テガリンガ遺跡→◎考古学博物館→◎クボ・エダン寺院→◎プセリン・ジャガット寺院→◎プナタラン・サシ寺院→◎ペジェン村散策(王家所有のインディゴ・バティック工場見学)
この中から、3時間のコースを選択する。
ペジェン村歴史探訪に「ゴア・ガルバ(Goa Garba)とプンウキールウキラン(Pengukur-Ukuran)寺院」が加えられないか思い立ち、出かけていった。
プナタラン・サシ寺院から10分ほどで「ゴア・ガルバとプンウキール・ウキラン寺院」に到着する。
プンウキール・ウキランは、測定という意味だそうだが、名前の意由来については定かでない。
寺院は、高台に建つバリ独特の様式を持つヒンドゥー寺院だ。
12世紀のジャヤパンガス王の治世以来建っていると伝えられている。
ペジェン村には、マジャパイト王国以前の寺院が多く存在し、これらの寺院は、サコ暦にもとずいて儀礼が行われている。
サコ暦は太陰暦で、月の満ち欠けの周期を基にしている、
プンウキール・ウキラン寺院のオダラン(寺院創立祭)は、毎年第2番目の月(Sasih Karo)の満月(Purnama)に行われる。
今年は、8月の3日になる。
個人的な見所は、奥の境内にあるリンガの飾られたチャンディだ。

リンガが飾られたチャンディは、初めて見る。
リンガは、ヒンドゥー教シバ神のシンボル。
なぜここに?の疑問が浮かぶ。
ゴア・ガルバの遺跡は、プンウキールウキラン寺院裏の渓谷にある。
世界遺産プクリサン(Pekerisan)川のほとり。
ゴアは「洞窟」を意味し、ガルバは「地球の腹」を意味する。
沐浴場の横に地下へもぐる階段があり、遠くクルンクンの「ゴア・ラワ」に通じていると言われる洞窟がある。
もしかすると、この洞窟が「地球の腹」と呼ばれる由縁かもしれない。

石の蓋をよけると、洞窟に続く階段が見える
この地は、クボ・イオ(Kebo Iwa)庵(いおり)で、瞑想場だったとも伝えられる。
クボ・イオは、14世紀のワルマデワ王国の大臣で、伝説の大男。
さまざまな逸話が残っている。
階段の岩に残っている足型は、クボ・イオのものだと言われているが、私の足と比べて格別の大きいようには見えない。

ゴア・ガルバとプンウキール・ウキラン寺院の見学は、一見の価値ありではないだろうかすゾ。
次回の懺悔の回顧録は、「ハシシ不法所持で逮捕!」です。
バリ島の情報です。
ペジェン村の中心部へは、ウブドから車&バイクで20分ほどで着く。
中心地にある十字路角に、アパ?情報センター「ペジェン村歴史探訪」でおなじみの「プナタラン・サシ寺院」がある。
歴史探訪は、ペジェンの地を中心にして、10世紀から14世紀まで栄えたワルマデワ王国の遺跡を巡る。
ちなみに、400年間続いたワルマデワ王国は、1343年、マジャパイト王国のガジャ・マダ将軍率いる軍勢によって制服された。
こうして、ジャワ・ヒンドゥーがバリの持ち込まれたのだった。
ついでに、ツアーの説明をさせていただく。
◎ゴア・ガジャ→◎イエ・プル→◎テガリンガ遺跡→◎考古学博物館→◎クボ・エダン寺院→◎プセリン・ジャガット寺院→◎プナタラン・サシ寺院→◎ペジェン村散策(王家所有のインディゴ・バティック工場見学)
この中から、3時間のコースを選択する。
ペジェン村歴史探訪に「ゴア・ガルバ(Goa Garba)とプンウキールウキラン(Pengukur-Ukuran)寺院」が加えられないか思い立ち、出かけていった。
プナタラン・サシ寺院から10分ほどで「ゴア・ガルバとプンウキール・ウキラン寺院」に到着する。
プンウキール・ウキランは、測定という意味だそうだが、名前の意由来については定かでない。
寺院は、高台に建つバリ独特の様式を持つヒンドゥー寺院だ。
12世紀のジャヤパンガス王の治世以来建っていると伝えられている。
ペジェン村には、マジャパイト王国以前の寺院が多く存在し、これらの寺院は、サコ暦にもとずいて儀礼が行われている。
サコ暦は太陰暦で、月の満ち欠けの周期を基にしている、
プンウキール・ウキラン寺院のオダラン(寺院創立祭)は、毎年第2番目の月(Sasih Karo)の満月(Purnama)に行われる。
今年は、8月の3日になる。
個人的な見所は、奥の境内にあるリンガの飾られたチャンディだ。

リンガが飾られたチャンディは、初めて見る。
リンガは、ヒンドゥー教シバ神のシンボル。
なぜここに?の疑問が浮かぶ。
ゴア・ガルバの遺跡は、プンウキールウキラン寺院裏の渓谷にある。
世界遺産プクリサン(Pekerisan)川のほとり。
ゴアは「洞窟」を意味し、ガルバは「地球の腹」を意味する。
沐浴場の横に地下へもぐる階段があり、遠くクルンクンの「ゴア・ラワ」に通じていると言われる洞窟がある。
もしかすると、この洞窟が「地球の腹」と呼ばれる由縁かもしれない。

石の蓋をよけると、洞窟に続く階段が見える
この地は、クボ・イオ(Kebo Iwa)庵(いおり)で、瞑想場だったとも伝えられる。
クボ・イオは、14世紀のワルマデワ王国の大臣で、伝説の大男。
さまざまな逸話が残っている。
階段の岩に残っている足型は、クボ・イオのものだと言われているが、私の足と比べて格別の大きいようには見えない。

ゴア・ガルバとプンウキール・ウキラン寺院の見学は、一見の価値ありではないだろうかすゾ。
次回の懺悔の回顧録は、「ハシシ不法所持で逮捕!」です。