この日は、歩道に張り出して営業しているレストランで夕食をした。
隣のテーブルで食事をしていたグループの一人に、声を掛けられた。
流暢な日本語だった。
キリムのお店を経営している、オメール君。
恋人は日本人だという。
カッパドキアに行く予定だと話すと「実家で割礼儀礼があるから来ないか」と誘われた。
そうトルコは、イスラム圏だ。
割礼儀礼については賛成できかねるが、慣習としては見てみたい気もする。
オメール君の実家は、カッパドキアから少し足をのばすだけで行けるという。
急ぐわけでも予定のある旅でもないので、儀礼のある日を聞いた。
カッパドキヤに滞在した後に、訪れると約束をした。
長距離バスの買えるツーリストオフィスを紹介してくれた。
行き先は、トルコ中南部の街・タシュジュ(この時は、そう思っていた)。
長距離バスは、ギョレメから南下する。
ガイドブック「地球の歩き方・トルコ編」を携帯しているので、詳しく知ることができた。
これを書いている手元にガイドブックがないので、曖昧な記憶で記載している。
ガイドブックを参考に、車窓の町々を確認する。
街の解説や見どころなどを読んだ。
メルスィン(Mersin)のバスターミナルでローカル・バスを乗り換えた。
バスは通勤客を乗降しながら、いくつかの街を通り抜ける。
タシュジュは途中下車だった。
私の乗ってきバスは、先の目的地に向けて急いだ。
降車した人の流れは、幹線道路を外れていく。
その流れに従って進むと、ロータリーに出た。
見回すと、商店の少ない閑散とした港街だった。
ロータリーの向こうには、大きな船が見えた。
タシュジュは、地中海の最東端にある街。
船着き場には、キプロス島行きの案内が出ている。
迎えのオメール君の姿は見えない。
心細くなってくる。
しばらくして、オメール君から携帯に電話がかかった。
「今、どこにいるの?」
「タシュジュ」と答えると「違う、タルスス(Tarsus)だよ」と言われた。
通り過ぎた街だ。
どうやら私は、待ち合わせの街を間違えていたようだ。
タルススは、メルスィンの手前30キロ地点にある。
タシュジュは90キロほど先。
オメール君は、メルスィンのバスターミナルで一時間も待っていてくれたようだ。
今から、メルスィンに戻るのは時間が遅すぎる。
明日、早朝のバスでメルスィンに戻る約束をした。
今夜は、この街に泊まることになる。
視界に、宿らしいものは見当たらない。
ロータリー前にあるホテルは、時間が遅かったのか閉まっていた。
あたりはすでに暗い。
もう、決断するしかない。
ロータリーの芝の上で、一夜を明かすことに決めた。
芝生には、出航待ち人が横になっている。
野宿には、最適な場所だ。
こんな時には、昔取った杵柄が役に立つ。
と言っても、ホームレスをしていたわけではありませんよ。
ナホトカ航路発で帰路シルクロードという旅の経験者だからといって、自慢できる杵柄を持っているわけではない。
アムステルダムでは、川に繋留されていた船に潜り込んで寝た。
早朝、船主に追い出された。
チューリッヒでは、駅前で寝た。
ホームレスのおじさんたちは、地下から温風の出るマンホール近くに寝場所を与えてくれた。
まだまだあるが、こんなところにしておこう。
だからといって、57歳の親父が異国で野宿はどんなもんですか? と自問する。
そんなことは御構い無しで、スヤスヤと快適な眠りについている。
2020年05月31日
2020年05月24日
トルコの旅・イスタンブール(2)
イスタンブール訪問は、1970年以来の35年ぶりだ。
1970年、その時の話を、少ししたい。
ギリシャのアテネからイスタンブールまでは、ヒッチハイクを敢行した。
幹線国道なのに、走っている車の数は少なかった。
長時間待つことが心細くなり、しかたなく大型トラックを止めた。
運転手はフレンドリーで、快適なドライブだった。
突然、トラックが路肩に止まった。
「私は、ここから国道を逸れる。あの灯りがイスタンブールだ!」
運転手の声が聞こえた。
灯りは、歩くには遠すぎる。
「家に寄って行け」と執拗に誘ってくる。
予感はしていたが、やっぱりホモだったか。
旅行中、何度もホモダチになる危険に遭遇したが切り抜けてきた。
ここで降ろされるのも困る。
ホモの餌食になるか、徒歩で走破するかの、残酷な二者選択を迫られた。
男色趣味とわかっていて、ついて行くわけにもいくまい。
結果、私は国道の途中で落とされた。
トラックは、無情にも脇道を曲がっていった。
あまりにもショックだったのか、どうやってイスタンブールにたどり着いたか、記憶がない。
プディング・ショップに寄った。
ヒッピーと呼ばれた旅行者たちが、情報交換のために必ず訪れる店だ。
(ヒッピー=トルコ語で ”恋する者” の意味)
どろどろのトルコ・コーヒーを啜りながら、ブルー・モスクを見上げた。
当時、トルコのコーヒー(カフヴェ)は、粉が細かく、味も濃い。
直接、粉を溶かして飲む。
飲み終えた時には。どろりとした軟泥状のものが、カップの底に残る。
桟橋で食べた、パンに焼き魚を挟んだサンドイッチは美味しかった。
グランド・バザールでトルコ石とカメラを物物交換した。
長姉の旦那に餞別でもらった一眼レフ・カメラは、旅の途中で壊れていた。
日本から長兄が送ってきた綺麗に写っている家族写真を見せると、商人は信用した。
ちょっとした詐欺行為に心が痛んだが、残り少なくなったお金は使いたくなかった。
安宿の鍵が壊れていて困ったことなどが、断続的に思い出される。
このあと、テヘラン(イラン)に向かう鉄道に乗るのだが、この記憶も少ない。
列車は、猛烈に込んでいた。
ボックス席に乗り合わせた青年は、拳銃を携帯した軍人だった。
どことなく危険な風貌。
遠慮なく、ジロジロと見つめてくる。
怒らせては大変だと、手にしていたトイレットペーパーをちぎって渡した。
青年は、ペーパーを鼻に近づけ匂いを嗅いだ。
香水の香るペーパーに感動したのか、顔がほころんだ。
ヨーロッパのカフェで失敬してきたトイレットペーパーが、こんなところで役に立つとは。
群がって来た乗客に配ると、瞬く間に一本がなくなった。
ピンクのトイレットペーパーの端切れを大事そうにして、匂いを嗅いでいる姿が滑稽だった。
トイレットペーパーを使わない民族なのか。
強烈な記憶がひとつある。
列車が止まった。
窓外を除くと、屋根のない人気のない、一本のプラットホームだった。
座り疲れた身体をほぐそうと、プラットホームに降りた。
数人が凝視する先を、誘われるように見た。
列車の下に、人がうずくまっている。
上半身が、こちらを見た。
事故だ、早く病院に連絡を。
私は「ホスピタル!ホスピタル!」と連呼した。
近くにいた男性が「近くに病院はない」短く答えた。
栄養失調の人が風圧で線路に落ちるのは、よくあることだと言う。
しばらくして、電車は出発した。
切断された身体を残して。
節約旅行に危険は付き物だと心得てはいるが、あらためて心を引き締めた記憶がある。
イスタンブールからバンコクまでは、1万円の旅だった。
1ドル365円の時代だ。
35年ぶりに再訪したイスタンブールは、すっかり変貌して都会になっていた。
北ヨーロッパに古くからある街並に似ている。
バックパックを背負っての宿探しは大変だった。
ウブドから来た節約生活者にとっては、宿泊費は割高に感じる。
ホテルの窓からの景色
プディング・ショップは、立派なレストランになっていた
パフォーマンスをするアイスクリーム店
トルコ・コーヒーの記憶は美味しく思い出されていたが、今回飲んでみて、決して2杯目を頼もうとは思わない味だった。
1990年「寝床を探す旅」に、イスタンブールも候補地の一つだった。
バリ島ウブドを選択したのは、正解だったかもしれないと痛感している。
1970年、その時の話を、少ししたい。
ギリシャのアテネからイスタンブールまでは、ヒッチハイクを敢行した。
幹線国道なのに、走っている車の数は少なかった。
長時間待つことが心細くなり、しかたなく大型トラックを止めた。
運転手はフレンドリーで、快適なドライブだった。
突然、トラックが路肩に止まった。
「私は、ここから国道を逸れる。あの灯りがイスタンブールだ!」
運転手の声が聞こえた。
灯りは、歩くには遠すぎる。
「家に寄って行け」と執拗に誘ってくる。
予感はしていたが、やっぱりホモだったか。
旅行中、何度もホモダチになる危険に遭遇したが切り抜けてきた。
ここで降ろされるのも困る。
ホモの餌食になるか、徒歩で走破するかの、残酷な二者選択を迫られた。
男色趣味とわかっていて、ついて行くわけにもいくまい。
結果、私は国道の途中で落とされた。
トラックは、無情にも脇道を曲がっていった。
あまりにもショックだったのか、どうやってイスタンブールにたどり着いたか、記憶がない。
プディング・ショップに寄った。
ヒッピーと呼ばれた旅行者たちが、情報交換のために必ず訪れる店だ。
(ヒッピー=トルコ語で ”恋する者” の意味)
どろどろのトルコ・コーヒーを啜りながら、ブルー・モスクを見上げた。
当時、トルコのコーヒー(カフヴェ)は、粉が細かく、味も濃い。
直接、粉を溶かして飲む。
飲み終えた時には。どろりとした軟泥状のものが、カップの底に残る。
桟橋で食べた、パンに焼き魚を挟んだサンドイッチは美味しかった。
グランド・バザールでトルコ石とカメラを物物交換した。
長姉の旦那に餞別でもらった一眼レフ・カメラは、旅の途中で壊れていた。
日本から長兄が送ってきた綺麗に写っている家族写真を見せると、商人は信用した。
ちょっとした詐欺行為に心が痛んだが、残り少なくなったお金は使いたくなかった。
安宿の鍵が壊れていて困ったことなどが、断続的に思い出される。
このあと、テヘラン(イラン)に向かう鉄道に乗るのだが、この記憶も少ない。
列車は、猛烈に込んでいた。
ボックス席に乗り合わせた青年は、拳銃を携帯した軍人だった。
どことなく危険な風貌。
遠慮なく、ジロジロと見つめてくる。
怒らせては大変だと、手にしていたトイレットペーパーをちぎって渡した。
青年は、ペーパーを鼻に近づけ匂いを嗅いだ。
香水の香るペーパーに感動したのか、顔がほころんだ。
ヨーロッパのカフェで失敬してきたトイレットペーパーが、こんなところで役に立つとは。
群がって来た乗客に配ると、瞬く間に一本がなくなった。
ピンクのトイレットペーパーの端切れを大事そうにして、匂いを嗅いでいる姿が滑稽だった。
トイレットペーパーを使わない民族なのか。
強烈な記憶がひとつある。
列車が止まった。
窓外を除くと、屋根のない人気のない、一本のプラットホームだった。
座り疲れた身体をほぐそうと、プラットホームに降りた。
数人が凝視する先を、誘われるように見た。
列車の下に、人がうずくまっている。
上半身が、こちらを見た。
事故だ、早く病院に連絡を。
私は「ホスピタル!ホスピタル!」と連呼した。
近くにいた男性が「近くに病院はない」短く答えた。
栄養失調の人が風圧で線路に落ちるのは、よくあることだと言う。
しばらくして、電車は出発した。
切断された身体を残して。
節約旅行に危険は付き物だと心得てはいるが、あらためて心を引き締めた記憶がある。
イスタンブールからバンコクまでは、1万円の旅だった。
1ドル365円の時代だ。
35年ぶりに再訪したイスタンブールは、すっかり変貌して都会になっていた。
北ヨーロッパに古くからある街並に似ている。
バックパックを背負っての宿探しは大変だった。
ウブドから来た節約生活者にとっては、宿泊費は割高に感じる。
ホテルの窓からの景色
プディング・ショップは、立派なレストランになっていた
パフォーマンスをするアイスクリーム店
トルコ・コーヒーの記憶は美味しく思い出されていたが、今回飲んでみて、決して2杯目を頼もうとは思わない味だった。
1990年「寝床を探す旅」に、イスタンブールも候補地の一つだった。
バリ島ウブドを選択したのは、正解だったかもしれないと痛感している。
2020年05月16日
トルコの旅・カッパドキア(Kapadokya)(1)
外出自粛で、時間が有り余っている。
MacBook Airに入っているデータを整理することにした。
古い旅のメモが出てきたので、読み返してみた。
2005年のトルコ・カッパドキアの旅。
私がカッパドキアを知ったのは、友人のレストランで手にした写真雑誌だった。
カッパドキアとは、馬の故郷と言う意味らしい。
「美しい馬のいる土地」という意味のペルシャ語で、カプトキー(kaputky)と発音された。
カッパドキアと呼ばれる一帯は、トルコ中部にある。
太古の昔、火山灰が堆積しそれが凝固したが、厳しい気象条件により風化して、柔らかい岩が削り取られ、堅い岩が残って奇岩となった。
中世、イスラム教徒により迫害されたキリスト教徒たちが岩をくり貫いて隠れ住むようになったと本にある。
この景観は異様であり、トルコ有数の観光地として知られている。
その奇岩の村の写真を見て、わたしは、是非行ってみたいと思った。
何の計画も立てずに行き当たりばったりの旅だから、参考にはならないと思うが、まあ読んでください。
これまでの経験から、こうして遠くへ来ると、この町には今後2度と訪れることはないかもしてない、という感慨が起こる。
そう思うと、この機会に充分に記憶に焼き付けておこうと、欲がでる。
こうして私の旅は、その土地を体感しようと、どん欲に歩き回ることになる。
バリ島滞在者の私は、タイ経由でトルコ・イスタンブールに向かった。
トランジットとは聞いていたが、まさか泊まりのなるとは。
エジプトの空港で降り、何のアナウンスも受けないまま、ウロウロ。
状況が飲み込めた時には、空港近くのホテルに押し込まれた。
英語もできないので、感に頼るしかない。
かなり焦ったゾ。
イスタンブールに数日泊まり、ツーリスト・オフィスでトルコ中央部の街・ギョレメ(Goreme)までの長距離バスのチケットを購入。
カッパドキアは、ギョレメ近郊にある。
快適な高速バスに乗り、首都アンカラを素通りしてギョレメのバスターミナルに降りる。
バスターミナルからは、ミニバスに乗り換え、カッパドキアへ向かう。
降り立つと、目の前は、夢に見た奇岩の風景。
「何?」
「どうして?」
「なんでこうなる?」
疑問が湧く。
これが見たかったのだ。
宿は、飛び込みで探す。
10分ほど歩いたところにあったケーブ・ホテルに決めた。
内部は、まさに洞窟だった。
街の入り口広場にあるレンタル・バイクは、遠出するツーリスト用だろう。
私は、この街を歩いて巡ることにした。
奇岩の家々が点在する街中に、車の往来はない。
回り道、坂道、袋小路と起伏にとんだ道、T字路、Y字路、Z字路や複数の道が交差する。
放置された荷車が、古代を忍ばせる一種独特の情緒を醸し出している。
冷たい水の出る水道が目につく。
冬期に備えて薪として使われるのだろう、塀の上や壁にもたれかけた枯れ木が山になっている。
冬には雪が積もるらしい。
牛、鶏、犬、猫、鳩、牧歌的な風景。
ロバの糞がいたるところで悪臭を放っている。
その土地が気に入ると、そんな匂いも長所となって許されてしまう。
人口が少ないのか、村人と触れ合い機会は少ない。
老人がテーブルを囲んでゲームに興じていた。
(麻雀のようなゲーム)
一時間も歩けば、街を一周できる。
街中を離れると、ガラガラヘビでも出そうな木々の少ない野原になる。
家並はないし、木陰も少ない。
木陰があったとしても観光客の好奇な眼があちこちに光っていて、立ち小便もままならない。
ちなみに、私はお腹を壊して、やせ細った木陰を探してキジ打ちをしたことがある。
冷や汗ものの勇気がいった。
途中トイレは無いので、出かける前に用は済ましていこう。
地層の違いで、先っちょに濃色の岩がのった、チョコレートスナック菓子「きのこの山」のような岩々の姿。
生クリームでものったような岩、ジョーズが頭をもたげているような岩、白雪姫の物語に出てくるこびとの家のような岩。
奇怪な円錐形の小山。
小山には、いくつもの窓らしき穴がある。
らくだのこぶのように連なる奇岩と岸壁に掘られた住居。
これは掘り出して作られた家だ。
2人がかりで、およそ1ヶ月で出来てしまうほど柔らかいという。
自然現象と、人間の技と生活の知恵によって作られた家。
常識では考えられない造形。
自然の造形物は、店舗デザイナーだった私には魅力的だった。
都会的直線が皆無で、自然の織りなす曲線で造られた街は、私の感性を有頂天にする。
サラサラと砂の落ちる音が聞こえる。
今でも風化している。
亀裂が入り、いずれは崩れるだろうと思われる岩。
危険のないように建築されているのだろうが、生活している人には申し訳ないが、わたしは崩れかけた塀や壁が好きだ。
これはツーリストのわがままな意見として聞いてください。
網の目のような道を抜けて、丘の上に登る。
日本ならさしずめ裏山といったところだ。
街を見下ろす。
ひとつとして同じ形がないというのが嬉しい。
夜は、奇岩と街路樹がライトアップされる。
きらめく街と夕焼けも美しい。
空気の澄んだこの土地なら、さぞかし星空は綺麗なことだろうと、期待をしていた。
残念なことにライトアップされた街灯の明かりで、満天の星をいうわけにはいかない。
生憎というか幸いというか、停電になった夜があった。
空には、満天の星が煌めいていた。
(よく利用したカバブの店)
(夕食に利用したレストラン)
ツアーに参加すると、地下都市、フレスコ画の残る岩窟教会、ウフララ渓谷などが見学できる。
陶器工場・キリム工場にも立ち寄る。
(陶器工場)
(キリム工場)
気球ツアーが人気のようだが、私にそんな余裕の予算はない。
トレッキング・コースは、どこまでも続く奇岩に圧倒される。
近くにいくつも奇岩の渓谷がある。
大地にいきなり窪地ができたように、大きな渓谷が広がる。
映画のロケ地になりそうだ。
さしずめアクション物かロマンス物。
私なら奇岩の屋根を失踪するアクション物だ。
キャラバンサライ(隊商宿)にも立ち寄った。
(昼食付きのツアーだった)
(ツアー・オフィスのスタッフと夕食)
10日間の滞在は、あっという間に過ぎた。
経済的に許されるなら、長期滞在してみたい場所となった。
MacBook Airに入っているデータを整理することにした。
古い旅のメモが出てきたので、読み返してみた。
2005年のトルコ・カッパドキアの旅。
私がカッパドキアを知ったのは、友人のレストランで手にした写真雑誌だった。
カッパドキアとは、馬の故郷と言う意味らしい。
「美しい馬のいる土地」という意味のペルシャ語で、カプトキー(kaputky)と発音された。
カッパドキアと呼ばれる一帯は、トルコ中部にある。
太古の昔、火山灰が堆積しそれが凝固したが、厳しい気象条件により風化して、柔らかい岩が削り取られ、堅い岩が残って奇岩となった。
中世、イスラム教徒により迫害されたキリスト教徒たちが岩をくり貫いて隠れ住むようになったと本にある。
この景観は異様であり、トルコ有数の観光地として知られている。
その奇岩の村の写真を見て、わたしは、是非行ってみたいと思った。
何の計画も立てずに行き当たりばったりの旅だから、参考にはならないと思うが、まあ読んでください。
これまでの経験から、こうして遠くへ来ると、この町には今後2度と訪れることはないかもしてない、という感慨が起こる。
そう思うと、この機会に充分に記憶に焼き付けておこうと、欲がでる。
こうして私の旅は、その土地を体感しようと、どん欲に歩き回ることになる。
バリ島滞在者の私は、タイ経由でトルコ・イスタンブールに向かった。
トランジットとは聞いていたが、まさか泊まりのなるとは。
エジプトの空港で降り、何のアナウンスも受けないまま、ウロウロ。
状況が飲み込めた時には、空港近くのホテルに押し込まれた。
英語もできないので、感に頼るしかない。
かなり焦ったゾ。
イスタンブールに数日泊まり、ツーリスト・オフィスでトルコ中央部の街・ギョレメ(Goreme)までの長距離バスのチケットを購入。
カッパドキアは、ギョレメ近郊にある。
快適な高速バスに乗り、首都アンカラを素通りしてギョレメのバスターミナルに降りる。
バスターミナルからは、ミニバスに乗り換え、カッパドキアへ向かう。
降り立つと、目の前は、夢に見た奇岩の風景。
「何?」
「どうして?」
「なんでこうなる?」
疑問が湧く。
これが見たかったのだ。
宿は、飛び込みで探す。
10分ほど歩いたところにあったケーブ・ホテルに決めた。
内部は、まさに洞窟だった。
街の入り口広場にあるレンタル・バイクは、遠出するツーリスト用だろう。
私は、この街を歩いて巡ることにした。
奇岩の家々が点在する街中に、車の往来はない。
回り道、坂道、袋小路と起伏にとんだ道、T字路、Y字路、Z字路や複数の道が交差する。
放置された荷車が、古代を忍ばせる一種独特の情緒を醸し出している。
冷たい水の出る水道が目につく。
冬期に備えて薪として使われるのだろう、塀の上や壁にもたれかけた枯れ木が山になっている。
冬には雪が積もるらしい。
牛、鶏、犬、猫、鳩、牧歌的な風景。
ロバの糞がいたるところで悪臭を放っている。
その土地が気に入ると、そんな匂いも長所となって許されてしまう。
人口が少ないのか、村人と触れ合い機会は少ない。
老人がテーブルを囲んでゲームに興じていた。
(麻雀のようなゲーム)
一時間も歩けば、街を一周できる。
街中を離れると、ガラガラヘビでも出そうな木々の少ない野原になる。
家並はないし、木陰も少ない。
木陰があったとしても観光客の好奇な眼があちこちに光っていて、立ち小便もままならない。
ちなみに、私はお腹を壊して、やせ細った木陰を探してキジ打ちをしたことがある。
冷や汗ものの勇気がいった。
途中トイレは無いので、出かける前に用は済ましていこう。
地層の違いで、先っちょに濃色の岩がのった、チョコレートスナック菓子「きのこの山」のような岩々の姿。
生クリームでものったような岩、ジョーズが頭をもたげているような岩、白雪姫の物語に出てくるこびとの家のような岩。
奇怪な円錐形の小山。
小山には、いくつもの窓らしき穴がある。
らくだのこぶのように連なる奇岩と岸壁に掘られた住居。
これは掘り出して作られた家だ。
2人がかりで、およそ1ヶ月で出来てしまうほど柔らかいという。
自然現象と、人間の技と生活の知恵によって作られた家。
常識では考えられない造形。
自然の造形物は、店舗デザイナーだった私には魅力的だった。
都会的直線が皆無で、自然の織りなす曲線で造られた街は、私の感性を有頂天にする。
サラサラと砂の落ちる音が聞こえる。
今でも風化している。
亀裂が入り、いずれは崩れるだろうと思われる岩。
危険のないように建築されているのだろうが、生活している人には申し訳ないが、わたしは崩れかけた塀や壁が好きだ。
これはツーリストのわがままな意見として聞いてください。
網の目のような道を抜けて、丘の上に登る。
日本ならさしずめ裏山といったところだ。
街を見下ろす。
ひとつとして同じ形がないというのが嬉しい。
夜は、奇岩と街路樹がライトアップされる。
きらめく街と夕焼けも美しい。
空気の澄んだこの土地なら、さぞかし星空は綺麗なことだろうと、期待をしていた。
残念なことにライトアップされた街灯の明かりで、満天の星をいうわけにはいかない。
生憎というか幸いというか、停電になった夜があった。
空には、満天の星が煌めいていた。
(よく利用したカバブの店)
(夕食に利用したレストラン)
ツアーに参加すると、地下都市、フレスコ画の残る岩窟教会、ウフララ渓谷などが見学できる。
陶器工場・キリム工場にも立ち寄る。
(陶器工場)
(キリム工場)
気球ツアーが人気のようだが、私にそんな余裕の予算はない。
トレッキング・コースは、どこまでも続く奇岩に圧倒される。
近くにいくつも奇岩の渓谷がある。
大地にいきなり窪地ができたように、大きな渓谷が広がる。
映画のロケ地になりそうだ。
さしずめアクション物かロマンス物。
私なら奇岩の屋根を失踪するアクション物だ。
キャラバンサライ(隊商宿)にも立ち寄った。
(昼食付きのツアーだった)
(ツアー・オフィスのスタッフと夕食)
10日間の滞在は、あっという間に過ぎた。
経済的に許されるなら、長期滞在してみたい場所となった。
2020年05月07日
30年前・ウブドに沈没!(353)
今なお、「新型コロナウイルス」の蔓延が、世界中を脅かしている。
観光の島バリは、呼吸するのがやっとの状態。
熱帯の陽光のもと、貧窮の風が背筋を寒ざむと通り過ぎていく。
先行きは、未だ闇の中。
一日も早く終息をすることを熱望してやまない。
30年前の1990年5月7日、私はバリ島ウグラライ空港に降り立った。
当時の心境を「ウブドに沈没」で語っている。
読み返して、振り返ってみた。
■はじめに
このコラムは、わたしが1990年5月7日にバリの地を踏んだ時から、ウブド滞在の約1年間を思い出しながら記してみたものである。
コラムというより、日記かメモと呼んだ方がよいかもしれない。
1990年のウブドは、濃緑の墨があるとすれば、そんな墨で描かれた水墨画のような風景だった。
それは、ひとたび闇に包まれると、モノトーンのグラデーションの世界となったものだ。
タイトルの「ウブドに沈没」はウブドが水中に沈むのではなく、わたしがウブドの魅力に惹かれ長期滞在していく過程を意味している。
ウブドを訪れた第一印象は、「日本の30年前に似ている」だった。
郵便局が一軒。
郵便は住所不定の外国人には配達されないので、定期的に郵便局に出向かなければならない。
個人所有のテレビは少数で、村人は集会場に設置されたテレビを鑑賞していた。
モータリゼーションとは無縁の村で、自動車、バイクも数えるほどだった。
それから22年が経過した。
村で数台しかなかった電話は、電話線敷設より携帯電話の普及の方が早かった。
ウブドは、目覚ましく変貌した。
今では、インターネットが使える携帯を持っているバリ人が多い。
WiFi完備のホテル&レストランが普通になりつつある。
22年間、一度も日本に帰国しないほど沈没してしまった「ウブド」っていったいどんなところ?
これを読んで、あなたも「ウブド沈没」気分を味わってみてください。
記憶が薄くなって曖昧なところもあり、途中で思い出して追加&訂正することもあるのでお許しください。
後半は、ネタ薄。
■5月・1)寝床を探す旅
1990年5月7日
隣のシートに、20代後半と思われる日本人女性が座った。
小柄で色白、それ以外にこれといった外見的特徴のない女性だ。
わたしは、彼女に向かって軽く会釈をした。
「わたし、ウブドの花嫁になるの!」
喜びを隠しきれないようすで、彼女は話しかけてきた。
ウブドはインドネシア・バリ島の山間部にある芸術の村として有名なところだが、飛行機に隣り合わせた誰もが知っているとでも思っているのだろうか。
「わたしも、ウブドに行くんですよ」
「貴族に嫁いで有名になった女性もいるけど、わたしの彼は平民なの。そんなこと関係ないわよね。愛があれば」
そう言って、くったくなく笑った彼女の顔に、限りなく広がるバラ色の前途が光り輝いているようだった。
彼女は小さなノートのページをめくり始め、会話は一方的に終止符が打たれた。
同席した親しみで返した、わたしの励ましの言葉は、聞こえなかったようだ。
こんな調子で始まる「ウブドに沈没」。
「寝床を探す旅から」〜1991年3月(29)「ニュピ祭礼日の過ごし方」までを綴っている。
外出自粛の時間つぶしの、お読みい頂けれは嬉しいです。
こちらをクリックしてください:http://informationcenter-apa.com/ubud-chinbotu.html
観光の島バリは、呼吸するのがやっとの状態。
熱帯の陽光のもと、貧窮の風が背筋を寒ざむと通り過ぎていく。
先行きは、未だ闇の中。
一日も早く終息をすることを熱望してやまない。
30年前の1990年5月7日、私はバリ島ウグラライ空港に降り立った。
当時の心境を「ウブドに沈没」で語っている。
読み返して、振り返ってみた。
■はじめに
このコラムは、わたしが1990年5月7日にバリの地を踏んだ時から、ウブド滞在の約1年間を思い出しながら記してみたものである。
コラムというより、日記かメモと呼んだ方がよいかもしれない。
1990年のウブドは、濃緑の墨があるとすれば、そんな墨で描かれた水墨画のような風景だった。
それは、ひとたび闇に包まれると、モノトーンのグラデーションの世界となったものだ。
タイトルの「ウブドに沈没」はウブドが水中に沈むのではなく、わたしがウブドの魅力に惹かれ長期滞在していく過程を意味している。
ウブドを訪れた第一印象は、「日本の30年前に似ている」だった。
郵便局が一軒。
郵便は住所不定の外国人には配達されないので、定期的に郵便局に出向かなければならない。
個人所有のテレビは少数で、村人は集会場に設置されたテレビを鑑賞していた。
モータリゼーションとは無縁の村で、自動車、バイクも数えるほどだった。
それから22年が経過した。
村で数台しかなかった電話は、電話線敷設より携帯電話の普及の方が早かった。
ウブドは、目覚ましく変貌した。
今では、インターネットが使える携帯を持っているバリ人が多い。
WiFi完備のホテル&レストランが普通になりつつある。
22年間、一度も日本に帰国しないほど沈没してしまった「ウブド」っていったいどんなところ?
これを読んで、あなたも「ウブド沈没」気分を味わってみてください。
記憶が薄くなって曖昧なところもあり、途中で思い出して追加&訂正することもあるのでお許しください。
後半は、ネタ薄。
■5月・1)寝床を探す旅
1990年5月7日
隣のシートに、20代後半と思われる日本人女性が座った。
小柄で色白、それ以外にこれといった外見的特徴のない女性だ。
わたしは、彼女に向かって軽く会釈をした。
「わたし、ウブドの花嫁になるの!」
喜びを隠しきれないようすで、彼女は話しかけてきた。
ウブドはインドネシア・バリ島の山間部にある芸術の村として有名なところだが、飛行機に隣り合わせた誰もが知っているとでも思っているのだろうか。
「わたしも、ウブドに行くんですよ」
「貴族に嫁いで有名になった女性もいるけど、わたしの彼は平民なの。そんなこと関係ないわよね。愛があれば」
そう言って、くったくなく笑った彼女の顔に、限りなく広がるバラ色の前途が光り輝いているようだった。
彼女は小さなノートのページをめくり始め、会話は一方的に終止符が打たれた。
同席した親しみで返した、わたしの励ましの言葉は、聞こえなかったようだ。
こんな調子で始まる「ウブドに沈没」。
「寝床を探す旅から」〜1991年3月(29)「ニュピ祭礼日の過ごし方」までを綴っている。
外出自粛の時間つぶしの、お読みい頂けれは嬉しいです。
こちらをクリックしてください:http://informationcenter-apa.com/ubud-chinbotu.html