思い出せる限りの記憶を取り出しておこう。
私の断片的に記憶は、保身的な発言になっているかもしれない。
稚拙な表現力は、誤解を招くことになるかもしれないが、これは私の回顧録です。
今回も、重い話になってしまった。
私が産院に駆けつけた時には、出産は終わっていた。
いつ産気づいてもよいように荷物は準備してある。
私に連絡が取れず、ひとりで入院。
心細かったことだろう。
初めて授かった子供は、女の子だった。
妻が眼を覚ますのを待って、「お疲れ様」と声を掛けた。
「赤ちゃんは元気か」と聞くと・・・
「赤ちゃんは、この産院では治療できない病気で、コロニーという施設に運ばれていった」
涙声で答えた。
看護婦は、コロニーは未熟児の施設だと教えてくれた。
産院で治せない病気の場合、名古屋では春日井市にあるコロニーに入院させるということを始めて知った。
次の日、私はコロニーに出向いた。
コロニーには、車椅子に乗ったり、松葉杖をついた患者が散歩していた。
リハビリに励んでいる姿も見られる。
面会は可能だったが、我が子は、無菌室でプラスチックの箱に入っていた。
我が子は、天使のように可愛かった。
この子のどこが悪いのだろう。
「病状は思わしくない」と医者は言う。
妻は、産院を3日目に退院し、家で、我が子の帰りを待っている。
私は、毎日コロニーに通った。
この子は、5万人に1人といわれる奇病で、直ることはないと言う。
1週間すると医者は「延命しますか」と聞いてきた。
予期していたことだが、すぐには受け止めることができなかった。
「妻と相談しますから」即答することを避けた。
こんな残酷な言葉をどうやって妻に伝えたらよいのか、苦悩した。
この日は、2人でコロニーを訪れた。
出産後、始めての我が子との対面に、妻は、涙ぐんで娘の名前を連呼した。
愛娘は「ルリ=瑠璃」と名付けた。
私たちは、涙を飲んで、赤ん坊の点滴を外すことに承諾した。
死刑宣告人になった気分だ。
妻は、一度も生きているルリを抱くことが叶わなかった。
もちろん、私も抱いていない。
ベビー服は、一度も手を通すことなく、処分されるのか。
裁縫はそれほど得意じゃないが、夜なべしてベビー服を作っていた。
慰める言葉が見つからない。
広い無機質なロビーで、手続きが終わるのを待った。
白壁とスチール椅子が、心を虚しくさせる。
遺体を引き取ったのも、通夜や葬式はおこなわれたのかも、記憶はすっぽりと抜け落ちている。
戒名も思い出せない。
市営住宅の粗末な部屋の片隅のローテーブルの上に位牌があったのは覚えている。
離婚は、唐突に行われた。
ある日帰宅すると、キャビネットの棚に書類が置いてあった。
離婚届だ。
妻の名前と印が押してある。
何も告げずに出て行った。
近くに住む兄の家か、両親のいる神奈川か、それとも親類を頼って北海道に行ったのか。
家を出て行った理由は、聞いていない。
不安定で常識を離れた生活を楽しんでいてくれたと思い込んでいた。
「よっぽど、いやだったんだろう!」友人は言う。
愛想をつかれて逃げていったのが真相だろう。
追うことを考えたが、離婚を選択した彼女の心を取り戻す自信はなかった。
この時、妻は妊娠していた。
頭の片隅に、いつか戻って来てくれるだろう、と都合の良いことも考えている。
位牌は、長姉に頼んで近くのお寺に預けられていた。
続く・