2020年09月18日

先進国と発展途上国という言葉に異論!(346)

田舎っぽさが気に入って、滞在を始めたウブド。

滞在を始めてすぐ、この村は人類が理想とする先進した村ではないだろうかと思った。

そう言う意味で、使い古された言葉だが「最後の楽園」を感じた。

街づくりに興味がある私が最初に驚いたのは、1990年に訪れた時に、すでに「セミパブリックスペース」があったことだ。

今では、日本でも普通に使われている言葉だろう。

セミパブリックスペースとは、プライベートなスペースとパブリックなスペースの中間的な役割をする場所。

例えば、屋敷内と外。

ウブドには、屋敷の道路側に幅の狭い空間があり、ほとんどが小さな庭になっている。

私は、曖昧なスペースと呼んでいる。

曖昧な部分は、バリの二元論にも通じると思っている。

「バリ人の信仰するヒンドゥー教の二元論について考える(355)http://itosan-ubud.seesaa.net/article/476168500.html

道路ギリギリに、家が建っているわけでないので、圧迫感がない。

滞在当時、塀も生け垣だったり、低い土塀だったので、さらに圧迫感は薄い。


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(写真提供:中村政広氏)

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(写真提供:中村政広氏)

現在は、わずかしか残っていないが、田舎に行け、ばまだ見られる風景だ。

滞在が長くなるうち、この曖昧さは、バリの個性でもあること気がついた。

そう、キッチリ割り切らなくてもいいだろう、と言う考え方だ。

これが、ストレスを溜めないテクニックに思えた。


バンプ(Bump)の存在にも目を奪った。

バンプとは、道路の一部を隆起させ、通過する車両に上下の振動を及ぼすことで運転者に減速を促す構造物の総称。

機能や形状によって、スピードバンプやスピードクッションなどとも称される。

インドネシア語では、ホリス・ティドゥールと云う。

横たわっている警察官とも訳そうか。

日本では、ニュータウンや住宅地などに設置されている。

ウブドでは、幹線道路を除いて、すべての道にバンプが敷設されていた。

残念ながら、簡易なため壊れやすいバンプでもあった。

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先進国、後進国という言葉がある。

先進国は、高度な工業化を達成し、技術水準ならびに生活水準の高い、経済発展が大きく進んだ国家のこと。

後進国は、経済発展や開発の水準が先進国に比べて低く、経済成長の途上にある国を指すらしい。

後進国は、侮蔑的な言葉とされ、現在では発展途上国(開発途上国)の呼称が一般的になっている。

途上国という言葉にしても、先進したとされる国の、上から目線としか思えない。

よその家と比較して「うちはお宅より、文化的生活しています」だから先進国なのよ的な発想だ。

先進国にしても、到着点に達したわけではない。

すべての国は、現在進行形の発展途上国。

あえて先進を使うなら「先進途上国」だろう。


人間がもっとも人間らし生きられる国造りに、すべての国は邁進している。

インドネシアには、外部と接触を持たない村があり、数世紀前の文明のままで生活している人々がいる。

先進国の人々は文明人と称し、文明に取り残された(本人たちは、そう思っていないかもしれないのに)人々をしばしば未開人=野蛮人と呼ぶ。

果たして文明は今、正しい方向に向かっているのだろうか、それは疑問だ。

発展途上国とされる国民は、先進したいと願っているのだろうか。

果たして、先進する必要があるのか。

開発することが良いのか?

発展することが良いのか?

私的には、先進の反意語は後退だと思っている。

人類は、今、後退するべきかもしれない。

退行的進化だ。


ウブドが、退行的進化した村ではないかと感じた点を、いくつかあげてみる。

バンジャールと呼ばれる最小単位の村組織は、その一つだ。

役割は、寺院の維持、管理、寺院祭礼の運営や奉仕活動(ンガヤ)だ。

さらに、バンジャールの集会場や村内の道路などの労働奉仕(ゴトンロヨン)。

そして、村民同士の相互扶助。

相互扶助は人類の誕生以来、世界各地に存在していたようだが、現存しているのは珍しいと思われる。

日本にもあった、ようですね。

ンガヤ&ゴトンロヨンの連絡が頻繁にあるため、干渉は密である。

先進国のコミュニケーション不足と比べれば、かなり干渉過多かもしれない。

生活の拠点がバンジャールにあれば、日本のような孤独死はない。

日常生活にも、退行的進化を感じた。

朝陽とともに仕事を始め、日没には仕事を終える。

それは、信仰儀礼中心の生活だからだろう。

庭には野菜や果物がなり、飼われた鶏は卵を産む。

半自給自足。

儀礼の時には、鶏や豚を生贄にする。

生贄にされた動物は、その後ご馳走になって給される。

飲料水には、湧き水が豊富に供給できる。

充分に食事がとれて、健康であれば、それで良いのではないだろうか。

裸足での生活。

古着のようだが、洗濯は頻繁にされている。

無駄に贅沢はしないのだ。

バリアンと呼ばれる呪医師がいる。

呪医師は、いろいろな薬用植物を使用して治療する。

あとは、近代医療設備の整った病院があれは、もう怖いものない。

万全な医療と衛生管理が行き届いた生活。

自分に必要と思われる物だけを選んで、享受していこう。

望むならば、個人個人が楽しくあれば、いい。


posted by ito-san at 13:35| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする